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2016年1月 1日 (金)

山本健吉資料室開設一周年記念文学講演:山本安見子氏、父を語る

2015年12月31日 (木)

石橋秀野と島根県庁焼き討ち事件

ひなぐもり、をしらべていた。

うすらひ(薄日、薄氷)のはるころのくもり日でうすひの枕詞だという。
つまり准・春の季語、になるのだろうか。ひなは雛、鄙だろう。

それをうろうろ調べていたら、おなじブログで特攻批判の筋の通った記事をよむ。http://blog.goo.ne.jp/rocky63/e/cb03913abfd3acf05c7dc6382eae3bf4

とても詳しく、目をみはらされる。
(わたしは昭和29年生まれだが、昭和の戦争の全貌をしらない。

今、世界の政治家の多くがおなじ1954年生まれなのに驚く。
中国のしゅうきんぺい、にほんのあべさん、どいつの総理。)


石橋秀野をしらべていたころ、もう二十年ほど前になりますが、まだネット社会ではなかった。

昭和二十年、終戦の年の松江疎開時代の句に、長い長い前書きのある三句がある。

師走某日、この日判決下りたる島根県庁焼討事件
の被告達の家族、徒歩にて刑務所に帰る被告を目
送のため裁判所横の陰にたゝずめるに行きあひて 三句

網笠に須臾の冬日の燃えにけり
冷さの手錠にとざす腕かな
凍雲や甲斐なき言をうしろ影

「島根県庁焼き討ち事件」がどういうものだったのか調べてもわからなかった私は、赤の思想犯がやったことではなかったか」と研究ノートに書いた。そして訂正しないまま出版した。

いまならぐぐればすぐにわかるし、年々情報量が分厚くなる。

だがそのころは、皆目わからなかった。
(わたしだけでなく、芦屋の秀野研究家で歴史の先生の西田元次氏もわからないと当初書かれていたほどだ)。

松江騒擾事件(まつえそうじょうじけん)は、1945年(昭和20年)8月24日未明、日本島根県松江市で青年グループ「皇国義勇軍」数十人が武装蜂起し、県内主要施設を襲撃した事件である。民間人1名死亡。

松江騒擾事件という名称は取締当局によるものであり、皇国義勇軍事件[2]島根県庁焼き打ち事件とも呼ばれる[1]

この事件は太平洋戦争敗戦直後に各地で発生した無条件降伏に反対する騒擾事件の一つである[3]。地方都市である松江市で発生した事件であるが、大日本帝国憲法下における全国的規模の騒乱を目的とした最後のクーデターであり[4]大審院で裁かれた最後の事件でもある[5]

1945年(昭和20年)8月15日、ポツダム宣言の受諾による日本の降伏が玉音放送によって国民に発表されると、その2日後の8月17日、東京では降伏に反対する尊攘同志会の会員らが愛宕山に篭城、全国に決起を呼びかけた。(愛宕山事件

松江騒擾事件は、この愛宕山事件に呼応する形で発生した[3]8月24日未明、尊攘同志会会員であった岡崎功(当時25歳)を中心とした20歳前後の男女数十人が「皇国義勇軍」を名乗って武装蜂起し、各隊員が分担して県内の主要施設を襲撃した。島根県庁は焼き討ちされ、新聞社・発電所もその機能を一部破壊された。事前の計画では、知事検事正暗殺も企図されていたが、足並みが揃わず失敗した。一味は各地を襲撃後、全国に決起呼びかけを行うため放送局に集結したが、放送局長はこれを固く拒否した。押し問答が続く間に警官・軍隊が放送局を包囲し、その結果全員が検挙され鎮定された。

島根県庁舎・県会議事堂のべ3000m²は全焼し、被害額は約192万円を計上(1946年(昭和21年)当時の県職員給与総額は103万円)、焼き討ちの際に住民1人が殺害され[1]、書類等も多数焼失した[6]。発電所襲撃の影響で、松江市内は3時間半にわたり停電となった[7]。新聞社も襲撃の影響で8月31日までタブロイド判での発行を余儀なくされた[8]

行政・治安当局をはじめ、敗戦直後の島根県民には異常な衝撃を与えたが[9]、報道管制などが功を奏し、この蜂起が全国に波及することはなかった[10]。皇国義勇軍の主要メンバーは服役したのち、教育者や印刷会社職員、産業廃棄物処理業などに就いていたことが判明しているが、その他のメンバーの行方についてはほとんど分かっていない。

事件を起こした皇国義勇軍のメンバーは、全て主犯の岡崎功(当時満25歳)の影響を受けていた。またサブリーダーの長谷川文明(当時24歳)と行動隊長格の波多野安彦は、大東塾影山正治を崇拝していたとされる[11]。この岡崎・長谷川・波多野の3人は、事件発生の約半年前から、島根県松江市内の大日本言論報国会島根支部を介して知り合い、敗色の濃い戦局のなかで「昭和維新・一斉決起」の謀議を行っていたが、そのまま1945年(昭和20年)8月15日の終戦を迎えた。終戦までの詳細は以下の通り。

つづきはここでhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B1%9F%E9%A8%92%E6%93%BE%E4%BA%8B%E4%BB%B6

2015年12月16日 (水)

山本安見子氏、八女での講演の記事

山本安見子氏、八女での講演の記事

母の炬燵の上に、開かれたまま、あった、広報やめ。
弁当作りの濡れた手で見入ってしまう。
やすみさん、行けなくて残念でした。

やすみさん、写真をみていますと、秀野さんの華やかさをうけついでおられるのがわかります。
最近、わたしは山本健吉の「日光山の意味」をよみました。
さすがに健吉の文章は抽んでていて、しずかな気魄に圧倒されます。
転載したいとおもっているのですが、すこし長いので時間かかります。
このやすみさんも、そんな文章をかかれます。
健吉と秀野さんのわすれがたみという特別なひとなんです。

ところで、。

こないだ美容院に行ってよんだ女性週刊誌に、生田悦子をみつけた。
ごぞんじですか、いくたえつこさん。
女優さんです。
むかしの芸能人の思い出をかかれています。連載記事。
そこにあったぶん、四冊ぜんぶ、そこだけ読んできました。
ええっと、週刊女性だったとおもう。
女性週刊誌を三種類もそろえてあって、そのなかでいちばんなじみのない週刊誌。
良い子悪い子普通の子、というような題名です。

やすみさんともしや同年代ではなかろうか。
とふとおもって、ここにかきました。

(かささぎはこの女優さんのおかあさんを記憶している。秀野さんと同じくらいきれいなひとでした。)

2015年12月 1日 (火)

こなから酒

るびが「おながら酒」となっていた。ぶっとんだ。

(あまりあわてたので、おながらとかいてしまったのだろうか?
いやそれはないとおもうけど。)

とにかく、ぼん、ごめんなさい。
前もってだしてくれていたのに、おくれてだしてしまったのがそもそもの。

こなから、です。
小半ら酒、二合半の酒、わずかばかりの酒。

○○○○○こなから酒をしたみけり  石橋秀野

こんな句があります。

したみけり、は、したたらせてしまった、の意味。

戦時中の、とても貴重なおさけ。

前五、失念。けんさくすると、わお。

自分のブログがでました。ササラ電車!

なつかしいなあ。ぽぽなさんおげんきかしら。

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-dc0d.html

またぶんいんがしたいなあ。

はこだてのすぎさくせんせいはおげんきか。
がばがばさむかろうねえ。うう想像しただけでさぶっ!!

2015年8月10日 (月)

杉山洋先生ブログから転載します

夜話 1699  さだまさしファンの皆さんへ


テーマ:

夜話 1699 さだまさしファンのみなさんへ 

さださんが 父と仰ぐ 故山本健吉先生(文芸評論家・文化勲章)の資料室開設一周年を記念して 八女市ではつぎのような催しが実施されます。

健吉先生とさださんとの秘話なども期待されます。

当日は健吉先生の奥さんだった女流俳人石橋秀野さんの遠忌日にもあたり 会場の隣室には ご夫婦の各種資料も展示されます。

講演されるのはご両人の御息女石橋安見さんです。

健吉・秀野のおふたりが゛ねむられる石橋家の墓参「夫婦句碑」のご案内も用意されていますので会場の八女市立図書館にお尋ねください。          

 

           講 演 会

とき    9月26日 (土)14時から15時30分まで

ところ  八女市立図書館2階

             八女市本町536番地3  TEL 0943-22-2504   

聴講費 無料

2015年4月21日 (火)

更衣

子等の衣みな新しく美しき皐月一日しらあやめ咲く  晶子

衣更鼻たれ餓鬼のよく育つ   秀野

 

 

2014年1月20日 (月)

明智光秀の実像を追って

明智光秀の実像を追って

「本能寺の変 431年目の真実」  明智憲三郎・著

明智光秀子孫の憲三郎氏が暮れに出された本。

ずっとこの人の本のことを気にかけながらも忘れていました。
数年前、連歌についての鶴崎裕雄先生の専門的でありながらも大勢に開かれた視点の、岩波「文芸」誌に書かれていた論文を転載したことがあり、そのなかの愛宕百韻のくだりにコメントをくださって、ご挨拶いただきました。
それでわたしも、記憶の中に石橋秀野の明智灯篭という随想がありましたので、それを転載することで、あいさつをお返しした次第。
地元にながく住んでいる百姓には、その地をおさめた殿さんのことが連綿と語り継がれていることを、このやりとりで直に知ることができました。

石橋秀野は、戦後の俳壇を完全掌握していた文芸評論家山本健吉の最初の妻で、在所は奈良、やまとくんなか。祖先の記憶をたどり、明智光秀の実像に触れている、優れたエッセイがあります。ここで読めます。

「明智燈籠」:http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-0a40.html

引用:

明智燈籠といふのは、惟任日向守光秀を供養する高燈籠のことである。老人の話では光秀は百姓を愛すること強くそのためどの位このあたりの在所は恩恵をかうむつたか分らない。近畿の要地でありながら天産に乏しく恐らく奈良の都をのぞいては平和のなかつた地である。飢饉と過酷な年貢になれて来た。歴史に暗い私はこの地が光秀の所領であつたのかどうかさへ調べてゐない。多分彼が領してゐた日のあつたものであらう。祖母等の言によると光秀は武運つたなく秀吉に亡されてしまつた。信長は仏敵故非業の最後は当然だが、光秀はんこそは前世の約束とでも云ふべきで、いたはしい限りである。その霊魂を慰め、嘗て施された恩義を忘れないため盆の間燈火を捧げるのだと云ふ。女大学しか読まない祖母は彼女の幼時聞かされた通り私達にそれを伝へる。太功記十段目を好んだ彼女は同時に光秀を愛することに変りなかつた。それは彼女の命の中にしみこんでゐることであつた。人情こまやかで内にこもる光秀と、当時としては珍しいスケールの情熱家の信長が相反目し殺し合ふことに少しの不思議もない。私は長じて好きな英雄は信長である。世々連綿とさゝやかな燈籠を捧げられる光秀もなつかしいが、敢てとむらはれない信長も潔い。」(文章・石橋秀野)



官兵衛が始まるというんで、ふっと思い出したら、本が出たばかりでした。
「アヴェ・マリアのヴァイオリン」を求めにいったとき、目に飛び込んできた。

同名の本が最初に出たのはプレジデント社から、2009年だそうです。
そこへさらに4年間の研究をあわせて加筆したのがこの文芸社文庫版。
2013年12月15日初版第一刷、12月30日第2刷。

大河ドラマと連動して読まれるに違いない。

歴史は、常に過去も未来もうごめいている。

2013年9月26日 (木)

秀野忌

秀野忌

新涼やこちら向くとき鳰の鳥    秀野

今朝(9月28日)の西日本新聞俳句月評で、大牟田の谷口慎也は秀野の鳰の鳥句への読みを書いていた。鳰の鳥は鳰の貌とすべきところ、鳥と繰り返している点についても。
それを読み、ハッとした。
杉山洋先生に秀野ノートをこてんぱんにこきおろされて、反省するよりも、怒っていた自分。自分に対して怒るのではなく、相手に対して怒っていたことを今とても恥ずかしく思う。

「もう一度書けばいいじゃないですか。」

慎也先生は、あのとき、葉書でさらりと叱咤してくださったっけなあ.。
この一文で、読み落としていた秀野句がかなりあったことを思い出す。

一方、連載をすすめてくださり、本にまとめる作業もやってくださった、大分の瀧春樹先生の石橋秀野に寄せる想いは、秀野ノートの表紙絵(蒼い背景に黄色の大きな月)に一番よくあらわれているように思う。

写真は満月のときの寺田天満宮と夕月。

秀野忌を忘じ果てたる暑さかな    鵲

2013年8月25日 (日)

ふたつの高千穂と阿蘇・祖母・九重の矛先が指す宇佐

ふたつの高千穂

お盆に大分まで往復したとき、国道210号線の分岐点を間違えて、熊本・大分県道11号線=旧やまなみハイウェイ=を通り山鹿へ抜けていました。
父をおもい出しとっても懐かしかった。
やまなみハイウェイは昔、筑紫野のかささぎロードと同じように有料道路でした。
小学生のころ、はじめて買った車で家族四人ここへ来たのを覚えています。

この弊立宮の位置図が、木箱のなかから家系図とともに出てきました。
夫の家は宇佐から出ていまして、古い記録では横光利一の父方の赤尾家とも関係があるようだ。
宇佐今仁文書の写が何枚もあったので、それを見ています。

古い家だったのだろう。藤原氏へつながる。
もっとも、たいがいの家が藤原氏へつながります。

自分でも妙なえにしを感じて、というのは調べていた石橋秀野の俳句の師の一人に、横光利一がいるからです。
戦火を逃れて東京をあとにする日、安見子をおぶった秀野と健吉一家は、利一を訪ね、おわかれの挨拶をする。そのとき、横光利一は奥に引っ込むと、なかなか出てこなかった。
やがて

花虻の蜜つけて飛ぶ霽れ間かな   利一

の句と漢詩をしたためた色紙を渡し、訣れたという。
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-becb.html

折に触れ思い出すたびやはりすごい句です。
空襲をかいくぐり疎開する愛弟子へおくる詩。

今仁文書で検索しますと、こういうのが出ました。
http://www.e-obs.com/heo/heodata/n615.htm
三光村がでてきます。かつての下毛郡。
おお。樹(たちき)主宰瀧春樹先生のいらっしゃる地。

写真と石橋秀野とは、何の関係もないのです。
ただ、わたしはエメさんのブログでもみたこの九州のへそ、弊立宮の記事と、阿蘇の矢部、(ヤハウエともいわれる)、蘇陽町、五色人祭、あるいは八代亜紀の風貌やエメさんの風貌、秀野のroman nose(ローマ人の鼻)といわれた風貌・・・そんなこんなを思っていると、みな、ずずずいっと、つながってくる気がするのでありました。

▼青翠エメさんのブログから弊立宮での写真と記事ご紹介

http://hatue62.seesaa.net/article/356251487.html

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2013年8月18日 (日)

チェリー

「石橋秀野ノート」を書いていたころ、タバコと結核について真剣に考えたことがある。

秀野自身が愛煙家だったためだが、何の予備知識もないまま原句集にむかっていた私は、はて、この句は誰について詠んだものだろうと何度となく考えたものだ。
春愁や錐さす胸の煙草吸ふ   秀野
かゞなへて春愁三歳四歳とも   〃
(東京時代昭和17年)の項から、自分の書いている文章を抜書する。
春愁二句。胸は錐がさすように痛むのに、煙草を吸っているのは、だれだろうか。
健吉は中学時代に喫煙を覚えて以来のヘビースモーカーだった。こどもの頃から長崎は鼠島の遊泳協会で古式泳法を学んだ健吉は、日本古来の泳ぎの妙手(昭和天皇と同じ小堀流)で、その猛練習のせいで肋膜(自伝ではどうも肺結核をそう呼んでいるようだ。徴兵検査も丙種合格となり従軍していない)を長崎中学時代に患い、以後ずっと肺機能が不完全だったにもかかわらず、昭和四十二年の胃切除間際まで愛煙していた。
俳句が不便なのはこんな時だ。主語がないので誰のことを詠んでいるのか判然としない。資料にも、ない。秀野が酒飲みだったことは書かれているが、喫煙していたかどうか。多分、英語の日記文体同様、自分を詠んでいるからこそ、主語を省いているのだろう。夫なら前書があろう。
ここで煙草を調べたい。今でこそ煙草は健康の敵であり、妊産婦にも毒であるのだが。
「煙草がこれほど一般的なのはおそらく他の国にはないであろう。成人で、たえず煙草入れを身につけていない人は稀なのである。多くの細君や娘も家の中でのみ喫煙する。」と、これは万延元年に通商条約締結のため来日したプロシヤの使節団の一人、ベルクの書いた近代日本の観察記録である。また、同じ施設団員ヴェルナーの証言も、「日本女性は、男たちと同様、大の喫煙家だ」と書く。徳川期より飲酒喫煙はたとえ武家の女性であっても、自由であった。
   ー渡辺京二『逝きし世の面影』葦書房よりー

意外にも、現在とはかなり様相が違う。
私の遠い記憶にも、町に住む親戚のばあさまが、いつも粋な髷を結って、火鉢の端に凭れながら、長い煙管に刻み煙草を詰めていた姿がある。明治の腹の座った女性だった。


きのう書いたチェリー(「風立ちぬ」の主人公が吸っていた煙草)について、調べてみた。
ウィキからの引用です。

初代(官製煙草)[編集]

1904年7月1日、煙草専売法が施行されタバコが専売制となった時に、いわゆる「官製煙草」のひとつとして煙草専売局が最初に発売した銘柄のひとつ。バージニア葉を使用した甘みと細身の巻きが特徴の両切りタバコで、パッケージにの線画があしらわれていた。通常パッケージの他、50本入りの缶も存在した。戦時中は敵性語にあたるとして「」に改名されている。

著名な愛飲者に池波正太郎横光利一山本五十六などがおり、池波は「チェリーのうまさは、ピースどころじゃない」と語ったという[1]

2代目[編集]

1970年日本専売公社(現・日本たばこ産業)から発売された。日本初のアメリカンブレンドのタバコで、パッケージはえんじ色の下地に初代から継承された桜の線画があしらわれた落ち着いたデザインになっていた。

著名な愛飲者に青木幹雄橋本龍太郎細野晴臣市川崑宮崎駿[2]柄谷行人[3]森敦[4]のなどがいる。架空の人物では『ドラえもん』ののび太のパパや『太陽にほえろ!』のジーパン刑事(松田優作)、吉田音 (イラストレーター)が描いたビッ子さんなど。ごく短い期間ではあるが、日本で一番売れていたタバコとなったこともあった。

東日本大震災による工場の被災により生産の中断に追い込まれたが、2011年5月12日には販売量が少ないことを理由に、そのまま販売を再開せず廃止することが発表された[5][6]

ちなみに、かささぎは独身時代から新婚時代にかけて、八年ちかくの愛煙歴。
チェリー、すっていました。

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