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2014年9月21日 (日)

第六十一回長崎原爆忌平和祈念俳句大会の作品集から 

八月の影のひとつとして歩く    谷川彰啓(大分)
クルス灼け千年先も爆心地      同
語り部の声は十字架爆忌くる     同
満員の電車を止める爆心地      同

浦上の水平線の人柱    北野昭夫(熊本)

まぼろしの声の林立ながさき忌  矢野緑詩(福岡)

蚊柱の耳元を過ぐ原爆忌   近藤 輝(熊本)

改憲あるな老婆は十薬干している  松尾すみ子(長崎)

サクラはいつも骨のかたちに爆心地  小山淑(長崎)

蝉しんしん二親しらぬ妻とゐる   柳原天風子

浦上の川は渡らぬ母の夏   宮崎包子

八月や水分けて呑む爆心地  西山常好

ナガサキ全滅の報耳にあり夏野  舛田傜子(長崎)

原爆忌アインシュタイン舌だすな  坂口圭秀 (長崎南山高3年)

夕立や転生信じる爆心地  江良 修

カステラの薄紙を剥ぐ南風かな   石丸響子(愛媛県立松山東高2年)

僕という獣の匂い夜干梅    阿部慶太(愛媛県立伯方高2年)

白南風の軍港一つ洗い上ぐ  下岡和也 (愛媛県立松山東高3年)

じいちゃんが私に語る原爆忌  永峯伊織 (精道三川台中学1年)

以上、入賞句とその周辺より引用しました。

ところで、。
かささぎの旗は俳句づくりに熱心ではありませんのに、毎年この大会にだけは投句しております。選者のえらい先生たちの生の声が聞けること、素材が素材なために、歴史や政治までも含めた声が聞けます。
作品集をのぞくたび、毎回あたらしい発見と学びがあります。
しらないことばっかりだとおもう。

ことしの八女関連の投句も記録しておきます。

坂の街 知らぬ戦の 原爆忌   田中恵美子(福岡)
炎昼や 人もさめゆく 反戦歌     同

お帰りの声ある三和土風は死す   八山呆夢(福岡)
爆心地緑陰の下死者の声       同

丁寧に水打つ今日は八月九日   東妙寺らん (福岡)
取り出して洗う目玉や原爆忌     同

夏の日に裸足のゲンを再読す    古賀音彦(福岡)
石蕗は熱き光で灰になる       同

コンビニに寄らずに帰ろ原爆忌   姫野恭子(福岡)
花ござにまろべば離(か)るる霊と肉   同

見せかけの平和ゴクリとソーダ水  青翠エメ(福岡)
健脚の老婆が灼ける遠い坂     同

らんさんの取り出して洗う目玉、これはリアルでも喩の句、いまだから描けた句ですね。
金子とうた先生が、入賞句の「改憲あるな老婆は十薬干している」を高評価されたのとおなじ視点を内包します。
音彦さんのつわぶきの句。わたしはなぜ、つわぶきなんだろう。と気になった。
もしや原爆資料館でそのようなものを飾ってあったのか。
えめさんの二つの句、わたしは健脚の老婆の句をすごいな。と思った。
どこでだれがどういうふうにしてなくなっていったのか。
きっとはるかどこかできちんと見ている存在があると信じたい。

わたしの花ござの句は、杉山洋画伯の句、被爆の記憶を強く残す句から出ている。
このかたの筆圧つよき文章にはしばしば圧倒されるのであるが、俳句もすごいものをもっておられる。来年はお誘いしたいものだ。投句をぜひにと。あるいは語って欲しく思う。最後の語り部として。だって、ひろしまとながさきをいちどきに体験されたかたはそうそういないにちがいない。

(原爆資料館の展示について、さだまさしの記憶をもとに書かれた杉山洋おんじいの文章を引用します。句もここに書かれています。)

引用元;http://ameblo.jp/yameyobanashi/entry-11585033788.html

「旅供養」と副題のある さだまさしの『神の恵みと戦った長崎の少年』のなかから「国際文化会館」についての下記の一文を紹介させてもらう

(前文略)

「今はもう国際文化会館も無くなり ほぼ  その辺に近年美しい原爆資料館か゛造られている 

残念ながら 美しく脚色された「原爆資料」は もうかってのように哀しいほどの強い体温を伝えなくなってしまった。 

当時は今のように まるで美術館のような静謐な照明も 静かに流れてくる音楽もない 勿論 ガラスの奥に「作り物」のように飾られた「遺物」といった演出もなかった 

その分 胸に迫る「実感」があったのだ 

只のフロアに 漠然と並べられたガラスケースをのぞきこむと 数センチ先に 焼け焦げた嬰児の屍体が放り出すように置いてあり 溶けたガラス瓶に食い込むように 真っ白い誰かの指の骨が置いてあった
善知鳥吉左の八女夜話
演出も効果もない 現実にこれはあったことなのだよと まさに その様は身の毛もよだつもので 子共心に確かな命の叫びと無残な爆弾への怒りが聞こえてきた」 

さだまさしの 静かだが怒りの声が聞こえてくるではないか 


ヒロシマの幼児の屍体の絵と被爆兵看護のときの句を再録してさだまさしの『旅供養』のお供をする

さださん 老画家の我儘を許して下さい

 広島第一陸軍病院大田分院にて


 

     蝿払う小指坡飛びけり備前ござ  

 

 

 

     蝉時雨 名もなき兵を野焼きせり   

 

(敬称略) 右  昭和三十八年作 「蝕B」

 

 

(追伸)

それにしても、アインシュタイン舌だすな、の句、まいった。
ジュニアの部、つよい!

朝から、ヒットラーの予言、というサイトにつかまってしまい、長文のサイトを一気に読んでしまいました。ふしぎさが韻文的。

2014年7月31日 (木)

松田久彦さんの戦記、発見!

ある朝、西日本新聞に松田さんの戦記をみつけた。
おお、御年九十になられたのか。
「八女手仕事の道」という貴重な本を横町交流館で求めたときの、二十年近く前のお顔が蘇る、八女の郷土史家である。

さきほど伯父の戦記を読み返し、ビルマ戦に思いを馳せたのもあり、転記したい。

古参兵の命で「盗み」に死力

     松田久彦(90)  八女ふるさと塾名誉会長

 私は昭和19年春、福岡県久留米市の歩兵部隊へ入隊。
当時、私は、「国家のために死力を尽くす」と覚悟していた。
しかし、入隊して死力を尽くしたのは「盗み」であった。
 私は訓練期間の初期に腕を負傷し「員数外」、すなわち「はみだし兵士」となった。
兵の集団を統制する一つの力は「員数制度の厳守」であった。
兵士数、兵器数はもちろん、敷布、シャツ、ももひき、食器など支給品全て「一定数を守ること」だった。違反すれば厳罰があった。
 不足品が出ると、古参兵から私が盗みを命じられた。
衣類不足の場合は他部隊の物干し場で失敬。
食器を盗むときは食器洗い場で戦友と組んで混乱を演出し盗んだ。
4ヶ月間の訓練期間が終わり、私一人は福岡部隊へ転出。
他の初年兵数百人はビルマ(現在のミャンマー)戦線へ出征、大半が戦死した。

 

2014年7月 4日 (金)

反響

はじめて反響のお便りをうけとった。
九州俳句誌に連載させていただいている『かささぎの旗』(21)http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-539d.htmlに対しての感想である。
くださったお方は熊本の俳人で、編集部を介してかささぎの住所を知り、一筆なさった。
一読し、わたしはここにその手紙を転載しなければとの義務感に駆られる。
自分の書いた文章は人様のかかれたもののおかげで成り立つものだからであり、文芸の世界はひとりひとりの個の集合体でできているからだ。

実名を出していいでしょうか。
わたしは出すべきと思いますが、まだ断っておりません。
いつもなら、即、独断で出してしまうところですが、今回は、わたしにまずお便りを出してもいいかと聞かれた経緯があり、それに教えられました。
ですので、お便りを先にご紹介いたします。

「こんにちは  はじめまして
私は熊本市に住む俳句愛好者。いま連載中の「かささぎの旗」に同感しています。
森山光章様の句を初めて知ったのも、連載の御かげです。
高野ムツオ氏の人気句集「萬の翅」に関しては 先の震災と切り離して読めない時事句との谷口氏のご指摘にうなずく所があります。
「円錐」誌から。草田男の知られた「勇気こそー」の句、前書があったことは知らなかったので、草田男を永遠の指導者だと拝する結社の会員さんは驚きます。
私は「北野民夫」句集(自解)、俳人協会編を持ってます。
味元昭次氏の提示したお話を、私が知ることになり、知識の一つと感じました。
次回の「かささぎの旗」を読むのが今から楽しみです。
お身体大切に。

     川崎史門(しもん)52才

姫野様

※すみません。やはり出してしまいました。ご勘弁ください。

連衆の谷口先生(先生と呼ぶわけは、学校の先生みたいだからで。じっさいにそうであられる。また、私がはじめて結社誌に入ったとき、谷口先生はそこから独立されたばかりだったので、親しみと敬愛をこめてそう呼ばせていただきます)と『円錐』誌を贈呈くださる横山康夫先生(先生であります。姫野が二度目に門をたたいた運命の『樹(たちき)』にいらっしゃいました。今は亡き沢都、天野おとめ=やめしの自動相談室長とそのお子たちといっしょに巻いた連句の文音に入ってくださった、ベテランの知識にたくさんおそわりました)。
どうかお読みください。はじめての反響です。

それと個人的に。
味元昭次氏の原文をまるごと引いていたのが、手違いで消えてしまって、時間がないかささぎは打ち込めなくて、手短にまとめますと、味元氏も川崎氏とおなじく、前書きがあったなんて知らなかった、それを教えてくれたのは飯島晴子の一文だったそうです。
それを読んだとき、はっとしました。
れぎおんで連句を学んでいたころ、飯島晴子氏は自裁された。
そのとき、草門会のある歌仙の留書のなかで、東京の川野りょうそう(蓼艸)先生が追悼文をしるされたことがあった。うつだったようだ、と。
当時、鷹同人で俳句・連句誌『摩天楼』を主宰しておられた星野石雀師のところに、かささぎも「影ふみあそび」という随想を連載させてもらっていて、飯島氏のお名前はよく目にしていた。
作品集も拝読したが、すぐれた一流の俳人であった。ことばにならない感覚。
霊的というのがいちばんふさわしい。
その人がかきとめたことというのが目にとまったわけです。
わざわざ書き記しただいじなことだったのですね。

さあ。
ますますわたしは気になります。草田男のこころの軌跡。
美しい作品、叙情が詩型をくいやぶって噴出した(上野千鶴子の表現)、というような。
そういう句をたくさんのこした草田男が、慚愧の念を押し殺した?
肝腎のまえがきをとっぱらった理由は何だったろう。

中村草田男。しきやきょしとおなじ、えひめ出身の俳人です。

(まだなにもしらべておりません。そういえば最近読んだ、上野千鶴子の『ひとりの午後に』という題の文庫本にある「俳句」のなかで、草田男の大ファンであることが述べられている。
ひかれていた句は、

萬緑の中や吾子(あこ)の歯生え初むる  草田男

咲き切つて薔薇の容(かたち)を超えけるも  草田男

上野千鶴子先生。
草田男は、どういう生涯をおくった人だったのだろう。
ウィキにはふしぎと一切でておらぬ。
これからだれかによってなされるべき仕事なのだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E8%8D%89%E7%94%B0%E7%94%B7

 

出陣近き教え子に語りて、次の一句を示す

勇気こそ地の塩なれや梅真白  中村草田男

2014年5月18日 (日)

『一枚のハガキ』

きのう、母と新藤兼人監督のさいごの映画『一枚のハガキ』をみた。
大竹しのぶの最初の夫になる俳優さん、よく見かける人ですが名前を知らなかったので調べますと、
六平 直政(むさか なおまさ、本名:同じ、1954年4月10日 - )は、東京都中野区出身の俳優。アトリエM所属。若き日、状況劇場に所属していた、とありました。

むひらと書いて、まさかのムサカ!

なしてやん。とさらにググると。

珍しい「六平」姓は、父親が秋田県由利本荘市で代々続く真宗大谷派寺院の出で「平家の落人が六つの赤旗を立てた」というこの土地の言い伝えから「むつあか」が縮まって「むさか」になったという[1]。現在も親族が当地で住職を務める他、全国に7 - 8軒ある「六平」家は全て親戚という[1]。

(ウィキペディアより)

魂魄の入った映画だった。
どの役者さんもどの場面も、キラキラとすばらしかった。
戦争がかなしくて、男も女もかなしくて、なみだがぽろぽろこぼれた。

ここから、連句的なおはなしになります。
わたしはこないだの還暦同窓会のとき、なつかしい中学時代の恩師に数十年ぶりであったのですが、そのときに、ずうっと疑問に思っていたことをぶしつけにも尋ねてみたのです。
(じつにプライベートなことだから、書いていいものかどうか迷いに迷いましたが、かささぎだし、許してもらおう。)

先生は当時まだお若かった。私たち生徒とそう違わないように見えた。
クラスにとても頭のいい秀才がいて、噂では先生は彼の姉だという。
それにしても年が離れています。(15歳ほど)
そのことをきいたの。ほんとうに姉弟なのですかと。
すると先生はまさに一枚のハガキの中の村のしきたりと同じ話をなさいました。
わたしはなにかいやでたまらなかったのよ、ともいわれました。
しまった、また余計なことを聞いてしまったなあと思ったけれど、・・。

かささぎ、以前にも、これと似たような話を書いた記憶がある。
長崎原爆忌平和祈念俳句大会に行ったときの思い出。
入賞作品集を手に、この句、いい句ですねえと隣に座ったひとにいったら、その人が作者だったのです。

まだ句を記憶している、えらいぞ、かささぎ!こうです。

麨や戦争後家と母呼ばれ

季語は、麨(はったい)、麦こがしです。
この句からきこえるのは、母のかなしみを見ていた、むすめだった人のかなしみ。

2014年5月 3日 (土)

日豪の旗  松尾敬宇海軍中佐のお墓

地図をかいてみました。
山鹿入り口の日輪寺(つつじで有名)を左に折れて、山道をずんずん直進。

日豪の旗

かなりいったところで、案内1があります。ここを左に曲がる。

日豪の旗

案内2は案内1から一キロくらいのところにありました。
写真は案内3のもの。(かささぎ、この少し手前の神社に迷い込んでしまいました。一ッ目神社といいました。別記)

日豪の旗

案内3を左に折れて農道を行くと、右に小さな一団の墓地。
二つの模様の違う旗がへんぽんと翻っています。

日豪の旗

んま。こんなたんぼのどまんなかに、。

日豪の旗

駐車スペースは二台分ほどあります。
季節のお花が咲き始めていて、踏まないよう気をつけます。

日豪の旗

英語の顕彰碑は農道に面している方です。

日豪の旗

松尾敬宇海軍中佐の碑。
お墓と向きあう日本語版。

日豪の旗

日豪の旗

日豪の旗

2014年3月22日 (土)

「偉大なる、しゅららぼん」とあふみの民

偉大なる、しゅららぼん

みたいとおもう。

一日二興行。
しかも二時間。

わが三人のばあちゃんたちにはむりだな。

銀の匙なら見れるかもしれませんが・・・。

かささぎ、これがみたい。

主演の濱田岳がいまノリに乗っていること。
湖の民という設定、あふみのたみ、であること。

こじつけでもなんでも、ブログでの二つの縁がなにか開けそうな気がするから。

1、渋谷師関連

渋谷幽哉師は熊本県芦北の僧侶でしたが

先祖は近江の武士です。

専妙寺の開基の由来

「専妙寺は慶長二年八月(西暦1625年)了学という人の開基(創立)である。
この人は江州(滋賀県)甲賀郡の住人で、豊臣秀吉が天下を治めていた頃、熊本城主となった加藤清正と共に肥後にやってきた渋谷与左衛門重次、のち芦北郡佐敷花岡城主となる加藤大和守重次の親族の一人である。
重次の父渋谷宇助重成は甲賀郡渋谷荘司平頼長の末裔(子孫)にあたる。了学は重次が城代を勤めた佐敷花岡城が元和五年、一国一城制に伴い廃城となったほか、重次の病死などが重なり世の無常を感じたのが動機となり、出家剃髪し、本願寺から木仏と専妙寺の寺号を頂戴し、開基している。
当時の本願寺では多くの出家子弟を養成し、布教拡大のため木仏と寺号を与えて全国に旅立たせている。
了学は一時江州甲賀に帰っていたが、佐敷で仏門に入ったのは、一族が佐敷城に関わり、住民にも知己が多かったからと考えられる。しかし当時、民、百姓、町人は生活状態が著しく悪く、全国的にも百姓一揆が頻発した時だったので了学師の布教には相当な苦労があったことは想像に難くない。したがって開基とはいっても、寺を建てたわけではなく、しばらくは恐らく何処かの家を借りて布教し、毎日が苦行の連続であったと思われる。それを裏付けるようにわずか六年で死去、第二代の了喜師の時に本堂を建立している。開基から二十四年も経ってからである。」

(『至誠院釈幽哉師を偲ぶ~遺稿と専妙寺四百年の歩み』より引用)

ちなみに、「渋谷氏」で一番にでたのはこれでした。
東京の渋谷氏。同祖かもしれません。

http://www.inet-shibata.or.jp/~iide/jikosyoukai/shibuya/tokyoushibuya.html

さしき城(佐敷城)
佐敷城画像引用元;http://cmeg.jp/pc/9725

平の頼長。。。藤原の頼長とは違うようだ。

2、万葉集の志貴皇子「懽(よろこ)びの御歌」関連。

みじかい青春でした。あとは、軍服の生活でしたから。
ただ軍服時代二年間のあいだに、岩波文庫の『万葉集』
をくりかえし読みました。「いはばしる たるみのうへの
さわらびの もえいずるはるに なりにけるかも
」。
この原初のあかるさをうたいあげたみごとなリズムは、
死に直面したその時期に、心をつねに拭きとる役目をし
てくれました。
(司馬遼太郎「学生時代の私の読書」『以下、無用のことながら』
文春文庫)。


これは大谷雅夫氏によれば、じっさいに司馬氏が読んだ通りなら、

「岩波文庫の『万葉集』とは佐佐木信綱編『新訓万葉集』(昭和二年刊)上下二冊。その上冊、巻八の巻頭歌(1418)は
石(いは)そそく垂水(たるみ)の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも

でなければならんのだそうだ。
ではなぜに司馬氏のうたのよみはかわってしまったのか?
おそらく、長い時のあいだに人口に膾炙する歌が、江戸中期カモノマブチによる強引な改読以来、自然淘汰で変化を遂げ、司馬氏の記憶もそれに同調したのだろう。。。
と。以下、大谷雅夫氏の原文。

「万葉集とはもともと漢字だけで記された歌集である。万葉集を読むとは、
本来その原文の漢字列を訓読することであった。そして司馬氏の思い出
の歌の初句は「
石激」の二文字。平安時代から江戸時代まで、それは
一貫して「いはそそく」と訓まれてきた。「いはばしる」とは、江戸時代中期、
賀茂真淵がそう改めて、以後のほとんどの万葉集注釈書が支持し、踏襲
した訓であった。『新訓万葉集』は数少ない例外であった。

司馬氏は、当時にあって珍しかった「いはそそく」の歌を岩波文庫で読みながら、「いはばしる」と後に記憶を変形させてしまったのである。「いはばしる」の「みごとなリズム」の印象がそれほどきわ立つからだろうか。あるいは、「いはばしる」の形でその名歌が語られる機会が多かったせいでもあろうか。」

「いはそそく」と「いはばしる」 万葉集名歌の訓みの考察 大谷雅夫

その1http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-6ad2.html
その2http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-a3a1.html#comment-106340305
しきのみこの御歌(ウィキペディアから引用)

志貴皇子の歌は万葉集に6首収められているが、いずれも繊細な美しさに満ち溢れる名歌である。

  • 「石ばしる垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」
  • 「神なびの石瀬の杜のほととぎす毛無の岡にいつか来鳴かむ」
  • 「大原のこのいち柴のいつしかと我が思ふ妹に今夜逢へるかも」
  • 「むささびは木末求むとあしひきの山の猟師に逢ひにけるかも」
  • 「采女の袖ふきかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く」
  • 「葦辺ゆく鴨の羽交(はがひ)に霜降りて寒き夕へは大和し思ほゆ」

しきのみこはなかのおおえのおうじ、天智天皇のむすこなんですね。
なかのおおえ、ってさ。中くらい大きい兄ちゃん、って意味なんだね。
それにしても、大谷先生の論文をよむまで、石走るに何の疑問も抱かなかった。いい歌だなあと思うだけで。
でも、いまは違います。
もともとの正式な原歌の石激は「いはそそく」とよむことを知った。

しかしながら、だ。
比較すると、石ばしるのほうがずっといいのはなぜだろう。

2014年3月17日 (月)

渋谷幽哉師遺稿集より 「ひよこ飛びなさい」8

渋谷幽哉・文

突入

出撃発進後約二時間三十分、まだ彼も飛んでいるようだ。あいつは連絡はないが、奄美を避けて、大きく東シナ海南方に回り込んで飛行中だろうと望みをつなぐ。間もなく敵戦艦に突入する、敵空母に突入すると、次々に打電してくる。対空砲火がすごい、スコールを逆に降らすようだという。「頼むゾ」と胸中に叫びながら、友の最後の突入符号「ツー」を追う。
十数秒もあろうか、ポツンと途絶える。
「やったぞ」「命中であってくれ」。
途端に涙が堰(せき)を切ったように流れる。電信員が直立不動で厳粛に「受信の結果と、高速偵察機『彩雲』の一航過撮影の結果を照合して、戦果を確認するのだ」と告げる。
翌日O少尉は戦艦に、F少尉は空母に命中したらしいと聞く。部屋に帰ると、出撃した者のベッドが無情にも運び去られている。きのうまでにぎやかに死について論じ合い、談笑した友の姿はもうここにない。

弱冠二十二、三歳の青春を賭(と)して、祖国の隆盛を信じ、同胞の繁栄を希(ねが)って散っていった予備学生。死に臨み、彼らはまことに静かであった。出撃の直前まで、学生時代に学んだのであろうか、カントの純粋理性批判を読みふけっていた者、黙々と遺書をしたためていた者、それぞれに学生らしい風貌(ぼう)が今も脳裏を去らぬ。
「われわれは学徒兵として最後を飾ろう」と誓い合った宇佐空のことが忘れられない。

五月十七日夜半、私を含め残った三人は「搭乗員整列」に緊張し「さあ出番だ」と待つ。山田大尉が「本日、菊水第六号作戦をもって宇佐空の攻撃を終わることになった。貴様たちは残った飛行機をもって原隊に帰投せよ」と命じた。聞くところでは、四月二十九日のB29の爆撃で宇佐空は壊滅的打撃を受け解隊のやむなきに至り、西海空部隊として再編されつつあるという。今にして思えばかつて二万五千時間も飛んだ特務士官のベテランパイロットが「戦争は怖い、殊に戦いを重ねるたびに怖くなるものだ。だからベテランは特攻に使えない。その点初陣は怖さを知らぬ。だから貴様たちが行くことになるのだろう」としみじみとした口調で述懐したのを思い出す。

実にあまたの予備学生や予科練が飛行時間三百時間そこそこの「ひよこ」のままで、あたら春秋に富む生命を自ら進んで断ったのである。戦い終わって三十有四年、ともに肩を抱きながら歌いかつ涙した「同期の桜」が今もなお聞こえてくるようだ。

(熊本日日新聞・昭和五十三年十月十六日から六回連載の週間随想より転載された、『至誠院釈幽哉師を偲ぶ』の中の、遺稿集より引用。)

全文転載するのに時間がかかってしまいました。
折をみて、原文通り、一本に編集しなおします。

2014年3月13日 (木)

「あゝ同期の桜」 をみる、すると雨の出陣式の画像が真っ先に出た!

)

リンク記事「生等もとより生還を期せず、一人称談議」
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-419a.html

不謹慎かもしれません。すみません。

2014年3月10日 (月)

渋谷幽哉師遺稿集より 「ひよこ飛びなさい」7

渋谷幽哉・文

出撃命令

四月十一日夜二一〇〇(フタ ヒト マル マル)、スピーカーが搭(とう)乗員整列を告げた。飛行隊長の山田大尉が一枚の紙片を持ってわれわれの前に立ち、菊水二号作戦が発令される。本隊から次の三名に行ってもらう。呼ばれたら一歩前へ」とH少尉、F少尉、M少尉を指名した。同様に十六日菊水三号にS少尉、T少尉、四月二十八日菊水四号にO少尉、H少尉、S少尉、五月四日菊水五号にK少尉と次々に行ってしまった。

出撃下令の夜は遺書、遺品の整理、地図を広げての作戦準備に忙しい。そんなときの皆は異様に寡黙である。残る者は彼らの搭乗機の整備状況を点検するため出かける。整備員はほとんど夜を徹し、必中の願いをこめて整備に余念がない。思わず頭が下がる。もし一機でも不調で帰投するようなことがあると、いじらしいくらい慟哭(どうこく)するということを聞いた。彼らも出撃する者に劣らぬぐらい必死なのだ。

東の空が白むころ、出撃学生を飛行場に送る。昨夜は眠れたであろうか。まんじりともしなかったであろう。死出の装束を着けた彼らの後ろ姿に神々しさが漂う。O少尉はその辞世に「もろもろの装ひつけて国のため 征で立つ姿母に見せばや」と詠んでいる。出撃者を全員指揮所前で別杯が行われる間、戦友の乗機を列線に運ぶ。見ると八百キロ爆弾がみがき上げられて、白ペンキで「必中」と記してある。敵艦までわずか二時間余だが、心尽くしの巻きずし、飲み物が積み込まれる。午前六時発進だ。乗り込む友と力いっぱい手を握り合い肩を抱き合う。「一足先に行って貴様たちを待ってるぞ」「必ず行くぞ」。
やがて轟々(ごうごう)とエンジンがうなり、おもむろに走り出す。片手を振りながら、純白のマフラーをなびかせつつ重そうに離陸していく。燃料は片道分だ。大地を離れた一瞬、再び彼らに生きて相まみえることはない。生と死のはざまはかくてまことにあっけなく訪れ去っていく。

時を移さず地下壕(ごう)の無電室に駆け込み、電信員の動きをかたずをのんで見守る。三、四十分で敵戦闘機の巣窟(くつ)、奄美大島の西方洋上に達するのだ。やがて、戦友の搭乗機が敵機に遭遇したと発信してくる。爆装した低速の九七式三号艦攻は動きが鈍い。目を閉じて、心のなかで友の無事を念ずるが、次々に撃墜されていくのがわかる。さぞ無念だろう。歯ぎしりをしながら友の胸中を察する。張り詰めた無電室の空気も沈みがちになる。あと何機残っているのだ、一機でもいい、二機でもいい、なにがなんでも彼らの攻撃を成功させたい。無電はまだ入らぬか、皆の心が焦燥と不安に揺らぐ。

(つづく)

(初出・熊本日日新聞昭和五十三年十月)

もろもろの装ひつけて国のため 征で立つ姿母に見せばや  大石政則辞世

http://eireinikotaerukai.com/documents/document_001.html

大石政則隊員、搭乗機の風防に油漏れのため引き返したときの次第をつづった日記
(四月十二日付)

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/27_ca09.html

(大石政則日記は残ってまとめられ、本になったが、渋谷幽哉師ご自身は日誌をつけておられなかっただろうか。もちろん、いろいろな顕彰会、ことに戦友会での慰霊の機会は数多くあったことだろう。
聞くもがなの、うかつなことを尋ねてしまった。
かたときもわすれることなどできなかったに違いない。

2014年3月 6日 (木)

渋谷幽哉遺稿集より 「ひよこ飛びなさい」6

渋谷幽哉・文

特別攻撃隊編成

昭和二十年四月三日、近く発令の菊水作戦に合わせて、早朝から艦攻・艦爆とも特攻部隊が南薩の基地に向けて発進し始めた。八幡護皇隊の誕生である。特別訓練を受けていた艦攻同期の桜がまず二人、飛行時間も三百時間足らずの「ひよこ」のままで敢然と出発した。明けて六日さらに三人、飛行帽に日の丸のはち巻きをしめ、ライフジャケットに桜の花を飾り、隊員の見送るなかを南の空に消えていった。
四月七日朝、さらに六人が出発。隊内に慌ただしい空気がみなぎる半面、学生舎内は次第に寂しさを増してきた。「散る桜、残る桜も散る桜」の感慨をひしひしと味わいながら、先に行った連中はもう基地から沖縄に出撃しただろうかと考えていた。午後四時ごろ、突然私を含めて六人が司令室に来いと命ぜられた。「きたぞ」と神妙な気持ちで司令室に行くとテーブルに白布がかけられ、真ん中に一升びん、周りに湯飲みが置かれていた。やがて司令が来て「みなさんの最後のご奉公、うらやましく存じます」と自ら酒をついでくれた。生命をくれということだと悟ると、一瞬言いようのないものが体を貫いて走った。生きて再び帰ることのない旅だ。隊員の”帽振れ”に送られて顔を紅潮させ、宙を飛ぶような気持ちで出発した。

行く先は南薩の串良基地で、艦攻の特攻隊が全国から集まっていた。すぐ近くに零(ゼロ)戦の笠原特攻基地、その隣に艦爆の鹿屋特攻基地があった。基地の宿舎に落ち着くと、すでにT学生だけが出撃して見事敵艦に体当たりしたという。先に出た戦友たちがにぎやかに迎えてくれた。この世ではと思っていた貴様たちに会えて、とてもうれしいと言ったら、皆大笑いした。

しかし当隊に着任報告の際のM司令の不愉快極まりない言葉だけは死んでも忘れないと思った。曰(いわ)く「貴様たちは特攻隊員としてこの基地に来た以上、一人といえども生かして帰さんからそのつもりでおれ」であった。
死はもとより覚悟のうえ、死なぬやつが何を言うかと思った。
ほかの連中もよほどしゃくに障ったらしく、出撃のとき、小さな爆弾を用意して司令の上に落としてやると息巻いた。
兵舎は文字通り、あの世までのしばしの仮住まいだから、おそろしく粗末で、経木ぶきの屋根、モウソウ竹製のベッド、木製のバスなどはその代表的なものだった。死ぬ準備といって、別にすることは何もなかった。きょうかあすか、ただ出撃命令を待つのみ。
一日に三回の飯だけが生きていることの自己確認であった。もちろん「自己の死」を嘆く者はいなかったが、皆それぞれに生死の問題についての内面的な葛藤(かっとう)はあったと思う。私も例外ではなかった。

(つづく)

『至誠院釈幽哉師を偲ぶ 遺稿と専妙寺四百年の歩み』
平成十年九月二十三日発行より転載しています。
発行者 宗教法人専妙寺 住職 渋谷百錬
熊本県芦北郡芦北町

(平成二十年五月十一日 橋爪章氏より受贈)

参照)

大石政則日記の昭和二十年四月三日付部分。
・・はありません。
しかし四月六日ぶんに次のくだりあり。

○九○○出撃搭乗員士官室に集合す。司令来場の上、乾杯す。司令より「今次天一号作戦発動につき、天皇陛下より畏(かしこ)き勅語を賜りたり。しっかりやるように」 と述べられ、愈々(いよいよ)決意を確めたり。
発進前にふと和歌をよむ。写真帖に貼りおくよう戦友に頼む(鉛筆走り書き)

待ちわびし 身に甲斐ありて 大君の
   御盾と飛び立つ 今日の嬉しさ

ダグラスは宇佐ー熊本と南下して串良に着く。
本日一三○○を期し総攻撃開始され、第一次と第二次護皇隊は姫空と共に八○○瓩(kg)爆弾をしっかと抱き、土煙を上げて四小隊に分れ出撃せり。貴島中尉のチョークをとる。総計三十機。次いで天山の特攻機出撃、次いで二五一空の天山隊、夜間雷撃発進。
宇佐護皇隊より電信続々来り、体当り成功、貴島中尉、成田大尉の電に曰く、「我に天佑*あり士気旺盛」、「突撃準備隊形作れ」「攻撃目標B(戦艦)
」また藤井大尉機は「ヒ」連送の後、六時すぎA(空母)に突入す。その他「我突入す」を打電し来る者多し。
政隆、中学入学につき喜びにたえず。特別に何かを祝品と思いしも多忙の折柄不可、本日日記帳に挿入の金子を以て祝す。よく許されよ。

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_15d1.html(これに渋谷幽哉師の追悼文「同期の桜」後半を引用して付けている)。

前半はhttp://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_df02.html

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