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2012年10月26日 (金)

秘密基地があった場所は

秘密基地があった場所は

富有柿の木のむこうは昔、何もないところで、山ノ井用水が流れていて、その小川が一段広くなって池みたいになっていた。(今や狭い水管のはしる溝になってしまったが)
柿の木を西へ少し歩くと、わが家のたんぼは切れますが、切れるあたりには当時竹やぶがあって、そこへ降りると水かさが少ないときはたなごころみたいなちょっとしたジャングルになってうっそうとして、秘密基地にはぴったりだった。
最近母と話をしていて知ったのは、そのようになぜ地形がなっていたかの理由。
農業に関連する。
つちごえ、というものを作るために、川に段差をつけて、せきとめて、水がたまるようにし、ということは泥砂もため、その泥砂を掬っては竹のある空き地に積み、干した。それを運んでいろんなものの排泄物とあわせて発酵させ、土肥(つちごえ)を作ったそうなんです。

それが四十年以上前の日本の普通の姿だった。
なんだか、じいん。
なつかしくてなつかしくて。

花芒古地図に残す野溜め跡   かささぎ

ところで。のだめは肥溜めとして使いましたが、通用するだろうか?
と思って検索すると、わたしのブログが一番にヒットするではないか。
光栄というかなんというかなあ。
高橋甲四郎先生のお父上にからむ記事を書いていました。

ここです。http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_dadf.html

2008年2月19日 (火)

はだか麦

昭和三十年代の昔、わが家でふだんにふんだんに食べていた麦ご飯(白ご飯が食べたかったのに)にはいってたのは、はだか麦だったそうです。昨日母に尋ねました。裸麦。これで、小麦、大麦、裸麦と出てきたことになりますね。でも違いはよくわかりませんよね。

お寺での輪になっての会議で、たまたま隣に座ってらした方は県職員だった方で、農業土木の技術屋さんでした。定年でしばらく民間の会社につとめ、今は世話役がいろいろ回ってきてるフリーといわれた。で、話を伺ってたら、いとこの夫とか近所の親戚の親戚と同僚だったことがわかり、これが縁のめぐりだとおもった。

農業土木ということばは、日本にしかないと、以前、司馬遼太郎の街道を往くで読んだ記憶があります。そういう地と密着した農耕の技術は長く地に住み着いて苦労したなかからしか生まれない。それ、『朝鮮全土を歩いた日本人ー農学者・高橋昇の生涯』 にも出てきます。高橋昇博士が生涯の運命の地、沙里院へ渡って、初めての上司から教えられることに、それがあった。七十年も前の話です。こんなかんじです。

「いまの日本政府は西洋を手本としてあおぎまくっているが、朝鮮農業を実際みていると、あっとおどろく優れた工夫がなされている。二年三期作だ。いろんな作物を同じ畝で高低の段差をつけて、時機を微妙にずらして、みごとに合理的に作っている。おしえられるよ。」・・というものでした。ものは現地に学べ、ということですよね。

はだか麦とは:

http://www.glip.co.jp/mochimugi/mugi/hadaka/hadaka.html

http://ss.skk.affrc.go.jp/labo/kirenn/shiryoka/kenkyuseika/kenkyu%2017.htm

河田宏著「朝鮮全土を歩いた日本人 農学者・高橋昇の生涯」

表紙写真付き本の紹介:http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31998507

塩川慶子さんによるご紹介:

http://www.ohmynews.co.jp/news/20080205/20602

2008年2月14日 (木)

一枚の写真から

『朝鮮全土を歩いた日本人  農学者・高橋昇の生涯』 の裏表紙に、年端もいかぬ二人の少女(姉妹だそうです)が藁をしょって石垣の道を歩いている印象的な写真が使われています。それが気になって気になって、とうとう甲四郎先生に尋ねたところ、先生が返信を下さいました。以下全文引用いたします。

  
   高橋甲四郎です。

今朝から、

黒木町

のお寺(専勝寺)に行ってきました。

 お寺を出たら、雪が鉛色の天から、ひっきりなしに落ちて来ていました。

私は心の中で「バンザイ」を叫びたくなりました。

 日本は、雪が降らないと、どんなに寒くても「冬」の情感が

湧きません。

さて、あの本の裏表紙に載ってる高橋昇博士撮影とおぼしき

写真の、二人の少女がせおっているのは、

あれはなんの藁でしょうね。

麦藁とはちがうように感じられました。

でも、夏のようですし。

 この2姉妹の写真は、人の目を引くのでしょうか、今までの

亡父遺稿の学術書には大抵表紙などに利用されています。

 大阪経済大学の徳永光俊教授他2名(1名は私)で編集した下記の写真集の

解説で、あなたのご質問にお答えいたします。

【写真でみる朝鮮半島の農法と農民】

 この写真集にも同じ2姉妹の写真が掲載されていて、その下に

次のような解説が付されています。

  「大麦の束を背負って運ぶ少女」

           済州市禾北洞(193662日)

姉妹と思われる少女は、現在では使われていない筵を脊中に当てて、

大麦の束を運んでいる途中である。済州島は物を頭にのせて運ぶ風習

がない島である。少女たちも、荷物を背負って運んでいる。

金浄(14861521)は、そんな姿を見て不思議に思い、

「負而不載」と「済州風土記」に記している。

 以上でお分かりのように、背負っているのは、「大麦の束」です。

農業の専門家が解説していますので、間違いはありません。

 なお、解説に書いてありますように、朝鮮人の女性は、

物を運ぶとき、みんな頭にのせて運びます。だから、朝鮮人で

腰の曲がったお婆さんはあまり見かけません。

 しかし、この済州島だけは、頭に載せません。だから、写真を見ただけで

「ああ、ここは済州島だな」ということが分るそうです。また、ここは

台風などで、風を真っ向からから受けるので、ご覧のように、石垣塀

です。

 この済州島は、1274年と1281年の2度の「元寇」のとき、(当時神風と称

されていた)猛烈な台風のために、退却していった「元(ゲン)」の軍隊が

この済州島にたどり着いて、その子孫が住みつき、朝鮮本土とは異なった

風俗習慣が継承されているという説があります。またこの島では、現在も

小柄な蒙古馬使用されています。

 最後に、上記「写真でみる朝鮮半島の農法と農民」は、ヤフーで

「検索」出来ます。ただし、「写真で見る・・・」としてはダメです。

「写真でみる・・・」で検索してください。

 以上で、終わります。

甲四郎先生、ありがとうございました。
よくわかりました。麦藁が肌にあたるとチクチクしました。はしかになったときみたいにきもちがわるかった。だから、この写真の小さな筵ごしに藁をしょってる少女をみると、さりげない気遣いながら、親御さんの「こうすると大丈夫だよ」という声かけが聞えてくるようで、懐かしさと郷愁と同志愛がわいてきます。
それと、どうして自分の知っている麦と違うと感じたのかも、わかりました。それは大麦だったからですね。私たちが知っているのは、小麦でしたので、どことなく様子がちがいます。
下をクリックすると、写真も見れます。詳しく見たい方は本をお求め下さいますよう。↓

2008年2月10日 (日)

一俵の重さと筑後の農民

河田宏(かわた・ひろし)の『朝鮮全土を歩いた日本人ー農学者・高橋昇の生涯』 。非常におもしろい。日本が朝鮮にどういうことをやってきたのかを始め、知らなかったさまざまなことが次々に明らかにされ、そうだったのかと恥じ入るばかりである。

たとえば、高橋昇博士はわが家の亡き祖母とほぼ同年代だが、その明治生まれの日本人がどういう教育を受けたのかを、これまではっきりとは知らなかった。尋常小学校という名の学校があったのは知っているが、そこで、小学三年ころに農作業をならったとは知らなかった。

でも、待てよ。

今でも小学校四年生で、必ず田植えの実習があっているよね。少なくとも八女市の小学校では、実習田というか学童田というのがちゃんと農協青年部の管理で確保されているものね。

年金がある今だからこそ、オヤは米が売れなくてお金が入らなくても一向に平気な顔をしているが、ここまでくるのにどれだけの苦労をしてきたことだろう。一年中、ずっと休みなく馬車馬のように働いていたのを私は知っている。(そういえば、馬車馬のように、という例えは、ヤメリカンピーポーのみに通じることばかもしれない。馬による農耕は筑後地方でことに盛んであった、と河田の本にあった。)

ところで。

一つ、規格が昔とちがっていることを思いついたから、書いておきたい。
それは米一俵の重さである。
河田の本にも、朝鮮の農民は二俵(120キロ相当)をチゲ(背負子)に載せて軽々と運ぶ・・と書かれていたし、常識では、こめ一俵とは六十キロなんだろう。でも、農業の現場では、だいぶ前から一俵は三十キロになっている。


その意味を、どうか想像してみて下さい。

2008年2月 3日 (日)

朝鮮全土を歩いた日本人

日本評論社から『朝鮮全土を歩いた日本人ー農学者・高橋昇の生涯』 (河田宏著)が出版された。

かささぎの旗では高橋昇博士のことを以前少々ご紹介していたご縁があり、著者の河田氏より一冊を贈呈された。折りしも中国からの食品に農薬が入っていて犠牲者が発生した事件により日本中が激震しているこの時機、国の「体」をなす農業とはなにか、農作物を作る農民はどんな苦労をするのかを知るためにも、ひろく読まれて欲しい一冊である。

植民地時代、朝鮮の農法は遅れたものとされ、日本農法を押しつけられた。それに反対した農学者がいた。総督府農業試験場西鮮支場長・高橋昇である。彼は朝鮮全土を調査して歩き、膨大な資料を残した。そこには、朝鮮のきびしい風土に対応した驚嘆すべき農法があった。(帯文)

オモテ表紙にはむかしの木造の小学校みたいなかの地の農場試験場の建物の前で、帽子を手にロングコート姿の壮年の博士が笑みを浮かべて立っている写真が掲げられているが、博士の左肩のうしろあたり、背景の建物の壁に埋め込まれた日の丸が、大日本帝国時代の雰囲気を雄弁に物語っている。

ウラ表紙には、十歳未満の朝鮮の少女がふたり、背中に麦藁束*をしょって、石垣の坂道を下っている写真が取られている。博士の写真も少女の写真も、人物の影がくっきり地面に落ちているのが印象的だ。

以下に目次と著者を紹介しておきたい。

第一章 筑後の山河
第二章 境涯の地へ
第三章 欧米視察旅行
第四章 黄海道沙里院
第五章 農業実態調査
第六章 日本の敗戦と朝鮮の孤立
第七章 『朝鮮半島の農法と農民』 の出版

著者略歴

河田 宏(かわだ ひろし)

1931年東京生まれ。
早稲田大学文学部社会学科中退。以後、日本近現代史、軍事史を中心に著述。
著書:『日本人の攻撃性』(共著、三一書房)、『明治四十三年の転轍』(社会思想社)、『第一次大戦と水野博徳』(三一書房)、『満州建国大学物語』(原書房)、『内なる祖国』(原書房)

『朝鮮全土を歩いた日本人ー農学者・高橋昇の生涯』
  2007年12月20日初刷本より引用

*麦藁と書きましたが、どうもいま一つ自信がありません。ほかに考えられるのは高粱の藁。見たことがないのです。調べると、こうりゃんのわらって、家の材料になるようなものらしい。ではちがうのか。http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00486665&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00486665

かささぎの旗『農学者高橋昇』の第一回http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_09fb.html

表紙写真付き本の紹介:http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31998507

参照:http://medakadaigaku.hp.infoseek.co.jp/kimurakouza01.htm
   http://www.ihatov.cc/blog/archives/2006/02/post_350.htm

2007年6月25日 (月)

虹の足

机まわりを片づけていたら、むすこのプリント類が大量に崩れ落ちてきた。捨てようと確認していると、二枚のプリントに目を奪われる。

図書便り。高橋甲四郎著『バルビゾンの道』が紹介されているではないか。いわく、著者の高橋先生はこの学校でも数学の先生として赴任されてました。この本は先生の日ごろの考えと息遣いが伝わるすぐれた本です。みんなのお父さんやお母さんにもたくさん甲四郎先生に習った人たちがおられることでしょう・・。と、そんなふうに紹介されていた。たちまち甲四郎先生のおかおと、毎朝お散歩されている道とがいっぺんにこころに浮かんできた。

 バルビゾンの道まみどりに朝焼けて  

矢部川沿いの道、バルビゾンの道。その道をてくてく歩いていかれる先生のお姿。みどりという先生のおくさまのお名前。山本健吉の母上と同じ名。翠と緑はどう違うのかな。きっとかささぎの風切羽の色みたいに微妙に違うのだろう。そんなことをいろいろと思わせるバルビゾンの道。

図書便りには、もう一冊、社会科学の大家の翻訳書もとりあげてあります。

『評伝 ウイットフォーゲル』 

G.L.ウルマン著・亀井兎夢・監訳(協訳・堤 静雄)

この協訳の堤先生は学校の数学の先生だそうです。その先生が翻訳のきっかけをこう語られています。

 世界で最も早く発展したのは、黄河文明・インダス文明・メソポタミア文明・エジプト文明だと、子供の頃に習いました。しかし、それらの地域はいずれも今は文明の先進地域ではありません。私は、そのことが不思議でなりませんでした。
 高校や大学の歴史の授業でも、その理由を習いませんでした。ところが歴史を勉強していて、世界史の比較研究をしているウイットフォーゲルという学者が、その理由を明らかにしていることを知りました。
 しかし、学界では彼の研究は認められず、伝記があるのに、それを日本語に翻訳する人もいないのでした。
 そこで、仲間とともに4人で伝記を翻訳することにしました。翻訳は予想をはるかに越える難しさで、困難を極めましたが、4年半もかかってやっと出版できました。この本が「図書新聞」で高く評価されたときは、翻訳の疲れも飛ぶ思いでした。長年の疑問を解決してくれた学者の伝記を翻訳できたとは何という運命でしょう。(堤 静雄)

私の目を引いた、もう一枚のプリントは、国語のテスト問題である。教師の手作り風の。その手書きプリントに使われていたのは、吉野弘の詩「虹の足」であった。すばらしい詩です。漫画「蟲師」にもよく使われる虹を思わせ、森本太郎の詞「青い鳥」も思わせ。これも引用するはずが、時間がありません。弁当をつめないといけない。あした、続きを引用します。

2007年4月10日 (火)

父と子とー高橋甲四郎、その8

 今回の出版に対して、大きな推進力となっていただいたのは京都大学名誉教授の飯沼二郎先生である。1990年(平成2年)に、未來社の田口英治さんとお2人で拙宅においでになり、父の遺稿をご覧になって以来今日までに、御高齢にもかかわらず、御多忙の中、8年間という長い間、校正に編集に、そして助成金の申請に、数々の御尽力を惜しみなく賜ったことに対して衷心より厚く御礼を申し上げたい。飯沼先生はまさに「伯楽」である。父の調査資料を高く評価していただき、また先生のあたたかい人道的な御配慮によって父の遺稿が日の目を見るようになったのである。

 さらに、この飯沼二郎先生への橋渡しをしていただいた未來社、そしてこれが果して活字になるだろうかと懸念されるような乱雑な父の走り書きの原稿を、1つ1つ活字に組めるように修正しつつ出版まで漕ぎつけていただいた未來社の田口英治さん、面倒な長文の解説をこころよく御引きうけ頂いた東京大学東洋文化研究所教授の宮嶋博史先生、朝鮮半島の詳細な地図(5万分の1)を長い間お貸しいただき、校正の便宜をはかっていただいた久留米大学教授の桜井浩先生、そして、この桜井浩先生を紹介して下さった元九州農業試験場長の向居彰夫氏、また、この「あとがき」全文について懇切丁寧な御助言を賜った九州大谷短期大学助教授で国文学科専攻の安保博史(あぼひろし)先生などに対しても、心より感謝の意を表したい。なお、韓国文化研究振興財団からは1990年に第1回の出版助成金として100万円を交付された。また文部省からも1997年度の出版助成金を交付された。感謝の意を表する。
 そしてさらに、この書物はいまは故人となられた方方の善意の結集がまた今回の出版を可能にしたものと思われる。
 遺稿の中に実名で記録され、朝鮮半島の伝統農業のあり方を指し示されている朝鮮農民の方方、最後まで父の遺稿を出版されようと努められ、こころざし半ばにして故人となられた落合秀男さん、さらには、この困難な出版を採算を度外視して引き受けながら、完成を待たずに逝去された未來社の前社長故西谷能雄氏、また、父の遺稿を詰め込んだ重いリュックサックを、朝鮮から苦労してただ一人で背負って来られた故木下栄さん、そして父昇。
 本書は、これらの人人への「鎮魂の書」ともいうべきものであろう。

 何時だったか妻が、
「あなたは、お父さんの遺稿出版のためにこの世に生まれて来たようなものですね。」
 と言ったことがある。
 そうかも知れない。そうでないかも知れない。しかし、多年の念願であった父の遺稿が公刊されることによって、私は今まで背負っていた大きな荷物を降ろしたような気持で、気分が軽くなったことは事実である。
 そして今から51年前、沢山言い残して置きたかったであろうけれども、ひとことも言い得ずに、無念の思いを込めて突如として遠いあの世に逝った父のもとへ、今なら大手を振って逝くことが出来るような気がする。
 もしそこへ逝ったなら、私は、父が生前言いたかったこと、訴えたかったことに耳を傾けて、一部始終を聞いてやろうと思っている。

 最後に、頭(こうべ)を垂れ、つつしみて腹の底から叫びたい。
 この遺稿出版に携わられた方方、長い間本当に、本当にありがとうございました。

参考:

父:高橋 昇 略歴

1892年(明治25年)12月23日 福岡県八女郡上妻村津ノ江にて梯(かけはし)岩次郎の次男として出生

1907年(明治40年)3月 福岡県八女郡津ノ江上妻尋常小学校卒業

1912年(明治45年)3月 福岡県久留米市明善中学校卒業

1915年(大正4年)3月 鹿児島県鹿児島市第七高等学校卒業

1917年(大正6年) 福岡県八女郡黒木町の高橋家の養子となり、姓を「高橋」と改める

1918年(大正7年)3月 東京帝国大学農学部農学科卒業

同年(大正7年)4月 東京小麦ヶ原試験場に奉職

1919年(大正8年)4月 朝鮮総督府農事試験場水原本場に奉職

1926年(大正15年)3月 農事研究のため欧米各国に視察出張する

同年(昭和3年)6月 欧米視察出張より帰国する

1934年(昭和9年) 稲の育種・遺伝の研究により農学博士の学位を授与される

1944年(昭和19年) 農事試験研究機関の整備統合にともない水原本場にもどり、総務部長となる

1945年(昭和20年)8月 敗戦により残務整理のため、朝鮮に残留する

1946年(昭和21年)5月 朝鮮より郷里八女市に引き揚げる

同年(昭和21年)7月20日 上記郷里にて死去、享年55歳

主な著書

朝鮮主要農作物の品種名について(1933年)
朝鮮農具考(1937年)
(以上の2冊は韓国京畿道水原邑の
中央農業試験場図書館に保管されている。)

その他の主な(未発表分を含む)遺稿

犂に関する研究・・・・・254枚 
稲作の歴史的発展過程(Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ)・・761枚
耒耜考・・・・・・78枚
労力調査・・・・・167枚
労力(主として挿秧)調査・・・・65枚
その他多数・・・・・・・・(約3000枚)

子: 高橋甲四郎 

1925年(大正14年)5月2日 朝鮮京畿道水原邑にて高橋昇の長男として出生

1938年(昭和13年)3月 朝鮮黄海道沙里院尋常高等小学校卒業

1943年(昭和18年)3月 朝鮮黄海道州西公立中学校卒業

1947年(昭和22年)3月 福岡県戸畑市 明治工業専門学校機械工学科卒業

1947年(昭和22年)4月以降は、福岡県、佐賀県の公立中学校、県立高等学校にて数学科を担当し、

1986年(昭和61年)3月 福岡県立八女高等学校を最後に定年退職する 

1986年(昭和61年)4月  福岡県立八女高等学校講師

1987年(昭和62年)3月  私立八女学院高等学校講師となり現在に至る。(その間、国立久留米工業高等学校講師などを歴任する)。

以上は本書刊行1998年2月現在のものである。(姫野註)

『高橋昇 朝鮮半島の農法と農民』の「あとがき」より。
    
飯沼二郎・高橋甲四郎・宮嶋博史編集
               1998
2月、未來社刊

 

 

2007年4月 9日 (月)

父と子とー高橋甲四郎、その7

(きのうのつづきです。)

 またある日、父と一緒に旅行した。ある駅の構内で急にトイレに行きたくなった。父に
「便所(当時トイレという言葉はなかった)はどこ?」
 と尋ねたが、父は
「眼と、耳と、口は何のために付いているか!」と一喝された。自分で探せ、ということである。私は駅の構内を歩いている人々に尋ねてまわり、「便所」と書いてある標識を探し出して、やっと用を足したのである。

 父は乗馬が好きでよく遠乗りすることがあった。
 その日は秋晴れの気候のよい日曜日であった。父と雇人と私は2匹の馬にまたがり、当時小学生だった私は、まだ青年のような若い雇人の前にちょこんとまたがって近くの山に行った。その帰りのことだった。町から4キロ程離れた所まできたとき、父は私の背後に乗馬している雇人に、
 「君だけちょっとおりてくれないか。」
と言って私一人を馬の鞍の上に残させた。そして父は何を思ったか、持っていた鞭(むち)でいきなり馬の尻を力一杯たたいたものだからたまらない。馬は驚いて跳び上り、私一人を鞍の上に乗せたまま一目散に駆け出したのである。私は恐ろしさのあまり、鞍の上にしがみついて生きた心地はしなかった。馬は4キロ離れた役所(農事試験場)の自分の馬小屋にはいり、
 「ヒヒーン」
といなないたのである。その時の恐ろしかったこと、しかしこのことで度胸がつき、それからは一人で乗馬することにそんなに抵抗感はなくなったのである。

 万事がこの調子であった。あとで考えてみると、将来私が一人で生きてゆくための指針を与えていたのであろうか。今でいう「自立」というものを植えつけようとしたのであろう。
 
 次に父の健康について少しばかり触れておきたい。
 父の40歳代の後半ではなかったかと思う。1度マラリアに冒されて発熱し、その治療薬としてキニーネを服用していたことがある。そのためか、今度は胃腸がやられてしまった。しかし父は、もともと頑丈な体軀(たいく)の持主であったので何とか持ちこたえていたが、次第に弱っていったのを気力で維持していたのであろう。とうとう50歳の頃胃潰瘍(いかいよう)となり、最後の手段として、
 「断食をやろう」

と決心し、何日間か断食道場にはいり、やせこけて出て来た。しかし本人はすこぶる機嫌がよく、快活であった。
 「これで身体が軽くなった。長年の宿便が出てしまって、身も心も洗われたように軽くなった。

と至極満足そうであった。
 その頃であったと思う。当時の朝鮮帽子(カッ)を被り、朝鮮の白い民族衣装(チョゴリとパジ)を着て、アポジ風よろしく、断食道場で伸ばしたあごの山羊髭を右手でふさふさと撫でながら、写真を撮らせたりなどして得意だったようである。

 当時中学生だった私が休暇で帰省すると、
 「どうだ、似合うか。」
とポーズをとったりしていたことを覚えている。断食は予後の養生が大切であるといわれているが、父は相変わらずの多忙のため、健康は完全には回復していなかったようである。
 この頃から戦争は末期症状を呈してきたため、北九州の学校に在学していた私は、以前のように玄界灘を往復して朝鮮に渡ることが困難となり、その
後の父の健康状態がどのように推移していったかは知る由もない。
 ただ、敗戦の翌年五月に、リュックサック1つを背負い(これが当時の引揚者のスタイルであった)、着のみ着のままで、両手に少しばかりの荷物を下げて、郷里の叔母の家に引き揚げてきたときは、びっくりするようにやつれて気落ちしていたと叔母たちは言っていた。

『高橋昇 朝鮮半島の農法と農民』の「あとがき」より。
    
飯沼二郎・高橋甲四郎・宮嶋博史編集
               1998
2月、未來社刊

 

2007年4月 8日 (日)

父と子とー高橋甲四郎、その6

 この「あとがき」を書くに際して、この膨大な調査資料を父がどのようにして記録していたか書いて欲しいと未來社から話があったが、その当時私は小学生や中学生の頃であり、とても父の仕事を理解できる年頃ではなかった。ただ当時の父は出張する事が多くて自宅に居る日が少なく、したがって父と会話できることも稀であった。時たま家に居る時でも、食事をしている時でさえ、何事かを考え考えして食べており、私が話しかけても生返事をしたり、ピント外れの返事をすることが多かった。
 私が黄海道の海州邑にある旧制中学校に入学して下宿生活をしている時、父がときたま海州に出張すると、必ずといっていい程電話で、
 「出張で海州に来たので、こちら(よく南山ホテルという所に宿泊していた)まで出てこないか」と言われ、その南山ホテルまで会いにゆくと、決まって八畳位の部屋の中央に置かれているテーブルの前に胡坐を書いて、原稿用紙を拡げ、しきりにペンを走らせている姿に出会ったものである。そして自分が来意を告げると、眼鏡越しに振り返り、
 「おう、元気か」
とひとこと言ったきり、再び原稿用紙に向って1分でも2分でも惜しむようにペンを走らせるのだった。
 私は取り付く島もなく、原稿が一段落するまでそばでじっと待っておらねばならなかった。しかしなかなか終らないのが普通であった。それでも私は父のそばに居るだけで、何となく大きな安堵感に浸ることが出来たのである。中学校が夏休みとなり、私が沙里院の自宅(官舎)に帰ってきても、蚊帳の中に机を入れて、先のように原稿に向っている父のすがたを見かけることが多かった。
 
 また、出張のときは何時も藁半紙の粗末な雑記帳(今は市販されていないが、当時は小学校などで書き取り帳に使用されていた)を2、3冊ポケットに忍ばせ、何かあるとその雑記帳に鉛筆で走り書きをしていたようである。今回の実態調査も、この雑記帳に書いたものをその日のうちに宿に帰って転写、整理したのではないだろうか。
 今回及ばずながら、校正(といっても印刷されたものを父の原稿と照合するだけの仕事)の手伝いをすることになり、実態調査の校正印刷物が未來社から私の所に送付されて来るものを読むたびに、出張のためにほとんど自宅を留守にしていた父が、外で行っていた調査研究にただただ眼を見張る思いをした。
 しかし、編集委員の一人として手伝わせていただいた校正作業は、時間的にも精神的にも、不慣れな私にとってはとても困難なことであった。そのため飯沼先生にも多大な御迷惑をお掛けしたことを、あらためておわびしたい。ただ、今から50~60年前、父が朝鮮半島全土に足跡を残しながら、日記風に書いていた調査記録を、一字一句懐かしい筆跡をたどりながら校正していくとき、父の息遣いを肌身に感じ、現実に父がそこによみがえっているような錯覚に陥り、苦しくもあったが反面楽しくもあった。 

 さて、父が実態調査に没頭していた時代は、私はまだ幼く、今回の実態調査の詳細は、当時の私にはとても知る由もないが、家庭における父の、とくに私との思い出を2,3記しておきたい。

 摂氏零下20度を下まわる北朝鮮の厳冬のある夜、あたたかい温突(おんどる)の部屋の片隅に置いてあった四角い木の火鉢の中央で、炭火が赫赫と熾っていた。夜は深深と更けていた。外では雪が静かに舞い降りていたかもしれない。よく見るとその炭火は、あたかも生き物が息を吐き出し、吸い込んでいるかのように実に規則正しく、赤くなったり黒くなったりしているのである。父は両手を前にかざして炭火に当りながら、何事かじっと考え事をしていた。私は火鉢をはさんで父と向い合い、じっと炭火を見詰めていた。
 
 すると突然父はこう言いだした。
 「ほら、見ろよ、炭火が赤くなったり暗くなったりしているが、なぜだか分るか。」
 当時小学生だった私は、現代のように理科の授業が進んでいなかったので、その理由は分らなかった。しかし、父は
 「考えてみろ。」
と言ったきり、とうとうその訳を教えてはくれなかった。
 父はよく本屋に立ち寄る癖があった。そのようなとき、小学生の頃の私はよく父のあとについて行ったものだった。

 ある日、京城(いまのソウル)の大きな書店にはいり、本棚を熱心に見てまわっていた。少し離れた所で、青い目の外国人が、これも同じ並びの本棚から本を探索しているのが目についた。当時外国人は珍しかったのである。私は何気なくそちらの方を指差して、
 「あそこに外国人が・・・」
と父の方を振り返って話しかけたとき、父は急に険しい顔になって、指差している私の手を打ち払い、
 「他人をみだりに指差すものでない!」
と強くたしなめられたことを覚えている。

 (つづく。)

『高橋昇 朝鮮半島の農法と農民』の「あとがき」より。
    
飯沼二郎・高橋甲四郎・宮嶋博史編集
               1998
2月、未來社刊

2007年4月 7日 (土)

父と子とー高橋甲四郎、その5

(きのうのつづきです。)

 さて、話は前に戻るが、私の手元にあった父のすべての遺稿を落合さん宛に発送した年、すなわち昭和41年(1966年)、折り返しこれらの遺稿のすべてにわたり、項目別に分類整理された詳細な資料目録が落合秀男さんから私のもとに送られてきたのである。
 その後、落合さんとは再々手紙で連絡をとり、遺稿の進捗状況をお尋ねしていたが、落合さんもなかなかお忙しい御様子で、遺稿の発刊は遅々として進まなかった。
 このようにしてさらに20年の歳月が流れたのである。
 そのうちに落合さんは胸を患われ、大変苦しそうであった。そして1989年(平成元年)5月16日に落合さんが肺炎のために逝去されたという電話連絡を、そのつきの19日昼頃落合さんの姪御様といわれる方からいただいた。
私はひとまず、その年の5月26日午後2時から東京都中目黒区の実相会館で挙行された、落合秀男さんの告別式に参列した。そして夏休みの8月17日、私はいままで落合秀男さんに預けていたすべての父の遺稿を受けとるべく、落合さん宅を訪問した。勿論、20年前に私宛に落合秀男さんから送っていただいた落合さん直筆の詳細な遺稿目録を持参して行ったのは言うまでもない。落合さん宅には、落合秀男さんの晩年に、遺稿の清書や編集に協力されていた故山口文吉氏(1994年、平成6年、1月19日に逝去。享年81歳)や、南侃氏(もと鯉渕学園の副学園長)、それに落合秀男さんの奥様および姪御様などが待っておられた。これらの方々のご協力により、私が持参した遺稿目録に従って、夜遅くまでかかって原稿、写真、地図、書物など逐一点検し、一枚の原稿の漏れもなく、一葉の写真の散逸もなく目録と照合し終り、後日荷送していただくことを約して落合家を辞した。

 数日後、ダンボール箱6個に詰められた父の遺稿、写真、地図などのすべてが送り返されて来た。中を開いて見ると、各項目別に記号、番号によって整然と分類されているだけでなく、落合秀男さんが知人に筆耕を依頼して、遺稿原稿を清書させていられた転写原稿まで一緒に送られてきたのである。

 その翌年、つまり1990年(平成2年)5月15日、福岡県八女市の拙宅に、京都大学名誉教授の飯沼二郎先生と、未來社の田口英治さんが遺稿調査にいらっしゃった。そして翌16日より拙宅において本格的な調査が始まったのである。

 ちょうど今から1年前のこの5月16日という同じ日に落合秀男さんがお亡くなりになったことを思うと、まことに不思議なことである。

『高橋昇 朝鮮半島の農法と農民』の「あとがき」より。
   
飯沼二郎・高橋甲四郎・宮嶋博史編集
               1998
2月、未來社刊

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