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2008年12月27日 (土)

はやぶさ

とつぜん、おもいだしました。
JAに小学校の同級生が勤めていて、その人を仮に北さんとする。
その人の長男とうちの次男は同級生でした。
かささぎは、その子の五年生のときの俳句を忘れない。
こんな句です。

はやぶさが北の空へと飛んでゆく 大樹

なぜ忘れられないのか。
まず、季語のはやぶさ。http://f4.aaa.livedoor.jp/~yanbird/b-hyabusa.html

隼は冬の季語です。連句などではよく使われる鷹匠も冬。
それを心の片隅におき又句を眺めますと、北という方角。
北は時空間が一致する陰暦で、根の方角、子(ね)です。
偶然は、とてもすばらしい。
悠々たる隼の飛翔が時の源への飛翔へ転じる瞬間を、この一句に見るかささぎでありました。

これを突然思い出したのは、料理教室で、その友達の近況を聞いたから。
いまはそうぎ場のトップになっておられるらしい。

シンクロのすごさに打たれるのは、翌日の朝訪ねたブログ「き坊の棲みか」。
最初にめくったページで「はやぶさ」に出会った。

「き坊の近況」の2008年1月4日付日記。http://www.ne.jp/asahi/kibono/sumika/kibo/kinkyo.htm#top

▼ 「はやぶさ物語」

すばらしい動画が見れます。
http://spaceinfo.jaxa.jp/hayabusa/movie/story01.html

これは正月にみてください。

2007年7月 8日 (日)

神の目

Fw:Fw:FW:Fw2:HAPPY
かぐや姫から昨夜遅く届いた幸福の手紙です みなさんにおすそ分けいたします だれだ!お父ちゃんの充血した目だろなんていうのは

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お友達から不思議なメールを頂いたので転送しますね☆彡↓

from NASA Hubbell Telescope. Make 7 wishes. ナサのハブル望遠鏡撮影 「7つの願いをこめて」「この写真はナサの天体望遠鏡で撮影されたもので、3000年に一度と言われている大変珍しい現象です。これは「神の目」と呼ばれています。この目を見つめる者には多くの奇跡が訪れるといわ れており、見るものがこれを信じる信じないは関係なく、7つの願いが聞き届けられると言われています。 とにかく試してみて、どのような変化があるか、見てみてください。」 この知らせを、「そのかたの願いが叶いますように」と思いを込めて、たくさんの方にシェアして下さい☆自分だけで独り占めはしないこと。今日から七日までが最も強いパワーだそうです

(^_^)kazuko(ここにネコの絵がありましたが転換不能)

2007年4月 1日 (日)

ビッグバンとビッグクランチの間

一週間お休みしたあいだに、文章を三本書き上げ、ただいま復帰いたしました。

文章をただ書くだけならわざわざ休まずともよかったのですが、数冊の本をじっくり読まねば書けないたぐいの仕事でしたので、時間をとられました。三本の文章それぞれが有機的に関連していて(このブログを開いてここにこうして書いていることも含めてです)、なんだかとてつもないインスピレーションを戴いた気がしてます。読者のみなさまに、心からの感謝をささげます。ことに二週間ほど前、「中村貞女の句が知りたい」(ほんとは汀女。でもこの貞女の誤字のおかげで私のブログへつながってくださったのですよね。島貞女という八女句会の俳人の名にヒットしたようです。誤字の功徳ありがたし)という検索キーワードでここへたどり着かれたかたには、お礼のことばをふかぶかともうしあげます。ありがとうございました。おかげで「張形としての俳句」、今回だれをとりあげるべきか悩まずにすみ、その上、中村汀女の句集や評伝、それに俳句の作り方指導書などを読むうち、おおいなる指南を得ることができました。

冬樹蛉さんからはきついお叱りのことばを頂戴しましたが、むしろその件をふくめて、いっさいが「ゐの年の夜空の星が鳴り始む」のなかにおかれているとおもいます。

ビッグバンとビッグクランチの間を一周期として・・・

いま、げんざい、どの位置にいるのか、やじるしで示せといわれたら。

ビッグバン:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%83%E3%82%B0%E3%83%90%E3%83%B3

ビッグクランチ:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%83%E3%82%B0%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%81

むむむ。やはりなあ・・!やいこらウイキペディア。せっかく人が必死で書いた資料をはずすなよな。そりゃたぶんどっかで小さな、あるいは大きなミスがあるだろうさ。でも、それはそれとして、置いておいてよ。わたしはあれを見るとなさけなくてなきたくなる。現在この項目はありません。現在現在現在。いいんだよ、現在じゃない時間、もとあった時間までもどってくれたら。ミスはたいしたことじゃない。むしろ、ありがたいんだから。

2007年3月 4日 (日)

やわらか戦車 万物をゆすり

http://ray-fuyuki.air-nifty.com/blog/2006/08/post_ee59.html

なんのいいわけもいたしません。おっしゃるとおりでございます。蛉さんの気分を害したことをふかくお詫びいたします。と同時に、書きそびれていた大切なことを書かせてください。

万物をゆすり子供が通過する  佐藤みさ子

この川柳の勢い。こんな迫力のある無常の句をかつて読んだことがあろうか。俳句でこの句に対比させるものを持ち出そうとすれば、中村草田男の夏の句、

万緑の中や吾子の歯生え初むる  草田男

しか見出せない。川柳は季語がないゆえに、ことばのもつイメージ喚起力がすべてだ。佐藤みさ子のこの句は、「ゆすり」一語に俗のちからを集約し、それがゆえに俗を出立することを可能とした。もしこれが、「万物をゆらし」であったなら、こうも諧謔的なあじわいは獲得できなかったであろう。ヒトが子(ね)である時代。それは万物をゆすって激しくゆすってあっという間に通過していく。よまれ、うたわれているのは、時間であり、生体としての熱いエネルギーを放散させながらやがては蒸散していく身の無常感である。そして、それはなぜかあかるい。この句をよんでいる作者は、どこか別の星にでもいるかのように。

私は佐藤みさ子の川柳作品「通過する」一連を受け取って、冬樹蛉の留め書きを連想したのだ。だから順に引用した。引用するさい、れぎおんより引用と注記したが、それはどう書けばいいかわからなかったからで、じっさいは蛉さんのおっしゃるとおり、パソコン送信原稿のコピー引用です。自分の手で打ち込み入力すべきでしたが、時間がなくいたしかたありませんでした。もうしわけありませんでした。

倉本朝世を激怒させ、冬樹蛉をも激怒させ。ー(でも、わかってください。きぶんを害そうとして、やったんじゃないってこと。)

2007年2月28日 (水)

冬樹蛉「やわらか戦車」留書

連句誌『れぎおん』冬号が、およそ二ヶ月遅れて無事に到着しました。右手首を骨折された前田編集長は、リハビリ中の痛む手首で、こつこつと一冊分約100ページ入力なさったのかとおもうと、胸がじいんとします。

冬樹蛉さんからいだだいたとめがき、傑作なので、記念にここにも引用したいとおもいます。エスエフに携わる人の視点は、さすがにスケールが違います。蛉さん、おいそがしい書き入れ時の年末に依頼して、ごめんなさい。そして、ありがとうございました。そのプロ意識には、大いに教えられました。

 留書

                     冬樹蛉

 およそ風流というものに縁のない人間であって、俳諧の教養なんぞはまるでな
い。せいぜい学校で習ったものに毛が生えた程度、蛙が飛び込んで、時雨れて
いって終わりである。
 そんな場ちがいな輩がなぜこんな大それたところに出てきたかというと、ひょ
んなことからネットで知り合った姫野恭子さんに、SFの宣伝でもなんでもいい
から書いてくれと言われたからだ。それではと、お言葉に甘えてSFの宣伝をさ
せていただくことにする。おっと、申し遅れましたが、小生、折に触れてSF書
評やら解説やらを書いているケチなライターでござんす。
 そんなやつが俳句を前にすると、半ば条件反射的に考え込んでしまうのであ
る。たとえば、巨大ガス惑星の大気中に浮かんで進化した知的生物は俳句を詠む
のか? だとしたら、どのような季語を持っているのか? “メタン”と聞くと、
「ああ、春だなあ」としみじみ感じ入ったりするのか? はたまた、肉体を捨て
ソフトウェアとなって仮想世界で進化を続け、日夜、高次元数学の定理を証明す
ることに美を見い出すようになった種属が、いまこの瞬間にも“5iと、nの7
乗根の積を、5πで割る”といった形式を編み出して、その風流に嘆息したりする
のだろうか?
 あったら愉快だと私は思っている。季節というのは、“周期”のある事象すべて
に見い出せるはずだ。二万年に一度やってくる彗星を見て、「▲@×$φも、もう
終わりか……」といった季節感を味わう知的生命体がいたっていい。いやいや、そ
れどころか、ビッグバンとビッグクランチの間を“一周期”として、宇宙の生滅流
転に季節感を覚え一句ひねっている存在がどこかにいたら、それはそれは痛快で
はないか――「今度の宇宙のプランク定数は、じつに趣のある値ですな……」

上記は、パソコン通信でいただいた原稿をそのままコピーして引用したもの、妙な箇所で妙なスペースができましたが、それは機械の相性によるものと思われます。不可抗力です。

つぎに、連句誌『れぎおん』 冬号より引用したものをかかげます。こちらも不可抗力がはたらいています。のちほど書きます。

   留 書

               冬樹 蛉

 およそ風流というものに縁のない人間であって、俳諧の教養なんぞはまるでない。せいぜい学校で習ったものに毛が生えた程度、蛙が飛び込んで、時雨れていって終わりである。
 そんな場違いな輩が、なぜこんなところに出てきたかというと、ひょんなことからネットで知り合った姫野恭子さんに、SFの宣伝でもなんでもいいから書いてくれと言われたからだ。それではと、お言葉に甘えてSFの宣伝をさせていただくことにする。
 おっと、申し遅れましたが、小生、折に触れてSF書評やら解説やらを書いているケチなライターでござんす。
 そんなやつが俳句を前にすると、半ば条件反射的に考え込んでしまうのである。たとえば、巨大ガス惑星の大気中に浮かんで進化した知的生物は俳句を詠むのか?
 だとしたら、どのような季語を持っているのか?
 ”メタン”と聞くと、「ああ春だなあ」としみじみ感じ入ったりするのか?はたまた、肉体を捨てソフトウェアとなって仮想世界で進化を続け、日夜、高次元数学の定理を証明することに美を見出すようになった種族が、いまこの瞬間にも”5iと、nの7乗根の積を、5πで割る”といった形式を編み出して、その風流に嘆息したりするのだろうか?
 あったら愉快だと私は思っている。季節というのは、”周期”のある事象すべてに見出せるはずだ。二万年に一度やってくる彗星を見て「▲(a)×$φも、もう終わりか・・・」といった季節感を覚え一句ひねっている存在がどこかにいたら、それはそれは痛快ではないかー
  「今度のプランク定数は、じつに趣のある値ですな・・・」
 

※ れぎおんの前田編集長は、原稿を打ち込まれたあとで、必ず著者校正をなさいます。今回は編集長の怪我と引越しとご主人の介護のためすごいストレスがあったということを存じ上げていましたので、最低限のなおしだけをしようと決めていました。打たれたものを見て、すぐ、おや、最後ちかくの二行が飛んでいるなと気づきました。しかし、何度も読み返すうち、これでもいけるか。冬樹蛉さんがたとえ怒るとしても。という思いがわいた。私は前田編集長に意識的なものが働いていたのか、たずねませんでした。これは不可抗力でした。

冬樹蛉さまには、深く、おわびいたします。

2006年11月 2日 (木)

天体観測

DVD「天体観測」四巻までを見た。涙が出た。

こどもの読書感想文みたいな感想文で申し訳ない。

それで、今書いておきたいことがある。

こどものころ、星を見る子だった。空が暗かったし。
小学生の四年生くらいまで、家にお風呂がなく、共同風呂に入りにいっていた。その当時はそれが普通で、村には小さな浴場があった。なんと混浴だった。こどもだったので、あまり不思議とも思わなかったが、大人の女達はとても抵抗があったみたいだ。それはともかく、ある夜のこと、たぶん七時から八時ごろのことだと思う、祖母がお風呂からあがるのを外で待っていた。真っ暗な空には星がまたたいていた。見ていると、真横に流れる星がある。その星は、流れるというより、ゆっくりと同じ速さで進んでいるという感じであった。流れ星って真横に流れることもあるんだなと思うゆとりもなく、知識もなく、ただじっとみつめていた。すると、その横切る星が別の星にぶつかりそうになった。ああ・・と思っていると、その別の星は上の方にすっとせりあがって道を譲り、横切る星を通してから、いかにも「あわてずさわがず」といった感じで、ゆっくりともと居た場所に戻ったのである。あとは、なにごともなかったような夜空があり、進んでいた星はやはりずっと動いていた。私は星の観測専門家でもなく、こどもだったので、ばあちゃんが上がってきたらそれきり、星のことは胸にしまった。日常のこととはまったく別次元のことだと、こどもごころにも感じ取っていたのかもしれない、いまにしておもえば。

あれは、とてもふしぎな現象で、でも夢じゃなく、こどもの十歳くらいの私しか見ていなかったことではあるけども、だれか、あの日、あの夜、同じ現象を見た人はいないものかといつも思っている。昭和四十年くらいだったと記憶する。季節もはっきり覚えていない。でも、星の不思議な動きだけは今も鮮やかに印象に刻まれている。その後、夏に流れ星を何度かみたけれど、同じように真横に流れるものは一度も見なかった。だから、ひょっとして、あれは宇宙船かなにかで、ぶつかりそうになったものも、星じゃなくて衛星かなにかだったんじゃないかとか、いろいろと想像してみたけど、結局はわからない。だから、自分の希望的観測で話をまとめると、星は軌道をずれては動かないと皆んな思っているけども、ほんとは自由に動くことが出来る生き物なのだ。中心で星をうごかしているのは、高浜虚子みたいに頑固で融通の利かない季語という筋金入りの式目霊で、毎年毎年決まった季題を提供することに命をかけることができるひとたち。・・・・という考えは、どうだろか。すくなくとも、笑えるよね。何しろ、高浜虚子って、関東大震災のときでさえ、ゆうき定型の花鳥風月俳句をやっていたんだよ。すごくない。地球ってどんなときも忘れずに自転してくれるのと似ていない。

それにしても、五十二歳になり、はるか遠くまできてしまったなあという気がする。村の共同浴場があったところには、とうとうトヨタホームというのが見る間に建ち、年わかい家族が住むらしい。村の住民は老いて、時代の流れに棹をさすことから目をそむけそうになっている。やがてすべてが、あたらしくなるのだろうか。

今年の夏は家の二本の松のうちの一本が枯れた。
こどものときからあった松がいなくなって、さびしい。
今日は先月亡くなった従弟の初命日だった。
ふしぎと悲しくはない。
余りにも安らかな死に顔をしていたからである。

 

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