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2008年9月15日 (月)

椎窓猛先生講演会

俳友・東妙寺らんが誘ってくれた文化講演会に出かける。
椎窓先生のお話で八女市出身の作家・小島直記の死を知る。
きのう、亡くなられた由。享年89歳。

かささぎの旗で小島直記。
右横のカテゴリーから、「無冠の男」をクリックすれば、小島直記文学の真髄に触れることができます。筆が生き生きと動き登場人物たちが生きています。

第一回:http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/01/post_1355.html

通し:http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/cat3670117/index.html

かささぎの旗2006・2/24~4/1(『無冠の男』小島直記著より)
4/3、4/5付には暦の資料。(『日本の暦』岡田芳朗著より)

また、石橋正二郎のところではりつけたばかりですが、ふしぎなので。
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_6c3e.html

八女公園の小島直記・記念碑と椎窓猛先生の頌(しょう)

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2005/12/post_cdbb.html

ご病気だと知ったのは、「致知」という雑誌ででした。

ブログに長期にわたる長文の引用をしながら、一言もご挨拶を申し上げられなかったことが心残りであります。

かささぎの旗とのご縁を感謝するとともに、八女の地からご冥福をお祈りいたします。

合掌

次男が通う学校に、若き日の小島直記氏は勤めておられた。

追記)

なぜ私は小島直記の『無冠の男』を、それも乙骨太郎乙が出てくるくだりだけをこんなに必死で写したのだろう、とふしぎな気がする。まあノリで、、、としかいいようがない。旧漢字と旧かなの、一部には濁点さえないものを、きっちり写した。写す作業は気が一点に集中して忘我の境地になれ、きもちよかった。作家の意識と一体化したような感じだった。

2007年3月 8日 (木)

花外楼のこと 3

  後記

         江崎 政忠

 花外楼の初代は加賀屋伊兵衛と称し、文政年間加賀国小松在徳光村より大阪に出(い)で、日本橋一丁目に住居し商業を営み、其業大いに栄えたりしが、天保の頃其長男伊助は化浜一丁目に移りて、割烹店を開業せり。是即ち加賀屋伊助にして、俗に加賀屋の名称を以て呼ばれ、幕末には大阪知名の料亭として、其名遠近に聞ゆるに至れり。明治維新後一般平民に姓氏を許さるゝや、其故国の村名に因み徳光を姓とし徳光伊助と称し、木戸孝允、伊藤博文、井上馨等貴顕大官の寵遇を得て、家業は愈々繁昌し、以て今日に及ぶ。而して其通称加賀井を花外楼と改めたるは、木戸孝允の命名に依るものにして、其事蹟は前文に記せるが如し。因みに花外楼の敷地の一部は、明治十四年市区改正のため大阪市に収用され、現在の家屋は其際改築したものなり。

参考文献の「木戸孝允日記抜粋」へつづく。

(注記)表記の漢字は原文では正字です。

 

2007年3月 7日 (水)

花外楼のこと 2 

   花外楼の由来

          江崎 政忠

 明治八年一月より二月に亘り大久保利通、木戸孝允、板垣退助を始めとし、薩長土の政治家大阪に会合して国事を談じ、天下の耳目を聳動せり。世に之を大阪会議と云ふ。是より先板垣退助は征韓論につき議合はず、西郷、後藤、副島、江藤諸参議と共に袂を列ねて野に下り、民選議院の建白を為し、木戸孝允また征蕃の議につき有司と所見を異にし、文部卿の職を辞して故山に帰臥せり。当時廟堂には上に三條、岩倉両卿ありと雖(いへども)、大久保利通内務卿として独り威権を擅(ほしいまま)にし、薩閥専制の声漸く喧しく、政局為に動揺を来さんとす。前大蔵大輔井上馨先収会社の事を管して大阪に在り、此情勢を見て憂慮措く能はず、木戸、板垣両人を起して再び台閣の重きに任じ、天下の輿望(よぼう)を繋がんとし、伊藤博文、五代友厚、鳥尾小彌太、小室信夫、古澤滋らと胥(あい)謀りて、百万周旋遂に大久保、木戸、板垣三者をして大阪に会せしむ。即ち大久保は明治七年十二月二十六日、木戸は翌八年一月六日、板垣は同月何れも大阪に来り、爾来(じらい)大久保、木戸は数回旗亭に会し、胸襟を開いて相語り、木戸亦(また)板垣と会して、其(その)進退を議し、二月上旬に及び漸く意志の疎通を見、同 十一日北濱加賀井に集合して、其綱領の協定を為すに至れり。即ち当日の列席者は大久保、板垣三者の外、井上馨、伊藤博文、鳥尾小彌太、富岡簡一等にして、大久保と板垣との会見は、征韓論分裂後このときを以て最初とす。而して大阪会議の結果木戸、板垣両人は参議に任ぜられ、国政上に大改革を来し、元老院、大審院の設置、地方官会議の開会となり、立憲政体の基礎竝(ならび)に確立せり。されば前記二月十一日の会合は、明治政治史上重大なる意義を有するものにして、之が会場たりし加賀井は好箇の史蹟たるを失はざる也。

 当時伊藤博文を始め長州出身者は概ね加賀井に投宿し、木戸の如きも其日記に、據(よ)るに大阪滞在中前後六度加賀井に遊び、其中二晩宿泊せり。現在外楼に珍蔵せる「花外楼 明治八年春二月松菊」と書せる扁額は、当時木戸が加賀井を同音の雅名に改め揮灑(きさい)せるものにして、其風流を偲ぶ唯一の記念と云ふべし。井上は其後に至るも永く花外楼を贔屓にし、大阪に来る毎に同楼に遊び後年鴻池家顧問として瓦屋町別邸に滞留せる際は、毎日の食饌は必ず其厨人をして調理せしめ、先代女将悦、現女将孝等を招きて給仕せしむるを常とせり。余往年井上侯の知遇を得、候の左右に侍して、大阪会議当時の状況を聞くこと一再にあらず、今次花外楼女将の需めに応じ、不文を顧みず、其概要を記すと云爾。

  昭和庚辰十月

             江崎 政忠 識(しるす)

後記につづく。

 

2007年3月 6日 (火)

花外楼のこと

古書検索でたまたま江崎政忠の本を見つけた。違うかもしれないが、ひょっとしたら、時代からいって乙骨太郎乙の長女まき(牧子とも)の夫となった人ではなかろうか。そう思い、取り寄せてみた。そしたら・・・なんだこれは。本というには余りにも薄い。たったの十ページぽっち。それで二千円とは法外な。まあ古いのは認めるけれども。なんだかもったいないので、全文丸写しして、史料としたい。なお、写真がついていて、最初に伊藤博文の「花魁」の扁額の写真(何でオイランなんだと言う気がしないでもないが、「無冠の男」で蒼海伯が言ったことばを思い出せば、なるほどそうかーと納得)、つぎに同じ「無冠の男」で「いたちの最後っ屁」と形容された井上馨の手跡による「香涯楼」の扁額。さいごに当時の花外楼の写真。(かつての奈良の日吉旅館をびよーんと横に拡げたような按配の木造住宅である。)

2006年11月 5日 (日)

白壁ギャラリー巡り

白壁ギャラリー巡り

紺屋町ギャラリーの樋口善造展を覗いてまいりました。すると、画伯はなんと『無冠の男』著者である小島直記氏とは画学生時代から交友があるそうで、写真が飾られておりました。奥様に了解を得て、撮らせていただいたものです。左から、三十代の小島直記氏、そのご母堂、そして二十歳の樋口氏です。(撮影時は1951年か、場所は東京芸大校庭。)

白壁ギャラリー巡り

展示されていた二十点あまりの絵の中で、一番こころひかれた絵(油彩)です。向うに見える飛形山(とびかたやま)の色が切なくて、胸がきゅんとなります。手前のコスモスが深い陰影を添えて、郷愁を誘う。八女はほんとにいい土地だと、この絵を見て、感じました。これと、黒木の山中の農家を描いた小品が欲しいとおもったけど、油絵は高いですね。二十万ほどします。見ただけで帰りました。富士山の絵、とてもきれいなピンクの暁光につつまれた、が、確か三万ほどでした。それはデジタルアートだから安いのだと言われた。ほんものは電通という会社が所有しているそうです。デジタルアートというのは本物をうつして、少し加筆したものとか。リトグラフと、デジタルアートと、油彩が展示されていました。

白壁ギャラリー巡り

絵を観に来た大学生をスケッチする和服姿の画伯の手。早くて精確です。

樋口善造画伯の略歴:
1931年 八女市生まれ
1949年 八女高校卒業(第一回生)
1954年 東京藝術大学油絵科卒業
      日展、光風会展に発表(光風会会員)
1983年 ドイツ観光局の依頼により、家族と共に
       ドイツに住んで製作する
1994年  10年間のドイツ生活を終え帰国
2004年  八女郡黒木町に移住する

アトリエ:八女郡黒木町大字今42-5

ずうっと前に、八女福島の横町町家交流館で求めていた小島直記著『坂本繁二郎伝』を、『無冠の男』を読んでから読みました。それによると、小島氏は、昭和38年、石橋文化会館ができたとき、ブリジストンの社員で、石橋会長の自伝の口述筆記を勤めたそうです。石橋コレクションの始まりは、石橋会長が久留米高等小学校六年生のころ、図画の先生だった坂本繁二郎から絵を指導された。その後坂本さんは東京に学び、フランスへ留学され、二十年もたって久留米に帰り、石橋会長宅の近くに住まわれた。昭和五年のある日、坂本さんは、郷里出身の青木繁は天才でたくさんの傑作を残したが、散逸したままで惜しい。これを買い集め、小さな美術館を建ててくれと言われた。だからその意を受けて四十歳ころから十年あまりで「海の幸」ほか代表作を集めた。・・小島直記はこう説明しています。たしかに事業も軌道にのり、資金的にも余裕ができたころであったが、絵画をあつめたのは金が余ってたからではない。坂本先生の訥々とした親友を思うきもちに打たれてのことだったと。その後、小島氏は石橋会長の特命を受けてフランスへ随行しますが、フランス語が堪能で文化にも通じておられたところが買われたのでしょう。それなのに、そうは書かれず、自分は自伝の口述筆記をしたからその労をねぎらわれたとかかれています。まことに、坂本繁二郎といい、小島直記といい、謙虚な謙虚なゆかしい人々です。今日知った樋口善造画伯もまた、その偉大な先人二人の薫陶を受けられた、穏やかでゆたりとした謙虚なお人柄だと感じ入りました。小島先生は、お仲人だったそうです。

 小島直記著『坂本繁二郎伝』 
     平成三年 茅ヶ崎の寓居にて執筆の文字あり。
     発行:八女市(市長・斉藤清美)
     製作:中央公論事業出版

2006年4月 5日 (水)

大隈伯昔日譚

4・3付「究極の粉飾決算」で引用した『日本の暦』から、下線部分の補足引用をします。

1.「曾て予は大隈侯に「わが国の新暦を採用せしは非常に早かったがドウいふ訳でしたか」とたづねたら、「それは主に財政上の閏月の関係から来たものだ」と答へられた、(以下略)・・・大藤時彦『年中行事』にある矢野文雄著『竜渓閑話』の引用。

2.「次に注意すへき改革は、太陰暦を変して太陽暦に更めたることなり。太陰暦は千有余年の往時より伊勢の太廟に於て発行し、太廟の御幣と共に広く世人に頒布し来りしものにして、之より生する収入は頗る多く、数百人の神官は之に依りて衣食住を全ふせし程なり。然れとも封建の廃滅と共に種々の階級も亦廃滅せられ、神官の如きも普通の官吏と其任免黜陟(ちゅつちょく)の式例を同ふせらるゝに至りては、何時までも斯る特権を与へ、斯る特別なる利益を受けしむへからす。是れ四民平等の主義に背反するものなり。且官吏の俸給と云ひ、其他の諸給と云ひ、王政復古の前に在りては、何れも年を以て計算支出せしといへとも、維新の後に至りては月俸若くは月給と稱して、月毎に計算支出することゝ為れり。然るに、太陰暦は太陰の朔望を以て月を立て、太陽の躔度(てんど)に合するか故に二三年毎に必らす一回の閏月を置かさるへからす。其閏月の年は十三ヶ月より成れるを以て、其一年だけは、俸給、諸給の支出額、凡て平年に比して十二分の一を増加せさるへからす。然るに国庫の収入を見るに、其当時の収入は重に土地より生し、毎年一定して左したる増減なし、斯く左したる増減なき収入は謂ゆる入を計りて出を制する財政上の原則に従ひ、恰好に平年の支出額に積算したるを以て、閏月あるの年は、収支の額は必らす相適合せすして、支出額上に平年の十二分の一即ち一ヶ月たけの不足を生することゝ為るへし。左れはとて平年の収支の上に於て、多少の余裕を生せしめ、予め其不足に対する準備を為さんとするも、当時の国庫は種々の事情の為痛く窮乏を告け、其平年の支出額にすら甚だ困難を感し居る程なるを以て、決して其余地あるなく、而して平年の支出額に比し、其十二分一の増加を要する閏月ある年は、正に近く明年(乃ち明治六年)に迫れり。此閏月を除き以て財政の困難を済はんには、断然暦制を変更するの外なし。啻(た)た是のみならす、其比は一、六の日を以て、諸官省の休暇定日と為せしを以て、休暇の日数は月に六回、年に七十二回の割合と為り、加ふるに五節句あり、大祭日あり、寒暑に長き休暇あり、其他種々の因縁ある休暇あり、総て是等を合すれは一百数十日の多きに上り、而して其頃の一年は平年三百五十余日なりしを以て、実際執務の日数は僅々百六七十乃至二百日に過ぎさりし。是乃ち一年の半か少くも五分の二は休暇日として消過し去りしなり。斯る事情なるを以て懶惰遊逸の風は自然に増長し、一般社会にまて及ほし。且政務渋滞の弊も日一日と多きを加へ、竟(つい)には国家の禍患を構ふに至るへし。其上、当時は外交漸く盛んにして、諸国との往復交渉頗る繁劇に赴きたるを以て、其執務と休暇の定日と彼我一致せされは、諸般の談判往々に渋滞するを免れす。固より休暇日の廃存変更は必らすしも暦制の如何には関係せす、上に立つものゝ意にて如何様にも之を動かし得さるにはあらされと、長の年月因襲し来りし慣例なれは、其根本なる暦制を改革するにあらされは、是等の弊患を全く洗除する能はさるなり。然れとも、暦制の改革は、其影響の及ふ所、少小にあらす、従て之を断行するも、亦容易の業にあらさるなり。左れはとて之を在来のまゝに放任し置は、理論上の弊害は兎も角も、実際上の禍患は益々増長し、竟に国家民人を不利不幸の境遇に沈落せしむるやも測り知る可からす。是に於て太陰暦を変して太陽暦に更むることゝ為せり。蓋(けだ)し太陽暦は太陽の躔度に従って月を立つるものなれは、一年一月の日子に多少の差異なきにあらされと、季候早晩の変なく、四歳毎に一日の閏を置き、七千年の後僅に一日の差を生するに過ぎさるを以て、之を太陰暦に比すれは最も精密に、且甚た便利なるのみならす、休暇日は一週中に一日、即ち日曜日を以て之に充つることゝ為りしを以て、七十二回の休暇は減して五十二回と為り。且朔望と云ひ、五節句と云へるかことき、旧来の休暇日は尽く(ことごとく)之を廃し、其上に一年は三百六十五日乃至三百六十六日と為り、而して別に閏月を置の要なきことと為りしより、独り政務処理の上に渋滞なからしむのみならす財政上も亦二三年毎に平年の十二分一を増額して支出せさるへからさるの困難なし。之を陰陽両替制より生する結果を比較すれは、其利害得失は固より同日の談にあらさりしなり。」・・・『大隈伯昔日譚』よりの引用。(の引用の引用であります。)

※『大隈伯昔日譚』・・・大隈重信が円城寺清に語ったところを伝記体に編述したもので明治二十八年発行とのこと。

参考:http://www.bunshun.co.jp/yonda/yenmaker/yenmaker.htm

2006年4月 3日 (月)

究極の粉飾決算

(4・1よりのつづきです。「日本の暦」岡田芳朗著から引用しております。)

 ところが明治五年の改暦断行では事前にそのことがなかった。改暦が発表になった時はすでに次年度の暦が発売になってから一ヶ月余もたってからであり、本来最初に文部省天文局から新暦原稿を渡されるべき弘暦商社が一般より遅れてそれを渡されるありさまだった。そのうえ政府は新暦普及のため弘暦商社以外の者でも地方官庁の許可を得て自由に暦の出版をすることを認めたため、弘暦商社は新暦の出版に立遅れてしまった。弘暦商社は同年春に当局から保証された暦の独占販売権を何の予告もなく破棄されたうえ、明治六年太陰太陽暦の販売を一切禁止された。この命令は大阪では十二月朔日に実施されたので、東京方面ではあるいは十一月下旬であったかもしれない。このため弘暦商社は旧暦本を購入した人々からは返金を要求されるという予想もしない災厄に見舞われたのである。かくして弘暦商社は厖大な売残りの旧明治六年暦の山と損害を背負い込んだのである。これについては大阪弘暦商社の残暦の記録がある。

 各種残暦の累計は二百六十二万部余にのぼっている。また明治六年十一月に弘暦商社総代降谷明晴代理林立守から暦専売五ヵ年延長を申請した願書には、明治六年太陰暦の長暦上中下等並びに大小本暦製造部数二百七十万部余に対し残部は百七十五万千部、 一枚摺り略暦六通りの製造枚数百七十万枚余に対し残部百二万八千枚で、これらの損害額は三万八千九百五十九円に達している。この数字は東京弘暦商社と大阪弘暦商社の合計であるから、大阪弘暦商社の二百六十二万部がその大半を占めていることがわかる。

 致命的な打撃を蒙った弘暦商社の救済策としては、再び向う三ヵ年間の暦の専売権の承認ということであったが、これは延長を重ねて明治十五年まで都合十ヵ年認められ、明治十六年に至ってようやく打切られ、以後政府編纂の暦は伊勢宮司庁から発売されることになった。

 このような結末になることはほぼ最初から分かっていたことであったから、何故にその年の春に文部省の指導のもとに結成させ暦の専売権を保証した弘暦商社を裏切ってまでも、年末に至って急遽改暦を断行しなければならなかったのだろうか。改暦の詔書などに記載できない真の理由は何であっただろうか。

 そこで大隈伯の言葉を思い返してみよう。(※下線部、後日補足引用します。)当時の予算規模は収入四千八百万円台で、そのうち田租が約四千万円、その他郵便などによる収入は八百五十万円前後、したがって暦の冥加金一万円は軽視できない収入だった。それを見捨ててもなおかつ改暦を断行するからには、それだけの原因があるはずである。当時支出のなかで人件費の占める比率はきわめて高かったが、中央地方の官公吏の数は急速に増加しつつあった。明治四年九月に採用された官公吏の月給制は、人件費の分割支出という点で、国家財政の窮乏を緩和する意図から出たものだが、太陰太陽暦のもとでは閏月の存在という致命的欠陥があった。

 閏月のある年には平年と同じ収入で、平年より一ヶ月分だけ余計に支出しなければならない。財政の健全化に腐心していた政府の要人、特に留守政府の中心人物であった大隈重信は明治六年六月に閏月が置かれていることを知って愕然としたはずである。明治六年の財政を健全にするためにはこの十二分の一の余分な支出を、何らかの手段で防禦する必要があった。その手段としては太陽暦の採用を決断するしか他になかったわけである。

 太陽暦を明治五年秋に至って突然決定をしたのは、そのような事情によるものでしかも年末に改暦を実施した結果、さらに一ヶ月の支出を削減する事ができた。それは五年十二月を二日で打切ったため略一ヶ月の短縮が行われ、それにともなって人件費その他の支出が節約できたことである。つまり太陽暦をこの時期さいようすれば五年十二月分と翌六年閏六月分の二ヶ月の支出を節約できたわけである。

 政府は改暦にともなう応急措置として「当十二月の分は朔日二日別段月給は賜はず」(十一月二十七日の太政官布達)と決めている。この身勝手な命令は実際に行われた。これを受けて、例えば駅逓寮は駅逓頭の名をもって管下役所に対し「壱ヶ月何程と定め御手当被下候向者当十二月分御渡無之候事」と布達を発している。

 グレゴリオ十三世がユリウス暦を廃し、グレゴリオ暦を採用するに当っても、またイギリス及びその植民地でグレゴリオ暦に改暦するに際しても、数ヶ月の予告期間をおき、しかも年間でももっとも庶民生活への影響の少ない時期(前者は1582年十月十五日、後者は1752年九月十四日)を新暦実施第一日と定めたのである。ユリウス暦からグレゴリオ暦への改暦はわずかに十日日付を跳ばすだけの、きわめて簡単な作業ですむことだが、その改暦でさえ庶民の生活を守るためこれほどの慎重さが要求されたのである。これによって、いかに明治の改暦が政府本位で庶民の立場を無視したものであったかが理解できると思う。

当ブログ3・31付「無冠の男8」(カテゴリーの「君が代研究ノート」所収)で明治六年度歳入と歳出(井上馨がバラした実際の赤字額と大隈による粉飾後の数字)を御確認ください。その上で上記の数字をもう一度見ます。大隈重信の一発逆転大ホームランがあざやかに浮かび上がり、政治家ってすげえなあと感心させられます。有無を言わせぬ大博打みたいなもんです。しかもそれしかなかった。国家の火急のとき「庶民の立場」に何の意味があるのでしょう。歴史のイキオイの前に敬虔なきもちでこうべをたれます。暦学者岡田氏の最後の文章にも、「そげんかこつば言うたっちゃアンタ、しゃあなかろうもん」と反論したくなってくる自分がこわいです。かくいうわたしも「無冠の男」を読むまでは、岡田氏とおなじように思ってました。

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2006年4月 1日 (土)

無冠の男 9

(きのうのつづきです)

 参議専任となった大隈は、「通貨ノ制度ヲ改メン事ヲ請フノ儀」を政府に提出した。その要旨は、インフレは紙幣増発のせいでない、というのである。彼は、通貨調整のため、外貨五千万円を募集し、国庫貯蔵の千七五○万円を加え、合計六七五○万円の正貨をもって紙幣七八○○万円を消却、正貨の通用を健全化する考えだった。

 これに対して、

「今日不換紙幣をして斯価格を失はしめ空商の気をして民間に勃興せしめたることは、申すも憚りあることなれども実は其責は政府の理財法に存することなり・・・」と田口は書いたのである。

「憚りあることなれども」に、当時の官憲の権威、言論人の遠慮がある。けれども、そういうことばづかいを入れたとしても、批判は批判だ。いくら鄭重なことばづかいをしてみても、「ああ今日の財政を治する別に奇法なし。其原因既に明かなり。願くは有司真正の病源を治せよ」とこっぴどく政府をやっつけている以上、インギン無礼だといういい方もできる。

 主張の適否よりも、こういう官憲批判の姿勢が当時としては大問題。大隈が腹を立てたのは当然として、『東京経済雑誌』のスポンサー、メインバンクの中に「お上のご機嫌を損じてはタメになるまい」といい出すものがいた。昔も今も似ているが、スポンサーの意向として、田口の論調に文句が出たわけだ。

 渋沢は田口説とおなじ考えで、あくまでも彼を擁護しようとした。大隈は渋沢の失脚をはかり、銀行家たちにも圧力をかけた。

 ここにおいて田口は、拓善会からの資金援助をことわった。すなわち、「御用雑誌」のカラを脱ぎ捨てて、言論の自由を守ろうとしたのである。

※『無冠の男』上巻第三章から引用しておりますが、田口卯吉から大隈重信へ話がうつる途中を数枚ぶんすっとばしておったためわかりづらいかと案じもうしあげます。それと、私の引用対象が、最初は「乙骨太郎乙」がらみの部分のみにしぼっておったのですが、引用がすすむうちに、だんだん目的自体が移動していって、といいますかズレてゆき、いま現在は「こよみ」と「経済」、裏とおもて、潜在意識と顕在意識、時のずれ・・などなどに焦点がいってしまってます。それで、これもまた前から興味のあることですので、いましか追えないと思いますから、このさい、考えます。「無冠の男」をあたまにおきつつ、「日本の暦」を今から引用します。これがまた長いのであります。13歳の息子がパソコンつかわしてとさっきから寄ってくるのをしっしっと追い払う気力が果たして51歳のばばあにどこまで残っているか・・自分に健闘を祈るのみです。

  『日本の暦』   岡田芳朗著

            新人物往来社平成八年刊

 明治の改暦

  「改暦の直接的原因」

 明治維新以後早晩欧米の暦法ーグレゴリオ暦ーを採用することになったであろうが、それを明治六年(一八七三)から実施することにした直接的原因は何であろうか。

 この改暦が唐突に実施されたことと、一部関係者の間で極秘裏に準備が進められたことは、きわめて不可思議な感をあたえるのである。政府部内でも直前まで秘密が保たれたことは次の一例をもっても推測することができるだろう。それは十一月五日に陸軍省から市川斎宮の改暦案を上申してきたことで、「暦法ノ儀ニ付市川兵学中教授ヨリ別紙ノ通致建言候処、当節右暦法御改正御取調中ニモ有之候間、御参考ノ為差出申候此段申進候也」という添書がついている。市川斎宮の改暦案は明治二年に建議されたものと同内容で、それに明治五年暦の試案を添付してある。陸軍省がこの時期にすでに改暦の計画あることは知らされていたが、「暦法御改正御取調中」程度の認識しかなく、市川案が参考になる段階と判断したからこそ、この上申があったわけである。

 しかし皮肉なことに、この頃すでに太政官権大外史塚本明毅は、改暦の詔書の草稿となった改暦の建議を執筆しており、明治六年用太陽暦は出来あがっていたのである。塚本明毅の建議の要項は、第一に国家百度維新勉めて旧習を革めようとする時で人心一新のため改暦が必要である、第二に太陰太陽暦の置換法が不便である、第三に時刻法が不便である、第四に中下段の迷信暦註は民知の開達を妨げる、第五に太陽暦は七千年の後僅に一日の差を生ずるのみの優れた暦法である、第六に各国は普通太陽暦を用いているので交際上不便である、したがって改暦すべきであり、両三年旧暦を併記し、また時刻法を定時法に改めていただきたい、このことは広義を尽し、その可否を審定して上裁を請うべきである、というのである。

 この建議は十一月某日ということしか分かっていないが、添付された明治六年暦の名称が「日本明治六年神武天皇二千五百三十三年歳次癸酉太陽暦」とあるのが、実際に十一月九日発表されたものでは「神武天皇即位紀元二千五百三十三年明治六年太陽暦」と変っており、建議の暦案に無い四方拝や元始祭が記載されているところなどから、十一月早々に記されたのでなければなるまい。塚本明毅の建議は、改暦の準備がほぼ完了した時提出されたもので、末尾の「此宜シク公議ヲ尽シ其可否ヲ審定シテ上裁ヲ請フヘキナリ」とある改暦公議のための会議は十一月八日以前に開催された。それは当時ロンドンに滞在中の特命全権大使岩倉具視に対し正院が十一月八日付で送った通報に「今般太陽暦に御改正の議右院において各省長次官に御下問あいなりそれぞれ協議これあり衆議一決別紙詔書の通明九日御発礼の事にお治定あいなり(下略)」(『岩倉公実記』)とあるのによって知ることができる。しかしこの会議の性格はすでに準備が完了した改暦の実施を承認するものにすぎなかった。

 政府部内に対してさえかくのごとき秘密主義が保たれたのであるから、一般国民に対してはいうまでもなく改暦の計画は事前に発表されなかった。しかしすでにみたように江戸時代の改暦に当って、新暦の頒布を円満にするために、暦師に対しては改暦が公式に決定される以前に、秘密保持を条件として改暦の事実が通報されており、また新暦による次年暦発行の準備が命じられていたのである。このことは同時に暦師に不要な損害を出させないことにもなったのである。

※ここで、おじゃまむし登場、もはやここまで。あさってにつづきます。

2006年3月31日 (金)

無冠の男 8

(29日からのつづきです)

 ちょうどそこに、横須賀製鉄所の回収と米艦受領問題、長崎におけるイギリス人殺傷事件など、外国人相手の難問題が発生、これも大隈が見事に解決してしまった。

 会社においても、外国会社との提携や、海外支店工場の新設問題が発生すると、語学に強い社員の株はおのずと高くなる。ましてや維新早々のとき「英語で理屈をこねる」能力など稀少価値もはなはだしかった。長崎などに埋もれさせておくのはおしい、中央で働かせようではないか、というわけで、大隈はいきなり「外国官副知事」、つまり「外務次官」に抜擢されたのである。

 長崎支店の一課長から、東京本社の海外担当専務になったようなものだが、ともかく、正真正銘の腕一本ーいや舌一枚でそのポストをかちとったのだ。

 それほど「外国」の威力があったときである。外国ではこうだ、とか、某公使はこういっている、などという大隈のことばが権威ありげに見られ、それが財政問題への容喙(ようかい)となると、ひとかどの財政通、由利財政の批判者として重んじられたであろうとおもわれる。

 政府では、一般の不評、とくに外国公使らの抗議にあわてて、由利に一応の交渉をすることもなく、太政官札発行後半年ばかりで、その時価相場流通を公認、それまでに紙幣の相場を立てた罪で禁錮に処していたものを放免してしまった。井上馨の伝記(『世外井上公伝』第一巻)は、「(これは)自ら発行する紙幣の不信用を告白するものであって、財政上の不信任これに過ぐるものはない。しかもこの法令を発するに当り、会計当局者たる三岡(由利公正)に対し、何等の交渉もなかったようであるが、これは明らかに会計官を無視し、その不信任を表明したものであるから、三岡が憤慨して断然辞意を決するにいたったのもまた当然といわねばならぬ。爾来彼は疾(やまい)と称して出仕せず」と書いている。

 「三十にして立つ」といったのは孔子である。大隈の場合がまさにそれ。

 明治元年十二月、外国官副知事(外務次官)に抜擢(三十歳)。翌年二月、元旗本三枝家の令嬢綾子と結婚。三月、会計官副知事(大蔵次官)兼任。四月、築地に新居をかまえた。ここはもと戸田播磨守のもので、敷地五千坪の豪邸だ。大隈の開放的なところや、綾子夫人の客あしらいのよさもあって、多くの人間があつまった。

 その顔ぶれは、伊藤博文、井上馨、五代友厚、山県有朋、前田正名、山口尚芳、土居通夫、古沢滋、大江卓、中井弘などヒト癖もフタ癖もある男たち。そこで「築地梁山泊(りょうざんぱく)」とよばれた。

 梁山泊は、中国の小説『水滸伝』に出てくる。悪徳官僚に反抗した豪傑たちが山東省の山塞にたてこもり、これを梁山泊と称したのである。

 ただ、大隈邸の客人たちは、悪徳官僚に反抗する浪人ではなく、大半は新政府の役人だ。やがて、西郷、木戸、大久保が死んだあと、政府の中枢をしめて日本のカジ取りとなる。

 明治二年七月、官制改革によって「会計官」が「大蔵省」とかわり、「知事」は「卿」、「副知事」は「大輔」または「少輔」となった。

 大蔵卿には、由利公正の旧主君松平春岳がなったが、わずか二週間で伊達宗城(宇和島藩主)と交替した。

 しかし、松平、伊達とともに床の間の飾物。実権をもってきりまわしたのが大輔(次官)の大隈重信だ。

 このとき、伊藤博文は大蔵少輔、井上馨は造幣局知事から造幣権頭(ごんのかみ)となり、大蔵少輔となるのが翌三年十一月のことだ。

 年齢では、井上三四歳、大隈三一歳、伊藤二八歳。官歴としてはもっとも大隈がおくれていたが、ここにおいて二先輩を追いこした。そして、さらに三年九月には参議(財政担当)となり、長州の木戸孝允、土佐の板垣退助、薩摩の西郷隆盛と肩をならべる。このとき大久保利通は大蔵卿となった。

 明治四年五月十日、「新貨条例」が出て、「一両は一円」ということになる。貨幣の形を円形とし、十進法を採用すべきだと主張したのは大隈である。

 この点では手柄といえるが、すでに見てきたように、由利公正にくらべると財政上の経歴も造詣もはるかに及ばないのだ。

 このあと、井上騒動というのがあった。大蔵大輔井上馨が司法卿江藤新平と喧嘩をし、その子分の渋沢栄一といっしょに辞表を出したとき、「財政意見書」をつくり、これを新聞に公表したのである。今日から見ればなんでもないことだが、政府の秘密をバラしたというので大問題となった。しかも、歳入不足一千万円、政府の債務一億四千万円と、苦しい内情をあかしたので、世間に不信の念を植えつけた、とされたのである。井上のカオリどころか、イタチの最後っ屁になったわけだ。

 このとき大蔵卿大久保は外遊中。参議大隈に大蔵省事務総裁を兼務させたが、大隈は、井上の意見書を修正して公表したのである。これによると、歳入総計四八七三万余円、歳出総計四六五九万余円さしひき二一四万円の黒字。どういうカラクリだったかー。

 「財政意見書」の修正、というといかにもモノモノしい。だが大隈のやり方はまことに簡単なものだった。

 当時の歳入の基礎は米である。井上馨は、計算の基礎を米価一石二円七五銭とした。大隈はこれを三円にしたのである。すると、歳入総計は四八七三万余円にふくれ、よって「黒字二一四万円」となってしまった。

 これは他愛がない。第一、米価昂騰を考慮するならば、それにともなう一般物価の昂騰も見なければなるまい。そしてこれは行政費にも影響するだろう。米が上がれば支出もふえるのであるから、単に歳入だけをふやすのは片手落ちとなる。

 この計算がボロを出さなかったのは、この年度に予想外の金銭受入れがあったからだ。外国新公債の受入れがあり、さらに地租徴収事務が進んで、前期以来の滞納額をとり立てることができたのである。

 そのため、明治六年度は二二八二万円の黒字となった。「わが国の財政は破綻する」という井上理論(?)を否定した大隈理論(?)は、こういうフロックによって破綻しなかった。

 六年五月、大蔵省事務総裁。

 同年十月、参議兼大蔵卿。

 十三年に大隈は大蔵卿をやめるが、財政担当参議としてはおなじ。結局「由利路線」を否定したあと、十数年間「大隈路線」を独走することになる。  

 田口鼎軒が対決したのは、インフレをめぐる「大隈方式」だった。

(あしたにつづきます)

※ここを読んでわたしがすぐ思ったのは、明治五年末の突然の改暦でした。「日本の暦」(岡田芳朗著。新人物往来社刊)に書かれてますが、改暦を取り仕切ったのは大隈重信です。そしてその直接の理由が上記の理由、つまり政府の台所がとてつもなく逼迫していたからだったのです。 この点のからくりを、またあした「無冠の男」からと「日本の暦」からの引用をミックスしながらもういちど考えることにします。

2006年3月29日 (水)

無冠の男 7

きのう書いたことです。「無冠の男」を読んで、ひとつの疑問が湧きました。それは、田口卯吉と犬養毅の経済論争について書かれた第三章です。明治新政府の財政は非常に逼迫していました。それを何とかし、さらには西南戦争の戦費も捻出しなければならない。それを解決できるものは不幸にして誰もいないというとき、越前藩の三岡八郎(由利公正)が手を挙げ、自藩の苦しい台所をこれでしのいだという実体験から、太政官札発行を提案します。他に何もなす手がないままそれをやることになる。でも、苦しい状況は改善されません。どころか新政府の対処のまずさに段々と官札の信用はおちてゆきます。そしてそこに登場するのが佐賀出身の「大隈重信」となるのですが、まずはそこのところをご覧下さい。とてもおもしろく、ついひきこまれます。以下「無冠の男」からの引用です。

 彼は、佐賀藩出身。四百石どりの砲術家だった父を十三歳のとき失い、母三井(みい)子の手で、二人の姉、一人の弟とともに成長した。

 十九歳のとき、藩内の若いサムライたちがつくった革新団体「義祭同盟」の仲間となり、藩当局に弾圧されると、今度は藩校弘道館の改革をした。このため、首謀者と見なされ、退校処分となったが、このため蘭学に転向、のちの政治家への可能性を身につける。人間、何が幸になるか、個々の現象だけではわからぬということだ。

 長崎で宣教師フルベッキについて勉強した。フルベッキはオランダ人で、ユトレヒト工業学校を出てアメリカにわたり、土木事業をやるうち、伝道を志して神学校に学び、安政六年長崎にきた。この頃三一歳で、大隈は二四歳だった。フルベッキは語学の天才で、英語、中国語、日本語ができた。大隈は英語を学んだが、テキストはバイブルのほか、政治、法律、歴史、地理、財政のものにおよんだというから、「財政問題」と全く縁がなかったわけではない。しかし、由利公正の自己啓発、問題意識と実践力、そして現実の体験にははるかにおよばないものだった。

 「私は二人の非常に有望な生徒をもった。それは副島と大隈とである。彼等は新約聖書の大部分を研究し、アメリカ憲法の大体を学んでしまった」とフルベッキは書いている。

 この副島種臣がのちの外務卿。「蒼海伯いはく、金に潔にして女に汚きは伊藤(博文)なり。女に潔にして金に汚きは大隈なり」(『雲間寸観』)と古島一雄が書いた蒼海伯であることは前に書いた。

 王政復古の大号令が出たとき、長崎奉行河津なにがしは逃亡した。このあと、奉行所をおさめ、西国一六藩の志士たちと協力して長崎の動揺をおさえ、外国人関係を円満におさめたのが大隈の力だった。

 やがて、総督沢宣嘉(のぶよし)、参謀井上馨が赴任して長崎裁判所が開かれたとき、大隈は参謀に起用され、その身分は、徴士、参与、そして外国事務局判事と変った。

 このとき発生したのが浦上キリシタン処分事件である。

 周知のように、徳川三代将軍家光の禁止以来、キリスト教は国禁の邪宗門として弾圧された。ところが長崎の浦上地区には、いわゆる「かくれキリシタン」といわれる信者がひそんでいた。

 長崎裁判所沢総督は猛烈な攘夷主義者で、前からヤソ教を異端邪説ときめつけ、その処分の必要を力説していた男だ。長崎にくると、第一番目の仕事として、浦上の信者三四〇〇余人を逮捕、金沢など三四藩にあずけ、拷問を加えて転宗させようとしたのである。

 長崎のキリスト教弾圧を知って、まずいきり立ったのがイギリス行使パークスだ。

「排外主義のあらわれである。」

 と政府を非難し、処分の撤回をもとめてきた。

 政府首脳が閉口しているとき、

「私が談判いたしましょうか」

 といいだしたのが大隈重信だ。事件の担当官として、事情説明のため出張してきていた。無論、中央においては「無名」の存在。

「こ奴、名もしれぬ地方官のくせに・・・」

 とにらまれたが、結局他に人材がいないので、やらせてみよう、ということになった。

 談判の場所は大阪の本願寺。日本高官、外国公使たちがズラリとならんだ中で、パークスは、

「オオクマの身分が低すぎる。英国皇帝陛下の御名によって英国政府を代表する余は、かような下級官吏とは交渉はいたしかねる」と一蹴しようとした。ところが大隈は負けてはいない。

「貴下が英国皇帝の御名によって英国政府を代表されるのならば、わが輩もおなじく日本国天皇の御名によって日本政府を代表するものである。もしわが輩と談判できないというのであれば、これまでの抗議を自ら撤回したものと見なすが、それでよろしいか」

 とやり返す。パークスも、初めてホネのある日本官僚に会って、眼を見はり、態度を変えて談判に応じることとした。

 大隈がしゃべるのは、フルベッキ仕込みの英語である。

「今回の信徒処分は、日本国の内政問題であり、外国の干渉をうけるべきスジ合いはない。しかもこの処分は、国法にしたがって行っており、決して道理に外れたものではないのである」  

 するとパークスは、顔色を変えて掌でテーブルをたたき、

「それは暴言だ!」と叫んだ。

「信仰の自由は守られねばならぬ。今回の日本政府の処置は、まさに野蛮国の行為ではないか」

「私は、聖書や祈祷書を読んでいるから、この問題の本質はわかっている」

 大隈は、西洋文明史におけるキリスト教の功罪を列挙し、むしろ罪悪の行為が多かったようだ、といった。

 渋沢栄一は、この大隈によってスカウトされたのだが、その著『実験論語』の中で、明治元勲の人物批評をした。「知らないことはだれにもきく」という謙虚で率直な態度をとったのは木戸孝允であり、その反対が伊藤博文や大隈だった、と書いている。

「伊藤公はあれほどのえらい方であらせられたが、下問を恥じずというまでの心情となっておられなかった。何事においても、つねに自分が一番えらいものであるということになっておきたかった人である」

「世間には、好んで他人の言をきく人と、他人の言にはいっさい耳をかたむけず、自分一人でばかりしゃべって他人にきかせる人との二種類がある。大隈侯のごときは、他人の言をきくよりも、他人に自分の言をきかせるのを主とせらる御仁・・・」

 この談判でも、朝の十時から夕方四時まで、昼食ぬきで大隈はしゃべりまくり、さすがのパークスもゲンナリして、ついに引き上げてしまった。

 このとき、パークスのおともをしていたアーネスト・サトウは、のちに『一外交官の見た明治維新』という本を書いた。これは今日文庫本で出ているが、その中で、「大隈は、祈祷書(プレーヤー・ブック)を草原本(プレーアリ・ブック)といった」と笑っている。

 なるほど、そういう発音のまずさ、まちがいはあったかもしれない。けれども、ともかく英語で、朝の十時から夕方四時まで、昼食抜きでよくもペラペラしゃべるだけの知識をもっていたものだ。渋沢の批評に、大隈は「容易に他人の話をきこうとせぬわりには、他人がチョイチョイ話したことを、存外よく記憶していた」そうである。フルベッキ先生の雑談をちゃんとおぼえていたのが、このときプラスになったのだとおもわれる。

 ともかく、タフでおしゃべりの天才によってやかまし屋のイギリス公使をへとへとに疲れさせ、退散させてしまったのだから、

「大した男だ」

 という評価をうけたのは当然だ。(あしたにつづく) 

※佐賀へ私はよく行きますが、そういえば、「大隈重信記念館」の標識があるところを通ります。これを読むまで、大隈重信について何の興味もなかったのですが、俄然、もっとしりたいと思うようになりました。で、これがどう「君が代」問題とつながっているのか、ですか?それは自分でもわからないです。ただ、これが写したかった。「こよみ」が変る、それまで千年以上も使ってきた陰暦が、ころっとかわってしまうのが、この大隈重信の時代なんです。他にだれもいない(みんな外国へではらっていて)というようなドサクサの火急のとき、なぜかささっと西暦にかわるんですよね。それがどんだけ大きなことだったかを皆あまり認識していない。「無冠の男」にもそれには触れておられないようです。これが、私にはとても不思議なこととおもえました。無意識がかわる、ということ。それはそういうふうにやってくるのですね。どうぞ、もうしばらくかたちになるまで、おつきあいください。

大隈記念館のサイト:http://www.city.saga.lg.jp/contents.jsp?id=2648

もっと詳しいサイト:

http://www.sagasubanta.com/sagayoyo/yokatoko/saga/okuma_memorial_museum/

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