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2009年5月26日 (火)

今朝の 『親鸞』

今朝の 親鸞

2009年5月 6日 (水)

六角堂

仕事で六角堂広場のもよおしの雑踏警備を請け負った去年。
そのときには六角堂っていうのは久留米市民のための広場のなまえ、くらいの認識しかなかった。広場についた名前にしては六角堂だなんてね。くらいのかんじ。

それが西日本新聞の五木寛之の連載小説『親鸞』を読んでいて、六角堂が出て来たことにおやと思う。
38歳の親鸞が(未だしゃっくう、という名前のころ。綽空)、京の吉水の六角堂に百日のあいだ籠る。そのおわり近くになって、聖徳太子の夢のお告げがある。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E9%B8%9E#.E5.85.AD.E8.A7.92.E5.A4.A2.E5.91.8A
わたしは親鸞のみ教えの真宗を信ずる家で育ったけれども、そういう親鸞の出自については知らないできた。

上記の資料から、気になるいくつかをこぴぺする。カラー部分は引用文です。

1 改名について。

「綽空」から「善信」に改めたのではなく、「善信房綽空」から「善信房親鸞」に改めたとする。法名は、自ら名告るものではないため、「親鸞」の法名も法然より与えられたとする。
親鸞は、晩年の著作にも「善信」と「親鸞」の両方の名を用いている。また越後において、師・法然より与えられた「善信」の法名を捨て、「親鸞」と自ら名告るのは不自然である。

2 妻帯

    妻帯の時期などについては、確証となる書籍・消息などが無く、諸説存在し推論である。

    当時は、高貴な罪人が配流される際は、身の回りの世話のために妻帯させるのが一    般的であり、近年では配流前に京都で妻帯したとする説が有力視されている。

3 法難

  このくだりで「行空」が出てきます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E5%85%83%E3%81%AE%E6%B3%95%E9%9B%A3

 目下かささぎは親鸞より「行空」が気になるので、その部分のみコピペ。

しかし『六時礼讃』に節をつけて勤める法会で人気を博していた安楽房遵西法本房行空が、非難の的にされた。法然は、行空を破門処分するもののの事態は収まらなかった。

この文章の要点、当時の最高権力者であった後鳥羽上皇が寵愛していた松虫・鈴虫というふたりの女性が、世を憂いて出家してしまう。それを知った上皇は激怒していかりの矛先を僧門籍へ持っていった、という流れの一部。てことは、おもいきり単純なかささぎ語にしてしまうと、ただの男、オスとしての後鳥羽上皇の嫉妬がふたりのきれいなお坊さんのちんこのじゆうを断ってしまった。ということになるんだろうかなあ。おおっと、放送禁止用語でした。下品でごめんなさい。何しろかささぎですから。

5 行空(ぎょうくう)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E7%A9%BAより丸ごとコピペをごめんなさい。

ところが翌年(1205年)、興福寺の僧徒らが『興福寺奏状』をもって再び専修念仏停止の訴えが起こると、行空は「一念往生義」を立てているので流罪にせよと訴えられた。そして建永元年(1206年)、遵西とともに流罪に処せられ、法然より破門された。なお、この2名の流罪では収まらず、翌年承元の法難へと発展した。

※かささぎの独り言:

このあいだ、星野村の黒木谷、こうやんどう「高野堂」からみで行空を検索したとき、上記の項目はヒットしませんでした。その後どなたかが書き足されたものと存じます。ありがとうございました。だけどだけど、どなたか、ふたたびかささぎの次の疑問に答えてはくださいませんか。

一つ。女犯の罪で行空はもうひとりの僧とらせつの刑に遭う。とあります。↓

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%88%91「宮刑」

実際の執行例としても、土御門天皇の代、1207年(承元元年)に法然の弟子である法本坊行空と安楽坊遵西が、女犯の罪で羅切の刑に処せられたとの、「皇帝紀抄(巻7)」の記録がある。

このはなしと行空の流罪と恋多き小侍従との関係はどうなるのでしょうね?
なにか小説みたいなものでもあればいいのですけど。
高野山別格本山講坊という名のお堂を行空が持ったのは○○(かささぎの旗にはアップしてない写真にあります星野の高野堂=行空上人のお墓にあった碑に書かれている、よめない、もう一度行って要確認、でもまだ日本一の玉露の茶摘が終わっていない、大事なときであるため、行くにいけない。というのはど真ん中にあるわけです、玉露園の)と小侍従の請願により。とありました。

あー。なにがいいたいのかさっぱり要をえない文になった。
ごめんなさい。親鸞で読まれていた方、ごめんさない。
途中で行空になってしまってごめんなさい。
ともかく、謎だらけで、こんぐらがっています。

親鸞が法然に許されてというか、夢のお告げに聖徳太子が現れて、妻帯をすすめられた。
ってことだけどもさ。
じゃなんで行空は女犯の罪でおちんこをちょんぎられちゃうの。
ってはなしになるんだよね。
ほぼ同時代のことでしょう。
わけがわからない。

このへんのところを、どなたか、資料もそろえてきちんと説明してくださいませんか。

かささぎは、この文章を、おととい帰省された歴史の先生という神津呂伊利さんから「久留米の六角堂広場には昔ほんとうにお堂があったんだ」って聞いてから、ほんとうの「六角堂」、聖徳太子に立ち戻り、書いた次第です。

本来の六角堂:http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%85%AD%E8%A7%92%E5%A0%82/

リンク記事:「星野村高野堂」http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-12.html(写真、この頁の上部にクリックするところがあります。このほかに五枚ほどありますのでどうぞごらんください。)

ご詠歌  頂法寺=六角堂http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%82%E6%B3%95%E5%AF%BA#.E5.BE.A1.E8.A9.A0.E6.AD.8Cより

  わが思う 
    心のうちは 
    六の角 
  ただ円かれと 
  祈るなりけり

2008年12月10日 (水)

乙四郎語録 官僚番外編2

  法律の文言にこだわった思い出
 

         竹橋乙四郎 

やっぱり書かずにはおれない。
前文への思い。
日本国憲法には前文が置かれている。本来、編集をしてはいけないものだが、原文は誰でも容易に入手して検証できるものなので、要点だけを抜き取って紹介する。

日本国憲法前文(抄)
日本国民は、われらとわれらの子孫のために、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

これは、そもそもの憲法の制定趣旨を記したもの。個々の法律の場合は、法解釈上の誤解を避けるため、通常は、第一条に「目的」の条が置かれる。前文を置く必要はない。例外的に、たくさんの関連法の根っこを定める○○基本法(教育基本法、男女共同参画社会基本法、少子化社会対策基本法など)には前文が置かれることがある。具体的な規範を定める個別法では、極めて稀。
被爆者援護法は、被爆者を援護するための具体的な規範を定めた法であり、基本法ではない。この法は、主に「原子爆弾の投下の結果として生じた放射能に起因する健康被害に対する援護対策」を目的とした法律でしかなく「核兵器廃絶」は目的ではない。法律の所管は厚生省であり、核兵器廃絶は管轄外。通常の法構成だと、そのような文言を入れることはできない。

しかし、真剣に被爆者対策を行っている担当者は誰でも肌で感じていた。この世界から核兵器が廃絶されない限り、被爆者の心を援護したことにはならない。特に死没者は、いまだに死んでも死にきれない思いにあるはず。
幸いだったのは、この法案の取扱いが高度に政治的であったため、通常の政府提出法案の形をとらず、議員提出法案となったこと。縦割りの箍(たが)が外れ、法案審議の段階では「厚生省」という狭い枠組みに必ずしも囚われる必要がなくなった。
日本国憲法で「国際社会において、名誉ある地位を占めたい」「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する」「全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」と唱っているのに、その手順を具体的に定めた法は国際協力関連の法体系くらい。日本の法体系のどこかに「核兵器廃絶」の文言を盛り込むべきでは。
法律は、いかなる法律であれ、将来に渡って国民の行動規範となるもの。「核兵器廃絶」がどこかに唱われてさえおれば、誰かが「核武装」を言い出した時にブレーキとして役立つ。
被爆者援護法の前文から「原子爆弾の投下の結果として生じた放射能に起因する健康被害に対する援護対策」(本法の本来の主目的)に関する記述をあえて引き算して、もう一度、紹介します。法律という無味乾燥な世界にも、人間ドラマがひそんでいることを紹介したくて。
このような文言を盛り込んだ法律の誕生に関われたことを、本当に光栄に思います。

被爆者援護法前文(編集抄)
原子爆弾という比類のない破壊兵器は、幾多の尊い生命を一瞬にして奪ったのみならず、たとい一命をとりとめた被爆者にも、生涯いやすことのできない傷跡と後遺症を残し、不安の中での生活をもたらした。
我らは、再びこのような惨禍が繰り返されることがないようにとの固い決意の下、世界唯一の原子爆弾の被爆国として、核兵器の究極的廃絶と世界の恒久平和の確立を全世界に訴え続けてきた。
我らは、核兵器の究極的廃絶に向けての決意を新たにし、原子爆弾の惨禍が繰り返されることのないよう、恒久の平和を念願するとともに、国として原子爆弾による死没者の尊い犠牲を銘記するため、この法律を制定する。

追記:法制定に尽力された村山総理を尊敬します。若輩ながら、法案作成の過程で何度かその人となりに接し、被爆者団体と村山総理との意見交換の場で司会進行の大役を務めさせていただいたりもしましたが、この前文にせよ、村山談話にせよ、「後世への精神の残し方」に長けた偉大な政治家でした。

かささぎの独り言:

おお。日本国憲法は旧かな表記だったのですね。
はじめて気づきました。

それにしても。
おつしろうは、大きな仕事をしていたのだなあ。
よびすてしてると罰があたる。

この文章をよんで、連句的に思ったこと。

湾岸戦争が勃発したころ、朝日の投書欄へかささぎはこういう声を投書しました。


色褪せる憲法 自然の摂理。(敗戦直後は確かに効果的であった平和憲法だが、五十年もたつうちには色あせてくる。これは自然なことで仕方ない。)
すると、すごい反論の嵐。朝日新聞でしたし。
中でもこういう声が記憶にいまも残っています。

「日本は最終戦争を戦ったのである。憲法は血で贖った大切な宝だ。」

加えて、編集者のかたがいわれた一言を今も忘れない。
乙四郎がこだわった文言とそっくりのことをおっしゃいました。

思えば、あれから日本は戦争をしていません。
それは倭奴としての静かな国民性とともに、平和を死守しようとしてきた人たちの陰なる努力のたまものだったことに気づかされます。
だからこそ、その願いとはうらはらな、「色あせる憲法 自然の摂理」という避けがたい現実を、なんとかしてしのぐ知恵と方法とが、今後の課題だとかささぎは生意気にもおもうのであります。


2008年10月21日 (火)

玄奘幻想

  玄奘幻想

         前川 弘明

沙羅の花玄奘三蔵屈伸す
僧衣繕うおぼつかなくて蝶の昼
僧玄奘泉に落ちて目覚めけり
僧玄奘渋柿三個袖に入れ
玄奘法師石榴をもいで食らいけり
牛の背に揺れ玄奘と石榴籠
西日中流沙原ゆく蟲のように
牛を追い帰る少年雁わたる
葡萄汁喉に尊き読経かな
オアシスに僧衣を干して昼寝して
渉る河にごりにごりて木の葉髪
澄む水に僧衣濯げば母想う
寒月下渓流の魚歯で砕き
僧にも雪崑崙山脈哭くごとし
桃の実に頬ずりをして眠るべし

  沙羅の花 

ある日ふと、何の脈絡もなく玄奘三蔵のことを想った。
はるばる河を渉り砂漠を歩き山を越え、ひたすら歩く法師の姿を想った。
僧衣はよごれ、足は埃に破れ、血がにじんだであろうが、瞳は美しく輝いていたにちがいない。
その姿を想い、すなわち十五句。

    俳句誌「拓」第23号より引用

上記の俳句を読んだ日、ぐうぜん、新聞で「アフガン・バーミヤン大仏」「釈迦仏示す供養品」「修復中に発見 玄奘の記述裏づけ」 の見出しの記事を読みました。引用しておきます。以下、西日本新聞記事。

七世紀にバーミヤンを訪れた中国の僧、玄奘三蔵は著書『大唐西域記』で東大仏を「釈迦仏」 と記述したが、破壊前から損傷が激しく仏像の種類がはっきりしなかった。
専門家や仏陀の伝記など仏伝によると獅子は釈迦を表し、馬は釈迦の誕生を象徴するとされ、釈迦仏と裏付けられた。
供養品の解析が進めば、謎が多い大仏建立の経緯解明につながる第一級の成果になりそうだ。
東大仏の修復作業に当たる国連教育科学文化機関ユネスコの協力機関、国際記念物遺跡会議イコモス ドイツ調査隊の修復専門家プラクセンタラー氏が見つけた。
麻袋は長さ、幅ともに約五センチ。東大仏で、前に突き出していたとみられる右ひじの骨組みとなる木材を差し込んだ穴の奥で見つかった。小石と泥で目張りされた直径、深さともに約十センチの穴の中に、麻袋と香とみられる乾燥した植物があった。
麻袋の泥の封印は二箇所で、いずれも直径約一センチ。連珠の文様で獅子と馬らしい模様を囲んであった。
イコモス専門調査員でミュンヘン工科大のエミリング教授は「麻袋は胎内に納めるため、大仏建立を祝ってインドから贈られたものだろう」 と指摘。袋の中身の確認は封印の綿密な調査を終えてから行う予定。香木や動物の骨などが入っている可能性があるという。
同調査隊は2006年にも東大仏で、土砂の回収作業中に、建立当初6-7世紀の文字で書かれた胎内経とみられる経典の一部を発見している。

かささぎ解説:

上記文中に何度も出てくる「東大仏」ってのが、わかりません。
なんだか奈良の東大寺の仏像か?みたいに思ってしまう。そうじゃなく、アフガニスタンの首都カブールの西の山岳地帯の仏教遺跡がバーミヤンで、そこの世界遺産だった東西二体の大仏をタリバン政権が破壊した、その、東の大仏をさすようです。東大仏、高さ38メートルの右腕から、6世紀ころの大仏建立時に供養品として埋葬された麻袋が見つかった、というニュースでした。

前川弘明の連作、生きている玄奘が目の前にうかぶ。
これに「玄奘の恋」を書き加え、玄奘を実在させたい。
いつか、書こう。

玄奘の恋の行方や風浪や     かささぎ

2008年10月 7日 (火)

『親鸞』

今朝の五木寛之『親鸞』、その挿絵。
山々の連なり。
その山襞の色、新聞だけが出せる微妙な翳。
記憶の深いはるかな地層に直に呼びかける。

後白河法皇。

昔読んだ、秦恒平の少年向けちくま蔵書の『親鸞と法然』だったか『後白河と法然』だったかだったか、題は忘れたけど、その内容をつれてきてもくれた。

毎朝読んでいるわけではない。思い出すとき、読んでいる。
新聞小説はそんな読みかたしかできない。
大河ドラマで平幹二郎が演じた後白河が蘇る。

あのおかたは、武ではなく、歌でこの世を治めようとなさっている。

こんな言葉を今朝の五木寛之ははかせていた。

秦恒平:http://umi-no-hon.officeblue.jp/umi.htm

2008年7月12日 (土)

五木寛之

九月から西日本新聞の連載小説が五木寛之の『親鸞』 になるそうです。

わくわくします。どんな親鸞をみせてくれるのか。

蓮如、は、ちょっと浅いか。と感じた。

(五木姓は奥様のほうの姓なのですね。筆名じゃなく。)

福島高校時代の処女小説はこちらです。
小説「学生」1

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_d8ec.html

    その2
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_8cfa.html

2007年3月11日 (日)

みかへり如来

     永観堂

顧如来の辺やもりあをがへる卵産む  安住 敦

     遺句集「柿の木坂雑唱以後」(1990、平凡社刊)所収

永観堂近影:http://www.eikando.or.jp/kinei.htm

モリアオガエルの産卵シーンが見れる映像つきサイト:http://contents.kids.yahoo.co.jp/zukan/amphibias/card/0520.html

南(みんなみ)へ       
神發ち       
見返り坂      
にほふ               横山 康夫 

                   (峯雲物語) 

かへるミカエル見返りの坂   恭子

                   (やはらか戦車)

    

2007年2月19日 (月)

還浄 2

引用を続けます。山本健吉著 『きしたん事始』 昭和31年藝術社刊。

おそらく日本はシャビエルの東洋伝道において、そのキリスト教の真髄と信ずる思想を、まじりけなしに宣べ伝えることのできた唯一の場所だったのだ。「日本人は、御受難の玄義を聴くことを非常に喜ぶ。或る人々は、それを聞く毎に、涙を流していることがある」 と、彼はコチンからヨーロッパの会友に宛てた長文の手紙に書いているのである。

それにもかかわらず、シャビエルの宣べ伝えるものに対して、日本人の心を準備したものが、悪魔の宗教と彼が言っている佛教ーことに浄土系思想だったことは、思い及ばなかつたようである。同じ手紙は、彼が日本で獲得した信徒たちの、小うるさいような質問の要点を書いている。非常に興味のあることなので次に引用しよう。

  彼等は探索心の強い人々なので、「聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊の御名によりて」 とは何を意味するか、また十字架のしるしをするにしても、御父の御名を言うとき、どうして右手を前額に置くのか、御子の御名は胸、聖霊は右の肩から左の肩へ引くことになるのは何の故なのかを知りたくて、質問する。私達はこれをよく説明したら、彼等は非常な慰めを感じた。その後キリエ・エレイソン。クリステ・エレイソン。キリエ・エレイソンを唱えると、またその言葉の意味をきく。ロザリオの祈りは、一つの珠毎にイエズス・マリアの聖名を唱えながら繰つて行く。主禱文や、めでたし使途信経は、書いて覚えていく。」

 ここまでは、日本の信徒たちの好奇心と知識欲にあふれた無邪気な質問ぶりを彷彿とさせるので引用したが、問題はこの次である。

 「日本の信者には、一つの悲嘆がある。それは私たちが教えること、即ち地獄へ堕ちた人は、最早全然救われないことを、非常に悲しむのである。亡くなつた両親をはじめ、妻子や祖先への愛の故に、彼等の悲しんでいる様子は非常に哀れである。死んだ人のために、大勢の者が泣く。そして私に、或は施与、或は祈りを以て、死んだ人を助ける方法はないだろうかとたずねる。私は助ける方法はないと答えるばかりである。

  この悲嘆は、すこぶる大きい。けれども私は、彼等が自分の救霊をないがせにしないように、又彼等が祖先と共に、永劫の苦しみのところへは堕ちないようにと望んでいるから、彼等の悲嘆については、別に悲しく思わない。しかし、何故神は地獄の人を救うことができないか、とか、なぜいつまでも地獄にいなければならないのか、というような質問が出るので、私はそれに彼等の満足の行くまで答える。彼らは、自分の祖先が救われないことを知ると、泣くことをやめない。私がこんなに愛している友人達が、手の施しようのないことに就いて泣いているのを見て、私も悲しくなつて来る。」(アルーべ神父、井上郁二共訳)

日本人は神の創つた悪魔が永遠の刑罰と苦痛とを蒙つたことに対して、刑罰に峻厳な神は毫も慈悲深いとは言えないことを抗議する。また地獄という怖ろしい牢獄を創る神、もつとも怖ろしい苦痛に永遠に悩まねばならない人々に対して憐憫を感じないような神は善い神とは言えぬこと、もし神が善であるなら、神は十戒なぞというむずかしい律法を人に課さなかつたであろうということなどについて、弁じたてるのである。日本人は、人が地獄に投ぜられるという思想を、救済の希望なしには全く理解できなかつたのだ。

これらの日本人らしい質疑に対して、どういう解答を与えたか、シャビエルは書いていない。それはイエズス会の会友に宛てて認められたのだから、異教徒のこのような質疑に対するカトリツク的正解は自明のこととして書かず、続いて日本へ渡航すべき後進の会士たちに対して、あらかじめ心の準備をさせようとしたまでなのだ。だがこれらの質疑が、どういう根底において発せられているのかをシャビエルが洞察したならば、彼はあまりに軽く扱うべきではなかつた。

これらの質疑はあきらかに、浄土教徒ーことに真宗教徒のものである。佛教の諸派のなかで、もつともキリスト教に近い考え方の宗派であり、アミダという一神教的な人格神を持つた一派である。それは日本の浄土系思想のもつとも純粋化された窮極であり、往生はすでに「決定=けちじょう」であり、従つて念仏は救拯(きゅうじょう)への希求ではなく、救われてあることを意識する者の「佛恩報謝(ぶつとんほうしや)」 にすぎない。つまり、アミダの恩寵の絶対性の思想なのだ。シャビエルは日本の宗教の主な開祖がシャカとアミダであることを、分類的に知つていたが、浄土思想への日本の民衆の浸透の度合いについては、全く理解をもたなかつた。日本人にとつての躓きは、シナ人やインド人と違つて、十字架ではなく、審判であり、キリストの苦難ではなくてかえつてその光栄であつたのだ。

シャビエルが不思議とした日本人教徒の煩悶は、家族制度に馴致された彼等の生活感情を考えれば、少しも不自然ではなかつた。融通念仏の開祖良忍が、すでに、

  一人一切人、一切人一人、
  一行一切行、一切行一行。

と言つているのである。一人の功徳は一切人に通ずるとともに、一切人の功徳も一人に通ずる、すなわち相互に融通するものだというのである。これこそ、己れの祈りによつて、愛するものたちの霊魂を救おうと希求した彼らにとつて、福音であつた。また、親鸞によつて、善人なおもちて往生をとぐ、いわんや悪人をやという激しい言葉が、人間の在りようへの深い洞察のもとに吐かれている。これは罪人を救おうとて来つたというイエズスの福音に相応ずる。慈愛の宗教はすでにあつた。そこにシャビエルたちが、永劫遁れることのできない地獄の観念を吹き込もうとしたとき、それは日本人たちにとつて、特権の剥奪とさえ感じられたはずであつたはずだ。

だから、これら日本の信徒達との質疑応答によつて、シャビエルが対決していたものは、まさしく真宗的思想であつたと言つてもいい。 この両者が窮極まで対決の相を示さなかつたのは、たいへん惜しいことである。それは日本の思想史上の一大事件として、現れるべきものであつたし、そのような思想的格闘を経て、日本人のあいだから偉大な宗教思想家が現れることも、不思議ではなかつたと思えるのである。(山本健吉、昭和30年「文學界」に未発表のぶんの研究文。)

参考Ⅰ:遠藤周作「沈黙」を読んでhttp://theology.doshisha.ac.jp:8008/kkohara/reportdb.nsf/0/ead80d22bbff00c749256cda0047d546?OpenDocument

参考Ⅱ:フランシスコ・ザビエルについて
http://www1.odn.ne.jp/tetsukawa/history/

参考Ⅲ:コラムやまぐち
http://www10.ocn.ne.jp/~ejw/66yama.html

追記) 数年前にザビエルの冒険、というようなタイトルの本を八女図書館で借りて読みましたが、その本の作者を阪田寛夫とおもっていた。なぜだろう。阪田寛夫ならば、アストロリコの利華さんの話題のなかによく出る親しいらしい大浦みずきさんの亡きお父上ですよね。で、気になりよく調べますと、矢代静一の勘違いでした。なぜ間違えたのかもわかりました。矢代 静一 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E4%BB%A3%E9%9D%99%E4%B8%80
    阪田寛夫http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E7%94%B0%E5%AF%9B%E5%A4%AB

2007年2月18日 (日)

還浄 1

きのう、鳥栖まで通夜に行く。私よりも年若いみほとけさまをみおくってきた。

そこで同年輩の真宗のお坊様のおはなしをきく。こんなおはなしであった。

みなさんのところではどうでしょうか。少なくとも私の知っている福岡筑紫圏内では、死人が出たら貼る忌中の文字は、あれは仏教のおしえとは相容れないので、やりません。死が忌むべきものならば、その対極にある生も忌むべきものとなるからです。生死と書いて、仏教用語ではショウジと読みます。生死のことは寿命といって如来に約束されたことがらでありますから、死は忌むべきものではない。かわりに、ゲンジョウ=還浄の文字を門にはります。死んだら、みな一人残らず浄土へ還るということを意味します。どんな命も、間違いなく浄土へお迎えしますよ、というのが浄土真宗の如来のみおしえです。

そういえば、三十年近いむかしである弟のときは記憶にないが、祖母が亡くなった十三年前のことははっきり覚えている。たしかに玄関には還浄と書かれた提灯が掲げられていた。あれはそういう意味があったのか。

山本健吉編の歳時記には妙に多いカソリックの行事が気になることもあり、十年ほど前に彼の初期の評論「きりしたん事始」を神田の古書店から求めていた。健吉は長崎でミッションの幼稚園に二年だったか通った。園ではイエスさまがどうなさいましたアーメンと唱え、家に戻れば、仏壇と神棚のある暮らしを何の違和感もなくおくり、その上、加賀藩の家老の家に生まれた母の翠に付き従ってきた祖父の側室である、横山かくばあさん(と書いてある)に可愛がられて育つ。慶応時代に学生結婚した藪秀野もまた大阪のミッションスクールをへて神田の文化学院に通った西洋思想とは近しいモガだった人だ。でも、どちらも根は生粋の日本人であり、非常にふかく切支丹についてもつきつめて研究したふしがある。健吉の友人には遠藤周作もいた。この本は昭和30年ごろ書かれたものだ。遠藤周作の『沈黙』とどう絡むのかは分らないけれど、その周辺の研究をしたものである。

そのなかに、戦国期の大名と宣教師とのわたりあいを書いたくだりがある。いつぞやコメントを戴いた大内家の子孫のかた(八女燈篭人形創始者の松延貫嵐のときに)にも読んでいただきたい。ご先祖のはなしだと思われる。引用したい。ただ、耳ざわりのいい話ではない、現代の道徳規範で考えれば。その点はあらかじめお断りいたします。

シャビエルが西日本の行く先々において、大聲して責めた日本人の三大罪悪とは、萬能なる創造主デウスを知らず偽りの神佛を拝すること、ソドムの悪習に耽ること、ならびに堕胎壓殺を行うことであつた。当時西日本第一の文化都市であった山口の領主大内義隆の前で、彼はローマ字で書いた信仰箇条を朗読したが、たまたまソドムの悪習を論じた一條に至り、「この罪を犯す者は豚よりも汚らわしく犬よりも劣る」 というのを聴くや、義隆は顔面蒼白となつて奥へ引き取つたという。これは義隆が自分の弱点を衝かれたのを憤つたためには違いないが、それのみでなく、そのような非妥協的・不寛容的な暴露の言辞のむくつけさを、長い伝統を経た日本人のデリケートな感性が受けつけなかつたゆえでもあると思う。

※ この昭和三十年代初期の本の文体は、現代表記への過渡期であり、漢字はまだ正字です。(変換する時間の関係で途中から簡略表記にしていることをお詫びします。)促音はおおきいままですが、かなの表記はちゃんと現代表記になっているのがふしぎといえばふしぎです。

2007年1月12日 (金)

応答発願

これまで私のブログ内での検索ワードで、いちばん「!!??」と感じたのは、「応答発願」でした。

おうとうはつがん。ん?これ、仏教の専門用語みたいですが、ちゃんとかささぎの旗でヒットしているけど、いったいそんな言葉、だれが入力したのかな。

そうおもいました。ところが、たしかに、ちゃんと書いているのですよね。記憶にないだけで、引用しています。ここです。この難しい論文のなかほどにあります。http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/2_02dc.html

きづかないだけで、こんな風に、いろんなしごとをほとけさまにさせられること。それが、ひょっとしたら、応答発願かもしれないですね。

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