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2017年2月14日 (火)

「憑む」について水月さんにお聴きする

コメント、まとめておきます。


コメント

すいげつさん、ではなく、みづきさん。

投稿: かささぎ | 2017年2月 6日 (月) 18時00分

こちらの水月さんはチクジョ創設者のお孫さんらしいです。
本願寺派、とあるところも、お年も、龍谷大へ進まれたことも、本家水月さんと同じに思えます。

投稿: かささぎ | 2017年2月 7日 (火) 15時12分

ご無沙汰しております。
去年の夏に電話回線を他会社に移行したために、メアドも変更になってしまいました。

さて、その水月さんが本家ですよ。私はペンネームで用いているだけですから。

いまかかえている論文が2月15日締め切りなので、それが終わったら、高野堂について考えていきたいと思っております。去年の秋に福岡県立図書館まで行って調べたこともあり、また大分県立先哲史料館から届いた史料もありますので、ブログに書いていくつもりです。御教示いただければ幸いです。

投稿: 水月 | 2017年2月 8日 (水) 09時08分

おお、本家水月さん、
お久しぶりです。
お寺のことを本音で語り合いたいですね。
男女差のことなんですが。
ゴルフ場会員権にすこし似ているような。
休み時間終了!ざんねん

投稿: かささぎ | 2017年2月 8日 (水) 12時57分

あと五分、かけるか。

報恩講、五年ぶりでした。
気になったのは、参拝者の半減。
おときのしたくで女性ばかりなんです、参拝者。
そのひとたちが、御茶碗洗って片付け済んだら、さっといられなくなりました。
五年前に200人ほどあった法話の聴衆、半分です。
よいおはなしだったのに!
なしおとこどもはでてこんのだろう。

投稿: 傘 | 2017年2月 8日 (水) 15時15分

男女差とは、お寺の参詣者が女性のほうが多いということですか。

どこのお寺も参詣者が激減しています。拙寺でも、あれやこれやと考えるのですが、どうもうまくいきません。時代の流れという安直な言葉ではすまされないと思っています。どれほど時代が変わっても、聞くべきものを聞かせていただき、遇うべきものに遇っていただいたいというのが私の思いなのですが……。

投稿: 水月 | 2017年2月 9日 (木) 08時21分

水月さん。

男がこないのは仕事があるからで、ずーっとむかしから報恩講は女たちの業務でしたよね。
ところが、いまや働き盛りの女たちは、外で働いています。男とおなじに。
だから、何日も休めない。
有給つきに一度とれたらラッキーで。
餅花つくったりはずしたり、仏具磨きも大切とは思うものの。この日だけ、という日を決めて、休んだ。
それでも何度かお寺を往復し、八軒の家を歩き回り。
なかなか大変。
いや、そんな物理的なことがいいたかったわけじゃなく。

きのう、携帯、工場に忘れて帰ってました。
ゆっくりと考えている間がありません。なさけないっす。

投稿: かささぎ | 2017年2月 9日 (木) 12時47分

水月さんブログで、

憑む

という字が読めず、ウロウロしました。

憑く

ならわかります、つく、ですよね。

調べたら、

たのむ、でした。

この字、悪霊っぽい霊に支配されている感じがしませんか。
他力信仰の核をつく一字、もっとこだわりたい。

投稿: かささぎ | 2017年2月13日 (月) 12時47分

「憑む」は「たのむ」と読み、「信心」を日本語であらわしたものです。今日では一般的ではないかもしれませんが、法然聖人や親鸞聖人は必ずこの漢字を用いられています。たとえば「頼む」という漢字では、私たちのほうから阿弥陀さまに依頼するという意味が出てきます。しかし浄土真宗の「信心」は阿弥陀さまのお救いのおはたらきをいただく、おまかせするということですので、適当ではありません。そこで「憑む」という漢字を用いられるのです。「憑」は何かに「とりつかれる」というような語感がありますが、実は「憑」という字は「依也、托也」といわれています。おまかせするという「信心」をあらわすのに適切であったからです。

投稿: 水月 | 2017年2月13日 (月) 13時53分

よく分かりました。説明、有難うございました。
法然聖人や親鸞さまの書かれた中にあるのですね。
なぜ今は使わなくなっているのでしょうね?

病気がうつる、という漢字、移るでいいのに、使われない。それはいったい何故かな?
と、考えているときと似た気分です。

投稿: かささぎ | 2017年2月13日 (月) 18時13分


水月さんブログは、

「天上の月影」です。
行空研究論文の中にありました。
ガバむつかしかとです。
読解力ぜろのかささぎ、ピンポイント読みしかできません。笑。

2017年2月 6日 (月)

お寺の行方

お寺の行方

2015年12月23日 (水)

一念義・多念義~水月坊様からのおたより

[おはようございます。
 
菩提を弔う」という言い方は浄土真宗ではしないので、
私の考えが正しいか間違っているか自信はありません。
転載なさって、どなたか正しい答えを書いて下さればいいと思います。
 
なお、貴女の文章のなかに「いっしんぎ、たしんぎ」とありますが、
それは一念義・多念義のことではないでしょうか。
もしそうなら、一念義・多念義について申しておかねばなりません。
ただし、一念義・多念義といっても種々あって、一概にはいえませんが、
極論すれば、一念義は一声の念仏で平生に往生が定まる。

 

だからそれ以上の念仏は必要ないと主張するものです。

 

逆に多念義はできるかぎり数多く念仏を称えて、

 

臨終に往生できるかどうか決まると主張するものです。

 

法然聖人の在世中から滅後にかけて、

 

この一念義と多念義が水火のごとく諍ったといわれています
しかしこれはいずれも法然聖人の教えを誤解したものです。
法然聖人は「信をば一念にむまるととりて、行おば一形はげむべし」といわれています。
これが法然聖人の常教です。
一声で往生が定まると信じ、それを一生涯相続するのだというのです。
だから、一念義も多念義も間違いです。
間違い同志の諍論であるから、
親鸞聖人はそのような不毛の論争はすべきではないと誡められています。
ちなみに私の研究テーマである法本房行空は一念義の代表的人物です。
ただし私は行空が多念相続の念仏を否定したとは考えていません。
一声の念仏で往生できると信ずるということを、とくに強調したものと思っております。]
以上、水月さんからのおたよりが先月末に届いていました。
多忙でずっとこの追伸に気づかぬままでした。
一信義・多信義、となぜか間違っておぼえていた。
おしえてくださっていつもありがとうございます。
このところ、『遠慶宿縁』検索がかささぎの旗アクセス5番目に入っています。
そして、「量深学場」というききなれぬことばも15番目にあります。
仏教関連のことばだろうかと、しらべますと、これでした。
http://www.bukkyo-seikatsu.jp/kouza/184/

2015年11月 7日 (土)

水月さんのおこたえ

水月様
 
朝晩はすこしひえるようになりましたが、いかがおすごしでしょうか。
 
とうとつにすみません。
 
ぼだいをとむらう、という、その菩提とはなんのことでしょう。
おしえてくださいませんか。
かささぎブログででました。
 
おからだ、おいといください。
 
     ひめの拝
かささぎさま
 
「菩提を弔う」の「菩提」ですか。やっかいな御質問ですねえ。
「菩提」の本来の意味は、サンスクリット語で「ボーディ」という音写語であって、さとりの智慧のことです。
それを得ようと心を発すことを菩提心といい、そこから修行がはじまって、最高は仏陀となります。
したがって「菩提」とは仏陀、あるいは仏陀のさとりといってもいいでしょう。
ところが日本に仏教が伝わって約1500年。言葉が変化するんですよね。
たとえば、浄土真宗にとっては最も大切な言葉である「他力」もしくは「他力本願」、
いまでも国会議員などのお偉い先生が堂々と「他力本願ではいかん」などと発言するでしょう?
大きな間違いです。「他力」をそのように言うのは「他の力」と思っているからです。違うんです。
「他力」とは「利他力」の略で、阿弥陀仏の力のことなのです。
「他の力」と言っているときの「自」は自分です。そして他人の力というので「他力」と言っているんです。
それに対して「利他力」と言うときの「自」は阿弥陀仏です。阿弥陀仏は自他一如ですから、自も他もないけれども、
いちおう阿弥陀仏を「自」として「他」なる私たちを利する、すなわち救う力を「他力」というわけです。
これが本来の意味なのですが、「他力」が「他の力」として、まかりとおっています。
いまも同じように、「菩提」とは仏陀のことなのですが、その仏陀が仏と略され、
どういう経緯かよくわかりませんが、ホトケと訓まれるようになり、
時代劇や刑事ドラマなどで耳にするように死人を指すようになりました。
しかしホトケと死人は違います。ホトケすなわち仏陀とは真理に目覚めた方という意味ですから。
それがいつのころからか、ホトケ=死人となりました。
「菩提を弔う」の「菩提」もそれと同じではないでしょうか。
亡くなった方を弔う。あるいは亡くなった方が迷いの世界からさとりの世界へ行けるように弔う。
つまりこの場合の「菩提」は大雑把に亡くなった方を指すものと思われます。
あるいは鎮魂の意味もあるかもしれません。荒ぶる神となって祟りをおこさないように、
さとりの世界へ行ってくれよという意味で「菩提」といっているとも思われます。
ちなみに「成仏」と簡単に言うでしょう?あれも本来おかしなことです。これこそ鎮魂の意味で言っているのでしょうが、
死んで成仏できるのは浄土真宗だけです。浄土真宗は往生即成仏の教えですから、
命が終わると同時にお浄土に生まれさせていただき、阿弥陀仏と同じさとりを得させていただくのです。
真言宗は即身成仏といいますが、それは理想論にすぎません。こんなことを言ったら叱られますが……。
言葉が過ぎました。やめておきます。
ともかくいまの「菩提」とは本来の意味から変化して、お亡くなりになられた方、
あるいはその方がさとりの世界へ行けるようにということを言っていると思います。

Message body

水月様
おはようございます。
きちんとおこたえくださり、ありがとうございました。
これ、転載してもよろしいでしょうか。
だめったってするのだけど。
ひとつおもうことは、死者の供養、というとき、それは
すべて、供養する人のこころのなかのものがたり。
客観はおそらくありえない。
どうやってじぶんのなかのまよいをおさえしずめるか。
いっしんぎ、たしんぎというのがありました。
いっかいこっきりとなえただけでもいけるのか。
それとも、ずうっとずっととなえつづけなければいけないのか。
これまた、いってかえってきたひとがい ませんから、わかりません。
そういうりくつのせかいではないのでしょう。
ありがとうございました。   ひめの拝
バンプオブチキンの歌詞をおもいだした。
きおくをうたがうまえに、きおくにうたがわれている
ぶっきょうのさいだいむじゅん。
なむあみだぶつをとなえればじょうぶつできるやくそく。
それなのに、あちらがわのひとがまよわないようにいのる。
まよっているのはほかならぬこっちがわのにんげんなのに。
さいごに。
こうやってかいてるあいだにも、こないだの、中島みゆきの
「一期一会」がバックで流れる。
あのうた、とても難解。
といかけのように。

2015年7月24日 (金)

水月お坊さまからのお便り

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-25.html

2010年10月30日 (土)

[大本山善導寺特別展へのごあんない]へのコメントから

かささぎさま

おひさしぶりです。だったかな?

>まだ水月さんは出てみえません。

ちょっと意味がわかりかねますが、何か呼ばれているような気がしてコメントを入れています。

ここ二、三週間ほど、毎朝、facebookに文章を投稿しています。法話の核にするためです。あなたが興味をもたれるような内容ではないと思いますが、よければ覗いてみてください。

さて、ここは善導寺のページですから、それについて書きますと、
平成22年(2010)10月13日に高野堂「行空上人の墓」へ行った帰りに、善導寺へ寄りました。聖光房弁長(弁阿)上人の廟所があるからです。
弁長上人の系統は鎮西派と呼ばれ、法然上人の正統を継ぐと言われてきました。
けれども、法然聖人(ここで聖人と表記していることは最後に述べます)には他にも多くのすぐれた門弟がいました。
そのなかの一人が親鸞聖人です。
弁長上人と親鸞聖人は法然聖人のもとで三年ほど一緒でした。
そのお二人の教学を比べてみますと、大いに異なります。同じ法然聖人から教えを受けながら、違うのです。おもしろいものです。
私は親鸞聖人が専門ですから、あまり弁長上人のことは存じません。
また私の研究対象である行空の学説について、弁長上人が残して下さっている断片があり(いまその論文を書いている最中です)、それらについてうかがおうと思って善導寺を訪ねたのでした。
そして職員の人にいろいろ質問していると、阿川文正氏の『聖光上人伝と「末代念仏授手印」』(浄土宗大本山善導寺、2002年)という本があることを知り、購入したいと申し出ましたが、すでにもう手に入らないとのことでした。そこで諦めかけていたところ、その職員の人が「もしかすると、御法主さまの手元に何冊か残っているかもしれないから、尋ねてきてみましょう」と言って下さって、奥の部屋の方へ行かれました。そしてしばらくして帰ってこられ、「御法主さまは勉強したいという人がいるなら、これをさしあげなさいと言われた」と一冊持って来て下さいました。「おいくらでしょか」と尋ねると、「いやいや、結構です。御法主さまがさしあげなさいとおっしゃいましたから」と、無償で頂戴しました。
薄い本ですが、6000円か7000円ほどする本です。
「ありがとうございます。御法主さまによろしくお伝えください」とその場を後にしたのでした。
その御法主さまのお名前を聞きそびれましたが、阿川文正氏だったのかもしれません。
ともあれ、善導寺ではこういう御恩をいただきました。
私にとって思い出深いお寺です。
なお、前に触れた法然に対する尊称ですが、鎮西派では「上人」と書き、一般化されていますが、親鸞聖人は法然を呼ぶとき必ず「聖人」と書かれています。そこで最近になってからですが、浄土真宗では「法然聖人」と書くことが多くなってきています。それを提唱したのは私の恩師・梯實圓(かけはし・じつえん)先生でした。

とりとめのないことを書きました。お許しください。

水月様、おひさしぶりです。

くわしくかいてくださって、ありがとうございました。
では、ほとんど二週間ほど先に、おなじ年のおなじ月にここへいかれていたのですねえ。

ふぇいすぶっく、そういえば、しらべうたまるさんも、わが愚息もやってるそうな。
ああ!だけど、かささぎはまだいちどもひらいたことがありませんのじゃ。
としよりじゃけん、ひらきかたもわっかりませーん。ごめんねごめんね。

ほんができたら、どーかみせてくださいませ。

さいきんひらいてよんだ、あんらくぼうじゅんさいの生涯についてのブログ記事↓
ねむたいです

はりつけるのをわすれてた↓

http://anrakubo.blogspot.jp/2007/10/blog-post.html

なんであんらくぼうじゅんさいを、とおもうでしょうが、かささぎのなかで、人気高し。
とても青い。うつくしい。どんな声だったのだろう。どんな顔だったのだろう。

みにいきたいよ。笑。

2015年4月12日 (日)

コメントまとめ② 水月さんからのお便り

コメント

 

お久しぶりです。

実は私は、不注意から川に落ち、大腿骨の付け根を骨折して入院し、手術して、リハビリをつづけておりました。そしてまだ完治したわけではないけれども、昨日無理を言って退院させていただきました。

この写真を拝見すると、高野堂に行かれたようですね。何か発見がありましたか?もしあれば、何でもけっこうです。お教えいただきたく思います。

水月さん
そうでしたか。大変でしたね。
しかし、よかった、と申すことにします、大難を小難にかえられたに違いないです。
星野へ行くとき、水月さんや国武先生をお誘いしたいとすぐ思ったのですが、ほら、土日はお坊さんは多忙と仰っていましたので、声すらかけませんでした。ごめんなさい。
たくさん発見はありました。こうやんどうでではなく。
自分、なんも知らんなあと、あきれた。ふるさとなのに。
あれま。時間だ時間だしごとさもどるだ
又あとでかきまさ

水月さん

「大腿骨の付け根を骨折」、うちの母は交通事故でおなじ経験を、父はろうけんに入院中にベッドからおっこって、それをやりました。

さて、かきますといったので、かかなきゃ。
でも、まだことばになってでてこない。
つたえたいことはたくさんあります。

でも、これだけはいっておかなきゃ。
ちょうど、すいげつさんが連絡してくれないかな。と思っていた時でしたので、コメント、ありがたし。
というのは、ききたいことがあるのです。すみません、現金なはなしで。

以下は、四月五日のかささぎブログ記事からの抜き書き(引用の引用)です。

正平3年(1348)4月、法華経普門品を書写して筑後高良玉垂宮に納めた
正平24年(1369)8月16日、(父、後醍醐天皇の忌日)法華経を書写して石清水八幡宮に奉納した
正平24年(1369)5月3日、法華経を書写して阿蘇社に納めた
正平24年(1369)6月18、豊前大楽寺の般若心経に奥書を加え、これを重宝として門外不出を命じた
<<文中元年(1372)8月、太宰府陥落後、高良山に本営を移したが、2年後の文中3年(1374)8月、菊池武朝、武安らは筑後川を渡って福童原で北朝方と交戦。敗退して、9月17日再び高良山に退く。
9月には、菊池一族とともに菊池に退却。菊池武光は文中2年に没したと考えられている>>
天授4年(1378)3月29日、懐良の母とみなされている「霊照院禅尼」の遠忌に梵網経を書写し、肥前東妙寺に奉納したとみられる
文中3年10月以降、懐良親王は、下向してきた良成親王に征西将軍の職を譲った。

このうちの、とうみょうじに奉納したという梵網経とはなんですのん。まったくさっぱりわかりません。
せめてぼんやりイメージがわくくらいの知識をどうかお授け下され。
また、これによりますと、かねながしんのうは、法華経信者だったことになりますが、ということは、なむみょうほうれんげきょう、に帰依されていたのでしょうか。

今回一番最初に黒木谷のこうやんどうにお参りしたのですが、そのとき、うしろにまわったら、卒塔婆が数枚無造作におかれていた。そこに書かれていたのがなんという文字だったかをみそびれました。
つまり、法華経だったかもとおもって。昔の物とは思えなかったけれども、そういうことがみょうにきになるんだ。

いま、てもとに、ほしののこれらの歴史に関する書物が四冊ありまして、すこしずつしかよめないけど、よんだら、景色がまたみえてくるだろう。
しらべさんたち、星野一族につたわる口伝というのがあるらしく、はっきりと文字化できないことがこの世にはあるんだ。ということが、実感として、わかりました。
すいげつさん、同行したえめさんのブログ記事もみてください。↓

『梵綱経』については専門外なので、的確な御返事が出来かねます。申し訳ありません。ただ、うすぼんやりとした記憶で申しますと、それには大乗仏教の戒が説かれています。僧侶になるためにはまず師匠から戒を受けるのですが(浄土真宗は除く)、天台宗の開祖・伝教大師最澄までは奈良の東大寺・下野の薬師寺・筑紫の観世音寺のいずれかで小乗仏教の戒を受けておりました。『天平の甍』で有名な唐招提寺の鑑真が伝えたものです。しかし最澄は大乗仏教の菩薩を養成するために、『梵綱経』によって比叡山で大乗仏教の戒を受けて僧侶になれるようにしようとしたのです。ただし最澄の生前はそれが許されることはありませんでした。ともあれ、そうした意味で『梵綱経』は非常に重要な意義をもつ経典ということになります。(からだが動けばもう少し調べられるのですが……。お許しください)

懐良親王が法華の信者だっとということについて、「南無妙法蓮華経」に帰依したということもいえましょうが、題目を唱えるのは日蓮宗です。おそらく経典の中の王といわれる『法華経』自体に帰依していたのでしょう。これも曖昧な返答で申し訳ありません。

高野堂でないにせよ、たくさんな発見があったということですが、いったい何でしょう。ぜひお教えいただきたく思います。

追伸

前々から高野堂の墓について不審に思っているのですが、墓標の正面に「天正十六年/七月六日」とあるでしょう?江頭亨氏『郷土史物語』では、それを改修の年だといわれていますが、改修の年を正面に書くでしょうか。正面は命日を書くものではないしょうか。どう思われますか。

水月さん
ありがとうございました。
きのうは職場の上司がお子さんの入学式で休まれましたので(近年は父親参加も多いですね、そういえば)、わたしは普段のじぶんの仕事ではなく、ラインのみんなにまじって組立(スチームコンベクションというコンピュータ制御の厨房機器の)を手伝わされました。慣れない仕事に疲れてごはんたべたらねてしまいました。
ありがとうございました。しらべてくださって。
わたしは、すいげつさんに、まだ、お礼をいってなかったのです、去年のあれこれ。
いちばん有難かったのは、お経とは関係ない、国宝の万葉集のデータを母校からとってきてくださったこと。※1(http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-aede.html
あれは自分の古典の知識がいかにいいかげんなものかをしるに十分でした。
それから、いつか、アクセスをみているときに気づいたのですがコメントの中で、星野民藝というものすごく高い家具屋さんがあるのですが、その創業者のかたが書かれたかねながしんのうのしょうがい、という本をご紹介くださっていました。おぼえておられないかもしれないけれど。※2(捜索中http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-4329.html
それ、たすかりました。ほんとうにありがとうございました。たくさんたくさんありがとうございます。
ことばがありすぎて、かくのがやんなるくらいめんどうで。だからなにもかかないのかな、すみません。

コメント

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-1836.html#comment-110750162

ここ、読まれています。
国武先生や水月さん、去年あんなにお世話になったのに、私は賀状一枚書いてないのだった。いや、まったく、恐ろしい。いつからこんな恥知らずになったんだろう。
いま、久々定時あがりで、マルキョウの駐車場にクルマとめて、書いてます。かいものしなくちゃ、冷蔵庫空っぽ。
あわわ、冷蔵庫、、、谷口慎也先生にも預かった写真送ってない、田中さん、そらんさんにも。よし、絶対日曜日

水月さん、ココ読み直してみてください。

行空の墓の年月は天正ではなく、天文でした。
そして、それが天文だったからこそ、わたしはとても気になって、もっと調べたいと思い、星野の役場までいったのです。なぜか、東妙寺らんというともだちを連れて。

なぜ天文時代が気になったのか、それは、ミレニアムを祝ったとし2001の元旦、いわいをまつるいわとやまのいまいせぐうで、翁という神事能をみたのです。そのとき、赤崎さんという八女の学芸員さんからいただいたのが戦国百首で、それを解読する作業をこつこつとしたからです。
なぞがいくつかある。年号は天文二十四年卯月なんですが、干支がキボウ、みづのとう。一致しません。なぜなのか。
背景をしりたくて、もういちど役場に出向くと、それをはじめによみとかれた人はなくなられていました。

水月さんがご紹介くださって井筒屋古書部でもとめた「懐良親王の生涯」の余聞のなかに、若き時期の、福島高校教諭だったころの國武久義先生が登場されている!

コメント

行空上人の墓

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-b7a9.html#comment-110753279

三度目です。
どうしても気になり、今日、えめさん、ぼん、せいこさんとのオフ会のあとで、一人また訪ねてみてきました。墓塔の側面に彫られている文字が、上記の文中にある、
時宝暦十天三月 日
   講坊法印弟子
    戒浄 建之

でした。この墓石は宝暦十年、1760に彫られたものでした。戒浄という僧が建立したと書いてあるけど、この僧は初代の行空も二代目の行空も知っていたのだとおもえる。行空と小侍従とのかかわりを書いてある資料。「媱逸(いんいつ)の難」とは難しいことばですね。どういう意味なのだろうか。
それにしても、五木寛之の親鸞にでてくる行空は、目下、悪役で、じゅんさいといっしょにわるだくみをして、しんらんの持っている法然上人の「選択本願念仏集」をよこせ。と汚い手を使っておどし、そそのかしている。この行空がどうして最後は小侍従の帰依を得て高野山に講坊を構えたのか、その運命の流れ、その信仰の変化、そのえにしというものを深くたずねてみたいと、おもいました。

こうやんどうまでの小道は、半分、舗装がおわっていました。段々のたんぼには水がはられ、あらしろかきがあっていました。

本覚院講坊についてのサイトを名前にはりつけましたのでご覧下さい。筑後関連の物語は出ませんが、わけがあるものとおもわれます。かささぎには黒木物語のすべてが虚構であるとは考えられない。そうするにはあまりにも生々しい。
ちなみに、上記星野村教育委員会による星野村誌にある資料引用と、黒木物語にある資料引用とを見比べますと、おなじ資料でも字が微妙にちがっている。たとえばいんいつのいんですが、黒木物語のてがきでは女偏に宝がインでした、こっちは媱逸。

さて、やっと道ができたなおらいの行事があります。
師走三日。かささぎはいくつもり。

はじめまして!
私は、星野村在住で、高野堂「行空上人」の墓が
ある地域に住んでいる者です。
この度、高野山に旅をする事になりまして、
記載されている内容が分かりやすく参考に
なりました。 ひとつお願いがございます。
行空上人をあまり知らない同行者の方々へ
このページをプリントして同行者に渡したく
思っております。 どうぞご了承のほどお願い
します。

うわあ、ありがとうございます。
まだまだなぞがいっぱい、ございます。
だけど、高良山の宝物や黒木家、星野の調一族などに伝わる系図などをちょっとでも調べますと、黒木物語の世界には大きな真実が横たわっている、それは歴史の真実だという気持ちになってきます。
高野山へいかれるとのこと、なにか新しいことがわかりましたら、ここでご報告をよろしくお願いいたします。

姫野恭子様

コピー配布のご理解・ご了承有難うございます。
では、明日から高野山へ行って参ります。
天気が少々気になりますが。。

新しい発見がありましたら連絡させて頂きます!

今日はお天気あんまりよくありませんね。強い風がふいてますし、曇っています。でも雨はまだ降っていません。高野山までどうやって行かれたのでしょうね。よい旅となりますよに。どなたか存じませんが、・・

ここ数年間にいただいた縁を振り返っています。
ここを訪ねてくださった方、ありがとうございました。
久々で高野山講坊サイトを開きましたら、かなり以前とは、つまり、私が上記記事を書いたころとは違うものが出ました。
ここをご覧ください。↓

まだ高野堂「行空上人の墓」に興味がおありですか?
私はこのサイトによって行空の墓があることを知り、少し研究をおこないました。
その結果、この行空は法然の弟子としての行空ではなく、『法華験記』に出る行空であると考えます。
詳しくは論文を発表していますので、関心がおありのようでしたら、お送りいたします。

水月様、

コメントありがとうございます。

それは是非読みたいです。

おくっていただければ、さいわいです。

水月さん、
これが最初でした。

この墓石は宝暦十年、1760に彫られたものでした。戒浄という僧が建立したと書いてあるけど、この僧は初代の行空も二代目の行空も知っていたのだとおもえる

と書いたが、じっさい、わからんなあ

おおそうそう
室山熊野神社に宝暦13年の石灯篭がありました

室山熊野神社のカエルは吠える

 画像は室山熊野神社(八女市星野村)

▽かささぎまとめ

なぜ星野に熊野神社なのか。

それは創建したといわれる星野胤実が後鳥羽院の子だったという伝説によるのだろう。

後鳥羽院は熊野詣を28回もしたひと。(その外出中に女官ふたりが法然のわかき弟子に感化され、出家してしまう事件がおきる。そのとき院は、烈火のごとくいかり、首をはねたり、島流しにしたりしている。今、現代の目で事件をふりかえっても、どっちもどっち、非常にうつくしく、ぴーんと張りつめた弦の響きを思わす出来事だ。http://anrakuji-kyoto.com/about

しらべ城哀話によると、黒木助能(くろきすけよし)が院から笛の演奏の褒美に下賜されたものは、調の姓と剣と待宵の小侍従で、小侍従のお腹には院の子がいた。
後鳥羽院は、水月さんが行空とはなにものだったかというご研究にも登場したし、連句や俳句の作者間で高く評価されている歌人としての院も、故眞鍋呉夫の俳句とともにとりあげたことがたびたびある。

だから、いやでも興味がわいた。

つながっていることはしらずにおっていて、つながった。

http://ilove.manabi-ehime.jp/system/regional/index.asp?P_MOD=2&P_ECD=2&P_SNO=54&P_FLG1=3&P_FLG2=2&P_FLG3=2&P_FLG4=9

2014年10月11日 (土)

親鸞聖人における宿縁の意義 六・七章全文

水月(森本光慈)・文

 

 

  六

 

 親鸞以後、宿善を積極的に取り入れたのは覚如(かくにょ・1271*-1351 、親鸞の曾孫。覚恵(かくえ)の長男。浄土 真宗本願寺3世)であった。若いころ宿善をめぐって叔父にあたる唯善と論争したが、そのとき『最須敬重絵詞(さいしゅきょうじゅうえことば)』によれば、宿善必要を主張する中に、

 

 いま聞法能行の身となるは善知識にあへる故なり、知識にあふことは宿善開発のゆへなり、されば聞て信行せん人は宿縁を悦べし・・・往生の因とは宿世の善もならず、今生の善もならず、教法にあふことは宿善の縁にこたへ、往生をうくることは本願の力による。聖人まさしく「遇獲信心遠慶宿縁」と釈し給うへは、余流をくみながら相論にをよびがたきかと云々。

 

とある。宿善と宿縁を同じに用い、宿善必要の証として遠慶宿縁の文をあげている。
 ただ、後年の著作である『改邪鈔』第八条では、

 

 そのときおほせにいはく、世間の妻子眷属もあひしたがふべき宿縁あるほどは、別離せんとすれども捨離するにあたはず。宿縁つきぬるときは、したひむつれんとすれどもかなはず。いはんや出世の同行等侶においては、凡夫のちからをもて、したしむべきにもあらず、はなるべきにもあらず、あひともなへといふとも縁つきぬれば疎遠になる、したしまじとすれども縁つきざるほどはあひともなふにたれり。これみな過去の因縁によることなれば、今生一世のことにあらず。

 

とある。これは『歎異抄』第六条と同内容の法話であり、世間の妻子眷属、出世の同行等侶が親しんだり離れたりするのは宿世の因縁によるというのである。そして、宿善のある機は善知識に親しみ、宿善のない機は悪知識に近づくといって、「宿善の有無」という語を用いた後、「一旦の我執をさきとして宿縁の有無をわすれ、わが同行ひとの同行と相論すること愚鈍のいたり、仏祖の照覧をはゞからざる條、至極つたなきものか、いかん、しるべし」と結んでいる。ここでは宿善と宿縁が区別されているようである。

 蓮如は覚如を承けて盛んに宿善を語り、五重義相を示す中には第一に位置づけているが、宿縁の用例を見てみると、亡き母の十三回忌の法事にあったこと、他屋の坊主達の内方となること、出口・山科・大坂に坊舎を建立し居住するようになったこと、文明十二年三月二十八日に山科本願寺・御影堂の棟上の祝いにおいて諸国の門徒中が出会うこと、命長らえ報恩講にあうことを宿縁といっている。

 また、殊勝の本願にあうこと、殊勝の法を聞くこと、仏法の次第を聴聞すること、三国の祖師先徳がわれら凡夫に法を説き聞かすこと、聖人の勧化にあうこと、聖人の一流にあうこと、弘誓の願船にまかせること、信心を獲ることも宿縁といっている。

 そして、『御文章』四帖目第一通には、

 されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。しかれば念仏往生の根機は、宿縁のもよほしにあらずは、われら今度の報土往生は不可なりと見えたり。このこゝろを聖人の御ことばには、「遇獲信心遠慶宿縁」とおほせられたり。

とあり、宿善を説く中に遠慶宿縁の文を挙げ、宿善も宿因も宿縁も同じに用いている。また文明九年十二月廿九日付の「御文章」にも、

 又或時は、念仏往生は宿善のきによるといへるは、当流の一義にかぎるいはれなれば、我等すでに無上の本願にあひぬる身かともおもへば、「遇獲信心遠慶宿縁」と上人の仰せにのたまへば、まことに心肝に銘じ、いとたふとくも又おぼつかなくも思侍べり。

とあり、宿善と遠慶宿縁の文を合わせている。
 また文明八年七月廿七日付の「御文章」には、

 宿福深厚の機は生得として弥陀如来の他力本願を信ずるに、さらにそのうたがふこゝろのなきがゆへに、善知識にあひて本願のことはりをきくよりして、なにの造作もなく決定の信心を自然としてうるがゆへに、正定聚のくらゐに住し、かならず滅度にもいたるなり。これさらに行者のかしこくしてをこすところの信にあらず、宿縁のもよほさるゝがゆへに、如来清浄本願の智心なりとしるべし。しかれば、いま他力の大信心を獲得するも、宿善開発の機によりてなり。

とあり、文明九年三月の『御文章』にも、

 されば往古より、当流門下にその名をかけたるひとなりとも、過去の宿縁なくば、信心をとりがたし。まことに宿善の機は、おのづから信心を決定すべし。

とあり、宿福・宿善・宿縁を同じに用いている。

 ただ、『御一代記聞書』第二三四条に、

 他宗には法にあひたるを宿縁といふ、当流には信をとることを宿縁といふ。信心をうること肝要なり。

とあり、宿縁と宿善を区別しているようであるが、すでに深励が指摘しているように、ここでも宿善・宿縁は同じ意味である。他宗では遇法をいうのに対して、真宗では獲信のところを宿縁とか宿善といっているのである。

      七

 こうして、親鸞の宿縁をめぐって先哲の間にA説、B説の二説があるが、A説の結縁と見るのは『安楽集』所引の『随願往生経』に淵源があると考えられる。そして『法華文句記』『往生要集』に宿縁の語が見られ、『往生拾因』には宿縁の内容が説かれている。A説というのはこの流れの中における理解であろう。それに対してB説の宿善と見るのは、もともと「往観偈」や「定善義」に示されるものであるが、また『観経』下下品の十念往生を問題にする中で宿善の語が用いられ、宿縁とは区別されているから、とくに蓮如を通した理解と思われる。しかし、親鸞自身に両方の意があるのであるから、どちらか一方を取るというのではなく、ともに認めてよいのではなかろうか。いずれも過去のことであり、親鸞が「遠く宿縁を慶べ」と振り返ったとき、片方を除き、もう片方だけを想うということはないであろう。そこで親鸞における宿縁とは、阿弥陀佛は此土で発願し、永劫の修行の中で、われわれとさまざまに縁を結んでくれていた。また、われわれも過去にいろいろと善を積んできたけれども、みな自力無効と知らせ、他力に帰せしめるための調育であったと慶び、「遠く宿縁を慶べ」と言われたものと考えられる。

そしてA説が認められるとすれば、そのとき親鸞の中で貞慶・明恵に対する意識もあったのではなかろうか。彼らは法然と鋭く対立し、厳しく論難した。親鸞はその応答として『教行証文類』を著していったのであったが、論敵である彼らは熱烈な釈迦信仰の鼓舞者であった。そして、その根底には『悲華経』の教説に基づく釈尊観があった。釈尊こそ娑婆の衆生に有縁の仏であり、阿弥陀仏は縁が浅いと見ていたのである。貞慶の『弥勒講式』には、

 爰に牟尼は一代の教主、恩徳諸仏に超えたり。逸多は世尊の補処、宿縁此の土に厚し。群生の仰ぐべき、誰か斯の二仏に如かん。

 とある。釈尊・弥勒の二仏こそ此土、この世に宿縁が厚いというのである。こうした彼らの信仰を背景にA説を合わせてみると、親鸞が「遠く宿縁を慶べ」といったとき、彼らを意識していたという一面も考えられるであろう。

 

  終

 

  平成十八年五月発行、
  行信学報通巻第十九号抜刷本より引用

▼かささぎことば抄

五重義相

五重の「五」とは、

(一)宿善。宿世の善根。今生において本願の法にあい、信心喜ぶ身にならせていただくのは、この宿善のおかげであるといわれる。

(二)善知識。本願の法を説いてくださる方。まさしくは釈迦仏であるが、七高僧、宗祖聖人、歴代相承の宗主、更に僧俗を問わず本願の信を勧めてくださる人は、すべて善知識であります。

(三)光明。私どもを照育し摂取してくださる阿弥陀如来の光明。

(四)信心。他力真実の信心。

(五)名号。如来の名号が到り届いて信心となるという意味で、信心の体(ものがら)は名号であると示されたものとも考えられる。しかし、今は信心のあとに出されているので、「真実信心必具名号」(真聖全ニー六八)ー真実信心は必ずあとに称名相続をともなうーという意味で、この場合の名号とは信後の称名を示されたものと見る方が適切でありましょう。

次に五重の「重」というのは、単に五つならべたというのではなく、ちょうど一つの波が次の渡をおこすように、前のものが後をおこし、後のものが前に重なってゆくことを意味します。

そのことは「往生論註』下巻の願偈大意から利行満足までの十章を「十重あり」(*)(真聖全一-三一二)と示されているのと同様であります。

今この五重の次第によれは、「宿善」によって「善知識」にあい、「光明」のおんはたらきによって、「信心」獲得の身となる。その信心がまことであれぱ必ず「名号」が称名念仏として出てくる、という意味になります。ですから、五重の義というのは、正しい信心獲得のすがたについて、その始終をお示しくださったものとうかがわれるのであります。

http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%AE%89%E5%BF%83%E8%AB%96%E9%A1%8C/%E4%BA%94%E9%87%8D%E7%BE%A9%E7%9B%B8

改邪鈔 http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%94%B9%E9%82%AA%E9%88%94

貞慶・・・信西の孫。しんぜいは平将門(大河ドラマ)であの人、ええっと奇跡のりんごの主役をはったあの人がやりましたね。田口トモロヲ、じゃなくて、阿部サダヲでした。笑。
興福寺奏状の起草者。別名、解脱上人。

貞慶をしらべていると、こんな記事にでくわす。よき一文とおもふ。
というのは、私もまったく同感だから。

全文ひいておきましょう。

「講談社学術文庫 「鎌倉仏教」 田中久夫著

 

 

 

「五十九歳の貞慶は、臨終にあたって弟子に語り、次のような意味のことばをのべたという。(『観心為清浄円明事』)。
『身の出離・解脱は明らかでない。出離のための教えを知識としては聞いているが、どうしても発心できない。教えと自分の素質が相応しないのであろうか。どうしたらば発心できるかという問題について、いろいろな人にたずねたけれども、誰も教えてくれない』

 

貞慶は、自分の心が頼りにならないことを嘆いている。このように徹底的に自己を追求していくことができた貞慶に深い尊敬をささげたい。」

 

 

 

興福寺の高僧貞慶を、著者田中久夫が語った部分である。

 

貞慶は臨終に当たって、自分が悟りを得られていないことを告白しているのである。
悟りを得るための心の置き方、つまり菩提心が確固としたものにならないのだといっている。

 

貞慶の嘆きは、著者自身の思いであったかもしれない。
そして多くの読者の嘆きでもある。

 

 

 

「貞慶に深い尊敬をささげたい」

 

 

 

田中先生の言葉は同情と真心があふれている。
本を読んでいて、こういう言葉に出会えることは本当にうれしい。」
興福寺の学僧貞慶が悟りを得るための発心がどうしても定まらないと、臨
終に際して弟子に語った件に関し、2つほど思い出す話がある。
 
 
一つは、禅の公案集「無門関」の大通智勝仏の話。
もう一つは、維摩経の中の舎利仏が維摩居士の病気を見舞ったときの話。
 
 
まず、「無門関」の大通智勝仏。
大通智勝は、長い時間(十劫)、道場で座禅したが悟りを得なかったが如何。
「大通智勝はすでに仏である。仏が仏に成りようがないではないか」と。
 
 
維摩経。
舎利仏  「維摩殿、あなたの病いの元は何ですか。悟っておられるなら病の苦
はありえないのではないですか?」
維摩居士 「衆生は病む。ゆえに私も病むのだ」と。
 
 
貞慶上人の最期の言葉をこの二つのことがらに重ねて理解してよいのだと思
う。
貞慶上人が仏であることを信じよう。
貞慶上人が、まさに維摩居士のように衆生とともに悩まれたことを信じよう
と思う。
 
仏陀は最後の旅で、病の苦しみを味わわれた。
苦しみで横になる姿を何度も見せられている。
自分の苦しみを逃れるために仏教に帰依することは間違いなのだと思う。
維摩居士も、仏陀でさえも病の苦しみを味わう。
 
苦しむことを恐れることはないと教えられて、やっと安心したというか、仏
教はありがたいと思った。
 
「ありがたい」
まさにありえないような稀有な宗教なのだと思う。

引用元:http://blogs.yahoo.co.jp/gmstwd/3181099.html

http://blogs.yahoo.co.jp/gmstwd/3325843.html

明恵 みょうえ。

この僧は俳人人気が高くて、さまざまの人の書物の中に見出すことができる。 
されど、わたしはあまり知りません。ながく夢日記をつけていた人だったということくらいしか。

いま、しらべよう。

別府大学の先生がこんなことを書かれている。以下ぜんぶがひっこぬき。

引用した、興福寺蔵『栂尾明恵上人伝』について奥田氏は「伝記系諸本の中で最も古い時代の書写本」であり、「鎌倉時代末期書写」とする。また、平野氏が「最も古態を保つ」 として紹介する『梅尾明恵上人伝上』も貞治3年(1364)書写である(12)。それに比して 、無住は『沙石集』を弘安2年(1279)ころから「執筆開始」(新編 日本古典文学全集。無住関係略年表)しており、現在確認出来る「太郎・次郎説話」の初出である。次に、伝記系諸本の写本に見出せる。奥田氏は「伝記系の基をなしてゐるのは、喜海のなした和文行状の稿本的なもの」と推察する。とすると、喜海(1174~1250)が奈良の情報を参照しながら記したのであろうか。しかし、前述した如く、『神現伝記』を著したのは喜海であり、「太郎・次郎説話」の創作者に擬することは出来ない。
 『沙石集』と同様に、『神現伝記』を参照したと推察される作品に、延慶2年(1309)頃に成立した『春日権現験記絵』(『春日権現験記絵 注解』(和泉書院)。以下、『験 記絵』と略記)がある。その巻十七(13)には、建仁2年正月19日(29日の誤記か)に、

又おほせらるゝ様、「解脱房をもて、同隷としたまふべし。解脱御房は不思議にあはれに候人なり、と四五度おほせられても籠居の事、我等うけず。かくと申と御物語候べし」とのたまふ。

とある。『沙石集』の記述と比較すると、明らかに『験記絵』のそれが『神現伝記』に近似していることがわかる。
 引用した箇所の翻刻を比較してみると、「解脱房をもて、同隷としたまふべし。」の波 線部を、多くは「同齢」としている(14)。18歳年少の明恵と解脱を「同齢」とするのは不審であり、意図的な格差意識が読み取れる。「同隷」は「同じ主人に隷属する仲間。同じ仲間の者。」(『岩波 古語辞典』)の意である。ここで「同じ主人」とは春日明神を指すのであろうか、すると、「信仰を同じくする者。同朋・同学。」の意であろうか。「解脱を、あなた(明恵)と同様に春日明神の信仰者となさるべきですよ。」となる。そうすると、「同齢」よりも「同隷」が相応しいことになる。
 『験記絵』の影印を見るも、いずれとも判断出来ない。
 『験記絵』詞書の成立について略述してみたい。解脱の著述が詞書の成立に深く関わっ ていたことは、先学から指摘されてきたことであり、特に、最近、五味文彦(15)近本謙介(16)両氏により詳細に検討されている。また、延暦2年3月に西園寺公衡(1264~1315)が著した『春日権現験記絵目録』がある。同目録には『験記絵』制作の意図等が記されているが、その中に、

篇目においては覚円法印注し出し、且つは両前大僧正〈慈信/範憲〉に相談しおはんぬ。

とあり、覚円を中心として、慈信・範憲を相談役として成立したとある。興福寺の高僧3人がその成立に深く関わっていたことが明記されている。加えて、解脱は南都焼討で壊滅的な被害を受けた興福寺の教義の再構築に加えて、伽藍や仏像等をも精力的に復興したとの指摘もある。(17)解脱は『験記絵』成立期においては、興福寺・春日神社に関わった最も重要な人物の一人として、尊崇され、絵巻物でも同様に描かれる資格を有していたと考えられる。先に引用した『験記絵』巻十七と『神現伝記』との関係は検討する必要があるが(補注(13))、「解脱房をもて、同隷としたまふべし。」という表現は後人により付加されたものである。前述したような状況にあった解脱と、宗派が異なり、加えて年少の明恵を「同齢」とするのは勿論であるが、「同隷」と表現していることには、単なる見落としと考えるよりも、何らかの意図を読み取るべきではなかろうか。興福寺関係者の眼が細部まで行き渡っていた作品である故に、一層、そのように思われてならないのである。

引用元;http://www.kaijyusenji.jp/gd/kiko/sentence/k34.html

 

2014年10月 7日 (火)

親鸞聖人における宿縁の意義  その六前半

水月(森本光慈)・文

  六

 親鸞以後、宿善を積極的に取り入れたのは覚如(かくにょ・1271*-1351 、親鸞の曾孫。覚恵(かくえ)の長男。浄土 真宗本願寺3世)であった。若いころ宿善をめぐって叔父にあたる唯善と論争したが、そのとき『最須敬重絵詞(さいしゅきょうじゅうえことば)』によれば、宿善必要を主張する中に、

 いま聞法能行の身となるは善知識にあへる故なり、知識にあふことは宿善開発のゆへなり、されば聞て信行せん人は宿縁を悦べし・・・往生の因とは宿世の善もならず、今生の善もならず、教法にあふことは宿善の縁にこたへ、往生をうくることは本願の力による。聖人まさしく「遇獲信心遠慶宿縁」と釈し給うへは、余流をくみながら相論にをよびがたきかと云々。

とある。宿善と宿縁を同じに用い、宿善必要の証として遠慶宿縁の文をあげている。
 ただ、後年の著作である『改邪鈔』第八条では、

 そのときおほせにいはく、世間の妻子眷属もあひしたがふべき宿縁あるほどは、別離せんとすれども捨離するにあたはず。宿縁つきぬるときは、したひむつれんとすれどもかなはず。いはんや出世の同行等侶においては、凡夫のちからをもて、したしむべきにもあらず、あひともなへといふとも縁つきぬれば疎遠になる、したしまじとすれども縁つきざるほどはあひともなふにたれり。これみな過去の因縁によることなれば、今生一世のことにあらず。

とある。これは『歎異抄』第六条と同内容の法話であり、世間の妻子眷属、出世の同行等侶が親しんだり離れたりするのは宿世の因縁によるというのである。そして、宿善のある機は善知識に親しみ、宿善のない機は悪知識に近づくといって、「宿善の有無」という語を用いた後、「一旦の我執をさきとして宿縁の有無をわすれ、わが同行ひとの同行と相論すること愚鈍のいたり、仏祖の照覧をはばからざる條、至極つたなきものか、いかん、しるべし」と結んでいる。ここでは宿善と宿縁が区別されているようである。

つづく

2014年10月 5日 (日)

親鸞聖人における宿縁の意義  その五全文

水月(森本光慈)・文

   五

 しかし、B説の宿善については仏教一般に説かれるところであり、浄土教においても小論冒頭に触れた『大経』の「往覲偈」に「若し人善本なければ此の経を聞くことを得ず」等とあり、「定善義」にも、「過去に已に曾て此の法を修習して、今重ねて聞くことを得て」等と示され、真宗における宿善論の出拠とされる。

 また、『安楽集』第一大門・発心久近(ほっしんくごん)には『涅槃経』三恒値仏の文が引用されている。これは前に述べた第二大門・料簡別時意にも引かれているが、過去において諸仏に遇い菩提心を発した多少によって、大乗経典への対応に相違のあることを説くものである。すなわち、煕連半恒河沙(きれんはんごうがしゃ)の諸仏の場合は、悪世の中で大乗経典を聞いて誹謗しないが、一恒河沙の場合はさらに愛楽が生じる。二恒河沙の場合は誹謗しないだけでなく、正解、信楽、受受、読誦する。三恒河沙の場合はさらに経巻を書写し、深義は触れないが、人のために説くことができる、というのである。そして、これを引いたのは「今日坐下にして経を聴く者、曾(むかし)已に発心して多仏を供養せることを彰せんがためなり」といい、過去に発心し多仏を供養したからこそ、今日の聞経がありえているというのである。
 親鸞はこの『涅槃経』の文を二通りに依用している。まず『唯信鈔文意』には、

  過去久遠に三恒河沙の諸仏のよにいでたまひしみもとにして自力の大菩提心をおこしき、恒沙の善根を修せしめしによりて、いま大願業力にまにあふことを得たり、他力の三信心をえたらんひとは、ゆめゆめ余の善根をそしり、余の仏聖をいやしうすることなかれとなり。

とある。過去久遠に自力の大菩提心を発し、恒沙の善根を修したことによって、いま大願業力に遇うことができたというのであるから、明らかに宿善の功を示している。
 親鸞はこの『涅槃経』の文を二通りに依用している。まず『唯信鈔文意』には、

 過去久遠に三恒河沙の諸仏のよにいでたまひしみもとにして自力の大菩提心をおこしき、恒沙の善根を修せしめしによりて、いま大願業力にまうあふことを得たり、他力の三信心をえたらんひとは、ゆめゆめ余の善根をそしり、余の仏聖をいやしうすることなかれとなり。

とある。過去久遠に自力の大菩提心を発し、恒沙の善根を修したことによって、いま大願業力に遇うことができたというのであるから、明らかに宿善の功を示している。しかし、『正像末和讃』では逆に、

 

 三恒河沙の諸仏の 出世のみもとにありしとき
 大菩提心おこせども 自力かなはで流転せり

とある。三恒河沙の諸仏に遇い大菩提心を発したが、いままでむなしく流転してきたといっている。宿善がまったく役に立たなかったというのである。同じことが『御消息集』第四通にも、

 世々生々に無量無辺の諸仏・菩薩の利益によりて、よろづの善を修行せしかども、自力にては生死をいでずありしゆへに、曠劫多生のあひだ、諸仏・菩薩の御すゝめによりて、いままうあひがたき弥陀の御ちかひにあひまいらせてさふらふ御恩をしらずして、よろづの仏・菩薩をあだにまふさんは、ふかき御恩をしらずさふらふべし。

とある。ここでも「よろづの善を修行せしかども、自力にては生死もいでず」といい、宿善が役に立たなかったと示されている。ただ、その間も諸仏・菩薩は「弥陀の御ちかひ」を勧めていたのであって、いま本願に値遇できたのは諸仏・菩薩のおかげであるから、軽んじてはいけないと誡めている。

 先ほどの『唯信鈔文意』もよく見ると、最後に「ゆめゆめ余の善根をそしり、余の仏聖をいやしうすることなかれとなり」とあり、念仏者の倫理を説いて結んでいる。過去に諸仏と遇い善を修してきたという縁があるから、余の善根や余の仏・菩薩を謗ったり卑しめることを誡めているのである。つまり倫理を説く根拠として『涅槃経』の文が用いられているのであって、とくに宿善に功あることを示そうとしたものではないのではなかろうか。

 そこで親鸞における宿善は『正像末和讃』が基本であって、「自力かなはで流転せり」「自力にては生死をいでず」とあるように、自力無功と知らせるものであり、機の深信を徹底させるものであったと考えられる。そして、それゆえにこそ他力に乗託するのであって、そこに信機・信法、二種深信であらわされるような信心が成立する。それは善を積み重ねた上に成立する信心ではなく、善を積み上げようとする自力を捨てたところに成立する信心である。その自力を捨てさせるために宿善があるのであって、まったく如来の調育といえる。従来、宿善が当相自力・体他力であるといわれるのはそれである。宿善は、やっている本人は自分がやっていると思っているが、獲信後、振り返ってみれば、まったく如来の調育であったと気付かされるものである。こうして親鸞もまた、特殊な形ではあるけれども、宿善を認めているのである。

▼かささぎことば抄;

まうあふ

もう‐あ・う[まうあふ]【参逢・値・遇】(「まいあう」の変化した語) 逢は、出逢う、その時節 に逢う。値は、チョクと読むときは真っ直ぐにあたることで、チと読むときは、値(あ)う、 あたる、あたいするなどの意でぴったり出値い、いきあたること。

 

当相自力・体他力

「自力を捨てさせるためには、自分が自力の修行に耐えられないものであるということを思い知らせなくてはなりません。そのためには、厳しい自力の修行をさせてみることが一番ですから、第十九願と、それを広げて説かれた『観経』にはさまざまな自力の修行が説かれているというのです。実際に教えの通りに修行を始めてみると、煩悩は余りにも強く、修行能力は余りにも弱すぎて、自分の力無さを思い知らされ、本願他力にまかせる以外にさとりに至る道のない身であったことに気づきます。こうして自力の行を以て自力を捨てさせるための教育が為されてきたのでした。それが宿善の内容だったのです。宿善は、行っている当人は自分の力で修行し向上していると思っていますが、まことは阿弥陀如来の大悲智慧の調育の働きが私を育て、自分の愚悪さを思い知らせてくれていたのです。それに気づくことが他力を信知することだったのです。そのことを先哲は、”宿善の当相は自力であるが、その体は他力である”といわれています。 」(http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E5%8F%A3%E4%BC%9D%E9%88%94

▼かささぎのさとりのなさについて

ここ、途中まで写して、どうにも筆がすすまなくなって、放り出しておったのですが、その理由をさらっと書きますと、

前世のことを持ち出されては、お手上げになる。
宿善という言葉には、過去世があって、そこで善をつんだという意味があります。
かささぎは善も積んだかもしれませんが、それよか悪を積んだんじゃないかと。
いろいろおもっていると、つらくなってしまって、やりきれないおもいです。

で、ねっとできょろきょろしていると、似た思いをつづったブログ発見。

http://kazoku.sub.jp/hongwanji/cont/file03b.htm

むむむ。だれもこの人にこたえてあげないのだ。
それが仏教の世界なのですね。
それがこたえになるのですね。

わかりやすい漫画もあるみたいよ。http://kazoku.sub.jp/hongwanji/48kousen/index.htm
なんかしらないけど、いま、仏教界って大変なんですかねえ。水月さん。

わたしは葬式仏教しかしらなかったなあ。
水月さんに行空によって、であうまでは。

2014年9月29日 (月)

親鸞聖人における宿縁の意義  その五の前半

水月(森本光慈)・文

   五

 しかし、B説の宿善については仏教一般に説かれるところであり、浄土教においても小論冒頭に触れた『大経』の「往覲偈」に「若し人善本なければ此の経を聞くことを得ず」等とあり、「定善義」にも、「過去に已に曾て此の法を修習して、今重ねて聞くことを得て」等と示され、真宗における宿善論の出拠とされる。

 また、『安楽集』第一大門・発心久近には『涅槃経』三恒値仏の文が引用されている。これは前に述べた第二大門・料簡別時意にも引かれているが、過去において諸仏に遇い菩提心を発した多少によって、大乗経典への対応に相違のあることを説くものである。すなわち、煕連半恒河沙の諸仏の場合は、悪世の中で大乗経典を聞いて誹謗しないが、一恒河沙の場合はさらに愛楽が生じる。二恒河沙の場合は誹謗しないだけでなく、正解、信楽、受受、読誦する。三恒河沙の場合はさらに経巻を書写し、深義は触れないが、人のために説くことができる、というのである。そして、これを引いたのは「今日坐下にして経を聴く者、曾(むかし)已に発心して多仏を供養せることを彰せんがためなり」といい、過去に発心し多仏を供養したからこそ、今日の聞経がありえているというのである。
 親鸞はこの『涅槃経』の文を二通りに依用している。まず『唯信鈔文意』には、

  過去久遠に三恒河沙の諸仏のよにいでたまひしみもとにして自力の大菩提心をおこしき、恒沙の善根を修せしめしによりて、いま大願業力にまにあふことを得たり、他力の三信心をえたらんひとは、ゆめゆめ余の善根をそしり、余の仏聖をいやしうすることなかれとなり。

とある。過去久遠に自力の大菩提心を発し、恒沙の善根を修したことによって、いま大願業力に遇うことができたというのであるから、明らかに宿善の功を示している。

つづく

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