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2015年8月 6日 (木)

難波津のうたが気になる

古代九州王朝、であれこれぐぐっていた。

こんなブログが目についた。

まだみだししかよんでいません。http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kaede/4322/

天文99首和歌にある、ふたつのうたが気になっています。

七 梅  覚元

五十三 秋田  鑑教

ひきたいのですがじかんがないので、帰宅して。

2015年6月18日 (木)

八女天文歌人 鑑述と鑑実について

新発見!美濃守鑑述と鑑実の関係

   竹橋乙四郎・文
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13世紀なかごろ、大友能直の六男の時景(大和守景直)が一萬田氏を興す。
一萬田氏は、景直-光景-宣景-宣政-真政-貞直-直政-直泰-常泰-親泰-親実-鑑実と続く。
戦国時代初期、一萬田常泰は、大友義長、義鑑、義鎮(宗麟)の加判衆をつとめた。
常泰の孫の親実も宗麟に仕える重臣であったが、天文22年(1553年)、宗隣は親実の妻を寝取り、宗麟の命により親実は切腹となる。
親実の嫡男の鑑実(あきざね)が一萬田家の家督を相続するが、鑑実は宗麟を恨むことなく仕え、鑑実の嫡男鎮実(しげざね)は宗麟の娘を妻とし、鎮実に一萬田家の家督を譲り、鳥ヶ鼻城主(橋爪)を継承して橋爪氏となり、鑑述(あきのぶ)に改名した。鑑実の官途は美濃守。
鑑実は城に住まず、山々を見下ろす景色のいい館に住み、色々な花木を植え育てた。中に「黒染めの桜」という珍しい桜があり、天正初年、宗麟を迎えて二夜三日の大観桜会を開いた。1571年には正月俳諧を興行している。

~~~~~~~~~~
八女百首は美濃守鑑述が取りまとめ、読み手のひとりに鑑実がいるが、同一人物くさい。
また、八女百首が詠まれた天文24年は、宗麟が父親を死に追いやった直後であり、その心中や如何に。

2015年1月20日 (火)

八女戦国百首和歌とぶねいおう没日おなじ日付のなぞ

左)古代日本と百済の交流展覧会

太宰府・飛鳥そして広州・扶余

九州で生まれた百済の王

国宝(韓国) 王墓誌石(広州・武寧王陵出土)6世紀

(乙四郎:八女戦国百首とおなじ日付だ!)

トリビア

 

武寧王陵と出雲大社と伊勢神宮・内宮は一直線上に並ぶ。

 

武寧王陵出土の環頭大刀とそっくりのものが岩戸山歴史資料館にある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AF%A7%E7%8E%8B(ぶねいおう)

http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/MYBLOG/yblog.html/?m=lc&p=480

http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=uKjPc-PFheYJ&p=%E7%8E%8B%E5%A2%93%E8%AA%8C%E7%9F%B3%EF%BC%88%E5%BA%83%E5%B7%9E%E3%83%BB%E6%AD%A6%E5%AF%A7%E7%8E%8B%E9%99%B5%E5%87%BA%E5%9C%9F%EF%BC%89%EF%BC%96%E4%B8%96%E7%B4%80&u=academy4.2ch.net%2Ftest%2Fread.cgi%2Fhistory%2F1008077694%2F

右]海を越えて出合った至宝

神秘に満ちた伝説の宝刀

日本書紀に登場する七支刀ななつさやのたち。

これすなわち、石上神宮の七支刀なり。

国宝七支刀展示、1月15日~2月15日まで。
おとな1400円。

2015年1月14日 (水)

うきよについて

八女戦国百首和歌(99しかないけどとりあえず、こうよぶよ)、竹橋乙四郎の転載プリントをみていて、やっぱり今のうちに気になる処をなんとかしなきゃ。とおもった。
原本はひらがな表記だったから。
つい自分勝手に憂世にしているのが気になっていたのです。
というのも、以前何か誰かの本で、 廣末保だったかなあ、うきよは元、憂世だったが、江戸時代、浮世にかわった。というよなことをよんだ記憶があり、それでつい。

ねんのため、ネット検索。いか、でた。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

浮世
うきよ

                        もとは形容詞「憂(う)し」の連体形に名詞「世」がついた語で、「憂世」と書く。平安時代後期から室町時代まで、仏教の無常観に基づく「憂(うい)」ことの多い現世を否定的にとらえる概念であった。それが江戸時代になり、前代の厭世(えんせい)的思想の裏返しとして、はかなく定めない世の中、また享楽的に送るべき世の中として、現世を肯定的にとらえることによって「浮世」と書かれるようになる。江戸時代に入って、ようやく経済生活を確立しつつあった現実的な町人生活がもたらした考え方でもあった。これから転じて、遊里や演劇といった享楽的欲望を満たしてくれる世界、また当代流行の風俗から男女間の恋愛にまで、この「浮世」の概念は拡大し、現世のあらゆる事相をとらえる概念に変質した。[棚橋正博]

うき世、だったか、うきよ、とまるまるひらかな表記だったか、資料を出してこなければ。
まるまるかな表記だったような。。。

2014年1月20日 (月)

明智光秀の実像を追って

明智光秀の実像を追って

「本能寺の変 431年目の真実」  明智憲三郎・著

明智光秀子孫の憲三郎氏が暮れに出された本。

ずっとこの人の本のことを気にかけながらも忘れていました。
数年前、連歌についての鶴崎裕雄先生の専門的でありながらも大勢に開かれた視点の、岩波「文芸」誌に書かれていた論文を転載したことがあり、そのなかの愛宕百韻のくだりにコメントをくださって、ご挨拶いただきました。
それでわたしも、記憶の中に石橋秀野の明智灯篭という随想がありましたので、それを転載することで、あいさつをお返しした次第。
地元にながく住んでいる百姓には、その地をおさめた殿さんのことが連綿と語り継がれていることを、このやりとりで直に知ることができました。

石橋秀野は、戦後の俳壇を完全掌握していた文芸評論家山本健吉の最初の妻で、在所は奈良、やまとくんなか。祖先の記憶をたどり、明智光秀の実像に触れている、優れたエッセイがあります。ここで読めます。

「明智燈籠」:http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-0a40.html

引用:

明智燈籠といふのは、惟任日向守光秀を供養する高燈籠のことである。老人の話では光秀は百姓を愛すること強くそのためどの位このあたりの在所は恩恵をかうむつたか分らない。近畿の要地でありながら天産に乏しく恐らく奈良の都をのぞいては平和のなかつた地である。飢饉と過酷な年貢になれて来た。歴史に暗い私はこの地が光秀の所領であつたのかどうかさへ調べてゐない。多分彼が領してゐた日のあつたものであらう。祖母等の言によると光秀は武運つたなく秀吉に亡されてしまつた。信長は仏敵故非業の最後は当然だが、光秀はんこそは前世の約束とでも云ふべきで、いたはしい限りである。その霊魂を慰め、嘗て施された恩義を忘れないため盆の間燈火を捧げるのだと云ふ。女大学しか読まない祖母は彼女の幼時聞かされた通り私達にそれを伝へる。太功記十段目を好んだ彼女は同時に光秀を愛することに変りなかつた。それは彼女の命の中にしみこんでゐることであつた。人情こまやかで内にこもる光秀と、当時としては珍しいスケールの情熱家の信長が相反目し殺し合ふことに少しの不思議もない。私は長じて好きな英雄は信長である。世々連綿とさゝやかな燈籠を捧げられる光秀もなつかしいが、敢てとむらはれない信長も潔い。」(文章・石橋秀野)



官兵衛が始まるというんで、ふっと思い出したら、本が出たばかりでした。
「アヴェ・マリアのヴァイオリン」を求めにいったとき、目に飛び込んできた。

同名の本が最初に出たのはプレジデント社から、2009年だそうです。
そこへさらに4年間の研究をあわせて加筆したのがこの文芸社文庫版。
2013年12月15日初版第一刷、12月30日第2刷。

大河ドラマと連動して読まれるに違いない。

歴史は、常に過去も未来もうごめいている。

2013年6月25日 (火)

「石激」の訓についての「文学」誌、大谷雅夫の論とかささぎの素朴な質問

(きのうのつづきです。文章は大谷雅夫氏のものです。)

 

その「石激」の訓について、本年1月刊の新たな岩波文庫『万葉集』(1)の解説「万葉集を読むために」の拙文で、およそ次のように説いた。

 

「石激」の「激」の文字は、平安時代以降の古字書にも仏典や漢籍の訓点資料においても「そそく」の訓の付けられる例が多く、「はしる」は見られない。漢語「激」と和語「そそく」との結びつきは強く、万葉人の愛読書であった漢文小説『遊仙窟』の「激石鳴泉」という句も「石に激(そそ)く鳴る泉あり」と訓まれていたと考えられる。志貴皇子の歌の初句を「石激」と表記した者は、当然それが「いはそそく」と訓まれることを期待したであろう。また、「激」は水流が障碍にぶつかって急になることを言う文字である。水が石の上に落ちかかることを言う「いはそそく」を「石激」という漢字二字で表記するのも自然なことであろう。

志貴皇子の歌を、真淵以前の旧訓に復して「石そそき垂水の上のさわらびの」と訓むことを提唱したのである。
しかし、その解説においては、それに関連して、万葉集の他の三箇所にみえる「激」の文字をどう訓むかという問題に、触れるべくしてそのいとまをもたなかった。以下、主に巻七・1141、「摂津作」と題する作者未詳歌の例をとりあげて、その補説としたい。

武庫川の水脈(みを)を早みと赤駒の「足何久激」濡れにけるかも

武庫川の深みの流れがあまりに急なので、赤駒が足をもがき動かすその水しぶきで衣が濡れてしまった、という歌意が読みとられるだろう。原文の表記で示した第四句の「足何久」は「あがく」。問題は「激」をどう訓むかである。
その「激」は、平安時代以来の万葉集諸本のすべてにおいて「そそき(に)」と訓まれていたものである。ところが、江戸時代後期の鹿持雅澄『万葉集古義』が「足何久激は、アガクタギチニと訓べし、(激をソソギと訓は、大(いみ)じき非なり、九ノ巻に、河瀬激乎見者(カハノセノタギツヲミレバ)、ともあり)」と説いて、それ以来、「たぎち(に)」がすべての万葉集注釈書のとる決定訓となった。

しかし、その改訓は果して正しかっただろうか。巻九の例(1685)は後に触れよう。問題は、「激」が「たぎち」と訓みうるか否かである。
そう訓みとることをためらわせる第一の理由は、古字書や漢文訓点資料のなかに、漢字「激」に和訓「たぎつ(ち)」をあてる例がまったく存在しないことである。今日の国語辞書は、「たぎつ(ち)」には「激」の文字をあてることが普通であろう。しかし、古くはその例がない。

動詞「たぎつ」は、「たき」「たぎる」などと同源の語とされる(角川古語大辞典など)。古代語の「たき」は瀑布ではなく、急流のこと。「たぎつ」とは早瀬の水が勢いよくたぎり流れることを言う。

「たぎつ」(あるいは「たきつ」とも)は万葉集に三十例近く見られる言葉であり、多藝津(たぎつ)・多藝都(たぎつ)・多企都(たきつ)・田寸津(たきつ)など、一字一音の音仮名で表記される場合が多く、「当」の文字をタギの二音の仮名とした当都(たぎつ)。そして滝津(たきつ)などの表記もある。しかし、その動詞を一字の正訓・義訓で示すことは「落沸(オチタギツ)」(2089)の一例をのぞいてはない。『類聚名義抄』に「沸(タギル)」とある。その「沸」は「たぎつ」の表記として読み手の理解を得られやすい文字であろう。しかし、万葉集当時の読者には、漢字「激」から和語「たぎつ」への連想の糸はつながっていなかった。そのような形跡は見られない。

そもそも、一つの和語に、その意味に対応する漢語が必ずあるわけではない。漢語には置き換えられない和語がある。たとえば、「朝なぎ」「夕なぎ」の「なぎ」がそうである。万葉集中に二十九例も見られるその和語は、奈藝(なぎ)・菜寸(なぎ)・薙(なぎ)などの万葉仮名で示されて、その意味に相当する漢字で示される例はない。「なぎ」の意に当たる漢語が求めにくいからであろう。「凪」は後に日本で作られたいわゆる国字である。同様に「しぐれ」は四具礼(しぐれ)・為暮(しぐれ)・鐘礼(しぐれ)などと表記され、「なつかし」も「わぶ」も、すべて仮名表記される言葉である。「たぎつ」もまた、それらに似て、同意の漢語の見いだしにくい和語であろう。それゆえに「沸」の一例をのぞき、漢字の意による表記がなかったのではあるまいか。

「たぎち」の訓には、もうひとつ、歌意にかかわる難点がある。この歌の作者は、言うまでもなく、騎馬して川を渡っているのである。作者の衣を濡らすのは、当然、馬のあがきの跳ね上げるしぶきであり、川の急流そのものではない。しかしながら、「たぎつ」とは、例えば、「雨降ればたきつ(滝津)山川(やまがは)」(2308)のように、川の水がはげしく流れることを言う動詞である。しぶきを散らす意ではない。もちろん、急流からしぶきがあがるのは当然の現象ではあるが、「はげしく流れる」という意の動詞に「しぶきを散らす」という意味が含まれるわけではない。その名詞形の「たぎち」も「急流」の意であって、「しぶき」ではない。もしもこの「激」を「たぎち」と訓むなら、それを「しぶき」と無理に意訳しなければ歌意が通じないのである。

「足何久激」の「激」は、古義以前の「そそきに」に戻して訓むべきであろう。
漢字「激」の代表的な和訓が「そそく」であることは繰り返すまでもない。『日本書紀』の一書(第八)には「伊
弉諾尊(いざなぎのみこと)、軻遇突智命(かぐつちのみこと)を斬りて、五段(いつきだ)に為す。・・・・・是(こ)の時に、斬る血激灑(そそ)きて、石礫(いしむら)・樹草に染る。」とある。その「激灑」という漢語が「そそきて」という訓で古くから訓まれてきたように、「そそく」とはしぶきが散って降りかかることである。その名詞形「そそき」とは、しぶきそのものを言う。「赤駒のあがくそそきに濡れにけるかも」。馬が蹴たてるその水しぶきで馬上の衣がすっかり濡れてしまったと、歌意は無理なくとらえられるのである。

巻九の1685は「泉河の辺にして間人宿禰の作りし歌二首」の第一である。

川の瀬の「激」見れば玉かも散り乱れたる川の常かも

この「激」は諸本で「うづまく」とか「たぎる(を)」とか訓まれてきたものであるが、先の万葉集古義が「たぎつ(を)」と改め、今日では「たぎち(を)」と名詞形で訓読することが一般である。しかし、この訓についても先の「あがくたぎちに」と同じ疑問がある。繰り返すまでもなく、「激」字を「たぎち」と訓む例がないこと、急流の意の「たぎち」を「しぶき」と意訳せざるを得ないことの二点である。ここでも「激」を「そそき(を)」と訓み改めるなら、川の瀬のしぶきがあたかも玉を散らしたように見えるという表現に、何の問題もなく理解できるであろう。

あと一例の「激」字は巻一の長歌の結びに見える。「この川の絶ゆることなく、この山のいや高知らす、「水激」滝の都は、見れど飽かぬかも」(36)。諸本の原文に異同があり、訓読にも、句の切りかたにすら諸説のあった難訓の部分ではあるが、今日では原文を「水激」とし、「水(みな)そそく」と訓むところに落ち着いている。今は詳説する紙幅をもたないが、本文校訂の上でも、また「激」の字の訓み方の上でも妥当な訓詁と見られる。

万葉集では、一つの漢字がいつも同じ和語で訓まれるわけではない。しかし、こと「激」字に関しては、その四例ともに「そそく」「そそき」の訓が当たるのである。

「いはばしるたるみのうへのさわらびの」とは、賀茂真淵のあまりにも美しい改作の歌であった。それはたちまちのうちに多くの人々に愛される名歌となった。しかし、「いはそそく」もまた、それまで年久しく伝えられてきた歌のかたちであった。「いはそそくたるひ(氷)の上の」(和漢朗詠集・早春)と、明らかに誤った歌詞でも愛誦された歌であった。

名歌とは、たえず読みを更新されながら、人々の心の中に生きつづけるものであろう。

ー『文学』5、6月号より引用ー

▼かささぎの感じたこと・・・

そうまでして快作した賀茂真淵には、何の根拠かあったのだろうか。
それがとても知りたい。
というのも、司馬遼太郎とおなじく、いはそそくよりはいはばしるの方が調子よくこころにうち響くので、影が濃いと思えるからである。

もう一点。
日本書紀の第八、「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、軻遇突智命(かぐつちのみこと)を斬りて、五段(いつきだ)に為す。是の時に、斬る血激灑きて、石礫(いしむら)・樹草(きくさ)に染(そま)る。」という引用をなされているが、ネットでザザっとググって出てきたのは、五段ではなく、三段(みきだ)だったこと。どっちが正しい。そして、その意味は。

・・・なんてことを思ったのだが、それを知りたきゃ、自分で調べな。
ははあっ。すみません。

2013年6月24日 (月)

「いはそそく」と「いはばしる」 万葉集名歌の訓みの考察 大谷雅夫

名歌を読み直すー「いはそそく」補説

    大谷雅夫

一首の歌が人の生のささえとなることがあった。
ある作家の従軍の思い出に言う、

みじかい青春でした。あとは、軍服の生活でしたから。
ただ軍服時代二年間のあいだに、岩波文庫の『万葉集』
をくりかえし読みました。「いはばしる たるみのうへの
さわらびの もえいずるはるに なりにけるかも」。
この原初のあかるさをうたいあげたみごとなリズムは、
死に直面したその時期に、心をつねに拭きとる役目をし
てくれました。
(司馬遼太郎「学生時代の私の読書」『以下、無用のことながら』
文春文庫)。


志貴皇子「
懽(よろこ)びの御歌」。その歌の調べの明るさ、清らか
さに心を洗われた思い出をもつのは、おそらくこの人だけでは
ないだろう。

ところで、司馬氏のこの回想にはやや不審な点があった。
岩波文庫の『万葉集』とは佐佐木信綱編『新訓万葉集』(昭和
二年刊)上下二冊。その上冊、巻八の巻頭歌(1418)は
石(いは)そそく垂水(たるみ)の上のさわらびの萌え出づる春に
なりにけるかも」である。兵舎の薄明かりの中で彼が手にしていた
岩波文庫には、その歌は、「いはばしる」ではなく、「いはそそく」と
あったはずなのである。

万葉集とはもともと漢字だけで記された歌集である。万葉集を読むとは、
本来その原文の漢字列を訓読することであった。そして司馬氏の思い出
の歌の初句は「
石激」の二文字。平安時代から江戸時代まで、それは
一貫して「いはそそく」と訓まれてきた。「いはばしる」とは、江戸時代中期、
賀茂真淵がそう改めて、以後のほとんどの万葉集注釈書が支持し、踏襲
した訓であった。『新訓万葉集』は数少ない例外であった。

司馬氏は、当時にあって珍しかった「いはそそく」の歌を岩波文庫で読みながら、
「いはばしる」と後に記憶を変形させてしまったのである。「いはばしる」の「みごと
なリズム」の印象がそれほどきわ立つからだろうか。あるいは、「いはばしる」の形
でその名歌が語られる機会が多かったせいでもあろうか。

(つづく)

引用は岩波書店の『文学』です。

あんまり慌てたので、何号かわかりません。
著作権を問われるのだろうか。
研究者たちは、どういうところに心をとめて、原典にあたられるのかが
わかり、勉強になります。

八女戦国百首を訓読したとき、たくさんの疑問を感じつつも、
だれに尋ねることもできず、手探りのよみをしたものでした。
ちょうど大分へ行く機会があったので、図書館でその時代の
土地の連ね歌、あるいは和歌の作品集など残っていないか
調べようと思ったのですが、時間があまりなくて、とりあえず、
目についた政治の歴史の本、400年も大分を統治した大友氏
関連の、を借りてきました。さすがに本場、詳しく調べた本が
ありました。
気長に少しずつ、やります。


ところで、ネットで文学編集者の声が拾えました。
あら。ことしは創刊80年目だそうで。おめでとうございます。
はりつけます。

本年は、岩波書店創業百年ですが、雑誌『文学』も、1933年4月の創刊から数えて80年目を迎えます。創刊号の巻頭には島崎藤村の題言があげられていました。
 「古い言葉に、この世にめずらしく思われるものが三つある。いや、四つある。空に飛ぶ鷲の路、磐の上にはう蛇の路、海に走る舟の路、男の女に逢う路がそれである、と。わたしたちの辿って行く文学にも路と名のついたものがない。路と名のついたものは最早わたしたちの路ではない。」(表記は新字新かなとしました)
 私たちは先人の積み重ねてきた歩みをふり返りつつ、また新しい路を一歩一歩進んで行きたいと考えております。
 インターネットに携帯電話など、メディアは急速な変化を続けていますが、人間が思考を展開し、他者と交流をはかるうえで、文字による営みの重要性はまったく変わっておりません。広い意味の文学研究がゆるぎのない存在意義を主張する場として、小誌はよりいっそう努力してまいります。
 今後ともご愛読たまわりますよう、どうぞよろしくお願い申し上げます。

(『文学』編集長  倉持 豊)

2013年5月29日 (水)

くだらと日本、くだらなくない、思いつきを大事に使用、一日いちぜん。談義

コメント

百済と日本との関係は、七支刀の謎解き以来、気になっています。
大善寺玉垂宮の由緒書によれば、玉垂命は西暦369年に大善寺に御宮を造営して筑紫を治めた、とあるそうです。
七支刀が「倭王」へプレゼントされた年に起きた出来事です。
古田武彦氏は、百済は九州王朝の遷都を祝って七支刀を贈ったのではあるまいか、と推定しています。
523年以降の数年間は、激動の年です。
(年表)
523年 武寧王崩御(百済)。
524年 聖王即位(百済)。
525年 百済と新羅、国交を結ぶ。
526年 武寧王妃亡くなる(百済)。
継体天皇、初めて大和に入り磐余(奈良県桜井市)に都す。
527年 近江毛野臣、兵六万を率いて新羅に破られた南加羅・喙己呑を再興して任那に併合しようとするが、新羅は磐井に財貨を送って毛野臣の軍を防ぎ止めるよう勧め、磐井の乱が勃発する。
528年 磐井亡くなる。
529年 百済に高句麗が侵入。
530年 近江毛野臣、対馬にて病死。
538年 百済の首都を泗沘に遷都し、国名を南夫餘に変更。
百済から倭に仏教(仏像・経典・僧侶)を伝える。
蘇我氏(崇仏派)と物部氏・中臣氏(排仏派)とが対立。

武寧王陵の陵碑文は次の通りです。
「寧東大将軍百済斯麻王年六十二歳癸卯年五月丙戌朔七日壬辰崩到乙巳年八月癸酉朔十二日甲申安暦登冠大墓立志如左」
古田武彦氏は武寧王陵碑を見学し、その碑面の字の「癸卯」の部分が改刻されており、原刻は「甲辰」であったことを確認したのだそうです。
武寧王の没年は『日本書紀』や『三国史記』では癸卯。
古田氏は、干支が一年引き上がった暦が百済では採用されていて、武寧王埋葬後まもなく暦が現行暦に変更され、王妃の埋葬時に改刻された可能性が高いと指摘しています。

『よく分からない話。』

今日の乙四郎氏の「ついに解けた」というコメント(記事)を読みながら,いったい何が解けたのかという疑問を抱きました。

互いの基本認識は,下記2点です。

(1)武寧王が亡くなったのは,
[523年〕6月7日。

(2)『八女戦国百首和歌』が豊饒濃守源鑑述により奉納されのは,[天文卯年(1543)〜]。

したがって,武寧王千年忌は1543年でなく,[523+1000]=1523年でなければなりません。

何か勘違いをなさっていらっしゃるのではと思われますが,あるいは小生の考えに間違いがあるのでしょうか。

昨日のコメントに脱字があるのに気が付きましたので訂正させて頂きます。失礼致しました。

『八女戦国百首和歌』を奉納した豊饒[美]濃守〜。

【気付き】
『八女戦国百首和歌』という書名は元々のものではないように思われますが,いかがでしょう。

それは,今でこそ“天文”年間は戦国時代ですが,当時は“戦国”などという呼称はなかったものと思われます。

したがって,“戦国”の2文字は後世転写の段階で入ったのではと考えられます。

それとも,当該の作品には題名は付されていないのでしょうか。

まだブログ記事の全てに目が通せていませんので,或いは小生の早とちりかもしれません。

>したがって,武寧王千年忌は1543年でなく,[523+1000]=1523年でなければなりません。

干支は60年周期なので、1000年に最も近い60の倍数の1020年を千年に近似してみました。
1000というぴったりの数に美学を求めるか、干支周期に美学を求めるか、の価値観によります。
ちなみに1500年忌は60の倍数なので、12年後の2023年となります。

>いったい何が解けたのかという疑問

八女の百首和歌の奉納年と干支との間に12年の誤差があった謎がずっと気がかりでした。
気にしてた人はごく数人ですが・・・

そう、それなんです。
十二年の誤差。
これを気にしていたのは、天文歌人という項目を掲げて八女百首和歌を紹介した江戸時代の考古学者・矢野一貞その人。
竹橋乙四郎。この人は調べる人なんです。
おとといのご隠居さまがおすすめくださった古田たけひこ先生のご本はよんでるんじゃないかとかささぎはおもうのですが。
矢野一貞と古田先生と少しかさなるところがある。矢野の研究はずうっと後年になるまで認められなかった。
今から父のところへ服をなげいれて、それから仕事。ではいってきます。
よるにまとめるから。

小生は以下のように考えました。

杉山洋氏の『善知鳥吉三の八女夜話』No.788あるいはNo.789に当該資料の奉納に就いての経緯が記されています。

奥書の奉納年次の干支が12年ずれていることは,確かに問題(不審)ですが,だからといって『抜書』の説明を無視して,新説(武寧王云々)がその不審を解決することになるでしょうか。

(1)『百首和歌』は筆蹟が天文期から江戸前期のように思われますが,干支の筆蹟が本文と同筆なのか否かに就いては現物を見ないことには何とも言えません。本文の手馴れた筆蹟は,連歌師等のプロの手によるものと思われます。

(2)『抜書』は明らかに『百首和歌』よりも時代が下ります。

(1) がオリジナル(原本)であるのか,それとも時代が少し下る時期の写本なのかについては[料紙]等の検討が必要です。

『百首和歌』なのに,一首足りないという状況は,原本書写の際のミスによるのかもしれません。

『開記(ママ)抜書』には「自ら書き奉納」とありますが,現在残る『百首和歌』は明らかにプロの手になるもの。

という事は,当初奉納したものは各自の自筆。後(12年後)にプロの手になる浄書本を再度奉納したという事なのかもしれません。(書写者はそのことをさり気なく示したのだと思われます。)

「武寧王云々」の入る余地はまったくないと思われます。

以前見た大内氏の系図には一番大事な地名に誤記が見られました。しかしながら,それは単なる書写者(プロ)のミスではなく,原本ではない,つまり写し(コピー)であるという事の明示ではないかと思われました。

武寧王に惹かれるのは、武寧王と磐井との同時代・同地域性からです。
百首和歌が奉納された場所が岩戸山古墳の今伊勢宮であるということから、筑紫の君磐井に読み解きの鍵があるであろうというのは自然な推理。
武寧王については、磐井との濃厚な姻戚関係があるという説があること。すなわち、磐井の血縁である可能性があること。
磐井と同時代の、磐井の乱を抑えた継体天皇(507-531)は皇室血縁の正当性に疑義があること。
継体天皇の没直後、空位、安閑天皇、宣化天皇と皇位継承に混乱があったこと。
(継体、安閑、宣化の親子が次々に暗殺されたという説あり)
その後、継体天皇と皇室直系の手白香皇女との間に生まれた欽明天皇(539-571)が即位したが、手白香皇后については武寧王の血縁説もあること。すなわち、磐井の血縁の天皇が即位した可能性があること。磐井のリベンジ。
欽明天皇が即位した直後(欽明天皇元年)、磐井討伐作戦の主犯である大伴金村が失脚したこと。
欽明天皇の時代、百済側の古文書に磐井の後裔の活躍の記録が散見されること。

武寧王の登場の余地はあるのではないかと思います。

ほうらね。乙四郎はなかなか面白いおとこじゃろうが、ご隠居。

あたしはなんも知らんばってん、一つ乙四郎の論点ではっと目がさめるようだったのは、千年紀をまつる、ってのは、西洋の思想かもしれんなあ。ということでした。ミレニアムがどうのって大騒ぎしたのはつい十年前のことでしたよね。
そうそう、あのときさ、なぜ、だれが、大神宮のなかで慶事のお能、神事能といわれる「翁」を舞わせる興行を計画したのでしょうか。それ、わたしはずうっと気になっている。梅若なんとかいう有名なお能の人が舞ったんじゃなかったかなあ。とっても客がおおかった。正月です、たしか元旦かそこら。
二千年だったか、二千一年。笑。すみませんねえ、かささぎ、どうも記憶がぼける。

で、乙四郎がいうように、えとは六十年で一回りする性質があります。華という字には十が六個ありますんで、還暦を華甲ともいいます。それを思えば、むかしの陰暦に暮らしていた人々の意識は今のわたしたちとはまったく異なっていて、それは無意識の次元からまったく違っていたってことです。
六十の倍数で時をはかっていたのかもしれません。よくわかりません。

ただ、すぎやまおんじいのブログをよんでいたら、
松嵜英一氏の遺した読みが手元にある、とありました。それ、ブログに出してくれないでしょうか。
いや、なぜってかささぎは無くしてしまったんだ。
そういうてえげまんげなところがかささぎにありまして、でも松嵜さんの一次解読のそれがあると、自分のよみ解いたところがはっきりすると思って。

それにしても、なぜ松嵜さんは61くらいで亡くなってしまったのでありましょう。おしむべきことです。

いつもおもいます。
すぎやまおんじいブログをよみますと。
なぜかささぎのかいた石橋秀野ノートのこきおろしをやらんのだろうかと。あの性格だし、きっといっぱい突っ込みたいでしょうに。
いまなら、なにをいわれても、かささぎは泣きませんよ。だって、ほんとうに間違いばっかだったから。

それと、ご隠居へ。
八女戦国百首和歌という名前は、そういや、わたしが勝手につけたような気がします。だってさ、ほんとうに戦国時代真っ只中ですからね。
それ、読んでいてもびんびん感じましたよ。どこらへんかって?
憂き世。

八十九    橋     頼運

これも又憂世をわたる心かは
賤が深田を越ゆる柴橋

九十六    述懐    鑑教

かへりてもおなじ憂世とおもひとる
爪木の山にいつまでをへん

九十九   祝言    塩亀

なべて世に神の恵みのはやくして
よろこぶ事をかさねつたへん

100首目がないのはわざとないのだとかささぎは思っています。ほら、行き着いてしまったら崩壊があるのみ、という思想で、建築なども完成の一歩手前で寸止めというか、わざと手を抜いた。例、日光東照宮。それとおなじ思想をかれらはもっていた。
えんぎとよむのか、塩亀の最後の挙句(?)は、
歌としてよんだとき、とっても違和感をもったのは、神のめぐみの「はやくして」。
そんなの、みたことない。
まるで、早く早く、かみさま、たすけて!
と呼びかけられている気がした。

これだけの量の歌を、五百年も前の武士たちが今に残してくれたことが、すばらしいと思っています。
まだいくつか書きたいこともございますが。
よみとかせてもらえたことには、感謝するべきか。それとも、なんの因果かと悔やむべきか。

【あらためての考察】

残念ながら乙四郎氏は小生の言う『抜書』に記されている奉納の経緯をまったく考慮せず,武寧王と磐井に就いての思いつきのみから干支のズレを考えようとされています。

杉山氏の『善知鳥吉三の八女夜話』に紹介されている『抜書』は原文そのもののではありませんから問題はありますが,最初奉納されたものは当該部分が「各自の自筆」である寄合書き(分担執筆)だったのだと思われます。

現在残っているものは,全文一人の手になるものと思われますので,『抜書』に云うところとは異なっています。

したがって,現在残っているものは後世(12年後)の再写本(浄書本)と考えるのが妥当だと思われます。

まずは,その資料事実から考えるのが研究の常道だと思われるのです。

『抜書』にあるような経緯に就いての伝承がなく,また豊饒美濃守源鑑述が,例えば周防山口の守護大名大内氏のように,自らの出自を百済系(聖明王の第三子)であるなどと言っているのであれば,武寧王云々も考えられなくはありません。

しかしながら,そのような事実はないように思われます。

収録歌が一首足りないのは,最終の99首目が“祝言”で完結していると思われますので,やはり途中の一首が落ちていると考えざるを得ません。

何はともあれ,現物或いはコピー等拝見したいものです。

今一つ気になるのは,大神宮は
(1)いつ,(2)誰によって勧請されたのかという事です。

皇室の祖神を祀るお宮ですから,他のお宮のようには簡単に勧請出来なかったのです。

『百首和歌』の冒頭(今伊勢寳前)さらには奥書から天文二十四年(1555)には現在地に存在していた事は確かでしょう。

伊勢神宮の最初の地方への勧請は,永正17年(1520)山城の管領代として幕政を牛耳っていた六ヶ国守護の大内義興が後柏原天皇の許可を得て,吉田社の仲介で自らの領国周防山口に勧請したのが最初と云われています。

したがって,それから35年後に筑後に勧請されていたという事実に驚かされますが,直接伊勢からなのか,それとも例えば山口からなのかに就いては考察の余地があります。

ご隠居。
乙四郎の説は、専門家からみたら、単なる思い付きでしかないんですね。ふうん。
ではありましょうが、こうもちょうどのところに時の石(意思)が落ちてたら、なんというシンクロと、わくわくします。きっとなにものかが道案内しているんだろう。
かささぎは昨日寝るとき、ぶねいおうぶねいおうぶねうぶにゅう・・・とごろあそびをやっていて、さいごははにゅうのやどにいきつき、埴生の宿はわ~が~や~ど~と歌って、寝入りました。で、朝おきたとき、ぶねう、ってなんだったっけ、とおもった。
ぶねう。ぶにゅう、じゃなかったぶにょう。ゆたかな尿か?いやちがうぞ。地名でもあるようだな、大分の。・・・そうか!
ほうじょうだった。豊饒とかいて、ぶにょう。でした。今伊勢に歌を奉納した、みなもとの鑑述です。
ぐうぜん音がにているのですね、。

わたしは歴史をしらない、ただ□□□になっていた歌の空白部分を興味にかられてよんだだけの者です。だけど、どういう事情でか、だれも手をつけなかった歌をぜんぶ世に出す仕事にむりやりひきずりこまれてしまった。
それは杉山洋先生のブログをごらんになれば漠然とみえてくるように、八女の文化行政がみずから所有する宝のカチにきづかず、怠ってきたことが偶然あったからです。誰が悪いとかではなくそういうふうになっていた。かささぎがあっさり書いてしまえば、八女の地へおいでになった学芸員さまはよそものでいらしたため、土着のくせのあるいじわるじいさんと気があわず、とうとう仕事において一致協力が図れず、こうなったんじゃないかなあ。すぎやまのおんじい、あるいはその周辺のおのおのがた、この見方はいかが。え?そげんはっきりいったらいかんち?ごめんなさい。
きのうのおんじいのブログよまれましたか。
役場前に秀吉時代のしゃちほこが飾られたとか。行方知れずになっていたのがでてきたそうです。筑紫広門のいた城の。クリスチャンだった殿様です。

【あらためて思い出したこと】

『開記(ママ)抜書』に云う
「自ら書き歌巻一巻として奉納」について,あらためて思い出したことがあります。

明応4年(1495)長門住吉神社に連歌師の飯尾宗祇が『新撰菟玖波集』の完成を感謝して奉納した“法楽百首和歌”は各自自筆の短冊でした。

現在は折帖になっていますが,それは江戸時代初代長門府中藩主毛利秀元の寄附により改められた結果です。

宗祇は大内政弘の手厚い保護を受け,二度周防に下向しています。政弘の推薦により念願の『新撰菟玖波集』の撰者に選ばれ,完成の大任を果たしたお礼に人々に呼びかけ奉納したのです。

後土御門天皇や勝仁親王(後柏原天皇)など三十名の著名な歌人から寄せられたものです。

したがって,岩戸山の今伊勢の寳前に奉納されたものも,最初は現在のような巻子状のものではなく,短冊そのものだったと思われます。

現在八女市の文化財に指定されているものは,おそらく何らかの事情(閲覧の便等)により,短冊を写して一巻にしたものと思われます。したがって,本品に対する副本的性格のものと思われます。

ただ『開記(ママ)抜書』に「歌巻一巻として奉納」という表現から考えると,『抜書』が書かれた時には既に短冊自体は失われていたのかもしれません。

本来神の寳前に奉納するものは,時に右筆(ユウヒツ)の手になるものもあるようですが,原則“自筆”なのです。(以上,気付きまで。)

[追而]
杉山洋氏の『善知鳥吉三の八女夜話』,また貴女様の『かささぎの旗』は大変興味深く,どうしてもっと早くに行き当たらなかったのかと残念に思いました。

貴女の文章中に時々登場する“ぼん”という方,てっきり男性だとばかり思っていました。
まさか女性だったなんて(笑)

>思いつきのみから干支のズレを考えようとされています。
まさに「思いつき」のみです。
ホームランを期待して打席に立っても技量がない打者は凡ゴロが関の山。それでも打者はまぐれ当たりを夢見てバッターボックスへ向かうのです。そんなところにアマチュアの楽しみの多くが転がっています。
観客の期待に応えるべきプロフェッショナルだとそういうわけにはいかないのでしょうが、自分としては、推理小説のプロ作家のような厳しい視点ではなく、推理小説の読者と同じ視点で古代史推理を楽しんでいるだけですのでご容赦ください(でなきゃ、イスラエル十二支族と磐井とを結びつけるような楽しい推理ができるわけがありません)。
ところで、八女99首和歌の特色は、同じ語彙が多用されていることです。(事実)
ここに暗号の臭いを禁じ得ません。(思いつき)
また、歌がそれぞれ独立しているのではなく、出された歌と対を成す歌が多いことも特色です。(事実)
ここにも暗号の臭いを禁じ得ません。(思いつき)
語彙の多用例の代表的なものは「松」です。同音の「待」も併せると、数えきれぬほど。「夏日待」のタイトルの中にもあります。(事実)
これは、鑑述が兼「松」城主であることへの敬意かも。(思いつき)
ところで「松」と題した歌があります。(事実)
八十一  松  弘智
得てうへし松にならへる君が宿を
猶すみよしの神や守らぬ
ここに暗号を解く鍵がありそうです。「君が宿」すなわち正統な皇室のことを「松」と例えて、他の歌を解読せよと言ってるかのようです。(思いつき)
「君」「きみ」が使われている歌には、
一    立春  鑑述
君が代のためしにすめる千年川
かはらぬたねに春や立つらむ
三    霞  鑑實 
朝夕に霞たなびく小松原
きみがちとせの春ぞ久しき
の対(「君」~「きみ」、「千年」~「ちとせ」、「春」~「春」)をなす歌がありますが、そのほかの歌では、
八十二   竹  宗房
きみが代を久しかれとて植へをきし
たけの臺のかげ越しぞ思
のみです。(事実)
歌が前後連続している上に、「うへ」~「植へ」、「君」~「きみ」と二つも語が重なっていますので対を成していると考えてもいいでしょう。(思いつき)
ところが、不思議なことに、どちらの歌も「植へ」の送り仮名が「へ」になっています。旧かな遣いでは「ゑ」であるべきところです。(事実)
これは、敢えて「へ」と誤用して、暗号だよ、と強調しているのかも。(思いつき)
「小松」の語彙と「君が代」の歌詞の補完で前後の「君」「きみ」歌と関係性がある次の歌、
二      子日  鑑教
さゝれ石の庭に小松を引き植ゑて
苔のむすまで友とこそ見め
では「植ゑ」となっていますから、これらの関係歌を対比させると、「へ」が浮き立ちます。(事実)
これは、「得て植へし」ではなく「得て得べし」と読むのが正しいかも。(かささぎ思いつき)
「得て得べし」とは聞き慣れない言葉ですが、キリスト教の「信ぜよ。そうすれば救われる」という重要コンセプトを伝えるのに使われる一節、「すべて祈りて願うことは、すでに得たりと信ぜよ。さらば、得べし。」(マルコ伝十一章二十四節)が想起されます。キリスト教伝来の頃だし、この歌に「神」の語彙が同居してるので、キリスト教がらみの暗号だといえなくもない。(思いつき)
この歌以外で、99首和歌で「神」が登場するのは、
十九    三月盡  孫七
伊勢のうミや波よるもくさかきためて
くらす神代の春はいく春
四十八    月  塩亀
あまてらす月を清水にうつしきて
猶かけまつる伊勢の神垣
六十四  神楽  覚元
祈てふ事はおろかにあらし世に
しらゆふかけてうたふ御神楽
九十九   祝言    塩亀
なべて世に神の恵みのはやくして
よろこぶ事をかさねつたへん
の四首です。(事実)
「祈てふ事はおろかにあらじ」にもキリスト教の匂いを感じます。キリスト教はこんなこと言ってるけど、昔からの「神」に守られているのだと。(思いつき)
こんな風に、歌と歌とが何らかのキーワードのもとに網の目のように繋がっています。磐井に関連する歌というのであれば「岩」「祝」などもキーワードかも。(思いつき)
一    立春  鑑述
「君が代」のためしにすめる「千年」川
かはらぬたねに春や立つらむ
二      子日  鑑教
「さゝれ石の」庭に小松を引き植ゑて
「苔のむすまで」友とこそ見め
と、最初の2首に「君が代」の歌詞がてんこ盛りですが、なぜか「いわお」が隠されています。この99首は隠された磐井の真実を伝える暗号だよ、というサインかもしれません。(思いつき)
99首の中で「岩」が使われているのは、
十七    藤  宗右
岩に生ふる松にかゝれる藤なみも
をのれくだけて春ぞ暮けり
九十八    尺教(釈教) 宗右
岩つたふよ川の水のつふ/\と
とくをまことの御のりとぞしれ
の2首で、「祝」は、トリ歌の題(「祝言」)として使われています。(事実)
「岩に生ふる松」は磐井に始まる皇紀、「岩つたふ」は磐井の血が伝わっている、という解釈もありかも。「藤なみ」は天皇とりまきの藤原氏でしょうか。(思いつき)

隠居さまのおかげで、「思いつき」がパワーアップしてきました。

こんにちは。
合宿の件でと覗いてみたら「ぶねいおう」一色でした(笑
内容に関してはこの場で言葉をはさむ余地もありませんが。。

「思いつき」

私はこの言葉はとても素晴らしいものと感じます。
一筆書きが云々・・歴史や考古学、いずれも証拠となるものは「点」でしかなく点と点を結ぶ重要な要素は直感(思いつきから)始まると思います。決して「点」を無視しているものではなく、アプローチの違いというものでしょうか。。。
「思いつき」から「点」を繋げるのが先か「点」を積み上げて検証を重ねていくのが先か。。今のこの場で脳で議論をしても互いに求めるものは、なかなか交わりにくいかと思います。

仮に論理的考察を基点として捉えるも、実際に点と点を結びつけているのは人の感性。その「点」が本当に確かなものか。。仮に同様記載の文書が異なる場所に複数存在したとしても、いくら検証をしても当時の大きな文化的・政治背景からの時の権力者や人々の「思惑」や「成り行き」まで「点」の証拠を積み上げていく論理的考察からだけでは読み解けない部分が多々あると思います。
大脳生理学的に経験を持っている人はこの世に皆無。
所詮、その時代に生きていた人は今は誰一人いません。

「口伝とDNA回帰」

私は歴然たる事実して歴史を紡いでいるDNAには「幽かにその記憶はある」と思っています。そしてそのDNAが直感に大きく語りかけてくるような気がします。各人のDNAが無意識に「これを理解して。これからも子孫に繋いで」と。。。

先の合宿にて乙先生とお話した事があります。
「直感、とても大事ですよね。DNAの記憶を如何に呼び起こす事が出来るのか。。。」と。
私がなぜ古来の音を求めたり和歌・俳句・連句に興味があるかと言えば。。
そのDNAの記憶を少しずつ呼び起こしていく方法が古来から受け継いでいる曲音であったり、和歌・俳句・連句を「口伝」から学び楽しむ事と感じるからです。とても感性を刺激し変化させます。

ご隠居殿、是非一度連句をご一緒しませんか?
ご隠居殿の卓越した現在の知識とご経験に、さらに違った視点の感性がきっとまた違う新たな発見を見つけ出してくれるような気がします。

ご隠居

拝復、
ぼんは呆夢とかいてぼん、手芸好きでしっかり者の古風なおっかさんです。

どこのどなたか存じませんが、知らないことを教えてくださってありがとうございます。

ところで、わたしは抜書というものをよんでおりません。それはなんなのですか。ごぞんじでしたら、おしえてくださいませんか。
うたの写しのみでの印象でしかものを申せませんが
はじめからおわりまで、一人の人物の筆になるものです。年号もみたところ、そうです。
ご隠居の書かれている通りに、天文廿四年が実物を転写した年として、その右かたえに小さく書かれている癸卯こそが実際に奉納した年度の天文十二年の干支である、としますと、ご隠居、過去にそういうような表記法をとった先例があるのでしょうか。

神前に奉納するのは原則自筆、はいわかりました。

追記
これが八女市の有形文化財指定をうけたときの名称は、
うとうきちざのやめよばなしにはこうあります。

>八女市は文化財専門委員会の答申にもとづき平成七年一月二十五日付でこれを有形文化財に指定した。

指定名称は「天文二十四年源鑑述ら今伊勢奉納百首和歌」。

ちなみに、このころの文化財専門委員会長は杉山洋先生、副会長が第一次解読をされた故松嵜英一先生であると書かれています。↓

その前が きつきせんせい ではなかったでしょうか

今日、休み時間にアクセス解析をやっていましたら、ここへおいでの方がいらしたので、つい。
久しぶりに読み返すと、やはり面白くてひきこまれました。過去はだれも知らないのだものね。あっとおどろく世界だったような気がする・・・・
あらためて、縁というものを検証してみました。
気づくのがいつも遅いのですが、おどろくべきことに、木附先生(かささぎの従姉の嫁ぎ先の岳父,故人。木附太子おばあちゃんの夫)が八女市の文化財専門委員会長だったことがあったようです。

「7世紀の瓦に和歌の手習い? 奈良・中宮寺跡、最古級」(朝日新聞デジタル)
という記事が流れました。(↓)
その記事に紹介されている「難波津の歌(なにわづのうた)」は、百済から渡ってきた王仁(ワニ)が仁徳天皇の即位を祝った歌とされているこの歌でした。
難波津に  咲くやこの花  冬ごもり  今は春べと  咲くやこの花
この歌では「花=梅」なのだそうです。
調べてみると、難波津は応神天皇の所縁の地であるとともに、3年間の空位の後に仁徳天皇が即位した地(難波高津宮)でもあります。
「冬ごもり」は、空位の3年間を指すのでしょう。
さらに調べてみると、この歌を岩戸隠れ伝説に結びつけている説も発見しました。
咲くやこの花からコノハナサクヤヒメを容易に連想できます。
コノハナサクヤヒメの父(大山祇神)も王仁と同じく、百済からの渡来者だそうです。
さてここで気になるのは、八女百首の7番目に出てくる難波津の歌です。
「    梅        覚元
心ある友としミばや難波津の
花もさかりの香に匂ふころ」
梅の花を詠んだこの歌の本歌は、当然、上述の難波津の歌でしょう。
ではなぜ、覚元さんは、鑑述、鑑教、鑑実、鎮時、鑑秀さんがそれぞれの切り口で千年の春を讃えた流れの中で、この歌を詠んだのでしょうか。
(ひとつ前の6番目は鑑実さんの再登場で流れを転じてはいるのですが・・・)
ここは素直に、千年前の「難波津のさかりの頃」に視点があると思ってもいいのではないでしょうか。
「岩戸」隠れ伝説に因む歌を本歌とする歌を「岩戸」山で詠んでいるのも興あり。
仁徳天皇の崩御は西暦427年で、仁徳天皇陵(大仙陵古墳)は日本最大の前方後円墳(墓域面積は世界最大)として有名です。
ところで、そのおよそ100年後に崩御の継体天皇陵(太田茶臼山古墳)は、外堤護岸工事の事前調査で5世紀の円筒埴輪が発掘され、約100年のズレがあるとのことで、継体天皇の本当の陵墓は太田茶臼山古墳から北東に1.5キロの今城塚古墳であろうとされています。
この今城塚古墳を調べてみたところ、「継体天皇と同時代の筑紫の磐井の墓とされる岩戸山古墳ときわめて近い形をしている」という記述を見つけました。
520~530年ごろに造られたものであろうとのこと。
武寧王の没年は523年です。

去年毎週通ってた道沿いやや奥に鰐(王仁)神社があります。 気になりながらいまだに参っていませんが・・ここで繋がってよかった。 
王仁博士は有明海から上陸されたのかも、 場所は神崎市志波屋。 吉野ヶ里公園の横、巨大ソーラー施設の道沿いに看板あり。
吉野ヶ里平野から八女の山々(釈迦岳~飛形山)がぐるっと一望できます。

>心ある友としミばや
の意味はよくわかりませんが、磐井と武寧王とは親しい間柄であったようです(↓)。
岩戸山古墳と同じく石人、石馬が配置された前方後円墳が玉名郡和水町にあります(江田船山古墳)が、ここで発掘された遺物は百済の武寧王稜の遺物と酷似していたそうです。
『江田船山古墳鉄剣銘の秘密―被葬者は百済王の王子だった!!』という出版物もあります。
ひょっとして、岩戸山古墳は、定説の、磐井が作らせた生前墓ではなく、武寧王の死を悼んだ記念碑かも。

7世紀の瓦に和歌の手習い? 奈良・中宮寺跡、最古級

朝日新聞デジタル 5月28日(火)5時41分配信

7世紀の瓦に和歌の手習い? 奈良・中宮寺跡、最古級

和歌の一部が書かれた瓦の破片。後ろは文字を赤くなぞって示した写真=27日、奈良県斑鳩町、竹花徹朗撮影

 【松山尚幹、西山良太】聖徳太子の建立とされる奈良県斑鳩(いかるが)町の尼寺、中宮寺(ちゅうぐうじ)跡(国史跡、飛鳥時代)で、古今和歌集の有名な和歌が刻まれた瓦が見つかった。町教委が27日、発掘調査報告書で明らかにした。この和歌が書かれた木簡などは30例以上確認されているが、瓦では2例目。今回は7世紀中頃~後半のものとみられ、最古級となる。

 瓦は長さ12センチ、幅10・2センチ、厚さ1・6センチの平瓦。漢字1字で1音を表す万葉仮名(まんようがな)で「ツ尓佐久(つにさく)〈移(や)?〉己(こ)」の6文字が側面に刻まれていた。瓦を焼く前にへらで削ったらしい。古今和歌集の選者の1人、紀貫之が初心者の手習いの手本として、仮名序(905年)に引用した「難波津(なにはつ)に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」の一部とみられる。

 この歌はこれまで徳島県・観音寺遺跡や滋賀県・宮町遺跡(紫香楽宮〈しがらきのみや〉跡)の木簡(いずれも7世紀後半~8世紀)や、奈良県桜井市の山田寺跡から出土した瓦(7世紀後半)などで確認されている。難波宮(なにわのみや)跡では、万葉集の枕詞(まくらことば)「春草の」と読める万葉仮名が記された木簡(7世紀中ごろ)が出土している。

朝日新聞社

最終更新:5月28日(火)9時37分

朝日新聞デジタル

2013年4月29日 (月)

慰霊祭と軍艦の名前

今日ひる、とうみょうじ邸(古賀邸ともいうが)で一品持ち寄りのランチなのに、さっき、ざりがにおっちゃんが来て、十時から納骨堂で慰霊祭だという。ああそうだった!毎年ひにちが四月二十九日と決まっていたんだ。すっかり忘れていた。ご先祖さま、申し訳ありませぬ。

納骨堂は村の共同運営の墓地です。
できて四十年以上経ちます。
戦争にいって亡くなった兵士の墓もあります。

母はもう歩けないし、わたしが参拝するしかない。

ところで、まだ訂正をしてないのですが、つぎの間違い。
さくらさんのブログにコメントを残してた、その部分を拝借して、ここに残します。

ついでに (ひめの)
2013-04-15 12:50:30
さくらさん、
処分されるなら、かささぎに全部下さい。
かささぎさん (さくら)
2013-04-20 13:46:09
まだ送るだんになっていません。
ちょっと待ってください。

資料についてもどのようにするかまだ決心はついていません。
艦のデータとか・・・・
みくま。 (かささぎの旗)
2013-04-25 06:37:27
えっ 軍艦のデータ。

こないだ、やっと気づいた間違い。
軍艦みくまを、みすみと打っていた。
三隈。三隅。
軍艦の名前などとんと興味なく、はじめて戦記を打ち込んで、字を間違えていることに気づかないままでした。
永井友二郎先生のミッドウェー海戦。
調べてびっくりした、なんやん、日田の三隈川って、ちっごがわのことじゃん。おまえ、いつのまに、ちがうなまえででていたの。(ってかさ。むかしのなまえ~ででています~っていう、どなたかの歌まで思い出してしまいました。
ところで、なぜ軍艦製造者は、日田の部分を流れる筑後川のなまえなぞを栄えある軍艦の名前にしたのでしょうね?
おそらく、かささぎあたまでも想像できる理由は。
そんしとのふるさとの川じゃったけん。

ほかにはなにも思い浮かばなかった。
くまとすみ (かささぎ)
2013-04-25 06:42:27
ふしぎじゃったとは。
この間違いに気づいた日の翌日、ネットで、どこぞの大学が入試で大隅と書くべきところを、大隈とやっていた。
というニュースを見ました。
よくあることなんだろうかなあ。
かささぎさん (さくら)
2013-04-25 08:54:51
はーい、よい質問ですね。

戦艦にはレベルや役割によって、大和・武蔵・日向などの昔の国名がついているのと、山の名前がついてる比叡・鳥海・金剛などと、川の名前がついてる三隈・阿武隈・長良・利根・・・などとなっています。
そのひとつ千歳という船の慰霊碑が久留米の水天宮にあるのは、筑後川の大昔の名前が千歳川だからです。
筑後という船があってもよかったんでしょうが。


ちなみに今も海上自衛隊には「ひゅうが」というどでかい船がありますが、現在はみんなひらがなです。
横須賀で「ひゅうが」を見たとき仰天するくらい大きかった!
自衛隊艦船みると世界観が変わる!

2012年6月21日 (木)

田植え間近

500年前もきっとここは田んぼだったろう。

こんなにまっすぐな畝ではなかったにしろ、おなじような。

梅雨には水があふれて、いろんなものが流れてきたろう。

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