俳諧がもたらす「人和」2~支考俳論の魅力を探る~岩倉さやか
芭蕉が見つめた「虚」へ自他共に還りゆく感動
岩倉さやか:文章
2
支考を始祖とする俳系である美濃派(獅子門)は、芭蕉時代からの伝統を今に至るまで守り伝えている。彼らにあって、複数の作者が句を連ねてゆく「連句」という形式が重視されていることは、支考が俳諧を通して人の和を説いたことと無関係ではあるまい。では、そこでの「人和」とは、どのような意味を持つのであろうか。それを解く鍵が、支考俳論の看板ともいうべき、「虚実論」に隠されている。
◇
支考は俳諧の本質を、「虚実の自在より、言語に遊ぶもの」であるとする。ここに「虚」とは、物・事が形成される以前の、万物の根拠を意味し、「実」とは、この世界に現れたあらゆる事象を指し示す言葉である。
少し難しいようだが、これは「美しいもの」と「美」そのものの関係を思い起こせば理解しやすい。人はたとえば、萌(もえ)出る若葉や崇高な芸術作品に、さまざまな「美しいもの」を見る。が、「美」そのものは、それら「美しいもの」の存在を根底で支えつつ、われわれの目からは隠されているのだ。
そして、支考の論の眼目は、そうした無限なるもの・「虚」が、この世に「実」として現れてくる「媒(なかだち)」を、「心」と「言葉」に見いだしたところにある。支考はいう、「もとより虚実は心より出て、おこなふ所は言語ならんをや」。つまり、人は日々、一瞬一瞬、「虚」の働きを何らかの形で心に受けているのだが、その驚きは言葉となって外に現れる。そして、この世にぼんやりとしてあったもろもろの事象は、言葉によって区切られ、はっきりとした形をとって、「実」として現れてくるのだ。
◇
人は「虚」の働きをいっぱいに受けてその表れとしてのさまざまな「よい表現」を、そしていきていくことの証しを生み出そうとする。だが、「実」は限定を負った「実」である以上、決して完全なものではあり得ない。だからこそ、われわれは「虚」に向かって心披(ひら)き、日々新しい言葉を紡いでゆくのだ。こうして、支考は、表現するということの難しさと面白さとを、まことに的確に捉えてみせたのである。
そして、「虚」に対して心が披かれたとき、己れの心が和らいだとき、そこに自ずから「人と人との和」も生じる、と支考は考えていた。われわれが一輪の花・一人の人を言葉によって捉えようとするとき、それをはじめから固定された、自分の外にある存在だと見るならば、そこには真の交わり・和は存在しない。だが、眼前にあるものを、まさに今、「虚」の働きによって新たに生れてきたものとして、驚きを以て受けとめたとき、わたしと他者とは、「虚」へと共に還りゆくという形で、一つの「和」を形成することができるのではなかろうか。美濃派の人々が連句を尊重したのも、句に句を「付ける」という営みが、「虚」への共なる眼差しと信を持って初めて成り立つことを知っていたからなのだろう。
◇
支考の俳論はこれまで、衒学的な文章で、芭蕉の説を歪曲したとして、敬遠される傾向にあった。だが、支考の右のような俳諧観は、ほかでもない、芭蕉という偉大な師の姿を見つめていたからこそ生まれたものではなかったか。
ものの生命を、その一瞬の煌(きら)めきを捉えようとした芭蕉は、なおざりの和など入る隙間もない、孤独で険しい道を歩んだ。しかし、だからこそ、われわれは彼の見つめた「虚」に自らも立ち合い、そこに連なってゆく感動を覚えるのだ。これが、すぐれた「人和」でなくてなんだろう。
翻って今、個性尊重の時代である。だが、いたずらに自らを閉じ、他者との差異ばかりを強調する世界とは、案外に寒々しいものなのではあるまいか。支考の俳論は、個我を超えたより深い世界を、そしてそこに自他ともに与(あずか)りゆく可能性を、われわれに披いてくれているのである。
(西日本新聞2002年6・12(水)朝刊文化面より引用)
▼いわくら・さやか
1977生まれ。九州大学大学院人文学科学府博士課程1年。
国文学専攻。福岡市在住。(紹介文は新聞紙面掲載当時のもの。)
かささぎはこれを新聞で読んだときの感動をいまだに忘れずにいます。
絶望的な俳壇の状況のなか、こんなに若い人がものごとの本質を的確に据えた文章を書いておられることに胸の高鳴りを感じ、また文中の「媒(なかだち)」という特殊な用語に、十年前日本青年館で講演なさった光田和伸氏の『芭蕉俳諧の真価』のなかで聞いた、平安時代の連歌師二条良基の連歌式目のカテゴリーを連想せざるをえませんでした。それを詳しく引用した文章がかささぎの『暦論』にあるのですが、九州俳句のカテゴリーにひょっとしたら打ち込んでいたかもしれず、あとで暇なときに探してみます。それを覚えるとほぼ物・事の分類ができるようになる。いちばん古い式目の原型みたいです。



我々が小さい頃は、福岡にも「基地の街」がありました。
板付基地です。
昭和19年に旧陸軍が建設した席田(むしろだ)飛行場が、1945年に米軍に接収され板付基地となり、朝鮮戦争時には前線出撃基地となっていました。
昭和43年、ファントム偵察機が九州大学に墜落炎上しました。
昭和45年のよど号事件の頃も、空港名は板付空港でした。
返還されたのは昭和47年4月で一部占有地域(西側の格納庫周辺)を除き返還されました。
場内誘導路、滑走路は日米共同使用で、米軍佐世保基地への軍用物資輸送の中継基地になっていますが、日米地位協定により、米軍機は、日本政府管轄下の飛行場であればどこでも着陸1時間前に管制塔に通知すれば利用できますので福岡空港だけのことではありません。
なお、敷地の一角には航空自衛隊春日基地板付地区、海上保安庁第七管区海上保安本部福岡航空基地、福岡県警察航空隊、福岡市消防局航空隊があるので、「基地」の雰囲気はいまだ漂っています。
さて、なぜ板付基地については「返還」が実現できたのでしょうか?
経緯は、国家総動員法による強制収用を理由に、旧地主から返還要求があったため。
軍に小作権放棄を僅かな離作料で迫られて離農させられた耕作者組合も小作権存在確認の訴訟を起こしました。最高裁判所の判決要旨は、軍の離作補償が1年分の農作物価格であり、補償金としては低額で補償としては認め難いというものでした。
空港告示面積353haのうち、116ha(109haが民有地、7haが福岡市の所有)は空港が借り受け、借地料が歳出の3分の1を占めています。また、住宅防音対策工事・テレビ受信障害対策などの環境対策費も他の空港より格段に多いようです。
福岡空港が利用度の割に採算が悪いのはこれらのせいです。
普天間飛行場も、本土の飛行場と同様の理由で「返還」されるべきところ、本土との扱いが違うようです。
投稿: 福岡空港も愛用元官僚 | 2009年11月15日 (日) 13時23分
では、いつごろ福岡空港という名前になったのでしょう。よど号事件のときはまだ板付空港だったのですか。へえー。覚えていません。が、じぶんがあの空港に就職した昭和五十年には福岡空港でした。
福岡空港は一般住宅地の上を旋回しての離発着がありますので、あぶないものがあります。
ひさしぶりに席田と書いてむしろだ、という地名をみました。むしろだしょうがっこうってあった。長男はその隣のつきぐま小学校に三年生になるまで通いました。一年生にあがる前のプレお遊戯会は弥生小学校で、板付小学校の隣でした。あのあたりは日本最古の稲作跡の遺跡が残っているところで、だからこその弥生というなまえなのですが、水田地帯だったところを埋め立ててできた街ですから、土地が低く、雨がふればすぐに道路が冠水していました。
事故がありましたよね。ガルーダ航空機のだったか。
あのとき、ともだちの家まで破片がおちてきたといいます。
市街地の空港はおそろしいです。
地域学:
福岡市立弥生小学校名前の由来
http://www.fuku-c.ed.jp/schoolhp/elyayoi/
福岡市立月隈小学校名前の由来
http://www.fuku-c.ed.jp/schoolhp/eltukigm/tukigumanoyurai/tukigumanoyurai.html
寛治元年1091年。中秋の名月の夜。源経信。
琵琶をかき鳴らし。つき(槻)の木。
校庭にはちゃんとこの月隈のいわれを書いた説明板があります。
投稿: かささぎ | 2009年11月15日 (日) 22時44分
▼連句的:杉浦教授の古典研究室 (伊丹空港)http://geocities.yahoo.co.jp/gl/kiyoshi0302/comment/20091114/1258187663#comment