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2009年10月21日 (水)

佐世保の歌人 草野源一郎

連句仲間の山下整子、古賀音彦両氏が所属する老舗の短歌結社「やまなみ短歌会」の会長は長崎の佐世保の人だったなんて、知らなかった。西日本新聞の短歌月評(志垣澄幸氏担当)を読んでいましたら、いくつかのお歌が紹介されていました。整子、音彦両氏への敬意をこめて、ご紹介いたしたいとおもいます。かささぎにとっても、父の長姉(故人)が所属していた会、縁がございます。なお、父の次姉は佐世保です。(『伯父の戦記』の妻)。

そのまま引きます、以下は志垣氏の文章です。


歌集『余光の橋』は『本明川』につづく草野源一郎(長崎県佐世保市)の第三歌集である。作者は「やまなみ」短歌会代表である。

梅雨明けて日々をかがやく蒼き天(そら)
病棟六階蝉の声なし

暑き日をいひて汗拭ふ見舞客
こゑきびきびと臥すものを圧(お)す

妹の語る世間も人々も
湧く白雲の彼方の世界

耳遠きものはベッドに耳寄せて
聞きて言ひつつあはれ妻の香

「入院」のなかの作品。病者として入院生活が長く続くと、見舞いにきた客のきびきびとした声に生活者の力強さを感じて圧倒される。また妹の語る世間の様子、その人々の生活も、病院という病者の世界にいる作者にとっては、別世界のことのように思われる。病い得た作者の細やかな心情がみごとにうたわれている。「あとがき」に「長年の宿痾(しゅくあ)による生活の場は著しく縮小され、殆どが屋内、小庭のみ、天気の好い日は住居の周囲を歩く程度・・」とあるが、それだけに一首一首の歌は細やかで深い凝視の眼があり、味わいがある。

ふたりして創(はじ)めし家にふたたびのふたり
朝夕(あさよ)を言葉少なし

静かなる海見て帰る
とこしなへと思ひし干潟わが生(よ)に滅ぶ

病める身に近々と来て水鳥は
冬のひかりを頒かちゆきたり

2009・10・19(月)志垣澄幸担当短歌月評
西日本新聞文化面記事より引用しました。

これらの歌、そして志垣さんの批評文をよみまして、私は前田先生の肝いりで去年まいた連句の匂いの花を思い出しました。

花宿りしてます白湯を吹いてます  永渕 丹

(平成連句抄『月と花と恋と』収録歌仙「四方の春」)

れぎおんでこの歌仙につけられていた永渕丹さんの留書を思い出しました。
丹さんには若くしてなくなったおばさんがいらして、その方が病床でいきる病者特有の研ぎ澄まされた感覚を教えてくださった、というものでした。体力の衰えたうつくしい人が白湯を吹いて飲むという行為と花宿りという季語が照応して、独特の美意識を放っています。

健康なものらは勢いがよすぎてがさつでさえある、その精神の眼は目立つもの華やかなものにしか向けられない。そんな世界を一切拒み、まるでその報いのゆえであるかのように体をやむ、その幽かに開いたフィルターに受け容れられるものは、朝の光と夕べの光、静かな海に風のことば、水鳥のはばたき。耳の遠い老妻のなつかしい香りをかぐために聞きものをする夫。
ゆたりとした旋律をもつ歌のふところの深さ、大きな樹の下でみるゆめの記憶のような。

2009年5月18日 (月)

山元志津香句集 『極太モンブラン』

料峭やいまも極太モンブラン  山元志津香

作者は1934年盛岡市生まれ、川崎市在住。
俳諧師。季刊俳句・連句誌『八千草』主宰。
句集名にとられたこの一句は、世の中がどんなに電文化されても私は絶対に手書きですよという、自嘲ならぬ自恃の一句。
極太モンブランという物に全てを語らせ、取り合わせた季語の料峭=春浅きときの肌寒い風=が、毅然と誇らかにシュプレヒコールをあげる。

戦はぬ国でありたし野川澄む  志津香

前田師もそうであるが、この世代の人たちは戦中戦後の飢えを体で知っておられる最後の世代である。
まず真っ先に平和あってこそ、の思いがものすごく強い。
三無主義のわたしなどが時流に棹差して左見右見するのとはわけが違う。
そして、そこをきっちりと俳句にされたところに、とても深い感銘を覚えた。
これは格言ではないし標語の類でもない。
この国にいきる一個の女性の祈念の俳句である。

蜘蛛は囲を月にかようて架けてゐる   山元志津香

「かようて」は通うて。「通ふて」の音便変化。
蜘蛛が糸を張り巡らせるのを志津香さんは見ていた。
まんなかに大きな月が出ていて、その中心に丁度蜘蛛の囲は架かっていた。
夢中で糸をかけている蜘蛛は、どこかこの世のものとは違う存在に見える。
月から糸を仕入れてくるのだ、きっと。
でなければ、あんな小さな体から、あんな複雑で緻密な網目模様は生まれない。
虚空にきっちりと立体図形を立ち上げる力はどこから来るのだろう。
蜘蛛の吐く大量の糸!
なんと不思議な句!

  以上、かささぎ選三句。

山元志津香句集『極太モンブラン』2009・4・20

2009年5月12日 (火)

はぶてとるときの『点鐘』

こころはぶてとるちょうどのとき、スミサクさんの川柳誌『点鐘』134号が届いた。

(はぶてとる、とは方言、むくれてるとか、あれている)

昼ごはん食べながらよんだ。

くすくす・・

けっけっけ・・

あっはっは!!

ばかじゃんこの渡辺隆夫って柳人。(すんません)
なんかおかしい。やっぱ川柳はわらってなんぼのもんやねえ。

こげんとのあっとです。

神奈川県 渡辺 隆夫

君が代だ各自保身の口パクだ
吊し雛に東条首やイケメン首
天の川泳ぐ御先祖さま一行
通販で老人用の仕込杖
テポドンに紅の豚ぶちかまし
脳しんとうにはキツツキ製薬のキツケ薬
便秘には両国薬局のオシダシ

2009年5月 8日 (金)

小森清次句集『江戸菖蒲』に寄せて  

  青木 貞雄(元「九州俳句」編集長・北九州在住)

    『九州俳句』154号(平成21年5月15日発行)より

小森清次さんの第一句集「やまとたける」の跋文の冒頭で、わたしは小森清次さんを、「九重のみどりがよく似合う男の一人だと思う。一見無骨そうな体つきに似合わず、やさしい目で九重連山を見上げる姿は、凡そ雪国新潟の人とは思えない九州の男っぽさを感じる」 と書いた。

今年の天籟通信新年俳句大会の席上、清次さんは句集発刊に対するお祝いの謝辞として、昨年大事なご子息を亡くされ暫くの間、自失の渕に嵌り、仕事も俳句も手につかず、只々子息の牌に対峙する毎日であった、と今にも溢れそうな涙を抑えながら、発刊に至った経緯を述べられた。

句集の評に入るのだが、江戸菖蒲の欄の三頁に大学箱根駅伝十句と題して

 学ランの初駆けに沸く都かな
 はら痛のジンクス雪の権太坂
 一歩入れば箱根は雪の槍ぶすま
 あんちゃんの箱根力走佐渡は雪
 逆さ富士凍(しば)れて我等完走す


ほか五句があり、また数頁置いて、

 素振り千回厳冬ゆるむ気配なし
 補欠でいいさ大根の花まっさかり

に清次さんの隠れた一面に気がついた。俳句の世界は、企業の学歴社会と異なり、学歴や経歴などを滅多には喋らない。清次さんは学生時代を駅伝にまた剣道に、若きエネルギーを燃やしていたに違いない。そう言えば清次さんの発言には、未だに若き血が漲っている。
此処まで来て、あの律儀な清次さんが哀愁に充ちたピエロの姿に変貌する。

 納税のついでに風邪を置いて来る
 水道を出て若水になりすます
 ツケの利く酒屋の角を恵方とす
 字余りのおとこ踏ン張れ春の馬

これらの句を見ていると、哀愁というよりも、おかしみに充ちた滑稽さを感じる。滑稽のおかしみを宗とせざれば、俳諧にあらずと唱えたのは、芭蕉の門弟許六である。いま清次さんの句のおかしさを採るべく、第一句集『やまとたける』 から数句拾ってみた。

 万策の尽きて煮干になりにけり
 ジャンケンに負けて芒となりにけり
 ていねいに並べたんだねいわし雲
 デパートを引っ張ってゆく兜虫
 生涯をすすきのままでおわりけり

こう並べてみると、清次さんのおかしみの質の変遷を伺うことが出来る。

 小森清次句集『江戸菖蒲』三十句抄

ぼくが貰った大往生の冬帽子
尺蠖りのぴんこしゃんこと急ぎけり
切り火打つひとつ女増しの江戸菖蒲
納税のついでに風邪を置いて来る
つちふるやおろおろ昏れる鉄の町
たくあんとめしで御の字去年今年
雪卸し重ねし村を捨てかねる
どんど火のするめの踊る竿の先
白馬も槍も流れて来る雪解
へそくりの中も菜の花日和かな
ジューンブライド婿は越後の鬼ごろし
火遊びを知らない頃のななかまど
さんま焼くだけの七輪渋うちわ
絵に画いた餅の歯ごたえ去年今年
賀を述ぶる骨董品のような顔

雪女振り向かせたら君のもの
まっとうな百合根人生茶わん蒸し
無住寺の美男かずらに騙されて
水道を出て若水になりすます
啓蟄や開けっ放しの大金庫
万緑やひとくち大の塩むすび
秋風のするりと抜ける身八ツ口
ツケの利く酒屋の角を恵方とす
うしろからつつけばへこむ春の月
大佐渡に小佐渡寄り添う春の闇
一徹なカンカン帽でありしかな
寡黙なりし漢(おとこ)の墓標花野燃ゆ
雪掻いて押して人生駆けくらべ
新しき墓にもの言う寒さかな
字余りのおとこ踏ン張れ春の馬

  青木貞雄・抄出

かささぎの旗:姫野のざんげと感慨

小森さん。
新潟の豪雪地帯のひとなのに、長年九州俳句に付き合っておられる小森さん。
そのお名前を拝見するたび、胸の奥に火箸を当てられたような痛みが走ります。それはかささぎが若かりしころ、小森清次句集『やまとたける』 を、こてんぱんにこきおろしたからです

鹿児島の俳人・国武十六夜氏の全句手書きの書による句集は、きれいな和紙の箱に入っていて、とっても立派でした。それなのに、いや、だからこそなのかもしれない、十年前のわたしの目には、それがとてもスカスカのものにしか見えなかった。
採ったのは次の一句だけでした。

木造の郵便局のさくらかな   小森清次

これは今も空でいえます。大好きな句だからです。
なみだがでそうなほど、懐かしい。

九州俳句にこてんぱんを書いたあとの樹(たちき)の新年句会で、はじめて小森さんにお目にかかりました。
猛烈に怒ったおかおで、「あんたね・・・」と言って、わたしをにらみつけておられましたが、ただ頭をさげるだけの私に、諦めたようにフイっと、「もう・・ゆるしちゃる!」 と言って、手にしておられた花束をグイっと押し付けて、去ってゆかれました。
そのときの、清次さんのなんともいえない
お顔。
ガキ大将が喧嘩に負けて、抑えきれない怒りを収拾している時のような。

ほんとはぜったいおまえのことは許さん!!
と、その目が言っていました。
だけど、かささぎは、そのとき、はじめて、
確かな手ごたえを感じたのです。
ものをかくものとしての。
軽蔑されようが怒りまくられようが、書きたいように書くのだ、とおもった。

あれから十年。
この第二句集は、かささぎには、送られては来ませんでした。
かささぎがけなした「やまとたける」が、彼の第一句集であったことにいまさらのように思い至り、天をうち仰ぐのであります。

2009年2月26日 (木)

川柳誌  2008年点鐘雑唱  

かささぎの旗では、縁ある方々から戴いた御句集、同人誌を時間の許す限り紹介したいと思っております。けさは、れぎおんの表紙絵とカット絵でもおなじみの堺市の柳人・墨作二郎氏が地道に二十年以上に亘って発行しつづけてこられた『点鐘(てんしょう)』誌の年に一度のアンソロジーをご紹介いたします。
あとがきをまえがきといたします。本日はパート1。
現代川柳の潮流が概観できるかと思います。
スミサクさん、毎年ありがとうございます。
しっかり読んでおります。俳句と交わりつつ俳句を超える気概。
連句の雑の部で出したい句がたくさんある。
恋句も俳句より多いし、有季定型川柳もある。
連句人も数人いらっしゃって、お!と思いながら読んだ。
ただ、時事川柳は弱い。
これはしようがない。政局や世の中の動きがものすごく速くなっている。
(余談ながらきのうもお上からわが職場に失業者対策の処置をするから福岡まで出向くようにとのお達しみたいなお誘いの電話が何度もありましたが、はっきりいってありがた迷惑。おそすぎる。あとひとつきもせぬうち、最需要期はおわる。それ過ぎたら交通誘導警備業界は閑散となり季節労働者はさる。もっとはよせんかい。とおもった。)
いま読んで意味がわからぬ時事詠だろうと思われる句が散見された。
そういうのは毎朝、サラリーマン川柳でよむべきなのだろう。
普遍とはある意味、真っ向勝負の世界、それが川柳だから。

『点鐘雑唱』2008年刊

  現代川柳・点鐘の会

▼あとがき   墨 作二郎

恒例通り「点鐘雑唱」を発行して、それも二十二冊になる。
思えば多難の年であったと感慨は殊更深い。
漢字一字が「変」と決まって、経済不況は殊更に深刻。
この先も尚変転を予想される。
この様な時代に川柳をどう書けば良いのだろうか。
時に先達の存念を聞いて見たいとも思うばかりである。
点鐘の会も二十三年を迎え、常に「これからの川柳」を目指し、新たな川柳開拓を心がけて来た。新しい仲間が増えることにより、共々研究を怠らぬようにと心掛けている。「点鐘雑唱」は一年の成果を纏めたものであるが、繰返し読んで吟味して頂きたい。
点鐘誌への投句者も順次変化しつつあるが川柳に対する情熱は忘れず進展しつつあると自負している。相互に教えられて実力が向上するのである。点鐘勉強会も点鐘散歩会も一途に前向きで、その成果の程を常に好もしくしている。今後は更に深遠なる充実を心掛けたいばかりである。
先に「点鐘散歩会」の記録を一冊にしたが好評であった。
これは一重に取纏めに懸命だった有志の尽力によるもので感謝のほかはない。
この様に点鐘の会の今後は、良い仲間の協力体制で守られていることを忘れてはならない。各々に一層の活躍が望まれるのである。
新しい年を迎えて新しい作品が発表される。
その進歩と啓発を心より願っている。

   平成二十年十二月

作品

墨 作二郎

版画には番屋風景 硝子の浮き玉
万華鏡つぶやき ゲルニカ空転する
いつの世の銀貨 ゴンドラ着地点
壁に魔女の仮面が並ぶ エプロン売場
「蟹工船」時間差 銀行でない銀行
石柱にテニヲハ二月 迷彩服
橋の向こうは雪屋根 座り胼胝
思い出したように花に水やる 終戦忌

渡辺隆夫

補聴器を切ると桃源郷にいた
とげ抜きに来る銀座カンカン娘
原油高騰につき風葬可・水葬可
亀鳴くと鳴かぬ亀来て取り囲む
女将の特技は種回し皿まわし
農水の阿保ぼけなすび油むし

里上京子

縋りたい藁がなんだかわからぬが
鏡はだませてもだませない心
朝顔の蔓にきわどい視線あり
繋がったままの短縮ボタンあり
ボランティアの名札を鼻にかけている

中村迷々亭

共稼ぎ槍と楯とを持ち替える
遮光紙をやぶり遠景たしかめる
耐え抜いた人を乗せてる人力車
合鍵に一人じゃないと言い聞かせ
錆びたナイフ隙間だらけのピカソの絵

佐藤純一

爪が伸びたらブランコから下りる
うすば蜉蝣 十年日記書き出して
菜の花のはるか彼方に霊柩車
老婆心ながらと梯子はずされる
また曲がっているメランコリーな胡瓜

小池正博

湯豆腐やいくつあってもいい命
欄干の猫でもやはり怖いですか
善悪は垣根くぐってから決まる
木星が好きで月見うどんが好きで
指は蝋燭 火を消すときの心地よさ

春城武庫坊

決断の無痛無意識手術は無事
三日月に歩け歩けと連れ出され
癌手術して正月料理見てるだけ
いくつになってもチャンバラの血は熱い
もう七月 体重ふえぬ日が続く
蝉は合唱 気温が上るだけのこと

本多洋子

八ヶ岳冠雪ノコギリ岳いびつ
大仏の背なにぽっかり虚空の虚
泣きべそをかく外陣のおびんづる
なまはげ怒らせ山暗がりに雨
泣ぐ子いねーか介護保険は払えるか
いざという時の右手に紙コップ

南野 勝彦

一人になる子供になる私になる
今日もまた反戦の蝉鳴いている
やかましいと僕は言えない八月の蝉
汗を急ぐ いいことだったらいいのだが
赤とんぼこうしていよう暮れるまで
夏越した金魚の水を替えている

瀧 正治

昼の闇ぎっしり詰めるダンボール
記念樹が植えた順から枯れてゆく
カーナビで浄土の手前までは行く
神様が鳴らす自動の鐘搗き機
活断層の真上に当たる避難場所
哲学に浸る医院の待ち時間

瀬尾照一

七草粥から忘れずに小豆粥
ポケットに手を入れている負けている
単線の窓にちらり大和三山ちらり
新キャベツ新ジャガ おっと病院食
赤も黄もカンナは凛と立つ女
あさがおの元気を見てるひとりっ子

進藤一車

えにしときずな それに首吊り縄がある
冤罪や無人ピアノが鳴っている
駄菓子屋の匂い   後期高齢の匂い

杉戸金一

言霊がこれほど軽い日本語
ランキング本が完売 軽い脳ミソ
避難所か迷路か判らぬ案内図
こんなにも薄く切れるかマグロのお刺身

行列が出来ると 脳はむき出しに

阪本高士

ふるさとの景色を春の大皿に
みどり・緑 ちょっと昔のことですが
満月を見ているわがままなふたり
真っ白い猫が座っているページ
痛いところにそっと止まった糸トンボ

児玉怡子

読みかけの文庫本置き 爪を剪る
金木犀 
むかしの匂いすれ違う
海の高さと坂の高さが同じ家
一日いちにち蜜柑熟れゆく加齢かな
日本中が祭り 不景気な話

伊東マコ

煮びたしの茄子に根性説いてみる

井上恵津子

先生のオルガンに逢う皿うどん

小田明美

雪催い 今宵無口の人といて
ビロードの闇ちりちりと遠花火
あの夏に堕ちていきます火の花弁

今井和子

朝の自転車野鳩の声にせかされて
りんご割るその時ふっと母も居る
星を見上げて 
私を少し光らせて
ほのぼのと砂場に遊ぶ帽子たち
古い言葉の優しさはとっておく

岩崎千佐子

ぬくもりを一匙すくう散蓮華
猿芝居の猿の覚悟が落ちている
つぎはぎの堪忍袋裏返す
転がりながらみんなわすれてゆく手毬
言い訳を買いに走ったことがある
指揮棒が手垢まみれになってきた

岩田多佳子

足早に空き缶蹴って次の辻
サボテンに花を咲かせてさようなら
片虹を揺らし尺取虫の反り
わたくしの背なのビオラの軋む音


上野楽生

故郷が相撲甚句に盛ってある
遠い日の夢に出てくる紙芝居
介護付きホームが胸を張っている
右ひだり見てアメリカを見て立ち泳ぎ
原っぱに整列している ゴミ袋

大橋あけみ

介護まだ小さな傘が置き去りに
掌の中の海が溢れる日向ぼこ
ごった煮の中で人間らしくなる

小河柳女

信じるものは 裏の畑の茄子南瓜
表紙だけ変わる世相の深海魚
俎板の窪みで残照を刻む
秋の蝶耳の運河を抜けて 藪
食卓の欠けたところに黄水仙
裏口から入る やさしい人だった

笠嶋恵美子

喝采でサーカス小屋が揺れている
体温になるまで絵の具溶いている
雑音を吸いとる大き目のカンバス
原色に触れると指が熱くなる
ぼんやりと見ているマーメードの乳房
踊り場で欠伸している 日銀
列島の腰のあたりが病んでいる

加藤かずこ

ひび割れの街で孤独なロボットよ
煮沸する昨日の余罪消すために
鍵穴をするりと抜ける仔猫たち
少しずつ男が沈むスープ皿
ガタガタの巣箱をゆする老ふたり
逆転はなかった 父のちびた靴

神谷 三八朗

積めば崩れる 崩れたら積む石よ
ゆるい坂だがこの頃歳のことを言う
誰でもいい用だから 君に頼む
本心を聴診器にも聞かせたか
逢った土橋は別れる土橋 昼の月
踏切で待つのも旅のうちのこと

川上千寿枝

八幡宮鳩文字 日傘揺れている
正面から反対はせぬ 石庭の白
正論の通らぬ不況 海猫よ
棚田百選 金子みすゞの風が吹く
春の扉のひとつ開いて苺摘む
イエスマンの人生でした杉花粉
「吾亦紅」唄えば母の微笑んで

2009年2月25日 (水)

高岡修句集『透死図法』評  星永文夫

高岡修句集『透死図法』三十句

    星永文夫・抄出

しののめの鳥類図鑑にある羽音
きらきらと助詞を殺しているひとり
水の炎(ほ)となる白鳥の発火点
花舗のくらがり亡命の白鳥を犯し
春暁を横抱きにして殺意くる
死界までその尾を垂らす山ざくら
春水に顔ぬすまれて失踪す
蝶を噛みいのちのにがさ満たす午後
永劫の綳帯で巻く蜃気楼
昏睡のたまご一個を揺り起こす
野遊びの夕べの空の挽肉機
暮れ果てて痴情あらわな野のすみれ
春夕べ水立ちくらむ瓶のなか
アネモネが血を売りにくるこの夕べ
行く春の頭蓋の窪の水たまり
煉獄がさくらすみれに逢いにゆく
この遊星のにおいすみれをどうしよう
死せば空に泥の虹吐くかたつむり
生たまご飲み野牡丹になりすます
〈死は思想〉蟻灼熱の地を噛めり
永遠のおとろえが見え罌栗揺れる
蝉の木を地の記憶より抜いている
海に来て死は昼顔を欲情し
かげろうは骨となるまで立ちあそぶ
こうこうと夢接木せる爆死の木
火口湖が飼う秋雲の溺死体
自死情死秋の湖心へ透きとおる
死者たちの指紋荒らぶる秋のノブ
死者たちの饒舌に輝(て)る夜の葡萄
姦淫は月光に舌入れてより

  高岡修句集『透死図法』

〈奢る死〉への刺戟に充ちて

      星永 文夫

高岡修は俳壇の中でももっとも異彩を放つ作家であり、詩壇の中でも確固たる位置をもつ詩人である。その両者の詩域に墻はなく、詩想の細胞が分裂し、拡大したり連続したりするとき、〈詩〉が生まれ、分裂せず、核自体が異光を放つとき〈俳句〉となる。この句集と、昨年九月刊行の『高岡修詩集』(現代詩文庫)とを合わせて読むと、そのことが明確になる。
それでも彼が〈俳句〉にかかわるのは、自らいう。少し長いが引用する。

俳句を俳句作品として異化させている機能としてゆいいつ解答可能なのが、切字を含む〈切れ〉の構造なのである。それを私は俳句のみならず詩の根源的な構造であるとしたいのである。もっとも、現代の詩作品において〈切れ〉の構造は複雑である。(中略)作品がまぎれもなく詩であるとき、その作品はどこかで(あるいは作品全体で)散文脈からの切れ方が、つまりは作品の詩的個性なのである。
そうであってみれば俳句の〈切れ〉の構造を検証することこそが、根源的な詩学を検証することにおいても、もっとも重要な事項となる。

 (「死の詩論」ー『高岡修詩集』所収)

そうだからである。『透死図法』を読み取る角度が、ここに一つ示唆されている。

       ■

『透死図法』はさまざまな〈死〉の透視図を展開する。
といっても、その〈死〉は〈生〉と隔絶された〈死〉ではない。
〈生〉の中に胚胎し、孵化し、果ては〈生〉を呑みこんでしまう、その予感にふるえる〈象かたち〉である〈死〉の諸相である。

海に来て死は昼顔を欲情し
かげろうは骨となるまで立ちあそぶ

これらが醸す〈死〉のエロス。〈死〉を荘厳で処理する日常を断ち切って、なまめく肢体(死体)を塑像する。ここに彼のいう切れが効果的に生かされている。

死界までその尾を垂らす山ざくら
永劫の綳帯で巻く蜃気楼

俳句的情緒たっぷりに浸る「山ざくら」や「蜃気楼」を、ずるずると死界へ引き込んで、そのまま美意識を剥奪した〈死〉の冷えた爛熟。

火口湖が飼う秋雲の溺死体
自死情死秋の湖心へ透きとおる

さまざまな〈死〉の形態を鏡のごとき湖に写し、検死官のように屍を撫でる。
〈美〉に昇華させるまで。かくてま一枚の透死図ができる。
などなど、奢る死、熟れる死、透ける死、はたまた狂う死、沈む死、迷う死、黙る死など、透死図法は多様多彩。
内なる未生の〈死〉を言語で紡ぐ、その手法は儀式めく納棺師のそれに似て美しく、静謐である。切れの妙致。
その点で、今年度もっとも異光を放つ、刺激的な句集であった。

『九州俳句』153号より引用

2009年2月24日 (火)

福富健男句集『異郷』評  高岡修

福富健男句集『異郷』三十句抄

     ( 高岡 修・抄出 )

多穴の流域舌の赤さの秋を走り
渡りゆく密航の窓つきそう弦月光
故郷の堰切れて卓をいろどる妻の手紙
霧が隠した山小屋の窓馬のぞく
髪刈られ村のゆたかな鳥瞰図
鍬(ホー)をなげるボス麦の刈跡燃えろ燃えろ
紅葉林のさびしい受話器汗ばむ僕に
アラビアの歌が呪文となるぶどう祭
方位失うまぶしさ赤い花弁水溜りに
ぶどう詰めた手の麻痺で夕焼の湖
びろびろと
蓖麻に吹かれて砂質の俺
霧が明るくて石油ポンプたちの首振り
首曲げてつっこむ小鳥たち戸惑うベトナム
まといつく母国語ウランとなる諂の空地
鳥くるくると落日を告げ一枚の麦秋
肉親のくぼみもつオレンヂ手さぐりの異郷
厚みます掌丘にびしびし多肉植物
霊柩車紅葉吸いこむぼくらの休暇
山際の虹言葉で温め合う村人たち
庭にバラ突き出し留守の日の妊婦
口あける影絵ぬるぬると泳ぐ芭蕉
霧の深みに背骨たててわが礼拝堂
青銅色の草てる六月ケネディー死す
紅葉の色ねられゆく森ゆたかな臨終
濃い影つけて歩く真昼白いけやき林
なにげなく菜の花をさす杜のやみ
叫んでいるから夕焼けている草の中
たびにねてしろい円柱ながくのこる
あやめいけるあらゆる壷の夜のしぐれ
あかい萩の一束たれて河童の笑い

福富健男句集『異郷』に寄せて

     高岡 修

句集『異郷』を出したいという連絡を受けたとき、福富健男は二つの希望を述べた。
ひとつは作品の全てを第二期の「形象*」から選びたいということ、もうひとつはその選句を私にしてほしいということだった。
私が「形象」に投句を始めた1968年、私はまだ十九歳だったが、福富健男はすでに旺盛な作句力を同誌に展開していた。
私が眩しく見つめた形象作家群のひとりである。
私は福富健男のその志と希望をうれしく受け容れた。
作業は全作品のコピーから始まったのだが、これが案外時間がかかった。
作品を探す途中で読み始めてしまうのである。
その当時の思い出にふけってしまうのである。
それはまたうれしい寄り道の連続でもあった。

「形象」への投句初期、福富健男は「海程」でも新人として嘱望されていた。
それゆえ、私の三十句選でも了解されるように、その頃の作品には、有季定型から離れた場所で俳句形式を屹立させようとする強い志向が見られる。
そうして今、そんな作品の中から私があえて推奨したいのは次の五句である。

多穴の流域舌の赤さの秋を走り
方位失うまぶしさ赤い花弁水溜りに
厚みます掌丘にびしびし多肉植物
霊柩車紅葉吸いこむぼくらの休暇
紅葉の色ねられゆく森ゆたかな臨終

一句ごとに試行されては確立されてゆくリズム、そのイメージの豊饒。
こうして書き写しながら私は幾度も賛嘆の声をあげてしまう。〈舌の赤さを走る秋〉〈方位を失うことのまぶしさ〉〈霊柩車が紅葉を吸いこむのかぼくらの休暇が紅葉を吸いこむのかわからないそんなぼくらの休暇〉そうして告げられる〈ゆたかな森の臨終〉。
何という見事な詩界の現前であることだろう。
ここには見せかけだけの手垢に汚れた意味などはひとかけらもない。
在るのは喩に昇華したイメージだけである。
四十年ほど前の現代俳句はこんなにも詩情ゆたかな作品群を有していたのである。いま私たちが立っている現代俳句の地平は、それから進化しているのか、後退しているのか。そうして私はこの句集の整理中に立ち止まった「形象」掲載の次の文章を思い出す。

「新しい芸術の養分は、つねに非芸術の領域に存することは、歴史の法則である。美術の歴史をひもとくと、ある時期に支配的な絵画様式が、その前の時期には非芸術として非難されたことが、しばしばであることを見出す。このことは、印象主義、フォーヴィズム、キュービズム、シュルレアリズム、アブストラクト等々が起こった時どのような非難や嘲笑をあびたかを想起するだけで充分だろう。(略)芸術が単なる繰り返しではなく、新たな価値の創造である以上、非芸術のなかにこそ新しい芸術の栄養が存するのである」
    (木村重信『現代絵画の解剖』)
かつて「海程」や「俳句評論」や「渦」といった句誌を中核とした前衛俳句の富を私たちはいつ失ってしまったのだろう。
句集『異郷』は私にそんな思いを抱かせてくれた貴重な一冊であった。

  超結社俳句季刊誌『九州俳句』153号より引用
       2009・2・15      

蓖麻:

http://www.botanic.jp/plants-ta/tougom.htm

▼ かささぎ読み三つ。

びろびろと蓖麻に吹かれて砂質の俺

びろびろと。というオノマトペが俳諧としての抜けを獲得している。
ひまし油の原料となるヒマ、この句ではじめて知りました。
誰も使わなかった蓖麻は、さらさらと零れ落ちる砂粒の俺に拾い上げられ、印象的な句になり、さぞや嬉しく本望だったことだろう。
風に吹かれているのはヒマの葉っぱのほうなのに、いつしか主客入れ替わっている。映像がうかぶ。

首曲げてつっこむ小鳥たち戸惑うベトナム

これ。かささぎは連句的に、ノーベル賞?だったか何の賞だったか知らないが、さいきんテレビでチラッと見た、海外の文学賞みたいなのを受賞して、スピーチでガサ侵攻反対を唱えた現代作家の顔が浮かんだ。きっとりっぱなことなんだ。でも・・・。こんなに離れたとこの人間になんにもほんとのところなんてわかりゃしないんだよよそさまの事情なんて。とおもってしまう。
りっぱなことは、なんとこっぱずかしいことだろう。

まといつく母国語ウランとなる諂の空地

書き写すとき、諂は焔の誤植ではないか。と疑う。
なんども読む、まといつくぼこくご。うらんとなる、へつらいのあきち。
まといつく母国語と、へつらいの空地がウランを核に等価契約を結ぶ。
それはいったいどういうことなんだろう。
安保反対するにしろ、賛成するにしろ、まといつく母国語。
へつらっている母国語。ウランを核に。ウランを核に。
核に守られながら。核を憎み。それに守られる。へつらう。
まといつく母国語。まといつくへつらいの空地。
空虚な暗澹と空虚な母国の・・・ことば。

そのことばでわたしたちはたましいのうたをかく。

(やはりかささぎは、三無主義の時代の人間だ。)

諂: てん。( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%82 )

まといつく母国語ウランとなる諂(てん)の空地  健男


2009年1月11日 (日)

『土佐行』

土佐行

     横山康夫

夕立せり島脱けを嗾すまで
常夜燈晝被冩體となるばかり
峽の驛はなやぎゐるは合歡の花
一輪に數多あつまる蓮見かな
日の辻の無風炎えたつ人の影
オカリナ高く瀧音を置き去りに
蜩と大地に鍬を入れゐたり
遠景の波の音なき高さかな
空蝉をかざせば沖は紺瑠璃に
八月の男を跨ぐ媼かな
月出づる一本杉の傷むまで
月の出の枝と化したる蟲の影
月光を殺めてしまふ床柱
床の閒に月光屆く山家かな
西峰を眞神は去にき盆の月
廢屋や音にはじまる夏の雨
羅やこころの洞(うろ)に風を入れ
杉の秀は天空に鯤呼びださん
亂伐や千年雨を乞ひつづけ
廢屋に殉じて虹の顯つならん
靑山河太郎次郎と戰没し
空谷の森閑たるを夏座敷
一領具足影が影生む芒原
かなかなや馬冷やすこともはやなく
三基目の墓は三郎澤滾つ
父は子の何見るべきぞ柞山
ふりかへる眼無數に風の山
風鈴の一山(いちざん)を澄みわたらしむ
桃囓り心は山の向かうかな
帚木や谷を出づるは山出づる

私と俳句     

    横山康夫

俳句は自分の心情を直接的に表現したいと欲する者にはまことに不向きな文芸である。わづか十七音といふ短さでは当然のことではあるのだが、言葉に信頼を置きすぎると逆に言葉に手ひどく裏切られることになる。
言葉と実体や現象は同じではない。
そのずれを承知の上で言葉によつてことがらの典型を描き出すことが俳句を書くといふことなのだと分かつてから、俳句を書くことが漸く面白くなつてきた。

   合同句集『花炎抄』2008.11.20発行
       こうひいや俳句会

横山康夫、健在なり。

かささぎがことにひかれる句。

月の出の枝と化したる蟲の影
空蝉をかざせば沖は紺瑠璃に
床の閒に月光屆く山家かな
靑山河太郎次郎と戰没し

三基目の墓は三郎澤滾つ
かなかなや馬冷やすこともはやなく

ふりかへる眼無數に風の山
風鈴の一山(いちざん)を澄みわたらしむ
桃囓り心は山の向かうかな
帚木や谷を出づるは山出づる

参照:

  1. こん【鯤】別ウィンドウで表示
    《「荘子」逍遥遊から》中国古代の想像上の大魚。北方の大海にすみ、大きさは幾千里だかわからないという。

2008年11月 4日 (火)

肥後飢餓講ーいたむから、撃ちに行く

  星永文夫句集『肥後飢餓講』

       - いたむから、撃ちに行く -

           前川 弘明

このB五版箱入り一巻は、たとえば黒い紋章を彫り刻んだ一個の壮麗な棺である。あるいは、とめどがたき血潮で満たされた月夜の暗い甕である。
星永文夫が叩く棺の音が聴こえるようだ。
渾身で揺さぶる甕の中のどよめきが聴こえるような気がする。
それらの作品は、濃い霧に覆われた土着の因習の哀しさを引き連れ、生死の蒼い灯をゆらめかせて、うごめくようにぼくの内耳を這いまわる。

本集は、初期句集「狼祭」(昭48)「肥後飢餓講」(昭50)に、戯曲「聴耳荒神黨(一幕一場)」を加えたものである。
星永は「あとがき」に「私の原点は〈飢餓〉であった。国敗れて〈神国〉が滅んだとき、信ずべき何ものをも亡って、その種子が播かれたのだ」と書き、別の付文でも「私は知っているのだ。私の飢えの盆地に、冷たくたぎる火のあることを。それは決して連帯しないことを。」と告げている。

 悪魔(ばけもん)が舟漕ぐ おしろいばなとなる白昼(ひるま)
 情死めらめら 水甕みそしる三日月村
 昼は鏡に 胎児ながーいローソク持つ
 突堤に傘さし 七人子を産む悪い女
 鷺は田に 狂った母が紙切るよ

この抜き差しならぬようなせつなさは、生き抜くことの怨念を思わせ、あおい狐火がそこらあたりに漂っているような気配である。
死はつねに生の裏側にあって、その絡み合いこそが生きることの証であると言うのであろうか。句の半ばを一字分脱落させることによって、句に一個分の飢えを与え、審問の息継ぎを期待するのであろう。

土着の精霊は土着の方言によって、呼び起こされる。
方言の言霊が親しく地霊を呼び起こさせるのである。

 

 誰(だる)か新地に精霊つれてほおずきの欲しか
 蛇ぬれて 白塗り村ン衆(し)が消えていくで
 蟹(がね)食うてよごとよごるるおなごの家

土地に育った素っ気ない言葉が、まるで地霊を呼ぶようにざわざわと葉ずれの音をたてる。

かぞえ唄の句がある。
「ひふみよいむなやと」のそれぞれの一字を冠にした句である。

 ふ・えの音の今夜おそろし銀のめし
 む・ぎの針折れておんなのはじめの日
 な・のはなに襲われる日は女郎買いに

かぞえ唄は、おおよそ悲しみと恨みの唄であって、子守唄や労働の唄にまぎれて低く人から人へと繋がれていく。

 水の村から万歳が来る 犬盗(と)るため
 倒れるから 爺よ 猪(しし)撃て  唄うように
 三時に遠い蓑虫ゆれる 厠の父よ
 乞食(キリスト)が火を焚く みごとな村民(なかま)の死
 この谷の飢えの何処かの彼岸花
 くれないに人はながれて橋づくし

若き日々の星永の心は飢えて、飢えの血潮のエネルギーを愛していたのであろう。

 ひたすらひかるざらざらかなしい日のしっぽ

この飢えの痛みよ。その親しき痛みよ。

 いたむから雪へ廃馬を撃ちに行く

 『九州俳句』 151号(中村重義編集発行)より引用
    平成二十年八月十五日発行

2008年10月24日 (金)

無常

 鴨居から見ている童顔爆忌来る   佐藤 綾子

           (句集『解凍の鯛』より)

佐藤綾子さんは大分の俳句誌「樹(たちき)」(瀧春樹主宰)所属俳人だ。
集中、わたしにはこの一句が深くこころに響いた。
ほかの句はまったく記憶にとどまらず、これ一句だけ。

爆忌とは原爆忌だろうか。それともー

そんなことはどうでもいい。

わたしの目は、かもいに釘付けになる。
鴨居。こんな字を書くんだなあ。
検索してみる。

日本家屋。

鴨居と敷居は柱を出て平行に走っている。

そうだった。そうだった。

かもいとしきい。

ふととかれる。封印した無常のきおく。

かもいからひもをつるして。

しきいとかもいのあいだには。

幻想のなか、延々とうねりながらつづく一本の道がある。
鴨居と敷居のあいだにはたくさんの鳥たちがぶらさがっている。

きぼうがうしなわれて。
ゆめやぶれて。

それはにげであるのか。
それともやすらかなすくいなのか。

平和と戦争。

ピアノの鍵盤に白と黒がならぶように。

戦争と平和。

さけがたく、この世にそんざいするもの。

その鍵を、鳴らせ。

鳥たちを、放て。

2008年10月 8日 (水)

記憶の川

吉津清子句集『清夏』から二句。

負ひきれぬ杉の冥さを蟇      清子
とどまれば人老ゆるらむ桃畑   〃

上記二句から導かれる一句。

雛祭杉の迅さのくらやみ川  飯島晴子

かささぎがとんでもないのは、へいきで記憶でものをかくこと。
おゆるしください。晴子句、正確な引用ではないかもしれない。

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_690a.html

2008年6月 9日 (月)

「肥後飢餓講」星永文夫初期作品集Ⅱ

「肥後飢餓講」星永文夫初期作品集Ⅱ

がたみずのんだこんからだ
もいちどうみばみろごたる

      星永文夫

 この飢えはどこから来るのか。魚のように群れてひろがる。と、急に向きかえて尖る、このしたたかな不在。
 かつて馬に乗って来たはじめての父たち。彼等はいつか不知火の塩くみとなり、なりわいはふつふつと塩釜にたぎる、はなやかな喪失。
 私は知っているのだ。私の飢えの盆地に、冷たくたぎる火のあることを。それは決して連帯しないことを。

 今。街に出て、立てるべき幟(はた)を持たない。潮のようにながれる、自らの速さを知らない。黙ってよるべなく、壁に影する黄金(きん)のこおろぎ。こおろぎたち。
 私は見ていた。変容のとき。僥倖を得たのだ。自らの黄金のこおろぎ。
 
 飢えが武装する。飢えない昼に飢えて。ねずみ花火に火をつける。海が常にまるくひろがるから。

   本多企画 平成20年4月1日発行 

2008年3月 5日 (水)

『悲母なりし』 2

コスモスや遊びのやうに支へ合ふ  高木一惠

高木一惠は俳諧の座での俳号を咲耶(さくや)とおっしゃいます。私が存じ上げているのは、連句での咲耶さんでして、俳句の結社でのご活躍は遠くから仄聞するだけです。連句では佛淵健悟氏からと高木咲耶氏の両巨匠から、サシでじっくりかわいがられた記憶があります。この意味は、おずおず出した付け句を「こりゃつまらん!」と駄目だしされて、彼らの求める高い位置まで句を敲(たた)かれたという意味です。早い話が、しばかれたわけで。笑

さて咲くという字には笑うという意味があり、咲耶さんが笑うと小さな笑窪ができるから、なるほどな美しい俳号です。長崎の俳人前川弘明氏(俳句誌『拓』編集者)はこの俳号を、しょってるなあと言ってましたが、言わせておきましょう。笑。咲耶さんを思い出すとき、いつも出てくるお姿は、東京駅のホームで待ち合わせをして、階段をあがったり下がったりしてやっと集合場所が腑に落ち、ホッとしてその姿をみつけたときのお姿です。雑踏の中、静かに椅子にかけて本を読んでおられた。その周囲だけ異質な空気が流れていた。横顔が気品があって美しく、やっぱり咲耶さんだと思いました。眞鍋天魚先生の命名ではなかったでしょうか。(ほかに天魚先生の命名でお美しい連句人に福岡市在住の工藤繭さんがいらっしゃいます。滅多におおやけの連句会には出て見えませんが、雰囲気のある美人でした。句もとてもうまいかたです。)

掲句「コスモスや」は、コスモスの花が風にいっせいに揺れて倒れて、またゆっくりと起ち上がるそのさまを詠んだものですが、遊びのようにという言葉が生きてます。また次の句、

西行や向井千秋やけふの月  
                 高木一惠

私の大好きな句なんですが、これと同じ味わいも秘めています。理があって、理がない、わからん大宇宙のわかるワンピースをとりいだして、解剖せずに、ただガラス板にならべてみました・・というような味わいの、偉大なる真理の心裏の心理の一句。

2008年3月 3日 (月)

『悲母なりし』 高木一惠第三句集

慈母なりし悲母なりしとも冬椿   高木一惠

慈母も悲母も同じことである。鬼子母神の母も仲間に入れてよい。母は所詮鬼にも悲母にもなる。それが運命なのだ。(倉橋羊村)

「屍なら積もらむ」

てのひらの春雪屍なら積もらむ  一惠

高木一惠の句は、深い深いところから詠みいだされる。
この句、句跨りで、字余りのような字足らずのような。
なれど、じつに思いの深い句である。
春の雪は手に享けるとすぐに消える儚いものだ。その儚さが、この句の中ではなぜか永遠の停止、ストップモーションをかけられて、冷ややかにぎらぎらと氷床のような輝きを放っている。
理詰めの句に見える。しかしそれはそう見えるだけ、奥に隠されているのは、あふれるほどの抒情だ。わたしはその哀しみの深さに、おもいのふかさにうたれる。
ああ、そうだ。いまわかった。
この句は眞鍋呉夫(天魚)の若い頃の句、

かなしみつのりくればしろぐつはきもあへず 天魚
        『花火』 所収

と同じリズム、同じこころだ。

かなしみつのりくれば・しろぐつはきもあへず。

てのひらのしゅんせつ・かばねならつもらむ。

・・・ね。

『悲母なりし』 高木一惠第三句集
 平成二十年二月十九日ふらんす堂刊

2007年12月30日 (日)

『呼びにゆく』ー自恃のこころを

佐藤みさ子川柳句集『呼びにゆく』(あざみエージェント刊)をよむ。

いくつか既に印象を書いた句もあるが、未読の句もあり、少しまとめたい。

 

何ももう産まれぬ家に寝静まる  佐藤みさ子

産む、産まぬということばは、太古の昔から女性だけにゆるされた特別な女性主体のことばである。それにひきかえ、「産まれる」という場合は、人知を超えた領域への敬虔な思いがどこかにある。だれのせいでもなく、「運」をころがすものへの敬虔な思い。この句には、なぜかそんなたいそれた人類の歴史とかことばへのおもいとか、あるいは柳田國男が民俗学者になった理由の一つとされる、狭い日本の木と紙の家のなかに数世代が寝起きする悲哀めいたものが、そこはかとなく、まぼろしのように付随している。
いや、それはアンタ一人の誤読よ。と糾弾しないでほしい。少なくとも昭和二十年代最後の年生れの私は、そんなふうに読んだ。日本って、すべてにおいて、そんなかんじだと思わない。人よりもそれを容れる家が主体なのだと。俳句や短歌が、内容にではなく、なによりその容器(五七五や五七五七七)の絶対性に重きを置くように。この句の主体も人ではなく、家である。作者はそれをはっきり意識していて、ひとり夜半に目を覚まし、寝静まるイエを真上から見下している。

この読みが一つの読み。
いまひとつのよみはありふれているが、子宮のメタファーとして家を捉える場合。
私は佐藤みさ子の年齢を存じ上げなかった。しかし、この句集には簡単な略歴が書かれていて、それによると1943年宮城県柴田郡生れということだ。

礼装の衿元川が流れこむ  みさ子

宮城県の柴田郡には、「えりもとがわ」という小川が流れているのだろうか。どんな川か見てみたい。と思い、検索をしたら、そんなものはありません。と出た。
黒紋付の礼装をしているのは、わたし。その衿元にだれかが滝のような涙をこぼす。漫画ではいくらでもお目にかかる場面も、川柳で喩的表現すれば新鮮である。いくらなんでも・・というきもちと、でもわらえるなというきもちと。諧謔の句はほかにも、

深いかと聞いた溺れている人に  〃

これは、わたしなどしょっちゅうやっている。ブログの内容にべたつきのとってもナイーブなトラックバックをつける機械の反応も、おなじです。

さびしくはないか味方に囲まれて  〃

なぜか知らぬがみかたはあじかたと書く。このことは、いつもおなじものを食べている仲間というイメージを否応なくもたらす。仲間うちだけにわかる何か。仲間うちだけに通用する批評眼。そういったものが案外世の中を左右していることに、文芸の世界に長く身をおいていると気づくはずだ。多数決の世の中で一人だけの価値観を貫き通すのは勇気がいる。

周りすべてが敵であってもよしとする人の決意の句であり、次の一句とおなじく、たからかに自分をたのむひとの自恃のうたでもある。それはしかし、うぬぼれとか自己保身という次元のものでなく、しっかりと保つべきものを保ってきた人だけがもつ、どこにも逃げない逃げようがない、自己への信頼をさすのだろう。さびしさは代償として引き受ける覚悟が、既にできたひとの句である。

たすけてくださいと自分を呼びにゆく   〃
風絵の炎どこへも行くあてなく     〃

点線で表す塔の地下部分   〃
物入れた記憶で立っている袋  〃

塔としてすっくと立つために、地下ふかく潜らねばならない。高架橋の工事をずっと見てきて、それを知った。地下には数階建てのビルが建つかとまがうほどの鉄骨で基礎工事をやっていた。塔が夢であれば、点線で表されるのはその見えない部分。記憶とか根性とか挫折とか傷みとかうぬぼれとか自信とかでできた形而上のぶぶんをさすのだろう。

万物をゆすりこどもが通過する  〃

これについては以前、書いた。だれもが納得する、川柳らしい川柳、イキオイと諧謔と現代性をもった名句である。ゆすられたじたじとなるよわい大人ばかりだ。ここらでガツンと一発、ゆすりかえさねばならない。

まだ来ない痛みを待っているような  〃

おばさんからおばあさんにならんとする今、この思春期よりも困難な時期に、自分よりおよそ一回り上の女性の句作品をよませていただきましたことは、とてもありがたいことでありました。立ち向かう勇気をいただけました。この先、なにがあろうと、自恃のこころで乗り切るしかないと思った次第です。そうです、お産のときのあの痛みに耐えられたんだもの。

空虚は「無から(ex nihilo)の出発」を強いる。ボードレールが『悪の華』の詩「旅」で歌ったように「本当の旅人とは、ただ出発のために出発する人々だけだ」とぶつぶつ言いながら。(阿部重夫ブログ「FACTA」編集後記より無断引用)

佐藤みさ子についてのバックナンバー:

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_e327.html

それにしても茂吉が詰られた「無常観・遁走観」こそは、ぼくが茂吉を読む理由なのである。無常は迅速、けっしてとろくない。かえって意識が速い。復古でもない。無常はまっすぐ向こう側へ駆け抜けるものなのである

↑松岡正剛の千夜千冊、齋藤茂吉「赤光」について述べられた最後の部分引用のところの出典はhttp://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0085.html

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_4cdc.html

2007年10月30日 (火)

句集 『樹の下の時間』

『九州俳句』に拠る長崎の俳人・前川弘明の第三句集『樹の下の時間』(平成十九年十月八日発行、表紙カバー版画・小崎侃)を読む。

序文に師の金子兜太が賛を贈っている。

        前川の〈体〉 
                 金子兜太 

 前川弘明は長崎育ちだが、その俳句に沁み込んでいる長崎の風土と言えるものが格段に色濃く独特で、魅力的なのだ。この人の句作りは人並みで、日常に即し、心象風景をまとめる。ところがどの句にも普通の感じがないのは、前川の〈体からだ〉になっている風土のおかげである。東支那海の照り返しとともにある古い港町。その肉付、情感の色合い。

   平成十九(2007)年 長崎原爆の日
        熊谷・熊猫荘にて

「この人の句作りは人並みで」とおとしめながら、重ねて「普通の感じがない」とひきあげる、それはひとえにナガサキの風土が身に染み付いているからだと妙な理屈をくっつけて。この言い方に金子兜太の第二の故郷と言ってもいい長崎への郷愁、身内意識を嗅ぎ付ける。金子兜太は若き銀行員時代、長崎で日を送り、九州俳句から大きなものを受けたし、またそれに大きな影響を与えた。だから、このカリスマの現代俳句の大家が「前川の体」と書くとき、それは同時に、金子自らの青春時代のにおいをどこかに帯びている「兜太の体」でもあるのだろう。

青僧侶露を踏みつつ蛍光す  弘明

銀行員ら朝より蛍光す烏賊のごとくに 兜太

前川は1935年3月長崎生れである。三年ほど前に主宰誌「拓」を創刊、いま九州でもっとも油ののった俳人の一人である。
次の句の捨て身の風格。簡単にできた句にみえて、ここまでたどり着くには長い時間と曲りくねった空間が必要だったろう。この句を得たことが、彼にとってのひとつの到達点であった、とわたしはおもった。

月光や破船のように父坐る  弘明

ボクシングの亀田兄弟の父のような男が、傷をいっぱい負いながら、それでも負けを認めずに坐している。月光はそのなまみのからだへふかぶかととどく。どんな理屈もいらない。この句集のなかで一番の句だと思う。

ほかに私の好きな句は、

毛虫焼く彼方に青き五島灘 
天金に触れて愛しよ秋の指*
ロビー転がる蜜柑を皆で見ておりぬ
唐寺の赤き柱やつばくらめ
深く拝す戦争見たる夏の月
足垂れて蜂くる桃のような児に
花束で枯木を殴るおとうとよ
小春かな品川駅も踊り子も
ビル街の隅の死蜂のこがね色
紅梅紅梅生鮮保冷車が走る
山椒魚泣かねばならぬときもある
地球回るぽつんと被爆の叔母住んで
まなじりに紅剃く宮日(くんち)踊りかな
あねいもと髪切りそろえ星祭
蜂来たる路面電車の顔面に
花粉はこぶ蜂いて朝のオランダ坂
秋の蜂義士の墓群を渡るなり

西坂の丘 より八句

旭が昇る殉教の丘われらに蜂
蜂あるくキリシタン刑址の白い砂利
色鳥くる殉教の足垂れならび
どれも瞳を上げし磔像木の葉降る
曼珠沙華磔刑の空美しき
聖ルドビコ小手毬の雨聴いただろうか
美塔ふたつ秋天に立ち疾風(はやて)の鳥
暗し聖壁実りの葡萄一房彫り

西坂の丘とは、戦国時代に殉教した二十六聖人像がある地。この有名な彫刻家・舟越保武による像には、詩人の高橋睦郎の「日本二十六聖人殉教者への連禱」という印象的な長い詩作品がある。だから、「どれも瞳を上げし磔像」とよまれると、「それはちがいます」と、声をあげたくなる。(一人ひとりの写真をみるとわかるが、二十六人のうち、ふたりほどは目をあげていない。水平に視線をとっている。じっとわたしたちをみている。これは彫刻家が空間を大きくとらえるためのはからいであり、横一列という難しい構図にあたえる変化への意図だ。そしてそれはそのまま宗教的な神のはからいとなる。連句の視点に似ている。) だが、そんな事実、もちろん前川はしっているのだろうし、ここは詩作品の勢いとして、こうよまざるをえない。この句にはちからといきおいがある。
聖ルドビコ。この殉教者は最年少で12歳、あかるい無邪気な少年だったという。こでまりの花のやさしさ、はずむような花のあかるさ。どこかさびしい、かなしい、純潔の花。この取り合わせを見ただけで、前川弘明のセンスのするどさはみえる。
それにしても、前川の句はどれもごつごつしていて、記憶に刻み込むには滑らかさに欠ける。たとえば、西坂の丘十一句の第一句、

旭が昇る殉教の丘われらに蜂

これなど、


日がのぼる殉教の丘われに蜂

でいいとわたしはおもう。きっちりと五七五にまとめたいのだ、わたしは。でも、森進一が曲に遅れ遅れして歌うのに似て、かれのリズムはぎこちなく硬直し、師の金子兜太を体のどこかにくっつけては、字あまりを堅持する。なんて海程風なんだとわたしは慄然とする。師の影ふみをしているような。だが、冒頭にかかげた破船の一句を見ていると、こう思えてくる。父思いの亀田三兄弟はあのやさしさと泪を抱いたまま、親離れしていくのだろうが、前川も師への熱い想いを抱いたまま、親離れしていくに違いない。

日本二十六聖人殉教者の連祷:http://www.yukinoshita.or.jp/tsuushin/byb0002.htm

日本二十六聖人像:
http://www1.odn.ne.jp/tomas/nihonseijin.htm

水平に視線をとっているのは、聖パウロ・三木と聖ペトロ・バウチスタですね。高橋睦郎の詩作品もですが、この彫刻のすばらしさは、なんにも具体的な手がかりはない無のなかから具象を鮮明に呼び起こしているところです。彫刻ってもののかたちそのものですし。ものすごいアプローチがあったんだろうなとおもいます。26名のうち、此岸をみつめる人物の選択をこの二名にしたのには、確信的な理由があったんでしょうか。

*
これは本句集のなかでは、
「天金に触れてかなしや秋の指」と推敲されている。でも、初出(ほんとはどっちが初出かを知りません。私は「愛しよ」の形のほうを最初に「拓」誌で読んだ記憶があります。)のかたちのほうが余情がある。それはなぜかと考えてみた。「や」だと正統派の切字だし、ぱっと解放される明るい風情があり、「よ」のほうは、くぐもった響きから内向的な味わいがのこる(別のいいかたをすれば、完全な切れを獲得しない魅力がある)。表記も漢字がいい。ルビはつけないで。

↑こんな自分勝手なごたくをこねながら、ひとはみな、ひとさまの句集をよむのですよね。前川弘明先生、いつものことながら、たいへん失礼を申しました。どうぞ、一度、八女にもおいでください。そしてみんなで連句を巻きましょう。(笑)

2007年10月29日 (月)

天上の乳房

また、うんと不謹慎なはなしをしていいですか。
うまれつきの漏斗胸で乳房も小さいことをずっとコンプレックスにしているものにとって、乳がんで乳房を失って乳房を再建手術するひとのことは、むしろうらやましかった。(だって堂々と整形手術ができるんですから。)

それが、ごく身近な人が乳がんをわずらって乳房をなくし、神の手とよばれるおいしゃさんの手にかかって乳房再建をしたのをかいま見ると、そくそくとその悲しみといたみが伝わってきて、なんというばかなことを自分はうらやんでいたんだろうと、ものすごく反省させられる。

今号の「女性自身」の辻仁成のエッセイにこのことが書かれていました。パリの街角に大きな大きな上半身ヌードがかかっていたんですって。思わず目が釘付けになってよくよくみれば、それらは、乳がんで乳房が片方なかったりする女性たちの写真なわけです。フランス健康省の乳がん撲滅運動のポスターであったそうです。

もしやこの句は・・と思う一句があります。引きます。
作者は室蘭在住です。数年前までは大分県におられました。とても美しいかたです。いろいろとあまえておはなししたくなる、でもそれははばかられる。そんな句です。(十年ほど前いちどたちきの新年句会でお会いしたことがあります)。

天上へ行けば逢いたき乳房あり 宮川三保子

  (『樹句集』、樹創刊15周年記念アンソロジーより)

2007年10月26日 (金)

落花生

    落花生

           姫野恭子

まよみ堂の落花生棒を齧りながら
森山光章の『終わりなき冥夜』をよみ
まことこの異能の人は月夜見であると
いまさらのようにきづく

月予見の深い森で
十九年ごとに累ねあわさる
寂(しろ)い光の時の澄み
だがその死のかげは常に一定の濃さで

月余見は遅延着床未来永劫

みえていた
あなたのはこぶ落花生
宇宙空間にうくたいじのじょうたいで
繭のようなからつきのみをあじわった

2007年10月20日 (土)

句集『清夏』

最近、或る人に見せていただいた句集の、ぱっと開いたページに次の一句があった。

   薪村・一休寺

髭植ゑし一休坐像冷まじや  吉津清子

たきぎむら。いっきゅうじ。
そうだ、これは最近引用したもののなかに出て来た寺じゃないだろうか。(9月11付かささぎの旗「虫 3」)

もっと読まねばならない気がし、その縁あるかたに頼んで、句集をかりた。吉津清子句集『清夏』 (卯辰山文庫、平成十八年九月二十五日発行)。

はつ夏や人なつかしく水田べり

葛桶の昼のうすらひ女ごゑ

神鏡はなにも映さず花あかり

観音は暗きに在すぼたんかな

のどかさの金魚田見つつ郡山

黄ばみゆく稲田村ぢゆうが睡し

柿の木にこがらしの月千早村

冬木聳えて震災地夜に入る

夕凍みの穂草のあまた海へ向き

吉野葛提げて余寒の辻にあり

茎立やいまのこといま忘れゐる

父と歩くや涼しさの杉の月

芝水平に朝涼の皇居前

放念の月あげてゐる櫟山

鳥雲に出を待つ人形つかひかな

法要の僧の見てゐる海開き

水に浮く白桃予後の杳として

富嶽いま雲の中なり蕎麦の花

うすらひの灘や夜風に杜氏唄

鉄骨の上に人ゐる南風

抽んでて柞の梢山廬の忌

・・・・

なかばまで読みすすみ、なにかがふかく触れてくることにきづく。はっとする。山廬の忌。飯田蛇笏の命日は十月三日だった。石橋秀野も山廬へ寄せた句を句集に残している。

山廬先生の還暦を祝ぎまつる五句、雲母支社より乞はれて

鳶の笛囃せ菁々たる柳
雪雫甲斐の大鵬翔たすなる
六十年山廬の雪消聞かれしと
春燈をつぎて在して古き裔
かげろふの甲斐はなつかし発句の大人

(石橋秀野句文集『櫻濃く』より)

なぜこの吉津清子という俳人の句がぐいぐいと静かな炎をあげてじぶんにせまるのか、やっとわかった。

そういえば、今年二月、飯田蛇笏の息であり、俳壇を代表する俳人でもあった飯田龍太が亡くなった。わたしが唯一もっている俳人のCDが、このひとの『俳句のこころ』(朝日カルチャーセンター1990年4月収録、アートデイズ発行)である。その帯にあたる部分にかかれた紹介文をひく。

「子規逝くや十七日の月明に」。弟子の高濱虚子が師の死に際して詠んだ何気なくも思い深い句。芭蕉は愛する寿貞の死後、「数ならぬ身とな思ひそ玉祭」と詠んだ。優れた俳句は、日常の誰もが持っている感情を詠んだものが多い。俳句は、自分の心の奥底にあって気づかなかったことを正確に言いとめることが大切だ・・・。(飯田龍太)

(うわっとおもう。本質を見ていた人だ。こんなにさらりと、虚子は子規の弟子だといっている。)

吉津清子の句には、どことなく秀野とおなじ古典的な匂いがするが、もっとずっと「お能的」である。表面だってはほとんど派手な動きがない。ゆっくりじっくり面の下で、発酵させるかのように言葉をえらんで吟味し、ひそとさしだす。はげしくつよい感情や精気は濾過されてきれいなかげだけがそこにすがたをあらわす。一句一句に、静かな綺羅というべき花を秘めているのは、そのゆえだろう。

負ひきれぬ杉の冥さを蟇  清子
冬の蔵音もたぬもの嵩をなし
風花や堤の裾の忘れ魚籠
とどまれば人老ゆるらむ桃畑
風花や見えて遥けき比良比叡

補遺)

囀りや畳にひらく日本地図   清子

(この句のなんとイメージ鮮明なこと。「ひらく」の使い方、西東三鬼の、「広島や卵食ふとき口ひらく」を思い出させる。天国と地獄ほどもちがう句柄ながら)。

校倉の大閂やイカル鳴く   清子

(これにもハッとしました。イカルについて書いた文を引用したばかりでした。かささぎの旗9・29付:「虫 5」。右のカテゴリー「連句誌れぎおん」をひらきますとでてきます。)

2007年6月 3日 (日)

句集二冊

句集二冊

松本杏花第二句集『余情残心』 (定価十八元)

平成十九年日本と中国二国で刊行。

上海訳文出版社刊

松本杏花:1943年2月26日埼玉県生れ

俳句誌「獅子吼」連句誌「れぎおん」同人、さくら草連句会所属、漢詩結社「葛飾吟社」所属。現代俳句協会会員、国際俳句交流会会員。

華道桂古流教授、茶道表千家教授。

(昨夏かささぎの旗が上京の折、不案内ないなかっぺのわたくしをあちこちご親切に案内してくださったおかたです。)

本句集は松本杏花氏の俳句作品を一句ずつ現代中国語で翻訳し、作品世界について同じく中国語でていねいに解説してあります。解説は叶宗敏という名の中国人です。

ところで、松本杏花さんとは前田圭衛子先生の座で何度もごいっしょに連句をまいたことがありまして、あるとき、

追憶や闇の蛍の息遣ひ  松本杏花

という濃厚な恋句を発句に出された記憶が鮮明です。それを句集にそのまま入れられればよいのに・・と前回の第一句集『拈花微笑』(花は華ではないのです)のとき感じたのを忘れてはいません。なぜなら、上五はおなじ追憶や、でも、あとにつづく句がちがってました。それが今回も同じく、追憶や、まではいっしょで、あまりこころにひびかない下の部分がぶら下げタンジェントみたいにくっついてた。まったく杏花さんは、なぜあの名句をそのまんま出さないのでしょう。(ひょっとして、てれている?)

句集二冊

(冥)句集〔非ず〕の寿与(ほがひ)

 森山光章  著

2007年5月25日「不虚社」刊

森山光章:1952年、福岡県小郡市生れ。実兄に作家の帚木 蓬生氏。

俳句空間新人賞、河東碧梧桐賞を受賞。

句集〔非ず〕の寿与(ほがひ)について。

森山光章はことのはの巨大樹である。そのスタイルは一貫して不変である。私は高柳銃身、いや重信をまったく存じ上げないにもかかわらず、このひとや、いぜん引用した大分の俳人・横山康夫の作品を通して、なにかその濃いエキスのようなものを身に帯びるようなかんじがするのである。俳人横山康夫は別に置く。森山光章は、俳句書きというより、うたびとというかんじがする。あるいは詩人だというかんじがする。でもそれよりか根の深い、重い宿命を背負った罪人だというイメージがあるのはなぜであろう。読んだときに感受する、なまの罪の意識があまりにもいたましくて、そう思わずにいられないのだ。

でもね。ぶっちゃけ、作品を読んでも、よくわからんのである。その漢字使い、感じ使いが、このひと独特のモリヤマミツアキわーるどを形成していて、読者は「ほお。なんだかわからないが、しかし、ある種の雰囲気あるよね」と毎度感服するのみ。今回のはとくに、無駄がなくあそんでいるなあとおもった。読者のよみへの参加をあけている。余白がある。作品の引用はやめとこう。よみたきゃじぶんでよみな。なんだかさ、どの句集、歌集、詩集をとっても、このひとのはこのひとのなんだよ。すぐわかるし、どれもおんなじ。失礼ながら、ほめてんのかけなしてんのか、わかんないよね。(多分、両方です。)

それより、せんだっての東京都知事選でことに感じたことなんですが、政治は文学だっていうの、モリヤマミツアキもこの句集のあとがきに書いていた。それよんで、おお、こころのともよ!ってかんじました。笑

2007年1月 6日 (土)

伊藤白潮 「卍」より 二句

去年最後に読んだ句集は伊藤白潮の『卍』でした。まだ全部は読みきれていない。分量もだけれど、語彙の多彩さが一筋縄では読めないようにしている。辞書を繰りつつ、楽しみながら味わう句集です。こういう本は最近少ないと思います。とてもユニークでリアリティに富んだ出だしの一句をご紹介しましょう。

 始動一発一月の浜を発つ   伊藤 白潮

第一章の「束脩」冒頭句にあたります。モーターボートのエンジンが一発でかかった喜び、爆音と小さな船体いっぱいに伝わる揺れが小気味いい。ボートのエンジンを起こしたことはありませんが、紐を「ひっぱる」式のエンジンのかけ方では農機具などがそうですから、イメージがよおく浮かびます。句集の冒頭句として申し分のない配置だと思いました。また、一月というずいぶんな季語もなんかいいかんじに自然です。数年前に読んだ紫微の会の歌仙「一月の」を思い出しました。これは名作(ことに出だしの三句)ですから、いつかご紹介いたします。では、そういうことで「束脩」とはなにか、ご自分でお調べくださいますように。

じつは、田中午次郎、つまり伊藤白潮の師についてなにか書こうとしたのですが、これがあまりよくはわからないのです。わかっているのは、石橋秀野の句集にその名が見えること、馬酔木と鶴の同人で秀野とは仲間だったことくらいです。昭和十八年と十九年の秀野の句に午次郎の名の前書をもつものが二つあります。一つは午次郎の応召への餞の句と思われる句、いまひとつは午次郎邸での供応の句です。

  午次郎さんへ(昭和18年)
 ぬかご飯妻子を離(か)るゝ箸ほそく   秀野

  田中午次郎氏居にて(昭和19年)
 親子して雉子鍋あつき没日かな     秀野

田中午次郎氏が鴫(しぎ)と言う名の俳句誌をおこされたのは昭和23年、すでに秀野は亡くなっていました。その鴫を引き継いでおられるのが他ならぬ伊藤白潮氏です。その方の句集を去年、山口の国文祭連句会に出席した折、山本伽具耶さんから戴きました。やっとゆっくり頁を繰り、あらためて縁のつながりのふしぎさに驚いているところです。伽具耶さん、ありがとう。なにか重要なメッセージをもらったきぶんです。

はじめに書いたように、全部はまだ読めていません。しかし、心に残る句をいまひとつ引いておきます。

 豚小屋のにほひ切なし初社   伊藤 白潮

昭和三十年代終り頃から四十年代初め頃、わが家にも豚を飼っていたことがあり、鮮やかにその光景を匂いとして思い出しました。たしかにあれは切ない匂いです。去勢の赤チンキの匂いであり、消毒液のにおいであり、清潔好きな豚の独特の餌の臭気であり、何ともいえぬものでした。なぜ豚がいたのかといいますと、ちょっと流行ったのだということです。でも難しかったらしくあっという間に記憶からいなくなりました。この句を読んで、そういう昭和のなつかしい時代を思い出すとともに、季語の初社がなんとも可笑しく、神社はたいてい人里はなれたところにあるけれど、豚舎も匂いゆえにたまたま近くにあるのかなあと考えさせられる広がりをもつ句です。(私のところの郷社=地域で一番格式が高い神社=もそういえば、豚ならぬ牛舎の近くにあるため、夏場などハエがすごいです。)

2006年12月 4日 (月)

久留米、師走

久留米、師走

目抜き通りのカソリック教会です。
学生時代ミサに一度礼拝したことがあります。小倉の教会と違って、神父さんの衣装がきらびやかで厳格な印象でした。あとで知ったことは、こちらはカソリック、あちらがプロテスタントでした。

久留米、師走

きのう、久留米市民図書館に本を二冊(カイコの一生の写真本と、石田郷子著『名句即訳ー蕪村』・・タイトルをはっきり記憶していない。たぶんこうだった。とても勉強になった)もどしに行ったら、駐車場が満車で、こまりました。土日の昼は多いので、平日がいいです。見えているのは、石橋美術館です。そういえば、地続きです。

久留米、師走

ここはどこでしょう。井筒屋の向い側、郵便局の前です。珍しくも和服の女性、それも和装のコートを御召しになったなよやかな年配の女性があちらからやってこられたので、別のものを撮るふりをして、つい撮ってしまいました。やはり着物はいいですねえ。師走って感じが出ている。(人通りは少なかったけど、車は多かったのです)

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4835609433/sr=1-7/qid=1165208984/ref=sr_1_7/503-8138807-4117531?ie=UTF8&s=books

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4251033558

2006年12月 2日 (土)

『摩天楼』休刊に思う

千葉の花見川から隔月発刊されていた小さな、けれども質の高い俳諧誌『摩天楼』(星野石雀主宰)が、主宰の眼疾のため今147号で休刊となる。昭和60年5月創刊、ということは石雀さん60代でのスタートだったんだ、とあらためて思う。

表紙絵とカット・沼野正子(絵本作家・随想家)。ときおり送れないときもあったが、33回ぶん、「影ふみあそび」の題で文章を書かせていただいた。そのことを、とてもありがたく、また誇りにも感じている。

石雀さんは(先生と呼ぶと感じがでない。前田先生もそうだが、先生と呼んだとたんに何かが喪われる気がする)、大俳句結社「鷹」の長老俳人で、同じく「句夫婦」(これは石橋秀野の句に出てくる語。ちゃんとした語か造語か不明)の櫻岡素子先生とは四十代での晩婚であった。一度もお会いしたことはないが、書かれたものを読むと、幼少のころより足がわるく、みんなからいざりといっていじめられた。母上は東京でお茶屋を営んでいたそうで、つまりは玄人であり、(当時のクロウトとは現在と違って一種の誇り高いサロン文化人である)、石雀さんは千葉のいなかの祖父母の家に預けられて内向的で早熟な文学好きの少年に育った。(参考:お茶屋とはhttp://www.studio892.com/gion/ochaya.html、あるいは岡崎久彦著『陸奥宗光』に詳しい)

私が石雀さんと知り合ったのは、札幌の俳諧師窪田薫師の連句文韻を摩天楼誌に掲載されていたからである。俳句誌は沢山あるが、連句もやる誌は非常に少数である。しかしながら、山本健吉、石橋秀野が二十歳そこそこだった戦前に所属していた上川井梨葉の俳句誌『愛吟』を読むと、連句が掲載されている号もあった。東京の俳句文学館で調べた。(この愛吟にいた健吉の慶応の同級生・宇田零雨は、のちに連句結社「くさくき」を主宰し、今もそれは活動している。いまは零雨の甥で226事件を警視総監だった父の視点から描いた本の著者でもある磯直道氏が主宰)。

ありがたいご縁を大事にして、当時はイチゴの家業と育児などで手一杯だったはずなのに、秀野も調べていたし、結核という病一つよく知らなかった私には、石雀さんの書かれることはとても参考になったので、言われるまま、四枚分の原稿を書いた。

石雀さんは校正を仕事としておられた方である。目が命の仕事だ。
私は何度かハッとするようなミスを訂正していただいたことがある。まだ秀野ノート初期のころだ。健吉の後妻・静枝氏の旧姓を穴倉と書いていた。思い込んでいたが、ほんとうは宍倉であった。それを鋭く指摘なさった石雀先生。びしっとチョークが飛んできて額に当たった気がした。なぜご存知なのだろう。まだ何の評伝も出ていなかった時代だったのに。とふしぎに思っていたら、現実の山本健吉に会ったことがあるとおっしゃっていた。

ほかには、れぎおんに書いていたエッセイで、いつか嶋岡晨の詩(題を忘却)を記憶しているかたちで無謀にも引用したとき、それを正確に訂正して下さったのも、石雀先生だった。この二つの件は忘れることができない。たくさん本を読まれてきた方である。文学を愛された方である。やさしい方である。孤独な方である。そのことを私は忘れないだろう。

※「摩天楼」という誌名は、野村牛耳連句集『摩天樓』から取られている。野村牛耳は明治生れ昭和49年84歳没の高名な連句人。のちほど、当時の連衆の一人小倉ちゆ(現・日高玲)、鈴木三余(故人、鈴木助次郎)と星野石雀の三吟歌仙(数年前の作)を引用したい。これが一番よく巻かれているとおもうから。

2006年11月25日 (土)

マザーテレサの指

先日ご紹介した山口の俳句誌「しろがね27号」にあった、俳友山本伽具耶の印象的な句を、一句だけご紹介したい。

 山薊マザーテレサの指太し  山本伽具耶

山薊のけなげでたくましい野生と慈悲深い聖女の献身がひびきあう。
伽具耶さんの話では、かつてのロミオとジュリエット女優のオリビアハッセーが、映画で最近マザーテレサを演じたが、徹子の部屋に出ているのを見ていたら、徹子さんが女優の指が太いですねえと驚き、子供を育て色んな仕事をしてきたいい手をしていると言って褒めてらした。・・と。それと、以前、伽具耶さんと連句を巻いたときに、恋の句で、伽具耶さんが指細きなんたらかんたらと予定調和の句を出したのを、逆に指太きとしたらどうよって助言したことがあった。それを思い出し、重なって、一句できたという。それを聞いて、うれしくなった。役に立たない自分でも少しはなにかの役に立ったかと。http://www.jca.apc.org/praca/takeda/foreword.html(マザーテレサのことばが出てきます。)
山薊:http://www.asukanet.gr.jp/warainekonoheya/zukan/5-kiku/ao-murasaki5-1.htm

伽具耶さんに関しては、お詫びしなければいけないことがあります。又後で書きます。

2006年11月22日 (水)

嫁くばり

 花葱の中晴れわたる嫁くばり   河野 輝暉
           第六句集『曼珠沙華』より

河野輝暉。もと英語教師にして神社の宮司さん。国東に住んでおられ、句歴は句をごらんになればわかるが、とても長い。その代表句がこれである。(わたくしの選句による)。

花葱を知らなかったので、まずそのことばに打たれる。新鮮だった。葱坊主を花葱というそうだ。15年も俳句をやってきたが、こんなきれいな別名を知ると、おおっという声がもれ、ムンクの叫びほどの形相にかわる。つぎに、おやっと首をかしげる。
嫁くばりとはなんだろうか。嫁を配るのか。見合いでも計るのか。仲人は今時はやらねど、そういったことを詠んだのか。・・と、がぜん興味がわく。

いま検索をかけると、ちょうど国東の方が書いておられるブログにこのことばが出てきた。タイミングがよかったみたい。二ヶ月前にかけたときには一つしかヒットしなかったから。たぶん、結婚後に嫁が万十かなんかを持って村中を挨拶まわりすることのようだと想っていたが、やはり御披露目だった。似たことをここ筑後でもする。葬儀の面でも、似たしくみのようで、なんだかほっとする。失礼とは存じますが引用お許し下さい。http://blog.yahoo.co.jp/tokuchiyuu/35855748.html#35910368
花葱:http://members.stvnet.home.ne.jp/kubookada-k/negi.html

きのう、「菊歌仙」後半を巻いているときに亡くなった従弟の母と妻(離婚していたので正確には元妻)が、そろって忌明けの挨拶にみえた。
生死のことはふしぎな暗合にみちている。この従弟が自裁した日は、私の弟の29回目の命日だった。アルコール依存症からくる鬱の治りかけで発作的な死だった。別れた妻とまたやり直すことになっていたという。従弟は博多で有名なあわび料理専門店の板前をやっていた。腕がよくテレビにも何度か出たことがある。伯母は相変わらず気丈に、優しかった息子の思い出をたくさん話して帰ったが、その間、運転手として付き添ってきたお嫁さんも、ときどきうつむいて涙をふいていた。

かつてははげしくたいりつしたよめとしゅうとめを、こんなにおだやかでやさしいこころでむきあえる関係にかえたのは、たがいに愛するひとりのひとの死だったなんて、むごい。私にはもうひとりアル中から生還した従兄がいるが、彼の場合は妻が苦労の末亡くなり、そのあと、ほんとうにきっぱり断酒して、立ち直った。

いのちのおもさをおもう。愛情と悲しみは同じものだとも。

河野輝暉句集『曼珠沙華』平成18年刊行より十句

見なれたる海なつかしや独活を掘る

生まれたる水より光り羽蜻蛉

右の手に少年果てし沈丁花

あめんぼう水よりおもくなりたがる

母殴りたい頃も食べ柏餅

海に来て養子のごとく高菜揉む

ねこじゃらし自分の夕日持っている

花葱の中晴れわたる嫁くばり

柏餅くれれば母よ母三人

秋立ちぬ梯子に妻のふくらはぎ

2006年11月21日 (火)

スミサクさんの原風景ー地蔵盆

堺市の川柳家・墨作二郎氏から毎号頂いている『点鐘』が、二号分たまった。西日本新聞文芸欄のファンであるが、その引用も最近やっていない。もっとも、紹介しようという魅力を覚える作品には滅多に出合わないからでもある。その川柳選者の先生が新年度から代わる。岸本吟一氏はご病気らしい。今回の「点鐘」119号の編集後記を読むと、スミサクさんも満80歳になられ、足が弱って整形外科医にかかっておられる由。驚くべし、「点鐘」は次の120号で20年を迎えるという。ということはスミサクさんは還暦のときに点鐘を創められたということになる。

前から書こうと思っていたことを、今日は書いておきたい。あれは100号に、こんなスミサクさんの作品があった。

       地蔵盆
              墨 作二郎(堺市南旅籠町)

焼跡の夕焼けのお地蔵さん祀る

鼻欠け顔欠けお地蔵さんによだれかけ

居眠りの母が浮かんで お地蔵さんにお茶

お地蔵さんの西瓜に蝉が啼いている

子供提灯あかあか逢えない顔揺れて

リンゴ酢が効いているお地蔵さんの肩

   (「点鐘」100号、平成15年9月)

読んで、この世界を知っていると感じた。

思い出したのは、博多の川のそばの町。住んでいたのは、山笠のやまがめぐる町ではなかったけれど、夫の職場がそこにあり、付き合いで毎年山を舁いていた。その山を舁く(かく)という行為は命がけであり、当時夫は何かに憑かれたようにして山をかき、町内の人たちと近しく付き合っていた。こどもはまだ長女と長男しかおらず小さかった。山笠が終り、しばらくすると地蔵盆があった。時期はたしか八月中旬だったように思う。一二度、夫に連れられて子供と出かけた日の記憶が強く残っている。湾口も遠くない大きな川のそばで、質素な古い家並みが忘れられたように残っている一画に小さな祠があり、古いお地蔵さんが祀られていた。赤い涎掛けをして、地元の人たちから大事にされて。おまいりをすると、昔ながらの駄菓子をこども一人に一袋ずつくれた。そうして他には何もないのだった。露店が出ているわけでもない、ひっそりかんとした、しかしながらその一画では昔からずっと大事にされているのがわかる祭りなのだった。

わたしがこの記憶を大事にしまっているのは、それだけの理由ではない。そこにおまいりしたときに感じた空気は、小倉に下宿して住んでいた娘時代の記憶を蘇らせるからである。私は受験に失敗してお嬢さんが行くミッションスクールに通ったが、こころはどいなかの百姓の娘であったし、そういう目で世の中をみることしかできなかった。だから、最初に下宿した家賃が二万近くするお医者さんの家の間借り生活は、豊か過ぎて窮屈であり、そこで偶然いっしょになった同じ学校に通う豊後高田の子と二人で別に家を見つけて住み始めた。古い小さな家一軒が二つの所帯用に区切られていて、二つの部屋と炊事場、厠がついて月に八千円という破格な家賃だった。そこで私たちは交代で自炊をし、小倉の魚町でアルバイトをして働き、朝日新聞を毎朝よみ、月に一回は教会に行き、学校に通い、社会部で無医村研究という名のごっこあそびをした(いまにしておもえば)。

学校はシオンの丘と名づけられた丘の上にあり、そこまで歩いて通ったが、途中川のそばの古い家並の横をとおった。活気ある町に忘れられたようにしてひっそりと息を殺して建っているかのような家家。その一軒にてんぷらのおいしい総菜屋さんがあった。学校帰りによると、きさくなおばさんが魚の白身フライを包みながら、「ああたたちゃいいねえ。うらやましいわあ」と言っていたのを思い出す。なぜうらやましいのかが、わからなかった。いまもわからない。でも思い出すとき漂う空気は、スミサクさんの句の世界とも、博多の地蔵盆の世界とも、寺山修司が書いた子供時代の地獄の記憶とも、どこかでつながっているような気がするのである。

この地蔵盆というのが、どういう民俗によるのかを私はまだ調べていないし知らない。八女など筑後地方には残念ながらないのだ。
スミサクさんの一連の句の世界は、戦争の焼跡を連想させ、また、阪神淡路大震災をも連想させる。どこかに地獄の風景を内包するがゆえに、お地蔵さんの涎掛けの色は業火の色となり、句は苦界浄土のおもむきを呈する。

それにもう一つの世界を付け加えておきたい。先日、八女の戦没者慰霊祭で見た広島の被爆を扱った映画の『おこりじそう』である。画面はしじゅう雨がふるような古いものだったが、思わず知らず、涙がこぼれた。

 地蔵盆が済んで月夜を転がって   墨 作二郎
                     ( 点鐘119号、平成18年11月)

※ 地蔵盆:http://allabout.co.jp/family/ceremony/closeup/CU20040810A/index.htm

       :http://kouhou.city.kobe.jp/kids/data/kb/kb03/kb03025.htm

       :http://www.wombat.zaq.ne.jp/butuniti/houwa22.html

 おこりじぞう:http://www.wombat.zaq.ne.jp/butuniti/houwa18.html

 福岡大空襲:http://www.nishinippon.co.jp/news/2004/daikusyu/
 小倉大空襲:http://ja.wikipedia.org/wiki/%e7%88%86%e6%92%83

2006年8月20日 (日)

俳諧集「秋天」 2

  俳諧集「秋天」 

      二上 貴夫・著

1 習作/ 平成元年~三年

  小田急線下北沢駅前

 寒の雨下北界隈路狭し

 花しどみ籬の角に覗かるる

  新宿西口

 駅前の乞食演説日傘売り

 野分来て鉄塔雲に流さるる

最初のページにならぶ四句。季語がしぶい。寒の雨も、花しどみにも驚かされた。(参考: http://www.asahi-net.or.jp/~ap6y-umd/kusaboke.html)まがき(籬)は雅語の雰囲気をまとう。しかし、このマイナーさは新鮮で、貴重だと思った。いわば、はきだめにつる。

2 習作/ 平成四年~七年

 寒鯉のあぶくひとつに動きけり

伝統俳句ご推薦ふうの句。細心の気が行き届きすぎてかたまっている。どうでもいい景をなでくりまわしたけども、やはりどうでもいい景だったというか。時間が固まっていて、うごかない。絶対俳境をめざした句

  長崎夜景

 矢太楼へ稲佐山より星流れ 

やたろうは修学旅行や塾の合宿などで利用される宿です。肩がはらなくてよい。季語は流星、夏。

  安曇野

 彩色の道祖神あり花石榴(はなざくろ)

前書つきの吟行写生句が並ぶ。どれも的確な視線だが、さりとて格別のことはない。忘れる句群。

 木瓜の鉢みていて日ぐれひろがれり

 病人のふとんの上の初明り

 おもしろう花の散ります足の裏

ここまで来て、おや・・とすこしこころが動く。ボケの句。花しどみは草ボケという別名があったが、これは本物の木瓜である。しかも、鉢の花。ということは、室内に置かれているに違いない。だれのために?日ぐれひろがれり、の翳りが気になる。

 山茱萸(さんしゅゆ)の花や回廊雨ざらし

 岐阜提灯吊ってくらやみととのいぬ

我慢できず、最後のページにある著者の履歴をここで見る。すると、1994年、妻智恵子、癌により死すーとある。

大きく、息を吸う。吐く。

 星月夜青電球を点けにけり

これは、胸のつまる句だとおもった。なんて遠慮がちなかなしみだろう。

 風の空てんとう虫におしえられ

この句もすごくいい。この人の昆虫の句はどれも不思議な魅力がある。すなおでやさしい気分になれる。それにどこか木下夕爾の詩「内部」と通じるものがある。参照:http://www5f.biglobe.ne.jp/~silencium/datahtml/yuuji.html

 エノラゲイ炎熱の空帰りしか    二上貴夫

 エノラ・ゲイ夜の皮ジャン水しぶき  奥田艶子

ついならべる。二上句はやさしい。相手に配慮しすぎていないか。奥田句はぜんぜん違う。evilと一体化したかのような抗いがたい魔力がある。私はこの夜の皮ジャンの怖さに並ぶ句を、まだ、みない。ちなみに奥田艶子は元天籟通信賞受賞俳人、非常な美人だった。この句は句集未収録、十年ほど前の「俳句ざうるす」(野間幸恵編集発行)掲載句。

3 模索/ 平成七年~八年 

 夕焼の人の死んでもふまれても

 烏瓜いつよりそこにぶらさがる

すこし、句にゆらぎが加わった。句の世界が時間空間、多重に展開しだす。

 渋谷道先生の「秋ですよ地下の百葉箱がいう」に無意識に唱和

 秋ですよまらるめ漬けている暖簾

 なんとなく相克冬陽落ちてゆく

 めそめそもできぬと冬のオリオンに

どっとした感情の爆発もないし、静かな鬱が流れているだけ。でも、少し口の端をあげてかすかに笑ったような。

  平成八年二月十一日、妻智恵子の三回忌

 雪帽子かむり智恵子の影法師

 アネモネのあヽでもないといごかない

「いごかない」の烈しい説得力を俳諧と呼ぶ。

4 自得/ 平成九年~十五年

 あやふやの次はくらやみ夾竹桃

 すすき見て海見てⅩ解けぬなり

 さやのままどんぐりおとす甲斐はいま

急に句に生気が出てきたのが見える。色気といってもよい。

 あざむけば冬になってもいのちがけ

ぜんぜん意味不明、でも冬があざやかにいきづく。

 べつべつの梅雨なりプラットホーム・ベル

恋句。ちかづいてきたかんじ

  報国寺

 竹青く秋天見えずなりにけり

恋の成就の報告句です。秋天は亡き妻のこころか。

 白もくれん利休鼠の空となり

白秋がいたり。

 夕凪の赫絲纏う四畳半

 馬追の透きとおるなり掌に

 六匹の犬いて寝屋に蟋蟀も

小学生がいたり。

 平成十一年七月三十日、其角研究の今泉忘機氏逝去

 夕立やバス待つように人死にし

俳諧では無常の句をとてもだいじにしますね。

 葉桜や風神さびしくなりにけり

 くわがたの少年みつめられて虫

 冬凪ぎのタンカー行く気なきごとし

表記が現代表記であることがふしぎだ。冬凪でいいし旧仮名がいい。なぜ俳諧を現代表記でやるのか、わからない。

 一畝は竹の行方に添わせけり  

 灰色の梅雨凸面鏡を曲る

 水銀の滴少年裸

  芦ノ湖 

  湖をうつす鉄紺無月なり

この芦ノ湖は印象的で鉄紺が効いている。岩絵の具の色、鉄紺。黒を紺までの明るさにするのは無月ということば。俳諧を行じるまなざしが生んだ佳吟だ。一回読んだときには見過ごしていた。

 秋燕の阿夫利峯にあり頻りなり

「い」の母音が耳に快い音楽性ある句で、この韻律には地味ながら惹かれる。

  平成十五年三月六日、秦野市役所へ再婚の届け

 天赦日という日がありて春かみなり

いつも亡きひとのまなざしをどこかに忘れずにもつことが、俳諧だったんだろうし、俳諧なのだろう。

 ※ 二上貴夫  

1947年佐賀県生れ 神奈川県在住。1988年、其角全集により俳諧を知る。            

1996年澁谷道主宰『紫薇』同人。            

2001年『わいわい連句遊び・連句文芸賞への誘い』出版。

2006年 宝井其角三百回忌の記念シンポジウム、追善法要、俳諧興行を催す。

 

 

 

  

  

2006年8月19日 (土)

俳諧集「秋天」

俳諧集「秋天」上巻 (発行 ふとまにあ) 

      二上 貴夫・著  

神奈川県秦野(はだの)市在住の連句人、二上貴夫(ふたかみ・きふう)さんの句集を読みます。さいしょにおことわりいたします。句集名、ほんとは火偏に禾の字ですが、パソコンでは変換不能ですので、とりあえず雰囲気ぶちこわしではありますが、普通の秋の文字で失礼いたします。島に嶋や嶌が、松に枩の異体字があるみたいなものですね。

この方を「連句誌れぎおん」で知りました。お名前が奈良の二上山に通じるので、印象に残っていたんです。実際句集をよみますと、最初の奥様を病で亡くされて、そういうことも含めて、わたくしのなかでは大和国中の石橋秀野と結びつくイメージの人です。

おととい、一月遅れで「れぎおん夏号」が届きまして、巻頭に函館の杉浦清志先生の「方丈記は随筆か」という興味深い論考がのってましたが、そのなかで杉浦氏は俳句と俳諧はぜんぜん別物だから、もう俳諧の発句を俳句と呼ぶのはやめにしよう・・と声を大にして訴えておられます。芭蕉も俳人ではなく、俳諧師だと。

それを思い出させる句集名です。俳諧集、とありますから。二上さんの序文に俳諧との出会いが書かれていて、それは昭和の末、神田の古書店で見つけた「其角全集」に始まるそうです。俳句と出会うより先に古俳諧と出会って、そこからこの道に入られたという。珍しいです。

では、すなおに俳諧集を読みたいとおもいます。好きな句をひきます。(この項、つづく)

 ※このところ、パソコンを息子二人のいずれかが占領しており、私の自由になる時間はちょっとでございます・・。笑 

今号のれぎおんで印象的だったのが、水沢周さんの「季語と連句とその周辺」です。主に夕月について書かれていたのですが、最後、時計草についての記載があり、私の、以前、湾岸戦争勃発直前のころ時計草を見て感じたある種の強烈なゆらぎと共通するものがあり、その印象はことばにしがたい自分でも不分明のものだっただけに、打たれました。博多にいたころのことで、はじめて時計草を見たんでした。そのゆらぎを何かに書こうとしましたが、表現できなかったので記憶に残りました。西洋では、受難、殉教を意味するパッションを呼び名にもつ花らしく、なるほど・・と思います。きのう、白秋の初期の歌を十首あげましたが、一首目のとんぼがどのネギの茎にもとまっていておそろしいような思いがすると述べている、あれはほんとによくわかります。ネギの茎にではありませんが、家の空いっぱいに(いえのそらという表現はへんですね)沢山のトンボがうじゃっと飛び回るのをみたことがあります。恐ろしいような不安なような光景でした。でもまあ、白秋のあの歌は、姦通罪の贖罪という大きなテーマがこころの中心にまずあって、その導入部としての連句的働きをになわせられているものですし。

自然界の生き物や風景が人に与えるモノは、はかりしれないです。そのいみでは、それらはじゅうぶん人のことばたりうる。

2006年8月10日 (木)

中村マサコ句画集『風の骨・・』

  句画集『風の骨ときどきささりあちこちささり』(星雲社)

        俳句・短歌  中村  マサコ

        絵       山下 達也

                 楯  宏子

これはまた小さくてとてもうつくしい。

こんどは短歌をみていこう。

  車掌まで同じ訛の小さきバス麥の熟れたる村路を走る

  垂れし髪に吸われてつぎつぎに消えし雪われに棲みいるつね冬の人

  そばかすだらけの晩年もよし白と名づくものへの憎悪ながくて

  曇天へカラカラと嘲い去った巨鳥のこと白痴の少女のよくする噺

  疲れやすく片目をすぐにあかくする青空犯しビルふえる日々

  放ちやりし小禽とらえんと空に開く鏡は蒼き空をうつして

  ヘッドライトに曝されて絶つ傷口を舐めいるごとしと指摘されしよ

  複数への葬送曲は奏でられる茶房の隅でのしずかなる喪あけ

  吾の愛にかかわりもなく降りてくる風荒き日のあかき壁土

  歩幅のろきを振り返りては待ちくれしあなたも富士もさようなら

ちょうど十句、これだけだ。これらのうたにある繊細でしぜんな「うたをたくらむこころ」。それは作為というにはおおげさすぎる。白秋の感覚に通じるものがはっきりみてとれるのが、まず片目をあかくするうた。壁土のうた。白痴の少女のうた。白を遠ざけ恋うるうた。きづくのは、このころの作者にはまだ季語への目は開かれていなかったことだ。若き日の習作だという。・・わたくしには、しるすべきことばがない。だけどもなにかをまだここに書きたい。白秋の短歌をしるしたい。手元に久留米図書館で借りたものがある。

  おのづからうらさびしくぞなりにける稗草の穂のそよぐを見れば

  父の背に石鹸(シヤボン)つけつつ母のこと吾が訊いてゐる月夜こほろぎ

  夕されば閻浮檀金(えんぶだこん)の木の光またかうかうとよろめきにけり

  蛙(かはず)鳴くくらき水田の夕澱(をど)み電柱に沿ひて月のぼる見ゆ

  唐辛子花咲く頃やほのぼのと炎天の畝に歪(ひず)む人かげ

中村マサコの若き日の短歌作品が、まっすぐその後の俳句作品へとつながっていく、その芯にあるもの、自然への同化。というよりは、自分のなかの野生をたしかめたしかめして、ことばをつむぎだす作業をしなければおれなかった。それは白秋のもつ野生とおなじものだ。

さて、この小さな愛らしい本には、数枚の絵が掲げられていて、その絵を描いた人の一人をわたくしは知っていると思った。楯宏子さん。たしか、十年ちかく前、博多へ、西宮は甲子園の前田圭衛子先生が連句を指導にみえたとき、一度だけ同座したことがある。俳人はるのみなとさんのご紹介だった。藤崎の神社近くの西公民館だったと記憶する。(ほかには鍬塚さとこさんや森山光章さん、貞永まことさんがいらしたかもしれない。)まさに句の感性も絵と同じく澄明でロマンティックだった。詩的だった。・・でも知らなかったなあ。画家だってこと。中村マサコ氏とも一度、八女の堺屋で連句を巻いたっけ。あさよさんとは結構、ファックス文音で巻かせてもらったから、旧知の人みたいに感じていたけど、まだ一度しか会ったことはないのであった。(私的なことですが、岐阜の斧田さんとも、まだ会ってはいなくて、一度お会いしたいとずっと思っている。)

もう一人の画家は、紹介をみると、もう亡くなっている。54歳ほどで亡くなった坂本繁二郎の弟子である。「言葉ありき」「樹からのことづて」「喉より水仙花」の三作が収められている。「樹からのことづて」は繁二郎の色彩を連想させる。喉より水仙花ーこのタイトル。抽象性がたかく、みていて、ちょっと苦しい。重い。色調が、ついこのあいだ見てきた伊藤若冲の最晩年の鷹と松の図のように、簡素である。そういえば、この土の色、アースカラーは、昨日とりあげたもう一冊の『左手の約束』表紙の写真とも通う。あれは、装丁家の高橋善丸氏がご自宅の庭にできたひびわれを面白く感じられて、写真にとられたものだという。

こういうひびきあいにきづくと、おのずと縁のかさなりあいがみえてきて、句集を一冊だすことのシンフォニー的意味合いが、うれしく、ここにあらためて祝辞を申し述べたくなった。

はじめての句集出版、二冊も、おめでとうございます。みんなから祝福されて、お人柄がしのばれます。わたくしのようなものにまで、ありがとうございました。

最後に、引用をはばかった句がひとつあって、それは以前、連衆誌で見たときから、わたくしのなかで強い忌避感がある句なのだが、今回もとうとうここにとる気になりませんでした。お許しください。

  

  

                               

2006年8月 9日 (水)

中村マサコ句集『左手の約束』

美しい中村マサコ句集を今日あすと二冊読みます。

「左手の約束」  詩遊社刊

この句集は、倉本朝世さん(川柳家)がご主人と二人でやっておられる出版社・詩遊社から出版されるということで、去年から朝世さんが編集作業をなさっていたのを存じ上げていた。昨夏、朝世さんがその件で九州に見えた時には、私もちょっとだけ柳川駅で朝世さんにお会いし(初めて会ったのです)、駅構内のミスドで編集途中の句稿を見せてもらったりした。「この句いいでしょう。この茗荷村の句」とあさよさんが言って、「ご本人はそういうのはわからないっておっしゃるのよ」と見せてくれた。「え、どれ。うん、いいね。筑後は荒神とか結構まつってあるから、実感あるいい句だと思う。」「ね、そうでしょう。これ、見出しに使おうかな」・・彼女は大変そうだったが、とても楽しげに句稿の束と筆記具を仕舞った。そのときのやりとりが、ちゃんとこうしてモダンな句集になって収まっていることを見て、一人の俳人が句集を世に出す意味と、編集者と作者との運命ともいえる紐帯に思いを馳せた。

そんな風にして、倉本がかなりの数の作者本人の自選句リストから句を更にしぼり、章だてにして見出しを付けて編集したのが、『左手の約束』となって結実したわけである。私の聞くところによれば、中村マサコ氏が句集を思い立たれてから、かなりな年月かかったようだ。しかし、それだけの内容のものができているのではなかろうか。

中村マサコ氏を私は大牟田の俳人谷口慎也先生の出されている俳句誌『連衆』で知った。倉本朝世さんもそうだったのじゃないだろうか。朝世さんはマサコ句のファンだったそうである。好きな俳人の句集が自分の思い通りに編集できるなら、本望だったに違いない。その意味では、これは中村マサコ句集であると同時に、倉本朝世句集でもあろう。

   ゆるめてみる

 前略の豪雨となりし春の土   中村  マサコ

 黄砂くるすこし左手ながくして      〃

 ベビー帽置かれし土のおちつかぬ   〃

 横たわる高さが好きな春霞    〃

第一章冒頭の四句。一連の句を「ゆるめてみる」という見出しでくくる手のやさしさ。

ここではからずも倉本朝世の『硝子を運ぶ』が同様の構成からふっと思い出されるのであるが、たしかにマサコ句の世界は朝世の川柳というには美しすぎる詩的浄化世界と一脈通じるものをもっている。違うのは、季語があることだけだ。その一点の違いは大きいだろうか。

 あざみ剪る玄界灘に膝をつき

 青葉闇だきしめてみるゆるめてみる

この二句、みごとにきまった。色彩ゆたかな日本画の味わいがある。輪郭がくっきりしていて省略が効いているので、それぞれの季語がくっきりとした残像を結び、みずみずしい叙情性を獲得している。

 河口嘶くあなたも眠れぬ刻ですか

 産道につづくは青い麦畑

これらはわたくしの現在取り組んでいる「張形としての俳句」(九州俳句誌連載中)で紹介したことがあるが、そういうエロスや煩悩をうちにひめつつ、とてもうつくしい姿でたっている。ことに、河口の句はわたくしに、福岡から佐賀へ抜けるあたりで目にする、筑後川が有明海へと注ぐ汽水域の独特の風景を連想させる。あの風景はいつ見ても敬虔なきもちにいざなってくれる。黒い砂州から生え出た葦の繁りがずっと続いていて、その葦の足元のすうっと清潔な感じは、印象に強くきざまれる。そう、どこまでも孤独で清潔で、なきたいほどに切なくなる景色。言葉だけがつむぐ抽象的な世界で、ある種のはっきりとした景色を連れてくることができるというのは、才能だとおもう。

   青葉繁れる

 キャベツの結球はじまる頭癈(しい)たるよ

 土壁のすこし水吐く桜どき

 ふるさとは顔に張りつく青葉闇

 青蛙やわらか骨壷まだぬくい

 闇にまた一頭の闇嘶けり

 忘れた頃の青葉繁れる膝をつく

  茱萸うれる黒い運河も熟れてくる

 眼帯のゆるみやすくて干潟に出る

 風の骨ときどきささりあちこちささり

 父の忌の群青の魚立ちねむる

 いのちの灯ゆするぴくるすの瓶ゆする

この中で、青葉闇の句、 茱萸と黒い運河の句、干潟の句には筑後の地霊をはっきり感受できる。北原白秋を生みだした土地のすだま。中村マサコの句には労働のにおいは皆無であるが、古来、地のたつきである米づくりにおいて無数のクリークが穿たれ、それが無意識の風景となってしまった地だ。白秋の薫り高き一節をこの二句から導き出す。

  肥後路より、或は久留米路より、或は佐賀より筑後川の流を越えて、わが街に入り来る旅びとはその周囲の大平野に分岐して、遠く近く瓏銀(ろうぎん)の光を放ってゐる幾多の人工的河川を眼にするであらう。(『思ひ出』北原白秋)

   茗荷村

 かたつむり折檻の音ふるさとは

 梅太るときどき鬨の声あげて

 満潮の扉を閉す亀甲店

 ぎしぎしと骨が鳴る日の蚊柱よ

 草食の腸をもつ憂さ夏畳

 大またに荒神が過ぐ茗荷村

 青いよりほかなし青い虫つぶす

ふるさとは折檻の音。たしかに。実感です。同感です。筑後地方はことに封建性が根強く残っていて、胸がくるしくなります。それと、草食のわたをもつ憂さとは、女としてのかなしみですね。これもどうかんです。あおいむしをめでながらもころすほかないのは、つらく、みじめなことです。茗荷のにおいのほのたつゆうぐれに。

    砒素こぼしあう

 群青の釘打つ春の訣れかな

 空港に膝つき赤んぼ抱きなおす

 柱より柱へ渡るおぼろの夜

 麦の秋家に帰って水を煮て

 さくらさくら鼓膜の海へちるさくら

 もも熟れてうすい空気が啜られる

 ひっそりと砒素こぼしあうぼんのくぼ

 チャイナマーブル転げし畳を荒野とす

 眠たい湾岸百円ライター消して灯して

最後の句の具象のしぜんさ。こんなさりげない句、連句人でも書けそうでかけない。

     はずさない

 双葉なす夫を映して水たまり

 左手の約束だから春霞

 人格と耳掻きをまた見失う

 循環線に乗るむらさきの猫ぞろぞろ

 草餅の指のくぼみを相続す

 けもの語が解る罠です はずさない

 風の貌になる約束を南風の中

 命終の枕につづく麦畑

 うす紅の骨とおもえりきさらぎは

 雪こんこ手足ひろげて落ちるなり

 手に掬うのみの光となりにけり

風の貌になる約束を南風の中で誰とかわしたのだろう。双葉なす夫・・か。

引用をしながら、だんだん、なにもなにも、ことばを吐きたくないとおもった。句の世界に完結しているものがあるからだ。

  中村マサコ  1932年福岡県うまれ

           1982年「天籟通信」ほか三誌を経て

           2006年現在「国」「豈」「九州俳句」同人 

    共著に「現代俳句の女性達」 アンソロジー「俳句百景4巻」 

    福岡県久留米市在住  

2006年8月 8日 (火)

さぁ帰還

 大量の男根積んでさぁ帰還   渡辺隆夫

いただきものの句集がたまってきました。少しずつ全部ご紹介いたす所存でございます。まずは、昨日いただいたばかりの川柳句集から。

『川柳 黄泉蛙』渡辺隆夫著ー蒼天社刊より。

 核家族から核を接収する国家

 拉致拉麺脱北レーメン夜鳴き蕎麦 

 ラーメンとイケメンの相互不可侵

 流木を神と見るか世紀と見るか

 府せの流木は脱北者だと思う(府せで俯せと読めるのか?)

 ミナミのママが脱北の仕掛人

 仰向けの流木はママだと思う

この流れるような句のでかた。スピード感があって、疾走感があって、作者本人も読んでるわたくしも、すこしもものをおもわざるままに、句の雌伏を私腹を至福を感受し、意味より先にそのリズム感をきもちの良いものとして受け取る。

 国思う禁止の煙草吸いながら

 へリ飛来フトンを叩くこと一分(芭蕉の面影が一秒)

 ベランダマンをパンパン叩く隣の嫁

 飛行機のように電車も突っ込んだ

 煎餅のような遺体だナンマイダ

毒で切り込み遺族の感情や加害者の痛みにはこれっぽっちの配慮もしておらぬ。そこがまさにその一点が、川柳人の気骨である。わたくしはこれを読んでここにいちばん感動をおぼえた。これをやりおおせるには、なんて偉大な勇気とど根性がひつようなことか。

これは由緒正しきオッサンのラップである。

冒頭に置いた句だが、最初思い込みのはげしい俳人は「大根」だとばっかりてっきり読んでた。何でまた大根をーと思ってよくみたら、男根だった。笑

自衛隊の帰還のことでありますね。それをこういうふうに詠む芸は、さすが川柳家だと思う。

「水際に兵器性器の夥し」(作者名どわすれしました。ごめんなさい。) という、有名な無季俳句と並びおかれることで、その位置を不動のものとする川柳だと思いました。この句の延長線上には、なぜかロボットによる代理戦争までが連想され包含され、わらいのあと、暗澹たるきもちになります。

鹿又英一の連句的序文、繊細で詩的な吉田健治の跋、が川柳の読み方がわからないものにも丁寧な解説となっている。じっさい吉田健治の跋を読み、同じ作者の前作「亀れおん」を引っ張り出してきて、松林尚志の序文を改めて読んだりしました。

 憚りながら母は早メシ  隆夫

 母なくして水母空母は生まれない    隆夫

 (空母ゆく億の水母を従えて  倉本朝世)

 お夏オナニー清十郎はせんずれり  隆夫

 バネが発情してどうするんだ    隆夫

 (死んだこころをどうするんだ忘れたふりして覚えてんだろ えーっとだれだっけ。歌のカシなんだよね)

はばかりながらの母句ですが、トイレに座ってまでメシをかっくらってるせわしないおっかさんが浮かびませんか。それでちゃんと頭韻まで踏んどるからすごい無意識の芸。阿頼耶識の域にとうたつしておる。それと、これだけは書いとかなきゃ。この私でさえ引用をはばかるような卑猥な俗語をたんまり使った句がいくつかあって、ちょっとうれしい。昔はけっこうあったよねえ。今はみんなお上品になって、そういうスラングは絶滅してしまったけど、まだあるんだ。この間うちの田植えのとき、通りかかった隣村のファットなおっちゃんが、忘れたけどとびきり卑猥な冗談を言って自分で受けていたのを見て、「おおまだこんなんがおるんかー」とひそかにこころがふるえたのでした。えろいことばって、人を怒らせるだけじゃない、元気にするね。それと、引用句の「せんずれり」ということばは、こどもが小さかったころバスに乗ってて、その落書きを見て大きな声で「おかあさん、ねえねえせんずりってなあん」って。静かな車内が一瞬凍りついたのはいうまでもない。そんだけ威力があるってことは、原始的な力がそこにあるってことで、そういうのを非難にひるむことなく書くとこに、わたなべさんの真のえらさがあるとおもいました。

 手を振って落ちてくるのはお父さん   隆夫

 お父さんはお母さんだった    隆夫

  ぼくはただ水に映った父と母   野間幸恵(句集「WOMAN」所収)

ここまでくれば、哲学的で深い森です。でも、いいたいことは、確実につたわります。

著者紹介:渡辺隆夫 1937年愛媛県うまれ 1995年第一句集、1998第二、2002第三、2005「渡辺隆夫集」発行。神奈川県在住。

 

 

2006年5月 8日 (月)

虹の橋

所属誌『九州俳句』編集長の中村重義氏が、大腸がんの手術と闘病の記録を句・歌集の私家版という形で上梓された。名付けて『虹の橋』、ちいさな美しい本である。(写真)

 ガン宣告 供花は野牡丹だけでよい  

 もしかしてもしかして死ぬ葛の花

 大腸ガンといふ鬼女がゐる紅葉山

 死に急ぐほどの名は無し凧(いかのぼり)

 麻酔は薔薇の香り頭蓋の真暗闇

 手術後の寒き身体の螺子ゆるむ

 白露や零るるはわが生命とも

 夕時雨肩を濡らして介護妻

 人工肛門(ストーマ)の朱き露頭に冬日染む

 三月や波のゆらぎは身のゆらぎ

 黄泉へ行く夢の続きの山ざくら

 血液を小瓶に三つ採られをり何の検査か知らされぬまま

 ガン告知遂にされたり覚悟してゐし妻あはれ声の震へて

 死刑執行待つ囚人の心もて大腸ガン手術の日を数へをり

 全身麻酔はすべての臓器眠るとふ臓器の睡り思へば愉し

 吻合の針残りたるわが腹部月光享けて輝く夜あらむ

 眠られぬ夜の幻に乱舞するWordsworthの黄金(きん)の水仙

 蛸の如き烏賊の如き雲流れをりおやおや今度は越前水母

 歳月は雲の形をとりながら西へ東へさだめもあらず

 何気なきバスの案内(あない)の声なども病み伏す耳に懐かしきもの

 注射痕、点滴洩れの残る腕ちりめん皺など刻めるあはれ

 臍の横にストーマ袋ぶら下げて大腸ガン手術後半年を過ぐ

 生と死の挟間を渡す虹の橋 If Winter comes,can Spring be far behind?

 

50句、50首のなかから、ことに印象深い作品を抽いた。

中村重義は1931年生まれ、北九州八幡在住の俳人であり歌人である。これはこの世界では異色であるといっていい。短詩型のなかでもっとも短い詩形をやってる俳人たちは往々にして短歌もたしなむ人を侮蔑的な表情で遇する傾向があるからだ。七七以下を切り捨てる覚悟を持たぬものに何が詠めるか、というのだ。いまだに連句が超マイナーな文芸であるのも同じ理由であろう。だが、すべての詩形で輝きを放つ仕事を残した寺山修司みたいな文学者もいる。私自身もすべての詩形それぞれのよさがあるから、いずれもすてがたいと思う者のひとりだ。

「虹の橋」という題は、だから、生と死に架け渡す橋であると同時に、俳句と短歌という二つの伝統詩形に渡す橋でもある。引用して改めて感じることだが、さすがに長年研鑽をつまれた方だけあって、ことばに無理がなく、とても自然なリズムでいのちが刻まれている。ことばあそびの余裕さえ感じられるほどだ。ワーズワースの一首などは昔学生だったころ、その名通りに言葉の値打ちをとことん敲いた詩人なんだなと思ったことまで思い出した。普通に平凡に見える歌であっても、ちょっとした言葉の処理に永いうたびととしてのキャリアがのぞく。一番すきな句と歌を引き筆をおく。(やはり作品として眺める自分がいる、おそろしいことだ。これは作者自身もその覚悟で出されたものだとおもう。)

  三月や波のゆらぎは身のゆらぎ 

  吻合の針残りたるわが腹部月光享けて輝く夜あらむ

 ワーズワース:http://pinkchiffon.web.infoseek.co.jp/book-daffodils.htm

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

句歌集・虹の橋

句歌集・虹の橋

句歌集・虹の橋

超結社俳誌・九州俳句誌編集長、中村重義著。病中吟50句 50首を収める。

2006年4月11日 (火)

ははのてのひらは

 ははのてのひらは小さな野原です   倉本朝世

            (あざみ通信特別号)

春休み、次男を連れて戸畑の姑のところに一晩とまった。ははは一人暮らしである。

二月に左手の親指を骨折してギプスにいれたまま、家事が思うようにいかない。それで、夫が週末に泊りがけで行ったり、私が行ったりして掃除をしている。数年前にも肩を骨折したが、そのときも誰にも頼らず、ほとんど一人で治した気丈な母である。

わたしは、夫に対してはともかく、戸畑の姑と亡くなった舅はほんとうに大好きだ。義父は平成九年に亡くなったが、今もパイナップルを見たりすると思い出し、涙が出てくる。大正末の台湾で生まれ育った義父は、行くとよくパイナップルを上手にさばいて出してくれた。寡黙でとても立派な男気のある人だった。それにものすごく達筆だった。

戸畑の母は、私の母と正反対の性格である。とても家庭的で包容力があり、やさしい。こどもたちが小さいとき、わたしは実家に帰るより戸畑に泊まるほうが、ずうっと里帰りのほっと和んだきぶんを味わった。

それは今にして思うと、実家は一年中、農家で苺栽培に追われていたからだと分かるのだが、無言の圧迫感は娘の私でさえうっとうしいものだった。農家の仕事など全然知らず、田舎の慣習にもなじめない夫と、常にだれかの婿とくらべてものをいう高飛車な親との間に立って、日曜の朝は一階と二階をそわそわと行ったりきたりしたことを昨日のことのように思い出す。親は起こせと言う、夫は起きない。そりゃそうです。サラリーマンなら誰だって休日は寝ていたい。でも、農家は違った。

あのころの息苦しさは、無言の抑圧となってのしかかっていた気がする。

そんなときに、ふっと戸畑へ行くと、にこにことやさしく、温厚な父と母が迎えてくれた。母は私には何一つ家事を手伝わせず、新聞でも読んでいなさいと言ってくれた。そして、晩御飯の材料を買いに近くの市場へ私を伴い、そこで必ず私達一家の分まで明日の食材も買ってくださるのだった。実家の母と違ってずっと専業主婦の姑は、とても堅実で節約家で料理がうまく、行く度に私に趣味で作ったかばんや手提げをプレゼントしてくれた。だから私は自分でバッグを買ったことがない。ぶかっこうでちょっとダサいバッグでも、大事に使っている。

初めて戸畑のおかあさんと出会ったときのことを、時に思い出す。婚約前の或る日、戸畑の家に連れていってくれた。似たような細い路地がいくつもある静かな住宅地に、古い小さな夫の家があった。戸を開けると、掃除機をかけていたおかあさんと目が合った。足もとをそのころ夫の家に飼っていた室内犬が賑々しく駆け回っていた。「いらっしゃい」と言ってくれた声もまだ覚えている。

戸畑の母は私の父と境遇が似ていた。おじの家に養子に来て、そこで結婚したのである。義理の父母のことを、いまもよく姑から聞かされるが、実の親以上に自分を大事に育ててくれたと言って先日は涙をぽろぽろこぼされた。いくら感謝してもし足りないほどだと言って。

先日、次男を中学受験のときにあまりにも勉強させ、倒れさせたという話をしたところ、姑は、その不自由な両手に次男のあたまを包み込み、抱きかかえるようにして、言った。「まあかわいそうに!あそびたかったよねえ。えらかったねえ。」

ほんとうに有り難いと思う。わたしには出来すぎた姑である。

2006年3月26日 (日)

あざみ通信特別号

 浪速の川柳家・倉本朝世個人誌「あざみ通信特別号」をいただきました。

「no mark」 倉本朝世のブログ「渾身・乱心の日々」からの編集版です。これを読みますと、彼女の現在の仕事(競輪の業界紙記者とおもわれます)と実益を兼ねた趣味(株式)がほぼ見えます。そういった雑多な日常すべてをまきこんで、川柳という生きた文芸の批評も創作もリアルタイムで展開されているのが改めて分かります。川柳の同人誌活動から一切身をひいたかに見えた倉本朝世は、どこにも逃げず、ちゃんと真剣に川柳を見つめているのが分かり、ちょっと胸が熱くなります。いちばん最後のページに、「水母と母と山」と題する作品があります。

 「水母と母と山」  

          倉本 朝世

 法律の底を漂う水母たち

 あちこちをめくって母を笑わせる

 車座になって私を囲む山

 裁判に小さな山を運び込む

 山田さんの靴を片方持っている

 ははのてのひらは小さな野原です

 空母ゆく億の水母を従えて

 塩を振りすぎて判定負けになる

 引き出しにあるのは犬の診察券

「車座になって私を囲む山」にはなぜか危うく涙がでそうになりました。連想したのは、「風の谷のナウシカ」で瀕死のナウシカをオーム(王蟲。芋虫の親方みたいな)がエネルギーを送って癒す場面。あるいは石橋秀野の「山肌の濃紫なる冬日かな」(東京時代昭和14年)も。秀野句ははるかに望める富士の山肌にふるさと大和の山やまを呼び覚ます想いがある句だと思います。この朝世さんの句はとても素直な句です。この中でいちばん好きです。

川柳としてみたときに、最も評価が高いのは、しかし、というか、やはりというか、空母の句でしょう。前に「九州俳句」誌の「俗の細道」でとりあげて書いた記憶があります。一句の大きさ、風格、ふかさ(句自体は一見なにも考えていない、それがミソ)、そして時代との共時性。ちょうどイラク派兵が決まったころの句だったんです。これをみたとき、私はやっぱり倉本朝世ってすげえなといたく感心したものです。そして根源川柳である句は、そうそう書けるものじゃないことも、だんだん分かってきました。

いつも見るわけじゃないテレビで米国の政治家が拉致家族を前に北を非難する談話をしているのを偶然見ました。それを見たとき、動乱を覚悟したほうがいいのかという不安がふっと脈絡なく浮かびました。誰も何もいわないけれど、ほんとはちっとも平和じゃない日本を思いました。というのもその少し前、新聞の国際面で自衛隊の撤退作業を米国の企業が請け負うという小さな記事を偶然読んでたのです。自衛隊は日本の軍隊じゃないのですね。米軍のいわば傘下に組み込まれている従属軍なんです。ことあらためていうべきことじゃないのですが。そういった諸事情もあれこれ思案させてくれる、批評性と諧謔性のあるすぐれた一句です。

2006年2月20日 (月)

ペリリュー神社

昨夜「九州少年」という題のミュージシャン甲斐よしひろの自伝エッセイ(西日本新聞朝刊連載中)について、岐阜の小説家斧田千晴からコメントをもらった。そのことについて考える。

西牟田靖の新刊本『写真で読むー僕の見た「大日本帝国」』が東京先行発売ということで、横浜のあっさむさんに頼んで入手してもらう。せっかく著者から挨拶文を戴いてたので、なんとしても読まねばと思った。手にとって驚く。写真で読むとあったから、もっと軽い感じのいわば「旅行記」風の本をイメージしていた自分を恥じる。全く何を考えていたんだろう。文章が意外にたっぷりあって、真正面からのドキュメンタリーになっている。腰をすえて読まねばならない本だ。ただ五つの場所ごとに章を立ててまとめてあるためどの章から読んでもよく、パラパラと写真を見ていたところ最後の章「ミクロネシア」に思いがけず「さざれ石」の写真があった。(223頁)。再建されたペリリュー神社と説明があり、石はいつか「マリオットの盲点」の「お細石」で「nomark」の矢島玖美子さんが紹介して下さったサイトで見た記憶があった。岐阜県春日村産のものである。ここから、入ろうと思う

http://assam226.tea-nifty.comマリオットの盲点、9・13付「御細石」、

『「さざれ石」は比喩ではなかった』(アドレス表示不能)

ペリリュー神社を検索していると、名越二荒之助(なごしふたらのすけ)氏のサイトが見つかった。引用しておきたい。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/nagoshi/palau.htm

ペリリュー島のサクラと神社(無断引用をお許しください。メール送信がずっとできない状態でして、本当に失礼いたします。)

※なお、斧田さんのコメントにある村田治男先生は三重県連句協会の元会長さんで、俳人連句人詩人短歌人です。平成九年、私が初めて伊丹の柿衞文庫での連句興行に参加したとき、それは連句誌れぎおん同人による百韻でしたが、二十人ほどの中に先生がいらして、初めての座を何かと助けていただいた御恩を忘れません。その時座の中で一番若かった私に捌きは文字通り「花をもたせて」下さり、挙句の前の一番大事な花句(百韻の場合、99句目にある)を詠まねばなりませんでした。帰りの時間はせまる、句は浮かばない。横にいらした先生にどうしましょうと相談した記憶が蘇りました。村田先生にはその名もズバリ「みくろねしあ」という題の句集があります。なぜか私は持っていました!

  酋長の正しい日本語星月夜  村田治男

  酋長は語り上戸よ月今宵 

  北緯十度あたりを僕の故郷とす

  戦(いくさ)経しヤップ神社の鳥居かな

  おんおんとミクロネシアの雷神(はたたがみ)

ここまで来て、はたと気づきました。村田治男句集のあとがきは、岸本マチ子先生が書かれていることにです。沖縄の詩人で俳人のマチ子先生は、私にとっては原点にあたる人なのです。書けば長くなりますので省略しますが、俳句や連句に関わる縁を下さったのは、当時戸畑の「天籟通信」におられた岸本マチ子先生でした。先生は東北生れの沖縄人です。やはり、わたしの仕事はこれで間違いはない、といま確認しました。

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