こんばんわ おもてんくち。 ばあちゃんのことば。 「かどんくちにほってとかんの」 最後に・・・・「の」がつくのは福岡弁です。 福岡県 来んの、行かんの、しとったの? その他はほぼ共通語です。 うおおお。 おどん、爆笑!!!!!!! 知っとるよ、もちろん、今90歳の親戚のばぁちゃんは言うもん。 私たちも「うち」でした。 相手のこと「自分」ちゅう大阪弁にもまいるけど。 訛りが全然抜けない佐世保出身の友人がいた。田舎くさかったが、その人間性と言葉の力で自治会長に推された。 美 し き 天 然 ↓ ↑ 自分~>>久留米の男もそういいますよね^^ ↑すみません(^_^;)訂正です。 イムジン河が発売自粛となり、イムジン河の曲を逆回転させた曲調をベースに作られたのが「悲しくてやりきれない」だから、その2曲は表裏一体。 さくらさん。少林寺拳法を教えている「うち」の中学時代の男ともだちは、平成のこの時代にも、自分のことを「じぶん」と呼んで、通常的会話をいたします。最初は違和感があったものの、いまは聴きなれた。 エメさん。スポット世代は、のんぽり世代でもあるよねえ。自分でもノンポリやなあって思うもん。 乙さん。うつくしきてんねん。サーカスの薄暗いテントの下のものがなしさを彷彿とさせるのはなぜ。わたしの愛唱歌には、ホント、わたしの愛唱歌が、ばさらかうまっとる。 乙さんが書かれている歌、知ってます。ほとんど歌えます。イムジン川はときどき口をついて出てきます。主人は高校へ、ギター片手に通っていたような人なので、かなりの曲を今でも弾けます。坂崎さんには負けるけど。 そおらぁにいぃさええずるう・・・・を見て、サーカス小屋は思いつかなかったわ! あまりに聴きたい曲が多かったので、とうとうお気に入りに入れちゃった。時間があるときにじっくり聴きたい。それにしても、ここの管理人の執念、おそろし!脱帽!すごいねえ、このバラエティにとんだ選曲は。 恋人もいないのに、悲しみは駆け足でやってくる、五番街のマリーなどなど、なつかしい曲がいっぱい。 でも、ここまでで一番わたしに受けたのは、これ。守屋ヒロシさんの「僕は泣いちっち」 「私の愛唱歌」の歌詞入りの軍歌の数々には目頭が熱くなります。「麦と兵隊」にはラヂオ実況入り。中に、米国軍歌だが、自分の記憶に残る最古のSP曲があった。多分、ステレオ購入時にオマケで付いてきたやつ。 当時、まったく意味もわからずに何百回も聴いていた。こんな深い歌詞だったとは。 それにしても(乙訳)は下手っぴ。「私の愛唱歌」にカチューシャの原詩(ロシア語の訳)と日本語詩とが対比してあります。原詩は、ロシアの軍歌だった。 日本語訳の何と豊かな響き! 出勤前にちょいと読もうと思ったら、読めない濃さであります。帰ってからじっくり読ませていただきやす。 一人称代名詞 私も仕事中にふと覗いたら、その濃さに驚いて、思わず仕事サボってコメントします。 職場のパソコンで送信したら名前が出なかった。ついでに追加のコメント、「史上最大の作戦」の原題は「The longest day」で、これをもじった日本の終戦記念日映画が「日本の一番長い日」、怪獣映画が、キングギドラ初登場の「三大怪獣 地上最大の決戦」です。ところで、「史上最大の作戦」を日本語で歌ったCDは出てないのだろうか? のっとられた、完全にブログを。笑 美しき天然とは縁があります。ちんどんやの歌とおもっていましたが、ジンタはこの曲をさすんですね。 おつしろうを小学校のときから知ってるけど、といっても遠くから知ってるって意味だけど、昔からきみの印象はどことなく浮世離れしてたよ。最初の文で書いてるけど、「老」ってことば、がぴたっとはまる気がした。そんなこどもってほかにはいない。なんでかしらんが、きみには「公」ということばがにあった。 ろいりさん。きっとがっこの先生か公務員でしょう。そんなかんじです。勝手にそう思っている。 ではさようなら。ねむいのでねます。 わたしはまだいいほうだ。弟は34年生まれだから父が48の時の子。熊本君にはまけたね。 山本五十六はもっとすごい、父親が五十六歳の時の子だからね。うちの父は昭和2年生まれで若いと思っていたが、早生まれなので学校では大正末年と同じクラス、というか、そっちが主流派だったらしい。 呂伊利さん、このごろかささぎの毒にやられてませんか?(笑) 異動or移動と言っておられたようですが、いずこへ?言えない?時を待ちましょ。 三潴は自分ちは「おりげ」です。かあちゃんは「かか」落ちたは「ひっちゃげた」わかめは「めのは」茸類は「なば」・・・ほかにもいっぱい。 「おりげ」は、叔父たちも使っていました。 一人称、わたしも使い分けるほう。多重人格ではないが、職業意識がそうさせたものだと。しごとでは、「わたくし」、あるいは「わたくしども」。個人的には「わたし」幼いころは「うち」と呼んでました、もちろん。高校時代か中学生のころの一時期「ぼく」を使ってましたっけ。赤面ものです。 箒草のほうきから、一人称の話題で盛り上がる、連句的転じ方。かささぎの旗。おもしろくて、日に3度も4度も覗いて、自分のブログより長く滞在しておりますが・・・、これって 山本いそろくの数字の意味はそういう意味か。しらなかったな。
箒草ってほんとにホーキになるんですね^^♪
手作りのあったかみがありますね![]()
あるいは、おもてんかど。
うらんくち。
でも、うらんかど、とは言ってなかった。
「かどんくちにほってとかんの」
まじないみたいな、まかふしぎさよ。
2,3軒さきの家が福岡県、こっちは佐賀県の県境にあるわたしんち、見分けるのは「・・・・の」の違いでした。
佐賀県 来んね、行かんね、しとったね?
裏んくちも。
ここまでこまかくなってくると、さすがのかささぎもそうじゃったろか?状態です。
せいこさん、かどんくち、ってきいたようなわすれたようなことばねえ。
さくらさんちは県境でしたか。
八女もどっちかといえば熊本のほうが近い。
むかし、ガキだったころ、山の母の里へ泊りがけで行くのが楽しみでした。ディーゼルカーに乗って。
私たちは、じぶんのことを「うち」って言ってた。でも、黒木の山の子は、じぶんのことを女の子なのに「おどん」って言ってたので、内心、うわあいなかもんやんねえって思っていました。笑
黒木瞳さんはどういってただろうね。「うち」だろか。
おどんなんてそんな熊本のおてもやんみたいな呼び方だけはしてほしくなかとです。はい。
やくざ風に「知っとーか、じぶーん」
佐世保うまれのワルツ。さっき、テレビで流れてた。
1 空にさえずる鳥の声 峰より落つる滝の音 大波小波とうとうと 響き絶えせぬ海の音 聞けや人々面白き この天然の音楽を 調べ自在に弾きたもう 神の御手の尊しや
2 春は桜のあや衣 秋はもみじのから錦 夏は涼しき月の絹 冬は真白き雪の布 見よや人々美しき この天然の織物を 手際見事に織りたもう 神のたくみの尊しや
3 うす墨ひける四方の山 くれない匂う横かすみ 海辺はるかにうち続く 青松白砂の美しさ 見よや人々たぐいなき この天然のうつしえを 筆も及ばずかきたもう 神の力の尊しや
4 あしたおこる雲の殿 夕べにかかる虹の橋 晴たる空を見渡せば 青天井に似たるかな 仰げ人々珍しき この天然の建築を かく広大に建てたもう 神のみ業の尊しや
この「美しき天然」のページの下のほう、「私の愛唱歌」をクリックすると、懐かしい歌がぞくぞくと出てきました。そのページの「謹告」を読んでから味わってください。
勇敢なる水兵だって、精霊流しだって、帰ってきたヨッパライだって、ケメ子の歌だって、受験生ブルースだって、レナウンの歌だって、エメロン(ふりむかないで)だって、狼少年ケンだって、まぼろし探偵だって・・・なんでんかんでんあります。
さらに、上のほうの「放送禁止曲」をクリックすると、実録三億円事件だとか、これまたいろいろ出てきます。フォークルのイムジン川もここで聴けます。「謹告」を読んでから味わってください。ヨイトマケの歌、山谷ブルース、五木の子守唄ほか、SOS、プレィバックpartⅡ、ウェディングベルもここで聴けます。
イムジン川>>高校生のころ、ラジオで放送禁止になる直前まで、、流れるとほんとにかじりついて聞いていました。 いい曲ですね~。
イムジン河>映画「パッチギ」で全編にゆるやかに流れますね。
この時の音楽担当は加藤和彦氏ですね。
シーンの中で、坂崎役のオダギリ氏がギターでしみじみと歌う「イムジン河」は秀逸ですね☆
ここだけ、CDで買いたいくらいすばらしいです^^![]()
オダギリ氏が歌ったのは「悲しくてやりきれない」でした。ちょっとごっちゃになってました。
最近また見たいモードです^^☆
あのやんちゃな井筒監督も同世代ですね♪
私らも含めて、このへん前後はスポット世代って言うんですよね。
団塊世代と共通一時世代のはざまにある・・・わりと自由で、欲がなく、のんびりしてるってゆうか・・・![]()
岡林やかがわ良のことなどよくしっています。友部正人にいたっては今でもファンクラブにはいっているほどです。
小郡で行われたコンサートに一度付いていきました。農家の納屋をステージに改造してあるところでした。ピアノがおいてあって黒い幕も備えてあり、
ちょっとしたステージでした。知っている曲は1曲もなく、私にとっては長い時間でしたが、前の席の佐賀から来たという女性はのりのりで、そう体をゆすらなくても良いじゃないといいたくなるほどでした。
私が気になったのは、幕の下から出てきた一匹のごきぶり。左端から右端までゆっくり移動して・・・
前の席なら靴で落としてやろうかと思っていたのですが、件の女性は気がついてなかったらしく(主人も)それだけのめりこんでいたんですね。アットホームなステージでした!?
乙さんがこういう歌を知ってあることにも驚きます。俗に言う頭のいい人は歌なんて聞いていない。馬鹿にしている・・・と思い込んでる私です。そうじゃないんですね。父が「歌番組ばかり見ると頭が悪くなる」とすりこんでいたので、そんなふうにおもったんでしょう。父は大正元年生まれでした。
そういやそうね。
歌ってるのが小沢昭一というのもおかしか。
14歳違いの叔父が持ってたレコード。
聴いた聴いた。まだわけもわからんチビのときに。思わず吹き出しながら、なつかしくてなつかしくて、涙が出たわ。
「史上最大の作戦」
The Longest Day MARCH(1962) - Mitch Miller
Many men came here as soldiers many men will pass this way
Many men will count the hours as they live the longest day
Many men are tired and weary, many men are here to stay
Many men won’t see the sunset when it ends the longest day
(乙訳)
男たちは兵士としてここに来た 男たちはこの道を通ってゆく
男たちは時を数えながら 長い一日を生きる
男たちは疲れてここにとどまる
長い一日が終わるとき、男たちは日暮れを見ないかもしれない
外国語は「音」でしかなかった。(シルビーバルタンのフランス語の「音」は心地よかった。彼女が日本語で歌ったレナウン娘は意味が認識できた)
(原詩)
リンゴとナシが花咲いていた
霧が川面を漂いだした
カチューシャは岸へと出かけていた
高くけわしい岸へと
歌いながら出かけていた
ステップの青灰色の鷲の歌を
愛していた人の歌を
手紙を大切にしまっておいていた人の歌を
ああ、歌よ、娘の歌よ
輝く太陽の後を飛べ
そして遠い国境地帯の兵士に
カチューシャからよろしく伝えよ
純朴な娘を思い出させよ
彼女が歌っているように聞こえさせよ
故郷の大地を守らせよ
カチューシャは愛を守るだろう
(訳詩)
りんごの花ほころび
川面(かわも)にかすみたち
君なき里にも
春はしのびよりぬ
岸辺に立ちてうたう
カチューシャの歌
春風やさしく吹き
夢が湧くみ空よ
カチューシャの歌声
はるかに丘を越え
今なお君をたずねて
やさしその歌声
でも、最近の日本の歌も負けちゃぁいない。日本語が乱れているとはいわせない豊かさがある、病院で戦う看護師たちのための軍歌。
「みんな元気!」
きみの元気は僕の元気さ ファイト!
いのちのよろこびに Yes it's goo-d goo-d Mor-nin'
だってこんなに Fine Day~
笑顔が輝けば Yes it's goo-d goo-d Fee-lin'
みんな元気に Say Hello~
僕のハッピーはきみのハッピーさ トライ!
こころがつながれば そう it's goo-d goo-d Talk-in'
はじめましてと How do you do~
あの子も笑っている Yes it's goo-d goo-d Smi-lin'
みんないい顔 Say Com'-on
このブログに初投稿したのは3月2日の夜だったので、1年が経過した。このブログ上では、よく一人称として「乙」を使った。時に「私」。書き物の場合、一人称はよく用いる。しかし、口語では事情が違う。
小さい頃から「僕」は使っていない。自分のことを「僕」と称する同級生が気障っぽかったので、そう思われるのが嫌で使わなかった。作文の宿題の時に嫌々使っただけ。男の子は「僕は・・・」、女の子は「私は・・・」。日常生活で「僕」は生涯一度も使っていない。
「私」を使うことはできない。女、女といじめられる。「おどん」は田舎っぽくて絶対に嫌。「俺」は、ひ弱系の人間は使わない。
かくして、一人称を全く用いずに、幼年期、少年期、青年期を通過した人間が生まれた。ごくごく小さい頃、周囲の影響で「ウチ」を用い、それが間違いだと知らされ恥ずかしい思いをして以来、一人称を避ける癖が身に付いていたので、比較的楽だった。
成人し、面接試験など一人称の使用が必要な場面が訪れた頃からは「私」。作文の時の「僕」みたいなもので、割り切れる。日常生活は一人称なしで過ごした。「私がやります」→「こちらでやります」みたいな翻訳リストが脳内にぎっしり蓄積されている。公務員は自分を前面に出してならない滅私奉公の職域。一人称なしで困る場面はほとんどなかった。子どもに対しては一人称で強い親を演じなければならないこともあったが、そういう時は「お父さんにまかせなさい」。
最近は、「私」の使用場面が増えてきた。大衆を前に「私」と称することに抵抗がない年齢となってきたため。使ってみると、以外と楽。翻訳リストも少しずつ消えつつある。でも、いまだ家族は「私」が一人称代名詞を口にするのを聞いたことがない。
「美しき天然」はそのワルツのジンタッタというリズムから「ジンタ」という通称がつき、サーカスやチンドン屋の曲として有名になったようです。イムジン河を初めとするフォークル関係・パッチギ関係については語りたいことが多すぎて省略。ロカビリー「3人ひろし」の1人だった守屋浩、その友達なのに全く女性に人気のなかったかまやつひろしのことも、いろいろコメントしたいけど省略。
「史上最大の作戦」の作曲は「ダイアナ」のポールアンカで、「ザ・ヒットパレード」では誰かが日本語で「いつも 戦いはつらい ものだぜ…」と歌っていた。ちなみに「北京の55日」の日本語バージョンを歌ったのはあの克美しげる、そして映画には伊丹十三が出演している。
一人称を「自分」と言うのはもともと軍隊用語らしく、そこから体育会系的用語になったのが、一般にも広まったのではないだろうか。関西では二人称で「お前」みたいなニュアンスだから、使い間違えると誤解されてさあ大変、ヤーさん出てきて何やわれ、おっちゃん一緒にケンカしよ、となる。
櫻濃くジンタかするゝ夜空あり 秀野
墨堤での句。
ぼんの父上は大正元年生まれ。これには驚きを禁じえませんでした。何歳のときのこども?かささぎは計算ができん。えーと昭和29年生まれだから29に大正年間の14年を足すと、43か44だよ。考えたらちがうはずよね。うちはどっちの親とも24しか離れていない。生れたとき親は24だったからだけど。環境におやの年齢は関係するよね。そういうのすべてひっくるめて、いまの愛情深いぼんがある。
んで、この「私」をさす呼称についてのこだわりかたを読んで、深くおもったのは、なんでやねん。ってことだよ。
ひとはそんなにはやい時期から自分の運命に従順であるわけ。なんで。わからん。
一日こきつかわれたので、許容限度量をこした。
母は大正8年、9人兄弟のただ一人の女。(たぶん)呉服屋のお姫様だったらしい。なにせ、八女津高女を出ていなさる。八郎叔父さんだけが存命。私ももう寝よう。明日も5時45分起き。おやすみ。
ところで、私も実は乙四郎さんと同じく、姉の影響で小さい頃、恥ずかしながら「うち」と言っていた。その後は「僕」と「おい(俺)」の使い分け、今でも家族や筑後地区の友達には「おい」(これに格助詞の「は」が付くと「おや」か「おりゃ」に変化)、ちょっと皮肉ったりすねた感じの時は「あたし」「あたしゃ」、それ以外で親しい人には「僕」、ちょっと公的には「私」(文章は親しい人にも)、大学時代の関西系友達には「わし」「わしゃ」を使うことも。同人誌的なものには「おいら」を使ってたこともあるが、これはビートたけし登場以前。昔何かに、一人称をいろいろ使い分ける人は信用できんと書いてあり反省しようとしたが、やはりこうなるのは多重人格のせい?ところで神津島では老若男女問わず、自分のことを「おい」というので、最初はびっくりした。自分の家のことを「おいんげ」というのは、久留米の男言葉と一緒。
二人称の使い方は、ボランティアで外国人に日本語教える時難しい。「あなた」なんて、丁寧語のようで却って相手に失礼に当たることも多いし、「あなた♡」ってな場合もあるし。コリアン語も似ていて、同じ言葉が「あなた♡」になるかと思えば、「貴様」のようなニュアンスにもなる。あ、でも三人称も難しいか。
「おどん」「おまん」複数形になると「おりどん」「おまんどん」に転じます。叔父に至ってはいまでも使う。彼らは方言の宝庫。貴重な存在。![]()
自分のことを自分というのは生硬なかんじがする。
しかし、東条英機の雨の昭和18年の学徒出陣壮行会にて、代表が挨拶したのに、せいら。ってじぶんらのことをよんだのにだけは、ほんとうになんともいえない悲壮感が、あった。
せいら、です。生等もとより生還を期せず。
今回の出版に対して、大きな推進力となっていただいたのは京都大学名誉教授の飯沼二郎先生である。1990年(平成2年)に、未來社の田口英治さんとお2人で拙宅においでになり、父の遺稿をご覧になって以来今日までに、御高齢にもかかわらず、御多忙の中、8年間という長い間、校正に編集に、そして助成金の申請に、数々の御尽力を惜しみなく賜ったことに対して衷心より厚く御礼を申し上げたい。飯沼先生はまさに「伯楽」である。父の調査資料を高く評価していただき、また先生のあたたかい人道的な御配慮によって父の遺稿が日の目を見るようになったのである。
さらに、この飯沼二郎先生への橋渡しをしていただいた未來社、そしてこれが果して活字になるだろうかと懸念されるような乱雑な父の走り書きの原稿を、1つ1つ活字に組めるように修正しつつ出版まで漕ぎつけていただいた未來社の田口英治さん、面倒な長文の解説をこころよく御引きうけ頂いた東京大学東洋文化研究所教授の宮嶋博史先生、朝鮮半島の詳細な地図(5万分の1)を長い間お貸しいただき、校正の便宜をはかっていただいた久留米大学教授の桜井浩先生、そして、この桜井浩先生を紹介して下さった元九州農業試験場長の向居彰夫氏、また、この「あとがき」全文について懇切丁寧な御助言を賜った九州大谷短期大学助教授で国文学科専攻の安保博史(あぼひろし)先生などに対しても、心より感謝の意を表したい。なお、韓国文化研究振興財団からは1990年に第1回の出版助成金として100万円を交付された。また文部省からも1997年度の出版助成金を交付された。感謝の意を表する。
そしてさらに、この書物はいまは故人となられた方方の善意の結集がまた今回の出版を可能にしたものと思われる。
遺稿の中に実名で記録され、朝鮮半島の伝統農業のあり方を指し示されている朝鮮農民の方方、最後まで父の遺稿を出版されようと努められ、こころざし半ばにして故人となられた落合秀男さん、さらには、この困難な出版を採算を度外視して引き受けながら、完成を待たずに逝去された未來社の前社長故西谷能雄氏、また、父の遺稿を詰め込んだ重いリュックサックを、朝鮮から苦労してただ一人で背負って来られた故木下栄さん、そして父昇。
本書は、これらの人人への「鎮魂の書」ともいうべきものであろう。
何時だったか妻が、
「あなたは、お父さんの遺稿出版のためにこの世に生まれて来たようなものですね。」
と言ったことがある。
そうかも知れない。そうでないかも知れない。しかし、多年の念願であった父の遺稿が公刊されることによって、私は今まで背負っていた大きな荷物を降ろしたような気持で、気分が軽くなったことは事実である。
そして今から51年前、沢山言い残して置きたかったであろうけれども、ひとことも言い得ずに、無念の思いを込めて突如として遠いあの世に逝った父のもとへ、今なら大手を振って逝くことが出来るような気がする。
もしそこへ逝ったなら、私は、父が生前言いたかったこと、訴えたかったことに耳を傾けて、一部始終を聞いてやろうと思っている。
最後に、頭(こうべ)を垂れ、つつしみて腹の底から叫びたい。
この遺稿出版に携わられた方方、長い間本当に、本当にありがとうございました。
参考:
父:高橋 昇 略歴
1892年(明治25年)12月23日 福岡県八女郡上妻村津ノ江にて梯(かけはし)岩次郎の次男として出生
1907年(明治40年)3月 福岡県八女郡津ノ江上妻尋常小学校卒業
1912年(明治45年)3月 福岡県久留米市明善中学校卒業
1915年(大正4年)3月 鹿児島県鹿児島市第七高等学校卒業
1917年(大正6年) 福岡県八女郡黒木町の高橋家の養子となり、姓を「高橋」と改める
1918年(大正7年)3月 東京帝国大学農学部農学科卒業
同年(大正7年)4月 東京小麦ヶ原試験場に奉職
1919年(大正8年)4月 朝鮮総督府農事試験場水原本場に奉職
1926年(大正15年)3月 農事研究のため欧米各国に視察出張する
同年(昭和3年)6月 欧米視察出張より帰国する
1934年(昭和9年) 稲の育種・遺伝の研究により農学博士の学位を授与される
1944年(昭和19年) 農事試験研究機関の整備統合にともない水原本場にもどり、総務部長となる
1945年(昭和20年)8月 敗戦により残務整理のため、朝鮮に残留する
1946年(昭和21年)5月 朝鮮より郷里八女市に引き揚げる
同年(昭和21年)7月20日 上記郷里にて死去、享年55歳
主な著書
朝鮮主要農作物の品種名について(1933年)
朝鮮農具考(1937年)
(以上の2冊は韓国京畿道水原邑の
中央農業試験場図書館に保管されている。)
その他の主な(未発表分を含む)遺稿
犂に関する研究・・・・・254枚
稲作の歴史的発展過程(Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ)・・761枚
耒耜考・・・・・・78枚
労力調査・・・・・167枚
労力(主として挿秧)調査・・・・65枚
その他多数・・・・・・・・(約3000枚)
子: 高橋甲四郎
1925年(大正14年)5月2日 朝鮮京畿道水原邑にて高橋昇の長男として出生
1938年(昭和13年)3月 朝鮮黄海道沙里院尋常高等小学校卒業
1943年(昭和18年)3月 朝鮮黄海道州西公立中学校卒業
1947年(昭和22年)3月 福岡県戸畑市 明治工業専門学校機械工学科卒業
1947年(昭和22年)4月以降は、福岡県、佐賀県の公立中学校、県立高等学校にて数学科を担当し、
1986年(昭和61年)3月 福岡県立八女高等学校を最後に定年退職する
1986年(昭和61年)4月 福岡県立八女高等学校講師
1987年(昭和62年)3月 私立八女学院高等学校講師となり現在に至る。(その間、国立久留米工業高等学校講師などを歴任する)。
以上は本書刊行1998年2月現在のものである。(姫野註)
『高橋昇 朝鮮半島の農法と農民』の「あとがき」より。
飯沼二郎・高橋甲四郎・宮嶋博史編集
1998年2月、未來社刊
(きのうのつづきです。)
またある日、父と一緒に旅行した。ある駅の構内で急にトイレに行きたくなった。父に
「便所(当時トイレという言葉はなかった)はどこ?」
と尋ねたが、父は
「眼と、耳と、口は何のために付いているか!」と一喝された。自分で探せ、ということである。私は駅の構内を歩いている人々に尋ねてまわり、「便所」と書いてある標識を探し出して、やっと用を足したのである。
父は乗馬が好きでよく遠乗りすることがあった。
その日は秋晴れの気候のよい日曜日であった。父と雇人と私は2匹の馬にまたがり、当時小学生だった私は、まだ青年のような若い雇人の前にちょこんとまたがって近くの山に行った。その帰りのことだった。町から4キロ程離れた所まできたとき、父は私の背後に乗馬している雇人に、
「君だけちょっとおりてくれないか。」
と言って私一人を馬の鞍の上に残させた。そして父は何を思ったか、持っていた鞭(むち)でいきなり馬の尻を力一杯たたいたものだからたまらない。馬は驚いて跳び上り、私一人を鞍の上に乗せたまま一目散に駆け出したのである。私は恐ろしさのあまり、鞍の上にしがみついて生きた心地はしなかった。馬は4キロ離れた役所(農事試験場)の自分の馬小屋にはいり、
「ヒヒーン」
といなないたのである。その時の恐ろしかったこと、しかしこのことで度胸がつき、それからは一人で乗馬することにそんなに抵抗感はなくなったのである。
万事がこの調子であった。あとで考えてみると、将来私が一人で生きてゆくための指針を与えていたのであろうか。今でいう「自立」というものを植えつけようとしたのであろう。
次に父の健康について少しばかり触れておきたい。
父の40歳代の後半ではなかったかと思う。1度マラリアに冒されて発熱し、その治療薬としてキニーネを服用していたことがある。そのためか、今度は胃腸がやられてしまった。しかし父は、もともと頑丈な体軀(たいく)の持主であったので何とか持ちこたえていたが、次第に弱っていったのを気力で維持していたのであろう。とうとう50歳の頃胃潰瘍(いかいよう)となり、最後の手段として、
「断食をやろう」
と決心し、何日間か断食道場にはいり、やせこけて出て来た。しかし本人はすこぶる機嫌がよく、快活であった。
「これで身体が軽くなった。長年の宿便が出てしまって、身も心も洗われたように軽くなった。」
と至極満足そうであった。
その頃であったと思う。当時の朝鮮帽子(カッ)を被り、朝鮮の白い民族衣装(チョゴリとパジ)を着て、アポジ風よろしく、断食道場で伸ばしたあごの山羊髭を右手でふさふさと撫でながら、写真を撮らせたりなどして得意だったようである。
当時中学生だった私が休暇で帰省すると、
「どうだ、似合うか。」
とポーズをとったりしていたことを覚えている。断食は予後の養生が大切であるといわれているが、父は相変わらずの多忙のため、健康は完全には回復していなかったようである。
この頃から戦争は末期症状を呈してきたため、北九州の学校に在学していた私は、以前のように玄界灘を往復して朝鮮に渡ることが困難となり、その後の父の健康状態がどのように推移していったかは知る由もない。
ただ、敗戦の翌年五月に、リュックサック1つを背負い(これが当時の引揚者のスタイルであった)、着のみ着のままで、両手に少しばかりの荷物を下げて、郷里の叔母の家に引き揚げてきたときは、びっくりするようにやつれて気落ちしていたと叔母たちは言っていた。
『高橋昇 朝鮮半島の農法と農民』の「あとがき」より。
飯沼二郎・高橋甲四郎・宮嶋博史編集
1998年2月、未來社刊
この「あとがき」を書くに際して、この膨大な調査資料を父がどのようにして記録していたか書いて欲しいと未來社から話があったが、その当時私は小学生や中学生の頃であり、とても父の仕事を理解できる年頃ではなかった。ただ当時の父は出張する事が多くて自宅に居る日が少なく、したがって父と会話できることも稀であった。時たま家に居る時でも、食事をしている時でさえ、何事かを考え考えして食べており、私が話しかけても生返事をしたり、ピント外れの返事をすることが多かった。
私が黄海道の海州邑にある旧制中学校に入学して下宿生活をしている時、父がときたま海州に出張すると、必ずといっていい程電話で、
「出張で海州に来たので、こちら(よく南山ホテルという所に宿泊していた)まで出てこないか」と言われ、その南山ホテルまで会いにゆくと、決まって八畳位の部屋の中央に置かれているテーブルの前に胡坐を書いて、原稿用紙を拡げ、しきりにペンを走らせている姿に出会ったものである。そして自分が来意を告げると、眼鏡越しに振り返り、
「おう、元気か」
とひとこと言ったきり、再び原稿用紙に向って1分でも2分でも惜しむようにペンを走らせるのだった。
私は取り付く島もなく、原稿が一段落するまでそばでじっと待っておらねばならなかった。しかしなかなか終らないのが普通であった。それでも私は父のそばに居るだけで、何となく大きな安堵感に浸ることが出来たのである。中学校が夏休みとなり、私が沙里院の自宅(官舎)に帰ってきても、蚊帳の中に机を入れて、先のように原稿に向っている父のすがたを見かけることが多かった。
また、出張のときは何時も藁半紙の粗末な雑記帳(今は市販されていないが、当時は小学校などで書き取り帳に使用されていた)を2、3冊ポケットに忍ばせ、何かあるとその雑記帳に鉛筆で走り書きをしていたようである。今回の実態調査も、この雑記帳に書いたものをその日のうちに宿に帰って転写、整理したのではないだろうか。
今回及ばずながら、校正(といっても印刷されたものを父の原稿と照合するだけの仕事)の手伝いをすることになり、実態調査の校正印刷物が未來社から私の所に送付されて来るものを読むたびに、出張のためにほとんど自宅を留守にしていた父が、外で行っていた調査研究にただただ眼を見張る思いをした。
しかし、編集委員の一人として手伝わせていただいた校正作業は、時間的にも精神的にも、不慣れな私にとってはとても困難なことであった。そのため飯沼先生にも多大な御迷惑をお掛けしたことを、あらためておわびしたい。ただ、今から50~60年前、父が朝鮮半島全土に足跡を残しながら、日記風に書いていた調査記録を、一字一句懐かしい筆跡をたどりながら校正していくとき、父の息遣いを肌身に感じ、現実に父がそこによみがえっているような錯覚に陥り、苦しくもあったが反面楽しくもあった。
さて、父が実態調査に没頭していた時代は、私はまだ幼く、今回の実態調査の詳細は、当時の私にはとても知る由もないが、家庭における父の、とくに私との思い出を2,3記しておきたい。
摂氏零下20度を下まわる北朝鮮の厳冬のある夜、あたたかい温突(おんどる)の部屋の片隅に置いてあった四角い木の火鉢の中央で、炭火が赫赫と熾っていた。夜は深深と更けていた。外では雪が静かに舞い降りていたかもしれない。よく見るとその炭火は、あたかも生き物が息を吐き出し、吸い込んでいるかのように実に規則正しく、赤くなったり黒くなったりしているのである。父は両手を前にかざして炭火に当りながら、何事かじっと考え事をしていた。私は火鉢をはさんで父と向い合い、じっと炭火を見詰めていた。
すると突然父はこう言いだした。
「ほら、見ろよ、炭火が赤くなったり暗くなったりしているが、なぜだか分るか。」
当時小学生だった私は、現代のように理科の授業が進んでいなかったので、その理由は分らなかった。しかし、父は
「考えてみろ。」
と言ったきり、とうとうその訳を教えてはくれなかった。
父はよく本屋に立ち寄る癖があった。そのようなとき、小学生の頃の私はよく父のあとについて行ったものだった。
ある日、京城(いまのソウル)の大きな書店にはいり、本棚を熱心に見てまわっていた。少し離れた所で、青い目の外国人が、これも同じ並びの本棚から本を探索しているのが目についた。当時外国人は珍しかったのである。私は何気なくそちらの方を指差して、
「あそこに外国人が・・・」
と父の方を振り返って話しかけたとき、父は急に険しい顔になって、指差している私の手を打ち払い、
「他人をみだりに指差すものでない!」
と強くたしなめられたことを覚えている。
(つづく。)
『高橋昇 朝鮮半島の農法と農民』の「あとがき」より。
飯沼二郎・高橋甲四郎・宮嶋博史編集
1998年2月、未來社刊
(きのうのつづきです。)
さて、話は前に戻るが、私の手元にあった父のすべての遺稿を落合さん宛に発送した年、すなわち昭和41年(1966年)、折り返しこれらの遺稿のすべてにわたり、項目別に分類整理された詳細な資料目録が落合秀男さんから私のもとに送られてきたのである。
その後、落合さんとは再々手紙で連絡をとり、遺稿の進捗状況をお尋ねしていたが、落合さんもなかなかお忙しい御様子で、遺稿の発刊は遅々として進まなかった。
このようにしてさらに20年の歳月が流れたのである。
そのうちに落合さんは胸を患われ、大変苦しそうであった。そして1989年(平成元年)5月16日に落合さんが肺炎のために逝去されたという電話連絡を、そのつきの19日昼頃落合さんの姪御様といわれる方からいただいた。
私はひとまず、その年の5月26日午後2時から東京都中目黒区の実相会館で挙行された、落合秀男さんの告別式に参列した。そして夏休みの8月17日、私はいままで落合秀男さんに預けていたすべての父の遺稿を受けとるべく、落合さん宅を訪問した。勿論、20年前に私宛に落合秀男さんから送っていただいた落合さん直筆の詳細な遺稿目録を持参して行ったのは言うまでもない。落合さん宅には、落合秀男さんの晩年に、遺稿の清書や編集に協力されていた故山口文吉氏(1994年、平成6年、1月19日に逝去。享年81歳)や、南侃氏(もと鯉渕学園の副学園長)、それに落合秀男さんの奥様および姪御様などが待っておられた。これらの方々のご協力により、私が持参した遺稿目録に従って、夜遅くまでかかって原稿、写真、地図、書物など逐一点検し、一枚の原稿の漏れもなく、一葉の写真の散逸もなく目録と照合し終り、後日荷送していただくことを約して落合家を辞した。
数日後、ダンボール箱6個に詰められた父の遺稿、写真、地図などのすべてが送り返されて来た。中を開いて見ると、各項目別に記号、番号によって整然と分類されているだけでなく、落合秀男さんが知人に筆耕を依頼して、遺稿原稿を清書させていられた転写原稿まで一緒に送られてきたのである。
その翌年、つまり1990年(平成2年)5月15日、福岡県八女市の拙宅に、京都大学名誉教授の飯沼二郎先生と、未來社の田口英治さんが遺稿調査にいらっしゃった。そして翌16日より拙宅において本格的な調査が始まったのである。
ちょうど今から1年前のこの5月16日という同じ日に落合秀男さんがお亡くなりになったことを思うと、まことに不思議なことである。
『高橋昇 朝鮮半島の農法と農民』の「あとがき」より。
飯沼二郎・高橋甲四郎・宮嶋博史編集
1998年2月、未來社刊
(きのうのつづきです。)
私はここで、実態調査を含めた膨大な父の遺稿など13,000枚の一部を、敗戦の混乱の中で日本国内に運び入れられたもう一人の人物「木下栄さん」についても触れておかねばならない。
木下さんは、はじめ北朝鮮普天堡近くの北鮮支場(支場の呼称は当時のものに従った)に赴任されていたが、戦争末期には徴兵にとられ、済州島に配属されていた。終戦とともに除隊されて、いったん水原に戻られ、ここで父と再会し、父の遺稿の搬出を父から依頼されたのではないかと推察される。
この辺から後の状況は、日本の敗戦から40数年を経過した1989年(平成元年)に、木下栄さんから私宛に届いた、ただ1通のごく短い次の私信によって伺うことができる。(かっこ内は著者で補筆した。)
「・・・・お父上と(熊本県玉名駅で最後に)お別れしたのが昭和21年(1946年)だったと思います。部長(父は終戦当時総務部長だった)の研究資料を終戦の年(1945年)の9月18日水原で(あずかり)お別れ(して)持ち帰り、部長引揚後に拙宅にお出でになり、玉名駅までお送りして以来43年を越してしまいました。38歳だった(当時の)青年が、今では81歳の老人となりました。・・・(後略) 平成元年(1989年)9月22日
木下 栄」
つまり、1946年(昭和21年)に父は、朝鮮から郷里の福岡県八女市に引き揚げてきて、一応叔母の家に落ち着いたあとに、熊本県玉名市まで出掛けて行って、木下栄さんに預けたままになっている自分の研究資料を貰って八女市の叔母の家まで持って帰ったのだろう。
当時の日本国内は、敗戦の混乱の中で、交通機関も充分には回復しておらず、日本にぞくぞくと引き揚げてくる人人、はては闇買出しの人人のために客車は不足し、これらの人たちを、貨物車や無蓋車が鈴なりにして運んでいた時代である。父はこのような悪条件のもとで、重たい自分の研究物を必死になって、熊本県玉名市から引揚げ先の叔母の家まで運んできたにちがいない。
私は木下さんからお便りをいただいたあと、すぐに電話を入れ、父が預けていた研究資料はどのようなものであったかをお尋ねしたが、「中味はよく見ていない。預かっていたものをそっくりそのままお返しした。」
とのことであった。
その当時、私が熊本県まで行って木下さんにお会いしていろいろとお話をお聞きすればよかったのだが、自分の仕事に追われていたためにそれが出来ずに、それから瞬く間に7年という歳月が経過したのである。
そしてこの「あとがき」を書くに当って、再び木下栄さんの証言を得ようと、1996年(平成8年)12月に木下さん宅にお電話をしたところ、木下栄さんの一人娘といわれる方が電話口に出られ、次のような話をされた。
「父(木下栄さん)は6年前に亡くなりました。82歳でした。父は私たちより一足早く朝鮮から引き揚げましたがその時、いろいろな研究資料をぎっしり詰め込んだ大きなリュックサック1つを背中に背負って帰って来ました。これを見て、当時一緒に引き揚げて来た親戚や知人友人たちは口口に『引揚者は皆自分の食糧品や所帯道具などを持って帰ってくるのに、何のために他人の、しかも生活に役には立たないものばかりを、大事そうに苦労して背負って引き揚げてきたのか、その気持が分らぬ。』と言って、人人の間では今でも語り草として語り継がれていますよ。・・・
私と母は終戦の時、北朝鮮に住んでいたので漢口で足止めを喰い、父より1年遅れて引き揚げてきましたが、今では母も亡くなり、夫も昨年亡くなりましたので、父が朝鮮から持ってきた沢山の写真や研究物などは、一人娘の私が持っていても仕方がないので、夫のものと一緒に昨年暮頃、何日もかかって焼却してしまいました。そして両親や夫と一緒に住んでいた家屋敷も処分して、いまは私一人マンションで暮らしています。・・・
父が朝鮮から持って帰った写真は、北朝鮮の農場や農村風景、白頭山などの風景を大きく引き伸ばしたものが何枚も何枚もありました。この写真だけでも積み重ねると30糎(センチ)位の高さになる位ありました。・・・」
ということは、木下さんが朝鮮から背負って来られたリュックサックの中にあったものは、必ずしも私の父の研究物だけではなかったといえよう。そしてもし、父が朝鮮から引き揚げて来たあと、熊本県の玉名駅まで木下さんに預けていた研究資料を受け取りに行かなかったら、今頃はその父の研究物もすべて灰になっていただろう。
この木下栄さんと父とはどのような間柄であったかは知る由もない。私が木下さんと連絡がとれたのは、父がかつて朝鮮に居たとき、父が結婚の仲人をしたといわれる現在熊本在住の若杉親義さん(この本が出た当時88歳。姫野註)の紹介による。そして私は、木下栄さんとは1通のお便りと1回の電話を交わしただけで、ついにお会いすることが出来ないまま木下栄さんは他界されてしまったのである。(あすにつづきます。)
『高橋昇 朝鮮半島の農法と農民』の「あとがき」より。
飯沼二郎・高橋甲四郎・宮嶋博史編集
1998年2月、未來社刊
(きのうのつづきです。)
それから20年という歳月が経過する。その間に私は妻を持ち、自分の家を建て、親戚の家(主に叔母の家だが)に長らく預けていた父の荷物を1ヶ所に集めて整理を始めた。すると柳行李の中に雑然と、そしてぎっしりと詰まっている父の筆跡と思しき夥しい原稿や写真、朝鮮地図などを発見した。手に取って見ると、農具の図や、土地を耕作している人や牛の図が至る所に書き込んであった。当時の私にとっては何が何やら皆目分らなかった。多分父が朝鮮から引き揚げるときに、大事にして持って来たものであろうことだけは推察できた。
私は途方に暮れた。
父の死後、20年という歳月が経過している今、父の知人友人の多くはすでに故人となられ、そうではなくても、どなたが何処にどのようにして居られるのか、住所録が残っている訳でもなく、全然分らなかった。
ところがさらに父の荷物を丹念に整理しているうちに、1通の手紙が出て来た。それは終戦になる以前に、いち早く朝鮮を引き揚げて御郷里の東京に落ち着かれ、当時農林省に在勤されていた森秀男さん(朝鮮では副場長として私たちの官舎の近くに住んでおられ、お会いする度に「森さん」と呼んでいたが、後に落合家の養子となられ、「落合」に姓を改められたので、今後は「落合さん」の敬称で呼ばせていただくこととする。)から父に宛てた手紙であった。住所は東京都となっている。父が朝鮮に残留している間に落合さんから父に宛てた手紙のようである。
そうだ、落合さんに相談しよう。
こう決めた私は、今回柳行李から出てきた膨大な父の研究物とおもわれる遺稿の目次を、私なりに作成し、いままでの経緯を書いて落合さん宛に郵送した。
落合さんからは直ちに次のような御返事をいただいた。
「思いがけぬ貴翰うれしく拝見しました。・・・・
さて、この度発見されました御尊父の原稿大変貴重なものと存じます。実は私のところにも一部お預かりしております。各道の農業実態調査が大部分です。これは、はじめ片山隆三氏(もと朝鮮農会勤務、現在和歌山県御坊市在住)が預かっていられたものが、九州農試へ回ってきたもの、その後当時の佐藤場長が私にまとめるようにとのことで私の手許に来たものです。・・・貴殿からの資料目次拝見いたしましたが貴重なもののようです。私のお預かりしているものと一緒にすると、より完璧になるかと存じます。・・・
私のお預かりしている資料は下記の通りです。
1 実態調査の結果より見たる慶南の畜牛問題・・・18枚
2 済州島紀行・・・420枚
3 平南実態調査資料・・・107枚
4 実態調査備忘録・・・82枚
5 雑録・・・
6 咸南実態調査・・・275枚
7 江原道の農具・・・19枚
8 慶南の農具(予備調査)・・・105枚
9 城山農場・・・82枚
10 忠北、忠南、慶北、慶南の視察・・・115枚
11 新昌里の実態調査・・・12枚
12 平安北道実態調査・・・161枚
13 慶南統営部、慶北慶山郡・・・109枚
14 人参の調査・・・17枚
15 京畿道実態調査・・・15枚
16 北鮮紀行(小生執筆)・・・47枚
17 京畿道実態調査・・・44枚
18 畑作物栽培実態調査(平安南道)・・・131枚
19 慶北実態調査・・・111枚
昭和41年7月19日
森 秀男 」
私は、このお便りを拝見するや、私の手許にあったすべての父の研究資料、写真、朝鮮地図などを、ただちに落合さん宛に送ったのである。(落合さんが保管されていたのは、このようにほとんど実態調査ばかりで、原稿用紙にして総計1870枚もあったのである。つまり全実態調査4300枚の半数近くの資料が、朝鮮に在住していた父の手を離れたあと、まわりまわされて、東京の落合さん宅に10数年間も保管されていたことになる。)
その4に続く。
『高橋昇 朝鮮半島の農法と農民』の「あとがき」より。
飯沼二郎・高橋甲四郎・宮嶋博史編集
1998年2月、未來社刊
(きのうのつづきです。)
それは、長いうっとおしい梅雨の合間の雨上り、若葉が朝日に輝き、つかの間の青空が顔を出した7月10日早朝のことである。私は、昨夜おそく東京から帰ってきて、疲れて寝入っている父より一足早く起きて、近くの井戸端で顔を洗い、父が休んでいる離れ家に再び戻ってきた。私の気配に気付いたのか父は目をさまし、仰向けに寝たままの姿勢でつぶやくようにこう言ったのである。
「水を、水を持ってきてくれ」
私は急いで井戸端に引き返し、手押しポンプで水を汲み上げ、コップになみなみと水を注いで父の枕もとに持ってゆき、
「水、持ってきたよ」
と言ってコップを差し出した。父は上半身をこちらに向けるように寝返り、右手を大きく伸ばして私のコップを取ろうとした。
その時である。
父の手がコップに届く前に、突然父の体全体が硬直したようになり、まっすぐに伸ばした右の手が、大きな息と一緒に2,3回上下したかと思うと、一言も発することなく、燃えていた火に水が掛けられて消えていくようにして息を引き取ったのである。あっという間もない出来事であった。私は一瞬呆然となったが、すぐさま事の重大さに気付き、走っていって叔母やその家族に父の異変を告げた。それから間もなく町の医者がやってきて診断した。死亡診断書には「狭心症による死亡」と記されていた。
先妻に先立たれ、後妻を迎えてからは決してしあわせな日日の家庭生活を味わうことが出来ず、家庭的に不遇だった父は、このようにして55年間の生涯を終えたのである。
私は大きな鉄槌で脳天を叩き潰されたようなショックを受けた。杖とも柱とも頼みにしていた父の死、そして久し振りに再会出来て間もない父との死別は、当時21歳の私にとって「試練」と呼ぶにはあまりにも残酷であった。幼い頃、早くから生母とも死別し、兄弟も姉妹も居ない私は、全くの天涯孤独となったのである。父の後妻となった私の義母とは早くから音信不通であった。
この時から私の苦難の生活が始まったのである。
(つづく)
『高橋昇 朝鮮半島の農法と農民』
飯沼二郎・高橋甲四郎・宮嶋博史編集
1998年2月、未來社刊より引用。
あとがき
高橋甲四郎
この書物が出版されるに当り、私にとって今でも眼前に鮮烈に浮ぶ、どうしても忘れることが出来ない、ある1つの情景がある。
それは、この書物の著者である私の父昇の死である。
1946年(昭和21年)5月といえば、日本が無謀な戦争を仕掛けて惨敗してから、まだ1年にもならない時期である。その頃私は北九州にある学校(当時の明治工業専門学校、現在の九州工業大学)に在学し、卒業日までにはまだ日数があり、慣例に従って学寮に寄宿していた。その私の手許に郷里から1通の電報が届いた。
「チチカエル、スグコイ」
敗戦と同時に、父は朝鮮からすぐに引き揚げてくるものとばかり思っていた。ところが1ヶ月位経った頃、「残務整理のため、暫く朝鮮に残らねばならなくなった。」という父の便りが届いていたので、父との再会はあきらめて辛抱強く待っていた矢先の電報である。待ちに待った父が帰ってきた。私は取るものも取りあえず、その日のうちに郷里(いまの福岡県八女市)に向かったのである。朝鮮での在勤時代、長い間官舎住まいをしていた父は、日本に引き揚げてきても住むに家なく、やむなく父の妹(私からいえば叔母)の嫁ぎ先の離れ家を借りて寝起きしていた。私は、やつれ果てて郷里に引き揚げてきた父の無事を確認すると、その後授業が再開された学校に戻り、再び父のもとに帰ってきたのは早目の夏休みに入った7月上旬のことであった。
当時、日本の主要な都市は戦争による被害のために焦土と化し、人人は襤褸(ぼろ)をまとい、焼けただれた倒壊家屋の間をさまよい、満たされない空腹を抱えながら、職と食と住を求めて狂奔していた。叔母の家も例外ではなかった。主食は配給制であり、米麦の代りに甘藷や大豆が配給されることが多かった。毎回の食事の量も茶碗に盛り切り1杯と制限されており、どの家庭でも一日一日をどのようにして食べていくかが大問題であった。だから外地からの引揚者はどこの家庭でも敬遠されがちであった。食べ盛りの四人の子供(私からいえばいとこ)を抱えて、この食糧難の時代に日日苦労をしている叔母の家に、私たち親子が厄介になることがどれだけ迷惑になるかは百も承知していた。しかし、仕方がなかったのである。
このような状況のもとにおいても、父は引き揚げてきてからは、毎日のように東京方面や熊本方面に出掛けていたらしい。あとで叔母やいとこなどの話を聞くと父は、朝鮮で一緒に仕事をしていて一足先に日本に引き揚げてきていられる、かつての父の部下の人たちの就職の世話などに奔走していたと言う。私が父と過した数日間でさえ、父の姿を叔母の家で見かけることはほとんどなかった。したがって父とゆっくり会話する時間的余裕もなかったのである。
そして忘れようとしても決して忘れ去ることの出来ない運命の日がやってきた。(つづく。)
突然ですが。
今朝から気になっていた歌の歌詞を検索しましたら、わかりました。むかしむかし福島高校時代によくクラス対抗の合唱コンクールというのがあってまして、それの課題曲で、あまりにも何回も歌わされたものだから、印象につよく残ってはなれないんです。
これです!
http://www.geocities.jp/kobatoru1jp/Z35.htm
よく歌詞を読んで、わかったのは、これは兵隊さんのむすめたちとの掛け合いの歌でもあり、ぼさぼさの髪や鬚をあたってあげる理髪屋の兵士の歌でもありました。ロシアの軍歌だったそうで、それはいま、調べてわかりました。民謡のようにのどらかな歌です。
アストロリコの麻場利華さんの大叔父さんがたしか、理髪屋の兵隊さんだったのです。それで重巡洋艦・鈴谷に乗っておられたそうです。
またまた、失礼いたします。
さくらん宛てにメッセージをカキコしようとするのですが、
どうも、書き込めない状況に陥ります。
こういう場合に私が、PCに対しての対処がわからず、
また、下記に添付しますので、どうぞ、よろしくお願い申し上げます。
ほんまに、ワンパターンの使用しかできない、ポンコツの私めで
ございます。
よろしくお願い申し上げます。m(_ _)m
あ、それと、この間も、大浦みずきさんにラジオゲスト出演してもらい
ました!
さくらさん、メッセージをありがとうございます。確かに、現代っ子のうえに、国語能力が極めて低い、私めのような人間には市丸さんの原文は、古墳から発掘されたものを解読している気分ですが、でも、内容と気持ちは痛いほど伝わり、こんな国語力の者でも涙が出てきます。ドラマも見ました。映画も観ました。
それにしても、市丸さんのご遺族の方とご交流があるとは、素晴らしいご縁ですね。私自身、この一年で姫野さんを通じて永井先生からお返事を頂戴したり、さくらさんのような方を通じて市丸さんがより近く感じられる気持ちになったり、光栄に思います。そして、ご縁を繋いでくださっている皆様に感謝しております。ネットというものをずっと警戒していましたが、こんな素晴らしい出会いもできるということは、有り難いです。
以上、利華さんからのお便りです。書き込めなかったそうで、ごめんなさい。たぶん、こちらの受信機能の低下だとおもいます。夕方は落ちます。というか、重くなります。なぜかは知りません。ウイルス対策は一応きちんとしているので、ココログ全体の負荷の問題だと思います。書かれた内容は、先日の拙ブログ「天使のミロンガ」へのコメントをめぐるやり取りです。東京のさくらさんがご紹介くださったサイトは、 http://officematsunaga.livedoor.biz/archives/50324619.html
です。一度開いてごらんくださいませ。さくらさん、ありがとうございました。それと、利華さんのラジオ番組、聴ける人はぜひお聞き下さいませ。ほれそこの京都のおかた。(京都三条ラジオカフェが届く範囲ってどのくらいじゃろうか?)
11月17日付の記事「ある俳人の戦記」でご紹介した、山口県の俳人・村中秋天子氏の戦記を、もう一編だけ入力し、ご紹介いたしたいと思います。
生と死 戦後六十年に思ふ
村中 秋天子
「六十年無名戦士の墓に黴」
ソロモン群島ガダルカナル南溟の果ての名もなき島で太平洋戦争の帰趨を決する日米決戦が行われた。ガ島エスペランス、私は某所で最後の覚悟を決めた。マラリヤと栄養失調で最早や重湯も呑めない。足も立たなくなり動く事も出来ない。死 「あゝ自分はいま死ぬるのだ。名もない島で死ぬるのだ。あゝどうせ死ぬるのなら早く死ねばよい」 と叫んだ事を覚えてゐる。夜も眠られない。眠らなくてはと焦るけれどどうしても眠れない。
そんな時、生味噌が配られた。あゝその味、何も受け付けなかった口が味を覚えた。それからすこしづつ粥が食べられるようになり、足も立つ様になった。ガ島脱出作戦十日前頃と思ふ。
脱出作戦が十日早かったら歩けないから死、又脱出作戦が十日遅かったら米軍の挟み撃ちにより死、十日が私の生命を救ったのだ。その時歩けなかった人は置き去りになり、モルヒネの注射による死か、手榴弾の自決が待ってゐたのである。
戦争はいけない!
平和な日が如何に大切なことか。
平成17年度 湯野俳句会合同句集
「しろがね」26号より
ガ島撤退秘話:http://www.geocities.jp/honiara_kai/124ht_hiwa/124ht_hiwa_2.htm
日本海軍戦闘史録:http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/3853/clh/jyun07.htm
※ 戦争をかいくぐってこられた人々は、独特の仮名表記をなさいます。現代かなと旧仮名が自然に入り混じるのです。「樹(たちき)」の鮫島康子さん(80代半ばと思います)も、とてもセンスのある達者な現代文をかかれますが、ときおり、ぽろりと「でせう」とか「だらう」とかが混じっています。あたかも私のような田舎者が、都会語(笑)でしゃべっているつもりがぽろりと方言が出てしまうのに似て、哀切です。
山本健吉などの大批評家は、果してどういう表記をしていたのかと思うことがありました。晩年の佐藤佐太郎との共著は旧仮名表記でしたから。一つだけ、健吉が自筆で綴った石原八束の著書への批評文を持っています。十年ほど前に古書店から買ったものです。たしか五千円でした。笑
なにしろ、鉛筆書きの無愛想な文字でした。ほとんど感情の揺れなどないに等しいような。一文字のミスもない現代表記でしたねえ。
私は、連句をさいしょ、札幌の窪田薫師から学びましたが、先生は徹底的に正字表記にこだわられました。そして、それは文学的には非常に反骨的でありつつ本質的なことであったにもかかわらず、文章を打ち込み編集する人たちにとっては厄介な問題を突きつけていたようです。だいいち、ものずごく時間がかかるのです。旧仮名変換ソフトがあればいいのでしょうが、それがないし、旧漢字などは論外です。文字を探してへとへとになるからです。そのことだけにかかりっきりの人はいませんし、たいがい本職の余技として連句を楽しんでおられる人ばかりでしたから、窪田式はなかなかつらかったろうとお察しする次第です。でも、私は、いまとても、おけげで勉強させてもらってたなあとありがたいです。学校は教えてくれませんでしたもの。有名な俳人でも平気で間違っていたりするのが、旧仮名ですから。
高橋昇博士のご紹介文を打ち込んでいるとき、ちょうど内容に重なるような思い出を綴った随筆入りの俳句誌をぐうぜん頂きました。「こうりゃん」って何だ、どうやって食べたのだろうと戦時下の朝鮮の人たちの胃袋を想っていましたが、中国満州での食の記憶を綴っておられる戦中派男性がいます。なにを食べてもさほどおいしいと感じない飽食の世の中になってみると、こういう記憶は、おいしそうでおいしそうで、読むと食べてみたくなります。脂っこい欧米型の肉食はもううんざりで、素朴なのが食べたいですね。(なお、高橋昇先生の書かれた膨大な研究書には、満州のことも含まれるようですが、大著に収録されたのは朝鮮半島のものだけで、それはまだ本にはなっていないようです。)
「匂いと味」
福田 隆郎
父の肩車の上から匂う甘い香ばしい香り。
左右十基ずつ並んだ焼栗を焼く焼釜。熱い甘栗を父が爪で割り口を付け、親指と人差指でパカッと割ってくれた。抱えた袋が温かい充実感。口に入れると甘く柔らかい味、六十年経つ今も舌と口に残る幼い頃の匂いと味。
久留米生れで、生後二ヶ月で満州の奉天に渡り、戦後昭和二十一年六月二十一日に、関釜連絡船で博多に引き揚げたのが、小学一年生の時分でした。題の事は、四才から終戦の年までの頃の小生の思い出に残るものです。
二つ目は、屋台の味と匂いとでも言うもので、先ずは、ジューシィーな豚饅頭。天秤棒の両方の下に七輪、その上に蒸篭(せいろう)が二段、布の覆いをのけると湯気の立つ豚饅がほっかり顔を覗かせる。頭は渦巻状の捻り飾りが誇らしげに見える。かぶりつくと豚肉や野菜とにんにくの味付け最高の肉汁が、口から喉へと広がる。文章には表せない味と香りがいまだに残っている。長崎の中華街にもなかった。
屋台味パート2、「チェンピン」今では、「クレープ」? チェンピンの素材は、こうりゃん(掃木に使ってある黍の一種)の粉と小麦粉を混ぜ合わせたものを水で溶いたものを鉄板(屋台の上一面)の上で、T字型の木製の板でくるっと一回転させると香ばしい薄い皮が焼き上がる。その焼皮を半分に折り、更に円錐形の状態にして、その中に、もやしや野菜、豚肉とを炒めたものを包んで食べる。これもチェンピンの皮の中で、肉汁と皮の焼けたパリパリとした食感が得も言われぬ味を醸し出してくれる。もう一度食べたい香りと味の一品である。お好み焼屋で出したら受けることを保証する。
数量(数字)は、後に父母から聞いたものであるが、味や匂い等は、現在も自分の口や舌に残っているし、情景は目に残っているから不思議である。
満州の高粱畠と赤い夕日、馬と人の挿絵。
山口県湯野俳句会誌「しろがね」
平成17年度合同句集より引用
※ チェンピンとは・・・1http://www.shejapan.com/theWorldFood/index.files/Page882.htm
2
http://www.tochinavi.net/kikaku/gyouza2/utsu/hananoki/hananoki.html
十一日に岩国の連句大会に参加し、その日は亜の会連句会の仲間でもあり、八女句会の一員でもあった山本伽具耶さん宅に沢都さんと二人で泊めてもらいました。その夜はまるで修学旅行のように、枕をみっつ並べて、四方山話をしながらいつの間にか寝入っていました。数年前の湯田温泉合宿を思い出しました。あのときもこんな風にして寝たんだっけなと。連句の仲間というのは有難いものです。遠く離れていても、すぐに昔と繋がれるのですから。
さて、じつは不思議な縁がまたありました。伽具耶さんが二年前に入った湯野という土地の俳句誌『しろがね』を読ませてもらっていて、出合いました。こういうことはありふれているのかもしれませんが、私はふしぎと感じます。戦記です。引用しなければいけないと思いました。巻頭にこれがあったのです。湯野俳句会・村中秋天子氏の文章です。俳句作品も、とても立派で、これものちほど引用いたしたいとおもいます。
「もしあの時」 戦後六十一年に憶う
村中 秋天子
時これ昭和十八年二月一日、日米太平洋戦争の帰趨を決する飢餓の島ガダルカナルを転進(退却)した我が聯隊はラバウルを経て三月二十八日セブ島に向けて出港した。船団は六隻。
一日目は平穏だった。
第二日目午後三時頃複従陣の最後尾黒姫丸に敵魚雷二発が命中。船は轟音と共に水煙が昇り四、五分間艏(へさき)を高くあげて沈没した。其の翌朝脇屋隊長は洗面をした瞬間今日は左先頭を進む我が輸送船デンマーク丸に敵潜の攻撃があるとの予感がした。早速警備司令の中尉に本日午前中、中隊全員にて警戒監視をするよう命じた。
私は船長と共に双眼鏡を手にして船橋に在ったが果たせるかな午前九時五十分左前方一千米に我に向う航跡が一つ、二つ、三つ、四つ、最先頭の魚雷は我が第一、二番船艙(せんそう)付近に当たるように見える。私は船首と船尾の対潜砲に「砲の百五十米前方を射て」と思はず連続怒鳴った。
船長は取り舵を間違えて面舵を命じたので絶体絶命、四発共左舷の横腹に命中かに見えた。甲板上の将兵は無意識に反対側の右舷に走り寄り手摺りにつかまり、命中した際上空に吹き飛ばされないようにしている。沈没を覚悟していた我が船の直前に突如、奇跡が起こった。先頭の魚雷が船側三十、四十米前で大音響と共に爆発し水煙をあげ、第二の魚雷は誘発したものの如く五、六十米前で続いて爆発した。第三、第四の魚雷はこの二魚雷の爆発の反動で空中にはじき出されて方向を換えて百米も空中滑走して避けられたものであった。
対潜砲の何れが命中したかは問わず多数の生命と船舶を救った事実に対し船砲隊に全く感謝の外はない。もしあの時魚雷が命中して居たら私の今日はない。
パラオ入港後他船に在った海軍監督将校が「そんな陸軍対潜砲が命中するなんて馬鹿なことはない」 と言われた由。しかし事実は小説より奇なり、であった。
俳句誌『しろがね』第二十七号より
山口県湯野俳句会合同句集平成十八年九月発行
※ わが家の伯父はガダルカナルで昭和十八年一月十二日になくなっています。その日付の根拠を知りません。遺骨とか遺物とか何も帰ってこなかった。できれば、この俳人にお会いして、どうだったのかをお聞きしたい思いがあります。一度も伯父には会ったことはありませんが、お世話になったのです。それはどういう意味かといえば、十一年前に亡くなりました祖母(100まで生きた)が、生前、戦死した伯父の遺族年金から私によくお小遣いをくれたのです。それは命をいただいたことでもありました。当時はそういうことは深く考えませんでした。でも、あれは重い重いお金だったのですよね。
「やわらか戦車」の漫画家が書いてたように、兵隊さんの体ほどやわらかなものはない。「プライベート・ベンジャミン」を私もずいぶん前に見ましたが、戦慄するしかなかった。あんなにおそろしい殺し合いをしなきゃいけないなんて、あの世の地獄以上ではないだろうか。日本は61年前の戦争にきれいに負けたおかげで、最終戦争を戦ったのだといって憲法9条を掲げて、のほほんとしていられますが、アメリカの兵隊さんは、まだ、一度も軍旗をおろしていないし、その兵隊さんに守ってもらっている。この事実には目を瞑って、なにも現実を見ないで、慰霊の式典では毎年毎年、同じかたちのぺこり劇が上演され、空洞化が進む。十数年前、初めて参列した慰霊祭はとても感動的なものに思え、涙すら出たものでした。しかし、毎年参加しているうちに、追悼のことばが何一つ変化しないことに疑問を抱くようになりました。
それは、なにも考えていないことと同じではないでしょうか。一応、かたちだけはカッコがつきますが、俳句に便利な季語があるおかげであまりものを考えなくていいようなものです。ことなかれ主義が教育でも外交でも慰霊でも、かくもはびこっているのは、なぜなのでしょう。
(『ミャンマメクテーラ 東飛行場 激戦の思い出』より後半)。
更に近寄って来る。肩にかけたビルマ袋と腰には「ナタ」をそれぞれ差している。ビルマ人そのもののスタイルである。かた言のビルマ語と日本語でジェスチャーしながら二人の少年と話す。三日間何も食べていないので困っている。向う岸のあのパパイヤをとってたべさせてくれと頼むと二人の少年は走って行き、まるで猿のようにパパイヤの木に上手にのぼり実を落とす。手持ちの「ナタ」で皮をむき大きな葉っぱに一ぱい持って来て食べろと言う。まだ色づく前で青かったが、実にうまかった。「アジチーツテンマレ」有難うと少年二人に手を合わせ拝んだ。生きた人間を拝んだのはこれが初めてである。少年二人は兄弟だと言った。日本では小学三年生と六年生位だったろうか。二人は「今から家に帰り母に言って飯を持って来る」と立ち去った。夕方近く二人の兄弟とその母はやって来た。炊き立ての飯であろう、青いバナナの葉がぬくもりで黄色くやけている。おかずに塩焼き肉と魚を沢山つけている。大変なご馳走である。
親子三人に手を合わせ拝む。「アジチーツテンマレ」と。翌日も又翌日も同じことを繰り返し何と十一日間も運んでくれた。その間、夜になるのを待って毎晩、川のほとりまで這って行き、ゲートルの紐に水筒をくくりつけ川に沈めて水を汲み上げ、出血で真赤に染まったガーゼ等を洗いかわかしては傷口の治療は怠らなかった。十二日目の朝を迎えた。今日は多人数の声がする。身体を起こし待っていると、いつもの少年の声である。「ジャパン」と言って来る。母親の他に二人の娘がいて五人連れである。その内の一人が上手な日本語で話す。
この村の村長からの達しで明日この部落へ英軍が来る。以後はここへ来ることが出来ないから今夜中にここを去る様にと言う。彼女はラングーン日本軍兵站病院で看護婦をしていたと言う。その時、日本の兵隊さんに大変優しくしてもらい恩を受けた。これはそこでもらった日本軍の日用品袋だといって色々な物が入ったのをくれた。親子三人もビルマ袋に飯やバナナ等入れた袋を渡し無事に行く様にという。彼等五人に手を合わせ、涙を流しながら拝んだ。ただただ嬉しかった。「アジチーツテンマレ」有難うと・・・・。
日が暮れるのを待って十二日間のジャングル生活に別れを告げた。四つんばいで一晩中這い続け、ジャングルから今度は背丈以上もある草原のせまい道の中を行く内に疲労は重なり、もう一歩も先へ進めない。道から僅か五、六メートル横に入り込み、しばらく休んでいると、今来た道をビルマ人の話し声が近づいて来る。身を乗り出して呼び止めようと、のど元まで出かかった声を殺し、待つと、ビルマ人二人が先導し、英兵の将校と兵が四、五人、最後に又ビルマ人一人と多人数であった。----
あの時、声を出してビルマ人を呼び止めていたらと、後で身の毛がよだった。
そして、日が暮れるのを待って、再び這い出した。膝と手の平には血がにじむ。痛いのをこらえて休み休み何百メートルか行く先で、犬の遠吠えが聞こえる。その気配もだんだん近くなる。ふと見上げれば満月が煌煌と冴え、大きな「パゴタ」が見えてきた。やっと部落に着いてほっとしたのも束の間、寺院の庭先から英語らしい声で誰何された。同時に二、三発の銃声がし、その一発が足元をかすめ、砂煙があがったが、当たらなかった。びっくりして瞬間的に立ち上がり、何メートルか走り逃げた。追ってはこなかった。しばらくは痛みで動けず、静まるのを待ってジャングルへ入り、今来た道と平行してジャングル伝いに腹這いが続く。途中、川が流れており、見渡しても橋はない。何百メートルか行くと、一本の倒木があり、それを橋の替りとして、ようやく渡ることができた。一晩中こうして行く内に曲りくねった川もだんだんと広くなり、手前から向う岸へと牛車の車輪の後だけがはっきりと残っている。この疵で水に入ることは出来ない。痛みと疲労で疲れ果て、一本のカラ傘状の木の下で休んでいる内に寝込んでしまった。
何かの物音に目が覚めた。周りに五六人の兵隊が着剣をして「イモ刺し」の格好で立っている。「誰だ」と言う。そして「日本兵ではないか」と言った。又「何部隊の兵隊か」とも矢継ぎ早である。菊五十五の兵隊と言い、一部始終を話し終えると皆、びっくりしている。冴え渡った月も朝方を迎え、山の上にかかっている。-----
こうして、十三日目にして友軍に助けられ、野戦病院へと運ばれたのである。負傷して十三日目の日本軍の声は、ともかく懐かしかった。
どれ一つとっても奇跡の連続であった。次から次へと後方に移送され、「タイ国、チェンマイ」の陸軍野戦病院でついに終戦を迎えたのである。いろんな噂で不安の連続であったが、昭和二十一年六月十六日、生れ故郷の佐世保へ戻ることができたのである。
あらから五十年、たってみれば早い気もするが、振り返ると長い年月である。あの時の親子は今、どうしているのか。少年であった二人の兄弟も六十に近いいい壮年になっているだろう。
再びミャンマーの空に向って叫びたい。「アジチーツテンマレ」と。しかし、命の恩人である彼等の居る村名も二人の名前も解らないのだ。解っているのはただ、収容された野戦病院では関西なまりの言葉がゆきかっていたような印象が残っているくらいである。
記録によると、我が七中隊だけで昭和十八年十月三十一日より昭和二十年七月四日に至り戦死者百八十三名、戦病死者七十八名、併せて二百六十一名の英霊の大半が未だ故国に還れず、現地の草葉の陰で雨にうたれている。----
五十年、さぞ無念であろう。ただただ安らかにお眠り下さい、と合掌するのみである。
生きて帰った者に出来る事は、もう二度と戦争をおこさないことだ。その事を守り続けることが、帰れなかった戦友達への何よりの供養になるのではないかと、五十年にして、しみじみ感じる今日この頃である。
※ ミャンマーメッティーラ:
http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/heiki6/meiktila/meiktila.html
http://www.geocities.jp/stbsg129/essay020.html
先日「目通り61年」で取り上げた長崎の俳句誌「拓」15号(編集発行・前川弘明)の、
この夏もひたすら生きて海軍橋 高尾芙蓉(西海市)
が忘れがたく、ことに海軍橋という一語のもつ歴史的な重みに打たれて、何も知らなかったのもあり、検索をかけたところ、昨日コメントをいただいたさくらさんのブログに行き着きました。(http://www.geocities.jp/masa030308jp/index.html「父への手紙」)
さくらさんのブログを読んでいますと、縁の重なりが随所にありまして、なにか孫の手のようなもので、肩をとんと叩かれたような気がしました。ブログをご覧下さっている方には、姫野はなにやってるんだろう。「切字論」は引用途中で投げてるし、永井菊枝先生の歌集も一回しかご紹介していないし、歌仙巻いたのに留書も書いていないし、・・とお思いの方もおられることでしょう。(実は私がいちばん気にしているのですが。)それらはいずれやることにして、さくらさんとの出会いでにわかに浮上した、私の父方の伯父の戦記を引用しておこうと決めました。数年前に寿命を全うした伯父は、佐世保の相浦に住んでいました。軍人だったことは知っていましたが、戦記を読むのはじつは今日がはじめてです。読みつつ、打ち込んでいきます。とても優しい伯父でした。
ミャンマメクテーラ
東飛行場 激戦の思い出
下條 住雄
忘れもしない、時は五十年前の昭和二十年三月十六日、我が部隊(五十五・七中隊)は、目差すメクテーラ東飛行場攻撃作戦のため深夜をついて一晩中ジャングル内を南下行軍し、夜明け間近、飛行場へたどり着いた。広い滑走路には無蓋の格納庫が幾つも点在し、我が七中隊はその一角に陣取り豪掘りを急いだ。
地盤は固く穴を掘るには並大抵の事ではなかった。各自の豪掘りが終わる頃には東の空に太陽が昇り始めた。各中隊は中隊長の命令に従い、持場もちばを守り、成り行きを待った。
自分は衛生兵で中隊指揮班の中隊長の側に何時もいた。当時の中隊長は大迫大尉である。刻一刻と時は流れ、午前九時頃ではなかったろうか。英軍兵舎方向より背の高い丸腰の英兵三十有余名が一列横隊で滑走路を一歩一歩と進んで来る。
「まだ撃つな、撃つな」 と何処からともなく声が流れる。英軍とはもうその距離七、八十メートルと迫った。その瞬間、友軍の軽機が発射され、同時になりをひそめていた各中隊は一斉射撃に転じた。驚いた英兵は右往左往、一目散に兵舎方向へと逃げて行く。敵に何人ぐらいの死者が出たか記憶はない。それから三十分を過ぎる頃、空には戦闘機が飛来し、地上にはM4戦車が轟音をたてながら目前に迫り来る。一輌現れる毎に報告がなされ、十九輌までは覚えているが、後は記憶がはっきりしない。我が中隊指揮班はコの字型の内側にいたが、三輌の戦車が前に立ちふさがり完全にロの字型にされ逃げ場を失った。容赦なく撃ちまくる戦車砲と天蓋を開け身を乗り出して機関銃でも攻撃され、どうすることも出来ない。撃ち崩される高さ三メートル余りの土砂は土煙と共に我が身に落下し豪はだんだん浅くなる。その都度身をゆすぶりながら土砂からのがれる。もはやこれまでと悟ったのか中隊長が大きな声で叫んだ。
目標、彼方に見える大きな一本の木。
中隊長は、そこへ集結と云う。砲撃の合間を見て乗り越えなければ他に道はない。三々伍々、脱出を計る。中隊長の当番兵が我が頭上にちぎれて上半身が落ちて来た。多分、その時、同時に中隊長も戦死したものと思う。それ以来大迫中隊長の肉声を聞くことはなかったからだ。自分は久保曹長と行動を共にし、目標地点まで友軍の死体を乗り越えながら懸命に走った。五、六十メートル位走った時、戦車砲で射たれ、右大腿部から足先まで一瞬、棒でなぐられた様だった。身体が浮き上がる感がして、倒れ込んだ。
「曹長殿、下條はやられました」
と一声叫んだのを覚えている。倒れ込んで何分位たったのか解らないが、ふと気がつき体を動かしてみると、右足が全く動かない。それよりも爆風による土砂ほこりを吸い込み口も鼻もつまり息さえ出来ない状態である。戦車はまだいる。そのまま死んだふりをして動かず、戦車が遠のくのを待ち水筒の水で嗽し、三角巾を取り出し右大腿部の止血をして一寸這いで動き出した。時間をかけて漸く目的地までたどり着いた。止血はしているものの出血はひどく真赤に染まった右足の感覚はない。もう一歩も動けない。坐りこんでいるとそこへ八中隊で同年兵の小舟兵長が来た。彼は、南京教育隊の頃からの大の仲良しであった。いきなり「下條ではないか!」と言いながら近寄って来る。
「俺はもう歩けないから、お前一人安全地へ行ってくれ」
と言っても彼は聞かない。
「同年兵のお前を一人おいて俺は行けない。俺の肩につかまれ」
と言って手を差し延べる。痛む足をこらえながら彼の肩につかまり数分間歩いた。彼は「ここに居れ。動くな」と言って部落へ行き、数分後もどってきた。牛車一台に現地人とやって来て、「これに乗れ」と言う。身体をささえられながらやっと横たわる。デコボコ道を一晩中牛車は走り、朝方、友軍の野戦病院へたどり着いたが、いつの間にか小舟兵長はどこかへ行ってしまっていた。
野戦病院では担架に乗せられた。夜明け間近に途中で食べた赤くうれた「トマト」が実にうまかった。その味が今でも舌先に残っているような気がする。
担架の上で一晩を過ごし朝がきて、時間も大分たった頃、一人の衛生兵が顔色変えて走って来て叫んだ。
「みんなよく聞け!敵戦車が間もなくここへ来る。独歩患者は直ちに出発準備せよ。担送患者は連れて行けないので、各人に任せる」
なんたることか。
ガヤガヤする内に歩けるものはぞろぞろと隊列になりどこかへ消えてしまった。担送患者はどうすることも出来ない。不安がよぎる。しかしこうしていても仕方ないので、痛む足を引きずりながら担架から降りて五、六十メートル先のジャングル目指し、休み休み少しづつ這って行く。今まで居た野戦病院にはもう敵戦車が来た。砲撃と機関銃が耳をつんざく。夕暮れまで続いた砲撃も次第に止み、静かになった。足の痛みだけが身にしみる。朝から何も食べず空腹でも何ひとつ食べる物はない。身廻り品は衛生兵のカバンと水筒だけになっている。少量の水を呑みながら二日間我慢した。三日目の朝が来た。川の向う岸の土手に一本のパパイヤの木の実が見えるが、どうする事も出来ない。色々と考えていると土手の方に軍靴の足音が聞こえる。息を殺してじーっと見ると英軍将校と兵二人の三人連れである。----
みつからずにすんだ。敵兵は立ち去って行く。しばらくして今度は寝ているジャングル内を子供の話し声がする。足音もだんだん近づき、五、六十メートル先で足音は止まり話し声も止んだ。じーっと見つめていたのだろう。おびえた小さな声で一声「ジャパン」と言った。頭が丸坊主で軍服姿の自分が日本兵であることが解ったのだろうか。
おそるおそる近寄って来て、兵器の有無を確認し、何も持たない自分にほっとした様である。 (下に続く)。

家への私道脇に蚊帳釣草ばかりが生えていました。

筑後川を六五郎橋の上から。はるか向うは有明海です。千年川とか一夜川と歌によまれた筑後川は、雨が降ると表情ががらりと変ります。
今朝の投稿欄に、今月初めに引用した記事(http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/07/post_6962.html)についての反響が載っていました。
「抑留の悲劇に亡き父を重ね」
北村 かずゑ(61、熊本市、主婦)
十六日の「五十九年ぶり涙で握手」の記事のお二人の笑顔に、涙が止まりませんでした。先日の「こだま」(西日本新聞投書欄の名前です、姫野注)の投書に胸打たれ、おふたりの再会を心から祈っておりました。しかし、極寒のシベリア、それも冷酷を極める収容所。小隊長は無事に帰国されたのだろうかと、胸を痛めておりました。
私の父は五島列島の福江で終戦を迎えました。父の部隊に、仙台出身の星さんという下仕官がおられ、実に部下思いだったため、誰からも慕われていたそうです。復員準備で忙しいなか、その下仕官が、遠く離れた上官に敬礼をしなかったというので軍紀違反に問われ、留め置かれることになったそうです。既に軍隊は瓦解しているのに。
父が会いたいと言うので、河北新報(仙台市)に問い合わせたり、仙台に旅するたびに調べたりしましたが、探し出せないまま父は逝きました。今回の再会を喜びつつも、おふたりの悲劇が二度と繰り返されないことを祈ります。
※この投書を読んで、ハッと気づいて7・16付け同紙を探しましたら、34面に「極寒のカザフでソ連兵から守ってくれた小隊長に礼を言いたい・・」「新潟の男性、筑後の吉山さんと再会」「59年ぶり 涙で握手」の見出しで、肩を組み、手をつなぎあう二人の元日本兵の姿が大きく報じてありました。生きておられたのですねえ!よかったですねえ!あの記事を読んでから、家族とも話したのですが、きっとソ連兵に殺されたのじゃないだろうか・・と。ところが、ちゃんと生還されていて、写真のお二人をそのままご紹介できないのがもどかしいくらい、とてもお若いし、お元気なのです。驚きました。以下、簡単にご紹介します。
小保さんと吉山さんは、旧満州に駐屯した日本陸軍部隊の関東軍13044部隊に所属。終戦直後、旧ソ連カザフスタンのウスチカメノゴルスク収容所に連行された。冬は氷点下40度にもなり靴下は凍って足に張り付くほど。採石作業などの過酷な労働を強いられた。食事はミカンの缶詰に注がれたえん麦のかゆ。栄養不足で仲間は次々に減り、埋葬する際「いつか自分もこうなる」と覚悟を決めていた。
二年目の冬、60キロあった小保さんの体重は40キロに。衰弱した部下を見て、吉山さんは作業を中止させ、体を温めるよう指示した。気温は氷点下39度。監視役のソ連兵の銃を取り上げ、「部下を死なすわけにはいかん。無事に日本へ帰すのがおれの使命なんだ」。連行された吉山さんは准尉で階級が高かったこともあり、特別の罰は受けなかった。
抑留者の引き揚げが始まった翌年の1947年、小保さんら下級兵士が先に帰国、翌年帰国の吉山さんとはそれが最後になった。
小隊長としか呼べなかったので、名前を知らず、「准尉で九州なまり」の記憶しかなかったが、今年、国会議員の口添えで厚生労働省から当時の軍名簿を入手して名前を知る。その後に本紙(西日本新聞)に投稿した。
筑後市の料亭で再会した小保さん(80歳)は「私が今幸せに生きているのはあなたのおかげです」と59年間言いたかったことばを吉山さんに言って感謝した。二人が口をそろえたのは「収容所は生き地獄だった」。「乗り越えるには、みんなが一丸となるしかなかったですからね」と吉山さん(現在90歳)はいって、しっかりと手を握り合った。

靖国神社境内入り口のです。

同上。これが最も外にあります。西牟田靖さんの本に書かれていたものと思いますが。(でも、違うようだなあ。靖国通り側の狛犬って、これじゃないのでしょうか?まだいたのかな。右左一対のを二つ写してきたのですが、西牟田本のと比べると、どうも違うようです)。
それにしても、紅白の紐(電線かも)を掛けられていますね。これは広い参道の両脇にずらりと何段にも吊るす提灯(寄付金を上げた方々の名前入り)に関連するひもなんです。もし狛犬がたとえば乃木将軍とかの像であれば、滅相もなくってそんな失礼なことはできないのでしょうが、こまいぬだとなじんでいるのがおかしい。

湯島聖堂の「鬼龍子きりゅうし」という聖獣。聖堂の屋根、流れ棟の四隅角に鎮座していたものを、展示してあります。想像上の「霊獣」で、孔子のような聖人の徳に感じて現れるそうです。古代中国伝説の霊獣「すうぐ」によくにている、とあります。(右足に寛政十一未年八月、御鋳棟梁 松井大和(松平大和)、紀 清政 の銘あり)。
今日(七月十六日)、斯文会の湯島聖堂のサイトを読んでいましたら、大正十二年大震災で焼失した時、再建をになった建築家が「伊東忠太」であると知りました。だからだ!と嬉しくなった。じゃ、この鬼龍子も、魑魅魍魎が大好きだったという伊東忠太の設計だと思われます。実は私はこのきりゅうしを二枚、たてつづけに写していたのですが、それをみますと、まるで生きているようで、正直びびります。すんごくリアル。笑
※ 追記:リンクサイトhttp://www.geocities.jp/masa030308jp/mitama2005/intex3.htm

千駄ヶ谷駅附近の風景。ゆたかな緑の街路樹はナンキンハゼです・・じゃないですねどう見ても。笑
ナンキンハゼの並木は競技場側でした。長崎の町の街路樹がナンキンハゼでしたので、妙に印象的でした。晩秋には紅葉してるだろうな。実も赤くなるのかな。

9階の窓から見えた景色。神宮球場だと思いますが・・。

玄関まえの表示のレタリングが風景に溶け込んでいた。
七月七日から九日まで、東京へ行きました。いつも突然にしか行けなくて、今回も思い立って即行で上京しました。過去二回宿泊したことのある千駄ヶ谷の日本青年館に二泊しました。シーズンオフでしたので、とまれました。しかも十四畳を独り占めです。笑
参考までに、駅からは徒歩六分。宿泊料は素泊まり一泊四千五百円(六階和室)、二泊目の洋室(ツインで9階でした)はバストイレが共同じゃなく部屋にあったので、五千五百円です。静かですし、とても広いですし(一人なら当然ですが)、近くの森の樹木の古さには感動ものです。
ここにとまると、ドキュメンタリー映像の昭和十八年の雨の学徒出陣激励会というのを思い出します。



午前中、靖国神社に初めて参拝いたしました。一番下の写真は、拝殿での参拝受付を済ませて、待機している部屋の壁にあったもの。拡大せねば、読めないようです。我が家の大伯父がガダルカナルで昭和18年に戦死していまして、その伯父のおかげで私たちの今の命があることを思うと(亡き伯父のあとに18の父が養子に入ったので)、一度、参拝に行かねばとずっと思っておりました。これで幾分気が済みました。
拝殿は二重になっており、一般の拝殿の裏にもう一つ祈祷所としての拝殿がございました。そこでは、申込用紙に、戦没者の遺族であれば、亡くなった英霊の名を記し、祭主の名と地を記すのです。三々五々集まったところで、打ち揃って神主のあとについて拝殿にあがり、浅葱色の袴の宮司さんはゆったりした間をとって、祝詞奏上のあと、一人ずつの願い事を神様に報告されます。それを参拝者は畏まって拝聴するのでしたが、いろんな土地から、遺族のかたが慰霊のためにおいでで、それが自分と同年輩だったり、とても若い人だったり、あるいは戦争を実際に体験されたかただったりしました。まず、そのことにとても感動する自分がいて、それから、拝殿にぬかづいているとき、大伯父の名が読み上げられるのを聴いて、わけもなく涙が流れました。遺族が最前列でした。隣の男性は両手を床について、頭を垂れたまま、微動だにされませんでした。そういう、微妙で神妙な感情は、初めてで、鳥肌がたちました。深く感動したからです。靖国神社は特別なところだと感じました。
境内は広く、清らかで、鳩があそんでいたり、鶯がきれいな声でさえずったり、蝉がすでに啼きだしていました。
ふっと思い立って、ささっと行って、よかったと思いました。アストロリコの利華さんが東京で公演をなさっていると知り、お会いできればと思ったのですが、連絡があとさきになって叶いませんでした。でも、同時期に、利華さんと岐阜の斧田さんから靖国に行ってきたと伺ったことが後押ししたのは事実です。おかげで良い旅が出来ました。有難うございました。
投書欄の今朝の記事が忘じがたく、引用させて頂きます。
「忘れられない恩人の小隊長」
小保 茂(80)
私は終戦時旧ソ連に抑留され、極寒の地カザフスタン・ウスチカメノゴルスク収容所で氷点下四十度まで採石作業の強制労働をさせられました。
二年目の冬のこと、隊員二十人の衰弱がひどいのを見かね、小隊長が「私が責任をとるから、作業をせずに皆、肩を組んで輪になり、凍傷にならぬよう動いていろ」。岩の上にいた監視兵が小隊長に詰め寄りました。「氷点下四十度まであと一度あるではないか!」小隊長はソ連兵の銃を取り上げ「この部下二十人を無事日本に帰すことがおれの使命なのだ!」
小隊長は連行され、引き揚げの時には、お姿は見当たりませんでした。おかげで無事、日本の土を踏めたことを感謝するこの六十年間です。最近になって、関東軍一三〇〇四四部隊の渡邊中隊(第一中隊、松隊)の小隊長だった吉山英雄准尉と判明しました。九州のどこかのご出身です。再会して、ご恩返しすることを強く願っております。お心あたりの方はご連絡下さい。小保(旧姓仲山)=〇二五九(二九)××××(新潟県佐渡市・自営業)
西日本新聞朝刊七月一日「こだま」欄
(※伏字の数字は、新聞社にお尋ねくださいますよう。)
今朝、西日本新聞一面に、詩人宗左近の死を報じてあった。亡くなっていたことがわかった、というようなあいまいな書き方なので、命日がいつなのかはまだ判然としない。
先月、宗左近氏の文章をまるごと引用させていただいたのを思い出した。俳人の鍬塚聰子氏に「眞鍋天魚先生の花冷の句はいつの作品か」と尋ねられて答えるのに、なんとなく思いついた文章をそのまま写したのだった。
この文章を読めば、眞鍋呉夫(天魚)と宗左近は同郷(福岡)、同年だということが分かるし、宗には何か自虐のための圧倒的負の遺産があることも分かる。いっぽうで、
「意識下への無痛覚こそが、文明である。
人間の独特の痛覚こそが、思想である。
無意識世界の記憶こそが、創造である。
したがって、蘇える祈りの自殺体、それが詩でなくてはならない。」
引用文末尾のこの数行は、非常に哲学的で、多くの謎をはらんでいる。
その謎を解くことはできないものだろうか。
わかったふりは簡単なことだ。
去年、冬至に始めた当ブログの中心にすえた「君が代研究ノート」に、最も多く引用させていただいたのが、乙骨一族の交友誌「円交五号」です。昨年十月、沼津の明治史料館でコピーをとってもらったのは、そのほんの一部でしかなかったのですが、乙骨太郎乙の没年の確認を問い合わせたり、君が代を国歌に進言した太郎乙の真価に気づいてからはその人となりを知りたい旨ご協力を仰いだりしましたので、資料提供者で太郎乙の子孫である永井菊枝氏が手許の貴重な一冊をお譲りくださり、その全貌を知ることができました。内容があまりに公的で、歴史的、文化的、資料的価値を有するものであることに思い至り、全文を書き写してでも広くご紹介をしなければいけないという思いに駆られ、迷わず「本の丸写し式紹介」を小分けしながらこれまでの半年でほぼ終えました。非常識なことだったと思います。しかし、著作権法がどうの、プライバシーがどうのと、そういうことはあまり考えたくなかった。いろんな人たちに知って欲しいし、国の歌君が代について、これまでの狭いイデオロギー論争とは違った視点で、長い日本の歴史の中において真剣に考える核石としたかったのです。
去年、このブログを始めるまえに、自分が以前まとめた俳人の石橋秀野についての研究書と、暦論と題する日本の暦と八女に残る戦国時代の百首和歌のよみを一冊にまとめて出版しようと思っていたのですが、乙骨資料ととりくむうちに、そちらのほうが全然手付かずになってしまいました。何かを始めて熱中してしまったら、ほかのことが全く手につかなくなるのです。でも、いくらなんでも、無責任だと反省しました。天文年間の和歌の読みはブログで紹介すると言うわけにはいかないです。紙に書いたものでなければ、当時の武士たちにも、読みを手伝ってくださった今は亡き先生がたにも礼を失すると思います。
本日、『小伝 乙骨家の歴史ー江戸から明治へ』永井菊枝著、フィリア刊(星雲社)をご恵贈いただきました。手に取り、頁をひらき、内容のすばらしさに驚いております。写真資料や色んな珍しい歴史的資料がたくさん挿入されており、円交五号(君が代研究ノートにほぼ所収)を本ブログでご覧頂いた方々には、それを小見出しとして、あっと驚くような挿話が、奥行のある歴史的事実に照らされて、この中身の濃い一冊のなかに浮上してきます。日本史研究者にとってはこの上ない面白さの必読の一書です。どうぞみなさま、手にとってご一読されますようにお祈りいたします。何もわけのわからぬままに、かくも大きなご縁をいただけましたことに、深く感謝いたします。ありがとうございました。
(ちょっと考えましたことは、乙骨家は清和源氏の流れをくむ諏訪郡乙事の五味氏が先祖とあります。西暦二千年に解読した岩戸山古墳の伊勢社に伝わる西暦でいえば1555年頃の100首和歌を奉納した武士のリーダーの名前が美濃守源鑑述だったこと、なんとなく符牒みたいです。そういえば、先日からコメントいただいたタンゴバンド・アストロリコの麻場利華氏の文章に五味こうすけの名が入ってたのを今思い出しましたが、ひょっとして収斂されていくのでしょうか。同じ時代の同じ地へ。ーこんなこと考えたら、たのしいですね。だれもみな、もとをたどれば、ただ一本の血筋に連なるのです。いまさらながら、人類みなきょうだい・・を実感します。)
この本とご主人の本のご紹介を、またゆっくり致したいと思います。とりいそぎ、乙骨菊枝様、念願の御著書の刊行を心よりお祝い申し上げます。かつてなく、すばらしいご本です。
ざっと一読後、思いついたキャッチコピーを本書に捧げます。
「白洲正子を超えたー乙骨という強靭で無骨な一本の蚊帳つり草」
ふと思いつき、引用します。広重静澄氏は元船員です。
月刊俳句誌「樹」2006年3月号より
連載「さざ波の向うから」第67話
戦艦大和
広重 静澄
下車前途無効余寒の軍港に 戸塚時不知
映画「男たちの大和」を見ました。私は内容よりも、むしろ映画で見る実物大の戦艦大和を楽しみにして映画館へと向かったのでした。
商船と軍艦の違いはどこにあるかご存知でしょうか。簡単ですよね。貨物を積むか積まないか、ただそれだけです。商船は貨物を積むことを目的にしているから必ず船倉(ホールド)のスペースを中心に造られていますが、軍艦はまったく違います。戦うための装具を目一杯配置し乗組員も三千三百人。すごいですねえ。長さ二百六十三メートルの大和に三千三百人ですよ。一メートル当たり十人以上も乗っていたことになります。商船なら全員集合しても二十人です。
山本五十六長官は「大和」や「武蔵」が造られるずっと以前から「もう大艦巨砲の時代は終わった。これからは飛行機の時代なんだ。戦闘機と航空母艦を主体にした海軍に生まれ変わるべきである」と訴え続けていたそうです。
しかし当時の上層部は日露戦争でバルチック艦隊をほとんど全滅させるという神がかり的な大勝利に酔い痴れて、その過去を引き摺り、すでに時代は空に移っていたことに耳を貸そうとはしなかったのでした。
でもスクリーン一杯に広がる大和の上甲板(じょうこうはん)は美しかった。艫(とも)から艏(おもて)まで全面に敷き詰められた木が目にまぶしかった。今も自衛艦や航海訓練所の練習船には木甲板(もくこうはん)を設けてあります。木のぬくもりがあります。木の肌触りは優しくて、裸足で歩くあの心地良さは帆船日本丸のチーク材を思い出して靴下を脱ぎたくなった私でした。
大和ではその上甲板で海軍体操が行われていました。柔剣道の鍛錬も日課のように木甲板の上で行われていただろうと思います。私たちも練習船では木甲板に青畳やマットを広げて、相撲柔道空手を楽しんだものでした。ハワイでは茶道の心得がある者が地元の人々に野点(のだて)の宴を催し好評でした。木甲板に青畳が良く似合っていました。
船にはその船独得の船型があります。人がそれぞれ体形が違うのによく似ています。そして軍艦と商船ではとことん違う特徴的な部分があるのです。それは、ボディラインです。大和の全身を上空から見るとまるで錦鯉とそっくりの形をしています。波の抵抗を理想に近いところまで減らした形、それがあのように魚そっくりの流線型となりました。
大和のシルエットから、ついうっとりと女性の曲線美を重ね合わせてしまったのは私だけでしょうか。中央部分の豊かなふくらみと船首尾のキュッと締まった姿はまちがいなくグラマーであると太鼓判を押します。
一方商船は船首と船尾は細く尖っていますが、残りはすべて直線です。船倉により多く荷物を積み効率のいい揚げ荷役ができるように直線になっているのです。
大和は呉の海軍工廠で造られました。不沈艦と言われたのは大きいからではありません。厚み四十一センチもある舷側(げんそく)の外板。二十三センチの甲板。更に浸水を最小限に食い止めるための千百四十七もある防水区画。それに加えて最先端の注排水システムを備えていたのですから不沈艦と呼ばれて当然だと思います。
大和は昭和十六年十二月八日、日本が真珠湾を攻撃したその八日後に生まれ洋上デビューしました。実戦参加は翌年、昭和十七年六月のミッドウエー海戦です。
日本の機動部隊は空母四、戦艦二。対するアメリカは空母三隻のみの戦艦ゼロ。それなのに日本軍は機動部隊のはるか三百マイルも後方に大和を含む圧倒的に優勢な戦力を擁していた。してはいたものの、作戦の暗号を完全に解読されていてその動きは筒抜けだったのです。
六月五日午前四時、アメリカの空母から百五十一機の戦闘機が発進。前方の日本起動部隊を不意打ちし、空母四隻はすべて沈没。大和は世界に誇る四十六インチ砲が火を吐くこともなく、アメリカの空母に追いつくこともできず、一度も戦わないまま瀬戸内海の柱島基地に引き返すというデビュー戦になったのでした。
戦闘速力が最大二十七ノットというのは時速五十キロに相当します。赤レンガの東京駅が時速五十キロで走るのと同じ大きさです。燃料をじゃぶじゃぶ使うのは当たりまえ。船の速力を十ノットから倍の二十ノットにしたら、燃料消費は三乗で効いてきますから十ノットのときの八倍も消費するのです。だから大和も武蔵もほとんど動いていません。いいえ重油が満足に支給されない状況だったから動けなったのです。
昭和二十年4月六日、沖縄への水上特攻部隊として命令が下されたとき黒板に白チョークで「死ニ方ヨウイ」と書いた上官がいました。明日は死ぬと決められた攻撃前夜、上級士官は二手に分かれて殴りあいが始まりました。犬死には嫌だというグループとお国のために喜んで死ぬというグループです。そこに長嶋一茂が扮する白淵大尉が見回りの途中現れてこう言ったのです。
「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじすぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって真の進歩を忘れていた。破れて目覚める。それ以外にどうして日本は救われるか。今、目覚めずしていつ救われるか。俺たちはその先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか。」
つつましく生きよと遺訓終戦忌 佐保田乃布
参照:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060704-00000010-maip-soci
花冷のちがふ乳房 眞鍋呉夫論
宗 左近
『眞鍋呉夫句集』 宗左近編(芸林21世紀文庫)より
二十一歳の第一句集”花火”に並んで現れる二句を、順序をさかさまにして、書き写す。
ひとりぼつち雲から垂れたぶらんこに
かなしみつのりくればしろぐつはきもあへず
この「ぶらんこ」は、雲にしか繋がれていない。この捉えかた、それだけでわたしはもはや感動する。その通りだよ、タマシイは。わたしの中のものが、強く共鳴する。そして、空中に揺れている「ひとりぼつち」に強い眼差しを送る。すると、白い素足の光が鋭く目を搏つ。ああ、とわたしは声をあげる。
白い煌きは、白い煌きを拒絶するのか。純潔は、おのれ以外の純潔を排除するのか。その悲しみの極まりは、もう一つの悲しみの極まりを否定するのか。
なるほど、ここに不思議なことがある。眞鍋氏とわたしは、ともに大正十五年に小学校へあがった同学年である。まったくの同時代。そして、同じ福岡県の生れで育ち。十八歳からの三年あまりは、学校は別にしろ、会うことはなかったにしろ、同じ東京で青春をすごしている。
その中の二句、「雲から垂れた」と「しろぐつはきもあへず」に、その六十年以後のわたしは感じいった。何に?呉夫青年の青春の生々しい生体に。そして、そこに並ぶわたしの青春の、同じく生々しい死体に。
だが、なぜ、むこうの青春は生体で、こちらの青春は死体なのか。
十七歳からほぼ十年間のわたしは、かなり激烈なニヒリストであった。自己の、否定というよりは虐殺こそが生きる目的にほかならなかった。美と心中するのが、念願であった。詩に、熱中した。しかし、それは詩を扼殺するのが目的であった。純潔が、美の別名であった。それを、見つめて、おののいた。しかし、それは、純潔を破壊したい衝動を抑えたいために外ならなかった。
では、呉夫青年の純潔はおのれ以外の純潔を排除するのか。その悲しみの極まりは、もう一つの悲しみの極まりを否定するのか。その通りである。ただし、その排除と否定の時の相手の痛覚と悲しみをいつまでもおのれのものとする。つまり、永続してやまない加害意識に犯されて終ることがない。だが、それを直截には表現しない。ほとんど相手と合体し、相手そのものとなって、表現する。
『花火』の次の三句は、相手になりかわってのその独特な加害者感覚をよく表現している。
狂ひたる少女の胸よ光あふれ
聲出して哭(な)くまい魚も孤獨なる
わがひとの不幸のほくろやみでもみえる
つまり、被害者である相手を、そのまま無害者として蘇らせる愛が働き出る。そして、それが、加害者である眞鍋青年を、おのずから救済するのである。当人は気づかないかもしれないけれど、宗教者のものに似た愛の働きがあるのではなかろうか。
もともと、眞鍋青年は生と死の二つの同時共存に敏感である。その双方に強く魅かれる。その何よりもよい例が、句集の題名にもなった存在、花火。
花火上りまた上りわれむなしきに
咲くことが散ること。炎えることが消えること。昇ることが落ちること。生きることが死ぬこと。それらの生と死の二重同時存在=美。
その美の言語化による端的具象化、それが『花火』上梓のほぼ半世紀後の、一向に老いることのない眞鍋青年の鋭い念願となる。そして、句集『雪女』(やがて暦程賞および読売文学賞を受賞)が生れる。
『花火』との違いは、はるかに広く深まっている自然と人間への愛情である。
白地着てひと恋しさに耐へてをり
そして、人間の魂そのものを見る眼力が鋭く光りを増してきている。
生身霊(いきみたま)青蚊帳ぐるみ透きたまふ
白桃を映せしあとの曇りをり
そのうえ、この句集には、題名通り、人外の存在、人間と非人間の合体の超越存在、雪女が登場してくる。その三句をあげる。
M-物言ふ魂に
雪女見しより瘧(おこり)をさまらず
雪女溶けて光の蜜となり
うつぶせの寝顔をさなし雪女
「瘧をさまらず」とは、身体の震えがやまなくなったとは、つまり雪女に取りつかれてしまったということ。しかし、なぜなのだろうか。雪女が、生と死の、この世とあの世の、二重共時存在であるからである。つまりは、おのれが、その二重存在であると知って以来、もう一つの二重存在(=雪女)と合体しないことには、おのれの世界が自立できなくなるという脅えに、日夜悩まされるからではなかろうか。
異常?病気?惑乱?いいや、これこそが、人間の本来なのである。
しかし、それを語る前に、句集『雪女』以後に書かれた雪女をテーマとする句を、年代を問わすに列挙する。
雪をんな打身の痕(あと)のまだ青く
雪をんな魂(たま)ふれあへば匂ふなり
雪女抱けば吹雪の音がして
雪女くるらし鷺の蓑毛立ち
雪女あはれ鵠(くぐひ)の頸を秘め
雪を来て恋の躯(からだ)となりにけり *
密会の腕のしびれや夜の雪 *
水晶の中の光が憔悴す *
夜の雪やラムネの玉は壜(びん)の中 *
足跡のかすかに蒼し雪女
雪女いま魂触れ合うてゐるといふ
ヘルメットぬげばあの夜の雪女
非在=想念の雪女が次第に現前化されてきている。雪女からの愛が届いてくるからである。相手もまた切なくなってくるのである。ただし、嗅覚、聴覚、觸覚。それの働きが主である。視覚=文明光線のもとにさらされると、一挙に非在化してしまう。白い闇=雪のなかの生きものだからこそ、匂い立つ肌をもつ女性(にょしょう)。
*印をつけた四句は、素直に受けとめれば、雪女の句ではない。しかし、雪女を詠んだと取ったほうがはるかに面白い。憔悴した水晶の中の光=雪女なのである。そうであってこそ、妖しく白い関係が匂い出る。そして、半透明のラムネの青い壜の中の透明の、やはり青い玉こそが、文明のなかに閉じこめられている天然(?)の生きもの、それぞ眞正な大自然の歌、詩のみの生んだ純正なタマシイの生きもの、非在の想念=想念の非在の光、雪女なのである。
しかし、純潔でありたいために純潔そのものをも拒む〈花火〉であり続けた八十歳青年は、ついにある日、抱きしめていた非在を突き離して、日光をあびても溶けない少女として実在化する。その実に美しい作品をもう一度書きたい。
ヘルメットぬげばあの夜の雪女
そして、この句のそばに、たいへんわたしの好きな一句を並べる。
花冷のちがふ乳房に逢ひにゆく
ああ、一つの「ちがふ乳房」こそ、雪女なのである。そして、変らぬ眞鍋青年の俳句なのである。つまり、ここにあるもの、それが眞正の詩なのである。
わたしは、いま、あらずもがなの数行を書き加えて、小さな花束を編み終えることにする。
意識下への無痛覚こそが、文明である。
人間の独特の痛覚こそが、思想である。
無意識世界の記憶こそが、創造である。
したがって、蘇える祈りの自殺体、それが詩でなくてはならない。
※底本:句集『花火』昭和16年、こをろ発行所刊。
句集『雪女』平成十年、邑書林刊。
『眞鍋呉夫句集』2002年4月1日初版発行より引用。
西日本新聞の連載「九州の100冊」、今朝の一冊で久留米の母音派詩人・丸山豊の随想『月白の道』(1970、創言社刊)が採り上げられている。筆者は小郡支局・池田郷。
「私たちはおたがいに心の虫歯をもっていたほうがよい。・・でないと、忘却というあの便利な力をかりて、微温的なその日ぐらしのなかに、ともすれば安住してしまうのだ」
「戦争については、書けぬことと書かぬことがある。・・・それをどこまでも追い詰めるのが勇気であるか、化石になるまで忍耐するのが勇気であるか、私は簡単に答えることができない」
「やまのけものおまえもみじめ
兵士の肉をはらわたに納めます
そのけものを追いつめて
私のはらわたに納めます
その順序に名前などありません」
記者池田郷が丸山豊の本から引用した箇所はこれだけだ。だがわたしはこの記者の文章に打ちのめされてしまった。
丸山豊「月白の道」は私も読んでいたし、とても感動した。それは詩人丸山豊の代表作であり、かたちは随想ながら、詩魂そのものとして取り扱われなければならぬものなのだ。だから詩人丸山豊を採り上げるときは迷わずこの一冊を私も択ぶ。ということで、その選択でまず、信用する。だが更に「そうだったのか!」とハッと気づかされたことがあった。この際だから、まるごと引用する。
「魂の司令官」「戦場の闇での何ものにもまさる光」。丸山は、彼らを率いた少将・水上源蔵についてたびたび記した。だが、記者(池田郷。姫野註)はどうしても、丸山の尊敬の念ほどに、この人物に思い入れを抱くことができなかった。戦場でも理性を失うことなく、命を預かった兵の痛みと苦しみを思いやる水上少将は、撤退の途中で自ら命を絶った。だからこそ、丸山らが味わった後の生き地獄を知ることなく、最期を迎えられたとも思えるからだ。丸山自身も「どうも表現が難しい」と打ち明けているが、この人物の評価をめぐる戸惑いは、決してその筆力の問題ではあるまい。誤解を恐れずに言えば、水上少将とは、丸山の魂がつくり上げたヒューマニズムの偶像だった。過酷な戦場に生きる唯一の希望として、行き場のない精神の拠り所として、無意識にその存在を望んだのではなかろうか。
「形だけの、体制に組み込まれた民主主義」「拝金社会」。丸山は戦後の日本社会に失望を隠さなかった。戦場でも、ヒューマニズムへの希望を捨てなかった丸山にとって、それを見失いゆく世間に身を置くのは堪え難かったに違いない。身近に戦場の名残さえ見当たらない、こんな時代だからこそ。ーーー以上、引用。
水上源蔵。
この名前のもつ限りないイメージは、ずっと永らく私を支配して、詩人丸山を想うときにいつも付随して影のように立ち顕れるようになっていた。それはじぶんが丸山豊と最初に出会ったのが、弟を急性薬物中毒でなくすという苦しみのなかであったからだ。鎮魂歌を書かずにいられなかった。そもそもそれがそういうたぐいのうたとはしらず、かかずにおれなかった。そして、それをとりあげてくださったのが、丸山先生だった。ーそれがわたしの詩のはじめにある。
きのう、ニュースで「よど号事件」のことを言っていました。
日本で最初のハイジャック事件が起きたのは1970年昭和45年。赤軍派の犯人たちは羽田発福岡行きよど号を平壌へ飛ばす事を指示したが、機は金浦空港に着陸した。それは老練な機長の判断だったとする外交文書を韓国政府が昨日公開したというものです。
新聞では石田機長(八三歳)のコメントも載っておりますが、それによると機長は「事実と違う事ばかりで驚いている。わたしは犯人たちの要求どおり平壌へ行くはずだったが、国内線パイロットだったから位置がよくわからなかった。(中略)あれから三十六年たった今、事件に巻き込まれたのは運命で仕方ないと思うが、乗客全員を無事に帰せたことは機長として誇りに思っている。犯人たちに特に言いたいことはない。」と話されていました。
ちょうど先週このブログで「江崎悌三夫人シャルロッテ」をとりあげましたが、その引用文の中に、長男は日本航空のパイロットになり、よど号事件では副機長として乗り込んでいた、とありました。ふしぎですよね。乙骨太郎乙の直系の曾孫にあたる人がよど号事件の副機長だったなんて。その方にもコメントを聞いてみたいものですね。
前に一度書きましたが、わたしの最初の就職先が福岡空港の警備員でした。昭和五十年です。ということは日本初のハイジャック事件から五年しかたっていなかったのですね。(福岡空港ではその年から女性の警備員も入れるようになったそうです。)一年ほどしか続かなかった仕事ですが、その間に二度検査がありました。検査というのは雇用主の航空会社が抜き打ちでするんです。一般の搭乗客に交じって航空会社の役員がいろんな武器を隠して乗り込んでくるわけです。それをボディチェックなり手荷物検査なりで発見しなければならない。いつどんな人が乗り込んでくるか分からないわけですから、隊長以下、ものすごく緊張しました。私は結局なにもそういうトラブルに遭うことはありませんでしたが、リーダー格のベテランのKさんが男の背中に隠していたドスを発見しました。からだの真ん中に隠しておれば、探知機を潜り抜けても反応しなかった時代でした。(いまはどうでしょうか)彼女はボディチェックによってそれに気づいたのです。そうやって、みな一丸となって搭乗客の安全を守っていました。
参考ブログ:http://www.kyoto-np.co.jp/kp/rensai/asu/41.html
同上:http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/yodo.htm
同:http://www.nhk.or.jp/kdns/_hatena/01/0519.html
石田機長死去のニュース:http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20060814p401.htm
平成18年8月13日お盆の入りになくなられました。
「かささぎの旗」で偶然取り上げることができましたことも他生の縁、謹んで哀悼の意をささげます。
即菩薩即煩悩のこの日かな 岡部飛行兵
二十日の写真につけた参考ブログの中に、見つけた句です。引用許可をお願いします。昭和二十年四月六日に宮崎の新田原飛行場から飛び立ち、米軍の空母に飛び込もうとして翼がかすめただけで海に落下、遺体は米軍にひきあげられ、首に巻いていたタオルは返還された・・と文中にはありました。享年24歳、出撃の前に書き残された句だということです。
ブログ筆者のかたを存じ上げませんが、書かれていた校歌が私と同じ出身高校のものでした。長男も同じ高校を出ましたが、そのときに丁度学校創立95周年の特別アルバムを頂くことができました。その「黐の木」(もちのき)という名の記念アルバムで探すと、確かに昭和28年卒業生のなかに名前を見出す事ができました。(なお、27年卒業生に作家の五木寛之がいます。本名松延寛之。)
縁の繋がりということで驚いたのは、写真のなかに存じ上げているお坊様がおられたことです。それと、白将軍という朝鮮動乱のときの朝鮮人英雄について書かれている文章があり、全く朝鮮戦争について無知なわたしは目を開かれた思いがしました。知識としては、朝鮮戦争があったからそのために軍備をする必要に駆られ警察予備隊から自衛隊が誕生した・・と知ってはいました。でも具体的な情報を何も知らなかったのです。知らないでも生きてこれましたが、今の日本があるのはそういう人々のおかげということをやはり知っておく必要があったと痛感します。
http://mituo433.exblog.jp/m2005-02-01/
わたしがこんなブログをはじめたのも、なにかわからないものに駆られてのことです。わからないけど、「ん?なんじゃこれは」という想いがふつふつ湧くシンクロに沢山出会います。
このところ二十日締め切り課題句「即」をいっしょけんめい考えていたのです。でも即という言葉があまりにもそっけなく、漢文的で理が勝ることばなために、苦戦を強いられていました。それでもなんとかひねり出し、投稿したのち、この「八女市岡山飛行場跡」での検索で上記のサイトに出会い、読んでるうちに岡部という名の特攻兵の詠まれた句と出会いました。岡部飛行兵は八女龍が原にあった飛行場で練習機をとばす訓練をされていたのだと思います。その兵士とブログ筆者の奥様(当時国民学校四年生)とは慰問袋を通じて知り合われ、何度か手紙のやりとりをし、福島(これは八女市の中心地です)で一度あったことがある・・と書かれていました。
即菩薩即煩悩のこの日かな 岡部特攻兵
特攻兵の心情が直接伝わってくる句だとおもいます。死を前にした自分の気持ちを、冷静に鏡に映したものです。
梅崎春生の「桜島」という短編に出てくる特攻隊員の荒れた姿とはぜんぜん違う、崇高なものを感受します。即菩薩、即煩悩という詠みぶりにはまるで「色即是空、空即是色」にも通じるものがあります。その深い生への執着がわずか12文字に表現されていて、時がそのまま静止している。だから、姓しか知らない人なのに、きっちり記憶に濃い影として存在する。全存在を賭けて詠まれた句の重みだと感動します。そしてそれをブログにのこされた方もすごいとおもいます。ありがとうございました。
さいごに、岡部特攻兵のご冥福をお祈りいたします。合掌。
次は西日本新聞昭和53年6月29日付、追悼記事の引用(無記名記事)です。
「日独民間交流のかけ橋・故江崎シャルロッテさん」
ドイツ留学中の少壮の昆虫学者と大恋愛の末結ばれ、夫と手を携えて来日、四人の子を育てるかたわら日独の民間文化交流に尽くした江崎シャルロッテさん(太宰府町五条鉾の浦)が二十六日、五十年間暮らした第二の故郷、福岡で永眠した。葬儀は七月二日午後二時から福岡市中央区の積善社福岡斎場で行われる。福岡の多くの旧知の人々とお別れしたのち、最愛の夫・悌三氏が待つ東京・駒込の江崎家の染井墓地で、夫の墓に葬られる。戦前、福博の街にきらびやかな話題をまいたドイツ夫人の生涯は、こうして幕を閉じる。
シャルロッテさんは、元九大農学部長や教養学部長を務めた故江崎悌三氏夫人。二人の出会いは、大正の末、オーストリアの都・ウィーン。留学中だった江崎氏は、ウィーンで開かれたエスペラント学会に出席、大会書記だったシャルロッテさんと知り合った。そして二年後、今度はハンガリーのブダペストのエスペラント学会で運命の再会が二人を待っていた。江崎氏はその後一年間、三百六十五日シャルロッテさんに恋文を送り「東洋の果てに一人娘はやられん」という父親をくどいて、出身地の西独ウェストファーレン州ヘルフォルト市で挙式、昭和三年福岡市にやって来た。
戦火が激しくなるなか、書斎にとじこもりがちな夫とは対照的に、社交的で明るい性格のシャルロッテさんは、志賀島や姪浜の農家を訪ね、食糧を確保、育ち盛りの長女はるさん、次女るりさん、三女えりさん、長男の悌一さんを無事育てあげた。戦後は、福岡大学の前身、福岡外事専門学校や福岡女子大で独語、英語を教え、九大医学部を中心に発足した西日本日独協会の創設に参加、独語クラスを受け持った。
シャルロッテさんは母国語のほか英語、ラテン語、エスペラント語などが得意で、九大に海外から有名な学者が訪れるたびに、ホステスとして活躍、今でも江崎家のサイン帳には案内した世界の一流の学者の署名が多数残っている。昭和三十二年、夫悌三氏が五十八歳で亡くなったあとも、九大でのドイツ語教授のほか、北九州市まで出かけ、八幡製鉄や安川電機の研修所で独語を教えるという歳月が三十七年ごろまで続いた。九大法学部教授手島孝氏にとつぎ、近所の太宰府町三条台で母を見守ってきた次女、るりさんは「非常におおらかで順応性があり人に好かれるたちでした。それに楽天的な性格も手伝って、あの戦争中を乗り越え、ガンで最愛の夫を亡くした時も異国の地で耐えられたのでしょう」。長男の悌一氏(四十)が三十八年日航パイロットになると、シャルロッテさんは、二年に一度は西ドイツへ里帰りするようになった。日本でならった生け花をドイツ婦人に教えるため、剣山をポケットにいっぱい入れて西ドイツ各地を回った。悌一さんが日航パイロットになったのが「親孝行の最大のプレゼント」と姉たちは声をそろえるが、四十五年三月末、悌一さんが副操縦士として乗り込んだ「よど号」がハイジャックされ家族は真っ青になった。事件がなかったら、大阪でいとこ夫婦にシャルロッテさんを交えて誕生日のパーティーをする予定だった。計画は狂い、「よど号」は金浦、平壌、東京と引っ張り回された。この間肝っ玉かあさんの、シャルロッテさんは「少しも騒がず、その間大阪で開かれていた万国博見物をしていた」という。
刺し身や豆腐が大好きで、日本人になりきった反面、母国ドイツへの思いを込めて、息子へはいつも手づくりのドイツ菓子を送り続けた。脳血栓(せん)で倒れた時も、病室で愛きょうもふりまき、身振り手振りで話しかけ、婦長さんは「ドイツ切手をプレゼントにもらった」という。
※書き写しつつ、さまざまな思いが胸を去来しました。記事の出た53年に私はたった一人の弟を失ったのですが、当時勤めていた福岡の医院(心療内科)があったビルの地下二階には日独協会があって、名前を失念しましたが、ドイツ人の若い夫婦がドイツ語を教える教室を開いてあったのを記憶しています。医院は三階だったか四階だったか、でも薬局は地下二階でロッカーがその奥にあったのです。だから週に一度はその教室の横をよぎっていたわけで、とても印象深いです。・・こういうのを何というのでしょうね。縁の外周のへりがほんのちょっとだけ触れていたような・・そんなかんじです。
さらに思い出した記憶があります。江崎シャルロッテさんというお名前の響きには、むかしどこかで耳にしたような・・と感じていたのですが、ひょっとするとこの葬儀に先生が出られて、それで記憶が残っているのじゃないかと思い始めました。それとこのころだったと思うのですが、東京からドイツ文学者の高橋義孝先生が医院に見えたのです。先生にお茶をお出ししたのを鮮やかに覚えています。その人は毅然としてまさにこんなお姿でした。http://www.biwa.ne.jp/~tamu4433/
日独協会を調べていましたら、さらに記憶が不思議とつながりました。昭和53年当時ドイツ人の先生は、確かミッシェルという発音で呼ばれてありました。ビートルズの歌みたいなきれいな名前ですし、女性じゃなくて姿の美しい男性だった(長身で巻き毛だった)ので印象があざやかだったのです。で、その人は、ヴォルフガング・ミヒェルというお名前で、いまは九大大学院の先生をされているようです。驚きなのは、去年十月に沼津市明治史料館を訪ねましたとき、太郎乙関連の資料の他に、白隠和尚の資料ともう一冊、書架にあって妙に気になった「江戸時代の好奇心」という珍しい本から数ページ写真と絵のコピーをとってきたのです。(信州飯田のダ・ビンチ級コレクション。ていねいな植物の写生画や鉱物の写真のなかに石の張形もあった。解説なし。)このコレクションについて、ミヒェル先生が関係しておられることに気づき、非常に驚きました。時と人と物が円周率を作ってます。
http://www.flc.kyushu-u.ac.jp/~michel/media/texts/20040811Shinshunippo.jpg
去年六月末、戦時中、松江に疎開していた石橋秀野・山本健吉の未見資料を山陰中央新報社のご好意で送っていただきながら、八月中旬「乙骨太郎乙」との突発的な出会いが挟まり、そっちの追っかけにのめりこんでしまった。自分でもわけがわからないときにはものを考えないで自然な流れにのるに限る。そして、ここへきて漠然と見えてきたことは、大きな全体の中の小さなピースを自分でもよく分らぬままかき集めている、集めさせられているようだ・・ということである。依然として誰にかは分らないのだが。さいわいにも夫は単身赴任であり、それなりに自由がきく現在の家庭環境に感謝して、そのままに取り置いていたものを、今ここで蔵出ししようと決めた。そのためにこの記事はあったようだ。例によって、わたしはただ引用するだけです。引用元は「湖都松江」9号、2005年3月発行。
コラム 戦中・戦後の松江③(無記名記事)
山本健吉の空襲体験記
本格的空襲とはほとんど無縁だった松江地方だが、昭和二十年七月末から執拗にグラマン機の編隊が山陰の上空もうかがった。あとで分かったことだが、玉湯町湯町の宍道湖岸で海軍航空隊の飛行機基地の建設が進められていたためらしかった。
最も大きな被害が出たのは七月二十八日の玉湯町空襲だ。同町湯町ではロケット弾の直撃を受けて二十四人が死亡、三十余人が重軽傷。また玉造に疎開していた山本健吉が乗っていた列車も機銃掃射で十四人が死亡、十四人が重軽傷を負った。当時の新聞によると、この日やってきた米軍機は延べ二百六十機にも上った。玉湯町での空襲被害が、先の大戦での島根県内で最大のものとなった。玉湯町では当時、一般は知らなかったが、湯町の宍道湖岸(元旅館八勝園付近)に海軍航空隊基地が建設中で、これを狙った攻撃だった。湖岸のロケット弾直撃による死傷者は海軍軍人がほとんど。また列車を機銃掃射したのは一般への威嚇の意味もあったようだ。
二日後の七月三十日付島根新聞には石橋貞吉(山本の本名)の署名入りで『空襲体験記』が二面の四分の一を割いて載っている。空襲体験記などは、普通なら「国民の恐怖心をあおる恐れがある」として、新聞に載るようなことはなかったが、『立派に物をいったぞ日頃の訓練 心得たい待避の時期と場所』という「見出し」が、厳しい検閲の目をパスするキーワードになったらしい。
(以下、健吉の書いた記事から引用。現代文表記に改めてある。姫野注)
『○○駅発上り○○列車は約一時間遅れて発車。発車間際に空襲警報があったが、構わずすべり出した。○○にさしかかるあたりの山峡で停車する。「しばらく停車します」と車掌がふれ回る。(中略)「敵機が見える」と乗客の声。車掌がガラス窓を明け、よろい戸を降ろすよう注意する。一人の男が「敵機が引き返してくる」という。目標を発見したに違いない。この列車じゃないかとフト思った。誰いうともなく座席の下に隠れろという。思い思いに座席を外して下に潜り込んだ。相当な人数なので辛うじて低い姿勢を取っているに過ぎない。私は窓側の紳士と二人で座席を頭の上に支えた。爆音が近づく。息詰まる瞬間、ダダダッ・・・と機銃の音、頭のそばでパッと火花が散る。本能的に身をかわしたが、そのとき眼鏡が吹っ飛んだのと、掌に傷を受けたことを意識する。見ると一緒に座っていた紳士が顔を紅に染めて倒れている。車内にいては危ないと、皆争って乗車口や窓から飛び降りた。私も飛び降り、線路脇の萱山(かややま)の急斜面をよじ登って叢(くさむら)に身をひそめた。(中略)爆音が去り、しばらくして私は再び車内に入った。足元に血のついた眼鏡が飛んでいた。一尺と離れていないところで銃弾が炸裂しながら、つつがなかったわが身を思い、一場の悪夢を見たような気持ちがしばらく続いた・・・(後略)』
この後に空襲を受けたときの注意が細々続いている。(○○は原文のまま)。
山本は、疎開するまで東京で月刊の総合雑誌『改造』の敏腕記者だったが、まだ無名で島根新聞では本名の石橋で勤務していた。
※以上がコラム全文です。付け加えますと、健吉と秀野がこの時期参加していた地元の俳句文芸誌「雲」には、石橋貞吉ではなく筆名の山本健吉を名乗っているのが目につきます。この文は松江の一部の人々の目にしか触れないものと思われます。それを惜しみ、勝手ながらここに引用いたしました。記事を書かれた記者の方と、記事を送ってくださった山陰新報社(元島根新聞)の岡部康幸記者に深く感謝いたします。
空襲にあけくれた東京 (後編)
乙骨 清一郎
しばらくして、野谷先生が「無事だったか。よかった、よかった」と声を掛けてくださいました。先生も患者を探して歩かれたようでした。私も、もう大丈夫、助かったとの実感が湧いてきました。
窓から見える神田、日本橋方面の空は真っ赤です。病院のすぐ下の野々宮写真館の大きなビルは、赤い炎を出してそれからも、半日位燃え続けていました。
九段坂病院も全く機能しないので、翌日、目白の自宅に帰り、近所の外科医で治療を受けることになりましたが、無理がたたって手術後の回復ははかばかしくありません。
五月二十四日、目白の自宅も空襲で焼けてしまいました。仕方なく、吉祥寺にある、父(太郎乙の五男・乙骨五郎)の勤務先(成蹊高校)の寮に住むことになりました。
こちらはすぐ近くに、中島飛行機武蔵野製作所があり、昭和十九年十一月二十四日、二十七日、十二月三日、二十七日と爆撃され、焼夷弾ではなく、爆撃によるものでしたが、命中率が悪く、却って周辺地区に被害があり、近所にも焼夷弾による穴が数箇所あり、不気味な地域でした。
この頃になると、のべつ頭上に敵機がいる様なもので、米軍機のキーンという金属製の爆音が聞こえると、道を歩いてもすぐ、近くにある防空壕に逃げ込むような毎日でした。
こんなことで、盲腸の傷口は一向に治らず、六月に赤紙(軍隊の召集令状)が来て、千葉の佐倉に入隊した時も「三ヶ月で治してこい」と即日帰郷でした。
佐倉の隊で帰りの汽車の切符の証明書(汽車の切符を買うのは至難の時代でした。併し、軍隊の公用証明書があれば優先購入が出来ました)を買いに、隊の事務所に行ったところ、私の乙骨の名前を見て、この間までここに居た乙骨昭三(大石昭三。筆者には伯父です。姫野注)さんのお前は親戚かという事で、当時貴重なおにぎりの弁当を支給して貰って、大喜びで汽車に乗り帰ったのを覚えています。
その後、姉(小山由紀子)夫婦のいる滋賀県の大津に行きました。大津日赤病院で傷の治療をして貰うためです。そこは陸軍病院にも指定されていて、治療室には、足や手を切断した傷病兵が大勢、ガーゼの取り替えをしていました。太ももの切断面から湯気がたちのぼったりしていて、目を覆いたくなる大へんな病院でした。
七月になって小山の義兄が山口に転勤になり、私は東京の父の許に戻り、今度は母と中学生の弟(乙骨 剛)が山口の姉夫婦の家に疎開。一家離散です。
間もなく、八月十五日終戦を迎え、空襲はなくなりました。が、私の盲腸炎の傷の治療はそれからも一年位続きました。
私は山の手に住んで居ましたので、空襲により死んだ親戚、知人も少なく、爆弾や焼夷弾などは滅多に直撃するものではないと思っていました。その頃空襲による死傷者数は全く発表されなかったせいだったかもしれません。
戦後十年位たって、三月十日の東京大空襲だけで死者十万人と聞かされて、鳥肌の立つ思いでした。煙や火事による被害者が多かったのでした。
戦後五十年、日本は平和を謳歌しています。世界は民族問題、宗教問題、等々で各地に戦争が多発しています。これからの日本も平和を守り、自由を守るためには、積極的に努力をしなければならない時代になるように思えてなりません。
戦争悲劇の体験者の一人として、二世、三世、四世の方々が、戦争を知らないで一生を終わることを念じています。
(平成四年十月十八日)
※ 系図によれば筆者の乙骨清一郎氏はキリンビール取締役とあります。
「空襲にあけくれた東京」(昭和二〇年) 前編
乙骨 清一郎 (平成四年記す)
十一月十四日の夜、永井菊枝さんから久しぶりにお電話がありました。円交会一世有志の方々が、若かりし頃の思い出等を書いて文集にしたいとの事。明治、大正、昭和にわたる面白いものになりそうだが、終戦間近の空襲下の東京の様子がないので、私の体験でよいから何か書いて欲しいとのことでした。私は一世の中では最年少ですが、それでもこの十月で六十六歳になりました。身体のあちこちに故障は出るし、記憶力はガタ落ち。もっとも年寄りは昔のことは、はっきり覚えていると言われています。しかし私の場合、四十~五十年前の空襲時の事はおぼろげです。従って思い違いもあると思いますので、多少の間違い等はお許し頂きたいと思います。
それでもあまりでたらめでは申し訳ないので、当時の空襲の実態について、武蔵野市図書館で調べてみました。
昭和十六年十二月 八日 太平洋戦争の開戦。
〃 十七年四月十八日 空母ホーネット発の
中型爆撃機B25、十六機による初空襲(東京・
名古屋・神戸)を受ける。
(約二年間、空襲なし)
〃 十九年六月十六日 中国の成都発の大型爆
撃機B29(米空軍)四十七機が北九州を空襲(B29
は四発で超空の要塞と呼ばれ、一万メートルの超高
度を飛び、日本の高射砲では届かないと言われてい
た。併し、超高度からの軍需施設への爆撃は余り目
標に命中せず、空襲のやり方の再検討に入った模様
で、昭和十九年十一月頃から毎日のようにB29一、二
機による空襲(偵察飛行)が三月まで続いた)
〃二十年三月十日 東京をはじめとする大都会を目標
に、低高度からの焼夷弾による無差別爆撃が始まっ
た。もうこの頃、制空権は完全に米軍にあった。
即ち、三月十日未明の爆撃はB29三百機により二時間半に及び、東京は下町を中心に焼夷弾の無差別爆撃を受けました。
死者十万人、負傷者四万人、被災者百一万人、焼失家屋二十七万戸という大被害でした。この死者の数は、広島の原爆禍に次ぐものでした。
これを契機に、学童や、母子の地方への緊急疎開が相次ぎました。
乙骨半二一家は、長野県富士見町の貸別荘に移りました。私ども一家の年寄り(母方原の祖父母)は、その富士見町の隣村で乙骨家出身の地、本郷村字乙事の農家、五味徳蔵さんの家の一室を借りて疎開しました。
そこは八ヶ岳の麓、富士見高原と呼ばれる標高千メートル位の台地で冬の寒さは厳しく零下十度を超えることも珍しくありませんでした。その分、春夏秋はまことに気持のよい所で、高原野菜の産地でした。疎開した年寄り達は、農家の方々から食糧を分けて貰って、空襲の無い平和な生活を送ることが出来ました。因みに現在は、隣地の清里高原と共に、東京に最も近い高原リゾート地として注目を集めています。
さて、問題の空襲の方は、四月、五月には山の手地区に及び、東京は焼け野原になりました。三月十日から八月十五日の終戦の日までに、東京、横浜では三十五回の空襲を受けています。日本全国の都市が空襲を受けた延回数は四百回を超えるようです。
空襲によって非戦闘員の受けた被害は死者三十八万人、これに沖縄戦による県民九万四千人原爆後遺症で亡くなられた十万人(推定)を含めると、六十万人近い方々が銃後で死亡された事になります。また焼失家屋は二百四十万戸と言われています。数の多さに改めて万感の思いがします。
前置が長くなりましたが、私と空襲の関わりは、三月十日の大空襲から始まります。私は成城高校の学生で、学校は授業よりも勤労動員優先の時代でした。
三月の初旬、強度の腹痛があり、急性盲腸炎と診断され、すぐ手術を受けるようにとの事。ところが、その日は近年稀な大雪で、交通機関はすべてストップしていました。その上、その頃は、手術用の麻酔薬も不足して、一部の金持ちの間では、麻酔薬があるうちにと、健康な盲腸を手術することが、流行っていたそうです。
父も困った末に、乙骨八重子さんのご親戚で父も存じあげていた外科医の野谷先生にお願いして、牛込の野谷外科病院に入院することになりました。
所が大雪で交通麻痺。出入りの植木屋さんを拝みたおして、リヤカーの上に板を置き即席ベッドを造って貰いました。私はその上でウンウンうなっていましたが、それ以上に、植木屋さんと父は、滑る坂道に悪戦苦闘して病院まで運んでくれました。
すぐ手術して頂きましたが、腹膜炎を起こしていて手遅れなので、生命は保証出来ないとの事だったそうです。
それから数日後、三月十日の大空襲です。私ども入院患者は空襲警報と同時に、庭の防空壕に避難していましたが、焼夷弾で病院が火の海になってしまいました。ここは危なくなったので、九段坂病院に何とか逃げる様にと、野谷先生から指令が出ました。付き添いの小母さんの肩を借りて、寝間着にスリッパの格好で、牛込から靖国神社の側にある九段坂病院(ここも野谷先生が院長をされていた)に向かった訳です。
一面に火の手が上がり、電車道の両側の家屋は焼け落ちて、電線が垂れ下がり、火の粉が舞っていました。恐怖心よりも、何とか九段坂病院への一心で、広い道の火勢の弱そうな所を探しながら、夢中で歩きました。付き添いの小母さんも私を捨てないで、必死に助けてくれました。
どれくらい時間が掛かったか判りませんが、やっと九段坂病院にたどり着きました。
ところが、この病院も、三階が焼けてまだくすぶっていました。水も電気も出ない有様でした。それでもやっと二階のベッドに寝る事ができました。しかし、三階がまだくすぶっている建物の二階というものは、あまり気分の良いものではありません。(後半につづきます。)
※参考:http://blog.goo.ne.jp/skmn_2005/e/28c6e481ae10961febcee2d497e97432
昨日三分の二近く入力したところで突然とんでしまった文章です。拒まれた気がしてもう打つのは止そうかと思いましたが、気を取り直してもう一度やります。戦記は三編とも入力します。なお、筆者小室恒夫氏は乙骨太郎乙の三女・ひさの次男で外交官です。
「生死について」
小室 恒夫
第二次世界大戦さ中の昭和十八年頃、在独大使館に勤務していた私は、当時日独間のただ一つの直接交通手段であった潜水艦に乗って帰国することを志望しました。当時、この種の潜水艦の沈没率はすでに四十パーセントを超えていたので、「文官がそんな危険を冒さなくても」と、当時の大島大使(陸軍中将、駐独陸軍武官当時から三国同盟論者で、ヒットラーとも親交があった)は渋っておられましたが、強いてお願いして許可をいただき、搭乗する艦も内定しました。(仮に六番艦とします。)送別の席で大使は「跋浪蒼冥開」を、大使に次ぐ松島公使(昭和十四年、貿易省設置に反対して外務省通商局長の辞表を提出、貿易省を廃案に追込んだ立役者。終戦後、吉田茂兼摂外相当時の外務次官)は「奮翼高飛」という句を、またその他先輩、友人もそれぞれ署名して下さった日章旗はまだ手元にあります。敬愛する先輩、牛場信彦さん、家族ぐるみでお付き合いを願っている友人、中川忍一さん、惜しくも最近物故された菊地庄次郎さんなどの署名もあります。しかし何分四十余年前の署名者の半ばはすでにこの世の人ではありません。
その直後、懇意にしていた海軍主計中佐がGという陸軍大佐と一緒に私を訪ねて来られ、Gさんの七番艦の席と私の六番艦の席を交換してくれないかという懇請がありました。Gさんは年は私より一回り以上上で、肥満体でもあったので、二ヶ月前後の苦しい潜水旅行に際して、たまたま六番艦に搭乗予定の医師(陸軍軍医中佐)との同行を希望されたのでした。当時二十代で痩せっぽちだった私にとっては六番艦も七番艦も同じことと、一言で座席交換に同意いたしました。
やがて私は、当時、枢軸側の潜水艦基地だった南仏のボルドー(ガロンヌ川河口に近い大都会)に赴き、ドイツ海軍管理下シャポン・ファン(肥えたにわとりという意味)というホテルに入りました。暫くしてドイツ海軍の責任者から「六番艦が出航直後、ビスケー湾で米英空軍の爆撃を受けて沈没したので、七番艦の出航は装備改善のため暫く延期することになった」という極秘の連絡を受けました。その後私のフランス滞在は三ヶ月に及び、その大半はパリで待ちの日々を過ごしました。ボルドーのホテルに居ると、ホテル代、食事代、また土地柄豊富にある色々なお酒もすべて無料、個人的な用事をしてくれる従兵までつけてくれるという厚遇だったのですが、軍事機密上の理由で昼間の外出を認められませんでしたから、自由に羽を伸ばすことのできたパリに滞在し、時々連絡を受けてボルドーに戻るというふうでした。
ところが、滞在三ヶ月で七番艦は(ドイツ海軍の責任者は「ヒットラー総統の命令により」という言葉を使いました)出航無期延期になり、私は空しくベルリンに戻ったのです。ちょうど米英空軍の絨毯爆撃の直後で一種のパニック状態に陥ったベルリンでは、ゲッペルス宣伝相兼ベルリン市長が一般市民の疎開を呼びかけていました。以後、私の大使館勤務は激しい連日の空襲下で行われ、空襲被害のため住いも五回にわたって転々とする始末でした。ある時は隣家の地下室で死者が何人か出たこともありました。結局のところ、ドイツの敗戦直後の昭和二十年五月五日、ベルリンを発ってソ連の対日参戦以前のシベリア経由で帰国したのでした。
生死のことは、死にたいと願っても死にきれぬこともあり、紙一重の差で運命が変わることもあります。まことに天命というほかはありません。
「円交」五号は乙骨太郎乙の縁に連なる人たちがそれぞれの記憶を持ち寄った貴い一冊で、編集者は本を戴いた東京在住の歌人・永井菊枝氏です。明治大正昭和三代にわたる一つの血族の歴史が意図されず多方面から語られていて、(これは文面を入力しながら感じたのですが)、小説家が一人の頭脳の中で編み出す式の物語では太刀打ちできぬ「実在の人物による多彩な織糸の魅力」があります。一冊をまるごと写してはいけないので、全部で長短あわせて25編の文章のうち、何を取り何を置くか。順序もあってむづかしいのですが、私の勘で進めます。きょうは、永井菊枝氏のご主人でありお医者様の永井友二郎氏の戦記を引用します。「男たちの大和」を観たばかりで、海軍が気にかかるからです。
「ミッドウェー海戦と私の天然自然流」
永井 友二郎
私は昭和十六年十二月、太平洋戦争開戦による最初の繰り上げ卒業で千葉医大を卒業した。十七年一月十五日海軍軍医中尉に任官、横須賀海軍砲術学校、次いで築地の海軍軍医学校(今国立ガンセンターのあるところ)での教育を終え、五月二十日、東京駅から呉に向かう。同行五人の内、私と渡辺四良軍医中尉(北大出身)は第二連合艦隊司令部附、猪狩常彦、秋山清の両中尉は連合艦隊司令部附、そして松田源彦中尉は第一航空艦隊司令部附の辞令を受けていた。
翌朝、我々は呉駅着、海軍桟橋から艦隊差廻しの内火艇で小一時間。到着した瀬戸内海柱島沖には、戦艦大和、陸奥、長門、比叡、霧島を初め、赤城、加賀、蒼龍、飛龍の空母群、そして多数の重巡、軽巡、駆逐艦が、静かに錨を下ろしていた。ハワイと並んで中部太平洋に於けるアメリカ海軍最大の基地ミッドウェーを攻撃すべく、帝国海軍のすべてが出撃直前の姿でここに集合していたのである。
私と渡辺中尉とが配属された第二艦隊は、巡洋艦と駆逐艦から成る艦隊で、我々の乗艦予定の重巡鈴谷と三隅は、七戦隊と呼ばれる熊野、鈴谷、三隅、最上の四隻の内の二番艦と三番艦であり、鈴谷は内科を主とする防疫担任艦、三隅は外科を主とする手術担任艦であった。
私と渡辺中尉が第二艦隊司令長官や艦隊軍医長に着任の挨拶をすると、軍医長は二人のうち外科志望は、と聞かれた。私は将来の志望まで考えていなかったので、返事が出来ずにいると、渡辺中尉は元気よく、「私は外科志望であります」と答えた。これで、渡辺中尉の乗艦が三隅ときまり、自動的に私は鈴谷乗艦と決まった。そして翌二十二日、第七艦隊の四隻の重巡は駆逐艦数隻を従えて、豊後水道の両岸に別れを告げ一路南下、ミッドウェーへ向け出撃した。
六月五日のミッドウェー海戦は、御承知の如く日本海軍初めての大敗北で、虎の子の空母、赤城、加賀、蒼龍、飛龍を失った。山本連合艦隊は全軍退避を命令したが、七戦隊の四隻、熊野・鈴谷・三隅・最上には、夜間、ミッドウェー島の艦砲射撃を命じた。四隻の重巡は夜の太平洋を、最大船速三○ノットでミッドウェーへ向け進撃したが、連合艦隊は、突如この攻撃計画を中止、直ちに退避する事を命令して来た。あと一時間でミッドウェーという所まで接近した時の事である。
四隻の重巡は直ちに反転、全速力で退避を開始したが、その途中で三番艦三隅の後尾に、四番艦最上の艦首が衝突する事故が起こった。まだミッドウェー島に近く、米空軍の爆撃範囲内での事である。
夜が明けた。速力の落ちた三隅と最上は米空軍の激しい爆撃を受け、三隅はついに沈没、最上は大破した。三隅の生存者、負傷者は護衛駆逐艦に先ず収容され、米空軍爆撃圏を出た太平洋上で改めて鈴谷、熊野に移された。私は三隅の生存者たちに、渡辺中尉はどうしたと聞いてまわったが、ついにその消息は判らなかった。そして、その日から、二百名を越す負傷者たちへの、私が医者になって初めての治療が始まった。
負傷者たちの殆どが全身熱傷で、全身の皮膚が黒ん坊のように焼けただれ、頭髪は無く、眼だけが光って「水が欲しい、水を呉れ」と言いながら、私達三人の軍医、十名ばかりの衛生兵の治療を受けていた。そして、負傷者の中から、今日は三人、明日は四人と次々に死ぬ者が出る。その遺体は白い布に包まれ、後甲板から水葬され、白く泡立つ航跡の中を、大きく揺れながら、故国を遠く離れた太平洋のまっ只中に消えていった。
私は半年前まで平和な学生生活をしていたのが、今こうして厳しい日々を送っている事の運びの激しさに目を見張る思いであった。そして、私が死なずに渡辺中尉が死んだのは何故だったろうと考えた。それは誰にもわからない。誰にもどうしようもない事だった。しかし、私はなぜか「私は外科志望であります」と自己主張した渡辺中尉が戦死し、自然の成り行きにまかせた私が生かされた事に、人の力の及ばない天の摂理を思った。
私はこのあと、ガダルカナルへの輸送作戦、キスカ島の撤収、マキン・タラワ島海域への潜水艦による出撃など、次々に厳しい作戦に加わり、何度も死地に出会ううち、次第に、命ぜられるままに、自然の成り行きに身を任せることに救いを感じるようになっていった。出た目をよしとし、決して愚痴を言わず、素直にそれを受け入れるという考え方は、苛烈な戦争体験の中で自然に身についた、私の信仰のようなものだと思う。
参考:永井友二郎氏御著書紹介(2006・5・28コメントを下さった麻場利華さまのご紹介です。ありがとうございました。)
http://www.ningen-rekishi.co.jp/details/4-89007-149-0.htm
紹介者である麻場利華様についての参照記事:
昨夜「九州少年」という題のミュージシャン甲斐よしひろの自伝エッセイ(西日本新聞朝刊連載中)について、岐阜の小説家斧田千晴からコメントをもらった。そのことについて考える。
西牟田靖の新刊本『写真で読むー僕の見た「大日本帝国」』が東京先行発売ということで、横浜のあっさむさんに頼んで入手してもらう。せっかく著者から挨拶文を戴いてたので、なんとしても読まねばと思った。手にとって驚く。写真で読むとあったから、もっと軽い感じのいわば「旅行記」風の本をイメージしていた自分を恥じる。全く何を考えていたんだろう。文章が意外にたっぷりあって、真正面からのドキュメンタリーになっている。腰をすえて読まねばならない本だ。ただ五つの場所ごとに章を立ててまとめてあるためどの章から読んでもよく、パラパラと写真を見ていたところ最後の章「ミクロネシア」に思いがけず「さざれ石」の写真があった。(223頁)。再建されたペリリュー神社と説明があり、石はいつか「マリオットの盲点」の「お細石」で「nomark」の矢島玖美子さんが紹介して下さったサイトで見た記憶があった。岐阜県春日村産のものである。ここから、入ろうと思う。
http://assam226.tea-nifty.comマリオットの盲点、9・13付「御細石」、
『「さざれ石」は比喩ではなかった』(アドレス表示不能)
ペリリュー神社を検索していると、名越二荒之助(なごしふたらのすけ)氏のサイトが見つかった。引用しておきたい。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/nagoshi/palau.htm
ペリリュー島のサクラと神社(無断引用をお許しください。メール送信がずっとできない状態でして、本当に失礼いたします。)
※なお、斧田さんのコメントにある村田治男先生は三重県連句協会の元会長さんで、俳人連句人詩人短歌人です。平成九年、私が初めて伊丹の柿衞文庫での連句興行に参加したとき、それは連句誌れぎおん同人による百韻でしたが、二十人ほどの中に先生がいらして、初めての座を何かと助けていただいた御恩を忘れません。その時座の中で一番若かった私に捌きは文字通り「花をもたせて」下さり、挙句の前の一番大事な花句(百韻の場合、99句目にある)を詠まねばなりませんでした。帰りの時間はせまる、句は浮かばない。横にいらした先生にどうしましょうと相談した記憶が蘇りました。村田先生にはその名もズバリ「みくろねしあ」という題の句集があります。なぜか私は持っていました!
酋長の正しい日本語星月夜 村田治男
酋長は語り上戸よ月今宵
北緯十度あたりを僕の故郷とす
戦(いくさ)経しヤップ神社の鳥居かな
おんおんとミクロネシアの雷神(はたたがみ)
ここまで来て、はたと気づきました。村田治男句集のあとがきは、岸本マチ子先生が書かれていることにです。沖縄の詩人で俳人のマチ子先生は、私にとっては原点にあたる人なのです。書けば長くなりますので省略しますが、俳句や連句に関わる縁を下さったのは、当時戸畑の「天籟通信」におられた岸本マチ子先生でした。先生は東北生れの沖縄人です。やはり、わたしの仕事はこれで間違いはない、といま確認しました。
朝刊にミュージシャン甲斐よしひろの自伝エッセイ「九州少年」が始まった。挿絵は「トーマの心臓」「イグアナの娘」の萩尾望都である。ランニングシャツとジャージ姿の少年が左手にスニーカーをしっかと持って膝を抱えて前方を見つめている。同時代に青春を生きてきたから感慨深い。毎朝きちんと読んでいる。とてもまっすぐできもちいい文章を書く人だ。いつだったか坂本龍一が「banana fish」に寄せている文章を読んだときはガックリきたけど、坂本さんは曲を書く人だから違って当然といえば当然か。向き不向きってあるよね。
先日「ドメスティック」という題で文章を書いたら、読者のかたが励ましのメールを下さってました。そういえば俳句誌に書いている「張形としての俳句」も「妻と二人でハラハラしながら読んでいます」というお便りを読者のかたに頂いた。どちらもとても嬉しかった。(「妻と二人で」というところに九州男児らしい古風な照れが見えて当方もどぎまぎしました。)ありがとうございました。どんなことも、けっきょく自分の中にある「九州少女」を大事にして書いていくしかないと思いました。
追伸:先日「俳友とログ友と」のなかで引用した山本伽具耶(やまもとかぐや)の短句(たんく。七七句)にぴったり合致するようなことを、今朝の「九州少年」は書いておられます。
父上よ兄上よ雪が積みました 恭子
神楽笛吹く戦場に月 伽具耶
連句誌「れぎおん」所収歌仙より
南国の丸い月を見ながら、兵士はふるさとのまつりを想い携行してきた笛を取り出して吹いてみる。ありえないことには違いないけど、句の心情はつたわる。甲斐よしひろの文にはビルマに応召された父上が、当地の木の実でていねいに書いたものらしい楽譜を遺品として残していた・・とありました。どんな劣悪な状況にあっても人は楽しみたいと想うものなのだ・・それが表現するということなのだと。これをよんで、胸が熱くなりました。
『円交五号』 | 『無冠の男』 | こよみ | まなぶ | アニメ・コミック | サイエンス・フィクション | ファッション・アクセサリ | ペット | 九州俳句 | 亜の会 ぼんぼりまつり協賛連句興行 | 住まい・インテリア | 俳諧 | 健康 | 八女戦国百首「夏日侍」 | 八女戦国百首関連 | 写真 | 切字論 | 句集 | 君が代研究ノート | 地域学 | 大石政則日記 | 学問・資格 | 希望文書 | 心と体 | 戦記 | 文化・芸術 | 旅行・地域 | 日記・コラム・つぶやき | 映画・テレビ | 時間学、連句的 | 暦論 | 書籍・雑誌 | 民俗 | 玄奘と九条 | 短詩系 | 神崎さくら文書 | 神津呂伊利 | 竹橋乙四郎文書 | 経済・政治・国際 | 芸能・アイドル | 農学者高橋昇 | 連句・連歌 | 連句誌『れぎおん』 | 音楽 | 食べる
母の記憶
神崎さくら
ヒラクチ、クチナワ、この前死んだ母がようつかまえよった。
ナバ取りにも大分ん山ん中まで行きよった。
メノハは大好物やった。
例年今頃は母の大活躍の時期、づくぼ取りが大好きで、馬ん食うごつ取って来て冷凍し一年中食べられよった。
季節季節に足元に生えるような食べ物が大好きで丈夫で長生きやった。
地のものを食えと言うのは当たってる。
またここで軍隊話。
戦艦が3度も沈んでそのたび漂流して帰ってきたじいちゃん松永市郎さんが言いよんなさった。
子供の頃ばあちゃんに「地のものを食え」といわれていたことを、大海原で笹の葉のように小さな小船(救助船)に揺られながら思い出し、船べりにくっついた小さなカニを取って夢中で食べ、これで絶対助かると思ったって。