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2008年2月19日 (火)

はだか麦

昭和三十年代の昔、わが家でふだんにふんだんに食べていた麦ご飯(白ご飯が食べたかったのに)にはいってたのは、はだか麦だったそうです。昨日母に尋ねました。裸麦。これで、小麦、大麦、裸麦と出てきたことになりますね。でも違いはよくわかりませんよね。

お寺での輪になっての会議で、たまたま隣に座ってらした方は県職員だった方で、農業土木の技術屋さんでした。定年でしばらく民間の会社につとめ、今は世話役がいろいろ回ってきてるフリーといわれた。で、話を伺ってたら、いとこの夫とか近所の親戚の親戚と同僚だったことがわかり、これが縁のめぐりだとおもった。

農業土木ということばは、日本にしかないと、以前、司馬遼太郎の街道を往くで読んだ記憶があります。そういう地と密着した農耕の技術は長く地に住み着いて苦労したなかからしか生まれない。それ、『朝鮮全土を歩いた日本人ー農学者・高橋昇の生涯』 にも出てきます。高橋昇博士が生涯の運命の地、沙里院へ渡って、初めての上司から教えられることに、それがあった。七十年も前の話です。こんなかんじです。

「いまの日本政府は西洋を手本としてあおぎまくっているが、朝鮮農業を実際みていると、あっとおどろく優れた工夫がなされている。二年三期作だ。いろんな作物を同じ畝で高低の段差をつけて、時機を微妙にずらして、みごとに合理的に作っている。おしえられるよ。」・・というものでした。ものは現地に学べ、ということですよね。

はだか麦とは:

http://www.glip.co.jp/mochimugi/mugi/hadaka/hadaka.html

http://ss.skk.affrc.go.jp/labo/kirenn/shiryoka/kenkyuseika/kenkyu%2017.htm

河田宏著「朝鮮全土を歩いた日本人 農学者・高橋昇の生涯」

表紙写真付き本の紹介:http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31998507

塩川慶子さんによるご紹介:

http://www.ohmynews.co.jp/news/20080205/20602

2008年2月14日 (木)

一枚の写真から

『朝鮮全土を歩いた日本人  農学者・高橋昇の生涯』 の裏表紙に、年端もいかぬ二人の少女(姉妹だそうです)が藁をしょって石垣の道を歩いている印象的な写真が使われています。それが気になって気になって、とうとう甲四郎先生に尋ねたところ、先生が返信を下さいました。以下全文引用いたします。

  
   高橋甲四郎です。

今朝から、

黒木町

のお寺(専勝寺)に行ってきました。

 お寺を出たら、雪が鉛色の天から、ひっきりなしに落ちて来ていました。

私は心の中で「バンザイ」を叫びたくなりました。

 日本は、雪が降らないと、どんなに寒くても「冬」の情感が

湧きません。

さて、あの本の裏表紙に載ってる高橋昇博士撮影とおぼしき

写真の、二人の少女がせおっているのは、

あれはなんの藁でしょうね。

麦藁とはちがうように感じられました。

でも、夏のようですし。

 この2姉妹の写真は、人の目を引くのでしょうか、今までの

亡父遺稿の学術書には大抵表紙などに利用されています。

 大阪経済大学の徳永光俊教授他2名(1名は私)で編集した下記の写真集の

解説で、あなたのご質問にお答えいたします。

【写真でみる朝鮮半島の農法と農民】

 この写真集にも同じ2姉妹の写真が掲載されていて、その下に

次のような解説が付されています。

  「大麦の束を背負って運ぶ少女」

           済州市禾北洞(193662日)

姉妹と思われる少女は、現在では使われていない筵を脊中に当てて、

大麦の束を運んでいる途中である。済州島は物を頭にのせて運ぶ風習

がない島である。少女たちも、荷物を背負って運んでいる。

金浄(14861521)は、そんな姿を見て不思議に思い、

「負而不載」と「済州風土記」に記している。

 以上でお分かりのように、背負っているのは、「大麦の束」です。

農業の専門家が解説していますので、間違いはありません。

 なお、解説に書いてありますように、朝鮮人の女性は、

物を運ぶとき、みんな頭にのせて運びます。だから、朝鮮人で

腰の曲がったお婆さんはあまり見かけません。

 しかし、この済州島だけは、頭に載せません。だから、写真を見ただけで

「ああ、ここは済州島だな」ということが分るそうです。また、ここは

台風などで、風を真っ向からから受けるので、ご覧のように、石垣塀

です。

 この済州島は、1274年と1281年の2度の「元寇」のとき、(当時神風と称

されていた)猛烈な台風のために、退却していった「元(ゲン)」の軍隊が

この済州島にたどり着いて、その子孫が住みつき、朝鮮本土とは異なった

風俗習慣が継承されているという説があります。またこの島では、現在も

小柄な蒙古馬使用されています。

 最後に、上記「写真でみる朝鮮半島の農法と農民」は、ヤフーで

「検索」出来ます。ただし、「写真で見る・・・」としてはダメです。

「写真でみる・・・」で検索してください。

 以上で、終わります。

甲四郎先生、ありがとうございました。
よくわかりました。麦藁が肌にあたるとチクチクしました。はしかになったときみたいにきもちがわるかった。だから、この写真の小さな筵ごしに藁をしょってる少女をみると、さりげない気遣いながら、親御さんの「こうすると大丈夫だよ」という声かけが聞えてくるようで、懐かしさと郷愁と同志愛がわいてきます。
それと、どうして自分の知っている麦と違うと感じたのかも、わかりました。それは大麦だったからですね。私たちが知っているのは、小麦でしたので、どことなく様子がちがいます。
下をクリックすると、写真も見れます。詳しく見たい方は本をお求め下さいますよう。↓

2008年2月10日 (日)

一俵の重さと筑後の農民

河田宏(かわた・ひろし)の『朝鮮全土を歩いた日本人ー農学者・高橋昇の生涯』 。非常におもしろい。日本が朝鮮にどういうことをやってきたのかを始め、知らなかったさまざまなことが次々に明らかにされ、そうだったのかと恥じ入るばかりである。

たとえば、高橋昇博士はわが家の亡き祖母とほぼ同年代だが、その明治生まれの日本人がどういう教育を受けたのかを、これまではっきりとは知らなかった。尋常小学校という名の学校があったのは知っているが、そこで、小学三年ころに農作業をならったとは知らなかった。

でも、待てよ。

今でも小学校四年生で、必ず田植えの実習があっているよね。少なくとも八女市の小学校では、実習田というか学童田というのがちゃんと農協青年部の管理で確保されているものね。

年金がある今だからこそ、オヤは米が売れなくてお金が入らなくても一向に平気な顔をしているが、ここまでくるのにどれだけの苦労をしてきたことだろう。一年中、ずっと休みなく馬車馬のように働いていたのを私は知っている。(そういえば、馬車馬のように、という例えは、ヤメリカンピーポーのみに通じることばかもしれない。馬による農耕は筑後地方でことに盛んであった、と河田の本にあった。)

ところで。

一つ、規格が昔とちがっていることを思いついたから、書いておきたい。
それは米一俵の重さである。
河田の本にも、朝鮮の農民は二俵(120キロ相当)をチゲ(背負子)に載せて軽々と運ぶ・・と書かれていたし、常識では、こめ一俵とは六十キロなんだろう。でも、農業の現場では、だいぶ前から一俵は三十キロになっている。


その意味を、どうか想像してみて下さい。

2008年2月 3日 (日)

朝鮮全土を歩いた日本人

日本評論社から『朝鮮全土を歩いた日本人ー農学者・高橋昇の生涯』 (河田宏著)が出版された。

かささぎの旗では高橋昇博士のことを以前少々ご紹介していたご縁があり、著者の河田氏より一冊を贈呈された。折りしも中国からの食品に農薬が入っていて犠牲者が発生した事件により日本中が激震しているこの時機、国の「体」をなす農業とはなにか、農作物を作る農民はどんな苦労をするのかを知るためにも、ひろく読まれて欲しい一冊である。

植民地時代、朝鮮の農法は遅れたものとされ、日本農法を押しつけられた。それに反対した農学者がいた。総督府農業試験場西鮮支場長・高橋昇である。彼は朝鮮全土を調査して歩き、膨大な資料を残した。そこには、朝鮮のきびしい風土に対応した驚嘆すべき農法があった。(帯文)

オモテ表紙にはむかしの木造の小学校みたいなかの地の農場試験場の建物の前で、帽子を手にロングコート姿の壮年の博士が笑みを浮かべて立っている写真が掲げられているが、博士の左肩のうしろあたり、背景の建物の壁に埋め込まれた日の丸が、大日本帝国時代の雰囲気を雄弁に物語っている。

ウラ表紙には、十歳未満の朝鮮の少女がふたり、背中に麦藁束*をしょって、石垣の坂道を下っている写真が取られている。博士の写真も少女の写真も、人物の影がくっきり地面に落ちているのが印象的だ。

以下に目次と著者を紹介しておきたい。

第一章 筑後の山河
第二章 境涯の地へ
第三章 欧米視察旅行
第四章 黄海道沙里院
第五章 農業実態調査
第六章 日本の敗戦と朝鮮の孤立
第七章 『朝鮮半島の農法と農民』 の出版

著者略歴

河田 宏(かわだ ひろし)

1931年東京生まれ。
早稲田大学文学部社会学科中退。以後、日本近現代史、軍事史を中心に著述。
著書:『日本人の攻撃性』(共著、三一書房)、『明治四十三年の転轍』(社会思想社)、『第一次大戦と水野博徳』(三一書房)、『満州建国大学物語』(原書房)、『内なる祖国』(原書房)

『朝鮮全土を歩いた日本人ー農学者・高橋昇の生涯』
  2007年12月20日初刷本より引用

*麦藁と書きましたが、どうもいま一つ自信がありません。ほかに考えられるのは高粱の藁。見たことがないのです。調べると、こうりゃんのわらって、家の材料になるようなものらしい。ではちがうのか。http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00486665&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00486665

かささぎの旗『農学者高橋昇』の第一回http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_09fb.html

表紙写真付き本の紹介:http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31998507

参照:http://medakadaigaku.hp.infoseek.co.jp/kimurakouza01.htm
   http://www.ihatov.cc/blog/archives/2006/02/post_350.htm

2007年6月25日 (月)

虹の足

机まわりを片づけていたら、むすこのプリント類が大量に崩れ落ちてきた。捨てようと確認していると、二枚のプリントに目を奪われる。

図書便り。高橋甲四郎著『バルビゾンの道』が紹介されているではないか。いわく、著者の高橋先生はこの学校でも数学の先生として赴任されてました。この本は先生の日ごろの考えと息遣いが伝わるすぐれた本です。みんなのお父さんやお母さんにもたくさん甲四郎先生に習った人たちがおられることでしょう・・。と、そんなふうに紹介されていた。たちまち甲四郎先生のおかおと、毎朝お散歩されている道とがいっぺんにこころに浮かんできた。

 バルビゾンの道まみどりに朝焼けて  

矢部川沿いの道、バルビゾンの道。その道をてくてく歩いていかれる先生のお姿。みどりという先生のおくさまのお名前。山本健吉の母上と同じ名。翠と緑はどう違うのかな。きっとかささぎの風切羽の色みたいに微妙に違うのだろう。そんなことをいろいろと思わせるバルビゾンの道。

図書便りには、もう一冊、社会科学の大家の翻訳書もとりあげてあります。

『評伝 ウイットフォーゲル』 

G.L.ウルマン著・亀井兎夢・監訳(協訳・堤 静雄)

この協訳の堤先生は学校の数学の先生だそうです。その先生が翻訳のきっかけをこう語られています。

 世界で最も早く発展したのは、黄河文明・インダス文明・メソポタミア文明・エジプト文明だと、子供の頃に習いました。しかし、それらの地域はいずれも今は文明の先進地域ではありません。私は、そのことが不思議でなりませんでした。
 高校や大学の歴史の授業でも、その理由を習いませんでした。ところが歴史を勉強していて、世界史の比較研究をしているウイットフォーゲルという学者が、その理由を明らかにしていることを知りました。
 しかし、学界では彼の研究は認められず、伝記があるのに、それを日本語に翻訳する人もいないのでした。
 そこで、仲間とともに4人で伝記を翻訳することにしました。翻訳は予想をはるかに越える難しさで、困難を極めましたが、4年半もかかってやっと出版できました。この本が「図書新聞」で高く評価されたときは、翻訳の疲れも飛ぶ思いでした。長年の疑問を解決してくれた学者の伝記を翻訳できたとは何という運命でしょう。(堤 静雄)

私の目を引いた、もう一枚のプリントは、国語のテスト問題である。教師の手作り風の。その手書きプリントに使われていたのは、吉野弘の詩「虹の足」であった。すばらしい詩です。漫画「蟲師」にもよく使われる虹を思わせ、森本太郎の詞「青い鳥」も思わせ。これも引用するはずが、時間がありません。弁当をつめないといけない。あした、続きを引用します。

2007年4月10日 (火)

父と子とー高橋甲四郎、その8

 今回の出版に対して、大きな推進力となっていただいたのは京都大学名誉教授の飯沼二郎先生である。1990年(平成2年)に、未來社の田口英治さんとお2人で拙宅においでになり、父の遺稿をご覧になって以来今日までに、御高齢にもかかわらず、御多忙の中、8年間という長い間、校正に編集に、そして助成金の申請に、数々の御尽力を惜しみなく賜ったことに対して衷心より厚く御礼を申し上げたい。飯沼先生はまさに「伯楽」である。父の調査資料を高く評価していただき、また先生のあたたかい人道的な御配慮によって父の遺稿が日の目を見るようになったのである。

 さらに、この飯沼二郎先生への橋渡しをしていただいた未來社、そしてこれが果して活字になるだろうかと懸念されるような乱雑な父の走り書きの原稿を、1つ1つ活字に組めるように修正しつつ出版まで漕ぎつけていただいた未來社の田口英治さん、面倒な長文の解説をこころよく御引きうけ頂いた東京大学東洋文化研究所教授の宮嶋博史先生、朝鮮半島の詳細な地図(5万分の1)を長い間お貸しいただき、校正の便宜をはかっていただいた久留米大学教授の桜井浩先生、そして、この桜井浩先生を紹介して下さった元九州農業試験場長の向居彰夫氏、また、この「あとがき」全文について懇切丁寧な御助言を賜った九州大谷短期大学助教授で国文学科専攻の安保博史(あぼひろし)先生などに対しても、心より感謝の意を表したい。なお、韓国文化研究振興財団からは1990年に第1回の出版助成金として100万円を交付された。また文部省からも1997年度の出版助成金を交付された。感謝の意を表する。
 そしてさらに、この書物はいまは故人となられた方方の善意の結集がまた今回の出版を可能にしたものと思われる。
 遺稿の中に実名で記録され、朝鮮半島の伝統農業のあり方を指し示されている朝鮮農民の方方、最後まで父の遺稿を出版されようと努められ、こころざし半ばにして故人となられた落合秀男さん、さらには、この困難な出版を採算を度外視して引き受けながら、完成を待たずに逝去された未來社の前社長故西谷能雄氏、また、父の遺稿を詰め込んだ重いリュックサックを、朝鮮から苦労してただ一人で背負って来られた故木下栄さん、そして父昇。
 本書は、これらの人人への「鎮魂の書」ともいうべきものであろう。

 何時だったか妻が、
「あなたは、お父さんの遺稿出版のためにこの世に生まれて来たようなものですね。」
 と言ったことがある。
 そうかも知れない。そうでないかも知れない。しかし、多年の念願であった父の遺稿が公刊されることによって、私は今まで背負っていた大きな荷物を降ろしたような気持で、気分が軽くなったことは事実である。
 そして今から51年前、沢山言い残して置きたかったであろうけれども、ひとことも言い得ずに、無念の思いを込めて突如として遠いあの世に逝った父のもとへ、今なら大手を振って逝くことが出来るような気がする。
 もしそこへ逝ったなら、私は、父が生前言いたかったこと、訴えたかったことに耳を傾けて、一部始終を聞いてやろうと思っている。

 最後に、頭(こうべ)を垂れ、つつしみて腹の底から叫びたい。
 この遺稿出版に携わられた方方、長い間本当に、本当にありがとうございました。

参考:

父:高橋 昇 略歴

1892年(明治25年)12月23日 福岡県八女郡上妻村津ノ江にて梯(かけはし)岩次郎の次男として出生

1907年(明治40年)3月 福岡県八女郡津ノ江上妻尋常小学校卒業

1912年(明治45年)3月 福岡県久留米市明善中学校卒業

1915年(大正4年)3月 鹿児島県鹿児島市第七高等学校卒業

1917年(大正6年) 福岡県八女郡黒木町の高橋家の養子となり、姓を「高橋」と改める

1918年(大正7年)3月 東京帝国大学農学部農学科卒業

同年(大正7年)4月 東京小麦ヶ原試験場に奉職

1919年(大正8年)4月 朝鮮総督府農事試験場水原本場に奉職

1926年(大正15年)3月 農事研究のため欧米各国に視察出張する

同年(昭和3年)6月 欧米視察出張より帰国する

1934年(昭和9年) 稲の育種・遺伝の研究により農学博士の学位を授与される

1944年(昭和19年) 農事試験研究機関の整備統合にともない水原本場にもどり、総務部長となる

1945年(昭和20年)8月 敗戦により残務整理のため、朝鮮に残留する

1946年(昭和21年)5月 朝鮮より郷里八女市に引き揚げる

同年(昭和21年)7月20日 上記郷里にて死去、享年55歳

主な著書

朝鮮主要農作物の品種名について(1933年)
朝鮮農具考(1937年)
(以上の2冊は韓国京畿道水原邑の
中央農業試験場図書館に保管されている。)

その他の主な(未発表分を含む)遺稿

犂に関する研究・・・・・254枚 
稲作の歴史的発展過程(Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ)・・761枚
耒耜考・・・・・・78枚
労力調査・・・・・167枚
労力(主として挿秧)調査・・・・65枚
その他多数・・・・・・・・(約3000枚)

子: 高橋甲四郎 

1925年(大正14年)5月2日 朝鮮京畿道水原邑にて高橋昇の長男として出生

1938年(昭和13年)3月 朝鮮黄海道沙里院尋常高等小学校卒業

1943年(昭和18年)3月 朝鮮黄海道州西公立中学校卒業

1947年(昭和22年)3月 福岡県戸畑市 明治工業専門学校機械工学科卒業

1947年(昭和22年)4月以降は、福岡県、佐賀県の公立中学校、県立高等学校にて数学科を担当し、

1986年(昭和61年)3月 福岡県立八女高等学校を最後に定年退職する 

1986年(昭和61年)4月  福岡県立八女高等学校講師

1987年(昭和62年)3月  私立八女学院高等学校講師となり現在に至る。(その間、国立久留米工業高等学校講師などを歴任する)。

以上は本書刊行1998年2月現在のものである。(姫野註)

『高橋昇 朝鮮半島の農法と農民』の「あとがき」より。
    
飯沼二郎・高橋甲四郎・宮嶋博史編集
               1998
2月、未來社刊

 

 

2007年4月 9日 (月)

父と子とー高橋甲四郎、その7

(きのうのつづきです。)

 またある日、父と一緒に旅行した。ある駅の構内で急にトイレに行きたくなった。父に
「便所(当時トイレという言葉はなかった)はどこ?」
 と尋ねたが、父は
「眼と、耳と、口は何のために付いているか!」と一喝された。自分で探せ、ということである。私は駅の構内を歩いている人々に尋ねてまわり、「便所」と書いてある標識を探し出して、やっと用を足したのである。

 父は乗馬が好きでよく遠乗りすることがあった。
 その日は秋晴れの気候のよい日曜日であった。父と雇人と私は2匹の馬にまたがり、当時小学生だった私は、まだ青年のような若い雇人の前にちょこんとまたがって近くの山に行った。その帰りのことだった。町から4キロ程離れた所まできたとき、父は私の背後に乗馬している雇人に、
 「君だけちょっとおりてくれないか。」
と言って私一人を馬の鞍の上に残させた。そして父は何を思ったか、持っていた鞭(むち)でいきなり馬の尻を力一杯たたいたものだからたまらない。馬は驚いて跳び上り、私一人を鞍の上に乗せたまま一目散に駆け出したのである。私は恐ろしさのあまり、鞍の上にしがみついて生きた心地はしなかった。馬は4キロ離れた役所(農事試験場)の自分の馬小屋にはいり、
 「ヒヒーン」
といなないたのである。その時の恐ろしかったこと、しかしこのことで度胸がつき、それからは一人で乗馬することにそんなに抵抗感はなくなったのである。

 万事がこの調子であった。あとで考えてみると、将来私が一人で生きてゆくための指針を与えていたのであろうか。今でいう「自立」というものを植えつけようとしたのであろう。
 
 次に父の健康について少しばかり触れておきたい。
 父の40歳代の後半ではなかったかと思う。1度マラリアに冒されて発熱し、その治療薬としてキニーネを服用していたことがある。そのためか、今度は胃腸がやられてしまった。しかし父は、もともと頑丈な体軀(たいく)の持主であったので何とか持ちこたえていたが、次第に弱っていったのを気力で維持していたのであろう。とうとう50歳の頃胃潰瘍(いかいよう)となり、最後の手段として、
 「断食をやろう」

と決心し、何日間か断食道場にはいり、やせこけて出て来た。しかし本人はすこぶる機嫌がよく、快活であった。
 「これで身体が軽くなった。長年の宿便が出てしまって、身も心も洗われたように軽くなった。

と至極満足そうであった。
 その頃であったと思う。当時の朝鮮帽子(カッ)を被り、朝鮮の白い民族衣装(チョゴリとパジ)を着て、アポジ風よろしく、断食道場で伸ばしたあごの山羊髭を右手でふさふさと撫でながら、写真を撮らせたりなどして得意だったようである。

 当時中学生だった私が休暇で帰省すると、
 「どうだ、似合うか。」
とポーズをとったりしていたことを覚えている。断食は予後の養生が大切であるといわれているが、父は相変わらずの多忙のため、健康は完全には回復していなかったようである。
 この頃から戦争は末期症状を呈してきたため、北九州の学校に在学していた私は、以前のように玄界灘を往復して朝鮮に渡ることが困難となり、その
後の父の健康状態がどのように推移していったかは知る由もない。
 ただ、敗戦の翌年五月に、リュックサック1つを背負い(これが当時の引揚者のスタイルであった)、着のみ着のままで、両手に少しばかりの荷物を下げて、郷里の叔母の家に引き揚げてきたときは、びっくりするようにやつれて気落ちしていたと叔母たちは言っていた。

『高橋昇 朝鮮半島の農法と農民』の「あとがき」より。
    
飯沼二郎・高橋甲四郎・宮嶋博史編集
               1998
2月、未來社刊

 

2007年4月 8日 (日)

父と子とー高橋甲四郎、その6

 この「あとがき」を書くに際して、この膨大な調査資料を父がどのようにして記録していたか書いて欲しいと未來社から話があったが、その当時私は小学生や中学生の頃であり、とても父の仕事を理解できる年頃ではなかった。ただ当時の父は出張する事が多くて自宅に居る日が少なく、したがって父と会話できることも稀であった。時たま家に居る時でも、食事をしている時でさえ、何事かを考え考えして食べており、私が話しかけても生返事をしたり、ピント外れの返事をすることが多かった。
 私が黄海道の海州邑にある旧制中学校に入学して下宿生活をしている時、父がときたま海州に出張すると、必ずといっていい程電話で、
 「出張で海州に来たので、こちら(よく南山ホテルという所に宿泊していた)まで出てこないか」と言われ、その南山ホテルまで会いにゆくと、決まって八畳位の部屋の中央に置かれているテーブルの前に胡坐を書いて、原稿用紙を拡げ、しきりにペンを走らせている姿に出会ったものである。そして自分が来意を告げると、眼鏡越しに振り返り、
 「おう、元気か」
とひとこと言ったきり、再び原稿用紙に向って1分でも2分でも惜しむようにペンを走らせるのだった。
 私は取り付く島もなく、原稿が一段落するまでそばでじっと待っておらねばならなかった。しかしなかなか終らないのが普通であった。それでも私は父のそばに居るだけで、何となく大きな安堵感に浸ることが出来たのである。中学校が夏休みとなり、私が沙里院の自宅(官舎)に帰ってきても、蚊帳の中に机を入れて、先のように原稿に向っている父のすがたを見かけることが多かった。
 
 また、出張のときは何時も藁半紙の粗末な雑記帳(今は市販されていないが、当時は小学校などで書き取り帳に使用されていた)を2、3冊ポケットに忍ばせ、何かあるとその雑記帳に鉛筆で走り書きをしていたようである。今回の実態調査も、この雑記帳に書いたものをその日のうちに宿に帰って転写、整理したのではないだろうか。
 今回及ばずながら、校正(といっても印刷されたものを父の原稿と照合するだけの仕事)の手伝いをすることになり、実態調査の校正印刷物が未來社から私の所に送付されて来るものを読むたびに、出張のためにほとんど自宅を留守にしていた父が、外で行っていた調査研究にただただ眼を見張る思いをした。
 しかし、編集委員の一人として手伝わせていただいた校正作業は、時間的にも精神的にも、不慣れな私にとってはとても困難なことであった。そのため飯沼先生にも多大な御迷惑をお掛けしたことを、あらためておわびしたい。ただ、今から50~60年前、父が朝鮮半島全土に足跡を残しながら、日記風に書いていた調査記録を、一字一句懐かしい筆跡をたどりながら校正していくとき、父の息遣いを肌身に感じ、現実に父がそこによみがえっているような錯覚に陥り、苦しくもあったが反面楽しくもあった。 

 さて、父が実態調査に没頭していた時代は、私はまだ幼く、今回の実態調査の詳細は、当時の私にはとても知る由もないが、家庭における父の、とくに私との思い出を2,3記しておきたい。

 摂氏零下20度を下まわる北朝鮮の厳冬のある夜、あたたかい温突(おんどる)の部屋の片隅に置いてあった四角い木の火鉢の中央で、炭火が赫赫と熾っていた。夜は深深と更けていた。外では雪が静かに舞い降りていたかもしれない。よく見るとその炭火は、あたかも生き物が息を吐き出し、吸い込んでいるかのように実に規則正しく、赤くなったり黒くなったりしているのである。父は両手を前にかざして炭火に当りながら、何事かじっと考え事をしていた。私は火鉢をはさんで父と向い合い、じっと炭火を見詰めていた。
 
 すると突然父はこう言いだした。
 「ほら、見ろよ、炭火が赤くなったり暗くなったりしているが、なぜだか分るか。」
 当時小学生だった私は、現代のように理科の授業が進んでいなかったので、その理由は分らなかった。しかし、父は
 「考えてみろ。」
と言ったきり、とうとうその訳を教えてはくれなかった。
 父はよく本屋に立ち寄る癖があった。そのようなとき、小学生の頃の私はよく父のあとについて行ったものだった。

 ある日、京城(いまのソウル)の大きな書店にはいり、本棚を熱心に見てまわっていた。少し離れた所で、青い目の外国人が、これも同じ並びの本棚から本を探索しているのが目についた。当時外国人は珍しかったのである。私は何気なくそちらの方を指差して、
 「あそこに外国人が・・・」
と父の方を振り返って話しかけたとき、父は急に険しい顔になって、指差している私の手を打ち払い、
 「他人をみだりに指差すものでない!」
と強くたしなめられたことを覚えている。

 (つづく。)

『高橋昇 朝鮮半島の農法と農民』の「あとがき」より。
    
飯沼二郎・高橋甲四郎・宮嶋博史編集
               1998
2月、未來社刊

2007年4月 7日 (土)

父と子とー高橋甲四郎、その5

(きのうのつづきです。)

 さて、話は前に戻るが、私の手元にあった父のすべての遺稿を落合さん宛に発送した年、すなわち昭和41年(1966年)、折り返しこれらの遺稿のすべてにわたり、項目別に分類整理された詳細な資料目録が落合秀男さんから私のもとに送られてきたのである。
 その後、落合さんとは再々手紙で連絡をとり、遺稿の進捗状況をお尋ねしていたが、落合さんもなかなかお忙しい御様子で、遺稿の発刊は遅々として進まなかった。
 このようにしてさらに20年の歳月が流れたのである。
 そのうちに落合さんは胸を患われ、大変苦しそうであった。そして1989年(平成元年)5月16日に落合さんが肺炎のために逝去されたという電話連絡を、そのつきの19日昼頃落合さんの姪御様といわれる方からいただいた。
私はひとまず、その年の5月26日午後2時から東京都中目黒区の実相会館で挙行された、落合秀男さんの告別式に参列した。そして夏休みの8月17日、私はいままで落合秀男さんに預けていたすべての父の遺稿を受けとるべく、落合さん宅を訪問した。勿論、20年前に私宛に落合秀男さんから送っていただいた落合さん直筆の詳細な遺稿目録を持参して行ったのは言うまでもない。落合さん宅には、落合秀男さんの晩年に、遺稿の清書や編集に協力されていた故山口文吉氏(1994年、平成6年、1月19日に逝去。享年81歳)や、南侃氏(もと鯉渕学園の副学園長)、それに落合秀男さんの奥様および姪御様などが待っておられた。これらの方々のご協力により、私が持参した遺稿目録に従って、夜遅くまでかかって原稿、写真、地図、書物など逐一点検し、一枚の原稿の漏れもなく、一葉の写真の散逸もなく目録と照合し終り、後日荷送していただくことを約して落合家を辞した。

 数日後、ダンボール箱6個に詰められた父の遺稿、写真、地図などのすべてが送り返されて来た。中を開いて見ると、各項目別に記号、番号によって整然と分類されているだけでなく、落合秀男さんが知人に筆耕を依頼して、遺稿原稿を清書させていられた転写原稿まで一緒に送られてきたのである。

 その翌年、つまり1990年(平成2年)5月15日、福岡県八女市の拙宅に、京都大学名誉教授の飯沼二郎先生と、未來社の田口英治さんが遺稿調査にいらっしゃった。そして翌16日より拙宅において本格的な調査が始まったのである。

 ちょうど今から1年前のこの5月16日という同じ日に落合秀男さんがお亡くなりになったことを思うと、まことに不思議なことである。

『高橋昇 朝鮮半島の農法と農民』の「あとがき」より。
   
飯沼二郎・高橋甲四郎・宮嶋博史編集
               1998
2月、未來社刊

2007年4月 6日 (金)

父と子とー高橋甲四郎、その4

(きのうのつづきです。)

 私はここで、実態調査を含めた膨大な父の遺稿など13,000枚の一部を、敗戦の混乱の中で日本国内に運び入れられたもう一人の人物「木下栄さん」についても触れておかねばならない。
  
 木下さんは、はじめ北朝鮮普天堡近くの北鮮支場(支場の呼称は当時のものに従った)に赴任されていたが、戦争末期には徴兵にとられ、済州島に配属されていた。終戦とともに除隊されて、いったん水原に戻られ、ここで父と再会し、父の遺稿の搬出を父から依頼されたのではないかと推察される。
 この辺から後の状況は、日本の敗戦から40数年を経過した1989年(平成元年)に、木下栄さんから私宛に届いた、ただ1通のごく短い次の私信によって伺うことができる。(かっこ内は著者で補筆した。)

 「・・・・お父上と(熊本県玉名駅で最後に)お別れしたのが昭和21年(1946年)だったと思います。部長(父は終戦当時総務部長だった)の研究資料を終戦の年(1945年)の9月18日水原で(あずかり)お別れ(して)持ち帰り、部長引揚後に拙宅にお出でになり、玉名駅までお送りして以来43年を越してしまいました。38歳だった(当時の)青年が、今では81歳の老人となりました。・・・(後略)                         平成元年(1989年)9月22日
                                          木下 栄」

 つまり、1946年(昭和21年)に父は、朝鮮から郷里の福岡県八女市に引き揚げてきて、一応叔母の家に落ち着いたあとに、熊本県玉名市まで出掛けて行って、木下栄さんに預けたままになっている自分の研究資料を貰って八女市の叔母の家まで持って帰ったのだろう。
 当時の日本国内は、敗戦の混乱の中で、交通機関も充分には回復しておらず、日本にぞくぞくと引き揚げてくる人人、はては闇買出しの人人のために客車は不足し、これらの人たちを、貨物車や無蓋車が鈴なりにして運んでいた時代である。父はこのような悪条件のもとで、重たい自分の研究物を必死になって、熊本県玉名市から引揚げ先の叔母の家まで運んできたにちがいない。
 私は木下さんからお便りをいただいたあと、すぐに電話を入れ、父が預けていた研究資料はどのようなものであったかをお尋ねしたが、「中味はよく見ていない。預かっていたものをそっくりそのままお返しした。」
 とのことであった。

 その当時、私が熊本県まで行って木下さんにお会いしていろいろとお話をお聞きすればよかったのだが、自分の仕事に追われていたためにそれが出来ずに、それから瞬く間に7年という歳月が経過したのである。

 そしてこの「あとがき」を書くに当って、再び木下栄さんの証言を得ようと、1996年(平成8年)12月に木下さん宅にお電話をしたところ、木下栄さんの一人娘といわれる方が電話口に出られ、次のような話をされた。

 「父(木下栄さん)は6年前に亡くなりました。82歳でした。父は私たちより一足早く朝鮮から引き揚げましたがその時、いろいろな研究資料をぎっしり詰め込んだ大きなリュックサック1つを背中に背負って帰って来ました。これを見て、当時一緒に引き揚げて来た親戚や知人友人たちは口口に『引揚者は皆自分の食糧品や所帯道具などを持って帰ってくるのに、何のために他人の、しかも生活に役には立たないものばかりを、大事そうに苦労して背負って引き揚げてきたのか、その気持が分らぬ。』と言って、人人の間では今でも語り草として語り継がれていますよ。・・・
  私と母は終戦の時、北朝鮮に住んでいたので漢口で足止めを喰い、父より1年遅れて引き揚げてきましたが、今では母も亡くなり、夫も昨年亡くなりましたので、父が朝鮮から持ってきた沢山の写真や研究物などは、一人娘の私が持っていても仕方がないので、夫のものと一緒に昨年暮頃、何日もかかって焼却してしまいました。そして両親や夫と一緒に住んでいた家屋敷も処分して、いまは私一人マンションで暮らしています。・・・
 父が朝鮮から持って帰った写真は、北朝鮮の農場や農村風景、白頭山などの風景を大きく引き伸ばしたものが何枚も何枚もありました。この写真だけでも積み重ねると30糎(センチ)位の高さになる位ありました。・・・」

 ということは、木下さんが朝鮮から背負って来られたリュックサックの中にあったものは、必ずしも私の父の研究物だけではなかったといえよう。そしてもし、父が朝鮮から引き揚げて来たあと、熊本県の玉名駅まで木下さんに預けていた研究資料を受け取りに行かなかったら、今頃はその父の研究物もすべて灰になっていただろう。
 
 この木下栄さんと父とはどのような間柄であったかは知る由もない。私が木下さんと連絡がとれたのは、父がかつて朝鮮に居たとき、父が結婚の仲人をしたといわれる現在熊本在住の若杉親義さん(この本が出た当時88歳。姫野註)の紹介による。そして私は、木下栄さんとは1通のお便りと1回の電話を交わしただけで、ついにお会いすることが出来ないまま木下栄さんは他界されてしまったのである。(あすにつづきます。)

『高橋昇 朝鮮半島の農法と農民』の「あとがき」より。
      
飯沼二郎・高橋甲四郎・宮嶋博史編集
               1998
2月、未來社刊

2007年4月 5日 (木)

父と子とー高橋甲四郎、その3

(きのうのつづきです。)

 それから20年という歳月が経過する。その間に私は妻を持ち、自分の家を建て、親戚の家(主に叔母の家だが)に長らく預けていた父の荷物を1ヶ所に集めて整理を始めた。すると柳行李の中に雑然と、そしてぎっしりと詰まっている父の筆跡と思しき夥しい原稿や写真、朝鮮地図などを発見した。手に取って見ると、農具の図や、土地を耕作している人や牛の図が至る所に書き込んであった。当時の私にとっては何が何やら皆目分らなかった。多分父が朝鮮から引き揚げるときに、大事にして持って来たものであろうことだけは推察できた。
 私は途方に暮れた。
 父の死後、20年という歳月が経過している今、父の知人友人の多くはすでに故人となられ、そうではなくても、どなたが何処にどのようにして居られるのか、住所録が残っている訳でもなく、全然分らなかった。

 ところがさらに父の荷物を丹念に整理しているうちに、1通の手紙が出て来た。それは終戦になる以前に、いち早く朝鮮を引き揚げて御郷里の東京に落ち着かれ、当時農林省に在勤されていた森秀男さん(朝鮮では副場長として私たちの官舎の近くに住んでおられ、お会いする度に「森さん」と呼んでいたが、後に落合家の養子となられ、「落合」に姓を改められたので、今後は「落合さん」の敬称で呼ばせていただくこととする。)から父に宛てた手紙であった。住所は東京都となっている。父が朝鮮に残留している間に落合さんから父に宛てた手紙のようである。

 そうだ、落合さんに相談しよう。
 こう決めた私は、今回柳行李から出てきた膨大な父の研究物とおもわれる遺稿の目次を、私なりに作成し、いままでの経緯を書いて落合さん宛に郵送した。
 落合さんからは直ちに次のような御返事をいただいた。

 「思いがけぬ貴翰うれしく拝見しました。・・・・
  さて、この度発見されました御尊父の原稿大変貴重なものと存じます。実は私のところにも一部お預かりしております。各道の農業実態調査が大部分です。これは、はじめ片山隆三氏(もと朝鮮農会勤務、現在和歌山県御坊市在住)が預かっていられたものが、九州農試へ回ってきたもの、その後当時の佐藤場長が私にまとめるようにとのことで私の手許に来たものです。・・・貴殿からの資料目次拝見いたしましたが貴重なもののようです。私のお預かりしているものと一緒にすると、より完璧になるかと存じます。・・・
 私のお預かりしている資料は下記の通りです。

1 実態調査の結果より見たる慶南の畜牛問題・・・18枚
2 済州島紀行・・・420枚
3 平南実態調査資料・・・107枚
4 実態調査備忘録・・・82枚
5 雑録・・・
6 咸南実態調査・・・275枚
7 江原道の農具・・・19枚
8 慶南の農具(予備調査)・・・105枚
9 城山農場・・・82枚
10 忠北、忠南、慶北、慶南の視察・・・115枚
11 新昌里の実態調査・・・12枚
12 平安北道実態調査・・・161枚
13 慶南統営部、慶北慶山郡・・・109枚
14 人参の調査・・・17枚
15 京畿道実態調査・・・15枚
16 北鮮紀行(小生執筆)・・・47枚
17 京畿道実態調査・・・44枚
18 畑作物栽培実態調査(平安南道)・・・131枚
19 慶北実態調査・・・111枚

  昭和41年7月19日 

                 森 秀男 」

私は、このお便りを拝見するや、私の手許にあったすべての父の研究資料、写真、朝鮮地図などを、ただちに落合さん宛に送ったのである。(落合さんが保管されていたのは、このようにほとんど実態調査ばかりで、原稿用紙にして総計1870枚もあったのである。つまり全実態調査4300枚の半数近くの資料が、朝鮮に在住していた父の手を離れたあと、まわりまわされて、東京の落合さん宅に10数年間も保管されていたことになる。)

         その4に続く。

『高橋昇 朝鮮半島の農法と農民』の「あとがき」より。
   
飯沼二郎・高橋甲四郎・宮嶋博史編集
               1998
2月、未來社刊

2007年4月 4日 (水)

父と子とー高橋甲四郎、その2

(きのうのつづきです。)

 それは、長いうっとおしい梅雨の合間の雨上り、若葉が朝日に輝き、つかの間の青空が顔を出した7月10日早朝のことである。私は、昨夜おそく東京から帰ってきて、疲れて寝入っている父より一足早く起きて、近くの井戸端で顔を洗い、父が休んでいる離れ家に再び戻ってきた。私の気配に気付いたのか父は目をさまし、仰向けに寝たままの姿勢でつぶやくようにこう言ったのである。
「水を、水を持ってきてくれ」

 私は急いで井戸端に引き返し、手押しポンプで水を汲み上げ、コップになみなみと水を注いで父の枕もとに持ってゆき、
  「水、持ってきたよ」

 と言ってコップを差し出した。父は上半身をこちらに向けるように寝返り、右手を大きく伸ばして私のコップを取ろうとした。
 その時である。
  父の手がコップに届く前に、突然父の体全体が硬直したようになり、まっすぐに伸ばした右の手が、大きな息と一緒に2,3回上下したかと思うと、一言も発することなく、燃えていた火に水が掛けられて消えていくようにして息を引き取ったのである。あっという間もない出来事であった。私は一瞬呆然となったが、すぐさま事の重大さに気付き、走っていって叔母やその家族に父の異変を告げた。それから間もなく町の医者がやってきて診断した。死亡診断書には「狭心症による死亡」と記されていた。

 先妻に先立たれ、後妻を迎えてからは決してしあわせな日日の家庭生活を味わうことが出来ず、家庭的に不遇だった父は、このようにして55年間の生涯を終えたのである。

 私は大きな鉄槌で脳天を叩き潰されたようなショックを受けた。杖とも柱とも頼みにしていた父の死、そして久し振りに再会出来て間もない父との死別は、当時21歳の私にとって「試練」と呼ぶにはあまりにも残酷であった。幼い頃、早くから生母とも死別し、兄弟も姉妹も居ない私は、全くの天涯孤独となったのである。父の後妻となった私の義母とは早くから音信不通であった。
 
 この時から私の苦難の生活が始まったのである。
                                 (つづく)

2007年4月 3日 (火)

父と子とー高橋甲四郎、その1

『高橋昇 朝鮮半島の農法と農民』
         飯沼二郎・高橋甲四郎・宮嶋博史編集
               1998年2月、未來社刊より引用。

あとがき

          高橋甲四郎

 この書物が出版されるに当り、私にとって今でも眼前に鮮烈に浮ぶ、どうしても忘れることが出来ない、ある1つの情景がある。

 それは、この書物の著者である私の父昇の死である。

1946年(昭和21年)5月といえば、日本が無謀な戦争を仕掛けて惨敗してから、まだ1年にもならない時期である。その頃私は北九州にある学校(当時の明治工業専門学校、現在の九州工業大学)に在学し、卒業日までにはまだ日数があり、慣例に従って学寮に寄宿していた。その私の手許に郷里から1通の電報が届いた。

 「チチカエル、スグコイ」

 敗戦と同時に、父は朝鮮からすぐに引き揚げてくるものとばかり思っていた。ところが1ヶ月位経った頃、「残務整理のため、暫く朝鮮に残らねばならなくなった。」という父の便りが届いていたので、父との再会はあきらめて辛抱強く待っていた矢先の電報である。待ちに待った父が帰ってきた。私は取るものも取りあえず、その日のうちに郷里(いまの福岡県八女市)に向かったのである。朝鮮での在勤時代、長い間官舎住まいをしていた父は、日本に引き揚げてきても住むに家なく、やむなく父の妹(私からいえば叔母)の嫁ぎ先の離れ家を借りて寝起きしていた。私は、やつれ果てて郷里に引き揚げてきた父の無事を確認すると、その後授業が再開された学校に戻り、再び父のもとに帰ってきたのは早目の夏休みに入った7月上旬のことであった。

 当時、日本の主要な都市は戦争による被害のために焦土と化し、人人は襤褸(ぼろ)をまとい、焼けただれた倒壊家屋の間をさまよい、満たされない空腹を抱えながら、職と食と住を求めて狂奔していた。叔母の家も例外ではなかった。主食は配給制であり、米麦の代りに甘藷や大豆が配給されることが多かった。毎回の食事の量も茶碗に盛り切り1杯と制限されており、どの家庭でも一日一日をどのようにして食べていくかが大問題であった。だから外地からの引揚者はどこの家庭でも敬遠されがちであった。食べ盛りの四人の子供(私からいえばいとこ)を抱えて、この食糧難の時代に日日苦労をしている叔母の家に、私たち親子が厄介になることがどれだけ迷惑になるかは百も承知していた。しかし、仕方がなかったのである。

 このような状況のもとにおいても、父は引き揚げてきてからは、毎日のように東京方面や熊本方面に出掛けていたらしい。あとで叔母やいとこなどの話を聞くと父は、朝鮮で一緒に仕事をしていて一足先に日本に引き揚げてきていられる、かつての父の部下の人たちの就職の世話などに奔走していたと言う。私が父と過した数日間でさえ、父の姿を叔母の家で見かけることはほとんどなかった。したがって父とゆっくり会話する時間的余裕もなかったのである。

 そして忘れようとしても決して忘れ去ることの出来ない運命の日がやってきた。(つづく。)

2007年1月27日 (土)

空蝉の爪ー『拓』16号評の三

空蝉の爪棚田たがやす力ひめ    畑中 イツ子
                                                  (  松浦市 )

目が覚める一句である。
自分で詠んだ事はないが、これまで色々な空蝉句を読んできた。どれもが叙情的な追憶を詠み、かつてあり今はない恋への追慕、寂寥、あるいは無常感や虚無感の句であった。それらがきっと空蝉本来の持っている本情(人がそう受け取るだけだが)なのかもしれない。

空蝉の爪。たしかにあのかそけきむくろは、爪だけが異様に目立つ。それはまだ、生きる意志を持つ別の存在であるかのように。その爪が棚田をたがやす力を秘めているとかかれると納得する。そして、空蝉すらが死んでしまう日がくることがあるのだと思い至り、放置され消滅する美しい棚田を想う。声高な糾弾をしているふうでもない。だから余計に空蝉の爪がこころにひっかかる。まるで一生を農に生きた日本の母たちのことばにならない言葉のように感じられる。

高橋昇博士の大著『朝鮮半島の農法と農民』(飯沼二郎・高橋甲四郎・宮嶋博史・編著) に、「カマカキ」 という農具の写真が載っている。カマガキともいうそうだ。場所は京畿道水原邑(けいきどうみずはらむら)水原高等農林学校川口教室にて、1940年11月15日撮影。写真を見て戴くのがいちばんだが、文章で説明すると、まさに「空蝉の爪」 ににている。直角に刃先が曲がり、木の持ち手がついている。

大著本文をひらき説明を読む。鎌かき・・・大分県では草取りカンナと云う。畑にはあまり使用せず、又作物の刈り取りにも使用することなく、田圃の除草用に使用すると。中島友輔氏の話によれば、此の除草機を北松浦では「カマカギ」と云うと。満州島の「除草ホミ」を「カマ」と称するが如し。

※ 空蝉の写真が見れるサイト:http://homepage2.nifty.com/saisho/utsusemi/nukegaraphoto.html

  草取り鎌のサイト:http://www.kase-hamono.com/cgi-bin/kase_hp3/sitemaker.cgi?mode=page&page=page2&category=3 (朝鮮のカマカキはこの草取り鎌を直角にまげて、もう少しお手ごろふうでした。これはすごくりっぱですね。)

2006年12月27日 (水)

野溜め   その2

これは11月18日、はじめて高橋甲四郎先生にお会いしたときに、請うて戴いてきた資料の一部です。

「平北、安東県、輯安県ー早川孝太郎氏案内」

             高橋 昇                  

                   
    昭和十五年十月十二日 沙里院発
            十月十七日 帰任

昭和十五年十月十二日 社団法人農村更正協会主事・日満農政研究会嘱託 松田延一氏 穀検山本所長の紹介にて、突然沙里院西鮮支場を訪問す。森技師案内す。同氏は今回鮮満地方食糧生産事情を調査せんとする目的にて渡鮮せりと。同行の早川孝太郎氏は先行、平壌にて一泊せりと言う。早川氏は農家の実態調査を行い、朝鮮農家の食習慣を調査せんがために来たれりと。柳田國男の高弟なり。
よって、急に同氏に同行せんと、午後八時の列車で平壌に出で、平壌ホテルに泊す。翌朝同氏と会す。本府食糧調査課の張永哲技手随行なり。 

    (で始まる現地調査の旅の記録ー野帖というらしいーの一部です。中略しまして、私の引用したい三ページ目から引用します。)

チャングエ  朝鮮のチャグエと同様なるものを、内地では肥えたごと云う。静岡県の周智郡、愛知県北設楽郡の山村に採用せらる。また東京府下のも使用せらる。岩手県における稗の施肥法。

  畑の一隅に糞溜りを作りて糞を溜め、これに土を入れて、ねり混ぜて、これに稗の種子を混じてこれをつかんで点播す。糞溜りは五反歩に一個くらいを作る。従って耕作地の面積を糞溜りの穴の数にて表す。例えば糞溜一穴、二穴等と云う。・・・後略。

    

※ 一部引用であります。あらためてむかしの記憶をたどりますと、たしかにわが家のたんぼのすみにも一つ野溜めがありました。それは母に今日尋ねてみたところ、じいちゃんんがコンクリートで作ったものだったそうです。当時は町にも金肥をもらいに行ってたといいます。それを溜めて発酵させていたそうです。調べたら、こういうサイトを発見しました。

NGO関連の研究サイトです。http://72.14.253.104/search?q=cache:k7-ovTVvKFUJ:park15.wakwak.com/~knc/kncwhat/album/ndai_koza_rec/koza_rec12_4.htm+%E9%87%8E%E6%BA%9C%E3%82%81&hl=ja&lr=lang_ja&strip=1 このなかの、「世界と日本のおいしい?関係」という題のセッションの中に野溜めが出てきます。

数年前に所属誌のれぎおんで近代化アンケートと題して厠(かわや)についての記憶のいろいろを尋ね、結果をまとめたことがありました。あれは非常におもしろかったです。火野葦平に『糞尿譚』があります。トラックでの肥え汲みをなりわいとする男のはなしでした。ああいうのっぴきならぬ生活のうつしを描けるというのは迫力があります。

2006年12月26日 (火)

野溜め

きのう「のだめカンタービレ」がおわったみたい。何回か見たけど、漫画みたいなコマ割のオーバーアクションの楽しい青春ドラマだった。昔でいえば近藤正臣の柔道一直線のピアノを足で弾くのに似たノリの演出だったよね。特価一山二十円のもやしみたいな頭のたいこたたきの男の子(おかま)がかわいかったな。あ、あれはたいこじゃなく、ティンパニというのか。笑

それは置くとして、のだめって語感から昭和二十年代生れのものとして真っ先に連想するのは、野の肥溜めである。私はこれが書きたくて、ずっとのだめが終わるのを待ってたんだ。いくらなんでも上野樹里ちゃんの相手役のハンサムくんに悪いものね。ま、上野樹里のほうはどこかに普遍的な野暮さもしくは処女性ともいうかがあり、それが独特の野性として魅力の素地になっているから、イメージには貢献こそすれまったく関係ないだろうが。

さて。あの田んぼの中にひょっこり出現するこえだめなるものは、いかなる意味を有していたか、ご存じであろうか。そもそも、どの田んぼにもあったわけではない。一面の田んぼの片隅にぽつんと目立たぬように、しかしその強烈なかほりでじゅうぶん目だって存在していた。

それが、高橋昇博士の朝鮮全土をくまなく足で回った戦前と戦時中の貴重な記録を読んでいるとき、ひょいと意味が分ったのである。きちんと引用したい。でも今日は時間がないので、前振りということで筆をおく。

2006年12月17日 (日)

農学者飯沼二郎の目  5

(昨日からの続きです。)

 未來社でコピーするために、差し当たり遺稿原文の「実態調査」だけを田口さんが借りて持って行くことになった。

 「『実態調査』全部を持って行きたいけれど、重たいので今日持って帰れるのは、せいぜい七冊が限度でしょう」
 こう言って、田口さんは七冊分を重ねて紐で結び、下げ袋に入れた。重さを手で量り、
 「これくらいなら持って行けそうです」
 すると、飯沼先生が、

 「世界にたった一つしかない資料ですよ、しかも二度と調査することができない貴重な資料ですから、紛失しないように、注意して持って行ってくださいよ」

 と、横から心配そうに言われた。

 私の自宅に来られて、父の遺稿をご覧になられたときの感想を、飯沼先生はあとで、未來社が発行した『朝鮮半島の農法と農民』のPR用の「内容見本」の中で、次のように述べておられる。

 ところが、突然、昨春(1990)、未來社社長の西谷さんから、高橋昇氏のご遺族から遺稿出版の話がもちこまれてきたので、それが果たして出版に価するかどうか、専門家の目で確かめてほしいというお話があった。編集長の田口英治氏と二人でお尋ねした福岡県八女市の昇氏の子息の高橋甲四郎家の広いお座敷一杯におかれていた資料は、予想を越えた膨大なもので、当時の朝鮮人農家の一戸一戸を綿密に調査した、今では全く得がたい資料であり、私は驚喜し興奮した。(中略)
 日帝下の朝鮮人は、ほとんど農民であった。ところが、当時の朝鮮農業の具体的な在り方を示す資料は、きわめて僅かで、しかも断片的なものに過ぎなかった。今回出版されるこの朝鮮全域にわたる資料は、農業はもちろん社会学・民俗学その他にとっても貴重であり、日帝下の朝鮮研究を画期的に推し進めることになるであろう。しかし、それだけではない。私は四十五年の農業研究の結果、昔からその地で行われてきた伝統に基づいて近代化すれば農業は必ず発展し、伝統を否定して近代化すれば農業は必ず衰退することを確信するが、この資料は、ただ単に過去の朝鮮農業の姿を具体的に知らせるばかりでなく、また、今後の韓国・朝鮮農業の真の近代化の基礎をも明らかにすることになるであろう。

高橋甲四郎著『父の遺稿』(海鳥社2001年)から引用。

2006年12月16日 (土)

農学者飯沼二郎の目  4

(昨日からの続きです。)

 世界に一つしかない資料

             高橋甲四郎

 昼食が終わってしばらく休憩して、三人は再び二階に上がった。
 午前中にすでに実態調査を見られた飯沼先生は、満ち足りた顔を私に向けられ、

 「さて、実態調査以外のものを見せていただきましょうか」

 とおっしゃった。今度は「実態調査」以外の研究論文、「犂に関する研究」、「水田雑草に関する研究」、「稲作の歴史的発展過程(Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ)」、「耒耜(たび)考」等々(巻末「備考 高橋昇遺稿・資料目録」参照) を、飯沼先生の前のテーブルに積み重ねていった。

 私は非常勤講師をしている地元の私立高校に午後から出掛けねばならなかったので、二人に失礼して、自宅から車で十分くらいの同校に向かった。
 私の担当科目は数学である。この日は私にとって父の遺稿出版の計画が具体化されつつあるよき日であり、気持が晴れ晴れとしていたためか、教壇でも快適に授業が進められた。

 楽しく授業を終えて、足どりも軽く自宅に帰ったのは午後四時ごろだった。すぐ二階に上がると、飯沼先生は積み上げられていた遺稿をほとんど見てしまわれて、横に置かれていた。その傍らで田口さんが、私の姿を見られるや、

 「飯沼先生は、一枚一枚を実に丁寧に、熱心にご覧になっていられましたよ」

 と感嘆していられた。
 飯沼先生は、たくさんの遺稿の中から、表紙に「犂に関する研究」と書いてある一冊を取り出して私に見せ、

 「この『犂に関する研究』は、極めて専門的に書かれており、よくまとまっているので、今回の出版に入りきらなかったら、後日、単行本として出版されたほうがいいでしょう」

 と言われた。

 こうして見終わられた飯沼先生は、いざ立ち上がろうとされたが、長らく座って閲覧されていたために足がしびれたのか、なかなか立ち上がることができない。「うん、うん」 と言われて、ゆっくりゆっくりと立ち上がられた。私は心配になって、

 「大丈夫ですか」

 と、声をかけると、

 「大丈夫」

 と、口をしっかり結んで答えられた。飯沼先生は足のしびれが治ったころ、私と田口さんに向かって、りんとした声でおっしゃった。

 「まず、実態調査を発刊したい」

 田口さんの「中に書いてある図はどうしましょうか」という質問に、

 「図は原図のまま印刷したがよい。そのほうが味がある。校正も原文で行う!」

 びしっとした声でおっしゃった。つまり、きれいに清書された原稿で校正をするのでなく、あくまで父の乱雑な走り書きの元原稿で構成を行い、図も模写されたものを印刷するのでなく、父の直筆の原図をそのまま印刷するということである。

 聞いていて、なにか私の胸の奥からこみ上げてくるものがあった。そして、思わず心の中で叫んだ。

 「さすがは飯沼二郎先生である。すごい!」

     (あすにつづきます。)

高橋甲四郎著『父の遺稿』(海鳥社2001年)から引用。

参考文献: 耒耜(たび)とは・・・気合で読めそうな気がする資料をふたつ。
http://cidian.sina.com.cn/cidian/search.php?key=%F1%E7%F1%EAhttp://www.kepu.com.cn/gb/technology/ancientech/ancientech_mechanics/200312310013.html

2006年12月15日 (金)

農学者飯沼二郎の目  3

(『父の遺稿』高橋甲四郎著の「出版への胎動」から、引用を続けます。)

 翌日、午前九時少し前に、プラザホテルに宿泊中の田口さんから、

 「よかったら迎えにきてほしい」

 と電話がかかってきた。
 自家用車で迎えに行くと、二人はすでに出掛ける支度をして待っていられた。二人を乗せて自宅に戻り、二階の座敷に案内をする。前日座敷一杯に広げておいた遺稿や資料などは、すべて一応ダンボールの中に片づけておいた。

 「今日はまず、農業実態調査から拝見したいと思いますが・・・」

 二階に上がられるや、飯沼先生はこうおっしゃった。系統的に、「黄海道実態調査」、「全羅南北道実態調査」、「江原道実態調査」等々の厚い表紙で項目ごとに綴じられている遺稿を、ダンボール六個の中から次々と取り出して、飯沼先生の前のテーブルの上に置いていった。飯沼先生は、これらの原稿一枚一枚を丹念に開きながら、昨日と同じように熱心に読んでおられた。
 田口さんも飯沼先生の横で、飯沼先生の説明に耳を傾けたり、ほかの資料などを一つ一つ手に取って見ていられた。

 昼近くなり、遺稿調査をいったん中断して、一階の座敷で私を含めて三人で昼食をとることにした。飯沼先生は、昨日よりもやや興奮気味の様子だった。食事中、私にいろいろなことをお尋ねになった。

 「あなたのお父さんは、朝鮮農民の間では、どのようなお方でしたか」

 「ご家庭におけるお父さんは、どのようなお方でしたか」等々。

 食事が終わるころ、私のほうから父が残したこの膨大な遺稿についての今後の処置についてお尋ねした。飯沼先生はきっぱりと言われた。

 「学問というものは、万人の共有物でなければなりません。個人が独占すべきものではありません。ましてや、これを利用して売名行為に走るものでないことは、言うまでもありません」

 飯沼先生のお話を聞いているうちに、私は旧制中学校時代に読んだ本の文句を思い出していた。岩波文庫の岩波茂雄氏が、岩波文庫を発刊するに際し、その発刊の趣旨を文庫本の巻末に、「読書子に寄す」と題して執筆している次の言葉である。

  真理は万人に求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かつては民を愚昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことは常に進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある不朽の書を小数者の書斎と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。

 こうして岩波茂雄氏は、低廉で、誰でもたやすく手に入る「岩波文庫」を創設し、人類文化の遺産を広く民衆に解放されたのである。

 この精神こそ、飯沼先生がおっしゃっていたことではなかろうか。この「読者子に寄す」の文章は、数十年経ったいまでも私の脳裏にこびりついて、鮮明に思い出すことができるのである。だからこそ、飯沼先生の一言一句が、短い言葉ながら、私の脳裏にスポンジが水を吸い上げるように染み込んでいったのである。(あすの「世界に一つしかない資料」につづきます)。

高橋甲四郎著『父の遺稿』(海鳥社2001年)から引用。

2006年12月14日 (木)

農学者飯沼二郎の目  2

(高橋甲四郎著『父の遺稿』より、「飯沼先生との出会い」を引用しております。昨日からのつづきです。)

 田口さんが自分の荷物を置きに行かれる間、荷物のない飯沼先生と私は、フロントのロビーで椅子に腰掛けていた。しばらくして気になっていたことを飯沼先生に尋ねてみた。

 「先生は最近、ご病気で入院されていらっしゃったとお聞きしていましたが、いまはご健康状態はいかがですか」

 最初、未來社の田口さんから飯沼先生の名前を聞いたとき、私は早速飯沼先生の著書を書店で探した。『農業は再建できる』(ダイヤモンド社)という題の書物を購読した。そして、その本の「まえがき」に、

 「私事になるが、健康を害して入院した私に治療を施し、研究・執筆に復帰することを可能にして下さったお医者さん、看護婦さん方に感謝する」

 とあったので、そのことをお尋ねしたのである。
 飯沼先生は、静かに答えられた。

 「私は、あなたのお父さんと同じように、狭心症だったのです。しかし、いまの医学は非常に進んでいて、風船療法という方法で、ほとんど治ってしまいます」

 飯沼先生の話は続く。

 「これは足の股間の動脈から、小さな風船を心臓の冠状動脈の狭窄部分まで差し込み、その風船を膨らませて、狭くなった血管を広げる治療です。風船は膨らんでも一ミリからせいぜい四ミリまでですから、麻酔の注射がチクッとするくらいで、あとは麻酔のため全然痛みはありません。
 あなたのお父さんも、現在まで生きていられたら、この風船療法でお亡くなりにならなくてもよかったでしょうに・・・」

 飯沼先生は、一見無口のように見えるが、なかなか話題が豊富で、話好きのようでもある。
 田口さんが部屋から戻って来られたので、再度私の車に二人を乗せて、約十分足らずで自宅に着いた。
 家では妻が座敷に三人分の夕食の支度をして待っていた。三人でビールでのどをうるおし夕食を始めたが、ここでも飯沼先生がいろいろな話を始められた。

 「熊本県の農村を訪れたとき、・・・」

 と、九州各県の農家の実態を、自分の体験を交えて、実に詳しく具体的に話をされる。先生独特のくぐもった口調である。難解な農業専門用語が次々と飛び出してくる。田口さんは傍らで、黙々と食事をしながら耳を傾けていられた。
 食事が終わってから飯沼先生に、

 「では、お父さんのご遺稿を見せていただきましょうか」

 とうながされ、三人で遺稿を保管している二階に上がった。

   遺稿調査

 二階には、お二人がみやすいように、分冊になっている数十冊の遺稿を、あらかじめダンボールの中から取り出して座敷一杯に広げておいていた。飯沼先生はこれらを一冊ずつテーブルの上で一枚一枚開いて見ながら、乱雑に走り書きしてある父の原稿を、食い入るように読んでいられた。一、二時間ほどご覧になられたであろうか、

 「では、明日また見せていただきましょう」

 と言われ、田口さんと一緒に二階から降りて玄関を出られたので、私は車でホテルまで送って行った。午後九時を少し過ぎていた。(あすにつづきます)。

 高橋甲四郎著『父の遺稿』(海鳥社2001年)から引用。

2006年12月13日 (水)

農学者飯沼二郎の目  1

冬至に始めたブログもそろそろ一年になります。何をやりたいのかは解らないまま、次は何をすべきかは見えるのです。八女市出身の農学者高橋昇博士による戦時下の朝鮮半島の農業と農民の克明な調査研究に入るためには、すこし前準備が必要です。最初に、高橋博士の仕事を同じ農学者の目からご覧になり評価なさった、飯沼二郎氏の紹介文を先週まるごと引用しました。つぎは、高橋博士のただ一人の子にして、父の最期を看取った(ということばは正確ではないかもしれぬ。過労による突然死の現場に立ち会われた)ただ一人の人でもある高橋甲四郎氏の書かれた『父の遺稿』(海鳥社2001年刊)から、飯沼二郎氏との出会いを書かれた章をそのまま引きます。なぜ全文引用するかといえば、この文章から様々なことが生き生きと見えてくるからです。あたかも自分がそこにいたかのように。

    「飯沼先生との出会い」   

                高橋甲四郎

 1990年(平成二年)四月になって、未來社(姫野注・東京の出版社)の田口英治さんから、待望の電話がかかってきた。

 「あなたのお父さんの原稿について、五月中旬に飯沼二郎先生と二人で貴宅にお伺いしますので、その節はよろしくお願い致します」

 いよいよ具体的な話になってきた。私は緊張して答えた。

 「分かりました。ところで、お二人とも私はお顔を存じませんので、来宅される前にあなたの顔写真を送ってください。私の写真は今日明日中にお送りいたします」
 「承知しました。写真はできるだけ早くお送り致します。具体的日時は、飯沼先生のご都合もありますので、先生と打ち合わせて後にお返事いたします」

 こんなやり取りがあって、四月下旬になって、田口さんから再び電話があった。

 「飯沼二郎先生と相談の結果、五月十五日と十六日、八女市に滞在して、貴宅で遺稿を拝見させていただきたいと思います」

 五月十五日、新幹線で博多駅に着く二人を、私は駅まで迎えに行くことにした。十五日十五時三十七分に、「ひかり」153号は、定刻通り博多駅の新幹線ホームに入って来た。

 私は、田口さんの顔写真を手に持ち、打ち合わせておいた二号車の昇降口から乗り込み、中の様子を急いで見回した。すると、中央付近の座席から、すっくと立って両手を前の背もたれに置き、にこやかな笑顔でこちらを眺めていられる、背の高い方の姿が目に止まった。

 「もしや、あの方が飯沼二郎先生ではなかろうか」

 そう思いながら、ゆっくりと車内に入った。すると、その方の横から未來社の田口英治さんと思われる方がこちらに歩いて来られ、そのあとから背の高い方が続かれた。私は慌てて車外に降りてホームに出た。私は名刺を二人に差し出しながら挨拶をする。

 「田口です」

 田口さんも名刺を取り出して私に差し出された。

 「こちらが、飯沼先生です」

  田口さんが傍らの飯沼二郎先生を紹介される。飯沼先生は、「や」と軽く相づちを打たれた。三人は、鹿児島本線下りの特急に乗り換えるために、新幹線ホームの階段を下りて行った。
  私は、飯沼先生の荷物を持ってあげねばと思い、飯沼先生をあらためて見つめた。ノーネクタイのこざっぱりした服装、そこら付近をちょっと散歩して来るようないでたちである。手には何もお持ちになっていらっしゃらない。白くて平たい四角な布袋を右肩から引っ掛けておられるだけである。

 「先生、お持ちいたしましょう」

 と先生の方のつり紐に手をかけると、

 「いや、いい」

 と、きっぱりと断られ、さっさと階段を下りて行かれる。

 私たち三人は、再び階段を上がって在来線ホームに出て、しばらくしてやって来た下り特急「有明」19号に乗車した。
 特急は約三十分後、閑散とした羽犬塚駅に到着した。私は駅前の駐車場に預けておいた自家用車で、予約しておいた八女市内の中心街にあるプラザホテルに二人を案内した。一階からのエレベーターに乗って三階にある受付に行くと、蝶ネクタイに黒の背広を着ていた年若い男性従業員が、

 「ここは、前金になっています」

 と言うので、私が財布を取り出して二泊三日の二人分の宿泊費を支払おうとすると、飯沼先生が、私を押しのけるようにして、

 「こちらから望んで遺稿を見せてもらうのだから、私の宿泊料は私が支払うのは当然です」

 と言われた。私は慌てて、

 「いいえ、いいえ、遺稿の調査を依頼したのは私のほうですから、」

 と、飯沼先生の申し出を強く断わった。(あすにつづきます)。

 高橋甲四郎著『父の遺稿』(海鳥社2001年)から引用。

2006年12月11日 (月)

農学者・高橋昇 4

(飯沼二郎『高橋昇ー朝鮮の農民に学んだ農学者』、9日からの続きです。)

 彼は、朝鮮の農具についても研究をすすめた。1932年頃、沙里院で農機具の展示会を行い、朝鮮全土から在来の犂先(すきさき)とホミ(除草具)を蒐集した。どちらも400点近く集まった。ホミのほうはあまり地方差がみられなかったが、犂先は地方差がひじょうに大きかった。小さいのは移植ゴテぐらいで、重量も二キロに充たないものから、大きいものになると30キロ近いものまであった。このあまりに大きな地方差に驚いた彼は、集めた犂先の重量と寸法を全部測定し、その形をウス紙にトレイスし、詳細な統計表と分布図をつくり上げた。そして、作付方式、土壌の性質、地形、気候との関係などを究明した。さらに詳細な調査表を朝鮮全土の鋳物工場に送って記入してもらい、併せて、時間の許すかぎり、村へ出かけていって、野鍛冶の実態を調べた。朝鮮農業における野鍛冶のもつ意義を確かめようとしたが、このような研究は当時の日本にもなかった。

 朝鮮や、それに深い影響を与えた中国の古農書にも研究をすすめた彼は、中国出張の折には、北京の瑠璃廠(るりしょう)でごっそり中国農書を購入した。京城や東京に出る度に買い漁ったのはもちろんであった。最近でこそ、日本の農学者の中に、日本の古農書を、それぞれの地方における農業近代化のための不可欠な文献として重視する機運がおこってきたが、それまでは、それは過去の農業を知るための単なる歴史的な文献としかみられていなかった。高橋が中国や朝鮮、そして日本の古農書を買い集めたのは、たんなる歴史的な興味からではなく、中国から朝鮮をへて日本へと流れている東アジア農法の原理をとらえ、その中に朝鮮農業の発展方向を見出そうとしたからであった。当時においては、時流をぬいた卓見といわなければならない。

 「農業の研究者は文献というと、横文字で書かれたものだけと思っているが、認識不足も甚だしい。もっと身近にある中国や朝鮮や日本の古農書をなぜ勉強しないのか」と、彼は常々慨嘆していたという。

 どうも研究に少しかたよりすぎたから、最後に、農民と直接かかわる話をしよう。日本のような湿潤な気候の所でできた小麦は軟質でパンに適せず、パン用小麦は米国やカナダから輸入されていたが、十五年戦争が激化するにつれて、その輸入がだんだん困難になってきた。西北朝鮮の気候は乾燥しているから、硬質の小麦ができるはずだと高橋は考えた。そこで調査をしてみると、果して西北朝鮮産の小麦は日本産に較べて、グルテン含量がはるかに高く、米国産やカナダ産の小麦に匹敵することが分った。ところが朝鮮の製粉会社は、パンには適さないと主張して農民から安く買い上げ、その実、パン原料として多量の小麦を朝鮮から日本に送っていた。
 高橋は、沙里院支場産の小麦で製パン試験をくり返し、苦心の末、立派なパンが焼けることを実証し、ついに製粉会社の買上げ価格を1939年度から1円50銭値上げさせることに成功した。当時、小麦は石当り25円前後であったから、農家の手取りは6~7%も増えたわけである。

 当時の総督府は、朝鮮の小麦を少しでも多く製粉会社に売らせて、それを日本に送ろうとし、そのため農家の自家消費をできるだけ抑えるため、農家に対して小型製粉機の普及を抑えようとした。したがって、農家は近くの精米会社の所へ小麦をもっていって賃びきしてもらうほかなかった。製粉賃は無料であったが、製粉歩合は65%どまりで、業者は残った麬(ふ)をさらに機械にかけて粉をとっていた。高橋の計画によれば、もし農民自身で小型製粉機を利用することができれば、製粉歩合は85%以上になるはずである。それは小麦を二割増収するに等しかった。

 そこで高橋は、沙里院支場に大型製粉機を設置してみずから製粉を行い、ウドン、素麺、キシ麺、冷や麦をつくったが、いずれも好評であった。その結果、製麺は小麦の中心地沙里院の名物となり、製麺工場が12軒もでき、沙里院製麺組合が設立されるに至り、12工場で年間2万石の小麦が消費された。

 次は醤油である。当時まだ珍しかったアミノ酸醤油を試作することになり、その研究もどうやら目鼻がついたので、沙里院在住の朝鮮人によって、米糠および大豆の搾油を兼ねたアミノ酸醤油製造の会社が設立された。

 こうして、沙里院にアミノ酸醤油の工場ができ、製麺組合ができたことは、畑作の中心地沙里院にとって大きな意義があった。しかし、農民を愛した高橋の気持としては、製粉、製麺ぐらいは、農民自身にやらせたかった。なぜなら、農民自身で製粉すれば、農家の収入は二割増え、製麺すればさらに二割ふえるはずだからである。農家にとって収入が四割ふえるということは重大なことであった。しかし、残念ながら、農民自身でそれを実行することは、当時の状況からして、きわめて困難であった。

 1944年、総督府農試も、ようやく朝鮮の在来農法研究の必要を認め、そのため農試の大改革を行い、高橋を本場の総務部長にすえた。しかし、翌年日本は敗北し、総督府農試そのものが瓦解した。高橋は、愛する朝鮮から去らねばならなかったのである。

 〔備考〕 落合秀男「朝鮮総督府農試西鮮支場長高橋昇」(『旧朝鮮における日本の農業試験研究の成果』1976所収)に負う所が多い。感謝する。

          (いいぬま・じろう  京都大学名誉教授)

※ 飯沼二郎 http://www.jca.apc.org/beheiren/405IinumaJirousiSeikyo.htm

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2006年12月 9日 (土)

農学者・高橋昇 3

(『青丘』1991年9月号より、飯沼二郎京都大学名誉教授の書かれた紹介文『高橋昇ー朝鮮の農民に学んだ農学者』から引用、きのうのつづきです。)

 間混作や作付方式の研究は、日本においても、徳川時代の農民によって積極的に行われた。否、むしろ、徳川時代の農学の中心課題は作付方式や間混作の研究にあったといっていい。しかし、明治になり、西洋農学が日本に導入され、それによって教育された日本人エリートが日本の農学研究の中心に座を占めるにつれて、この徳川時代の農法による達成は、不合理なもの、不規則なもの、幼稚なものとして否定された。なぜなら、土地生産力の低い欧米では、一年に一作しかできず、一年に二作も三作もでき、その上、間混作さえできる日本農業は、とうてい理解できないものであったからである。それ故、間混作や作付方式の研究は、その後、大学や試験場では放棄され、農民自身の手によって行われつづけた。

 国立農業試験場が、これについての研究をはじめるのは、敗戦後の食糧難を打開するため、畑作を正式の研究課題として取り上げて以後のことであり、まもなく、従来のポットや小面積の実験では、それを行うことの不可能なことに気づき、北関東地方の農村について、その実態を調査することになった。しかし、このような新しい試みは、けっきょく、日本の農学者たちにはなじまず、数年ならずして放棄されてしまった。

 このような日本における動きに対して、高橋の研究は、数十年も先んじていた。それは、朝鮮における畑作が、日本のそれよりも、はるかに進んでいたことによるものであろうが、当時の朝鮮における日本人農学者には、日本農業よりも進んだものが朝鮮農業にあるなどということは、とうてい、考えることもできなかったのである。そのような中にあって、高橋が、朝鮮における二年三作法や間混作の研究に着手したことは、本来、高橋が農学研究は研究のための研究であってはならず、農民のための研究でなければならない、と考えていたからでもあったが、同時に、彼が、当時の日本人一般にあった朝鮮人蔑視感から完全に解放されていたことによるものである。そのような彼が、伝統的な試験場技術ーポットや小面積での実験ーの域を越えて、直接、農民に学ぶという調査研究に向っていったのは、当然のなりゆきといえよう。

 「農事試験場のものは、実験室内の仕事や場内の圃場試験にこだわり過ぎている。だから試験場での成果が農家から遊離してしまっている。しかも、遊離してしまっていることに気がついていない。日韓併合以来、ほんとうに朝鮮の農家に定着して役立っているのは、稲の正条植だけではないか。まず、農家に飛び込んでいって、謙虚に教えを受けるべきである。」 という言葉が、当時の高橋の言葉として伝えられている。

高橋は絶対といっていいくらい調査表を作らなかった。そのわけは、調査表をもっていくと、調査項目の欄が埋まれば、それで安心してしまうし、逆に調査表にしばられて、調査項目から一歩も出られなくなるからであった。そして、いつも、藁半紙の雑記帳を数冊ポケットに押し込んで、でかけていった。ときには焼酎を一升ぶらさげて、農家のうす暗い温突(オンドル)に座り込んで、農家のおやじさんと盃を酌み交わしながら、興至れば、何時間でも話し込んで動かなかった。そこには、日本人一般の朝鮮人蔑視は、ひとかけらもなかった。

 とくに、調査といってでかけていかなくとも、会議や講演などで出張したおりに、ちょっとでも時間があると、すぐ村へ行って、農民と話し合った。高橋は沙里院支場からあまり遠くない部落を一つきめておいて、ひまさえあれば訪ねて、村の人たちとつきあい、農家の人たちの心をしっかりとつかんでいた。試験場の「えらい先生」ではなしに、一人の農民として、農家の心になりきっていた。高橋は自転車に乗れなかったから、いつも、誰か若い助手が彼を自転車の荷台にまたがらせて連れていった。彼は根っからの子供好きで、部落の中で子供をみつけると、お菓子を与えたり、虱だらけの頭をなぜたりした。

こうして、北は咸鏡北道の国境の火山地帯から、南は済州島にいたるまで、くまなく朝鮮の農村に足跡を印した。そして、膨大な調査資料を残した。日本の農学者は、戦後の一時期おもいつきのように輪作調査を行い、短期間で止めてしまったのに対し、高橋の農村調査が朝鮮全土に及び、しかも長期間にわたってつづけられたのは、彼の農民から学ぶという謙虚さ、朝鮮農民に対する深い愛情に基づくものであった。(つづく。)

※ 1 
前回より文中、何度も「間混作」 カンコンサクと読むのでしょう、出てきました。これは何であろうかと考えてみますと、字面から、ウネの間か端境期かに別の種類のものを同じ地で作るということだろうか。連想したのは、昔の(わたしのいう昔とは、昭和四十年代くらいまでの農村)水田です。たんぼのぐるりのあぜには大豆が同時に植えられていた。(それは味噌やしょうゆをしこむときや、納豆をつくるのに使われた。全部、自家製であった。)
では、カンコンサクとは、じっさいはなにをいうのでしょうか。検索すれども定義は出ず。しかし、むずかしい学術論文みたいな報告書タイプの文中、幾例か「間混作」、出てます。いずれも、南米コスタリカとかペルーとか、そういうあったかい国々の農業でした。 
http://www.knaes.affrc.go.jp/jnews/15/15p05.html← これはスマトラです。 読めますか。むづかしいですね。笑(長いので、一文を引用しますと→「陸稲、とうもろこし、キャッサバを間混作して、各作物を順次、収穫していく方式が多い。」←スマトラの農業を調べた報告文に使われていた間混作のことば、これで、ほぼ意味が伝わりました。)

  2
沙里院とはどこ?   
http://www.chosunonline.com/article/20070517000025
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%99%E9%87%8C%E9%99%A2%E5%B8%82

  3
稲の正条植とは?
セイジョウショクかせいじょううえでしょうが、これはきっちりと定規で測ったような間隔の条に植えていくことでしょうか。具体的には、いま、小学校の学童田で、四年生か五年生で実技をやりますが、そのときの正条植のやりかたは、農協青年部のおじさんたちが指導しましたが、長い紐を田んぼのあちらからこちらの端にひっぱって、それを一列植えるたびに同じ間隔をあけて動かしていきます。こどもたちは、紐のそぼに植えればよかったです。これで機械植えとおなじようにできました。。・・・ということは、それまでの朝鮮式の植え方はどうだったろうかという視点がでてきますね。これは本著を読むときにわかると思います。数ヶ月前打ち込んだ、中国の農業ジャーナル誌のご紹介で、大陸の農民の農業をちょっと紹介してありましたが、あれは「投げ植え」でした。
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/07/post_a0f0.html#comment-6985012

2006年12月 8日 (金)

農学者・高橋昇 2

昨日の『高橋昇ー朝鮮の農民に学んだ農学者』からの続きです。

 総督府農試は、各道農試の中心的存在であり、本場は水原、支場は朝鮮内、七ヶ所にあった。それらの支場の中でも沙里院は西鮮支場ともよばれ、朝鮮北西部の畑作地帯を研究対象とした。高橋は総督府農試着任以来、1928年まで水原の本場におり、以後、ながく沙里院支場長であった。日本の作物学は、明治以来こんにちに至るまで稲作中心に集中し、畑作の研究はほとんど等閑に付された。したがって、傲慢な日本人農学者たちも稲作技術については、日本の技術を朝鮮農民に高圧的におしつけたが、畑作技術については、自信をもって「指導」する技術をもたなかった。

 朝鮮の畑作を研究対象とした沙里院支場の場長として高橋が長く勤務したことは、彼の目を朝鮮の在来技術に向けさせることを不可避にすると同時に、また、朝鮮の在来技術に深い関心をもっていたからこそ、彼は沙里院支場長に任命されたのでもあった。

 水原本場時代に、彼のした仕事は稲の遺伝、育種関係の研究であり、それは彼の学位論文になった。しかし、それよりも、むしろ、彼らしい特色のある仕事としては、朝鮮中から主要作物ー水稲はもとより、大小麦、とうもろこし、高粱、黍(きび)、稗、粟、大小緑豆、胡麻などー二万以上の品種を精力的にあつめて、その特性を調査した仕事である。現在栽培されているもののみならず、朝鮮の古農書ー農事直説、衿陽雑録、山林経済、海東農書、林園経済志等ーに現れた品種名まで調査した。この頃から、高橋は、日本人農学者がほとんど関心をもたなかった朝鮮の古農書に深い関心をもっていた。そして異名同種の多かった朝鮮の品種名統一の必要性を説き、作物品種命名規定まで提案した。また、この品種特性調査に基づいて、200近い朝鮮農業地図を作成した。これらはいずれも、朝鮮の在来農法に確固たる基礎を与えようとするものであった。

 1928年、沙里院支場の第二代場長として沙里院に赴任する。このときから、彼の特色ある仕事が次々に生れることになる。すでに、初代場長の武田總七郎は、西北朝鮮地方に古くから行われていた二年三作法(麦ー大豆ー粟)を「すべての輪作法中、もっとも工夫を凝らしたもので、その苦心惨憺の跡は歴然たるものがある。要するに、その学問を応用せることにおいて、ほとんど遺憾なきこと、世界にこの右に出るものはない」と高く評価したが、しかし、日本人農学者一般からは、それは時代遅れの好ましくない農法であり、何とかして止めさせるべきもの、と考えられていた。高橋は、改めてこれに着目し、科学的立場で、その合理性を解明しようとしたのである。

 朝鮮における畑作は、1、秋播麦類の越冬と寒害、2、春季の乾燥、3、夏季の多雨による過湿に対する対策を主要な内容とし、そのため作物の種類と播種位置、畦の幅や高さ、耕起の深さなどが合理的に考えられていた。上記の二年三作法では、麦作を中軸として三作物の特性がうまく組み合わされ、広い畦の溝に麦を播き、豆は間作、粟は間作ではなく翌春、畦の上に播かれた。

          (あしたにつづく)。

※ 水原 http://www.asahi-net.or.jp/~qv5e-tcy/honbun/kankoku4.htm

参照:世界の農書:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E6%9B%B8 このうち、朝鮮の農書をひもとけば、飯沼二郎先生の引かれた数冊の名がでてまいります。

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2006年12月 7日 (木)

高橋昇ー朝鮮の農民に学んだ農学者

また引用を始めます。中断した「切字論」は、調べましたところ、新しく一冊になって出ているようですから、まるごと引用するのはまずいです。川本皓嗣先生、勝手に丸写しして失礼いたしました。こういう本は著作権を考慮せずばなりますまい。

これから写すのは、ちゃんと了解を取った上でのことです。説明は省きます。読めば見えてくるからです。数日に亘っての仕事になるとおもいます。どうかさいごまでお付き合い下さい。

   高橋 昇ー朝鮮の農民に学んだ農学者

         飯沼 二郎(京都大学名誉教授)

 1907年、統監府勧業模範場の開場式において、統監・伊藤博文は訓辞を述べ、明治維新以来の日本の農学によって韓国の農業を適切に指導したならば、「能く韓国と国民の生活を改善し衣食を充実するの功績を挙げ」ることができるだろう、といっている。農業はそれぞれの土地の在来技術に基づいて発展していくものであるが、このとき、伊藤の脳中には朝鮮の在来技術を尊重しようとする意識はまったくなかった。

 また同日、場長の本田幸介の「(韓国の)農産物の種類善良ならざるが故に、産額従て多からざるのみならず、品質もまた劣れり、これが改良を図らざるべからず」という式辞も、朝鮮の農業を蔑視する先入観に満ちている。もともと国立大学出身の日本人農学者たちは、日本の農民を蔑視する傾向が強かったが、それが日本人一般の朝鮮人蔑視によって一層強化されて、朝鮮の在来技術を尊重しようとする意識がまったく欠如していた。

 勧業模範場という名前そのものが、日本の農業技術を韓国農業の「模範」にしようとする意識を端的にあらわしている。やがて、それは、日韓併合とともに朝鮮総督府勧業模範場、さらに1929年、朝鮮総督府農事試験場と改称され、1944年、道農試をふくめて総督府農業試験場に改組されたが、翌年、日本の終戦によって終止符を打った。

 その間、朝鮮人蔑視の意識は徹底しており、たとえば1931年5月現在の職員数は、技師が専任15人、兼任13人、属が専任7人、技手が専任31人、兼任4人、合計70人であったが、その内、朝鮮人は技手にただ一人、それも専任ではなく、兼任にすぎなかった。

 こうして、朝鮮の農業は日本人農学者によって日本人向けにつくりかえられ、たとえば稲作も、在来の朝鮮品種、栽培方法を否定されて、日本人向けの品種と、それに適した栽培方法に変更することを強制された。その結果、1912年を100とすれば、1928年の米の生産高は150と急速に増加したにもかかわず、日本への米の輸出額は186、朝鮮人一人あたりの米の消費量はついに69と激減している。朝鮮人農家は、みずから生産した米は食べることができず、満州(中国東北部)から輸入した高粱(こうりゃん)や粟(あわ)や稗(ひえ)を食べなければならなかったのである。

 このような日本人農学者のなかにあって、試験場の仕事は農家から遊離してはならない、まず、農民から謙虚に学ぶべきだという考えを実行した例外的存在が、高橋昇であった。

 彼は福岡県八女市の出身で、1918年、東京帝国大学農学部を卒業し、翌年、朝鮮に渡り、敗戦まで26年間、総督府農試に農業技師として勤務した。その間、一戸一戸、農家をたずね、朝鮮全土の農業をくまなく調査し、膨大な資料を残した。敗戦直後、この資料をもって帰国し、みずから整理しようとしたが、半年後、急逝した。その後、この貴重な資料は、ながらく埋もれていたが、今回、未来社から刊行されることになり(A4判約一千ページ。註・現在はすでに刊行されています)、先ごろ、財団法人韓国文化研究振興財団から出版助成金が与えられた。  (あすにつづきます。全文の引用は五日間かかると思います。)

※ 季刊誌『青丘(せいきゅう)』1991年9月号
      「特集・隣人愛の日本人」より引用
   発行   青丘文化社  李 進熙

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