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2016年7月19日 (火)

黒木のお寺で

連休中、母をつれて、新仏さんとなった伯母がねむる黒木のお寺へ詣でる。

伯母さんの家にはもう誰もいず、ほとけさん守をする人がいないので、窮余の策でお寺に預かっていただくことになった。

むすめふたりは北九州へ嫁いでおり、それぞれの家のほとけさんを守らねばならぬ。

もともと黒木の上の、笠原出身であるから、黒木のお寺はなつかしく、ありがたい。

寺の名を専勝寺という。

坊守のおくさまがあたたかくもてなしてくださる。

とてもきもちのよい、上品な婦人だった。

きけば、みやこのじょうから嫁いできた、とおっしゃった。

みやこのじょう。ん。都城?

そうです。ここはお寺が多いですが、あちらは事情があって、お寺が少ないんですよ。

とおっしゃった。

つづきはまた。お寺の歴史の本もいただいてきた。

2016年7月 2日 (土)

ブッポウソウのこと  椎窓猛先生の投稿より

ブッポウソウ
矢部の里戻る

 

   椎窓 猛

 

 浄土への旅立ち前にはと、身辺整理の日も少なからずの昨今。郵便書簡類も焼却か、保存か。厚情のはがき1枚にしばしの追憶・・・。
 
 「ブッポウソウのこと、お便り詳しく読ませていただきました。一夜で籠抜けできるまで英気を回復させていただき、来夏にはきっと(福岡)矢部の里を忘れず、訪れてきましょう。城野茂門」

 村の役職退任の老父は野鳥観察を楽しみ、双眼鏡を手に朝夕の散策。八十八夜も過ぎたころ、脚、くちばしがオレンジ色、羽は青緑色の見慣れぬ鳥を発見。本紙支局に問い合わせたところ、野鳥研究家の城野さんを紹介された。
 
 このはがきは、ひなが巣立ち、誤って道路のミラーに衝突。道路に落下したところを父が救命、鳥籠へ。さて、餌はーと城野さんへ問い合わせたところ「カナブンをすりつぶし、箸先でくちばしへ・・・」。

 この指南で一夜で回復、親鳥と共に彼岸花咲く秋、遠くインドへー。昭和53年7月30日の消印が薄れながらも読みとれる。

 その後、遠来の飛鳥は空中消毒液散布を感知したのか、姿見えずの幾春秋。再来発見は公民館長。一昨年、野鳥ブッポウソウはインドから、矢部の自然環境回復を探知したのか。

 (西日本新聞朝刊2016・6・30)

▽かささぎメモ

しいまどたけし先生は、八女市矢部村在住の詩人・俳人です。

きのしげとさんについては、こちらで知ることができます。

http://karansha.exblog.jp/20387181/

さいごに、ブッポウソウとは、こんな鳥です↓

画像引用、http://www.cgr.mlit.go.jp/ootagawa/Bio/birds/index376.htm

(どうかおゆるしください。)

で、これをみて、あら。
ブッポウソウってきつつきなの?

それなら、いつぞや、しらべうたまるさんが、星野大円寺の背後にあるご稜墓で、親王鎮魂の曲を演奏されたときに、竜笛に合わせて一生懸命ドラミングしていた鳥がいたのだけど、もしやブッポウソウ?

しらべたら、あれは去年の春です!

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2015/03/post-cb63.html

ぶっぽうそうは夏の渡り鳥、ちがいますね。

2016年3月26日 (土)

『桃源三月』   椎窓 猛

桃源三月

    椎窓 猛

東風解凍
木々の芽が希望のともし火を
ほゝ笑みかける早春  庭の景

過ぎゆく日暦
つねにこころしたいのは
この春風を以て人に接し
秋露を以て自ら粛む

春なお浅けれど
水は澄み 水音は爽快
余寒の峠を越えてきた生涯を
ふりかえりつゝ
桃源の夢郷を描く三月。

みずすまし24号より引用しました。

2016年2月28日 (日)

並列駐車はむつかしい  星野行と星野氏の発生

並列駐車はむつかしいよね

八女星野の温泉「きらら」(旧池の山荘)はお茶の文化館や星の文化館がある山郷にあります。

並列駐車はむつかしいよね

並列駐車はむつかしいよね

星野氏『熱田系、筑後系』の発生は徳大寺家の関わりから    

 星野源流・文

1160年
徳大寺実能、、兄妹、鳥羽天皇皇后待賢門院たま子『熱田大宮の藤
原氏星野氏の姉妹もこれに仕えております。そして末の由良姫が源
頼朝の母になるのです。』
徳大寺公能
徳大寺実定 、、左大臣、
父子三代に渡り天皇家に関わります。筑後、星野氏の祖は色々のい
われがあリますが徳大寺実定に深く関わっているのです。
熱田大宮の星野氏
尾張国司目代、、季兼
尾張員職の娘職子が『藤原氏』が季兼の子季範に嫁ぎ藤原氏の熱田
大宮司が発生その子の範信が星野氏を名乗った。
『藤原氏から尾張氏』へ、星野氏を名乗った。藤原実定の時⁉.
『藤原氏から源氏』へ、星野氏を名乗った。筑後の星野氏。藤
原実定の時
星野治部左衛門家に歴史遺物として伝える古伊万里菊花16
花弁深ばち裏名、角忠、やはり古伊万里『鍋島焼き』茶碗、
蓋付、その上に角忠と書かれている。それらが徳大寺家に
つながり、近衛氏につながる、朝廷御家来へつながるのです。
星野親忠家と星野久之ジヨウ家は藤原実定公の元、非常に
近くそして同じ役割をもった朝廷御家来なのです。
それが今、戦いの歴史からではなく歴史遺物から
日光山輪王寺、に関係する歴史がわかるのです。そして足
尾銀山、銅山の歴史も。
しかしその他源氏につながる京都市東山の星野氏も調べて
みたいです。
▽たいけんもんいんたまこ

   藤原 璋子(ふじわら の しょうし / たまこ、康和3年(1101年) - 久安元年8月22日1145年9月10日))は、平安後期の国母鳥羽天皇中宮で、崇徳後白河両天皇の母。女院号は待賢門院(たいけんもんいん)。

▽とくだいじさねさだ

2011年6月21日 (火)

唱導文学としての「黒木物語」3 黒木助能            
國武久義・著 

2016年2月 5日 (金)

日光足尾銅山の旧大円寺と火繩銃田布施流秘伝書

星野治部左衛門が菩提寺とした浄土宗、大円寺

   

 星野源流・文

 
    1550年から1600年足尾郷には浄土宗の大円寺と日蓮宗の本妙
と 他一、二の寺院があったものと思われる。両寺院とも鉱山にい
われのある妙見宮と虚空蔵信仰の寺院です。この妙見宮信仰の有
名な寺院は九州熊本八代市妙見町妙見神社です。虚空蔵信仰で
総本山となっております。神輿、神主、社僧、鉄ぽう、神馬、笠鉾、
亀蛇、獅子舞等が祭りのだしとなっております。
この地方に妙見城という城に星野治部左衛門『星野親忠』が居住、
金山開発をし一族とともに朝廷ともつながる武士でありました。曹洞
宗、大円寺を菩提寺としておりました。また懐良親王を西征将軍とし
て仕え戦っており、その血筋を引く星野親忠です。足尾郷の大円寺
は江戸中期?廃寺となりその墓地郡が移動、現代には見えない、
解らない歴史となりました。
移動された先は旧妙見神社今の磐裂神社の裏山妙見墓地『中才
墓地(なかさいぼち)』と呼ばれます。
今手がかりとなる星野治部左衛門の五輪塔と供養塔、星野久之
じようと弁蔵の逆修の五輪塔
現専念寺『旧大円寺』て角隅に建つ
星野親忠?供養塔、新井孫兵衛?供養塔『施主新井宗兵衛』供養
塔記念碑のため『旧大円寺』に建っております。
足尾町の歴史が星野家に伝来する『火繩銃田布施流秘伝書』によ
って判明したことになります。
そして日光山輪王寺宮の御家来として代々に渡りながく仕えました。
 
南北朝の戦乱により武士の移動の歴史    

  星野源流・文

 
足尾郷の星野氏。
歴史家でもない、その勉強もしていない私がたどり着いた星野氏
のルーツ。
その過程で大変な歴史であろう出来事の点と点を線で結ぶと、
自然の歴史事実が解るのではないでしようか?
それでは一ツ、一ツ、書いてみます。
1,足尾郷に続くあかがね街道の要所に南北朝の武士団がいた。
2,足尾銀山、銅山に九州筑後、後醍醐天皇皇子懐良親王と南朝
方で戦った星野氏がいた。
3,日光山村に名主として続く星野久之じよう家の五輪塔が足尾郷
の中才墓地にある理由。
4,1540年桜本院昌安『壬生氏に附す日光山のナンバー2』 が殺害された大事件,星野
久之じようの地で、この地に昌安の五輪塔と鞍、歴史遺物として星野家につたえる『鐙』
がまつられております。
5,後醍醐天皇の重臣藤原藤房氏が鹿沼北方に逃れ住むおり、日光
山村を訪れ、うたをよむ。
『涌き出でし水上清き小来川真砂も瑠璃の光を添う』星野久之じよう
の地を訪れております。
6、今は日光街道その昔は鎌倉街道その入口の鹿沼にも熱田系の星野氏が多く
みられます。
7,足尾郷の足尾五姓も1300年前半南朝方か?後醍醐天皇の家臣?
上記を線で結ぶとなにがわかりますか?
以上歴史の点を指摘しておきます。
8,後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒は源頼朝2代を亡ぼす執権北條氏に
むけた打倒なのです。
また星野姓の起こりは藤原から源氏に変わる『養子、嫁入』のとき
星野姓が発生したのかも知れない。区別のため。
(以上は源流様のブログよりコピペいたしました。)
火繩銃田布施流秘伝書
▽最近のコメントから

コメント

佐野がでたので、いまいちばんホットな話題を。
まねた、ぬすんだ。と、わるくいいますが。
それは、べつの次元の話ではないのか。
世論におされてずるずる後退するのはおかしい。
たとえば、あおきしげるの「海の幸」でも、
レーピンの絵「ボルガの舟曳き」をしたにしいている。(とおもう)
まねしたまねした!とさわいだとて、べつのところで、きちんと
きれいにたっているじゃないか。
こんなことをやっていたら、収拾がつかないのでは。

高崎経済大学の論文に、こんなものがありました。
源流さまの一族でしょうか。
👇

エメさんブログでたまたまの、銅山発掘!
👇

切り抜き係り:http://hatue62.seesaa.net/article/134983989.html
和銅、ていう年号がついた理由、なーんだろ。
きのうは一日古田武彦関連ブログをさまよっていた。
おもしろい。

おひる、食堂でみたテレビに芦屋釜、出ました!

「イスラエルと田布施町の怪」↓

http://golden-tamatama.com/blog-entry-2149.html

をよんでいったら、たちまち源流さんへとひきもどされました。
源流さん、そういえば、ずっとききたかったことがあります。
田布施流秘伝書」って、なんのことですか?
よくわからない。いや、まるきりわからない。
きちんとおしえてくださいませんか。

そういえば、いろんなことがつながっている。
もりもりもりやまさんの句集に書かれていたたくさんの句にも、それらはあった!
いったいぜんたい、これはなに。

火繩銃田布施流秘伝書、星野家に伝わった古文書

現代の仕様書ですがその中には先生と弟子そして立会人が3名出てきます。
それは田布施流の鉄ぽうしか使えません。銃、火薬、弾、的、を細かく教えています。
その他使用者の精神まで教えています。
初歩、使用認定、免許皆伝、の三部構成です。
そして鉄ぽうを手に入れた経過が書いてあります。
秘伝書を他人に見せてはいけない、口伝にしなさい。
見せたら災いがある。と書かれているそうです。
年記は1612年、今までの鉄ぽう伝来の歴史とは違っております。
大変と遅くなって『実はブログを見落として』申し訳けありません。

この火繩銃田布施流秘伝書は発見されておりません。
国博の先生が鑑定済みです。申し訳けありませんでした。

ちょっと待ってください
源流ブログにまいります
仕事、終わっていきます

と。
よしこ先生のヒカルランドの新刊と、底流でつながるか?
西周と西鋭夫は親戚かな?http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-1291.html

しこくのジャンヌダルクこと香川宜子先生のスケジュールと宣伝を。

さくらさん、飯田橋ですよ。

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2015年11月 2日 (月)

星野源流さんのブログ記事とコメントまとめ

日光の星野源流さんのブログから転載いたします。

文:星野源流

足尾郷、日光山の星野氏、まとめ
寄り道をしながらやっと確信を持てる星野氏の流れを掴みました。
以下に書きますが、机に向かうことがなかなか難しいので歴史的なことが書けません。
つい断片的になってしまいます。
申し分けありませんが別のブログを作り仲間の先生方とあかがね街道の歴史を追究したいと思います。それは大変な歴史が埋もれているからです。
どうか興味ある方ご参加ください。ありがとうございました。
星野氏の歴史遺物から追究し、星野氏のルーツを探るため、断片的でコマ切れなものとなり申し分けありませんでした。
それではまとめさせていただきます。
一、星野親忠、星野治部左衛門は
      九州筑後八女星野村の出身の1226年『征西将軍の宮懷良親王の南朝方として戦う』星野胤実から続く十一代胤泰の弟常陸の介親忠です。1586年代没落まで終始一貫南朝方として戦い抜いた星野一族です。星野家が伝える1610年代火縄銃田布施流秘伝書に登場人物で新井孫兵衛秀重がおります。
二、新井孫兵衛秀重は
     あの新田義貞、新田義房の弟荒井覚義、の系です。
新井義助、義貞、新井義基が懐良親王に従って戦う。その子義氏、孫義高その孫義通
九州菊地氏、ともに戦う。これがまさに星野親忠家臣なのです。そして新田源氏の地にカムバックしたのです。
三、深沢城主、桃井氏系阿久沢氏、黒川郷士
      豊前に新田氏に従った足利氏流桃井氏の一族が南朝方で戦い星野親忠と共に新田源氏の地に入郷したのです。『先に阿久沢氏がいるところに』
後醍醐天皇、南北朝、皇子、九州での戦い、
星野氏、新田氏 、菊地氏、桃井氏、懐良親王に従った一族が、あかがね街道、足尾郷、に入郷した意味は❓
新井白石氏が徳川氏ゆかりの長楽寺の古文書を調べたおり、自分の系も新田源氏、そして
近衛前久公が長楽寺を訪れております。何をかたったのか❔
大内氏、上杉氏、星野親忠氏
が知っている。
以上まとめてみました。   
火縄銃田布施流秘伝書の登場人物、三人のうち
新井孫兵衛秀重、、、『前回書き込み』
吉田太郎右衛門直次、、『時代が下がります、1612年から1640年代まで新井氏により伝授。
その父親である吉田太郎右衛門春安一族の墓より吉田太郎右衛門直次?が判明』この直次の父親である吉田太郎右衛門春安を次回に追究したい。『山先案内人とされております。』
久保内近助景次、、、足尾郷の祖
九州地方、中国地方、追究しました。どこにも出て来ません。ちょっと待って前回の失負を思いだして、
大石内藏助良雄、、内藏助は官名、大石良雄が、、。
久保内近助景次、、、、、、、、、久保景次が、、。
この久保氏、やっと見つけた。
筑前国守護、武藤流、藤原秀郷系の久保氏です。少弐氏の重臣におります。そして筑後星野村近郊に久保姓がおります。
1535年大内氏に攻められた。菊地氏、少弐氏、南朝軍が負け、和睦。この時点に星野氏は出て来ません。
もう九州脱出していたのです。
星野氏と久保氏と新井氏と一族が世紀の大脱出したのです。
以上田布施流秘伝書の登場人物3人が解明されました。が吉田太郎右衛門春安伝者の父親を追究したいと思います。
 
▽                                                                                                                                    

>この星野治部左衛門と云う名前は近衛氏にいただいたのです。そして朝廷に指名されたことになります。これにつながる歴史遺物があります。
この二代目は隼人親政が星野治部左衛門となります。そして星野久之じようの子供となります。これで一族一統です。

日光山御領地 足尾鉱山
朝廷、近衛氏、大内氏、上杉氏、星野氏
は日光山のたから物として守ってこられたのです。
これは後にすごい力になりました。
そしてこの地は特別なものとしてされておりました。
日光山輪王寺が皇室のものとなり代だい続いてゆくのです。 」

源流さんのブログより

カササギ様
丁寧な説明と提示ありがとうございます。
私も一とうり勉強させてもらいました。
(インターネット上)
星野氏、星野氏の歴史
(出販本、上)
越後相川城の歴史、新人物往来社、
あえて人名はだしません。(インターネット上に日光山星野氏で2へイジに出ます)
星野親忠氏の九州脱出劇が見られる。
私は歴史上の議論は歴史家にまかせます。
私の手もとにあるものを取り上げ、自分なりに勉強し表現し、納得し書くのです。
ウタマル様は?
また交信します。

ありがとうございます!
なるほど、たしかにそうですよね。

わたしは本を出版元にたのんで2週間たっても、うんともすんともいってこないので、アマゾンにたのみなおしたしだいです。

うたまるさん。そうだった。つい連絡をとりそこねました。源流様がメールアドレスをおしえてくださらなかったので。これ、かんがえなおしてみます。

台風がいってしまったら、またあつくなりました。
賢順コンクールの優勝者が演奏した曲目の作曲家、伊福部昭についてしらべていると、たちまち日光にひきもどされました。
日光、にっこう、にっこう。
ああ、まだなんにもしていません。ごめんなさい。

こんな文章がのっています。↓

 ぼくには思い込むところがあって、「とにかくこういう先生につかなきゃ」と一途に思ったわけですよね、そのとき。それで二回目の授業のときに、先生につきたいから自宅へ行きたいといったら「私は日光に住んでます。日光まで来るのたいへんです」。
 ぼくは学校の総代とかいう世話役をやっていたんで、授業が終わってから学友会の仕事をして、夕方、浅草から東武電車に乗った。そのときは雪が降ってきて、当時の電車は電灯がつかなくて真っ暗なんですよ。窓という窓はガラスが一枚もない、板が張ってあったりして。それで日光へ着いたんですよね。着いたら真っ暗。大体、道を教わっていたんだけれども、山の中を手探りなんですよ。ポチッと光りが見えたんです。それ以外、光りがないから、そこだろうと思って・・・・・・。コンコンとドアをたたいたら、奥さんが出てきて先生が出てきて・・・・・・三日三晩泊り込んだんです。伊福部さんは自分の昔の「交響譚詩」だとかいろいろな作品のスコアを見せてピアノを弾いた。当時、食糧事情の非常に悪いときで、奥さんが苦労しておイモやなんかで今川焼みたいなのをつくって下さった。三日間も不意の来客で、さぞご迷惑だったろうと思うんですけれども。学校なんかすっぽらかしちゃって。

(「芥川也寸志 その芸術と行動」東京新聞出版局 収録“芥川也寸志、芥川也寸志を語る”より抜粋)

源流さんには申し訳ないのですが、わたしのなかではずらずらっとつながっているので、寄り道をおゆるしください。なにしろ、ふりかかってくるのです。あちらから。

伊福部昭の自伝、北の賦、ここで一気によみます。笑。
おもしろいことに、このいふくべ、という家は、鳥取の大黒天の代々続く名家の66代目で北海道へ渡っている家なんですね。それはなぜなのかが第一回目にかかれている。ふうん。
こないだの黒木瞳の父方の樋口家も金山で尾羽打ち枯らして北海道へわたった、というのがありました。なるほどです。

きのうからよみはじめました。
「足尾銅山発見の謎」
とてもおもしろいです。
わくわくします。
三分の一よみました。
とちゅう、やまもとけんきちがでてきたのにびっくり。
59頁末。
写真がたくさん掲載されていて、星の本家の、いかにも旧家という一枚は風格をかんじます。どくとくな庭木の刈り込み方、おだんごをかさねたような。
また、表紙写真の、かさとばとごりんのとうのでかいこと。こんなにおおきいのははじめてみました。
二メートル以上もあるなんて。

ことし一月末、国東のふきじ(富貴寺)でみたかさとばは、五輪塔と合体したようなかたちで、あれは、くにさき塔となづけられていたっけが。古い時代のものでした。(たしか室町期)
かささぎの名前をクリックしたら、写真が出ます。

カササギ様
ご無沙汰しております。
現在、田布施流秘伝書に登場する
新井孫兵衛秀重
吉田大郎右衛門直次
久保内近助景次を
追求しております。あかがね街道に隠密警備隊(鉄砲隊)として3か所に分かれ警備しておりました。この追求のため現地へ出向けるためなかなかブログ、の時間がとれませんでした。

源流さん
池野亮子さんの本をいっきによめたのは、こころに、ほしのじぶざえもんの血のふるさとは筑後の星野なんだろうか?それがかかれているだろうか?そしてそれは、やはり鉱山つながりだったのだろうか。
という思いが強く在ったからです。
本の内容は地味ながらもおもしろかったのですが、とうとうそれ以前の歴史まではたどれぬままでした。
源流さんのブログ記事は、どういえばいいか、断片的過ぎて、わたしにはさっぱり歯がたたないのです。
いちばんきになったのは、馬琴で、これ《↓》以前にどこかでよみながしてたきがする。おもしろいものね。(江戸時代の浮世絵にUFO?うつろ舟)

「九州南北朝争乱(A4版391頁)
懐良親王と九州征西府」

ができたそうです。

著者・近藤靖文

(このかたのおなまえは、山下整子さんの話の中でも星野大円寺ご住職のおはなしのなかでもでてきました。また、nhk黒木瞳ファミリーヒストリーにも出演されています。ひとみさんのご先祖の武将の墓に案内される郷土史家の先生として)

10年の歳月をかけ取材・新たな資料収集により

書き上げた歴史書「九州南北朝争乱」発売決定!

定価 3,000円
只今、送料無料にて販売中

電話 0944-72-0074

携帯 080-6416-5403

(まるごといんようしたものです)

かささぎ様
大変ご無沙汰してます。色々と御気使いありがとうございます。早速買おうと思います。
まずは今、御報告しておきたいことがあります。田布施流秘伝書に登場する三名の名、筑前地方におります。『北九州市、自然史、歴史博物館』に確認をお願いしたところです。出てきてくれるとありがたいのですが、、、。

                         

2015年9月 8日 (火)

銅山の間歩を掘る

銅山を掘る

銅山を掘る

銅山を掘る

銅山を掘る

上の写真は「らとう」の紹介。

サザエの貝殻に油をいれて懐中電灯のように使った。
漢字で、「螺灯(らとう)」、螺鈿のら。
まっくらのなかであります。ひるもよるもない、とこやみ。
それが坑道、まぶ。間歩です。

銅山を掘る

のみは逆手で持つ。

2015年9月 2日 (水)

日光の星野源流氏、コメントまとめ

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-f2aa.html

へのコメントまとめです。
かみあっていない部分は、どうかごかんべん。
かささぎなりのことへのたちむかいかたです。

源流さん、しらべうたまるさんが連絡をとりたがっておられます。
こんどコメントなさるときに、メールアドレスをかいてもらえませんか。
コメント本文ではなく、

コメントを書く

のところの、にばんめ、

メールアドレス:(任意) (ウェブ上には掲載しません)

(この部分です。そうすれば、ネット上にさらされることはありません。)

コメント

カササギ様
ありがとうございます。足尾郷の星野氏が九州の星野氏と続くと思った第一の歴史遺物がこの佐野天明の(今現在も続く)鋳物氏に鑑定をお願いに上がった時です。
1、90センチ経の銅鍋(佐野天明製)他数こ
2、チヤガマ(利休)以前の湯釜(鋳物氏いわく)この湯釜が砂鉄で作られている。白く光っている。(40センチ経)ここから始まって九州芦屋釜が浮かんだのです。この記念館に尋ねたら今までに見たことがない。そうです
この時代九州に勢力のあった大内氏の元芦屋釜が
運営されておりました。
それがみごとに現存しておりました。時代が下がって数々の古伊万里の品品です。
その中に初期以前の(裏名窯山)大皿がまぎれていました。(肥前焼き記念館)に他の品を鑑定しこの大皿はムグッテしまいました。
そして田布施流秘伝書です。
私は大内領、山口県田布施町の田布施流と思っております。
そしてこの大内氏は朝廷と深く関わり、徳大寺、近衛氏と深くつながり
星野氏の歴史をインターネットで調べ九州の星野氏へ続いたのです。
たの歴史遺物もありますが長くなりますのでまた書き込みます。

源流さん、補足してくださり、ありがとうございます。
田布施は長州のだろうなとすぐ思いました。
これまであちこちブログ記事をのぞいてきたことと、つながるところが多々あります。
蔵を見学したいものです。

うたまるさんが日光にいかれるそうですが

うたまるさんが同族代表で源流さまの蔵をみてこられたらなあ。
と、ひとり、おもいました。
確か今週末に行かれるご用がおありとか。
日光ならまさに!と思ったのでした。

芦屋釜とは?
調べてみた。
👇

カササギ様
ウタマル様は調さんですか?日光へ来られる?
お互いに連絡方法があるとよいのですが
このブログ上に私の電話番号を公開するのはちょっと抵抗があります。
写真等送れる方法もあると思いますが考えていただけないですか?
歴史遺物も九州につながるものが他にあります。九州、足尾、新潟とつながつたわけですから良い連絡方法を探しましよう。

源流さん、ありがとうございます。
調うたまるさんは連句に何度か入って下さいました。
ですから俳号で呼びますが、星野大円寺の資料館にある系図にお名前があると言ってありました。
私たちがまだ知らない家に伝わる口伝の類いも、同族でいらっしゃるなら、話しやすいことでしょう。
資料をみて、新しい展開があるとすれば、歴史の空白が埋まります。
連絡は源流さまのメールアドレスをコメント欄の、メールアドレス記入欄に書かれて下さい。かささぎの旗の編集人にしか、見えないようになっています。
それを、調さんへ取次ぎます。
調さんがなぜ日光へ行かれるのかを知りませんが、先月は高野山で雅楽奏上なさったと書かれていましたし、もしや、その雅楽奏上の旅であるのかもしれません。
とりあえず、よろしくお願い申し上げます。
かささぎも、ゆっくり時間かけてあちこち旅ができる身空になりたいものです。笑

まだあれから源流さまのブログに行けていませんが、
私はこないだの訪問で、日光東照宮に家康以前の歴史があったことを知り、びっくりしました。
東照宮といえば、家康を祀る廟とばかり思い込んでいました。
なにも知らないといっても過言ではありません。
ですから、興味しんしんです。
星野金山と足尾銅山、どっちが古いのですか。
あの女性研究家の、じぶとくら、注文したのですが、まだ来ません。。。

カササギ様
本を書かれた方と一緒に星野治部左衛門を探し研究していました。時代が食い違ってしまいました。私は彼女には非常に感謝しており彼女の本があつたおかげで星野治部左衛門が完結したのです。
手前味噌ですが私のブログがすべてを語っています。一番古いものから読んでください。

そうでしたか。

あすは休めますので、ゆっくり伺います。

記事の見出しだけあるのが、すごく気になり、よみたくなりますね。

カササギ様
忙しいところありがとうございます。
星野親忠、が星野治部左衛門である。という
ポイントが2こあります。
1、桐生仁田山城に里見氏が居住しているその子供が上杉謙信に人質として預けていましたもちろんこの地は上杉謙信領域であかがね街道の出口です。この仁田山城が落城してしまいます。
そのおおえん仇打ちに預けられた子供2名が仁田
山城を取り戻しに来て帰りうちに(今もいい伝えがあり、売店で里見饅頭が売られています、)
、その地に星野治部左衛門の孫の蔵人が弔いを兼ねあかがね街道出口を守りに下った。その星野蔵人の末裔の方ともお会いしております。(彼女の本に登場します。)

実は、源流ブログを読みつつ、あちこち調べていました。
ダウジングと質問することとは似ている、という記事を開いてついつい読んでると、画面がブチ切れ、暗転してしまいました。まだパソコンは起動せず。
携帯から入力しています、

不思議だと感じた、
三十三間堂通し矢物語、星野勘座えもん字がちがうか、長谷川一夫にやらせて、成瀬巳喜男という人は、敗戦直前に時代劇映画を撮っている。
これが私はみたい。
星野氏の熱田流の一派らしい。
星野氏はすごいなあ。

すみません、いつも、遠くからものを投げるような受け答えをしまして。

ほしのじぶざえもん、という名前は
ほしのかんざえもん、に似ている。

パソコン、復旧しました。
昭和20年6がつの映画、「三十三間堂通し矢物語」のサイトをかささぎの名前にはりつけておきます↓。
きっとふかい意味があるようにかんずるので。

以下を星野氏のサイトの、筑後の星野氏から転載します。足尾銅山の開拓者としてあらわれる星野氏をよむまえに。

 中世、星野村を中心に威を振るった星野氏は、その祖を星野胤実と称し黒木助能の猶子で、京都に生まれた
    という。嘉禄二年(1226年)、京都から当村に来たと伝え、本拠を本星野に置き、天正年間(1573~92)末まで
    勢力を誇った。(『角川日本地名大辞典』より)     
    胤実は源助能(黒木大蔵大輔源助能)の猶子で、徳大寺実定の子と伝えられており、黒木氏(黒木助能)は
    多田行綱の子と伝承されて来ているが、最近の研究の醍醐源氏有明親王の後胤源高能五代説が有力と思われる。
    《以下、黒木町史より》「黒木氏の祖先は京都御所を守る武士であったが助能の四代前の源高能が朱雀天皇の
    命により、太宰府を焼き払った賊、藤原純友を四国へ追い払った先祖の功により大隅国根占城主となると伝えられて
    いる。高能の代から京都在住の徳大寺家とは親交のある関係から、瀬高庄の紛争解決とその後の監督、支配の為、
    父能永と黒木庄に移ったのである。その年代は史料や系譜によって一致しないが、『根占文書(九州史料刊行会編、
    『九州史料叢書』)』と『大根占町誌』により仁安元年(1166年)頃と推定される。」
     
    『九州治乱記(北肥戦誌)』に、「黒木山の城に蔵人源助善(能)という者あり、其の先は薩摩の根占の蔵人とも
    申しけり、歌よみにて笛の上手なり。」とあり、高倉院の御宇、源助能が大番役にて上洛した折りの内裏での管絃
    の御遊に、助能の笛の器量を兼ねてから良く知っていた徳大寺左大臣實定卿の勧めにより笛を奏で、帝の叡感に
    預かり調(しらべ)の姓と従五位下を賜った旨が記されている。又、「蔵人助善(能)、元来高倉院北面の侍なり。
    六位を歴、歌人にて、異名にやさ蔵人と云う。」との記述がある。※助善を或いは助能と記されている。
    別史料(『樋口宗保覚書』‐1669年、『北筑雑藁』‐1675年)などには、後鳥羽院の御宇とあり、「懐胎せし官女
    小侍従を賜る」ともある。 ※黒木山の城→猫尾城
      
     胤実は童名を八郎丸といい京都樋口小路に産まれ、小侍従の家と由緒あった樋口次郎太郎藤原実安が元服
    させ、その後、後堀川帝より星野を拝領あって星野へ下向し、黒木の小侍従と母子の対面を成し、助能の猶子と
    なり、これより黒木氏、星野氏は調(しらべ)党と号すことになり次第に繁栄する。(『樋口宗保覚書』より)      
    ※樋口氏と小侍従の家との由緒とあるが、樋口氏と徳大寺家との由縁もあるものと思われる。
      
    『太宰管内志』に収載されている星野氏の事跡を辿ってみると、「多田蔵人行綱の子大蔵大輔源助能、云云。
    助能の子に川崎三郎貞宗、次に星野中務大輔胤実、次が女子で、次が黒木四郎定善。胤実は星野氏の鼻祖で
    幼名を八郎丸と云う。母者は待宵ノ小侍従といって、京都樋口小路の産まれで徳大寺実定卿の子か、或いは
    後鳥羽院の皇子にして実定卿に託して子と成したとか。」とある。
     ※徳大寺実定(後徳大寺左大臣)→藤原北家閑院流公実の曾孫、保延5年(1139年)~建久2年(1192年)      
      
     続いて『太宰管内志』に【堀川院の時胤実は筑後国星野を賜り、嘉禄二年十一月星野に館を構えて本星野に
    居る。且つ星野山中に内城高岩城を築き、其の後子孫は繁栄し生葉・竹野両群を領してゆく。家紋は〔亀甲藤丸〕
    とす。八郎丸は長じて胤実と名乗り常陸介・中務大輔を称す。胤実には二子があり、長を鎮実と云い右近大夫と
    称す。本星野館に居り、後、延壽寺村に福丸城を築き移って福益館に居る。次を実隆と云い、樋口次郎太郎実安
    の養子となる、三郎二郎越前守と称す。兄の譲を受けて本星野館に居る又十籠館とも云う。鎮実の子星野民部
    大輔鎮能、其の子星野宮内小輔鎮行、其の子星野八郎元行、其の子星野志摩守元実、其の子星野民部大輔
    元親、其の子星野下總守親実、其の子星野志摩守鎮忠、其の子星野中務大輔鎮種、鷹取城に居る。
    鎮種の子星野下總守実世は福丸城に居る。実世の子星野伯耆守職泰福丸城に居る。職泰の子伯耆守元康は
    本星野館に居る。次に樋口実房、元康の子星野下野守鎮康は石垣邑中山城を築く。鎮康の子星野中務大輔
    吉實、次に星野右衛門太夫重実、吉實は福丸城に居り生葉群三十二村竹野群東郷五百町を領す。星野中務大輔
    吉實は戦国時代の人で、この頃豊後の大友氏と肥前の龍造寺氏と常に争って戦乱が止むことがなかった。
    吉實自立していずれにも偏せず。龍造寺隆信が黒木に侵入するや、星野氏黒木氏同盟して猫尾城を守る。
    大友氏は偽って竹尾外記なるものを猫尾城に入れ、奸計をもって吉實を殺す。この後黒木氏は龍造寺氏に属す。
    常陸介親忠跡を嗣ぎ、驍勇を以て名がある。天文元年大友義鑑の兵が来攻する時、妙見城を守りて天文三年
    (1535年)九月十三日に死す。その子伯耆守正実は福丸城に在ったが、大友勢に攻められて周防(山口県東部)に逃る。
    この後星野氏は大友氏に属し、右衛門太夫重実は、大生寺村立石城の門注所氏を逐ってその跡に住む。重実死する後
    福丸城に高実がいたが、大友氏の命により蒲池氏の鎮泰(母は星野氏の娘)を養子に入れて星野氏を嗣ぎ白石
    城に居る、後福丸に移り肥後勝山にて戦死する。右衛門大夫鎮虎は、白石城に居たが龍造寺氏に襲われて、
    豊後に奔り、弟鎮胤(吉実)は初め福丸城その後高取(鷹取)城に居たが、やがて島津義久に属し、天正十四年
    (1586年)八月二十五日筑前高鳥居にて討死、次の弟鎮元(吉兼) も同じく戦死する】とある。
 
     高鳥居山(たかとりいやま)は若杉山山脚の西に続く草山也。往昔若杉太祖宮二之鳥居の建つ所に因んで、
    地名と為す、俚俗 は竹城と呼ぶ。蓋し小笹族生ずるを以て也。海抜三百八十一米東方は若杉に、南方は上須恵
    に、西方は須恵に突属し、山上に高鳥居城址在り。若杉山の渓より引水を為す溝渠有り、十間戸樋と云う。これは
    古え城中之用水を引く所也。東方の第一峰を飯焼と云い、最西方を草城と云う。九州探題北条貞時之臣、河津氏
    が初めて高鳥居に築城するが北条氏滅亡より宗像大宮司の持城となりその後様々な氏が城主となるが天正二年
    冬よりは空城となる。天正十四年筑後高取(鷹取)城主星野中務大輔吉実、星野民部少輔吉兼、島津氏の催促に
    応じ八百人を率い筑後を発し、岩屋根城を攻略し、筑前高鳥居城に入り、直ちに城櫓を修し、守備を厳にす。
    八月十六日秀吉の先手が長門を発して豊柳ヶ浦に押し渡り、島津勢は陣払いを為して引退す。八月二十五日、
    立花勢は進んで高鳥居城を囲む。初めより星野吉実、吉兼、高鳥居城を守りて生還を期さず。其の子、長虎丸を
    使しめて、筑後に帰す。吉実主従自ら殉節を為し、草城十五詠を作り、辞世とする。(「竹城址蹟碑文」より)
     ※星野吉実、星野吉兼、主従は武士としての道を貫く為に、武士の本懐を遂げる為に死んで行った。撤退して
     星野に戻り領民を巻き込み無駄に故郷を血に染めたくはなかった、義のために命を捧げた。武士とは義の為に
     自己を犠牲に出来る人の事を言うのかもしれない。

>この星野治部左衛門と云う名前は近衛氏にいただいたのです。そして朝廷に指名されたことになります。これにつながる歴史遺物があります。
この二代目は隼人親政が星野治部左衛門となります。そして星野久之じようの子供となります。これで一族一統です。

日光山御領地 足尾鉱山
朝廷、近衛氏、大内氏、上杉氏、星野氏
は日光山のたから物として守ってこられたのです。
これは後にすごい力になりました。
そしてこの地は特別なものとしてされておりました。
日光山輪王寺が皇室のものとなり代だい続いてゆくのです。 」

源流さんのブログより

カササギ様
丁寧な説明と提示ありがとうございます。
私も一とうり勉強させてもらいました。
(インターネット上)
星野氏、星野氏の歴史
(出販本、上)
越後相川城の歴史、新人物往来社、
あえて人名はだしません。(インターネット上に日光山星野氏で2へイジに出ます)
星野親忠氏の九州脱出劇が見られる。
私は歴史上の議論は歴史家にまかせます。
私の手もとにあるものを取り上げ、自分なりに勉強し表現し、納得し書くのです。
ウタマル様は?
また交信します。

ありがとうございます!
なるほど、たしかにそうですよね。

わたしは本を出版元にたのんで2週間たっても、うんともすんともいってこないので、アマゾンにたのみなおしたしだいです。

うたまるさん。そうだった。つい連絡をとりそこねました。源流様がメールアドレスをおしえてくださらなかったので。これ、かんがえなおしてみます。

台風がいってしまったら、またあつくなりました。
賢順コンクールの優勝者が演奏した曲目の作曲家、伊福部昭についてしらべていると、たちまち日光にひきもどされました。
日光、にっこう、にっこう。
ああ、まだなんにもしていません。ごめんなさい。

こんな文章がのっています。↓

 ぼくには思い込むところがあって、「とにかくこういう先生につかなきゃ」と一途に思ったわけですよね、そのとき。それで二回目の授業のときに、先生につきたいから自宅へ行きたいといったら「私は日光に住んでます。日光まで来るのたいへんです」。
 ぼくは学校の総代とかいう世話役をやっていたんで、授業が終わってから学友会の仕事をして、夕方、浅草から東武電車に乗った。そのときは雪が降ってきて、当時の電車は電灯がつかなくて真っ暗なんですよ。窓という窓はガラスが一枚もない、板が張ってあったりして。それで日光へ着いたんですよね。着いたら真っ暗。大体、道を教わっていたんだけれども、山の中を手探りなんですよ。ポチッと光りが見えたんです。それ以外、光りがないから、そこだろうと思って・・・・・・。コンコンとドアをたたいたら、奥さんが出てきて先生が出てきて・・・・・・三日三晩泊り込んだんです。伊福部さんは自分の昔の「交響譚詩」だとかいろいろな作品のスコアを見せてピアノを弾いた。当時、食糧事情の非常に悪いときで、奥さんが苦労しておイモやなんかで今川焼みたいなのをつくって下さった。三日間も不意の来客で、さぞご迷惑だったろうと思うんですけれども。学校なんかすっぽらかしちゃって。

(「芥川也寸志 その芸術と行動」東京新聞出版局 収録“芥川也寸志、芥川也寸志を語る”より抜粋)

源流さんには申し訳ないのですが、わたしのなかではずらずらっとつながっているので、寄り道をおゆるしください。なにしろ、ふりかかってくるのです。あちらから。

伊福部昭の自伝、北の賦、ここで一気によみます。笑。
おもしろいことに、このいふくべ、という家は、鳥取の大黒天の代々続く名家の66代目で北海道へ渡っている家なんですね。それはなぜなのかが第一回目にかかれている。ふうん。
こないだの黒木瞳の父方の樋口家も金山で尾羽打ち枯らして北海道へわたった、というのがありました。なるほどです。

きのうからよみはじめました。
「足尾銅山発見の謎」
とてもおもしろいです。
わくわくします。
三分の一よみました。
とちゅう、やまもとけんきちがでてきたのにびっくり。
59頁末。
写真がたくさん掲載されていて、星野本家の、いかにも旧家という一枚は風格をかんじます。どくとくな庭木の刈り込み方、おだんごをかさねたような。(あれはひょっとして、石?)
また、表紙写真の、かさとばとごりんのとうのでかいこと。こんなにおおきいのははじめてみました。
二メートル以上もあるなんて。

ことし一月末、国東のふきじ(富貴寺)でみたかさとばは、五輪塔と合体したようなかたちで、あれは、くにさき塔となづけられていたっけが。古い時代のものでした。(たしか室町期)
かささぎの名前をクリックしたら、写真が出ます。

2015年8月15日 (土)

「破地獄の文(もん)」と呼ばれる偈(げ)についての水月さん解説

コメントまとめ

「自致不退転」へのお尋ねについて

これはこれは『仏説無量寿経』下巻の「往覲偈」(あるいは「東方偈」)の中に出てくる一句です。普通はその前の「其仏本願力 聞名欲往生 皆悉到彼国 自致不退転(その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到りて、おのづから不退転に致る)」という四句で用いられます。なぜ最後の「自致不退転」だけなのかはわかりかねます。

この四句については伝説がありまして、法然聖人は次のように述べられています。

「其仏本願力 聞名欲往生 皆悉到彼国 自致不退転」といふ文あり。
漢朝に玄通律師といふものありき。小戒をたもてるものなり。
遠行して野寺に宿したりけるに、隣房に人ありてこの文を誦す。
玄通これをきゝて一両編誦してのち、おもひいだす事もなくてわすれにけり。
そのゝち、この玄通律師戒をやぶれり。
そのつみによて閻魔の廳にいたる時、閻魔法王の給く、なんぢ仏法流布のところにむまれたりき、所学の法あらばすみやかにとくべしとて、高座にのぼせ給ひき。
その時玄通高座にのぼりておもひめぐらすに、すべて心におぼゆる事なし、野寺に宿してきゝし文あり。
これを誦せんとおもひいでゝ、「其仏本願力」といふ文を誦したり。
しかば閻魔法王たまのかぶりをかたぶけて、これはこれ西方極楽の弥陀如来の功徳をとく文なりといひて礼拝し給ひき。
願力不思議なる事、この文に見えたり。

要するに、玄通律師という人が閻魔法王の前でこの四句を誦したら、地獄をまぬがれたということで、古来「破地獄の文(もん)」と呼ばれています。

親鸞聖人もこの文を重視され、次のように丁寧に解説されています。

「其仏本願力」といふは、弥陀の本願力と申すなり。「聞名欲往生」といふは、「聞」といふは如来のちかひの御なを信ずと申すなり、「欲往生」といふは安楽浄刹に生れんとおもへとなり。「皆悉到彼国」といふは、御ちかひのみなを信じて生れんとおもふ人は、みなもれずかの浄土に到ると申す御ことなり。「自致不退転」といふは、「自」はおのづからといふ、おのづからといふは衆生のはからひにあらず、しからしめて不退の位にいたらしむとなり、自然といふことばなり。「致」といふはいたるといふ、むねとすといふ、如来の本願のみなを信ずる人は、自然に不退の位にいたらしむるをむねとすべしとおもへとなり。「不退」といふは仏にかならず成るべき身と定まる位なり。これすなはち正定聚の位にいたるをむねとすべしと説きたまへる御のりなり。

ここには親鸞聖人独特の解釈もあるので、簡単に要約すれば、阿弥陀さまはお念仏申すものをかならず浄土に生まれさせるとお誓いになった、そのとおりお念仏を申し、南無阿弥陀仏という名を聞いてお浄土に往生したいと欲(おも)うものは、阿弥陀さまのお力によって(本願力)、みなことごごとくお浄土に生まれさせていただいて、おのずから仏道修行を退転しない位に至るのだ、ということです。 このとき、不退転の位に至るのはお浄土に至ってからのことですが、それをいま生きているあいだに至ると解釈されたところに親鸞聖人独特の領解(りょうげ)があるのですが、省略します。

ともあれ、「自致不退転」は「其仏本願力」等の四句の最後の一句であって、最初に述べたように、これだけ取り出して刻むというのは理解しがたいことです。「其仏本願力 聞名欲往生、皆悉到彼国」があってこそ、「自致不退転」が成立するからです。よほど「不退転」という境地に到達することを願ったからでしょうか。何ともわかりかねます。

冒頭の「これはこれは」は間違いです。「これは」だけです。

水月さま。
さすがプロの御坊様、きちんと解説してくださってありがとうございました。
じつは、池野氏は「自致不詳転」と読まれていて、意味が取れないことばだと書かれていました。
そこでわたしは写真にとって拡大してみたのです。
つまびらかという漢字ならごんべんですが、草書体になるとさんずいやにんべんやしんにゅうなどとまったくみわけがつかぬことが多いので(くずし字辞典参照)、きっとほかの字のよみまちがいだろうとおもったのです。
あたりをつけて、これは退だと読み、ことばをぐぐってみたところ、大経にあるようにでました。
まちがいないと確信し、確認の為、お盆でおいそがしいにちがいない水月様にどういう出所のことばなのかを聴いてみた次第です。

すいげつさんが現物をみられたら、もっといろんなことがわかるかもしれませんねえ。

弘長二年の銘をもつ、おなじ偈をきざんだ板碑をネット上に発見。
弘長二年は1262年です。ずいぶん古いですね。

↓鎌倉光明寺

http://www.geocities.jp/kawai5510/kanagawa-koumyouji.html

足尾の大円寺跡の碑はいつぐらいのだろうか。

一方、星野金山は

ほしの【星野[村]】

福岡県南部,八女(やめ)郡の村。人口4103(1995)。矢部川の支流星野川の上流域に広がる開析された溶岩台地を占める。かつては生葉(いくは)郡に属し,この地を領した星野氏は13世紀末に採掘が始められた星野金山によって栄えた。金山は大正期に最盛期を迎えたが,1943年閉山した。杉,ヒノキの良材を産し,八女林業の中心地である。農業では〈星野玉露〉に代表される八女茶,花木,高冷地トマト,シイタケも栽培する。

世界大百科事典第二版より

きのう、お盆参りにいき、やめの鉱山についてはなしをきいてきました。
星野だけではなく、もっと手前の上陽・木浦の銅山や山内にも銅がとれる間歩があったそうな。
しらべたら、きうらというところは、おぼろおおはしのある近くみたいです。

星野村の星野氏が足尾へわたったと考えることも自然です。

2015年8月14日 (金)

自致不退轉の笠塔婆を遺す大圓寺跡

自致不退轉の笠塔婆を遺す大圓寺跡

「聞く往昔大圓寺となむ呼べる伽藍ありて、鉱山師の骨多く是にうずめきと《※》。
断礎今に在せり・・・」

かささぎ註:

うずめき、の埋めるの漢字がはじめてみる文字でした。

変換漢字をさがしきれず。やまいだれの中、三人の人と土と重しがある字。

自致不退轉の笠塔婆を遺す大圓寺跡

     栃木県日光市足尾町の専念寺=かつてここに大圓寺があった。

池野亮子(いけのあきこ)著『足尾銅山発見の謎』《随想舎刊》より引用。

昨夜なにげなくつながった古賀の達也さんの古い記事をよみかえしていた。
平成十三年冬ごろに在りし日の父上といかれて、大圓寺ご住職にあわれたことをしるされている文である。

五六年前に読んでいたはずなのに、まったく目に入っていなかった。
古賀達也さんというおかたは、じつは星野一族であったこと。
浮羽のひとだったこと。

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai6/hosinomu.html
『八女郡星野村行』古賀達也

あっちゃー!

ちょうどのところに、ジャストミートな石がでてくるよねえ。

古賀姓の達也さんの記事で、もうひとつよむ。

久留米藩宝暦一揆の庄屋たち

西溝尻村庄屋六朗左衛門と百姓勘右衛門

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou66/kai06606.html

これよんでいるとね、庄屋なのに百姓とかかれています。
足尾鉱山発見者が「百姓の治部と内蔵」という身分表記として歴史に残っていることと、どこか通じるものをかんじます。
もうひとつ、一代おきに襲名しているところが、足尾の星野氏とも似ている。

おもしろいね。これ、きっと歴史学の最先端ではなかろーか。

星野氏の鉱脈、じゃない、光脈をおえば、あらたな歴史がみえる。

 

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