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2015年4月 5日 (日)

こんなところで、とうみょうじにたぐふとは!

むねなが親王の李花集が読みたい。

岩波文庫、1941年。

手に入らない。

ここで少し読めます。

http://sumus2013.exblog.jp/pg/blog.asp?dif=m&acv=2014-03-01&nid=sumus2013&p=4

写真の頁のなかから一つひろう、

50 梅が香の嵐にたぐふたびごとに人をも花やまたさそふらむ   宗良親王

これをよんで、西行(1118-1190)をおもわずにはおれない。

春風の花を散らすと見る夢は覚めても胸のさはぐなりけり  西行

いや、正確に言うと、西行をおもう芭蕉をおもうところの、山本健吉を思わずにはおれない。

八女に無量寿院があること、そこに石橋貞吉(山本健吉)が眠っていること。
健吉秀野夫妻の資料館に「夢中落花文庫」とついているのはそれによる。

そして、石橋貞吉の父祖の地だった奥八女には、むねなが親王(尊澄法親王、1311-1385?) - 天台座主征夷大将軍 の異母弟、かねなが親王(鎮西宮・筑紫宮、1329-1383) - 征西将軍が眠っておられ、親王が兄へおくられた歌二首が李花集には収録されている(という)。

懐良親王を手厚く祀っておられる星野村の大圓寺境内にその碑がある。

日にそへて   遁れむとのみ思ふ身に     いとどうき世のことしげきかな  懐良親王

 

日にそへて・・  段々と日が経つにつれ、この世から逃れたいとばかり思う身に、なぜこうもわずらわしいうき世のことどもがふりかかってくるのでしょうか。

(境内のみごとな筆さばきのいしぶみには、うき世は「浮き世」と、また、「いとど」は「いとゞ」となっています。)

かささぎはここからコピペさせてもらいました。http://kurumenmon.com/tatiarai/takemitu_tatiarai/kikutitakemitu.html

そして、読み進むうちに、思わず「あっ!」と声をあげてしまった。
以下全文引用を許されよ。

また、親王は仏教に対する信仰が篤く、父母に対する孝心を示すものとして残る史料として以下のものが残されている

  • 正平3年(1348)4月、法華経普門品を書写して筑後高良玉垂宮に納めた   
  • 正平24年(1369)8月16日、(父、後醍醐天皇の忌日)法華経を書写して石清水八幡宮に奉納した   
  • 正平24年(1369)5月3日、法華経を書写して阿蘇社に納めた   
  • 正平24年(1369)6月18、豊前大楽寺の般若心経に奥書を加え、これを重宝として門外不出を命じた   
  • <<文中元年(1372)8月、太宰府陥落後、高良山に本営を移したが、2年後の文中3年(1374)8月、菊池武朝、武安らは筑後川を渡って福童原で北朝方と交戦。敗退して、9月17日再び高良山に退く。
    9月には、菊池一族とともに菊池に退却。菊池武光は文中2年に没したと考えられている>>
       
  • 天授4年(1378)3月29日、懐良の母とみなされている「霊照院禅尼」の遠忌に梵網経を書写し、肥前東妙寺に奉納したとみられる  
  • 文中3年10月以降、懐良親王は、下向してきた良成親王に征西将軍の職を譲った。

2013年1月10日 (木)

河野裕子さんの選した歌たちをいくつか。

こまごまと野菜の播種日(はしゅび)メモ出でて鉛筆文字に妻の顕ち来る

   大久保光吉(毎日歌壇)

妻子率(ゐ)て公孫樹のもみぢ仰ぐかな過去世・来世にこの家族なく

   高野公彦(「雨月」)

2013年1月 3日 (木)

ものぐらき函(はこ)のこの町、一彦の歌を裕子はかく読めるなり。

ものぐらき函のこの町
だれも見ぬ水のむかうの桜の紅葉    伊藤一彦(「青の風土記」)

閉ざされた箱のように、もの暗い町。
対岸には桜紅葉が美しいのに、誰もそれに目をとめようとはしない。
桜紅葉を愛でているのは、作者一人。
私たちは、町からも人からも疎外されているような寂しい思いで、ぼんやりと風景の中に佇んでいるようなことがあるが、この歌は、桜紅葉という点景を置くことによって、そういう心情を表現しているような気がする。
「ものぐらき函のこの町」がこの歌の要(かなめ)でもあるが、或は旅先での侘しさを歌った歌かもしれない。(河野裕子 「うたの歳時記」)

2011年11月10日 (木)

『あかときくらく』  山中智恵子の歌論 その1

著作権の事を思うと、やってはいけないことか。
わたしは、山中智恵子の歌論『あかときくらく』を、かささぎの旗にとりこみたい衝動を抑えることができない。

写経するように、少しずつ転載したい。
それがたとい、犯罪であったとしても。

最近とあるサイトをみていたら、山中智恵子の歌は、思わせぶりで、なにも実体などないものである、長年付き合ってきて、それに気づいた。と決めつけている声にぶつかった。

わたしの思いはそれとは真逆である。

実体などない。だからいいのである。
山中智恵子の歌は、なにか具象としての影を結びそうで結ばない。
だが古風なかそけさ、得も言われぬ典雅な雰囲気を確かに心に転写していってくれる。
まるで流れる水の上を紫の雲がよぎっていくように。
稀有な才能であり、これこそが今の自分が憧れる唯一無二の歌の力だと思うから。

 あかときくらく

  -梁塵秘抄覚書

   山中智恵子

 人の音せぬ暁に 人の音せぬ暁に

  ふと無心のとき、私は今でもつぶやくことがある。
  京阪を中書島から宇治線に乗り換えると、間もなく青田の中に小さな屋根がみえ、胡瓜や茄子に抽きんでて、四五本の向日葵が高々と咲いていた。向日葵は好きな花ではないのに、空がはりつめた硝子のようにかがやいていた終戦の夏の朝々の思いは、梁塵秘抄の一句と、向日葵の蒼いひとみとでみたされ、あとはただ青空に落ちこんでしまう。
 この没落の感じは、思い出の欠落感なのか、歴史そのものの底のしれない陥穽なのだろうか。
 黄檗にある勤労動員先の休み時間に、私たちは誰かが借りてくる本をせかされながら読み、ファブリスやムイシュキンや西鶴のことなどを、幼い口つきで話しあっていた。けれど、寮に帰ってから管制下の暗い灯のもとで、ひとり読む梁塵秘抄の歌については、友だちの誰にも私は話さなかった。何となく話す機会を失っていたというのが本当なのだが、一夜一夜が敗戦前夜であり、朝空がまだ私に在ったと仰ぐ日々のなかで、いきいきとした存在のかなしみにふれ、こころを鎮めるひとつのものを、ひそかにまもりたい思いがあったのだろう。

 仏は常にいませども、現(うつつ)ならぬぞあはれなる
 人の音せぬ暁に ほのかに夢に見え給ふ。
                                二六 法文歌

 これは、人の心の最も弱い部分に書かれ、歌われたのだろうか。
 梁塵秘抄は、後白河天皇の手で、嘉応元年(1169)あたりから撰のことがこころざされ、治承三年(1179)頃までに、歌詞十巻口伝十巻の全部が成立したとおもわれる。嘉応元年といえば、法王出家の年であり、治承三年十一月には、清盛による鳥羽殿に幽閉のことがあった。保元・平治の乱をすぎ、ふたたび源平合戦が始まるまでの、内乱の谷間に成ったものである。

    (続く) 

※長さから、十回ほどに分けての転載になると思います。
それが終わった後、俳人高柳重信の山中智恵子論『はじめに月と』を転載したいと考えています。

引用元は、現代歌人文庫11『山中智恵子歌集』(国文社)

▽歌人山中智恵子

1925年5月4日名古屋生まれ。1945年京都女子専門学校国文科卒業。
1946年秋「日本歌人」入会、前川佐美雄に師事。
三重県鈴鹿市に居住し、深い古典への教養をにじませた幻想的な作品を数多くうみだし、現代の巫女と呼ばれた。数々の賞を受賞している。
2006年3月9日逝去。河野裕子は大学の後輩にあたる。
     

2011年10月13日 (木)

山中智恵子と河野裕子

今ごろになって、ふっと気づく。

河野裕子は京都女子大の国文科を出ている。
山中智恵子と同じ大学で学んだのですね。
山中の時代は名前が違っていますが、おなじ大学です。
土井たか子元社会党のボスもそこ。

山中智恵子に対しては、俳人森山光章に教えてもらってからというもの、その神秘的な歌風に強い憧れがあって、たとえば次の歌など、意味がつかめないままに心奪われる。

秋の日の高額(たかぬか)、染野(そめの)、くれぐれと道ほそりたりみずかなりなむ

     山中智恵子

   『 みずかありなむ 』 抄より

みずかありなむ、ということば(この歌の中ではみずかなりなむだけど)。
ふしぎな呪文のようで、わすれがたい。

わたしはこの夏、自分でも勝手に引用した句をつくった。

みなづきのみづかありなむほととぎす    恭子

この句ではみづかは水塚としてよめそうだけど。

日本のうたへの深い教養があってはじめてよめる山中智恵子の歌。

http://okwave.jp/qa/q2352254.html

河野裕子はその魔力の影響をうけなかったのだろうか。
わたしはまだ、なにもしらない。

2011年1月15日 (土)

短歌誌やまなみ1月号 山下整子芥火賞受賞歌

かげろふ生るる  山下整子

リビングを暗く閉ざしてちちははが雪のひと日をひたすら眠る
部屋から部屋へ赤き毛布を曳いてゆくははの居場所はちちの傍ら
無表情なこゑと貌とがわたくしの名を連呼する午前二時半
みしりみしり夜ごと廊下を軋ませて眠らぬははがわが名を呼べり
階下より姑のしはぶきははのこゑ 耳をまなこをこころを塞ぐ
わたくしの防衛線
(マジノライン)をやすやすと侵してのどか惚け増すははの
開け閉めはつよく激しくたからかに惚けゆくははの存在証明
しうとめのゆまり著けき部屋廊下ぬぐつても拭つても消えぬ痕跡
飯つぶも記憶も矜持もこぼしつつひとは惚けゆくひとが壊るる
家じゆうの床を拭きあげ今日を終ふ さくら大樹の切つ先に月
手に余る重たさでしたけふの日のははとわたしと冬のさむさと
ちちがキレ夫がキレるゆふべわたくしの堪忍袋からうじて保
(も)
舌打ちを隠さぬちちよ・・・ちっ、それはわたしの方が打ちたい
置き去りにしてきた。何を?勇気を。さつきまでゐた公園のベンチに
誰れも来ぬカササギのほかにはたれも曇りのち晴れのははの一日
脱衣所の隅に事切れてゐた蜘蛛よ本当に言ひたきことは言つたか
アスファルトに落ちるわが影そびらより翼のごときかげろふ生るる
みづ菜にもチンゲンサイにも春が来て野菜の花は清し黄の色
生温き朝のコーヒー飲み干して さあ、しうとめとがつぷり四つ
しうとめと連れ立ち歩くスカンポの葉ばかり茂る野辺のくさむら

  ・・・・・・・・・・・・やまなみ2011年1月号から

リンク;31文字倉庫「短歌なるもの」

http://tanka-souko.cocolog-nifty.com/blog/cat5860951/index.html

短歌誌やまなみ1月号

2010年12月18日 (土)

アホかと思ふ。

美しく齢を取りたいと言ふ人をアホかと思ひ寝るまへも思ふ

河野裕子の歌です。今朝一番にアクセス解析をやっていて、
http://cgi.search.biglobe.ne.jp/cgi-bin/search?start=10&ie=utf8&num=10&q=%E6%B2%B3%E9%87%8E%E8%A3%95%E5%AD%90+%E7%9F%AD%E6%AD%8C&lr=lang_ja

ここでであいました。産休産休。

美しく年をとりたいといふ人をアホかと思ひ朝一番にもさう思ふ。笑。

かささぎの歌です。ははは。 

2010年11月13日 (土)

草野源一郎歌集 『本明川(ほんみやうがは)』

草野源一郎歌集 『本明川』
やまなみ叢書第73篇 
短歌研究社 平成13年9月20日刊

歌人・草野源一郎

略歴

大正13年(1924)9月5日 長崎県諌早市本明町に草野徳男、ヨネの三男として出生
昭和17年4月 長崎県立諫早中学校卒業、旧制佐賀高等学校入学
昭和18年4月 富士川英郎教授の指導のもと、故山本太郎らと、佐高不知火寮短歌会を始む
昭和20年8月 2年在学中、病気休学の為、原爆投下前日帰省、投下翌日(10日)救護班として被災地に入る(※当時21歳)
昭和21年11月 「やまなみ」復刊と同時に入会
昭和26年3月 2年半休学の後復学、長崎医科大卒業
昭和34年1月 大学、その他で研修の後、諫早市永昌東町15-1に医院開業
昭和49年7月 第一歌集『白金耳』出版
平成6年2月「やまなみ」短歌会代表
  現代化人協会会員、日本歌人クラブ長崎県委員、諫早歌人クラブ会長

ふた夜明け火の鎮まれる浦上に友を探してひと日暮れたり
原爆に斃れしものに月照りて額冷えゆきしことを思はむ
頬寄せてききし言葉はつぶやきに似て五十四年ののち甦る
青蚊帳に臥したる声は微かにて水を、水を、ただに欲りたり
原爆を逃れしものは世の隅に隠らふごとく身を狭く棲む

原爆を逃れて生きし五十年世に生きいきと励みしならず

長崎に医を学ばむと齢若く笈負ひきたる友は還らず
地下室の研究棟に夜を徹し試験管振りき雪降りてゐき
菌体を磨り潰すとき立ちのぼる芳香ありき微かなれども

あらためて思へば三つ四つ網ふかく逃れて今日の生命ありけり

しらじらと潮光りて春山の岬を巡りくるバスが見ゆ

受洗せしことも幸(さきは)ひ蝋の火に花に守られ主に近づかむ

たをたをと峡渡りゆく鷺の群差しくる年の光のなかを
葦原を声を絞りて啼く声は夜明けの霜を翼に負はむ
決断を延ばし延ばしてくぐもれる一生(ひとよ)と思ふ川縁をゆき

東(ひむかし)の茜を洩れて差すひかり歌をきざめる碑にさす

峡空を渡る寒月丘のうへの歌碑を照らさむ一夜一夜を


創口は八寸五分もありぬべし百足いまにも這ひ出づるべし

多良獄に雲湧きてゐむ本明川に靄立ちてゐむ遠く来にけり
晩冬の川面光りて流れをり本明川の鴨も帰らむ
百穀をうるほす春の雨降らばわが五体はも癒えてゆくべし
存(ながら)へてなにを希(ねが)はむ川を詠み山を讃へて日々の祈りぞ

▼かささぎの独り言

短歌結社やまなみ主宰、草野源一郎氏の歌集、この歌集を一冊だけ久留米図書館で借りることができました。
最初の歌集はおいてありませんでした。
もっとも、森澄雄句集すら、ろくすっぽありません。私は、鯉素(りそ)という有名な句集を借りようと思ってましたが、それすらなかったほどですから、推して知るべし。
信じられないですよね。だって森澄雄といえば、ずいぶん長く西日本新聞の俳壇の選者を務められていたのですよ。そういえば、数年前、橋本多佳子句集を探したときも、有名な俳人なのに、一冊しかありませんでした。(でも久留米はまだいいほうで、やめとしょかんには一冊もありませんでした。)

と前置きはこのくらいにして。
つぎの歌の読みが、わたしにはよくのみこめませんでした。
だからこそ、なぞとして、深く胸にのこりました。

あらためて思へば三つ四つ網ふかく逃れて今日の生命ありけり

どなたか、この歌一首をよみとかれてください。すごくわたくし性にみちみちた歌だと思う。
「三つ四つ網ふかく逃れて」なにが?なにが逃れて、なにから逃れて。
おしえてください。やまなみ短歌会のみなさま。

ところで。草野先生は、「入市被爆者」だということになるのでしょうか?
だから、がんになられたのでしょうか。

2010年11月10日 (水)

河野裕子の「こゑ」と草野源一郎の「こゑ」

きのふ、思ひがけずも「やまなみ短歌会」主宰草野源一郎氏について書いてゐた一文の間違ひを訂正してくださつた方がゐらして、去年の文章を読み直してみました。
『諫早の歌人 草野源一郎』(見出しは、佐世保の歌人・・・となつてゐます)。

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-f64c.html#comment-78066092

暑き日をいひて汗拭ふ見舞客
こゑきびきびと臥すものを圧(お)す  源一郎
   
歌集『余光の橋』

西日本新聞の短歌月評、志垣澄幸氏の批評文からとつた。
文章はこう紹介してありました。

「入院」のなかの作品。病者として入院生活が長く続くと、見舞いにきた客のきびきびとした声に生活者の力強さを感じて圧倒される。(志垣氏)

いはば、草野源一郎氏のこの「こゑ」一首が、人生のゆふぐれどきのものとすれば、河野裕子歌集『はやりを』のなかの「こゑ」と題する勢いのある歌群は、女として壮んな時代のまなかにあつた河野裕子の南中(なんちゅう、正中)のときのものであり、対比するために、ひきます。出血大サービスを赦されよ。

はやりを

  河野裕子

透かしみる汀のゆふべやはらかにみづ盛りあがり雨が降りゐる
人絶えし白昼(ひる)の坂ありまどはしの始まりのごと油照りして
池の辺をめぐりて歩み返すとき沈透(しづ)き鳴くなりひとつかなかな
離(さか)りゆくこころとこころの隙(ひま)に飛ぶ松の花粉を見つつ歩めり
子の友は語尾緩やかにその母を言へり頸長の寡黙なる子は
忘れたきこの憎しみを軋まする日盛りの道に並(な)み立つ杭は
夜の雷雲蒼く黄色くひらめくを傍への男が牽(ひ)きつつぞゐる
手をつきて逆しまにのぞくわが顔を床下の猫が長くうかがふ
甕の水あふれやまざる雨夜ありあふるる水を打ちつつ降れり
昨夜(きぞのよ)の汝がためらひは何故ぞそのおほき手が椅子の背に垂る
みづからを値踏みしてゐる卑しさか啜る白桃の汁にも汚れ
ひるがほの髪長をとめ雨匂ひバスの左手(ゆんで)に席を隔つる
ふと濃ゆく息づくと見えしたまゆらを水辺の草より螢は飛びぬ
抱(ゐだ)く手の
両のこの手の重なりをわれとぞ思ふ君とも思ふ

(以下 中略 若い女人の相聞歌にわれ耐えへねば)

二人子を抱きてなほも剰る腕汝れらが父のかなしみも容る
君を打ち子を打ち灼けるごとき掌よざんざんばらんと髪とき眠る

ひのくれは縄とびの金の波の間を子らは爆ぜ跳ぶこゑもろともに
逸雄(はやりを)の三十代(みそよ)とさせむ睡りゐる太き眉毛をしばし撫でゐつ
さびしさよ甕に盛られし百合の向うに人垣の向うに君がゐるなり
雷鳴のとどろとどろの合間にて傍への男の呼気音あはれ
沢山のひとごゑの中のひとつこゑ聴き分けてその肉声に近づく
なほしばしわが坐(ゐ)る窪地は暗からむ海を渡りて月はのぼり来

目を閉じてこゑを味はふああこゑは体臭よりも肉に即くなり
こゑのみは身体を離(か)れて往来(ゆきき)せりこゑとふ身体の一部を愛す
ことば、否こゑのたゆたひ 惑ひゐる君がこころをわれは味はふ
蝉声の中に生(あ)れし子この裸身与へ得しのみわが得たるのみ
(裸子をひとり得しのみ礼拝す  石橋秀野)
雪は今ゆたかに迅し夜と宵のあはひの藍の邃(はる)かより来て
(雪はしづかにゆたかにはやし屍室 石田波郷)

肉体を一途に恥ぢてとほくより憧れしひとも母となりゐむ
葱のにほひしてゐる雨よ膨れつつ大まひまひは渦ながら歩む
ああ人は子らの父なり夕星(ゆふづつ)の淡きを提げ戻り来るなり
ひとつ卓に七十本の指うごめける宵の温(ぬる)さを団欒といふ

桃の花げんげの花は匂ふなり古き日本の花の色はも

(昭和59年の第四歌集)

歌集名『はやりを』は、逸雄(はやりを)である。
三十代半ばを生きた、この歌集製作時、私は周囲に幾人もの逸雄たちを見、鼓舞されることが多かった。そして、思うのであるが、男であっても、女であっても、逸雄の早駆けのできる時期は、そう長いものではないのである。(河野裕子あとがきより)

2010年9月14日 (火)

戦争の話(31) 橋爪一郎従軍記

保健医療経営大学学長

 橋爪 章

2010 年 9 月 14 日 戦争の話(31)

<橋爪一郎従軍記>

   馬(マー)、騾(ロー)、ら馬の巻

 昔から誰言うとなく「南船北馬」の名があります。広い支那では北の方と南の方ではずいぶんと変ったことが多いのですが、第一、言葉が全く違っています。そして北の方には船が殆んどなく南の方では馬が見あたりません。つまり、支那の南の方では物を運ぶのに舟を使い、北の方では馬を使うのです。

 支那の馬には三通り、日本の馬と同じの馬、この馬の半分ぐらいの大きさの「ろば」、そして馬と「ろば」のあいの子の「ら馬」で、ら馬は馬ぐらい大きく、馬よりも力が強く、子供をうみません。私は三月二十三日付で小銃部隊(ドンとうてばたまが一発とんで行く鉄砲)から重機関銃部隊(五百発のたまが続いて出る機関銃)に変りましたので、その日から馬と一しょに暮らすことになりました。私の馬はまっ黒の「ら馬」で気の短い馬でした。感の強い馬で良くなつき、「足」と言えば足をあげ、「口」と言ってあごをにぎると、おとなしく口を大きく開けております。私を乗せて走ったり止ったり、私の心がそのまヽ馬に通ずるぐらいきびきびとよく動いてくれました。でも、そんなになるまでには、私の尻の皮は何回か、この「ら馬」にはがされています。広い支那の北から南まで何千里かを私が無事に過ごせたのはこの馬のおかげです。

 馬は大好きです。馬を見ると支那を思い出します。この間から中辺春の馬が足首を痛めて血を流していましたが、何とも言えない気持ちでした。戦争で腹を射たれて死んだ馬、鼻を射ち抜かれてひとりでは水を飲めなくなった馬、水深いたんぼに足を取られてとうとう動けなくなった馬(この馬は、おがみながら射ち殺しました)背骨はきずついてうみが流れ、足の爪はすり減ってもただだまって歩き続けてくれた戦争の馬、私の頭には様々の馬が動いています。今も、支那の北半分の大陸では多くの馬がたくさんの荷物を積んで馬車(マーチョ)を引っぱっていることでしょう。私の馬は今も生きているなら二十才位、どこでどうなっているだろうかと思います。

1959年八女郡辺春(へばる)中学校『学級だより』

(保健医療経営大学『学長のひとりごと』)

▼かささぎの独り言

これは多分、昭和19年3月23日からの話であろうと思います。
馬の話を兵隊さんから聞いてみたかった。

人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝけり。
旅寝かさなるほどのかそけさ

道に死ぬる馬は、佛となりにけり。
行きとゞまらむ旅ならなくに

折口信夫のうたです。戦争での馬をよんだものと思います。

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-c82e.html
(『海やまのあひだ』さくらさんの馬の話も紹介。)

こんなに具体的に馬の話を聞けてよかった。
そうでした、一郎先生は体育の先生です。
一郎先生の中学時代の後輩であられる杉山洋先生のお話にも、鉄棒の大車輪が見事だった話が出ていました。
馬もじょうずに乗りこなされたようです。
ほんとうに馬への思いが伝わるやさしい文章です。
死んだ子の年を数えるようにして別れた馬の年を数えている兵士・一郎さん。
わたしはやっぱり、秀野ノートを思い出す。
冒頭秀野のことはそっちのけで、馬の話をかいたから。
坂本繁二郎画伯の銅像があるくらい、八女人は繁二郎が好きで、その伝説の画伯に父は少年のころ会っている、馬をみせてくださいと言って馬小屋に写生にみえた画伯に。(画伯は父の実家のある村の隣村にいた)。
黒木瞳さんの実家が馬を商われていて、そのことも連句的に書いていた。
かささぎらしく何の思惑もなく、ばくろうだった彼女の父から(あるいは祖父からかもしれない)わが父は子馬を買った事があると書いていたので、杉山先生からバクロウは差別用語だと電話でがんがん叱られた。懐かしい。
でも、そんな俗っぽい次元のことはどうでもいい。
わたしは、馬が好きだった画伯と馬が好きだった父(農耕馬がいた)と、馬が好きだった黒木瞳さんのじっちゃん(と彼女の父親、町会議員もなさった人)の話が書きたかっただけだ。
瞳さん、エッセイにこの話、いつかかかれてください。
ばくろうは差別用語ではない。差別するな、と。
馬の話を、いつか書かれてください。読みたい。

高橋甲四郎先生はお元気だろうか。
(最近まったく連絡しておりません。気になる。)


「小銃部隊(ドンとうてばたまが一発とんで行く鉄砲)から重機関銃部隊(五百発のたまが続いて出る機関銃)に変りましたので、その日から馬と一しょに暮らすことになりました。」

かささぎは、わが兵隊おっちゃんを忘れているわけではない。
上妻尋常高等小学校を全甲の成績で卒業した優秀なおっちゃん。
あなたはどんなおもいでまいにちをくらしておられましたか。
父も母もなくなり、この家の養子として迎えられ、戦争にとられ。
家にその伯父の機関銃らしき古い写真が恭しく一葉残る。
それが与えられるのは名誉なことだったんだろう。

先日仏壇から見つけ出したものは、
墨で書かれた白い布袋の封筒。
この中に遺品(小石)が入っていたのだと思う。

福岡県福岡市西部四六部隊(県は正字)
福岡県八女郡上妻村字寺田
姫野茂平殿
博多駅(表書)
烈八九○六部隊辻隊
故陸軍伍長 姫野正義 (裏書)

(ガダルカナルへは馬は連れて行ってもらえなかったのだろうか。
まだ何にも調べてもいない、薄情なこの家のあとつぎ。)

コメント

rainおはようございます。 思っていたより激しい雨になりましたね。
葬列>>5年生の時同級生のお父様が亡くなられたのでクラスで参加しました。
旗を持った人や棺おけを乗せた台車がつらなってお墓の方へ向っていきました。

当時、集落には葬式用具の一式があったと記憶しています。
今、色々と自分の葬式プランの事が話題ですね。
私は「この写真で」と決めてるのを写真立てに入れています。
でも10年も経ったのでそろそろ最近のを選ばないといけないかな~と・・。

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