無料ブログはココログ

2015年9月 6日 (日)

話題のロゴふたつ

画像

お笑いコンビ・キングコングの西野亮廣さんが、Twitterで自作の五輪エンブレム案のえんぴつ画を公開したものに、色彩感覚に優れたファンが色を付けて仕上げたもの。

すごいなあとおもったのは、影のような、はっぱのあしらい。
これがあるとないでは、印象が全く異なる。
芸術的、かつ霊的。

▽連句的  靖国http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/07/post_e69b.html

靖国

5代目桂 米團治(かつら よねだんじ、1958年12月20日 - )さんが公開しているもの。
漢字ってのも大ありですね!

0906②

2014年12月25日 (木)

美立七曜星と海運橋

月岡芳年: 「美立七曜星」 「灯台の火」 - 東京都立図書館

月岡芳年「美立七曜星」

画像引用元;http://ja.ukiyo-e.org/image/metro/198-C001-003

小林清親「海運橋 第一銀行雪中」

画像引用元;http://www.spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/japanese/collection/symphony/fukei/pt2_04.php

以上二枚の明治時代の浮世絵は

北村薫 『玻璃の天』所収「幻の橋」より引用しました。

2013年2月10日 (日)

的邑(いくはのむら)=浮羽∈星野村、談義。

現場

的邑→生葉村→浮羽村。
八女の星野村もかつて1800年代末まで浮羽だった。

コメント

無事に帰国しました。
これから金スマの録画を観ます。

は。

皇室

検索で見えています。

間違いがありました。

>しかし、ミャンマーは国民が親日的ですが、港がありません

ということはなく、ミャンマーは長い海岸線を持っています。海外からのアクセスが空路のみだと勝手に思い込んでいたための勘違いでした。

それよりタイに海岸線あるのですか。知りたい。

上記皇室検索関連のアクセスで、しらなくていいことまでしってしまった。
でもそのおかげで、後鳥羽院の黒木物語へのからみぐあいが急に生々しくリアルなものとして感じられる。

おもいだしました。
うきは。
的邑とかいて、いくはのむら。
樽美酒研二くんのふるさとは、こんなにきれいなところでした。(上記写真)

的邑(浮羽)↓地図http://adat.blog3.fc2.com/blog-entry-205.html
『自由のための不定期便』さんから引用の引用をさせてもらいました。
断りもなくすみません。どうかおゆるしください。ありがとうございます。

景行紀

卑弥呼から磐井にいたる時代の交易ルート(↑)として、筑後川の南に沿って、有明海から八女を経由して浮羽という流れが見えてきます。
浮羽には正倉院があったのだそうです。(↓)

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jminuma/jminuma3.html
さすれば、かの七支刀は浮羽の正倉院が保管していた、という推理はいかがでしょう?
浮羽の正倉院の宝物は、奈良へごっそり持っていかれたらしい。
樽美酒研二さん、七支刀の謎を思い出させてくれました。

浮羽の正倉院その他の位置がよくわかる地図がありました。(↓)

http://www.geocities.jp/oden1947/184.html

ううむ。おもしろくなってきましたね。インディー乙さん。

今から羽犬塚です。羽のはえた犬がいたんだ、この地名。
インディー乙さん引用の全面に字がぎっちりと詰まれているブログをいくつか読んでみた。
数字遊びで余裕のよっちゃん風のおののいもこ、じゃなかった、かきのもとの人丸の歌の解説が、面白かった。ちょうど、保健医療経営大学オフィシャルブログがその数字遊びのことで、シンクロしててね。面白いものですねえ。
筑後は特別だったんだ。
犬だって鷹だって銅だって。
そういえばさ、数日前、たしか土曜か金曜の西日本朝刊のテレビ面から二枚めくったページの下のほうに、あの大黒天像が写真付きで紹介されていました。はい、こないだの観世音寺の宝蔵の。われら亜の会一行は「俳句王国がゆく」参加の前にちょうど見てきたばかりだったんです。で、えめさんがすぐ新聞記事のことを教えてくれました。

読みました、説明文がすこし違うと思いました。萩のお方が書かれた紹介文。
じっさいによく表情をみてみたら、決して福の神のおかおにはみえません。
あれは悩んでいる人の顔です。
しょぼい袋をしょっているけど、なにもはいっていなさそう。
ほんとに何を訴えているのだろうか?と我々に疑問を投げかけてくる像だ。
きぐつをはいていますが、もともとは別のものをはいていたんじゃなかったんだっけ。
宝蔵にいくと、数十年前とおなじ案内のテープが流れますが、とても気になる日本最古の大黒天ではあります。
みなさん、太宰府へいかれたら、是非、観世音寺の宝蔵へいってみてください。
この像だけでもすごいものがあります。
わたしたちは、なにもわかっていないのでは。という気にさせられるから。

連句宗匠窪田薫が心底のぼせていた古田武彦先生。

古田武彦氏 略歴

古田武彦

1926年福島県生まれ。広島県で育つ。大学卒業後、高校で国語科・社会科の教職に就く傍ら、在職中から親鸞に関する研究で知られた。
1969年『史学雑誌』に邪馬壹国説を発表。翌年教職を離れ、以後は研究に専念。九州王朝説を中心とする独自の古代史像を提示し、学会の通説に再検討を迫る。
1979年龍谷大学文学部非常勤講師、1984年昭和薬科大学教授(文化史研究室)
1996年に定年退職後は京都府に戻り、執筆・講演活動を続けている。史学会、日本思想史学会、学士会会員。

2012年3月11日 (日)

全甲の通信表

全甲の通信表

除籍謄本と祖母の箪笥にあった兵隊おっちゃんの高等小学校二年生のときの通信表の記載を照らし合わせてみますと、また謎が出てきました。
除籍謄本のタイトルで数年前に自分が書いた文章があります。

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_47af.html

昭和14年に私の祖父の姫野茂平と養子縁組と書かれている。
しかし実際の資料では、昭和七年には正義伯父は姓はもとのままながら、茂平の実質養子になっていたのがわかる。

あの文章を書いた時と比べて、いま、検索をあらたにかけますと、ガダルカナル戦の資料が少し充実している。姫野正義の戦死をここへ来て報せてくれた上官の可西清二西部第四十六部隊隊長の名前でも、今ならこのような記事が出ます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC86%E5%B8%AB%E5%9B%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)

http://www.geocities.jp/honiara_kai/124ht_hiwa/124ht_hiwa.htm(これを読めてよかった。やっとわかりました。)

2011年11月12日 (土)

あかときくらく  山中智恵子の歌論 その3

(きのうからの続きです。通しで読まれたい方は、君が代研究ノートにとりあえずはいれています。あ。一回目は歌集にいれていたっけな。さてどうすべきカテゴリー。おわってから考えましょう。ひきつづき、梁塵秘抄についての言説。ってか、全部がそうなんですが。私の中では、健吉の師であった折口信夫にもまっすぐつながり、大事なところなので、おとせない。)

二十巻のうち、現存するものは歌詞の巻二、口伝の巻十の全部と、歌詞の巻一、口伝の巻一の一部しかなく、それも長い流浪のはてに発見されたのは明治も末のことである。

 おほかた詩を作り、和歌をよみ、手を書くともがらは、かきとめつれば、末の世までもくつることなし。こゑわざの悲しき事は、わが身かくれぬる後、とどまる事のなき也(口伝 巻十)

 声わざの悲しきことはー 一息のしらべ、一声のつぶやきに、それが集団創作のものであれ、個人の作品であり、声のみに思いをたくし心をやった乱世の人々の生の不安から、あるとき鋭い輪郭を描いて生き、消えた、無名の人びとの、深い憂愁と活力に耳をかたむけるとき、歌われた音声そのものを伝えないゆえになお、それらは文学というにはあまりにもささやかではあるが、無常感と一口に規定できない、むしろ常住の思い、そして乱代の落穂ではなく、これらのなかにある生命力、乱世の生んだ力さえほのかに感じさせる。そして〈遠くにある魂を招き寄せ、ここに待つもののあることを知らせる〉(折口信夫)すぐれたメタフィジクの、中世的な展開のみなもとが在る。

 弥陀の御(み)顔は秋の月 青蓮の眼(まなこ)は夏の池 四十の歯ぐきは冬の雪  三十二相春の花       二八 法文歌

 普賢薩堹(さた)は朝日なり 釈迦は夜昼身を照らし 昔の契(ちぎり)しありければ 達多は仏になりにけり。   三五 同

 積れる罪は夜の霜 慈悲の光にたとへずは 行者の心をしづめつつ 実相真如を思ふべし             五六 同

 阿私仙(あしせん)の洞(ほら)の中(うち) 千歳(ちとせ)の春秋仕へてぞ 会ふこと聞くこと持(たも)つこと 難き法(のり)をば我は聞く。 一一五 同

 女人五つの障(さはり)あり 無垢の浄土はうとけれど 蓮華し濁(にごり)に開くれば 龍女も仏になりにけり。   一一六 同

 常の心の蓮(はちす)には 三身仏性おはします 垢つききたなき身なれども 仏になるとぞ説(と)いたまふ。  一一九 同

  (つづく)

「あかときくらくー梁塵秘抄覚書」  山中智恵子・著より引用しています。

       

2011年11月11日 (金)

あかときくらく その2 山中智恵子の歌論

(きのうのつづき、梁塵秘抄についての説明からです。)

 今様といっても、当時現に人々の口に歌われていた最新作の常の今様から、それ以前のある期間にわたって、歌い継がれてきたものを含むのだから、約百年にわたる平安朝末期、白河・鳥羽・後白河の院政期に巷や堂上に流行した歌謡を中心としてはいるものの、もっと遥かにさかのぼるものも入っていると思われる。

 古代律令制がようやく崩壊し、藤原氏の摂関政治の盛時はもはや遠く、荘園制度のさまざまの矛盾が陽の下にさらされようとする内乱前夜、保元・平治の乱から、源氏が重来する武者(ムサ)の世の暁、庶民・武士・貴族・無籍の流浪民が、弓箭と奔馬と宗教の踊躍のなかで、危く均衡をたもったひとつの過渡期に、異常な流行を示した歌謡の群である。兼好がそのあわれを讃えて以来の、幻の書でもあった。(つづく)

(※山中智恵子の歌論『あかときくらく』から引用しております。)

2011年10月 1日 (土)

学問の方法~「じぶんのあたまでかんがえんね」とご隠居、コメント集成。

コメント

原典を引っ張り出されたついでに質問。

祝言の歌を詠んだ「塩亀」の字は間違いないでしょうか?
塩竈(しおがま)ではないですよね。

塩亀です。

原典、見直しています。

夏日待(なつひまち)を祐筆は夏日侍と書いておられるのですけど、それをごらんになった東明雅先生が、すぐさま「これはなつひまちとよみます」とおっしゃったこと。それがふしぎでしたが、よくみれば、歌にも待つという言葉が出ていて、それは侍という字になってます。

了解しました。
素人でどのように資料をあつかえばいいのかがよくわかっておりません。ですから、ご隠居(さま)のコメントは非常にありがたいです。地獄で仏、ぶたに真珠かも。

仕事もありますし、親しい方に不幸があっておくやみにいかねばなりません。その帰宅後になりますが、まとめます。ありがたく、スリリングです。ただ人のやった研究の跡をかくにんする作業ではなく、生きた資料をあつかわせてもらっているのだ、というたしかな実感がございます。
どうかこれを世にだすために、渾身のご協力をおねがいいたしたてまつりまうしあげまうす。

お忙しいのに申し訳ありません。

小生の“お願い”は,貴方様にまとめて欲しいということではなく,
【新たなものを再度送りしますので,先の依頼文も含め,尻切れトンボになっているもの2通(計3通)】を削除して下さいということなのです。

どうか,お間違えなく。

「夏日待」という発句がある、という考えは思い及びませんでした。
「夏日 待」という歌は、検索するといくつか出てきました。(↓)

http://busyo.cocolog-nifty.com/busyo/2005/02/post.html

   ↑
秀吉の「夏日 待」
万代のきみかみゆきになれなれん緑木たかき軒のたままつ
池田輝政の「夏日 待」
君か代の深きめくみを松の葉のかはらぬ色にたくえてそみる

いずれも天文より少し後ですが、「君」を詠むというシチュエーションに「夏日 待」というタイトルが付けられていることに、夏日待に込められた特別の意味合いを感じました。
「松」だの「軒」だの、八女百首の多用語彙がここにも出てきます。
日待信仰という太陽信仰のひとつらしいものがあるそうです。
嵯峨天皇が神託によって「お日待ち」という天皇行事を始められたのだとか。夜を徹して日の出まで行われる神事だったらしい。
八女百首の戦国武将たちは夜を徹して99首を詠んだのかもしれません。
天皇がいないところで天皇行事、というのはおかしいのですが、武将たちが磐井こそ正統の天皇だと信じていたのだとしたら、磐井の墓前で夏日待を行ったとしても不思議ではないかもしれません。

函館の杉浦教授に尋ねていた「明更」、ご存じないそうです↓。るびふれよ、ルビを。っていうようなお声がどこからかしてまいりましたが、そういう親切な時代ではないのですよね。
字面だけみていたら、どこかにありそうな明るくさえあることばです。いみははっきりとはわからないんですが、うたもいいできばえにおもえる。
上品でかそけくて、まるで貴族趣味のおくげさんみたいな歌。http://geocities.yahoo.co.jp/gl/kiyoshi0302/comment/20110914/1315989380#comment

さて、朝はばたばたと失礼をいたしました。
長い長いご隠居さまのコメントを読みまして、消してほしいとありましたので、取り急ぎ、非公開扱いにいたしました。ですが抹消はいつでもできますので、ぬかみそ保存します。
わたしは、あれを読んでちょっと覚醒しました。
今伊勢宝前同
詠百首和歌
っていう前書きみたいなものの、
同ってどういう意味だ?と思っていました。
慣習としてそんな風に書くのかなあと。
今伊勢という気張った名前をつけたということは、そう呼ぶことを許されたということで、以前しらべた、「伊勢宮の流浪」にも八女は名前があがっていませんでしたのに、なぜというきもちがのこります。
それに、ぶにょうのとのさんが不敬をして祟られた話にでてくる件でも、伊勢の神は伊勢にいるのに、なんでこんないなかにどうのというニュアンス交じりの捨て台詞まではいてくれて、ずいぶんなんです。でも、まったく私たちもそのぶねうとのさんの気持ちに同意です。
だから、ご隠居が、なぜ八女市は今伊勢宮のなりたちについてもっと調べようとしないのか、といわれるのはそういえばそうねえ、という気になってきましたよ。へんなまちですよ、やめしはね。
問題点はどこにあるのか、をきちんと整理してくださったご隠居。
とっても資料の扱いに詳しい方でいらっしゃいますね。
あなたはいったい、どなたなのです?

乙四郎。
「夏日 待」この一字空きは何だろう。
えらい人、身分の高い人のせりふなどが入るとき、行替えをして、うんと下の位置から書き出す。そういうことをなんとかいいますね。忘れたけど。それとおなじで、この場合は、夏日ってのが、神と同格扱いされたってことなんですね。夏の日がさかんになるころのアマテラスさま、って信仰があって、それに対する敬虔な思いが、一字あけをなしているんでしょう。ひまち行事は夜通しこもる。

どこだったかすぐさがせなくて困ってますが、

えてうへしの歌。
えてのところは、
恵てう遍し。となってたようです。
めくみ、と秀吉だったか池田の歌だったかにありましたが、恵みは芽ぐみ、得るは恵る。
よみくだしをもう一度時間をかけて書き直す必要があります。あれではずさんです。
秀吉っていい人そうにみえて、残忍な君主だったみたいで、知らなかったけど、朝鮮出兵のとき、九州の武将たちをたくさん殺しているんですよね。ということは、恐怖政治をおこなっていたのかもしれず、わたしはただ漫画をみてそういうことを知ったのみですが、こういう百首和歌作品を編んで、君への忠誠を誓っているのは、いのちがけのパフォーマンスだったのかもしれませんよ。
と書いて、ありゃ。時代がちがってた。笑。
・・・わからないことだらけです。

【さらにあらためて】

『抜書』というのは『善知鳥吉三の八女夜話』No.789に紹介されている『天照皇太神宮開記(ママ)抜書』(書写年次未詳)のことです。

貴女の昨日のコメントを読んで,小生の事実理解に誤りがあったことに気付きました。

『百首和歌巻』の奥書に記されている干支(癸卯)は奉納された天文二十四年の十二年後のものと思っていたのですが,十二年前(天文十二年)のものとのこと。

という事になると,縦令(タトイ)小生が想定したストーリー(当初奉納の短冊を後日改めて“浄書”)が正しくとも,十二年前の干支を記すというのは不審です。

さらに美濃守の不敬があったのは『抜書』によれば天文二十四年春のことですから,事実関係に齟齬があります。

しかし,今回乙四郎氏が紹介されている多くの和歌の内容は全く深刻でなく,『抜書』に記されている祟りの結果『百首和歌』を奉納したという経緯とはそぐわないように思われるのです。

そして,当時他に勧請することが非常に困難であった皇太神宮が筑後に勧請されているという事実と,国人(豊饒美濃守)がその経緯を知らないというのは不可解です。『抜書』には後世の潤色があるのかもしれません。

当時,筑後は豊後大友氏の領国。そして豊饒美濃守はその配下。となると,皇太神宮の勧請は大友氏の手になるものと理解すべきでしょうか。(創建の由来を知りたいものです。)

その背後には,日本で初めて皇太神宮を自らの領国に勧請した六ヶ国守護(兼筑前守護)であった大内氏の存在があるのかもしれません。大内義隆の姉が大友氏(義鑑)に嫁いでいます。

この事実は,いったい何を物語っているのでしょう。当該歌巻の奉納と『抜書』の経緯とは無関係なのかもしれません。

あるいは,美濃守の伊勢社に対する不敬は『抜書』にある天文二十四年(1556)のことではなく,(それは後年当該歌巻の奥書識語から類推したもので)本当はその十二年前(1544,癸卯年)のことであったのかもしれません。

乙四郎氏のコメントには『百首和歌』にキリスト教的なものの匂いを嗅ぎ取っているようですが,フランシスコ・サビエルの来日は天文十七年(1549)のことですから,奉納が癸卯年(1544)とすると,無理があります。

いずれにせよ,当時の奉納の作法から考えて,当該歌巻は当初奉納された『百首和歌』そのものではなく,後日浄書されたものと考えられます。

一首足りないことについては,書写者のミスか,あるいは書写時点で既に短冊が一枚失われていたということなのかもと思っていましたが,改めて考えますと,歌巻の冒頭にそのことを解く鍵が隠されているように思われます。

当該歌巻の冒頭には
「夏日侍,今伊勢寳前同,詠百首和歌,美濃守源鑑述」とあります。

一首目の“立春”の詠は美濃守が「“夏日待”という発句に同(ドウ)じて,百首和歌を詠む」ということですから,しかるべき方が“夏日待”という題の発句を詠み,それに合わせて以下の面々が(全体で)百首の和歌を詠んだということです。

つまり,“発句”を含めての百首なのです。

当該歌巻には,発句の具体詠が記されていないために,一首足りないという印象を受けますが,一座の人々にはちゃんと了解されていたはずです。

では,その発句は誰が出したのか。今伊勢の寳前ですから,今伊勢宮の神官を措(オ)いて他にはありません。彼は祭神・天照皇太神にお仕えする者,言わば天照皇太神の名代として発句を詠んだのです。

したがって,その発句は天照皇太神の神慮(思し召し)でありますから,恐れ多くて記すわけにはいかなかったのです。

識語の干支不一致,また一首不足と思わせるような書写のあり方など,この歌巻には今の私たちにとって謎とも思われるものが多々ありますが,おおよその事情はご理解頂けたのではと思われます。

しかし,当資料の背景にある皇太神宮の筑後勧請のことがこれまで筑後地方で矢野一貞や八女市教委,当該歌巻を文化財に指定した文化財専門委員会の委員諸氏も含め,全く問題にされていないのは,どのように考えればよいのでしょう。

研究,或いは文化というものに対する基本的な認識に問題があるやに思われます。

お早うございます。

うっかりして,眠ってしまいました。(ちなみに,小生はこのブログ,携帯で拝見しています。したがって,コメントも携帯から送っています。)

先ほど再送しましたものを“昨日送ったもの”と差し替えて欲しいのですが……。

[あらためて思ったこと]

乙四郎氏の言う[一字空き]といった書写の形式は,その道の用語では「平(ヘイ)ケツ式」というのですが,小生が使っている携帯には“ケツ”の字が登場しません。

皇太神宮の(地方)勧請は日本文化の根本に関わる非常に大きな問題なのですが,これまでの研究者には本居宣長や矢野一貞も含め,残念ながら,

(1)複眼の視座,
(2)問題意識,

という研究者にとって非常に大事な認識が欠けていた,或いは十分でなかったために,眼前の事実の意味するところが見えていないのです。

結局は,“我(自分)”という主体が十分に確立していないのです。

「問題意識」の欠如は何も“八女市”だけに限ったことではありません。日本全国,いや世界全体がそうなのです。簡単に言えば,世界中の人間が「自分の頭で考えていない」のです。

今回の『百首和歌巻』の文化財指定に関する杉山洋氏の見解は『善知鳥吉三の八女夜話』No.477,478に出ていますが,そこには岩戸山の皇太神宮についてNo.477には「中世の創建以来」,No.478には「中世初期の勧請」とあります。

文化財専門委員である氏の見解がこれでは話になりません。

もっとも,この氏の見解は『天照皇太神宮開記(ママ)抜書』に拠ったものですから,氏の責任ではないのかもしれません。しかし,氏は(八女市の)文化財専門委員なのです。

この言葉には,
(1)岩戸山の皇太神宮の勧請の経緯について,『天照皇太神宮開記抜書』の見解を鵜呑みにしている。
(2)皇太神宮の勧請が当時簡単ではなかったという事実を知らない。
という二つの大きな問題があります。
(2)についてきちんとした認識があったなら,『抜書』にはそのようにあるが,創建はいったい中世のいつの事なのだろうと考えるのがまともな人間(専門家)です。

そして次に,いったいその困難な勧請をやってのけたのは誰なのかという事を考えるのです。

しかし,残念ながら氏にはそのような視点はなかったようです。

この結果は,日本の明治以降の教育の欠陥を露呈しています。しかし,本当は日本だけでなく,そしてまた明治以降だけでもないのです。[自分の頭で考える]人間が育っていないのです。

それはさておき,岩戸山古墳が磐井の墓であるという認識は江戸時代の矢野一貞の 『筑後将士軍談』(天保〜嘉永)以来とのこと。しかし,これらの著作も藩主に献じられただけで,一般の目に触れるのは遥か後(昭和2年,1927『筑後国史』と改題し,刊行)。

ということになると,天文二十四年(1556)の時点では,古墳という認識があったか否か。縦令(タトイ)あったとしても,“磐井”の墓であるなどという認識はなかったと思われます。

したがって,「磐井の墓前で」などといった考えの芽生えようはずがないのです。ましてや,「武寧王云々」などという発想の入り込む余地はまったくありません。

磐井の墓という認識は皆無というか,そのような認識がなかったからこそ皇太神宮が勧請出来たのです。

地元では,通常「岩戸山」と呼んでいた。そしてまた,誰という人物は目下の所不明ながら,神話に登場する“天岩戸”があったからこそ,皇太神宮を勧請しようという発想になったのだと思われます。

しかし,大きな問題が次々に出て来ます。「岩戸山」という名称はいかにして付けられたのか。何故,そのように呼んでいたのかということを考えると,当時(天文年間)中心部までかは不明ながら,何らかの事情により,既に石室入口が開いていたということになるのです。(未完。つづく)

【おわび,訂正】

先ほどのコメントに登場の杉山洋氏のブログ『善知鳥吉三の八女夜話』の記事ナンバーに誤りがありましたので訂正させていただきます。
正しくは下記の通りです。

[No.477→No.788]
[No.478→No.789]

ご隠居。

それです。江戸時代の俳人向井去来は人形原(ひとかたばる、にんぎょうばるを通りがかって、

稲づまや人形原の魂よばい

という句を詠んでます。(誰かの日記に記載があったのですよね、たしか。句集には未収録らしく。これ、わたしは杉山洋先生の本でしりました。)
当時の岩戸山、想像するだにこわい。
その無数の石は盗難にもあっている。
民間人は漬物石にとかは考えなかったが(こらこら)、城を造営したり何か公的なものをこさえるときに、それら石を動かしている。再利用してる。そんでタタラレタと人が感じることも実際にあったようだ。なんでよんだんだったかな、やめとしょかんの郷土資料置き場で読んだ本に、それらの石を舟で運ぼうとして沈んだ話がでていたっけ。(単に石が重かったんじゃないの、とかささぎは思いたいよ。)
いわとやま、というなまえ、それから、奥八女は矢部のひゆうがみ、日向神とかきますが、も、神話に出そうな地名です。だけど、ほかの土地にも、ある地名。たとえば宮崎とか大分とかにあったんじゃなかったかな。

ところで、ご隠居。
わたしは又異なる意見です。
みづのとうの干支と天文24年とが異なるのは、そういう理由からではないとおもいたい。まだどうしてかはわからないけれど。
じっさいに24年に夏日待ちをして奉納したものとおもいたい。なぜなら、ぐうぜん24人の連衆をそろえたとは思いたくないから。年の数だけ人をそろえたのではと、わたしはおもいたい。だってさ、こんな大人数でよみあうなんて、ありえないのではないかなあ。
としというのは、年とかきますが、イネのことでもあります。稔でトシですよね。
禾の念が年ならば、人の念をそれにそわせて、おなじ数だけそろえた。

矢部川はヤハウエの川よ風祭る 

という句がたわむれにできました。こないだ、樋口軒にいって、風景をみていたら。川がとてもきれいで、流れも速くて。
かぜまつる、ってのは季語なのかどうか。らんさんに調べてもらった。野分関連の季語だろうと思った。季語ではなさそうでも、ちゃんと季語でした。風を祀るというのは、風を鎮めたり、あるいは起こしたりするような、農業人にとってはかなり大切な祈念の意味があります。だから、稲と密接に関連する秋の季語です。台風がきたりもしますから。
で、伊勢宮は八女にも勧請できたけど、では、風の宮はあるだろうか。とかささぎはおもったのです。
ない。
思いつくのは、大善寺の鬼夜で有名な風浪宮だけです。これは少し離れていて、筑後川のほとりです。祭神は、たまたれさんです。はなたれではない、魂が垂れるのです。玉がたれる。ほうれ、こうらさん十景歌の蛍のうたがかさなってきませんか。

伊勢神宮の風宮について、ここをご覧ください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E5%AE%AE

2011年2月 6日 (日)

明治天皇最後の写真は八女・龍頭山にて

糖尿(DM)の方は、食べられないものがある。代替を何かつける。
減塩食の方も、そうだ。
名札に注記してある。
医療食のことですけど。

糖尿、晩年の明治天皇も患っていらしたのですね。
唐突に書きますが、唐突ではない。
今朝、杉山先生ブログに導かれていったら、詳しく書いてくださっていました。
だれか書いてくれないかなと思っていたので、うれしかった。
やはり杉山洋先生でした。

これでよくわかりました。ありがとうございました。
http://ameblo.jp/yameyobanashi/entry-10519822964.html

(かささぎの疑問http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-bf59.html

「現県立明善高校に用意された新築の行在所に一泊した。

校門には『大本営』の大看板が下げられた。
善知鳥吉左の八女夜話
11日朝久留米駅を出発、南下して羽犬塚で下車し、馬車で演習統監場所の八女郡岡山村岡山(八女市)に到着した。」

ご文章、御写真とも、恐れ多くも、「善知鳥吉佐の八女夜話」393話より引用いたしております。
杉山洋先生、いつもありがとうございます。

連句的に、ちょうど響きあう記事を昨夜よみました。
天皇の崩御日は操作されることが多かった。というところ。

「mrs oakley fisher の台所から」
(どこだったかわからなくなった。)

天皇は代々生活習慣病でなくなってます。という記事
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1321455848

※写真は明治五年のものだそうです。
最後のお写真は仰臥の写真を九十度たてて公表したという。
これも杉山洋先生のさきのブログにあります。

宮内庁さま、お目こぼしを。

2011年1月 2日 (日)

謹賀新年(賀状稿)と歌仙『海の果』留書

保健医療経営大学学長
 橋爪 章
2011 年 1 月 2 日 謹賀新年(賀状稿)

謹賀新年

否が応にも歳が重なってゆきます。
50y 松尾芭蕉 クック 梶原一騎 岡倉天心 マイケル・ジャクソン
51y 後醍醐天皇 井原西鶴 平賀源内 リルケ マネ 武田信玄
 野口英世 ナポレオン 向田邦子 源頼朝 横山やすし
52y シェークスピア 美空ひばり 三波伸介 石原裕次郎 緒方洪庵
53y 諸葛亮孔明 足利尊氏 喜多川歌麿 チャイコフスキー
 ベーブ・ルース 有吉佐和子 道元禅師 レーニン デカルト
54y 太田道灌 明智光秀 服部半蔵 近衛文麿 中江兆民 小泉八雲
 天知茂 川谷拓三 最澄大師 林家三平 青江三奈 乙骨三郎
55y
イソップ 天武天皇 聖武天皇 在原業平 コロンブス
 バスコダガマ 魯迅 猪俣公章 荻原朔太郎 いわさきちひろ
 シーザー 嵯峨天皇 ニーチェ ゴーギャン アムンゼン
56y0m アドルフ・ヒトラー

(今、ここにいます。)

1m マックス・ウェーバー 2m リンカーン 中川昭一
3m ベートーベン 栗本薫 8m 石田波郷 越路吹雪 10m 双葉山
57y0m 大友宗麟 1m ジュノー 寺田寅彦

(保健医療経営大学『学長のひとりごと』転載)

▼かささぎの独り言

こんな賀状をもらったら、ん?なんなんだろう?
とおもいますよね。何年何ヶ月いきたか。
じぶんの人生は、いまどこらあたりか。と思うとき、
感慨ふかいものがあります。連句的。

参照

人生のセイムスケール;http://art-random.main.jp/samescale/056.html

かささぎ、54yに乙骨三郎を足す昭和9年8月19日歿。54歳。)

大晦日、連句的という題の文章をここに書いたのですが、。
自分がこのブログを5年前の冬はじめたばかりのころ、なにものかに招かれるようなかんじで調べていた「君が代を国歌とした乙骨太郎乙」の三男が三郎です。かれは、シューベルトの歌曲のドイツ語歌詞を日本ではじめて翻訳した人でした。アヴェ・マリア、美しきエレナ、という曲も訳して紹介しています。それにハタときづいて、竹橋乙四郎が去年書いた一文をありありと思い浮かべました。
「海の果」歌仙留書です。つけておきます。

歌仙『海の果』留書

ときにヘレナは
   
    竹橋乙四郎  

 シューベルトはウィーンで生まれウィーンで亡くなった作曲家です。シューベルトの作品のひとつに『湖上の美人』という歌曲があり、1825年に作曲されています。
  王に追放された父と娘が、部族の有力者に匿われて身を隠していましたが、危うくなった時、娘エレン(ヘレナ)が聖母マリアに助けを求めて祈りの言葉を口ずさんだという叙事詩に曲をつけたものです。
  歌曲のこの部分は「エレンの歌第3番」といい、しばしばシューベルトのアヴェ・マリアと呼ばれています。
 数十年後、この曲が生まれたウィーンで、ヒトラーは美術を学んでいました。ヒトラーは、後のウィーン市長ルエーガーの反ユダヤ主義演説に感化され、1933年にヒトラー率いるナチス党がドイツの政権をとるや、ユダヤ人に対する迫害に着手しました。
  アウシュヴィッツの史実に基づいて描かれた『ザ・ヴァイオリン~収容所のメロディー~』(香川宜子著)という作品があります。14歳のユダヤ人少女ハンナと、彼女を匿ったヴァイオリンの先生との心の交流を描いた物語です。作品中、ハンナはアヴェ・マリアを奏でます。
 1922年、ノーベル物理学賞を受賞したアインシュタインは日本を訪れ、日本文化の虜となりました。その後、ナチスに追放されたアインシュタインはアメリカにユダヤ人の頭脳を結集させ、ナチスを制圧するために原子爆弾の開発を急がせましたが、皮肉にも原子爆弾はアインシュタインが愛した日本へと落とされました。
 アインシュタインは幼少時からヴァイオリンを習っており、訪日中にアヴェ・マリアを奏でています。
 1957年、ウィーンに核の軍事利用を監視する機関(国際原子力機関:IAEA)が創立されました。IAEAは「核の番人」として2005年にノーベル平和賞を受賞しました。        
本年の広島・長崎の平和記念式典にはIAEA代表(天野之弥事務局長)が核保有国の代表とともにはじめて参列しました。長崎の「被爆マリア像」が渡米して核兵器廃絶を訴えた年の出来事です。
              *    *        *    *
 檀一雄の発句は晩年セントクルスでの詠ですが、檀ゆかりの寺(善光寺)が福岡県みやま市にあります。
ザ・ヴァイオリンの著者の香川宜子氏には、ご多忙のところ、付句を出していただきました。感謝申し上げます。

連句・連歌誌『れぎおん』71号、2010年秋号所収

この文音歌仙は、連句・連歌のカテゴリーでよめますが、経過まで収蔵しており情報量が膨大なので、のちほど完成品だけのカテゴリーをつくってそれに入れたいと思います。

2010年12月31日 (金)

連句的 ー 徳岡久生、上田敏の詩を聖別

 句詩付合

    徳岡久生

ゆく春やおもたき琵琶の抱こゝろ  蕪村

  黒イ
  少年   一人
  玻璃杯  二ツ
  
  ソレダケデ  イイ
  朧裂ク剣ヲ  聖別スルニハ

(俳諧研究誌『解纜』22号、平成21年4月15日発行より)

徳岡久生;詩人、連句人、平成21年6月10日歿。

 蹈繪(ふみえ)    

 上田 敏

眞鍮(しんちう)の角(かく)なる版(いた)に
ビルゼン(聖母)の像あり、
諸(もろもろ)の御弟子 之を環(めぐ)る。
母にて をとめ、
わが児のむすめ、
歸命頂礼(きみやうちやうらい)、サンタ・マリヤ。

これもまた眞
鍮の版、
万民にかはりて、
髑髏(されかうべ)の阜(をか)にクルスを
負ふ猶太(ゆだ)の君、
那撒礼(ナザレ)のイエスス
キリストス、神の御子(みこ)。

不思議なる御名にこそあれ、
イエスス・キリストス、
かみのみこ、よの人のすくひ、
げにいきがみよ。
始(はじめ)なり、終(おはり)なり。

繪蹈せよ、轉べ、轉べと
糾問ぞ切なる。
いでや、この今日の試みに
克ちおほせなば、
パライソ(天国)に行き
挫けたらむには インヘルノ(地獄)。

伴天連の師の宣はく  
マルチルの功は
大惡の七つのモルタル(重罪)
科(とが)を贖ふ。
プルガトリオ(煉獄)を
まっしぐらゆけ、パライソへ。

大日本朝日の國の 
信者たち、努めよ
名にし負ふ アンチクリストの
力を挫く
義軍の先駆、
上(かか)れ、主の如く磔刑(はたもの)に

この標(しるし)世に克つ標
あらかたの標ぞ 
ありし、ある、あらむ世をかけて
絶えず消えせぬ
命の光、
高くに仰げ、サンタ・クルスを。

見よ、かかる殉教の士を。
天草は農人、
五島に鯨(いさな)とる子も
ガリレヤ海の
海人の習と
悲節*を守りつぐ。

代代に聞く名こそ異なれ。
神はなほこの世を
知ろす、ただひとりおぼつかな
今の求道者、
「識らざる神」の
證(あかし)と死する勇ありや。

遺稿詩集『牧羊神』(大正九年1920年刊行)より

*悲節(かなしみせつ);カトリックでの四旬節。

上田敏;乙骨一族。
系図をざざっと説明すれば、こうなります。
敏の祖父は乙骨彦四郎(号を乙骨耐軒)、その長男で敏には伯父にあたるのが、『君が代を国歌としたり太郎乙』の乙骨太郎乙(号は華陽)です。
かささぎは、昨日から押入れを片付けてて、はらりと落ちてきたものの中に、去年の「解纜」と永井菊枝先生から封書で戴いていた「乙骨家文書のこと」が書かれた『定本 上田敏全集』の月報7(第六巻附録)のコピーがありました。
菊枝先生は聞きたがりの私の問いかけに答えて、さらさらと見事な筆跡で長文のおたよりをくださいました。その資料が、これと、もう一編は昭和女子大学近代文学研究室の近代文学研究叢書39巻から、乙骨三郎(音楽家)のことを調べて書かれている一節でした。

乙骨三郎は、自分の名誉心みたいなものには頓着しなかったということです。
自分が作った歌の歌詞も、人の手柄になって別の人の名が冠せられても、よしとする。

菊枝先生がくださったコピーには、上田敏の上掲の詩の冒頭少ししか載っていなかったので、全体をよみたくて、ネットで探しましたら、ありました。
表記がかなり違っていました。
『日本を歌うチマッティ神父』歌詞集のなかにあります。
たとえば、三行目、
ははにてをとめ。母にて乙女、という意味ですよね。
ヴァージンマリーのことをさすことばですから。
なのに、母に手をとめ、となっています。笑。

上田敏はヴェルレーヌの落葉やカールブッセ山のあなたを訳した人。
詩のことばの美しさは、ほとんど奇跡だという気がします。
じぶんの詩のことばも、どこからこんなことばを?というくらい豊穣。
決して平凡な詩人ではなかったんだな。とよくわかります。
この詩を知って開けた世界があります。

敏は与謝野晶子、寛と同じ明星に翻訳詩を寄稿したりしていたようです。
和漢洋の混然一体となった教養が上田敏をつくりあげた。
しかも、「踏絵」をよめば、キリシタン文書にも通じていた。

たまたま一年の最後に、亡き徳岡久生氏の句詩付合を読み、おなじ処から出てきた封書のコピーに、どこか似た響きの上田敏の詩があった・・・。

という今年さいごの連句的なはなしでした。
久々の乙骨一族ものでございましたね。

サンタ・クルス(聖十字)ということば。
今年巻いた檀一雄句の脇起こり歌仙。

落日を拾ひに行かむ海の果  一雄

の前書が「サンタ・クルスにて」でしたよ。

よしこ先生はお元気でしょうか・・・
『ザ・ヴァイオリン』一日も早く映画化されるといいですね。

今年もいろんなことがございました。いろんな出会いがありました。
一度であったのに永訣というわかれもありました。

一番お世話になった、一日も休まず記事を更新された橋爪章学長には深くお礼を申し上げます。おかげで風邪一つひかず、元気でこれました。
連衆のひとりが申すには、かささぎは学長のお使いだそうです。
大きな使命があるのであれば、どれだけでも使われましょう。

では、みなさまのご健康とご多幸をお祈りして、よいお年を。







より以前の記事一覧

最近のトラックバック

2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31