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2015年3月15日 (日)

「上田敏追悼」  田部重治

 文(語り手)・ 田部重治

 私は、富山の中学校にゐた頃、上田先生の書かれたものを、「明星」「帝國文學」「文學界」で読んだ筈だ。先生は、私の崇拝の的であつた。キーツやペーターには先生の筆を通じて親しんだ。先生は、明治七年生れであるから、私より十歳上である。四十三で亡くなられた。
 私が大学に入った時は、西片町に居られた。きれいな奥さんがゐられた。お母さんに対しての親おもひの情が知られた。お父さまは早く亡くなつてゐた。その頃は、九月が授業の始まりであつて、日露戦争が屈辱的交渉に終つたといふので、交番焼き討ち騒ぎがあつた頃だ。私は入学して、スウインバーンの、Atalanta in Calydon を先づ教へられた。それから、イエーツ、文学概論をやられた。夏目、上田孰れも講師であつた。私共三年の時、文学教師は去り、語学の教師が幅を利かせた。上田先生は学生から評判が悪く誰も訪問しない。私が先生の所へ行つた。私は多数行くところへは行かない。教師としても官立へ行かず、私立で通した。このごろ評判の悪い吉田首相を私は、ひいきする。夏目主義に傾いている学生は、スウインバーンやロウゼッティを罵つた。夏目といふ人は異説を吐くことを喜ぶ人である。上田は、前ラファエル派ともいふべき人で、「風疾のトロイ」なんか云はれると、夏目趣味派は、いやな奴だと厭(いと)つたが、私だけは一週間に一度だけ訪問した。上田が「象徴詩」を唱へるのを彼らはいやがつた。私は上田先生の、ワッツ・ダントンの「詩について」のお話なんかに耳を傾けて好いと思つた。上田は趣味が広く、夏目は集中的であつた。学者としては集中的なのがいいだらう。上田は不断に読書され人力車上でも読書された。コナンドイルが好きで、彼の物は読まないものは無い、この作者を豪いとは思はないが、面白いからねといはれた。ギボンの名句、ワーズワスの詩でも一頁くらいは暗誦された。佐久間信恭氏も暗記では秀れてゐた。夏目の英語は、正確な努力した英語であり、上田は、ギリシャ、ラテンまで出来た。楽に外語を採りいれる方で、スペイン語でも短時日の講習で得る處があり、教へた人が「敏」といふ名は彼をよく表してゐるといつた。夏目が早稲田大学で教へた頃の英語はへたであつたが後には評判がよくなつた。
 夏目は哲学的でない。上田は読んで直感する能力があつた。夏目は前にも云つたやうに異説を立てて、好いものをいいとしない傾向があつた。上田の方が正しい。上田がペーターを最初に認めた。田中王堂もペーターをよく読んだ。「書斎より街道へ」を著したが、ペーターの説をとり入れてゐる。上田を悪くいふ人が一杯で、「帝國文學」編集の櫻井天壇氏は、上田はドイツ語が出来ないと大に云ひ触らした。しかし上田は語学には鋭敏であつた。
 夏目の俳句趣味に感染した連中は、上田をきらつたが、あれだけの年齢で、あれだけのことをやられたのは豪かつた。私は批評するのでなく、印象を述べる。先生は至つて酒がお好きであつて、一友人と飲較べをした際、十一本のみ、対手は一ダースのんだときいてゐる。登張竹風さんとは親しかつたが互に悪口を言ひ合つた。平田さんと三人は仲が良かつた。小牧、生田、森田と上田さんの家であつた事もある。

出典;『文學談叢 初集 日本詩人クラブ講演集』より引用

語り手の田部重治について

田部 重治(たなべ じゅうじ、1884年明治17年)8月4日[1] - 1972年昭和47年)9月22日)は、日本英文学者・登山家である。

富山県富山市長江(旧:富山県上新川郡山室村)生まれ[1]。旧姓は南日[1]で、長兄に英語教育者の南日恒太郎、次兄に英文学者の田部隆次がいる。

東京帝国大学英文科卒[1]。在学中に木暮理太郎と知り合い、山への関心を深める。大学卒業後、海軍経理学校東洋大学法政大学などで講義をする[2]。研究対象は19世紀の英文学で、ウォルター・ペイターウィリアム・ワーズワースなどを研究した[2]

登山家として日本アルプス秩父山地を歩き、1919年大正8年)に『日本アルプスと秩父巡礼』を刊行、1930年昭和5年)に『山と渓谷』として出版される。日本アルプスを偉大な山として、秩父山地を緑の渓谷美としてその魅力を表現した。

また「只今のところ日本アルプスという名称によって総括されている山脈を概括的にあらわすべき適当な名称が無く、かつ今俄かに適当なる名称を創造することも出来ない為め」日本アルプスという名称を使う、として、アルプスという表現を日本の山にあてはめるのに抵抗を示している。(ウィキ)

▽ことば抄

1 キーツ;

ジョン・キーツJohn Keats1795年10月31日 - 1821年2月23日)は、イギリスロマン主義詩人

ロンドンモーゲートにて馬丁の長男として生まれる。人生の初めの7年は幸せであったが、1804年、父を落馬事故による頭部骨折で亡くしたのが困難の始まりであった。母はまもなく再婚したが、再婚相手とはすぐに別れ、子供たちをつれてキーツの祖母と同居するようになる。1810年、母は結核で死去。祖母の計らいで外科助手として奉公に出される。1814年まで奉公を続けたが、親方との激しいやり取りの後、奉公を終えて地方病院の学生となることができた。このころ、詩作に傾倒しはじめる。

1817年の春、ジョンはワイト島へ1週間ほどの旅行に出かけた。同年、処女詩集『詩集』(Poems by John Keats)を出版した。1818年スコットランドを旅行した時にファニー・ブローン(en:Fanny Brawne)と知り合い翌年婚約を交わす。同年、彼は4巻4千行にも及ぶ寓意叙事詩『エンディミオン』(Endymion)を出版したが、評論誌、雑誌から激しく批判される。気落ちした彼は、スコットランドとアイルランドへ旅行に出かけ、ブリテン島最高峰のベン・ネヴィス山頂に立った。このときの体験は彼を精神的に成長させたといわれている。旅行中、ジョン自身も結核の兆候を示したので、旅行を短縮して帰郷した。弟トムは1818年に彼の母と同じく結核により死去。

キーツはミルトン風無韻詩による哲学的叙情詩『ハイペリオン』(Hyperion)を書き出すが、未完に終わる。これをスタイルを変え改稿し『ハイペリオンの没落』(The Fall of Hyperion)として新たに書き始めたが、こちらも未完に終わる。

ジョンの病状も悪化し、医者の勧めでイギリスの冷たい空気をさけ、イタリアで療養することになった。イタリアでの住まいはローマスペイン広場の近くであった。1819年には、『秋に寄せて』(To Autumn)、『ギリシャの古壺のオード』(Ode on a Grecian Urn)などの代表的オードが次々と発表された。しかし、病状は好転せず、彼はファニーとの結婚を諦める。友人たちの手厚い看護もむなしく、ジョンは1821年2月23日、25歳の若さで死去。ローマの新教徒墓地に葬られる。彼の遺言により、墓石には「その名を水に書かれし者ここに眠る("Here lies one whose name was writ in water")」と彫られている。(ウィキ)

2 ペーター;

ウォルター・ホレイシオ・ペイターWalter Horatio Pater, 1839年8月4日 - 1894年7月30日)は、イギリスヴィクトリア朝時代の文人(文学者評論家批評家随筆家小説家)。主な著作に『ルネサンス』、『享楽主義者マリウス』、『想像の肖像』、『鑑賞批評集』、『プラトンとプラトニズム』などがある。

語録

  • "All art constantly aspires towards the condition of music."
    「すべて芸術は絶えず音楽の状態に憧れる。」(『ルネサンス』「ジョルジョーネ派」)
  • "To burn always with this hard, gem-like flame, to maintain this ecstasy, is success in life."
    「こうした硬い、宝石のような焔で絶えず燃えていること、この恍惚状態を維持すること、これこそが人生における成功ということにほかならない。」(『ルネサンス』「結論」)
  • 日本におけるペイター受容

     3 スウインバーン;

    Algernon Charles Swinburne sketch.jpg

    アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーンAlgernon Charles Swinburne, 1837年4月5日1909年4月10日)は、ヴィクトリア朝イングランドイギリス)の詩人。スウィンバーンの詩は、その中に、SM死の衝動レズビアン無宗教といったテーマが繰り返し出てくるため、発表当時はかなり物議をかもした。 小説「アルジャーノンに花束を」に登場するハツカネズミの名前は彼にちなんで付けられたもの。
    スウィンバーンは、チャールズ・ヘンリー・スウィンバーン海軍大佐(後に海軍大将)とアッシュバーナム伯爵(en:George Ashburnham, 3rd Earl of Ashburnham)令嬢、レディ・ジェイン・ヘンリエッタの間の6人の子供の第一子として、1837年4月5日、ロンドンのグローヴナー・プレイスのチェスター通り7で生まれた。幕末日本に赴任したイギリス外交官アルジャーノン・ミットフォードは、母方の従兄弟にあたる。

    と、ここまで引用して、アルジャーノン・ミッドフォードの名前にびびっと反応。

    このミッドフォードなら、阿部重夫の小説「有らざらん 壱」にでてきたっけ。
    この本です→http://www.onbook.jp/bookd.html?bid=0012
    このなかにあべしげさんの自著についての紹介がありますが、そのなかの思想史家、愛在亜・バーリンがトルストイの戦争と平和批評でのべたことばの引用と、この田部重治の上田敏のよみかたとが、うつくしく重なり合います。そのことばをしりたいひとは、上記サイトをひらいて、あべしげさんの文章をあたってくれ。コピペができないんだ。ごめんね。
    それにしても、うつくしいなあ、この詩人。つい、ひとりだけ、似顔絵つけた。
    アイザイア・バーリンも印象的なので、引用しようとしたが、できなかった。
    ここにあります。http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3-%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%B1%E3%83%AB-%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%83%95/dp/4622070979

    アタランタ・イン・カリドゥンhttp://www.ma.ccnw.ne.jp/kwc/mnm_oche/hounds.htm

    4 前ラファエル派

    ラファエル前派(ラファエルぜんぱ、Pre-Raphaelite Brotherhood)は、19世紀の中頃、ヴィクトリア朝イギリスで活動した美術家批評家(また時に、彼らは詩も書いた)から成るグループである。19世紀後半の西洋美術において、印象派とならぶ一大運動であった象徴主義美術の先駆と考えられている。(ウィキ)

    まだまだ調べねばならないことはありますが、きりがないのでこの辺で。

    わずか半世紀の昔なのに、この時代の人の文章には面食らう。
    ほんとうはこれ、全部、漢字部分は正字(旧漢字)なのだが、変換に時間がかかりすぎるので、本の題名など短いもの以外、現代表記に変えている。しかし、それだと余りにも時代の香りが伝わらないので、仮名遣いだけ旧仮名とした。
    きょうの?は、おなじページに、ふたつの「ところ」があること。
    所と、處。
    なぜだ。単なるミスだろうか、気分だろうか。
    おなじことは、いう、言う、云う、にもいえる。

    それにしても、前田圭衛子師の「連句誌れぎおん」で、芭蕉忍者説を長期間連載されていた、フランス語学者の家柳速雄氏が、こぼされていた。連句宗匠の窪田薫師の作品・文章がすべて正字・旧仮名だったのを、仕事の合間にきちんと毎回タイピングするのはほとほと疲れるのです、と。
    その長く膨大なお骨折りに、花束をささげます。御二人ともなき今。

    2015年2月16日 (月)

    『漱石・柳村のおもひで』  辻村鑑

     (一)

     

     辻村氏は、今日も開会が定刻よりおくれた。いつもおくれる慣習だが、あのパルナサスの山では、山中暦日無しだといふ、この会は、のんきで、この集まりで二時間でも、三時間でも、浮世のことを忘れるのが、この会の有難さだといふやうなことをいはれた。聴く吾々は、早くも漱石の『草枕』中の、「春は眠くなる、猫は鼠を捕ることを忘れ、人間は借金のあることを忘れる」あたりの句をおもひ出した。
     氏は、夏目、上田両先生が学校にゐられた頃の大学生であったと先づ関係を明かにされ、漱石、夏目金之助先生が外国から帰られて、大学の講義をなさる前に、多少準備期があつた。私共が教へを受けはじめた頃、柳村、上田敏先生も居られたので、私共は三年間、両先生の御講義を聴くことが出来た。こちらに、大に勉学する用意があれば、十分に好適な場所と時をもつたといへる。文科大学で漱石先生は「文学論」を講ぜられた。又、十八世紀英文学を講述された。後者は、『文学評論』の名で出版された。先生のシェイクスピヤの講義を聴いた学生が多く、ただに英文科ばかりでなく、漢文科、その他から学生が押しかけ、講堂は溢れるばかりで、廊下にまで多くの者が居並んだ。先生の名講義は面白いから、一度聴けばこたへられない、のみならず友人を伴れてくるから、さういふことになつたのである。
     私は上田敏先生の講義をも聴いた。この方の教室は寂寥の感があつた。狭い教室でブラウニングを講ぜられた。学生が多からうと少なからうと先生は、悠々としてゐた。学生は、シェイクスピヤの講義がおもしろいのと、シェイクスピヤを聴いておくのは英文研究者の面目とでも思ふのか、これと比較して、ブラウニングの詩は、第一読みにくいといふので受けない。
     上田先生が私共に講義されたものに、How they  brought the Good News from Ghent to Aix がある。これは短いものであるが、詩中に出てくる馬の蹄の音がしみ込むやうな印象を与へた。上田先生の解説によつて今に忘れ得ぬ余韻を残してゐる。

     漱石先生は、明治三十一年頃から、「ホトトギス」に作品を発表された。「吾輩は猫である」は同三十八年同誌に出はじめて好評嘖々たるものがあつた。私がある日、畔柳先生を訪問すると、床の間に短冊がかかつてゐて、「冠を挂けて柳の緑かな」といふ俳句がかいてあり、作者も筆者も漱石先生の自作自筆だつた。畔柳先生のいはれたには、夏目君が近く大学の教壇を去つて新聞社に入り小説を書くといふのだ。夏目君の大学を去ることは非常に惜しいので、吾等は思ひとどまるやうにと忠告し、小説で立つといふことは、容易ではなからうといふと、なに僕にだつて出来るよ。先日或小説を一読してあの位のものなら書けるよと自信たつぷりだつた。で一体、誰の小説を読んだのか、と尋ねたら、『金色夜叉』だといふのだ。この小説は紅葉が明治三十年頃読売新聞に発表したもので、それを同四十年頃に読んで、自分にも書けるといふのだ。加之、その頃は、自然主義が台頭してゐて、『金色夜叉』なんぞは時代的にもずれがある、翻意するやうに熱心に留めたが、この句にあるやうに、たうとう大学教職を辞めてしまつたと其時畔柳先生のお話であつた。
     私は其後明治三十九年、大学を出てから夏目先生のお宅へ一度うかがひたいと思つてゐた。で、春四月、櫻の咲いてゐる頃、千駄木林町五七番地、私と同郷の先輩齋藤阿具先生が住んでゐたそのあとに、夏目先生が入られた其附近は閑静なよい散歩場であつた。私はブラブラ散歩しながらうつかり先生の門の前まへ出たのであつた。門の前に立つと、門柱にま新しい表札が、かかつてゐて、まだ墨色も乾かないかの感じであつた。まん中に、「夏目金之助」と記し、左右に猫の絵が描いてあり、二つの猫が向ひあつてゐる。どうも、これは、先生の趣味としては、素直に受け取れない。実はこの門札の由来を先生からお聴きしたかつたのでフラフラと門内に入つた。先生の在不在は問題でなく、猫の表札が心に引つかかつてゐて、それを切出さう切出さうと思つてゐたが、先生の話がおもしろく、いひ出す機会を失つた。お話には始終犀利な観察が、光つてゐる、うつかりしたことを言ひ出してはいけないと学生らしい気分に支配されて、つひに門札には一言も触れることが出来ずやがてお暇をして、おくられて玄関まで出た時、先生は、ちよつと待つてくれと言はれ、発行後間もない、「漾虚集(ようきょしゅう)」を一部と、別に、前田林外作の詩集「夏花乙女」を、手にされ、この詩集は、自分に寄贈されたのだが此の方は僕より君の専門だから持つて帰つて一読してくれ給へと言つて渡された。私は当時、文学青年として「明星」などに詩を、書いてゐたのが、先生の目にとまつてゐたのからであらう。それから「君門札を外して持ちかへつてくれ、どう始末しても構はない」といはれた。先生は此の門札について次のやうに話された。
     昨夜遅く嵐のなかを一枚の端書が配達された。見ると『先生は高名な文学者だから、門標なぞなくても世間によく知られてゐるけれど、先生の門標を見ると雨風にさらされて文字が見えにくくなつてゐる。どうせ門標を懸ける位ならはつきりしたのの方がよいと思つて新しいものを差上げる。お用ひにならうとなるまいと、ご随意です」とあつた。で、今朝、嵐が止んで好天気になつて気持がよかつたので、楊枝をくはへながら庭へ降りて、ふと門柱を見ると、あんなものが掛けてあつたのだと。私は、二冊の本と、門札を持ち帰つたが、引越しや火災で、その門札を失つたのは惜しい。

     柳村先生の講義も忘れがたいもであつた。世間で上田先生をペダントといふものがあるが、これは当らないと、辻村氏はこの点特に力をこめて弁じられた。(昭28・3)

       (二)

    三十六年から三年間大学で上田先生の教を受けた。「藝苑」は先生と旧「文學界」の諸氏を中心にして編んだものだから同誌を通じて上田先生とは其の後もお近く指導を受けた。大学に於ける先生方で印象を長い間もたせる人は少いが、先生の印象は今日なほ新である。先生の教を喜んで受けたことは、田部氏と同様であつた。(※後述) 学生は上田先生の講義を消化し得ない。夏目先生の教室は聴講の学生が満員で、教室外まで聴講生が溢れてゐた。それに比較して上田先生の方は寂寥々。先生はスウィンバーンに傾倒して、これはテニスンの上、ブラウンニングと並び立つと賞揚されて、ブラウニングをも講ぜられた。
    夏目・上田両先生の印象は余程違つたものがある。
     ある時教室でこんなことがあつた。
     魚住君といふ学生がどう言ふことか知らぬが、片一方の手を切断してゐるので懐手で聴講してゐる様に見える。そこで夏目先生は、知らずに一度咎めたが、わかつてからも、魚住君、手を出したまへ、無い手だつて出してもよいだらう、僕も無い知恵をしぼつてシエークスピアを講じてゐるのだといつた風に滑らかにやられたことを記憶してゐる。上田先生の文学と行動とともに高踏派的なのと明瞭に対蹠的である。夏目先生の、シエークスピヤの講義は面白い、学生は勉強しないで聞いても、面白いからまた出かける。萬人向きでもあつた。
    しかるに上田先生の講義は素質が無いとついて行けない。聴く者に詩心といふ準備がないと、聴いても面白い筈がない。話は別になるが、「文学会」の終刊号に『町むすめ」といふ詩が載つてゐる、上田柳村作である。また先生お作の短篇小説が二つある。二つとも町娘に関係がある。「宵やみ」「短夜」がその題名である。先生は文学界を通して一葉と旧知の間柄である。一葉の名篇「たけくらべ」にも町娘の描写は素晴らしい。諸文豪の前週は生前に出るものも多いが、先生の全集発刊が非常に遅れた点、先生の没後未亡人には大層物寂しく思はれた。それで取敢へず先生の詩集だけでもと言ふので新村、日夏、西條等の先生の遺友後進に私も加はつて、第一書房から出版したものがある。今日では珍本になつてゐる。上田先生の風格を捉えることは難かしい。先生は旧幕の旗本の家に生れ、江戸つ子の趣味に加へて武家の気品を保つものの様で、外国文学にたづさはつてもあくまで高踏的なのもその為であると思はれる。先生外遊中、イタリアでお父さんに会われたことを話された。それは、今日も伊太利に残る厳父が幕命で欧州に使した折に描かれた肖像にゆくりなくも遭われたことである。博覧強記で一つのものにのみ精力を集中されなかつた。このことは『イソップ物語』一つみてもうなづかれる。「すべての芸術は交流する。画家は音楽を、詩人は絵がかきたいのだ」と言はれ、先生は、詩の最高の形式の極意は象徴にあるとよくいはれた。音楽がお好きで、民謡研究は詞そのものよりも詞の音楽に引かれ、楽器にものる曲調に心が引かれたと思はれる。(昭和29・10)

    講演集というものだそうですが、ふしぎな文体です。
    著者名ではなくて、おはなしをなされた方の名前がある。
    速記者がまとめた原稿に講演者が朱を入れたのだろうか。
    よくわかりませんが、おもしろいものです。
    いくつかを転載したい。

    出典は、『文學談叢 日本詩人クラブ講演集』初集
     昭和33年10月10日発行

    ▽掛冠(けいかん)の意味

    [名](スル)《「挂」は掛けるの意》官職を辞めること。辞職すること。致仕(ちし)。かいかん。
    [補説]後漢の逢萌(ほうぼう)王莽(おうもう)に仕えることを潔しとせず、冠を解いて東都の城門に掛け、遼東(りょうとう)に去ったという「後漢書」逸民伝の故事から。

    2015年2月12日 (木)

    『文學談叢』日本詩人クラブ講演集と山宮允と昭和女子大

    『文學談叢』日本詩人クラブ講演集という古書をみつけた。
    目に留まったのは、乙骨太郎乙一族の記録である円交誌で名前をみかけた、吹田順助氏が上田敏について書かれている文があったからだ。
    昭和33年10月10日発行。限定500部。
    発行所は九段の吾妻書房、著作者は昭和女子大學内、日本詩人クラブ『文學談叢』編集委員代表山宮允、となっている。
    ※このなべぶたのない充は「まこと」とよむ。音読みはイン。

    ▽しらべたら、ウィキに以下。

    山宮 允(さんぐう まこと、1890年4月19日 - 1967年1月22日)は、日本詩人英文学者

    山形県出身。山形県立荘内中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)、第一高等学校から1915年東京帝国大学英文科卒。1914年在学中に中心となって第三次『新思潮』を創刊、ほかに豊島与志雄山本有三、井出説太郎(土屋文明)、柳川隆之介(芥川龍之介)、草田杜太郎(菊池寛)、成瀬正一久米正雄佐野文夫松岡譲がいた。1917年川路柳虹らと詩話会を結成、1918年評論集『詩文研究』を上梓する。第六高等学校教授、東京府立高等学校教授、法政大学教授を務めた。ウィリアム・バトラー・イェーツウィリアム・ブレイクの翻訳紹介を行った。1951年1月、母校である山形県立鶴岡南高等学校の校歌の作詞をする。

    ▽かささぎ日誌


    わたしがうまれたころの詩壇。
    夏目漱石と上田敏が大学で講義をもっていたんだね。
    三人のひとがそれぞれ語っている話の一つが吹田順助氏のもの。
    これをよむと、一族の記憶がぴったりつながる。
    円交五号を転載した縁があり、こちらへ移したいとおもう。
    きょうはこれで時間切れです。まだ朝ごはんたべてないよ。

    2009年3月23日 (月)

    竜の灰、君が代と繋がる。

    「円交五号」を引用していたときだったと思います。
    乙骨一族について何も先入観なくただひたすら君が代を国歌として発掘した家と捉え、広く紹介しようとして黙々と引用したものですが、あるとき、ある朝、朝刊の一面広告に、日本ではいちばん大きいといっても過言ではない、政治団体までもっている宗派が、とても信じられないような口調で特定の個人をこきおろす(具体的には乙骨まさおという人を)本が広告してあるのが目にとまりました。
    思わずぎょっとして、はじめて調べてみたら、その乙骨氏は反そうかがっかいキャンペーンの本陣におられる方なのでした。うわあっと頭がいたくなった無知なかささぎは、その日一日寝込んでしまいました。
    そうしたら、翌日だったか、ある匿名のかたが有難いコメントをくださったのです。
    その乙骨氏は乙骨太郎乙一族とは無関係であるとおっしゃるのでした。そこで、わたしは、すんでのところで、そういう政治的ないやらしい攻撃合戦にまきこまれることから救われ、気をとりなおして、無事引用を続けることができました。

    そういうことを、ふっとここで、このドラゴンアッシュのくだりで、何の脈絡もなくなぜ、思い出したのか。
    それがですね、こういうことです。
    ドラゴンアッシュ、何も知らなかったものですから、ボーカルのバタ臭いおにいさんを調べたのです。するとこの人は俳優古谷一行の息子だった。
    へえ・・・
    古谷一行。当たり役は、金田一耕助。
    はっ。金田一。横溝せいし。はっ。。。真珠郎。。。。ときて、ここでぴたっとつながった。
    私はでも、いつだったか巻き戻せないのです。
    以前コメントを下さったかた。知人とおっしゃった。そのつまり、友人におなじ乙骨姓の太郎乙一族のかたがいらして、その姓の登場人物(たしか信州でした)が出てくる小説が一編あり、それが横溝せいしの金田一ものの一つ、真珠郎だった。というのでした。確かそう、ですよね?
    こんなまわりくどい接続のしかたがあったとは。
    連句的にぴたっと繋がったことに驚きを禁じえない。それを糸とおもっているのは、わたしだけかもしれないのですけど。あのときのコメント、もう一度読み直したいけど、大量の山をどうやって検索するかわかりません。

    コメントを発掘することはできませんでしたが、映画の説明をみつけてきました。

    すばらしい秘書をお持ちですね。
    類まれな事務処理能力に、
    感心を通り越して、
    ただただあきれはてて?おります。笑

    横溝正史といえば金田一耕輔、金田一耕輔といえば金田一京助、金田一京助といえば明解国語辞典、明解国語辞典といえば新明解国語辞典、新明解国語辞典といえば乙四郎、乙四郎といえば乙骨三四郎、乙骨三四郎といえば横溝正史
    ここでも繋がった。

    おおそうです。
    うわあ。ありがとう!!
    三年も前のことになるのですね。
    乙の骨、乙四郎も一つ拾ったのですね。

    昨年の3月6日の投稿の引用です。
    =====================
    東妙寺さん・・・「妙子」さんのフルネームが香ってきます。妙香寺ならリサーチ済みだけど。
    乙骨太郎乙・・・当然、ペンネーム付ける前にリサーチ済みですよ。この方のリサーチの延長線上に妙香寺が出てきて、そこに
    >クラブ活動ってなんだったの。
    の回答が潜んでいます。
    =====================
    乙の骨は当初から拾っていました。
       ↓

    http://www.edu.city.yokohama.jp/sch/es/kitagata/txt/myoukouji.htm

    龍は想像上の動物。瀧は、水となって降りてくる龍。姿形がぼんやりとしてはっきりしない、それが龍のイメージ。朧は、月がぼんやりとした状態。だから龍がいる。
    バンド名のDragon Ashは、“drag on ash”(だらだらしていたら灰になる)だそうな by Wiki。

    笑。
    産休縁燐寸。

    灰。瀞。擾。情。城。錠。常。聶。襄。
    ああちがう。じょうという字をさがしている。
    でてこない。尉。これだ。
    灰=尉
    これ、大切な連想の糸。
    しかも辞書をひくと、みよ。里見とんがいる。

    http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?dtype=2&p=%B0%D3

    じょう【尉】(能楽で)白髪の、老人の男性。おきな。(白い灰になった炭火の意にも用いられる)⇒姥
    あしたのじょう【明日のジョー】白髪になって燃え尽きたボクサーの男性。

    里見とんは有島武郎の実弟。本名は山内英夫(やまのうち ひでお)。
    ペンネームは、電話帳をペラペラとめくり指でトンと突いた所が里見姓であったことに由来by Wiki。

    里見とんがなぜ関係あるのかな。
    わからんごとなってきました。
    大石政則日記に関係あった?
    とむ。とん。
    ああそうか。
    とむ、と読ませる名前をつけたのは、乙骨太郎乙の家のえーとあれは、。ベンジャミンフランクリンがどうの。というくだりがでてくる。だれだっけ。わすれたけど、ともかく、さとみとんとおなじ字だったような。それで関係してくるってわけ。それと大石政則日記がかささぎの頭の中でおなじ分類になってるのは、たぶん、乙四郎のおともだちのてんだーさんの名づけがややそれに似ていたからかもしれません。

    ひとりで勝手におもっていればいい。はいはい、そうします。

    里見と名付けはここからの連想では?
       ↓

    http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/03/post_a688.html

    投稿: 乙四郎 | 2009年3月23日 (月) 00時04分

    乙四郎、いつも助け舟を必要なときにありがとう。
    いっしょうけんめい以前調べていたことが、こういうかたちで再び立ち現れて、いまに繋がっていくことがうれしいです。
    ただ一つ気になることがあって、ドラゴンアッシュのボーカル、降谷けんじさんのためにもう一筆書いて、弁護しなきゃいけないかも(親の七光みたいな風に思われるのがいやだし)。


    2007年3月 8日 (木)

    花外楼のこと 3

      後記

             江崎 政忠

     花外楼の初代は加賀屋伊兵衛と称し、文政年間加賀国小松在徳光村より大阪に出(い)で、日本橋一丁目に住居し商業を営み、其業大いに栄えたりしが、天保の頃其長男伊助は化浜一丁目に移りて、割烹店を開業せり。是即ち加賀屋伊助にして、俗に加賀屋の名称を以て呼ばれ、幕末には大阪知名の料亭として、其名遠近に聞ゆるに至れり。明治維新後一般平民に姓氏を許さるゝや、其故国の村名に因み徳光を姓とし徳光伊助と称し、木戸孝允、伊藤博文、井上馨等貴顕大官の寵遇を得て、家業は愈々繁昌し、以て今日に及ぶ。而して其通称加賀井を花外楼と改めたるは、木戸孝允の命名に依るものにして、其事蹟は前文に記せるが如し。因みに花外楼の敷地の一部は、明治十四年市区改正のため大阪市に収用され、現在の家屋は其際改築したものなり。

    参考文献の「木戸孝允日記抜粋」へつづく。

    (注記)表記の漢字は原文では正字です。

     

    2007年3月 7日 (水)

    花外楼のこと 2 

       花外楼の由来

              江崎 政忠

     明治八年一月より二月に亘り大久保利通、木戸孝允、板垣退助を始めとし、薩長土の政治家大阪に会合して国事を談じ、天下の耳目を聳動せり。世に之を大阪会議と云ふ。是より先板垣退助は征韓論につき議合はず、西郷、後藤、副島、江藤諸参議と共に袂を列ねて野に下り、民選議院の建白を為し、木戸孝允また征蕃の議につき有司と所見を異にし、文部卿の職を辞して故山に帰臥せり。当時廟堂には上に三條、岩倉両卿ありと雖(いへども)、大久保利通内務卿として独り威権を擅(ほしいまま)にし、薩閥専制の声漸く喧しく、政局為に動揺を来さんとす。前大蔵大輔井上馨先収会社の事を管して大阪に在り、此情勢を見て憂慮措く能はず、木戸、板垣両人を起して再び台閣の重きに任じ、天下の輿望(よぼう)を繋がんとし、伊藤博文、五代友厚、鳥尾小彌太、小室信夫、古澤滋らと胥(あい)謀りて、百万周旋遂に大久保、木戸、板垣三者をして大阪に会せしむ。即ち大久保は明治七年十二月二十六日、木戸は翌八年一月六日、板垣は同月何れも大阪に来り、爾来(じらい)大久保、木戸は数回旗亭に会し、胸襟を開いて相語り、木戸亦(また)板垣と会して、其(その)進退を議し、二月上旬に及び漸く意志の疎通を見、同 十一日北濱加賀井に集合して、其綱領の協定を為すに至れり。即ち当日の列席者は大久保、板垣三者の外、井上馨、伊藤博文、鳥尾小彌太、富岡簡一等にして、大久保と板垣との会見は、征韓論分裂後このときを以て最初とす。而して大阪会議の結果木戸、板垣両人は参議に任ぜられ、国政上に大改革を来し、元老院、大審院の設置、地方官会議の開会となり、立憲政体の基礎竝(ならび)に確立せり。されば前記二月十一日の会合は、明治政治史上重大なる意義を有するものにして、之が会場たりし加賀井は好箇の史蹟たるを失はざる也。

     当時伊藤博文を始め長州出身者は概ね加賀井に投宿し、木戸の如きも其日記に、據(よ)るに大阪滞在中前後六度加賀井に遊び、其中二晩宿泊せり。現在外楼に珍蔵せる「花外楼 明治八年春二月松菊」と書せる扁額は、当時木戸が加賀井を同音の雅名に改め揮灑(きさい)せるものにして、其風流を偲ぶ唯一の記念と云ふべし。井上は其後に至るも永く花外楼を贔屓にし、大阪に来る毎に同楼に遊び後年鴻池家顧問として瓦屋町別邸に滞留せる際は、毎日の食饌は必ず其厨人をして調理せしめ、先代女将悦、現女将孝等を招きて給仕せしむるを常とせり。余往年井上侯の知遇を得、候の左右に侍して、大阪会議当時の状況を聞くこと一再にあらず、今次花外楼女将の需めに応じ、不文を顧みず、其概要を記すと云爾。

      昭和庚辰十月

                 江崎 政忠 識(しるす)

    後記につづく。

     

    2007年3月 6日 (火)

    花外楼のこと

    古書検索でたまたま江崎政忠の本を見つけた。違うかもしれないが、ひょっとしたら、時代からいって乙骨太郎乙の長女まき(牧子とも)の夫となった人ではなかろうか。そう思い、取り寄せてみた。そしたら・・・なんだこれは。本というには余りにも薄い。たったの十ページぽっち。それで二千円とは法外な。まあ古いのは認めるけれども。なんだかもったいないので、全文丸写しして、史料としたい。なお、写真がついていて、最初に伊藤博文の「花魁」の扁額の写真(何でオイランなんだと言う気がしないでもないが、「無冠の男」で蒼海伯が言ったことばを思い出せば、なるほどそうかーと納得)、つぎに同じ「無冠の男」で「いたちの最後っ屁」と形容された井上馨の手跡による「香涯楼」の扁額。さいごに当時の花外楼の写真。(かつての奈良の日吉旅館をびよーんと横に拡げたような按配の木造住宅である。)

    2007年2月20日 (火)

    青々脊振

    おとといの高野花さんの俳句に出てきましたが、乙骨亨二(菊枝氏の若くして亡くなられた兄上)氏について書かれた追悼文が残っていました。引用してもいいでしょうか。

    亡くなるとき、ひとは予感があるのか、おせわになったひとたちにおわかれの挨拶にくるもののようです。昨年菊歌仙をまいている最中、何の因果かちょうど私の弟の命日になくなった板前のいとこ(まだ四十なかばでした)、こんどはそのおよめさんがいとことおなじしにかたで逝った、後を追って。いまにしておもえば、たしかにそういうあいさつがちゃんとありました。鳥栖での通夜と葬儀。斎場に「青々脊振」という書の扁額が掲げられていて、それをみていたら、死者がうらやましくなりました。

       亨二さんの思い出

                  鈴木 はる

     年月はさだかではないのですが、多分昭和十八、九年の頃かと思われます。そろそろ汗ばむ初夏の頃だったと思いますが、夕飯も終わり、その頃はテレビもなく、一家で何とはなしに雑談をして居た時に、突然玄関の戸を叩く音に一同びっくり、出て見ると、「亨二です。乙骨の亨二です。しばらくでした。」 とのご挨拶に、始めキョトンとしていた父も驚きと喜びで、とにかく上って頂きました。

     仕事の関係で九州住いをしていた父(昆虫学者の江崎悌三氏:註)は近くに親戚もなく、この遠来の訪問者にはよほど嬉しかったとみえ、まるで堰を切った様に懐かしい昔話に花が咲き、亨二さんは時々ポケットからハンケチを出しては汗を拭き拭き、父は終始ニコニコしていました。父は余りお客様とペラペラおしゃべりするのは苦手の方でしたが、この夜のようにいきいきとよくしゃべったのは珍しく大変印象的でした。

     亨二さんは「これから上海まで行くのでその途中にお寄りした」 とおっしゃっていた様ですが、その記憶は定かではありません。お帰りの時に母が差し出したサイン帳に「東京から飄然と現れました。」 とお書きになられました。

     その後亨二さんが戦死なさったと伺い、その時の父の悲しみ方は大変なものでした。乙骨家の大事な人を失った、と。

     今にして思えば、虫の知らせでお別れに見えたのかも知れません。

    2007年2月18日 (日)

    俳句誌『日矢』より

    タンゴバンド、アストロリコのヴァイオリン奏者で京都三条ラジオカフェのジョッキーである麻場利華さんが、ブログを立ち上げられました。http://chaorica.blog92.fc2.com/

    それを拝読していて、ひょっこり思い出しました。乙骨一族の交友誌『円交五号』 より引用しそびれている文章が四個ほど残っていまして、その一つ、高野花さんの文章をひいておかなきゃと思います。文中、永井友二郎義兄とあるのが、利華さんのブログでも紹介があった東京は三鷹の町のお医者さまにして乙骨太郎乙の直系の孫娘・菊枝氏のご主人にあたるおかたです。そして、(ここからが大事です、ふしぎだから)書き忘れていたのですが、永井友二郎氏は、山本健吉こと石橋貞吉夫人の石橋秀野もその芥川賞受賞作『雁立』にちらりと出てくる、小説家で俳人・清水基吉氏の俳句誌『日矢』(鎌倉市)所属俳人でもあります。いくつも縁がかさなっていました。まるで最初からわかっていたかのような繋がり方がふしぎで仕様がありません。利華さんのブログを読むまで、そのことをうっかり忘れていたのも、妙なはなしです。笑。では、ひさびさの「円交」です。

     句誌の中から

           高野 花

    「俳句をやって見ませんか。老年の趣味にいいですよ」 と、五・六年前に永井の友二郎義兄が、自分の入っている俳誌『日矢』(清水基吉氏主宰)を送ってすすめてくれました。その時はとても才能がないからと見送っていましたが、翌月も送って来られたので、では一寸やって見るか、と「日矢」に入会する事になりました。毎月、七句投句すると、先生がその中から三句か四句をのせて下さいます。独り暮しの身、頭の体操にでもと、以来細々ながら続けています。でも、一向に進歩せずお恥ずかしいのですが、その中から、円交関係、家族関係の句を書き出してみました。ご笑覧下さい。(高野花氏は永井菊枝氏の妹君。判事だった乙骨半二の末娘です。)

    新年会の米寿喜寿なり姉夫婦 (古山綾夫・巴夫妻)

    三世代のいとこの集ひ春うらら (昭和62年5月円交会)

    亡き兄を偲びて春を惜しみけり (上の席上、亡兄元造と浦和高校でご一緒だった小室正夫氏がきぬ子姉に、元造の思出話をしている中で、「浦高の友達が元ちゃんに、きぬ子さんを嫁に欲しいと言ったら、駄目だって答えていたけど、その時はもう渡辺氏と決まってたのかい」と言うのを聞いて)

    木登りをせし時もありさるすべり (大塚時代)

    赤まんま遊びほうけし日の遠し

    竹やぶへ父に抱かれし震災忌

    雛飾るを手伝ひし日の遥かなり

    辰年の兄思ひ出づ終戦忌  (次兄亨二)

    母の日や疎開地に母みまかりし

    はらからの傘寿古希祝ぎ秋深し (巴姉と菊枝姉)

    寒波来て従弟の訃報とどきけり  (乙骨明夫氏)

    曽祖父のえにしの甲斐路や秋深し (鈴木頼奈夫妻・英里くん、菊枝姉と共に、曽祖父乙骨耐軒ゆかりの甲府をたずねて) 

    初春や祖父の漢詩の軸かけて

    バレンタイン九十三翁往生す (古山綾夫義兄)

    姉は喜寿妹は古希や春彼岸 (きぬ子姉と私)

    父の日や父は江戸っ子落語好き

    大伯父の伝記読みいる梅雨ごもり (二代目日銀総裁富田鉄之助[祖母継の姉縫の夫]の伝記を)

    メサイアのホールにひびく冬の夜 (正木直子、永井菊枝両人出演)

    叙勲記念のカード頂く青嵐  (乙骨達夫氏叙勲)

          (平成四年九月 識す)

    2006年6月 5日 (月)

    円交会の歴史 2

     正木みち氏の御文章の続きです。「円交」五号より引いています。 

        戦後の円交会

     戦後八年以上経ち、そろそろ「もはや戦後ではない」という様な声も聞かれる様になった頃、円交仲間にも昔を懐かしむ声が起こり、漸く会の復活を見る事になる。昔の「えんこ」達即ち円交一世達も齢既に不惑を超えたり、又は不惑に近づきつつあったから、その二世達を含めて会員の数は非常に増えて来ていた。円交会生みの親のおしゅん伯母も戦後すぐに亡くなっておられたので、復活後は、私の母千代やお美津叔母が顧問という格になっていた。以下、戦後の円交会を年代順に記す。

     第一回  昭和29年5月23日 信濃町貸席「明石」  出席38名

     第二回  〃  30年5月    杉並小林邸       〃48名

     第三回  〃  31年9月30日  同上           〃40名

     第四回   〃 32年6月16日   同上          〃46名

     第五回   〃 33年4月29日   同上           〃48名

     第六回   〃 34年4月29日   逗子観瀾荘       〃43名

     第七回   〃 35年5月5日    同上           〃57名

     第八回   〃 36年4月22日   同上            〃40名

     第九回   〃39年4月29日    湯島聖堂         〃55名

     第十回   〃43年6月2日    文京区原町寂円寺   〃63名

     第十一回  〃45年5月24日  中野新橋氷川神社    〃59名

     第十二回  〃48年9月30日  三鷹永井邸         〃69名

     (以上で)会場難の為、二世・三世を含めた大円交会は終り、その後、主として一世のみの小円交会が随時開かれて来た。)

             昭和38年1月   小室恒夫邸 

             〃 39年5月    〃 正夫邸

             〃 51年10月   小室正夫邸

             〃 52年5月    浦和藤井邸(戦後の円交会に小樽から正木みち初めて出席。藤井邸の藤見の宴。)

              〃53年5月    新日鉄新山谷寮(古山綾夫・巴夫妻金婚祝い)

              〃55年3月   原町寂円寺(土方辰三・幸夫妻金婚祝い)

              〃57年5月   新日鉄新山谷寮

     第十三回  〃62年5月24日  荻窪東信閣    出席62名

     第十四回  平成2年5月2日  六本木ウカリハ  〃58名

     第十五回  〃4年11月15日  信濃町陣屋     〃55名

    [編者附記]以上戦前から戦後に至る円交会の歴史を記して頂きましたが、この間会長として終始まとめ役をされたのが、故古山綾夫氏、次いで小室正夫・恒夫御兄弟が二代目会長を、そして現在は乙骨清一郎、及び二世から古山正一、正木直子の三氏が三代目を勤めて下さっていることを附記して皆様のご尽力に深く感謝申し上げたいと思います。(編者とは永井菊枝氏で、編集発刊されたのは平成四年十月現在です。・・姫野註)            

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