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2010年7月21日 (水)

浜寺俘虜収容所のロシア兵             あるユダヤ人捕虜と日本

歴史ノンフィクション

「浜寺俘虜収容所のロシア兵」

    
竹橋乙四郎

一、
19世紀末、ヨーロッパ諸国を深刻な金融不安が襲いました。この頃、ヨーロッパの金融界を牛耳っていたのはユダヤ人でした。

悲劇は音楽の都ウィーンから始まりました。
カール・ルエーガーという弁舌巧みな美男子がウィーン市長選に臨みました。ルエーガーは、ロスチャイルド家などのユダヤ資本への市民の反感に乗じ、反ユダヤ主義を煽り、大衆の圧倒的な支持を得て1897年4月20日にウィーン市長となりました。
市長に就任してからのルエーガーは、反ユダヤ主義を市政に貫徹したわけではなく、ユダヤ人の貧困層を救済するなど民族融和の善政を重ねました。ルエーガーの業績を称え、ウィーンには「ドクター・カール・ルエーガー広場」などルエーガーの名のついた
広場や通りがあります。ルエーガーの反ユダヤ煽動は選挙戦術にすぎなかったのでした。
 しかし、ルエーガーが大きな感化を与えた男がいました。その男は、ルエーガーを「わが人生の師」のひとりだと言っています。若きアドルフ・ヒトラーでした。

二、
1872年のある日、横浜港に降り立った16歳の少年がいました。彼の名はマーカス・サミュエル。サミュエルはロンドンの貧しい行商人の子として生まれたイギリス系ユダヤ人でした。サミュエルは日本の貝殻をボタンや小物玩具に加工してイギリスへ輸出して成功し、多くの富を得ました。1894年7月に開戦した日清戦争に際し、貿易商サミュエルは食料や軍需物資の調達と輸送で日本軍を支援し、日本の勝利に貢献しました。
1895年3月、朝鮮半島の独立を大義として日本が宣戦した日清戦争が終結しました。日本の安全保障上、朝鮮半島を独立させ半島にロシアや西洋列強を軍事進出させないことが重要でした。日本が勝利したことで、朝鮮半島は清の勢力圏から切り離されました。
サミュエルはインドネシアでの油田開拓にも成功し、1897年に横浜元町に石油会社を創設しました。貿易商としての成功の糸口となった貝殻にちなみ、サミュエルは会社名をシェルと命名しました。シェル社は後にロイヤル・ダッチ社と合併してロイヤル・ダッチ・シェルとなり、巨大石油資本に成長します。
サミュエルは、1897年に日本政府が銀本位制から金本位制に転換する際も、日本国債を売って資金調達に助力し、世界に日清戦争の勝者日本の存在を印象づけました。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は「黄禍」という言葉を用い、黄色人種による西欧文明への脅威を警告しました。
三、
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の忠告により、従兄弟のロシア皇帝ニコライ2世も「黄禍」を警戒しました。ロシアでは、ユダヤ人に対して「ツィード」という蔑称を使っていましたが、日本人へも同じ蔑称が使われました。
日本に対して、ロシアはドイツ・フランスとともに三国干渉を行い、1900年に全満洲を占領し、1903年には韓国領の竜岩浦を軍事占領しました。ロシアの南下に日本の安全は脅かされ、1904年2月、日本はロシアに宣戦布告しました。
ロシアとの開戦にあたり、日本は資金調達に行き詰まっていました。日清戦争直後で戦費に余裕はなく、外債で多額を調達しなければならなかったのですが、開戦とともに日本発行の外債は暴落し、まったく引き受け手が現れませんでした。世界中の投資家が、日本の敗北で資金が回収できないだろうと判断したためです。
このころロシアでは、ポグロムと呼ばれるユダヤ人虐待・虐殺が行われており、ニコライ2世がこれを黙認していることに激怒したユダヤ人銀行家がいました。米国最大手の投資企業の代表ジェイコブ・H・シフです。シフは、日本発行の外債を大量に購入し、他の米国銀行にも掛け合って、その販売を助けました。ひとえにシフの尽力により、日本は勝利に必要な戦費を調達することができました。
1905年9月、日本は日露戦争に勝利し、翌年、シフは明治天皇から旭日章を授与されました。旭日章を授与された最初の外国人です。
四、
ウィーンで反ユダヤ主義が煽動されていた頃、日清戦争の頃、日露戦争の頃、世界各地からユダヤ人がイスラエルの地に移り住み、いくつもの小さな集落が形成されました。シオン(エルサレム市街の丘の名前)の地に帰る、という意のシオニズム運動の萌芽です。しかし、それらの集落は周辺のアラブ人からしばしば攻撃を受けました。二千年前にローマ軍に滅ぼされて以来、ユダヤ人は軍隊を保有していませんでしたので、アラブ人の攻撃に対しては無力でした。そこでユダヤ人の軍隊を再組織した兵士がいました。元ロシア兵のヨセフ・トルンペルドールです。トルンペルドールは北辺の集落テルハイに住み、アラブ人と戦いましたが、アラブ人過激派の反シオニズム暴動が始まり、テルハイ虐殺で1920年10月、トルンペルドールは死亡しました。トルンペルドールが具現した民族のために死ぬことの尊さは、死してなお、子供たちの教育を通じて語り継がれています。
五、
日露戦争の際、日本軍が携行した「軍隊用手帳」の最初のページは戦時国際法の条文でした。勇ましい軍人勅諭ではありません。「われわれは文明国人として捕虜と非戦闘員に接するように」と、捕虜と非戦闘員の取り扱いが詳細に記されています。
先の日清戦争では、旅順口を占領したときの日本軍の行為が国際的に非難されています。日本軍は戦闘員と非戦闘員を区別なく襲撃した、戦闘力を失った敵の兵士を殺戮した、民家から財貨を掠奪した、という報告が世界中に打電され、文明国の仲間入りを目指していた日本にとっては致命的な悪評が広がったのです。
もし、日露戦争においても同じような糾弾を浴びるようなことがあれば、たとえ戦争に勝ったとしても欧米列強を敵にまわしてしまいます。日露戦争の後にはロシアと利害が対立する国々との外交交渉が控えています。日本が残酷で野蛮な国であるという印象をどうしても払拭する必要がありました。
日露戦争の開戦直後、陸軍大臣は34ヵ条からなる「陸軍俘虜取扱規則」を制定しました。
「俘虜ハ博愛ノ心ヲ以テ之ヲ取扱ヒ決シテ侮辱、虐待ヲ加ヘルヘカラス」
虐待はおろか、侮辱も加えてはならないとの先進的な規則でした。
「俘虜労役規則」、「俘虜収容所条令」、「俘虜自由散歩及民家居住規則」などの勅令や通達も発されました。「俘虜郵便規則及俘虜郵便為替規則」では、捕虜が母国へ送る郵便料金を無料と定めています。
六、
日露戦争においても、日本軍は戦時国際法を完全に遵守したというわけではありませんでした。戦争末期の頃には兵員が払底し、教育訓練レベルの劣る指揮官や兵卒を前線へ送らざるを得ませんでした。「戦争だから何をやってもいい」といった粗野な考えの兵士もいたことでしょう。樺太戦線での日本軍の一部の残虐な行為がロシア兵の手記に残されています。
しかし、そのような残念な例外があるにせよ、日露戦争においての日本は、戦時国際法を逸脱しないように最大限の努力をしました。とりわけ、内地に受け入れた捕虜の扱いについては、どこからも後ろ指をさされない万全の態勢で臨みました。
日露戦争では7万人を超えるロシア兵が日本各地の29か所に作られた俘虜収容所に収容されました。捕虜受け入れの各地では、受け入れ態勢を整えなければなりません。気がかりは、住民が捕虜を侮辱したり危害を加えたりしやしないかということでした。家族や友人を殺したかもしれない相手を受け入れるのです。各地の首長は住民の指導を徹底しました。ある受け入れ地では「戦争は国家と国家の公争にして個人間の私闘にあらざるは市民夙に熟知する処なり…苟くも凌辱箇間敷挙動に出てヽ国家の体面を傷くるが如きことなき様篤く注意せらるへし」という市民向け諭告を発しました。小中学生へは、捕虜に接する心構えが教育されました。
俘虜収容所のロシア兵は次のような厚遇を受けました。
① 捕虜は一等車で収容所入り
② 露国皇帝、フランス公使から贈り物
③ 皇后、知事、軍人から義肢、義眼の贈り物
④ 運動会、収容所講座、芝居などの主催や見物と県外旅行
⑤ 温泉地や料理屋へのほとんど自由な出入り
⑥ 充分な医療の提供
⑦ 逃亡者への穏便な処分
⑧ 死亡捕虜の丁重な埋葬
⑨ 大量の郵便物の受領と発送…
食事について、たとえば将校捕虜のある日の献立は、昼食が「イタリヤスープ(牛骨ダシ、マカロニ)、ロブスタフライ(海老、麦粉、玉子、コース)、菓子(カステラ)、果物(蜜柑)」、間食が「麦湯、日本菓子、果物」、夕食が「ヒンスポック(豚肉、腕豆)、和料理(天丼、鳥、豚、魚)、麦湯」でした。毎食、白パン半斤とバターと紅茶が付きます。下士卒の献立も、毎日、何らかの肉類または魚肉が出ています。
この厚遇は、遠来の客人を迎えるかのごときものでした。ある下士官の手記による捕虜の一日は次のようなものでした。
  午前中、洗面、祈祷、朝食、カルタ遊び、ロシア式野球、バーブキ遊び、兵舎内の徘徊、読書、読書と祈祷以外は喧騒、口論、日本人が収容所内に作った学校へ通う文盲たち(兵士の中に中学校生徒がいた)。午後、一部の者は横になり、大半の者は際限のない議論をはじめ、手風琴を弾く者、歌う者、踊る者もある。このようにして夕食・点呼までが過ぎる。夜、点呼後の祈祷、床に入ってから夜半まで、あるいはそれ以上続く涯しないおしゃべり。
七、
開戦間もない1904年3月18日、まず松山俘虜収容所が開設されました。気候が温暖で風光明媚で温泉があるなどの条件が整っており、当初から開設が準備されていた施設です。船着き場には歓迎のアーチが立てられ、町の人々は紋付き羽織で捕虜たちを出迎えました。
捕虜の圧倒的多数は下士兵卒ですが、松山俘虜収容所は、すべてにおいて後続の収容所の手本となりました。道後公園では捕虜と市民の自転車競走が催されました。集団で伊予鉄道に乗って砥部焼の見学にも行きました。捕虜が自発的に道路の清掃をしたり、市民の靴を作ったりと市民との交流も盛んでした。
捕虜のミハイル・サポーシニコフは母国で昆虫学の研究をしていましたが、松山でも、山野での昆虫採集が許され、夜はその整理に費やしました。
捕虜の中には位の高い将校もいますが、将校の捕虜は主として松山へ送られました。妻子を呼び寄せ、家族水入らずの生活を享受した将校もいました。更に位が高い将官は名古屋収容所へ送られました。
八、
捕虜たちは「俘虜自由散歩規則」により、脱走しないことを「宣誓の上之を許す」(第1条)という条件下で自由な散策が許されていました。しかし、捕虜の中には「身の分際も打ち忘れて市中を闊歩し、さらでも人もなげなる日ごろの振舞いはますます放埓の度を高めて、料理店さては妓楼に押し登り、中には芸妓を落籍さんなどの取り沙汰さえあり」と報じられる者もいました。
 松山では道後温泉の遊郭に登楼する捕虜もおり、「祖国の為に奮闘し、刀折れ矢尽きて降参せし者、精々武士道の慰籍を与へよとの仁愛なる聖旨なれば、優遇は大いに可なり、自由観劇も可なり、自由飲酒も可なれども、相愛しての真正の恋なれば兎に角、売春は不可なり、公許は絶対不可なり」、という苦情も寄せられています。
海軍軍人の水野廣徳は捕虜厚遇の行き過ぎを批判しています。
「露国俘虜に至りては、我が待遇の寛なるに依るか、将俘虜の鉄面皮なるに依るか、将校の如きは青衣紅帽、美服を纏うて、傲然狭き大道を闊歩し、或は白昼妓楼に登つて豪遊を極め、或は妾を囲うて自由居住を為し、或は妻子を招いて同棲し、人をして俘虜か、外賓かを疑はしむるばかりであつた。」
「抑々俘虜の待遇法に関しては、国際法上一定の規約ありて、猥に虐待、凌辱を許さない。併し決して国民性を害して迄も、之を優遇せよとは要求して居ないのである」
九、
29の俘虜収容所のひとつに久留米俘虜収容所があります。福岡県久留米では第48連隊の練兵場の中に収容所が新設されました。1905年4月19日、九州鉄道の京町停車場にロシア兵捕虜500名が降り立ち、そこから徒歩で三井郡国分村の収容所へ向かいました。その後も捕虜は続々と到着し、最終的に2800名余りのロシア兵(下士卒)が滞在しました。短い収容生活の間にも、地元の住民との交流がありました。1905年9月11日の筑後川水泳大会を伝える福岡日日新聞によれば、来賓の部で捕虜15、6名が競泳を始め、川向こうから泳ぎだしたが、予定の場所に着いたのは2、3名で、他は押し流されて下流に繋いだ筏に泳ぎ着き、1、2名は船で救い上げたとあります。
 久留米では、11月26日に、捕虜の放火と見られる火事も発生しています。バラック収容棟8棟、炊事場、物置などが焼失しました。福岡日日新聞によれば「数日前より俘虜の一部は待遇の不満を唱え居たれば、或は暴行を為すやも知れず」とのことでした。日本人兵士の倍額の食費をかけ、戦時下の牛肉不足の中でも新鮮な牛肉を調達するなど、いかに厚遇に努めても、日本式組織管理や居室の構造、洋食食材の品質など、異国の地で余儀なく暮らす捕虜たちには不満が鬱積していたのでしょう。
久留米俘虜収容所は短い期間しか使用されませんでしたが、この時の捕虜との交流経験が、十年後、ドイツ兵捕虜との深い交流につながり、久留米市の発展の礎となっています。
十、
第一次世界大戦で日本はドイツ軍と戦いました。1914年10月31日、日本は青島(チンタオ)のドイツ軍を攻撃しました。青島戦の日本軍の主力は、久留米の第18師団を中心に編成されました。この戦いで五千名弱のドイツ兵捕虜が久留米、坂東、松山、大阪、習志野などへ送られました。久留米俘虜収容所は、最大時、1315名の捕虜を収容しました。
収容所では、音楽、スポーツ、科学技術などの分野で、捕虜と地域住民との交流が行われました。日本で最初にベートーヴェンの交響曲「第九」を演奏したオーケストラは坂東俘虜収容所のドイツ人捕虜たちで1918年6月1日のことでしたが、「第五(運命)」を日本で初演したオーケストラは久留米俘虜収容所のドイツ人捕虜たちでした。1917年3月4日のことでした。
久留米俘虜収容所では、収容所楽団(Lager Kapelle、オットー・レーマン指揮)とシンフォニー・オーケストラ(Sinfonie Orchester、カール・フォクト指揮)の二つのオーケストラと、シンフォニー・オーケストラに付属した室内楽団(Kammer Musik)が結成されました。収容所では145回、音楽会が開かれましたが、そのうち31回はベートーベンの曲が演奏されています。
べートーベンの交響曲が久留米俘虜収容所で最初に演奏されたのは「第8交響曲」でした。1916年2月25日のことで日本初演です。
技術交流については、久留米の日本足袋製造会社がドイツ人将校捕虜のパウル・ヒルシュベルゲンから車のタイヤの製造技術を学び、日本足袋製造タイヤ部となり、後にブリジストン・タイヤになりました。
1920年3月12日、久留米俘虜収容所は閉鎖されました。
十一、
1905年1月、大阪の人口二千人の高石村にロシア兵俘虜収容所が設置されました。浜寺俘虜収容所です。ここにロシア兵二万七千人が収容されました。全国最大規模の俘虜収容所です。ロシア兵捕虜総数の三分の一以上が収容された収容所ですが、捕虜自身の手記はほとんどありません。浜寺俘虜収容所は下士兵卒の収容所でした。ロシア軍の兵卒には、文字の読み書きができなかったり、文字を綴る習慣のない者が多かったからかもしれません。
兵卒ばかりの浜寺では、捕虜同士のトラブルが日常茶飯事でした。浜寺俘虜収容所は、ロシア、ユダヤ、タタール、ポーランド、ドイツ等の異人種よりなる大集団でした。ロシア正教徒、カトリック教徒、プロテスタント、イスラム教徒、ユダヤ教徒が混在しており、様々な対立がありました。
この頃、ロシア本土では第一次ロシア革命が進行していました。1905年6月には戦艦ポチョムキン号の乗組員が蜂起しました。捕虜たちの多くも、祖国ロシアの現状に満足していませんでした。戦争が終わって解放されても、ロシアの官憲の横暴から自由になれないことへの不安がありました。収容所生活のほうが自由だともいえました。
浜寺俘虜収容所は共産主義者たちの政治工作の格好の標的となり、印刷物の配布や工作員の訪問による働きかけが盛んに行われました。結果、浜寺俘虜収容所では、民族対立、宗教対立に加え、革命派と皇帝派(反革命派)の対立も厳しくなりました。1905年11月、対立は暴動に発展し、数人が抗争で死亡しました。全国の収容所で亡くなった捕虜の数は373名ですが、その中には、このような捕虜同士の抗争による死亡が含まれています。
1906年2月21日、浜寺俘虜収容所は閉鎖されましたが、収容所で革命思想に目覚めた捕虜は、帰国後、革命に参加しました。
中に、革命派と皇帝派の対立を尻目に、解放後、ロシアへ帰る道を選ばなかった捕虜がいました。ヨセフ・トルンペルドールです。
十二、
ヨセフ・トルンペルドールは歯科医師でしたが、24歳の時に日露戦争が勃発したとき、志願してロシア軍に入隊しました。1904年の旅順での戦いで、日本軍の砲撃により左手を失いましたが、片腕でも戦えると戦列復帰を願い出ました。1905年1月、旅順陥落とともに日本軍の捕虜となり、浜寺俘虜収容所に送られました。トルンペルドールは収容所内で新聞発行を許されましたが、日本語学習を通じ、敵国捕虜を厚遇する武士道精神に感銘を受け、日本人の識字率の高さにも驚きました。
浜寺俘虜収容所では、自由にユダヤ教の礼拝を行い、ユダヤの習慣を守って暮らすことが許されていました。ロシアではそうではありませんでした。浜寺俘虜収容所での生活を通じ、トルンペルドールは、自分がユダヤ人であるとの自覚を強くしました。
収容所には500人のユダヤ人同胞がいました。1906年の解放時、トルンペルドールは同胞を組織し、イスラエルへ帰る運動を興しました。
小国日本が大国ロシアに勝利しただけでなく、捕虜厚遇の武士道精神が国際的に賞賛されていることは、小さくても正義が勝つ実証として、シオニズム運動にも火をつけました。
一三、
浜寺俘虜収容所のユダヤ人のすべてがトルンペルドールと行動を共にしたわけではありませんでした。ロシア革命の成功を夢見てロシアへ帰るユダヤ人も多くいました。他の収容所のユダヤ人も、多くがロシアへ帰還しました。帝政ロシアを打ち倒して労働者の権利を確立することができればボグロムをなくすことができると信じたのです。
共産主義を唱えたカール・マルクスはユダヤ人でした。レーニン、トロツキーはじめロシア革命の指導者の多くもユダヤ系でした。1918年1月に、ロシア共産党(ボルシェビキ)中央委員会ユダヤ部と人民委員会付属中央ユダヤ委員会が設置され、多数のユダヤ人が共産党員となりました。結果として、革命政府の委員会の委員のほとんどをユダヤ人が独占することになりました。第一次ロシア革命は、帝政ロシアからのユダヤ人解放運動でもあったのです。
1918年7月4日、レーニンは「反ユダヤ運動撲滅に関する告示」を公布し、次のような演説を行なっています。
「反ユダヤ主義とは、勤労者をして彼らの真の敵、資本家から目をそらせるための資本主義的常套手段にすぎない。ユダヤ人を迫害し、追放せる憎むべきツァー政府よ、呪われてあれ! ユダヤ人に敵対し他民族を憎みたる者よ、呪われてあれ!」
資本家はボルシェビキの敵でしたが、ユダヤ革命ともいえる第一次ロシア革命へ多額の資金援助をした資本家がいました。アメリカ金融資本を牛耳るユダヤ人たちです。日露戦争で日本の戦費調達に尽力したジェイコブ・H・シフは全米ユダヤ人協会会長でもあり、トロツキーへ1200万ドルもの巨費を援助しています。
第一次ロシア革命には、日本の収容所での捕虜経験を通じ、日本の武士道に触れ、知日的となった元ロシア兵が大勢貢献しているはずです。とりわけボルシェビキ幹部となったユダヤ人たちにとっては、シフの援助で帝政ロシアと果敢に戦った日本は同志であり、今後、一戦を交えるようなことはないであろうことが期待されました。
しかし、1934年、スターリンによる大粛清が始まりました。スターリンは、トロツキーはじめ古参のボルシェヴィキを追放し、抹殺しました。スターリンは反ユダヤではありませんが、ユダヤ人を二分し、トルンペルドールと同じようなシオニズム思想を持つユダヤ人を排除しました。
一四、
スターリンは反ユダヤ主義を公式には明らかにしませんでしたが、シオニズムはソビエト体制を破壊するという強迫観念に囚われており、ソ連国内のユダヤ人全員を強制収容する計画をあたためていました。
スターリンが抵抗分子の大粛正に着手したその頃、ドイツではヒトラーが台頭しました。ヒトラーは頑固な反共産主義者でしたので、ロシア革命の分析を怠りませんでした。ヒトラーは、共産主義思想は否定しながらも、一党独裁制、秘密警察、強制収容所、宣伝手法、政敵の排除法など、革命を成功に導く実際的手法について、ボリシェビキから多くを学び取りました。
1935年9月15日、ヒトラーはニュルンベルク法(「ドイツ人の血と尊厳の保護のための法律」と「国家公民法」)を公布しました。ユダヤ人は市民権を否定され、公職から追放されました。1938年11月9日夜から10日未明、ナチス党員と突撃隊がドイツ全土のユダヤ人住宅、商店などを襲撃し、それ以降、ユダヤ人への組織的な迫害が強められてゆきました。
一五、
1907年に原子爆弾の基本原理である質量はエネルギーに転換する(E=mc²)という式を発表したアルベルト・アインシュタインは、1921年以降、エルサレムにヘブライ大学を創立する建設資金を集めるために、世界各国を訪問しました。アメリカ、イギリス、フランスの訪問の後、1922年11月17日、アインシュタインは日本を訪れ43日間滞在しました。アインシュタインは日本がすっかり好きになり、多くの友人を得ました。日本を出国後はエルサレム、スペインを訪問し、ドイツへと戻りました。
1932年、アインシュタインはアメリカ訪問のためドイツを発ち、二度とドイツへは戻りませんでした。1933年、ナチスはアインシュタインを国家反逆者としました。
1939年7月、ナチスから逃れてきたレオ・シラードらが、アインシュタインにある情報をもたらしました。ナチスが原子力エネルギーの制御に成功したというのです。ナチスが原子爆弾を開発して世界を制覇するようなことになれば、ユダヤ人弾圧が世界中に広がってしまいます。なんとしてもアメリカが先に原爆を開発しなければ、ユダヤ人は生き残れません。
1939年8月、アインシュタインはルーズベルト大統領へ手紙をしたためました。
「確信は持てませんが、非常に強大な新型の爆弾が作られることが、十分に考えられます。この爆弾1つだけでも、船で運んで爆発させれば、港全体ばかりかその周辺部も壊すことができるほどの威力を持っています」
原子爆弾開発を目指すマンハッタン計画が開始しました。
リーダーに選ばれたのはユダヤ人のジュリアス・ロバート・オッペンハイマーでした。主要メンバーにもレオ・シラードはじめ多くのユダヤの頭脳が集められました。
一六、
1919年、国際連盟の創設にあたり、日本政府は人種平等条項を入れるように提案しました。この提案はアメリカの拒否によって受け入れられませんでしたが、当時の日本は有色人種の先頭に立って、人種平等を訴えていました。ナチスの迫害により大量のユダヤ人難民が発生すると、日本政府は1939年12月に「猶太(ユダヤ)人対策要綱」を決定しました。ユダヤ人排斥は日本の人種平等の精神と合致しません。要綱には次の3つの方針が記されています。
①現在居住するユダヤ人は他国人と同様公正に扱い排斥しない。
②新たに来るユダヤ人は入国取締規則の範囲内で公正に対処する。
③ユダヤ人を積極的に招致はしないが、資本家、技術者など利用価値のある者はその限りではない。
当時、日本軍占領下の上海は、ビザなしの渡航者を受け入れる世界で唯一の都市でした。ビザのないユダヤ難民は満州ハルピンを経由して上海を目指しました。当時の上海には、2万7千人を超すユダヤ人難民が滞在していました。
1938年1月15日、ハルピン商工倶楽部で、極東ユダヤ人大会が開催され、約2千人のユダヤ人が集まりました。大会の開催を許可したハルピン特務機関長・樋口季一郎少将は、大会に招待され、次のような来賓挨拶をしました。
「ヨーロッパのある一国は、ユダヤ人を好ましからざる分子として、法律上同胞であるべき人々を追放するという。いったい、どこへ追放しようというのか。追放せんとするならば、その行先をちゃんと明示し、あらかじめそれを準備すべきである。当然とるべき処置を怠って、追放しようとするのは刃をくわえざる、虐殺にひとしい行為と、断じなければならない。私は個人として、このような行為に怒りを覚え、心から憎まずにはいられない。ユダヤ人を追放するまえに、彼らに土地をあたえよ! 安住の地をあたえよ! そしてまた、祖国をあたえなければならないのだ。」
大会終了後、ハルピン駐在の各国特派員が樋口を包囲しました。
「少将の演説は、日独伊の三国の友好関係にあきらかに水をさすような内容である。そこから波及する結果を承知して、あのようなことを口にしたのか。」
樋口は答えました。
「日独関係は、あくまでもコミンテルンとの戦いであって、ユダヤ人問題とは切りはなして考えるべきである。祖国のないユダヤ民族に同情的であるということは、日本人の古来からの精神である。日本人はむかしから、義をもって、弱きを助ける気質を持っている。今日、ドイツは血の純血運動ということを叫んでいる。しかし、それだからといって、ユダヤ人を憎み、迫害することを、容認することはできない。世界の先進国が祖国のないユダヤ民族の幸福を真剣に考えてやらない限り、この問題は解決しないだろう。」
樋口の談話は、各国の新聞に掲載されました。関東軍司令部からは、特務機関長の権限から逸脱した言動だとの批判があがりましたが、懲罰までには至りませんでした。
樋口は、ハルピン着任時にも、部下へ次のような訓示をしています。
「満洲国は日本の属国ではないのだ。だから満洲国、および、満洲国人民の主権を尊重し、よけいな内部干渉をさけ、満人の庇護に極力努めるようにしてほしい。」
一七、
1938年3月8日、満洲国と国境を接したソ連領のオトポールに約二万人のユダヤ難民が、立往生していました。彼らは満洲国を経由して上海へ脱出しようとして、オトポールまでたどりついたのですが、満州国外務部がナチスの横槍を恐れて入国を拒んだのです。
ハルピン特務機関長・樋口少将は、満洲国外務部を飛び越え、満鉄本社の松岡総裁を呼び出して列車を手配し、オトポールの難民全員をハルピンで受け入れることを表明しました。明らかな職務権限の逸脱でした。
樋口のユダヤ難民保護に対して、ドイツから強硬な抗議が来ました。
リッべントロップ独外相は、オットー駐日大使を通じて次のような抗議書を送ってきました。
「満洲国にある貴国のある重要任務にあたる某ゼネラルは、わがドイツの国策を批判するのみか、ドイツ国家および、ヒトラー総統の計画と理想を、妨害する行為におよんだのである。かかる要人の行為は、盟邦の誓いもあらたな、日独共同の目的を侵害するばかりか、今後の友好関係に影響をおよぼすこと甚大である。この要人について速やかに、貴国における善処を希望している。」
樋口は、出頭を命じた関東軍司令部参謀長・東条英機に次のように述べました。
「もし、ドイツの国策なるものが、オトポールにおいて、追放したユダヤ民族を進退両難におとしいれることにあったとすれば、それは恐るべき人道上の敵ともいうべき国策ではないか。そしてまた、日満両国が、かかる非人道的なドイツの国策に協力すべきものであるとするならば、これまた、驚くべき軽侮であり、人倫の道にそむくものであるといわねばならないでしょう。私は、日独間の国交親善と友好は希望するが、日本はドイツの属国ではないし、満洲国もまた、日本の属国ではないと信じている。東条参謀長!ヒトラーのおさき棒をかついで、弱い者いじめをすることを、正しいとお思いになりますか」
数か月後、樋口へ異動の命令が下りました。参謀本部第2部長への栄転でした。これがドイツからの「善処」要求に対する日本政府の回答でした。

一八(最終回)、
1945年3月、ドイツの降伏は目前でした。
ユダヤ人科学者たちが原子爆弾開発を急いだのは、ナチスドイツの暴走を制止し、ユダヤ人同胞を救いたいとの一心でしたので、原子爆弾を日本へ投下する計画があることを知ったユダヤ人科学者たちは慌てました。
日本は人種差別的なイデオロギーを戒め、ナチスの迫害から逃れてきた多くのユダヤ人たちを助けた国です。
3月25日、アインシュタインはルーズベルト大統領に手紙を書いて、日本に対して原爆を使わないよう要請しました。しかし、ルーズベルトは病床にあり、手紙を読まないままに、4月12日に没しました。
5月にドイツは降伏しました。レオ・シラードはトルーマン大統領宛へ、日本に対する原爆使用の懸念を67人の科学者の署名を添えて請願しました。
しかしトルーマンは、日本への原爆投下命令を、ポツダム宣言発表の一日前、7月25日に行いました。トルーマンは日本へ計18発の原爆投下を承認していました。日本の武士道精神を知るユダヤ人たちの思いは届かず2発の原子爆弾が使用され、8月15日、第二次世界大戦が終結しました。

戦後の数年間、世界秩序は混沌としていました。大国間の冷戦が始まり、核開発競争が激化してゆきました。植民地の独立が相次ぎました。そんな中、1948年5月14日、イスラエルは建国宣言を行いました。国家の独立宣言は、国家として承認する国がなければ意味がありませんが、トルーマンは、国務長官らの反対を押し切り、建国宣言の10分後にイスラエルを国家承認しました。浜寺俘虜収容所のロシア兵、ヨセフ・トルンペルドールの夢はトルーマンによって結実したのです。

トルンペルドールはホロコーストもヒロシマもナガサキも知らずに、この日のためにアラブ人と戦って死にました。
1952年、イスラエル政府はアインシュタインに第2代大統領への就任を要請しましたが、アインシュタインはそれを辞退しました。
今日、イスラエルは核兵器を保持し、アラブ人との戦いが続いています。
トルンペルドールの末裔たちは、浜寺の日々に優る平和をイメージできているでしょうか。
参照、引用した文献です。
吹浦忠正(ユーラシア21研究所理事長)の新・徒然草
http://blog.canpan.info/fukiura/category_12/
ドイツ人捕虜指揮者・オットー・レーマン
http://koki.o.oo7.jp/hoshi_tsuiki.htm

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