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2009年12月21日 (月)

時代と感染症と法律   乙四郎元官僚語録

保健医療経営大学学長

 橋爪 章

2009 年 12 月 21 日 月曜日 

<感染症対策>

有史以前から抗生物質の普及(1929年にペニシリン登場)まで、ヒトの病気の大部分は感染症でした。

今日でも、世界の死因の約4分の1は感染症(マラリア・結核・AIDS・腸管感染症など)で、途上国の開発上の大きな課題です。

先進国においても、新興感染症・再興感染症、多剤耐性菌の蔓延、バイオテロの脅威、免疫抑制状態の患者の日和見感染など、課題山積です。

日本では、「伝染病予防法」、「性病予防法」、「エイズ予防法」が統合され、1999年度から「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」(感染症法)が施行されています。

感染症には多様な分類方法があります。

(感染様式からの分類)

内因感染:宿主の免疫力低下により、常在微生物により症状を起こす場合。

・・・日和見感染、異所性感染

外因感染 :生体外から進入した微生物による感染。さらに感染経路により分類。

(病原微生物の種類による分類)

寄生虫、細菌、真菌、ウイルス、異常プリオン等

(病態からの分類)

一次感染と二次感染 

局所感染と全身感染 

持続感染

不顕性感染、潜伏感染 

(法律上の分類)

感染症法では以下のような分類がなされています。

一類感染症 :危険性が極めて高い。建物の立入制限・封鎖、交通の制限

二類感染症 :危険性が高い。入院の勧告・措置

三類感染症 :集団発生のリスク。受診勧告、就業制限、生活用水の使用制限

四類感染症 :動物、飲食物を介して感染。消毒、駆除、動物の輸入禁止・輸入検疫

五類感染症 :発生動向調査により拡大を防止。

新型インフルエンザ等感染症 

指定感染症 

新感染症 

分類ごとに、届出などのルールが異なります。

感染源を早く発見し、感染ルートを断ち切ることが感染症対策の基本ですが、差別・偏見との闘いも同時に求められています。

(保健医療経営大学『学長のひとりごと』を転載)

▼かささぎのひとりごと

感染症について、この「学長のひとりごと」ファイルのカテゴリー分類を探しましたが、みつけることができませんでした。六月ころに何本か乙四郎先生は書いておられるはずです。インフルエンザ関連。そのなかの二本はかささぎも保存しておりますが、日付が入っていないのでアップしません。

それは別途置きます。

連句的な話をつけますか。
二日返却予定日を過ぎてしまった本を今から戻しにいく前に、気になる箇所を引用しておきたい。まったく関係ない疎句的話題。でもちょっと気になるので。

北村薫『鷺と雪』より

「そうそう。世の偶然とは面白いもんだ。この本(※黒死館殺人事件を指します、姫野注)の初めには、どきりとするような言葉遊びがある。探偵達が、犯罪の舞台となる館を訪れると、富貴と信仰を表す旗が逆の位置に置かれているというんだ。弥撒旗(ミサばた)、そして英町旗(エーカーばた)とね」
「それがどうしたの?」
「Massミサからacreエーカーと置かれることにより、祝福の旗がたちまち、Massacre、つまり≪虐殺≫にばけてしまうというんだ

「まあ・・・・」

中略

「それがな。今日の新聞を見たら、本と現実が、ちょっぴり重なったよ」
「新聞がどうしたの?」
「≪マッサカー≫の本を読んでいたら、ちょうどそこに≪マッカーサー≫が来たってさ」

もうひとつ、つけます。

かささぎがずっとかぶりつきで見ていた「仁」が終わってしまいました。えっというような、まだ終わっていないじゃんというよな終わり方でしたが、それでも本当に久々に楽しめるドラマでした。全部の役者さんたちにお花を投げたいかんじのドラマ。感動をありがとう!
このドラマには昔の感染症がいろいろ出てきました。
感染にひるむことなく立ち向かう医師みなかたじん先生の姿に感動しました。はい、かささぎは単純なのであります。時代はかわっても、あんこはおなじだ。ということばにも、かんどうした。アンコじゃなかったけど。

コメント

八女市横町町屋交流館の企画展「上妻歳時記」に母と行ってきました。
企画された橋本長年(平田在住)氏が丁寧に解説くださいました。
たまたま松田久彦氏もおられたので、お話することができました。
高橋昇氏関連展示の前に長くいたのを観察しておられたらしく、松田氏曰く、
「高橋昇博士だけでも企画展を開く価値がある」
寺田天満宮の広田弘毅の揮毫の写真もありました。
橋本「いろんな人に訊ねたのですが、なぜ広田弘毅がここに揮毫しているのか謎なのです」
母「渡辺鉄工所の重役だった室園さんが口利きして依頼したんでしょ?」
橋本「ありがとうございます。調べてみます」
お礼にカレンダーをくださいました。
母は生き字引です。

上妻歳時記の企画展にさりげなく置いてあった文献ファイルをぱらぱら捲っていたら、福岡県の「庚申講」について書いてあるページが飛び込んできました。
琵琶法師を招いて庚申を通夜で過ごすような風習が福岡の各地にあったらしい。
室町時代頃から。
庚申塔、というのもあるらしい。「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が彫られることが多いとか。
いろんなものが連句的に繋がってきました。

企画展は24日までです。

さっきバイト先から大むすこがケーキを二個もって帰ってきました。四千円分も買わされて。雪のおうちみたいなケーキ、二切れできもちわるくなった。クリーム多すぎ。これでクリスマスには何もないぞ・・。ひ~

土曜のキャンドルナイトはいかがでしたか。
こちら、朝は母たちを院へ送迎し、昼は三者面談、院の忘年会が夕方からでした。大むすこはバイト、小も用事があり、とうとう参加できませんでした。
ぼんやせいこさんやえめさんまりさんたちと、来年こそは参加したいです。

ひるに乙四郎母上のお顔がふっと浮かびました。
去年は何度か姫野農園の野菜を届けましたが、今年はなんにも届けていません。乙四郎には連句会場を何回もただで使わせてもらうなど大変お世話になっており、心苦しい限りですが、すみません。よろしくお伝えください。そうですか、寺田村のむかしのこともご存知なのですね。長生きしてもらわないと。

甲四郎先生にもずいぶんご無沙汰してます。
ひとつ聞きたいこともあるのです農学博士高橋昇のことで。蝶の学者の話。
以前ブログで紹介した乙骨一族の江崎悌三博士のことで、さる方からお尋ねがあり、また聞きの又聞きみたいなお話でしたので、どうしたものかと気にかけながら、そのままにしていました。が、昨夜と今日と再び依頼の電話があり、お話をよく整理しますと、こういうことでございました。
戦時中、江崎悌三博士はシンガポールの植物園か博物館におられたことがあったらしい。そのとき、懇意になられたのがイギリス人のコーナーさんとおっしゃるかたで、その方は回想録をのこしておられる。その父上のことを伝記に書きたい息子さんがいらして、その方は、オーストラリア在住のイギリス人、ジョン・コーナーさんとおっしゃいます。
コーナーさんは名古屋の明石陽至とおっしゃる先生を通じて、悌三博士のご家族にお話をお聞きになりたいそうです。
かささぎはこのことをふせていようかとも思いましたが、ちょうど高橋昇博士と同じ時代のことだし、なにかつながっていそうでもあり、ここにも書きます。
かささぎにご連絡くださったのは、明石氏の教え子さんでございました。(かささぎは明石氏を全くぞんじあげませんし、ジョン・コーナーさんも知りません。しかし、君が代を国歌にした乙骨太郎乙の直系の子孫である、九大の昆虫学者・江崎悌三博士のことをもっと知りたいとおっしゃる方、それも外国の方がおられますなら、できるだけ力になりたいと思いました。あまりにも茫漠とした話でしたので、最初戸惑って、さくらさんへも相談しました。さくらさんは、このような返信をくださいました。ありがとうございました。

姫野様

こんばんは
メールありがとうございました。
下記の内容ですが、姫野さんの文章にしてはぜんぜん意味がわかりません。
誰が誰のことを知りたいのか理解できないのです。

昆虫学者江崎悌三博士の遺族のかたから
名古屋の方から
・・・・とおぼしき方の教え子さん(筑紫野在住)から

書きながら件名を見て、知りたいのは「明石陽至さん」のことだとわかりました。
軍人なのか学者なのか?
当時その方面に行っていた日本人は無数にいますので、その名前は知りません。
今中国にどんどん支店や工場を移して、中国駐在員としてたくさんの日本人が行ってるのと
同じ状況だと思います。
今中国に行っている誰々さんを知っていますか?と聞くのと同じよなもの。 

>当時日本の委託統治領であった南洋諸島にも・・・・・
占領政策というとよっぽど悪いことのように教育されていますが国際条約です。
第一次世界大戦では日本は戦勝国ですから、そのときの国際条約で
日本が統治するように決まったのです。
第二次大戦でに日本は負けたので、条約によりアメリカ軍がいるのと同じなんですよ。
またそれらの国(南方の)の人たちは日本人をとても尊敬して好きでいてくれる人が多いのですよ。
今も日本を占領してる(ようなもの)アメリカを、日本人はみな嫌いかというとそうじゃないのと同じです。
嫌いな人も好きな人もいるのに嫌いな人ばかりのように教育・報道するのを偏向教育・報道といいます。

この前長崎カステラの話をちょっとしましたが、おじいさんの戦死について調べ、それを題材にして
小説を書いた青年に今日会ってきました。
小説フリマーというのがあるんですね。
http://bunfree.net/
なかなか奥が深く今日の私はちょっと感傷的になっています。
日本中からたくさんの表現者が集まって盛況でした。
訴えたい、聞いてほしい、自己表現したい・・・・生きていくのは大変だ。
かける人はまだ幸せかも知れないが。

その青年の小説は帰りの駅のカフェで一気に読んでしまいました。
おじいさんが海軍で、1年に1回船が佐世保に入港すると、南洋からバナナをいっぱい持ってくるの
が子供にとってものすごく楽しみだった場面が生き生きと書かれていました。
バナナと一緒にデパートからカステラも買ってきた。
バナナとカステラを楽しみに待っていた女の子は、今日会った青年のお母さんなわけです。
病床のお母さんにその思い出を忘れないために、姉妹から今も定期的にカステラが届けられる
ことに疑問を持ったことから、この青年は「知ろう」と思ったそうです。

姫野さんのこのメールがそのバナナが豊富な南洋の島に関係してるのがとても不思議です。

では、    神崎さくら

蝶といえば、上妻小学校の小川先生を思い出します。
ご存命でしたら、何か手掛かりをご存知だったかも。

おっとっと、ここで2度読んでやっと人脈がわかりました。
小さな(これから大きくなるかもしれない)国際交流のひとつとして尽力するのもいいことですね。
上の理由ならば、永井菊枝さんにお尋ねするのは大いに理由がありますね。
ところで最近利華さんは永井先生に三鷹で会われたようですね。
そのコンサートのことは見逃して知りませんでした。
知ってれば私も永井先生に会えたのに。

高橋博士のことといい、いろいろとつながりますね。

2009年7月18日 (土)

繁二郎、連句的

sunおはようございます
青木繁と坂本繁二郎>>終生のライバルで終生の友人と昔ドキュメンタリーで見ました。
表には出てきてない色んなエピソードがありそうですね。
お二人のご生家があいついで改築復元されてうれしいことです。
青木氏の「わだつみのいろこのみや」と「海の幸」は以前石橋美術館で見ました。すばらしかったです。。とくに、わだつみ・・☆
繁二郎さん、アトリエ公開の日に中に入りました。
内部写真も写させていただきました。
室内のイーゼルに写真家土門拳氏撮影の繁二郎さんが立てかけてあります。
ものごとの深い部分をみているような凛とした表情のとてもいい写真です。

うわ、それ聞いて俄然いってみたくなりました。
あたしは八女堺屋の蔵の『夢中落花文庫』の入り口においてある、山本健吉のモノクロの等身大写真がすきで、持って返りたいなといつもおもう。

art年に数回公開日があるから是非☆
天井の低い2階部分が吹き抜けの南に付いています。
上には上がれませんがのぞかせてもらいました。
ほんとに素敵なアトリエです。
青木氏も八女とは深いかかわりがあったのでしょうね☆

繁二郎の結論。

「結論的に言うと西洋と日本の違いは教会の鐘と寺の梵鐘の音色に象徴されます。多くの鐘がぶつかり合いジャランジャランと鳴る向こうの鐘は音は面白くてもただそれだけ。日本の鐘はごうーんと打てば余韻じょうじょう、その響きは遠く深くしみこんでいきます」

たは。鐘で結論づけてたとは。

強固はん。
坂本繁二郎の作品が八女、久留米のどちらに保存されようとも、坂本繁二郎はこのちっご地方のタカラであることには変わらないのだと思いますよ。この偉大な画家の残した足跡は、地域人の心から心へ継承されていくべきでもありましょう。と、やけに、優等生的発言のせーこはんであります。

濃い薄いはともかくとして、杉山先生は坂本繁二郎に師事、乙は杉山先生に師事。よって乙は坂本繁二郎の孫弟子。
mariさんは別の孫弟子の弟子の親。ひ孫の親は孫。よってmariさんも(義)孫。
かささぎさんは杉山先生と犬猿。犬の親は犬。犬の子も犬。よってかささぎさんは孫たちとも犬猿の運命?
変な三段論法でした。

mariさんはひ孫の親でなく孫の親?

ネットで拾った杉山先生の話題。

杉山さんは仕事の傍ら絵画をたしなみ、一九五二年から八女市に在住していた洋画家坂本繁二郎に師事。五八年に仕事を辞めた後、自宅で絵画教室を開いた。現在も約百人を教えており、これまでの教え子は千五百人以上。「技術重視の芸術家としてではなく、人間性を育てる教育者として絵を教えなさい」という坂本の言葉を心に留めて指導してきたという。

「灰皿はそこになければいけない。」
画家の故坂本繁二郎は弟子だった杉山洋氏にそう言った(『新日曜美術館』)。日常会話をしながらも坂本は灰皿の位置が許せなかったのだ。

はい、息子は洋先生、亜土先生両方から教えてもらいましたので、孫弟子とも、ひ孫弟子ともいえますね。Butうちにはもう一人孫弟子がおります。主人は小6まで杉山先生の家で絵を習っておりました。もしかしたら乙さんと机を並べたことがあったかもしれませんね。

せいこさんへ。
おとひこさんが「繁二郎をくるめにとりもどす」っていわれたのをきいたとき、なんだかとっても大切なたからをとられてしまいそうなきもちになって、さみしいなあ。と初めておもった。これは縄張り意識とはちがうんだよ。
はじめて杉山おんじいのこころがわかった気がしたものね。このお方は、とっても大事にされていますからね、すべての資料を。あたしゃさいしょのころ、それでどんだけどなられたことか。することなすこと調べて書くことぜーんぶ、がががーっとどなられて。でも、それもこれもみなだいじなおもいでであります。

おつしろうにまりさんへ。
三段腹論法はただしいか?
うーん。自称がはくのでしのすぎやまひろしはかささぎはとってもにがてだけれど、坂本繁二郎を尊敬しています。中学時代、やはり画伯の弟子であったらしい杉森麟校長せんせいからたびたびお話を聞かされて育ったので、。
ということはどうなるかな。ひまなひとは考えてね。笑

2009年4月18日 (土)

こうやんどう 星野黒木谷

今朝一番で、星野村から二人の客人がお礼にみえた。
きのうお見えになるも、肝腎の母が病院通いで一日中留守だったので、あらためて又今朝山より出向いてこられたとのこと。

母はもうじき八十だ。
四十六で車の免許を取得以来、七十になるまでハウス栽培の苺を作った。
たったひとりで、である。父はサラリーマンだったから。
腰がまがって足がうまく運べない今も、気で体を支え、父と日々の家事と畠仕事をこなす。
その母の育ったのは八女の笠原というお茶の産地、だが父祖の地は隣接する星野村であるらしい。(このことも最近知った。)
二年前、その父祖に所有権らしきものがある山畑が猫の額ほど残っていることがわかり、その地を農道が走ることになった。「黒木谷農道」というらしい。(これも今日知った。)
一族の長老たる母には、なんとか一族の末裔の承諾の印鑑つきの書類を印鑑証明をつけてとりまとめてほしい旨、星野村からみえたお役人さまが頼んでいかれた。
それから二年。
なんども足を運ばれたが、一戸がなかなか応じない。
何度電話をしても埒があかない。
これはいったい、なぜなんだろう。
部外者として聞いていた私のなかにある思いが生じ、地図で場所を確かめると、福岡市の東区までかれらを尋ねていった。去年の六月だった。
わたしの弟の命日に死んだ従弟の子にあうために。
何の連絡もせずに行ったのに、一番若い末裔たちは、いた。

その姉にあたる彼女は赤ん坊を抱いていた。
わけを話し、一緒に土曜もあいている福岡市役所のサービスカウンターまで出向き、長男である彼女の弟の印鑑証明をとってもらう。
長い時間であった。はやく来ればよかった。
なぜだろう。と思うこころが、わたしに出向かせたのだが、そのなぜ?という思いは、遠いはるかな父祖へのよびかけともなってずうっと胸にくすぶり続けているものだ。

わたしの弟(21で死亡)とかれらの父である従弟(母方の里を継ぐ直系男子であったが45で死亡)。
それがまったく同じ命日だったことが、私を打ちのめす。
なぜ。

考えてもわからないのに、かんがえてしまう。
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_fb34.html

今朝の原口さん(お茶生産者)とおっしゃるかたのお話によると、この農道でおかげをこうむる農家は27軒という。そりばってん、と原口さんは話を付け加えられた。

「こうやんどうさん行くとに、こっで大変便利になっとです」

たしか昭和57年が750年忌だったとでっしょう、ホンガクインから来たさる有名なかたの墓がここにあって、五十年ごとにその法要が執り行われるが、近年の法要のときには、そんホンガクインからも偉い人がみえて、ちゃんとお祭りばしてゆかれましたし、去年には、ナンゾウインからもおぼうさんがみえて、立派な講話をなさっていかれました。・・・

というような話を朴訥となさった。
母は少し記憶がとぶようになっているが、「そういえばこどもんとき、うちたちゃこうやんどうっていいよりました。そこさんな行ったこつはなかですばって」という話をした。

六月には舗装が整う、といわれた。
晴れて落慶のあかつきには、また招待状をお送りいたしますので、どうぞ。
という言葉を残して、折り目正しい村人たちは帰って行かれた。

ぼんやりと混沌の中考え事をしている。

こうやんどう。
ほんがくいん。
なんぞういん。

それらは、これのことだろうか?

http://www.hongakuin.jp/home2.html本覚院
http://www.kotobuki-p.co.jp/kensaku/data/21na10.htm南蔵院

ここでまた、こんなところで、大友一族にあうなんて。
そしてハッとする。
瀬高のこうやのみや。黒木谷のこうやんぐう。
どちらもおなじ高野の宮だとしたら。

2009年4月 2日 (木)

海ゆかば

http://streaming.yahoo.co.jp/c/t/00100/v06169/v0616900000000514425/

昨夜、アンジェラ・アキの『手紙』を探して聞く。
国民放送で見た、さる島(与那国島っていってなかったっけ。よなぐにじま。昔の俳句でよくみかけることばによなぐもりがある、むずかしいツチフルって漢字をのっけた曇りです。火山からの土や小石や砂が空中にまじって曇っているの意味)の学校での録画がたいそう感動的で良かったので、もう一度みたいと思った。素朴でうんとうんと感動した。なみだでるほどに。
これはとてもきれいで、これはこれでいい。
上記動画は宣伝付き期限付き。やがて消える。
「仰げば尊し」がついている。
仰げば尊しの歌詞。今こそわかれめ。
私はずっと「分かれ目」と思っていた。
ある日気付く。いざや別れめ。という文語表現であることに。
助動詞「む」の已然形。英語ならレッツ。
いまこそ別れゆこう。という意味であった。
さいご、「いざさらば」。

父も母も大戦争の時代に育った昭和一桁世代。
卒業式の歌は「海ゆかば」だったという。
海ゆかば。みづくかばね。山ゆかば。草むすかばね。
陰鬱なのに、すっきりとかたづいた調子の歌です。
さいご、「かへりみはせじ」。
今朝一番でこれをウィキで探し出し、聞きました。
連句の前田師が「海ゆかばをきくと、なぜか知らず必ず涙が出ます」とおっしゃっていたので、気にはなっていたのだが、大伴家持の歌の一部であったことも、ずっと後になって知ったことだ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%A1%8C%E3%81%8B%E3%81%B0
おや。これはでない。お手数ですが、ウィキ開いてみるかちがあります。

信じられない。
こういう歌をこどもの出発の歌にしなければならない時代があった。
戦死の情景のうたではありませんか。
旅立ちは旅立ちでも、おくりびとのようにあの世へと送る歌。
もっとも、さっぱり歌詞の意味はわからないで歌っていたそうですが。

かささぎたちの高校時代の卒業歌。
むろん仰げば尊しを式では歌いましたが、最後の花道で流してもらった送り出しの曲というのがあって、それは当時大ヒットした小室等の「出発の歌」でした。たびだちのうた。
表記はこれでいいかな。
さあいま、みらいへ。さあいま、銀河のむこうに。
とんでゆけ。っていうんです。なにもそこまでいかなくても。
・・・とおもいました。帰れなくなると大変ですから。

http://www.youtube.com/watch?v=UZiRcFX8ezU

かささぎの旗では、君が代研究という分類で続けているノートがあります。
「円交五号」もその一番最初にくるものです。
ぜんぶ読破しているかたはいらっしゃらないと思いますので、ざっと説明いたしておきます。こういう機会があまりないものですから。ホームページにして表紙をくっつければいいのでしょうけど、それをする時間がありません。毎朝毎夜ブログかくことで精一杯。

君が代の歌が国歌になったのは、乙骨太郎乙という人の進言による。
というエピソードを司馬遼太郎の随想で読み、その妙な名前に自然と強烈に記憶させられる。大奥の元旦儀式の歌だったというのにも驚いた。いみすることは、ものごとの原初、はじまりの歌。べつのことばでいえば、たまふりのうた、といってもいいかもしれない。儀式もその陰陽五行的にきっちりとした意味がある。(吉野裕子ワールドマニアならすっきりわかります。)
しかし日々の生活ですっかり忘れていたところ、所属誌「九州俳句」誌であるとき、郷土の歴史にとっても詳しいおかたが君が代のいきさつも含めてものすごく詳しい君が代論を書かれたのです。それを毎回読んでおりましたが、大山巌で止まり、乙骨太郎乙が出てきませんでした。これはいったいなぜだろうか。・・・と感じたことが発端にあります。気付けば、
自分でもわからないうちにぐんぐん深みにはまってしまいました。なにを調べているのか、を調べているようなきもちになります。あちらからのよびかけ。とおいはるかかなたから、かささぎ族が呼ぶのでしょうか。笑
なぜなのかをかささぎはしらない。

それにしても、日本は平和だ。
国歌斉唱で一部の人達が歌わないのには理由があるのでしょうが、こういう起源を知っておられたとしたら、また違う反応もあるだろうに。とおもうときがあります。
でも、その人にはその人の役割が、厳として、ありますものね。

なんといいますか、時の流れと歴史の動き、暗合と暗号、とこういうことを思っていますと、司馬さんがいみじくもその一文のタイトルとされた、「歴史の不思議さ」というものに思いを致さずにはおれません。
とても、敬虔なきもちになります。

2009年3月23日 (月)

竜の灰、君が代と繋がる。

「円交五号」を引用していたときだったと思います。
乙骨一族について何も先入観なくただひたすら君が代を国歌として発掘した家と捉え、広く紹介しようとして黙々と引用したものですが、あるとき、ある朝、朝刊の一面広告に、日本ではいちばん大きいといっても過言ではない、政治団体までもっている宗派が、とても信じられないような口調で特定の個人をこきおろす(具体的には乙骨まさおという人を)本が広告してあるのが目にとまりました。
思わずぎょっとして、はじめて調べてみたら、その乙骨氏は反そうかがっかいキャンペーンの本陣におられる方なのでした。うわあっと頭がいたくなった無知なかささぎは、その日一日寝込んでしまいました。
そうしたら、翌日だったか、ある匿名のかたが有難いコメントをくださったのです。
その乙骨氏は乙骨太郎乙一族とは無関係であるとおっしゃるのでした。そこで、わたしは、すんでのところで、そういう政治的ないやらしい攻撃合戦にまきこまれることから救われ、気をとりなおして、無事引用を続けることができました。

そういうことを、ふっとここで、このドラゴンアッシュのくだりで、何の脈絡もなくなぜ、思い出したのか。
それがですね、こういうことです。
ドラゴンアッシュ、何も知らなかったものですから、ボーカルのバタ臭いおにいさんを調べたのです。するとこの人は俳優古谷一行の息子だった。
へえ・・・
古谷一行。当たり役は、金田一耕助。
はっ。金田一。横溝せいし。はっ。。。真珠郎。。。。ときて、ここでぴたっとつながった。
私はでも、いつだったか巻き戻せないのです。
以前コメントを下さったかた。知人とおっしゃった。そのつまり、友人におなじ乙骨姓の太郎乙一族のかたがいらして、その姓の登場人物(たしか信州でした)が出てくる小説が一編あり、それが横溝せいしの金田一ものの一つ、真珠郎だった。というのでした。確かそう、ですよね?
こんなまわりくどい接続のしかたがあったとは。
連句的にぴたっと繋がったことに驚きを禁じえない。それを糸とおもっているのは、わたしだけかもしれないのですけど。あのときのコメント、もう一度読み直したいけど、大量の山をどうやって検索するかわかりません。

コメントを発掘することはできませんでしたが、映画の説明をみつけてきました。

すばらしい秘書をお持ちですね。
類まれな事務処理能力に、
感心を通り越して、
ただただあきれはてて?おります。笑

横溝正史といえば金田一耕輔、金田一耕輔といえば金田一京助、金田一京助といえば明解国語辞典、明解国語辞典といえば新明解国語辞典、新明解国語辞典といえば乙四郎、乙四郎といえば乙骨三四郎、乙骨三四郎といえば横溝正史
ここでも繋がった。

おおそうです。
うわあ。ありがとう!!
三年も前のことになるのですね。
乙の骨、乙四郎も一つ拾ったのですね。

昨年の3月6日の投稿の引用です。
=====================
東妙寺さん・・・「妙子」さんのフルネームが香ってきます。妙香寺ならリサーチ済みだけど。
乙骨太郎乙・・・当然、ペンネーム付ける前にリサーチ済みですよ。この方のリサーチの延長線上に妙香寺が出てきて、そこに
>クラブ活動ってなんだったの。
の回答が潜んでいます。
=====================
乙の骨は当初から拾っていました。
   ↓

http://www.edu.city.yokohama.jp/sch/es/kitagata/txt/myoukouji.htm

龍は想像上の動物。瀧は、水となって降りてくる龍。姿形がぼんやりとしてはっきりしない、それが龍のイメージ。朧は、月がぼんやりとした状態。だから龍がいる。
バンド名のDragon Ashは、“drag on ash”(だらだらしていたら灰になる)だそうな by Wiki。

笑。
産休縁燐寸。

灰。瀞。擾。情。城。錠。常。聶。襄。
ああちがう。じょうという字をさがしている。
でてこない。尉。これだ。
灰=尉
これ、大切な連想の糸。
しかも辞書をひくと、みよ。里見とんがいる。

http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?dtype=2&p=%B0%D3

じょう【尉】(能楽で)白髪の、老人の男性。おきな。(白い灰になった炭火の意にも用いられる)⇒姥
あしたのじょう【明日のジョー】白髪になって燃え尽きたボクサーの男性。

里見とんは有島武郎の実弟。本名は山内英夫(やまのうち ひでお)。
ペンネームは、電話帳をペラペラとめくり指でトンと突いた所が里見姓であったことに由来by Wiki。

里見とんがなぜ関係あるのかな。
わからんごとなってきました。
大石政則日記に関係あった?
とむ。とん。
ああそうか。
とむ、と読ませる名前をつけたのは、乙骨太郎乙の家のえーとあれは、。ベンジャミンフランクリンがどうの。というくだりがでてくる。だれだっけ。わすれたけど、ともかく、さとみとんとおなじ字だったような。それで関係してくるってわけ。それと大石政則日記がかささぎの頭の中でおなじ分類になってるのは、たぶん、乙四郎のおともだちのてんだーさんの名づけがややそれに似ていたからかもしれません。

ひとりで勝手におもっていればいい。はいはい、そうします。

里見と名付けはここからの連想では?
   ↓

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/03/post_a688.html

投稿: 乙四郎 | 2009年3月23日 (月) 00時04分

乙四郎、いつも助け舟を必要なときにありがとう。
いっしょうけんめい以前調べていたことが、こういうかたちで再び立ち現れて、いまに繋がっていくことがうれしいです。
ただ一つ気になることがあって、ドラゴンアッシュのボーカル、降谷けんじさんのためにもう一筆書いて、弁護しなきゃいけないかも(親の七光みたいな風に思われるのがいやだし)。


2009年3月16日 (月)

いんがっと浮いとらすと IN GOD WE TRUST

IN GOD WE TRUST

   竹橋乙四郎

「34丁目の奇跡」(いくつかあるバージョンのひとつ)で、サンタの存在の傍証にドル紙幣の裏の「IN GOD WE TRUST」の印刷が用いられていました。
1ドル札では、ピラミッドの上に光輪を放つ目が浮いています。

いんがっと浮いとらすと。

永遠の神の目を意味し、物質の上に精神を置くものだとのこと。
金貨や銀貨と違い、紙幣は単なる紙切れにすぎず、神の威厳をもって紙を神に通じさせた先人の智恵。
日本最古の紙幣は、伊勢神宮が発行した「山田羽書」。守武のちょっと後の時代。確か伊勢神宮は経済危機だったはず。自分でお金を印刷して脱したのか・・・
単なる紙切れが、伊勢神宮の威厳によって神に通じた。

   ↓

http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/history_09.htm

かささぎ族の声:

八女方言いんがっと。は、方言「もっとっと」=入念に。に似て、ていねいに、きちんと、というような、すみずみまで気が行きまわっていることをさします。
おつしろうが書いていたように(かいてなかったかも)、かささぎも、方言のいくつかは中世にこの地方にきたばてれんの異国語の転だと思う。「ばってん」=but thenから、「いんがっと」=in godから。てなふうに。あ。でもばてれんは英語はなしたかな。ポルトガル語だった?ありゃ。そこらへんの基本的な押さえがまったくできとらん。

2009年3月 4日 (水)

生等もとより生還を期せず。一人称談義

こんばんわ
箒草ってほんとにホーキになるんですね^^♪
手作りのあったかみがありますねheart04

おもてんくち。
あるいは、おもてんかど。
うらんくち。
でも、うらんかど、とは言ってなかった。

ばあちゃんのことば。
「かどんくちにほってとかんの」
まじないみたいな、まかふしぎさよ。

「かどんくちにほってとかんの」

最後に・・・・「の」がつくのは福岡弁です。
2,3軒さきの家が福岡県、こっちは佐賀県の県境にあるわたしんち、見分けるのは「・・・・の」の違いでした。

福岡県 来んの、行かんの、しとったの?
佐賀県 来んね、行かんね、しとったね?

その他はほぼ共通語です。
裏んくちも。

うおおお。
ここまでこまかくなってくると、さすがのかささぎもそうじゃったろか?状態です。
せいこさん、かどんくち、ってきいたようなわすれたようなことばねえ。
さくらさんちは県境でしたか。
八女もどっちかといえば熊本のほうが近い。
むかし、ガキだったころ、山の母の里へ泊りがけで行くのが楽しみでした。ディーゼルカーに乗って。
私たちは、じぶんのことを「うち」って言ってた。でも、黒木の山の子は、じぶんのことを女の子なのに「おどん」って言ってたので、内心、うわあいなかもんやんねえって思っていました。笑
黒木瞳さんはどういってただろうね。「うち」だろか。
おどんなんてそんな熊本のおてもやんみたいな呼び方だけはしてほしくなかとです。はい。

おどん、爆笑!!!!!!!

知っとるよ、もちろん、今90歳の親戚のばぁちゃんは言うもん。

私たちも「うち」でした。

相手のこと「自分」ちゅう大阪弁にもまいるけど。
やくざ風に「知っとーか、じぶーん」

訛りが全然抜けない佐世保出身の友人がいた。田舎くさかったが、その人間性と言葉の力で自治会長に推された。
佐世保うまれのワルツ。さっき、テレビで流れてた。

美 し き 天 然
1 空にさえずる鳥の声 峰より落つる滝の音 大波小波とうとうと 響き絶えせぬ海の音 聞けや人々面白き この天然の音楽を 調べ自在に弾きたもう 神の御手の尊しや
2 春は桜のあや衣 秋はもみじのから錦 夏は涼しき月の絹 冬は真白き雪の布 見よや人々美しき この天然の織物を 手際見事に織りたもう 神のたくみの尊しや
3 うす墨ひける四方の山 くれない匂う横かすみ 海辺はるかにうち続く 青松白砂の美しさ 見よや人々たぐいなき この天然のうつしえを 筆も及ばずかきたもう 神の力の尊しや
4 あしたおこる雲の殿 夕べにかかる虹の橋 晴たる空を見渡せば 青天井に似たるかな 仰げ人々珍しき この天然の建築を かく広大に建てたもう 神のみ業の尊しや

   ↓

   ↑
この「美しき天然」のページの下のほう、「私の愛唱歌」をクリックすると、懐かしい歌がぞくぞくと出てきました。そのページの「謹告」を読んでから味わってください。
勇敢なる水兵だって、精霊流しだって、帰ってきたヨッパライだって、ケメ子の歌だって、受験生ブルースだって、レナウンの歌だって、エメロン(ふりむかないで)だって、狼少年ケンだって、まぼろし探偵だって・・・なんでんかんでんあります。
さらに、上のほうの「放送禁止曲」をクリックすると、実録三億円事件だとか、これまたいろいろ出てきます。フォークルのイムジン川もここで聴けます。「謹告」を読んでから味わってください。ヨイトマケの歌、山谷ブルース、五木の子守唄ほか、SOS、プレィバックpartⅡ、ウェディングベルもここで聴けます。

自分~>>久留米の男もそういいますよね^^
イムジン川>>高校生のころ、ラジオで放送禁止になる直前まで、、流れるとほんとにかじりついて聞いていました。 いい曲ですね~。
イムジン河>映画「パッチギ」で全編にゆるやかに流れますね。
この時の音楽担当は加藤和彦氏ですね。
シーンの中で、坂崎役のオダギリ氏がギターでしみじみと歌う「イムジン河」は秀逸ですね☆
ここだけ、CDで買いたいくらいすばらしいです^^slate

↑すみません(^_^;)訂正です。
オダギリ氏が歌ったのは「悲しくてやりきれない」でした。ちょっとごっちゃになってました。
slate最近また見たいモードです^^☆
あのやんちゃな井筒監督も同世代ですね♪
私らも含めて、このへん前後はスポット世代って言うんですよね。
団塊世代と共通一時世代のはざまにある・・・わりと自由で、欲がなく、のんびりしてるってゆうか・・・denim

イムジン河が発売自粛となり、イムジン河の曲を逆回転させた曲調をベースに作られたのが「悲しくてやりきれない」だから、その2曲は表裏一体。

さくらさん。少林寺拳法を教えている「うち」の中学時代の男ともだちは、平成のこの時代にも、自分のことを「じぶん」と呼んで、通常的会話をいたします。最初は違和感があったものの、いまは聴きなれた。

エメさん。スポット世代は、のんぽり世代でもあるよねえ。自分でもノンポリやなあって思うもん。

乙さん。うつくしきてんねん。サーカスの薄暗いテントの下のものがなしさを彷彿とさせるのはなぜ。わたしの愛唱歌には、ホント、わたしの愛唱歌が、ばさらかうまっとる。

乙さんが書かれている歌、知ってます。ほとんど歌えます。イムジン川はときどき口をついて出てきます。主人は高校へ、ギター片手に通っていたような人なので、かなりの曲を今でも弾けます。坂崎さんには負けるけど。
岡林やかがわ良のことなどよくしっています。友部正人にいたっては今でもファンクラブにはいっているほどです。
小郡で行われたコンサートに一度付いていきました。農家の納屋をステージに改造してあるところでした。ピアノがおいてあって黒い幕も備えてあり、
ちょっとしたステージでした。知っている曲は1曲もなく、私にとっては長い時間でしたが、前の席の佐賀から来たという女性はのりのりで、そう体をゆすらなくても良いじゃないといいたくなるほどでした。
私が気になったのは、幕の下から出てきた一匹のごきぶり。左端から右端までゆっくり移動して・・・
前の席なら靴で落としてやろうかと思っていたのですが、件の女性は気がついてなかったらしく(主人も)それだけのめりこんでいたんですね。アットホームなステージでした!?
乙さんがこういう歌を知ってあることにも驚きます。俗に言う頭のいい人は歌なんて聞いていない。馬鹿にしている・・・と思い込んでる私です。そうじゃないんですね。父が「歌番組ばかり見ると頭が悪くなる」とすりこんでいたので、そんなふうにおもったんでしょう。父は大正元年生まれでした。

そおらぁにいぃさええずるう・・・・を見て、サーカス小屋は思いつかなかったわ!
そういやそうね。
歌ってるのが小沢昭一というのもおかしか。

あまりに聴きたい曲が多かったので、とうとうお気に入りに入れちゃった。時間があるときにじっくり聴きたい。それにしても、ここの管理人の執念、おそろし!脱帽!すごいねえ、このバラエティにとんだ選曲は。

恋人もいないのに、悲しみは駆け足でやってくる、五番街のマリーなどなど、なつかしい曲がいっぱい。

でも、ここまでで一番わたしに受けたのは、これ。守屋ヒロシさんの「僕は泣いちっち」
14歳違いの叔父が持ってたレコード。
聴いた聴いた。まだわけもわからんチビのときに。思わず吹き出しながら、なつかしくてなつかしくて、涙が出たわ。

「私の愛唱歌」の歌詞入りの軍歌の数々には目頭が熱くなります。「麦と兵隊」にはラヂオ実況入り。中に、米国軍歌だが、自分の記憶に残る最古のSP曲があった。多分、ステレオ購入時にオマケで付いてきたやつ。
「史上最大の作戦」
The Longest Day MARCH(1962) - Mitch Miller
Many men came here as soldiers many men will pass this way
Many men will count the hours as they live the longest day
Many men are tired and weary, many men are here to stay
Many men won’t see the sunset when it ends the longest day
(乙訳)
男たちは兵士としてここに来た 男たちはこの道を通ってゆく
男たちは時を数えながら 長い一日を生きる
男たちは疲れてここにとどまる
長い一日が終わるとき、男たちは日暮れを見ないかもしれない

当時、まったく意味もわからずに何百回も聴いていた。こんな深い歌詞だったとは。
外国語は「音」でしかなかった。(シルビーバルタンのフランス語の「音」は心地よかった。彼女が日本語で歌ったレナウン娘は意味が認識できた)

それにしても(乙訳)は下手っぴ。「私の愛唱歌」にカチューシャの原詩(ロシア語の訳)と日本語詩とが対比してあります。原詩は、ロシアの軍歌だった。
(原詩)
リンゴとナシが花咲いていた
霧が川面を漂いだした
カチューシャは岸へと出かけていた
高くけわしい岸へと
歌いながら出かけていた
ステップの青灰色の鷲の歌を
愛していた人の歌を
手紙を大切にしまっておいていた人の歌を
ああ、歌よ、娘の歌よ
輝く太陽の後を飛べ
そして遠い国境地帯の兵士に
カチューシャからよろしく伝えよ
純朴な娘を思い出させよ
彼女が歌っているように聞こえさせよ
故郷の大地を守らせよ
カチューシャは愛を守るだろう
(訳詩)
りんごの花ほころび
川面(かわも)にかすみたち
君なき里にも
春はしのびよりぬ
岸辺に立ちてうたう
カチューシャの歌
春風やさしく吹き
夢が湧くみ空よ
カチューシャの歌声
はるかに丘を越え
今なお君をたずねて
やさしその歌声

日本語訳の何と豊かな響き!
でも、最近の日本の歌も負けちゃぁいない。日本語が乱れているとはいわせない豊かさがある、病院で戦う看護師たちのための軍歌。
「みんな元気!」
きみの元気は僕の元気さ ファイト!
いのちのよろこびに Yes it's goo-d goo-d Mor-nin'
だってこんなに Fine Day~
笑顔が輝けば Yes it's goo-d goo-d Fee-lin'
みんな元気に Say Hello~
僕のハッピーはきみのハッピーさ トライ!
こころがつながれば そう it's goo-d goo-d Talk-in'
はじめましてと How do you do~
あの子も笑っている Yes it's goo-d goo-d Smi-lin'
みんないい顔 Say Com'-on

出勤前にちょいと読もうと思ったら、読めない濃さであります。帰ってからじっくり読ませていただきやす。

一人称代名詞
このブログに初投稿したのは3月2日の夜だったので、1年が経過した。このブログ上では、よく一人称として「乙」を使った。時に「私」。書き物の場合、一人称はよく用いる。しかし、口語では事情が違う。
小さい頃から「僕」は使っていない。自分のことを「僕」と称する同級生が気障っぽかったので、そう思われるのが嫌で使わなかった。作文の宿題の時に嫌々使っただけ。男の子は「僕は・・・」、女の子は「私は・・・」。日常生活で「僕」は生涯一度も使っていない。
「私」を使うことはできない。女、女といじめられる。「おどん」は田舎っぽくて絶対に嫌。「俺」は、ひ弱系の人間は使わない。
かくして、一人称を全く用いずに、幼年期、少年期、青年期を通過した人間が生まれた。ごくごく小さい頃、周囲の影響で「ウチ」を用い、それが間違いだと知らされ恥ずかしい思いをして以来、一人称を避ける癖が身に付いていたので、比較的楽だった。
成人し、面接試験など一人称の使用が必要な場面が訪れた頃からは「私」。作文の時の「僕」みたいなもので、割り切れる。日常生活は一人称なしで過ごした。「私がやります」→「こちらでやります」みたいな翻訳リストが脳内にぎっしり蓄積されている。公務員は自分を前面に出してならない滅私奉公の職域。一人称なしで困る場面はほとんどなかった。子どもに対しては一人称で強い親を演じなければならないこともあったが、そういう時は「お父さんにまかせなさい」。
最近は、「私」の使用場面が増えてきた。大衆を前に「私」と称することに抵抗がない年齢となってきたため。使ってみると、以外と楽。翻訳リストも少しずつ消えつつある。でも、いまだ家族は「私」が一人称代名詞を口にするのを聞いたことがない。

 私も仕事中にふと覗いたら、その濃さに驚いて、思わず仕事サボってコメントします。
 「美しき天然」はそのワルツのジンタッタというリズムから「ジンタ」という通称がつき、サーカスやチンドン屋の曲として有名になったようです。イムジン河を初めとするフォークル関係・パッチギ関係については語りたいことが多すぎて省略。ロカビリー「3人ひろし」の1人だった守屋浩、その友達なのに全く女性に人気のなかったかまやつひろしのことも、いろいろコメントしたいけど省略。
 「史上最大の作戦」の作曲は「ダイアナ」のポールアンカで、「ザ・ヒットパレード」では誰かが日本語で「いつも 戦いはつらい ものだぜ…」と歌っていた。ちなみに「北京の55日」の日本語バージョンを歌ったのはあの克美しげる、そして映画には伊丹十三が出演している。
 一人称を「自分」と言うのはもともと軍隊用語らしく、そこから体育会系的用語になったのが、一般にも広まったのではないだろうか。関西では二人称で「お前」みたいなニュアンスだから、使い間違えると誤解されてさあ大変、ヤーさん出てきて何やわれ、おっちゃん一緒にケンカしよ、となる。
 

 職場のパソコンで送信したら名前が出なかった。ついでに追加のコメント、「史上最大の作戦」の原題は「The longest day」で、これをもじった日本の終戦記念日映画が「日本の一番長い日」、怪獣映画が、キングギドラ初登場の「三大怪獣 地上最大の決戦」です。ところで、「史上最大の作戦」を日本語で歌ったCDは出てないのだろうか?

のっとられた、完全にブログを。笑

美しき天然とは縁があります。ちんどんやの歌とおもっていましたが、ジンタはこの曲をさすんですね。
櫻濃くジンタかするゝ夜空あり  秀野
墨堤での句。
ぼんの父上は大正元年生まれ。これには驚きを禁じえませんでした。何歳のときのこども?かささぎは計算ができん。えーと昭和29年生まれだから29に大正年間の14年を足すと、43か44だよ。考えたらちがうはずよね。うちはどっちの親とも24しか離れていない。生れたとき親は24だったからだけど。環境におやの年齢は関係するよね。そういうのすべてひっくるめて、いまの愛情深いぼんがある。

おつしろうを小学校のときから知ってるけど、といっても遠くから知ってるって意味だけど、昔からきみの印象はどことなく浮世離れしてたよ。最初の文で書いてるけど、「老」ってことば、がぴたっとはまる気がした。そんなこどもってほかにはいない。なんでかしらんが、きみには「公」ということばがにあった。
んで、この「私」をさす呼称についてのこだわりかたを読んで、深くおもったのは、なんでやねん。ってことだよ。
ひとはそんなにはやい時期から自分の運命に従順であるわけ。なんで。わからん。

ろいりさん。きっとがっこの先生か公務員でしょう。そんなかんじです。勝手にそう思っている。

ではさようなら。ねむいのでねます。
一日こきつかわれたので、許容限度量をこした。

わたしはまだいいほうだ。弟は34年生まれだから父が48の時の子。熊本君にはまけたね。
母は大正8年、9人兄弟のただ一人の女。(たぶん)呉服屋のお姫様だったらしい。なにせ、八女津高女を出ていなさる。八郎叔父さんだけが存命。私ももう寝よう。明日も5時45分起き。おやすみ。

 山本五十六はもっとすごい、父親が五十六歳の時の子だからね。うちの父は昭和2年生まれで若いと思っていたが、早生まれなので学校では大正末年と同じクラス、というか、そっちが主流派だったらしい。
 ところで、私も実は乙四郎さんと同じく、姉の影響で小さい頃、恥ずかしながら「うち」と言っていた。その後は「僕」と「おい(俺)」の使い分け、今でも家族や筑後地区の友達には「おい」(これに格助詞の「は」が付くと「おや」か「おりゃ」に変化)、ちょっと皮肉ったりすねた感じの時は「あたし」「あたしゃ」、それ以外で親しい人には「僕」、ちょっと公的には「私」(文章は親しい人にも)、大学時代の関西系友達には「わし」「わしゃ」を使うことも。同人誌的なものには「おいら」を使ってたこともあるが、これはビートたけし登場以前。昔何かに、一人称をいろいろ使い分ける人は信用できんと書いてあり反省しようとしたが、やはりこうなるのは多重人格のせい?ところで神津島では老若男女問わず、自分のことを「おい」というので、最初はびっくりした。自分の家のことを「おいんげ」というのは、久留米の男言葉と一緒。
 二人称の使い方は、ボランティアで外国人に日本語教える時難しい。「あなた」なんて、丁寧語のようで却って相手に失礼に当たることも多いし、「あなた♡」ってな場合もあるし。コリアン語も似ていて、同じ言葉が「あなた♡」になるかと思えば、「貴様」のようなニュアンスにもなる。あ、でも三人称も難しいか。

呂伊利さん、このごろかささぎの毒にやられてませんか?(笑)

異動or移動と言っておられたようですが、いずこへ?言えない?時を待ちましょ。

三潴は自分ちは「おりげ」です。かあちゃんは「かか」落ちたは「ひっちゃげた」わかめは「めのは」茸類は「なば」・・・ほかにもいっぱい。

「おりげ」は、叔父たちも使っていました。
「おどん」「おまん」複数形になると「おりどん」「おまんどん」に転じます。叔父に至ってはいまでも使う。彼らは方言の宝庫。貴重な存在。

一人称、わたしも使い分けるほう。多重人格ではないが、職業意識がそうさせたものだと。しごとでは、「わたくし」、あるいは「わたくしども」。個人的には「わたし」幼いころは「うち」と呼んでました、もちろん。高校時代か中学生のころの一時期「ぼく」を使ってましたっけ。赤面ものです。

箒草のほうきから、一人称の話題で盛り上がる、連句的転じ方。かささぎの旗。おもしろくて、日に3度も4度も覗いて、自分のブログより長く滞在しておりますが・・・、これってsweat02

山本いそろくの数字の意味はそういう意味か。しらなかったな。

自分のことを自分というのは生硬なかんじがする。
しかし、東条英機の雨の昭和18年の学徒出陣壮行会にて、代表が挨拶したのに、せいら。ってじぶんらのことをよんだのにだけは、ほんとうになんともいえない悲壮感が、あった。
せいら、です。生等もとより生還を期せず

2009年2月27日 (金)

攝津幸彦と高岡修にみる伝統

高岡修句集『透死図法』30句を読む、を読む
   
(九州俳句誌 星永文夫抄出)   

今日、「おくりびと」をみてきたばかり。映画の中の「死」は美しかったけど、高岡修の「死」は目をそらしたくなる言葉に飾られている。
同じ「死」なのに。どちらも受け止めなければいけないのでしょうね。

参照:「糸の夢」ブログ
http://houyume1150-4.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-bcf7.html
ついでに「マリオットの盲点」あっさむさんのブログも
http://assam226.tea-nifty.com/mariotte/2009/02/post-b1fd.html

高岡さんの俳句を 好きではないと思っていた。
だが、 この星永文夫の解説は良く書けているなと思うし、編集部は評者の人選が的確だと思った。

あしびきの 山鳥(やまどり)の尾のしだり尾の
   長々し夜を ひとりかも寝む

          柿本人麿(3番) 『拾遺集』恋3・773
この和歌が本歌取りしているのは、

桜咲く遠山鳥のしだり尾のながながし日もあかぬ色かな
 
          後鳥羽院 『新古今和歌集』春歌下・巻頭

そこへと収斂してゆく歌の伝統を、 詩人も受け継いでいる。

死界までその尾を垂らす山ざくら  高岡修

アネモネが血を売りにくるこの夕べ  修

アネモネは「キリストの赤い血の滴」。
その由来は、十字軍の戦死者の埋葬地に聖地の土を撒いた翌春、その墓地が赤いアネモネで覆われたことから。アネモネは聖地パレスチナの自生花で、巡礼者が広げたらしい。
血を売りにくる、とは何ぞや。
ユダヤ教/キリスト教の価値観の押し付けで流血を招いている昨今の中東情勢がイメージとして重なる。

乙四郎
深い読みをしてくれて有難う。
アネモネとくれば、 我々はすぐ、 故・攝津幸彦の 「姉にアネモネ」 を思う癖がついてる。
攝津幸彦もすごく魅力的な俳句を書いた人でしたが、 高岡修はまたそれとは異なる。
俳句の書き方は異なっても、懸けておられるものの大きさは見えるから、 なんとか解りたいなあといつも思っていた。
白鳥の句とか自死情死はとてもきれいな句で印象的だった。

2009年2月14日 (土)

源鑑述と人柱伝説の主との接点  乙四郎語録47 

八女戦国百首和歌「夏日侍」を読む

    竹橋乙四郎

今日はぶらりと八女伝統工芸館に立ち寄り。
「矢部川流域の文化財」(近本喜續著、平成17年)というのがあったので、ぱらぱらと立ち読み。八女天文百首も紹介してあった。
そこには鑑述は兼松城主だと明記してあった。

「矢部川流域の文化財」には、天文百首は、庄屋の中島家が保管していたみたいなことも書いてあった。庄屋の中島って人柱の中島だから、あらま乙の親戚筋がかかわっていたことになる。これもえにし。

人柱伝説

八女の山の井堰で人柱になった庄屋の中島内蔵助。

物語のエッセンスは次の通り。

① 1642年、水神さまが庄屋の夢枕に立ち、人柱を立てるよう示唆。
② 明朝、草履の緒が左結びになっている者が人柱になれとのお告げだと庄屋が言う。
③ 翌朝、庄屋ひとりが左結びの緒の草履を履いていた。
④ 庄屋の犠牲で工事が成功した。

さて、上の数行を書くため、「中島」「庄屋」「人柱」というキーワードで検索したら、別の人柱伝説がヒットした。
なんと、伊勢市に伝わる人柱伝承。
伊勢市の「中島」という地名のところに伝わる、庄屋の松井孫右衛門の物語。
① 1633年、宮川の怒りを治めるため、人柱を立てようということになる。
② 着物が赤い糸で縫ってある人を人柱にすると庄屋が決める。
③ 庄屋ひとりが赤い糸で縫った着物を着てきた。
④ 庄屋の犠牲で宮川堤は決壊しなくなった。

時代もストーリーもあまりにも似ている。
どちらも年代記録が明確で、史実であると思われる。
伊勢と八女のシンクロ。なぜだろう。
気になり、他の地域の人柱伝説もざっと調べてみた。

伊勢の楠原というところの伝説。
① 昔々、池の土手の決壊に悩み、人柱を立てようということになる。
② 袴の前と後を間違えているものを人柱にすると決める。
③ 庄屋が、はかまを前後反対にはいてきた。
④ 庄屋「勘弁してくれ! わしの家に奉公に来ているサヨという娘を身代わりにする」
⑤ 工事現場に弁当を届けるようサヨに命じ、後をつけてきた庄屋は、サヨの背中を押して人柱を埋める穴につき落とす。
⑥ サヨの犠牲で土手は決壊しなくなった。
⑦ ある日、サヨのお母さんが、サヨを尋ねてきた。
「庄屋さん。サヨは、元気でおりますか?。会わせて下さいな。」
「サヨなどしらん。どこかへ行ってしもた。帰れ、帰れ。」
⑧ 村に祟りが頻発する。

鳥取県名和町の乙女ヶ池の伝説
① 川の堤防修復工事に人柱を立てようということになる。
② 工事責任者の庄屋は、自家の下女である乙女を人柱に立てようと考え、工事現場に弁当を持ってくるよう命じる。
③ 乙女は弁当を持って堤防まで来て、落とし穴を踏んで落下し、人柱となる。
④ 堤防は修復できたが、後に決壊し、田地は池となり、乙女ヶ池と呼ばれるようになった。

福岡県宮田町の伝説。
① 八木山川の土手の築堤工事。人柱を立てようということになる。
② 袴のすそを横じまの布でふせている者を人柱にすると決める。
③ 工事責任者の頭山某はすそを横じまの布でふせた袴を着用。
④ 頭山某の犠牲で工事完了。

丹後今福の伝説。
① 1670年、海の神様の怒りを鎮めるため、人柱を立てようということになる。
② 工事監督の田代近松は、袴に横ぶせのある人を人柱にすると決める。
③ 田代ひとり、横ぶせのある袴をはいていた。
④ 田代の犠牲で工事は見事に完成した。

大分県中津市のお鶴・市太郎の伝説
① 井堰工事が順調に進まないので、土地の地頭七人の一人湯屋弾正が、「人柱を立てよう」と提案する。
② 地頭七人が各自の袴を川に流し、真っ先に沈んだ袴の主を人柱にしよう、と取り決める。
③ 七人が袴を投ずると、湯屋弾正の袴が最初に沈んだ。彼は、自分の袴に石を入れておいた。
④ しかし、弾正の家来の娘お鶴と彼女の子市太郎が、弾正の代わりに人柱になった。

2009年2月 7日 (土)

『暗喩の夏』  安西均

 暗喩の夏

     安西 均

うつむいて煎り豆を拾ってゐるすきに
世界が一瞬にして變ることがあるのだ

若い娘ふたりが
滿員電車で工場へ向かってゐた
戰爭の最後の夏だった
雜嚢に入れておいた罐から
煎豆が床にこぼれてしまった
その日の辨当代りだったのだらうか

娘たちは腰をかがめて
豆を探しつづけたさうだが
やがて頭をもたげたとき見たのは
《乗客も電車も窓外の景色も》燒けただれ
《無傷なのは二人だけだった》といふのだ
廣島で女學生だったひとが書いてゐる

われらが〈生〉にとって
つねに〈暗喩〉といふものは
一瞬だけずれる閃光に似てゐるが
もし地獄とやらにも
微笑があるとするならば
このやうなをかしさに違ひない。

* 引用は佐藤祝子詩集『過ぎてゆく』から。

***安西均詩集『暗喩の夏』(昭和58年刊)より引用***

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