無料ブログはココログ

2009年11月12日 (木)

行空からの案内状

行空からの案内状

行きあいの空に木枯らしが吹き、ここ数日で柿の葉がずいぶん落ちてしまいました。
きのう朝に黒木物語の一部を打ち込んで、仕事にでかけ帰宅すると、郵便受けに星野村役場からの書状が入っていました。案内状でした。星野黒木谷の農道が完成したことのお祝いです。

写真を探し出しましたので、このすぐ前の記事とあわせてごらんください。

「行空の碑」:

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-75f4.html

一部抄出:
「昭和五十九年三月十一日本覚院第三十八世住職稲葉義猛大和尚を導師
として 九州在住の本覚院法縁の住持諸徳この碑前に参じ
また村民挙げて此処に参詣し上人の第七百五十二回忌法会を
修し 上人の遺徳を追慕し菩提を祈念する」、
いしぶみが高野堂にありました。 

全く何の興味もなかったのに、突如降って湧いた先祖のえにしにより、ここへ、この行空の碑のある黒木谷へとつながれてしまったかささぎは、行けない父母のかわりにたずねてみようか。と思っているところ。村の小さな行事ですから、おそらく部外者(部外者といういいかたも変なれど)で招かれるのはかささぎくらいでありましょう。師走の平日の午前です。かささぎの仕事は午後からですので、都合がいいのです。何も行空の話は出ないかもしれませんが、雰囲気をつかむだけでいいので行きたい。山の人にふれたい。

きのう引用した黒木物語の中から、かささぎにとっては五木寛之の『親鸞』などよりはるかに胸をえぐられた一部分を引いておきます。

小侍従一子を産むに牛たり、哀殺して葬る。
ほういつ(女偏に宝+逸=放逸)の難ここに及ぶ時、行空上人の遍歴を聞き直に召請し事情を縷陳(るちん)して済度(さいど)を願ふ。上人応請(おうしょう)して宿世の因縁輪廻、去現世(きょげんぜ)の業報ー極善極悪中有なき理由ー遁れ難きを説示す。大蔵太夫ならびに小侍従等おおいに懺悔し篤く帰依す。
ここに於て業障消滅家運長久のため、資財を擲(なげう)ち上人に依頼して高野山に講坊ー元禄年中に小侍従の法号により本覚院と改称せりーを建立し次で十二坊を建て諸の修行者を供養(ようの字はみたこともなき字)し、聴講に資するを待宵の十二坊と云。
さきに殺したる生子は胎蔵界外金剛部牛の宮を引証(しんしょう)して崇敬し郷邑(むら)の氏神とす。前閨(前室)の怨霊は秘法供養に遭ふて徳脱し只一門の為ならず、国中の菩提を修し止道(しどう)を興隆し、城主は勿論国中の宿坊に便す。
斯の如き功績空(むな)しからず、既に瓦解に属する家臣も還って、文武を振起し民とともに城を護り。

2009年11月11日 (水)

「本覚院は筑後国を檀家とする由来」     貞享版黒木物語より

本覚院は筑後国を檀家とする由来

高野山本覚院は、後鳥羽院建久年中(1190~1198)今を去ること七百年以前、釈行空上人(しゃくぎょうくうしょうにん)待宵小侍従の請によって登山し弘仁年中(810~824) 弘法大師六地蔵を彫剋(彫刻)して、高野山内相応の地に安置せられたる其の隋一は、千手院谷光明院という一伽藍、今の本覚院境内あり。上人ここに宿して読経するに地蔵菩薩出現して告て曰く、汝此に住せよと、此尊像今尚厳然(厳は人偏の厳)たり依て創草する処なり忠義を竭(つく)すに至る。

待宵は改心して外には慈善の人となり内には真言の行者となる。
いわゆる煩悩即菩提の器となり、自性清浄を得て妙法蓮華の不染心を開発(かいほつ)し、佛は弥陀観音の類、神は八幡等悉地を証す。ただし法号本覚院伝如真尼(にょしんに)と称す。

竟(ここ)に講坊及十二坊の鎮守を八幡大菩薩と祀り毎年待宵(八月十四日)を以て祭典す。佛教の功徳、上人は戦はずして黒木城を降伏せし後は、君臣ともに徳に靡(なび)くに至れり。-中略ー

侍従の懇請すること(ことの字は古のしたに又の一字)数回に及ぶ。毎に法華経を講じて四点の妙果を説き秘蔵の奥旨を演(の)べて三昧を示し具(つぶさに)加持して災障を攘(はら
)ひ且(かつ)は回向して得脱(とくげ)せしめ、且は戒品(かいぼん)を唱へて改善せしめ、傾到する郷(さと)が家に幸福を与へ持久に耐(たえ)しむ。

随(したが)って星野右衛門尉(うえもんのじょう) 草野 川嵜(崎)の諸家を初め国中ふるって法益を得ること久し。最終の行化文永年中(1265)星野村にて年九十才口中より光明を放ち仏舎利を吐(はき)て掩化(えんか=死亡)せらる。因(よっ)て廟所を構ふ。其地字(あざ)を黒木谷の高野の上と云(いう)。大石塔に講坊開基行空上人とあり石柵を回(めぐ)らし非凡なるを知るに足れり。

黒木大蔵太夫、 待宵小侍従の事は、 八女郡、元、上妻郡黒木町に城あり居住せられ、奏楽に秀でられ京師に上り宮中に仕(つかう)ること三年、笛を相する毎に帝(みかど)賞感せられ、竟(つい)に待宵小侍従を賜ふ。-中略ー

蓋(けだ)し宮中を出て筑後国黒木の城に妾(しょう)たり。
前閨(ぜんけい・まえのつま)嫉妬を生じ内房紊(みだ)れて睦(むつま)じからず。終に前閨は、城辺の川の渕に身を投じて死せり。しかしてより城中変災多く起り家臣も治(おさま)らず。天政城を傾くに至る。小侍従一子を産むに牛たり、哀殺して葬る。ほういつ(女偏に宝+逸=放逸)の難ここに及ぶ時、行空上人の遍歴を聞き直に召請し事情を縷陳(るちん)して済度(さいど)を願ふ。上人応請(おうしょう)して宿世の因縁輪廻、去現世(きょげんぜ)の業報ー極善極悪中有なき理由ー遁れ難きを説示す。大蔵太夫ならびに小侍従等おおいに懺悔し篤く帰依す。ここに於て業障消滅家運長久のため、資財を擲(なげう)ち上人に依頼して高野山に講坊ー元禄年中に小侍従の法号により本覚院と改称せりーを建立し次で十二坊を建て諸の修行者を供養(ようの字はみたこともなき字)し、聴講に資するを待宵の十二坊と云。さきに殺したる生子は胎蔵界外金剛部牛の宮を引証(しんしょう)して崇敬し郷邑(むら)の氏神とす。前閨(前室)の怨霊は秘法供養に遭ふて徳脱し只一門の為ならず、国中の菩提を修し止道(しどう)を興隆し、城主は勿論国中の宿坊に便す。
斯の如き功績空(むな)しからず、既に瓦解に属する家臣も還って、文武を振起し民とともに城を護り。

行空上人は元来天台宗の人なりしが、真言門に入り秘蔵の奥旨を極めらるるといえども尚法華行者にして一生涯に法華経を誦(しょう)ずること、参拾有余万反(三十有余万遍)という。諸国に行化し何(いず)れの処にも二夜を重ねず、故に世に一宿上人と号(なづ)くる名僧なり。最も上人号は自称にあらず。朝廷之を授く、行状は元亨釈書(げんこうしゃくしょ)に出(いで)たり。今此に略す。たまたま筑後国に赴くとき、たちまち名四方にとどろきわたりて請する者多き中に、黒木太夫ならびに待宵小・・・ここで一度中断か。つぎの部分に繋がらない(姫野・注)・・・
本覚院の如きは檀縁の事往古は筑後一国なりしが、中古武家割拠する毎に更る代る自家所縁なる寺院などへ領地者を檀縁に付られ近代は生葉郡星野村上妻郡川瀬組、福島組、諸松組忠見組の四触下を付けながらあわせて黒木、星野、川崎、草野等の末裔家臣共々郡に散在する亜縁故変更せず。今世上を推すに明治の世には領主領地の縁も離れたれば復旧して一国皆本覚院に帰着すべきものなり何ぞ妨げなかるべし。

      第三十六世  尭運述

この一文を読んだだけでも、五木寛之の親鸞に出てきた行空上人の姿・・・夢枕獏や栗本薫の小説に出てきそうな悪役・・・とはずいぶん違う人のすがたがうかびます。
第36世とは、たぶん高野山講坊のお坊様の事だと思う。
星野村の黒木谷にある高野堂、行空上人の墓に添えられていた星野村教育委員会の説明板にあった一番あたらしいそこからの使者の訪れでは、第何世だったでしょうか。のちほど拙ブログの写真をつけます。興味あるかたはご確認ください。

かささぎは、れぎおんに書く「連句的」のためにこれを読まねばならず、ただ読むだけというのももったいなかったので、打ち込んだ次第。

出典『貞享版黒木物語』(和田重雄著)

2009年11月 2日 (月)

くるめの床屋の倅、ろいりーさんと世間話をしようよ。

ねえ、鈴木先生ってまんが読んだ。
こんな話よ。
班でむかいあって給食をたべている。ある男子が突如カレーをたべているときに、くそとか、げろとか女子の前で大声でさけび、ごはんをまずくしてしまう。女子は怒り、鈴木先生に相談する。それには実は裏にひめられた事情があった。その事情とは・・・
食事中に言ってはいけないことを叫んでめしをまずくした男子は、とてもしつけの厳格な家に育ったまじめ少年である。それなのに、なぜ。という疑問。その理由を考えていた先生は、給食時間中の観察を通して、ある事実にきづく。
さあ、こっから、おもしろいよお!!
展開はおしえないどこ。笑
行儀というものはじつにさりげないものだから、それを当然として育ったかどうかで許容範囲が狭まりも広がりもする。その男子は向かいの席の女子のひじつき食事が許せなかった。断固。それをずうっと抑圧していたけど、あるときついに我慢できなくなって食事のとき決して言ってはいけないことばをまきちらして復讐した、ってわけです。
これ、だれが悪いとか、いいとかの問題とはまったく次元のちがう話でしょう。これ、とってもよくわかる。

こどものころ。いちばんうるさくしつけられたのは、音をたてるな。ということだった。口をあけてたべたらいけない。でもともだちにはぺちゃぺちゃと音をたててものをたべる子が必ず一人はいた。それ、いやでいやで。でもいえない。いえないということが、小さな子どもごころにもなぜかわかった。
そういうことを漫画にしたてるなんて、すごかろ?

nightこんばんわ
遅くなったので、今日の夕ご飯は刺身のある定食屋にしました。
わが家の終わりかけごろ作業着の若者が入ってきて4人だと伝え靴を脱ぎました。
彼は普通に上がったあと屈んで靴を前向きにきれいにそろえました。
eye「ほぉ~☆すばらし~☆」
あとの3人は上がりながら初めから前向きに脱いであがりました。
家庭の躾とはそれぞれに特徴を作りますね^^

 同じ久留米の、歩いて20分ぐらいの距離の所に生まれ育ち、しかも親の職業はどちらもいわゆる商売人、それなのになぜこんなに生活習慣が違うのだろう~と結婚で思い知らされた。うちは比較的自由、それなのに相方は、あ~だこ~だとうるさくて。特にここで話題になっている食べる時のマナーです。いっそ、外国人みたいに異文化関係だったら、お互妥協しあえるかなと思いました。いやはや、今でも「しぇからしかね」と思いつつ、口には出さず、ただ忍耐の日々。
 かささぎさん気になる、中学校での給食の件、私は以下の2つのどちらか、あるいは両方が原因かなと推測しました。正しいかどうかはわからんよ。
①久留米(の中心部)は大規模校が多く、体育館または講堂らしきものさえなく、本来室内でやる運動部も外でだし、剣道・柔道などは近くの公的施設を使ってやり、あまつさえ、入学式・卒業式でさえ、当時近くにあった久商の講堂借りてやった記憶がある。つまり、給食関連設備を作る場所がなかった。同じ久留米市立中なのに、あそこにはあるけどあそこにはない、というわけにもいかなかった。
②給食がなければパン販売が必要になるが、八女では全中学校に販売業者を配置するのが難しかった。

えめさんところのおまごさんをみて感じました。
小さいときからさりげなく仕込まれておられるのだと。お茶にしましても、あんなに小さなときから自然に触れ合わせておけば、お茶独特の異空間ポケットがあたまにできますよね。連句もそうですよ、前田先生のお孫さん、あかちゃんのときから連句にふれておられた。ゆきちゃん、あかんぼのころ、八女の堺屋でのぼんぼり連句にきてくれた。お母さんの前田亜弥さん(西鶴研究家、連句もさすがにうまい。とても美人であります)次に久留米耳納連山のふもとのスパリゾートでの合宿にも来てくださったのですが、そのときゆきちゃんはちょうどえめさんちのお孫ちゃんくらいで、おかあさんのおひざから連衆のおひざにきて、お絵かきをしていました。大人が必死で句をつくっているとき。こういうのが無言の教育だろうとおもった。その座のくうきにふれていた、ってことが。

ろいりーさん。商売人の子ってそうなんでしょうね。
奥様との食事のときの場面が浮かぶようです。
と同時に、山本健吉の妻だった石橋秀野の昭和二十三年に出た句文集の随筆を連想しました。新婚のころの妻の心理。お料理学校でならった最新の自信作を必死で作ってたべさせても夫がよろこぶとは限らない。味噌汁も辛いとかいわれ口をつけよううとしない。新妻はこまってしまって、泣きたくなり、手持ち無沙汰でいつしか新聞をひろげたりするようになった。というようなことが書いてありました。

mapleそろそろ色づき始めましたね♪

食事>>わが家は自営だったので、家族揃って食べるのは元旦だけで、ほかの日のほとんどは祖父母と食事をしていました。
明治生まれの二人はやはり食事中のマナーには厳しかったです。
姿勢、ひじ、お茶碗の抱え方、箸使いの色々、、でもそれができていれば特にうるさいわけではなかったです。嫌いなものもなかったしね。
叔母はハンバーグの時、私と弟を相手にナイフとフォークの使い方をよく特訓したがりました。その時は鬼軍曹の叔母でした(爆)

給食>>学校をお休みしたきお友達にパンだけを届けていなかった?
プリント用の紙に包んで。
今も届けるのかな?

ゑ目さん、届けないと思う、今は。ぱんのゆくえやいかに・・。あのそっけない色気のないぱんがすきだった。で、今も食ぱんはやかないのがいい。なにもつけないの、禁欲的なあじがするから。だんだんそうなってきた。これはなんだろ、って自分がふしぎ。
そりゃそうと。
うちのちびと今夜this is itをみにいってきます。ミッドナイト上映。なかよし友達もつれて。わたしもみるけど、おかあさんは離れて座ってって。苦笑。
どっちかというと、沈まぬ太陽のほうがみたいけど、

いってきました。深夜なのに350席ほどのスタジオ1がほぼ満杯でした。
むすこの友人の少年たち5人もいっしょ、言われたとおりうんと離れて座った。
しごとにきびしく、完全主義のマイケル。
こどものころのかおとまったくちがうおとなのマイケル。でもどっちもマイケルなんだよね。じぶんのもとめるものがはっきりしていた。えられるまで妥協はしなかった。
イントロダクションのバックダンサーズオーデションから一気でしたね。少年たちも面白かった、と言ってた。

chair評判のいい映画だと聞いています。満席でしたか☆
高校生のころ持ってたモータウン全集にマイケル少年の顔がありました。
きれいな伸びやかな声でした☆彡

 「味噌汁も辛いとかいわれ口をつけようとしない」、
そんな大それたことは1回も言ったことないでございます。
自分が作ったものを、「これおいしかね」とも言わず食っているので不満言われる。
そんなこと一々言わずただバリバリと完食するのが食事に対する満足の表現だったので、一言言えば良いとわかっていながら、却ってわざとらしくて言いきらん、でもしょんなかけん、時々言うちゃる。
新聞読みながらどころか、テレビ見ながらでさえ許してもらえん。
 子どもの頃は、わが家もほとんど祖父母と食事をしていました。明治生まれの2人は全然厳しくなかった~やはり人それぞれですね。

明治生まれのばあちゃんと子ども時代を過ごしました。食事のしつけはばあちゃんよりも、母の方が厳しかった。でも、洗濯に関してはばあちゃんはことのほかうるさかった。洗濯機がわが家に来てから、タオルや下着がいっしょに洗われるのが、それはそれは許されなかったみたいで、小学生のころから、風呂場で自分の下着と靴下を洗わされ、タオルはタオルだけ洗濯していました。そんなばあちゃんの影響なのでしょうね、いまもって、タオルはタオルだけしか洗濯しない(できない?)わたしです。

えめさん、マイケルさんはほんとにきれいですみきって少しビブラートがかった声でした。踊りもまったく静かでスムーズ、ほかのきんにくもりもりの人たちとはまったく違っていた。一人特別な存在でした。孤独だったろう。スーパースターは早く死ぬのですね。

ろいりーさんのおよめさん、かっこいい。普通の家庭は、すでに堕落している。うち、ながら食事を厳しく言っていたのに、当のおとうちゃんおかあちゃんがテレビみながら食べている。だから、そんだけ厳しく言えるってことは、当然自分もそのおきてをいまだに厳守しているってことで、とてもうつくしいです。
えっとかささぎは、ひとりでたべるときには、本をひろげたまま食べたりもします。最低です。笑
しかも、通勤の運転中に片手でりんごやジャムぱんをたべるので、とってもあぶないしきたないです。これはよいこのみんなはけっしてまねしないでね。(するか!

せいこさん。
お姑さんがすこし心配ですね。
うちの場合、わたしが炊事洗濯をすべてやっていたころ、そうなりかけました。(馬場先生にアルツなりかけ、といわれた)。その後、くすり服用で、食い止めている。一時期は、自分の妹より年をわかくいったり、ものわすれがひどかった。それを救ったのは、わたしの再就職で再びの家事担当となったことではないかとおもいます。

ひめどん。
あなたが言うとおり。
わたしが意地になってなんでも、自分でやりすぎたんだと思う。自分でも可愛げがない嫁だなあと思うけれど、「これ以上、このひとに借りをつくりたくない」という一念で、仕事前に掃除も洗濯も炊事もこなして、残業のときは夕食を準備して仕事に行ってた。勝気といえば、勝気。根性もんといえば根性もん。笑
いまはね、おばあちゃんに食器を洗ってもらってる。自分が食べた分だけね。あとから洗いなおしたくなる状況だけど、ま、よかたいと思って。早くにこんな大らかな気持ちになってたらよかったのにね。

やっぱりなあ。同居の嫁ってそうなるのでしょうね。
母と祖母の関係をずうっと見て育ちました。いえることは、嫁と姑って、愛情ではないけど義務感でびちっとつながっているんだなということです。愛情を無理してもたなくてもしてあげていることが愛情の行為なのだから。母も必死でつくしていました、姑に。
せいこはとってもりっぱです。
おかあさんもあなたを頼ってらっしゃる。
年をとることは、なんとこころぼそいことだろうか。
夫を独り暮らしの母のもとへ返してよかったと思う。

2009年10月31日 (土)

八女福島『白壁ギャラリー』めぐりのご案内

先日の保健医療経営大学での『第三回ありあけ連句興行』にご案内申し上げた地元の若い女性・Kさん(去年の堺屋での興行に飛び入り参加された独身の方、なんと医療従事者でありました)から、白壁ギャラリー散策地図つきのイベント案内が届きました。麻莉子さん、ありがとう!

白壁ギャラリー巡り、
かささぎの旗でも以前一度、取り上げました。↓

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_6c3e.html

▼今年は八女福島に今も残る町家を案内人と一緒にめぐります。

八女福島・穴場散策ツアー

日時:11月1日(日)13:00~/15:00~
集合場所:横町町家交流館 
参加費:300円
普段はよく見ることができない町家の裏側をご案内します。
お問い合わせ:八女ふるさと塾090-8917-8208(中島)

リンク記事(高橋):http://yame1030.blog68.fc2.com/

以上、パンフレットから引用いたしました。

▼かささぎのおすすめ

俳人のあなたには、せっかく八女福島白壁ギャラリーにいらっしゃるのであれば、散策が終わってから、無量寿院の山本健吉、石橋秀野の墓を訪ねられることをおすすめいたします。(ご連絡いただければできるだけご案内いたします。・・かささぎ)

2009年10月27日 (火)

では気骨の人ろいりーさんと給食談義

 「底意地」の意味がわからんで辞書ひいてしもた。
八女が未開の地やら思とらんですよ。久留米よりちょっと田畑が多いかと…(おなじことやないか!!)まあ久留米も広かけんね。
シラミについて言えば、今流行の新インフルエンザだって、東京の隣同士の区・市なのに流行ってるところとそうでもないところがあるから、それと似たようなもんでしょ。

 DDTは、敗戦直後にGHQが持ち込んで、引揚者などに使ってたというのは知ってたが、これを機会にWikipediaで調べてみたら、何とのちのチバガイギー社(ほら、スモン病という薬害問題覚えてないでしょうか)の技師がその殺菌効果を発見してノーベル賞受賞したのだとか、その後農薬としても使われて、でも土壌汚染がどうたらこうたらと書いてあった。いや、底意地のおかげで?また少し賢くなった。「農薬土に苦し」というわけか。

 で、給食の有無に関していうと、これも市町村の教育委員会の方針次第。だから給食も、センター方式がほとんど?になった今でも、自校方式を貫いているところもあるというわけですが、今の久留米や八女はどうなんでしょう?しつこく言うけど、教育委員会というのは戦後、教育の民主化、地方分権化、地方自治のために作られた組織なので、文科省の下請機関みたいなことやるんだったら無駄な存在なのです。

中学校の学校給食がないのは、べつに久留米市だけじゃなかよ。福岡市内だって、北九州だって、弁当ばい、かーちゃんべんとう。
福岡市在住、広川出身の後輩が、中学生に給食がある子ども時代を過ごしていたので、中学には当然、学校給食があると思っていたのに、毎日弁当をつくらなくてはならないのでびっくりしたと話してくれた。広川の保護者はいかに自分たちが恵まれているか考えやんと説教されたことがあるもん。
感謝はせんじゃったけど、中学生になったこどもたちに弁当をつくらなくてよかったのは、正直言って助かったよね。

学校給食が始まったのは、貧困のため弁当を持ってくることができない子供がいたからと聞きました。農村部に学校給食が根強いのは貧困層が多かったからでしょうね。
自校方式をセンター方式に切り替えるためには、生徒数が少ないといろいろリスクもあるのです。予算的にね。生徒数の多い都市部はセンター方式が主流です。費用対効果が高いからできることという見方もできます。一番のハードルは現行の調理員を首にするわけにはいかないってこと。それがネックで、自校方式のまま、現在にいたってるところも多いのです。
ちなみ、広川町は段階的に外部委託に切り替える準備段階にはいっていて、調理員のかたが数ヶ月ずつ事務職体験をされているようです。

ろいりーさん、せーこさん。
いろいろとくわしいおはなしをありがとう。
チバガイギー、ひゃあひさしぶり。なつかしい。
かささぎは個人的にチバガイギーとアストラゼネカがなつかしかとです。
けっきょくさ。ひとってじぶんのかんけいしたことしかよくしらないよね。そんでもっていろんな文句いったりしますよね。その逆もね。そんなもんだろね。

で、つかれたのでもうねます。
バッテリー残量ぜろっす。

breadapple給食室の匂いって独特で、永遠に覚えていると思います☆
この頃は食品アレルギーの子供とかいなかったように思うけど、環境汚染もあるのでしょうね。
それにしてもDDTをふりかけられてもいまだに元気な私達でよかったです@@
あの時DDTの言った容器を覚えていますか。
左手で抱えて右手で平行にシュッシュッと押すと先端から噴射するしくみのやつ・・☆
昨日は風呂敷頭を実演しようと風呂敷まで持参していましたが、披露できませんでした。
またいづれ(爆)

学校給食の思い出
一つはわさびいりのポテトサラダ。この味が忘れられなくて何度も挑戦するのだけれど、これだ!と言えるものはまだできていない。
二つ目はグループで食卓を囲むスタイル。
入学前年に火災が起きて、何もかもが新しくなっていく時期に入学した。当時の最先端だったろうから見学者も多かった。
肉が食べられなかった私はグループで(5~6人ぐらい)食べる給食に助けられた。太田君やゆりちゃんが肉好きで沢山食べてくれたから。見学者があるときはいかに見つからずに肉をどけるかで苦心した。一度指摘された事があったように思うが見学者の方の指導だったので、おおごとにはならなかった。

変なことを思い出してしまった。(笑)
三潴も弁当持参組。パンの日もあり、子供は多めに金額をいい、それでお小遣いを浮かせたとあとできいた。給食でも弁当でも食べられたらそれでいい。

裏の山ノ井用水路で

裏の山ノ井用水路で

人口の小さな用水路でしたが、十数年前、たんぼの区画整理で大型の田んぼに変わった後、水路もこのような水門のあるコンクリート打設のきちんとした川に整備されました。
それまでは大雨が降ると田は一面の海状態になったものです。しかし、おかげで以後は一回もそのような「粗相」は見ません。

こういうコンクリート整備をとらえて、やれ自然の循環相を壊すのどうのと批判がありました。蛍が生まれない、などなど。でも、大丈夫、蛍はいます。写真のように、カルガモもいます。(みやま市での連句興行の日の帰りに写す。)

2009年10月25日 (日)

結城登美雄氏講演会

第一回みやま「食の祭典」記念講演

「地域で支え合う食と農~みやまの食文化で安心の地域づくり」

結城登美雄(ゆうきとみお)氏ご紹介

1945年旧満州生まれ。民俗研究家。
宮城県仙台市在住。山形大学卒業後、広告デザイン業界に。地域資源を活かしたまちづくりを説く「地元学」や、「食の文化祭」の提唱者。東北地域を中心に幅広いフィールドワークを行い、執筆活動はもとより各地の地域づくりにも関わる。2004年芸術選奨文部科学大臣賞受賞。宮城教育大学非常勤講師なども務める。

「結城登美雄氏からのメッセージ」

これからの地域の最大のインフラは、「食の安定」です。
たとえ小さな農業生産であろうと、それは何組かの家族の生活を支えてくれます。大規模農業もよいけれど、これからの地域の幸せは、身近に食を支えてくれる人々(農家)がいること。それを食べる側がどう支えていけるか、よい地域であるために食(農)が果たす役割はこれから益々大きくなると予想されます(海外食料に頼れなくなる日本)。
その意味をみんなで共有できる場にするための話を、各地の事例を交えてお話したいと思います。

以上、案内パンフレットでした。-

氏は連句に大変興味をお持ちで、講演の五分前まで、わたしたちが巻いている会場に来て熱心にごらんになっていました。しかも、講演が終了するやまた興行中の教室においでくださり、最後の一句(挙句の果てに、の挙句です)をつけてくださったのでした。
いやあ、世の中はおもしろい縁がいっぱいだ!

おはなしでは、山形の農村には前句付けというスタイルで、まだ連句が生きているのだそうです。農作業の合間になおらい文化としての連句があった。というのです。
ひやー、やはり地方は歴史学を生きて学べるから素敵だ。
三百五十年前芭蕉がまいた種がまだのこっていたのですね。

底意地の人呂伊利さんと白い粉談義

nightこんばんわ。
化粧>>仕事を持ってるとせざるをえませんが、同居の叔母が熱心にお手入れをしていたので、大人になったらそういうものかなと思っていました。
牛乳を飲んだあとは必ず手のひらに瓶の底の残りを出して顔に塗っていましたeye
初めてお化粧をしたのは19歳の時からでした。
当時のほうが今より高いものをつけていました。
最近はちふれや生協のものです^^♪

コーナー違うけど話を変えていい?
、、最近子供たちにシラミが流行ってるでしょう。
で、「runろいりさん」に質問です。
小学生の当時、私達は白い粉をかけられる日があって、頭にかむる風呂敷をもっていったりしました。
夫はろいりさんと同じ久留米市出身ですが、「自分達は町やったけん白い粉(DDT?)とかかけとらん」とか言います。
ろいりさんは白い粉をかけられた経験がありますか?
ひめさん達はどうでしたか?

低学年のころ、たしか一年か二年生だったと思います。DDTをあたまにぱたぱたされました。回転焼きみたいに、「ハイ次、ハイ次」って並んでいる順に。じぶんの番がきたら、どきどきして目をつむって息をとめました。ふろしきは記憶にありません。

博多時代、こどもが小学生のころ、しらみがはやり始めました。でも白い粉はふってもらわなかった。笑
どうやって退治したのかいなね

 私らは頭髪検査のようなのがあって、シラミのいる子だけDDTがかけられてました、それは小4ぐらいの時?
クラスに数名だけで、それで不潔な子という烙印をおされた。
全員が、というのはありません。

小学校・中学校は市町村の教育委員会が管轄しているので、それによる違いでしょう。
それか、八女でシラミが流行っていたからか?(こらいこらいそげなこつがあろうかい。八女で流行っとるなら久留米でも太刀洗でも流行っとろたい。さも八女だけが未開の地、どいなかみたいな烙印ばおしちゃいかんばい。←うちの茂平じっちゃんがエクトプラズムになって底意地の人ろいりさんに文句ゆうてる)。

とにかく教育委員会というのは本来、教育の地方分権化、地方自治のために作られた組織なので、今みたいに文科省の言うとおりでは、無意味な存在だと、つい避けてるはずの政治・思想的なことを言いたくなった。

 かささぎさんの言う「こどもが小学校のころ」は、DDTの人体に及ぼす有害性が指摘されて、使用禁止されていたからです、たぶん。

広川でも、しらみが復活した時期がありました。
いま30歳の子どもが幼稚園児のころ。

わたし自身の記憶も、ひめどんと同じで、小学校の低学年のころにDDt散布があったような気がする。

それで久留米ってふしぎなんだよ。中学に給食がなかったんだって。どこの中学も。(八女はどこの中学も給食がありました。)
これはどうしてなのでしょうね?予算がなかったからだろうか、そんなことないよね、八女より久留米のほうがおかねもちだし。日本一のぶりぢすとんさんがあるし。
八月いっぱいで首をきられた警備会社がさいごのほうで請け負っていたのが、中学校の改造工事の警備でした。厨房ができるとかで、こんどから給食がはじまるんだといっていた。こんだけアレルギーがふえている時代の給食、大変だろうな。

nightろいりさんありがとうございました。
そうでしたか☆彡 検査があってのことでしたか。
あの頃の小学生は全員させられたのだと思っていました。
風呂敷で頭を包む>>普通はタオルでだったかもだけど、うちの学校はきっと当時の先生のアイデアでしょう。
風呂敷のほうが生地の目が詰まっていて体には悪い粉を通しません。
包み方は明日実演してさしあげましょう。粉を吸うことも無く、息も止めなくてよい方法を^^club

今シラミが幼稚園や保育園で流行ってるみたいですね。
今日は耳寄りな撃退法を聞きました。
方法は、シャンプーのあとお酢をつけると良いとか。
お酢の効果は夫の水虫で実証済みですshinefootshine

えっ、絵目さんのコメント、ショック。
当時からだにわるいものってわかっていたの。
そんならなんでおしえてくれんのよね。
使いまわしの注射針も、あのせいで肝炎が潜在的にまんえんしたといいます。
でも、まだ、そういう時代だったんですね。
酢ですか。そういや付け句で出したことあります。
竹酢で治る夫の水虫 
 (空想句。夫の名誉のためいいわけ)

2009年10月17日 (土)

八女吉田の地

この長い車の列をたどって、七百メートルほど東へいけば、かささぎの住む上妻の寺田村があります。

くらのすけ翁の遺骨はお墓にはありません。人柱にたたれたからです。

遺言のひとつは、吉田の地がみはらせる地にお墓をたててください。

だったそうです(長峰小学校児童の紙芝居より)。
そのお墓からみえる景色です。

当日はたくさんの地区の米つくり農家のかたも参拝されていました。
米をつくるということは、水なしにはできない。
お百姓は水路のすみずみまで、自分の足で知っています。
かささぎが一度だけ川浚いをしたときできた句。

ふるさとのクリーク地図は足で描く   恭子

くらのすけ翁のまつりの日にできた句。

水神を鎮めし翁や日本晴れ      恭子

中島内蔵助翁墓前感謝祭

かささぎがこのおまつりに出席した理由をかきます。

八女戦国百首和歌に関するコメントをくらのすけ直系の遺族のかたから戴いたからです。
そのかたは、中島道夫とおっしゃいます。倉敷のさる大学の先生であられました。
毎年この祭りに参加されてるそうです。
かささぎが十年ほど前に出遇った天文百首和歌と、星野川のはんらんのために尊い命をささげられた、人柱に立たれた伝説の中島くらのすけ翁とが、なぜつながっているのかを知りたいと思いました。

当日のことを詳しく記したいのですが、写真のパンフを紛失してしまいました。
(雨がふってきたのでそれを傘かわりにしたのが間違いでした。)

しかたありません。きおくでかきます。

まず当日の中島道夫氏のおはなし。こどもにむけておはなしされました。

「みなさんに今日は一つだけ、お話したいと思います。
みなさん、こめいっこくはどのくらいかを知っていますか。
米一石で人が一人、一年間いきていけるのです。
くらのすけが人柱にたって山の井堰が拓いた水田は、八女の地から三潴まで三千町、そこでとれる米は、おおよそ五万から六万石になります。」

どの人も似た調子の献辞をささげられたなかで中島道夫先生のお話は簡潔にしてびしっと要点をおさえ、とっても印象的でした。

まつりがおわって、中島先生へ直接インタビューをして得た話からいくつか。

百首和歌はなくしたとおもっていたら家の中から出てきて
解読不能になっていたのを義父さんがそっち方面に趣味があられて、
ていねいに復元してくださったそうです。二種類あるのだそうです。
それがほんとうに天文年間のものだとわかりますか。とたずねてみたところ、
紙の材質とかを検査したらわかるはずだ。とのことです。
それと、ずうずうしくもくらのすけさんはほんとに自分の意思で人柱に立たれたのですか。
とたずねてみた。即答、そうです。
この地は排他的なところだし、もともとよそから戦で敗れて流れてきた者が受け入れられるには
いろんな気苦労があったろう。その地で治水のために命を投げ出すことに意味があった。
みんなの気持ちを一つにする大切さを身をもって教えた。
死に損ないの武士だったから。とのこたえ。
かささぎは今、十一月二日(旧暦の)が命日だとしか書けませんが、(というのもうかつにも資料をなくしてしまったからですが)、くらのすけは1600年代の人です。ですから、戦をたくさん戦ってきた武士、それも岐阜あたりから流れてきた武士であるという視点を忘れてはいけない。わたしはその視点がすっぽり抜け落ちていました。ただ、「吉田の庄屋さん」とだけの認識しかなく、そうであればこそ、のどかな印象しかありませんでした。だけどだけど、百首和歌の生まれた年代とは二代(百年)くらいしか違わない時代の身分の高い武士だった人なんですね。
中島先生のお話を聴いていたら、くらのすけのお人善しの庄屋さんていうこれまでかささぎが抱いてきたイメージががらりとかわりました。たくさんいくさで人をあやめ、仲間の多くをうしない、だけどもじぶんは生きながらえ、死に場所をさがしていた人だったと。立体的なこころのイメージがわいてくるようになりました。
中島家はお墓(筑水会病院のすぐ向こうがお墓で裏は竹藪と潅木の林が続いています)から真北へ平行移動したところで、裏手にはやはり林というか古い森がある。
冒険したいような心をそそられる古代からの地です。
むかし母がすんでいた笠原の田舎家も思い出させた。
吉田のあのあたりには今も「牢屋」とよばれている地があるそうです。
それをきいてすぐに思いました。磐井の裁判を模した別区にある人形。
ひとかたばるの。聖なるいのししをぬすんだ男が裁かれている。
いわいの時代からすでに律令国家だったんだ。
おもうに、そのころから全くここらへんってかわっていないんじゃないかなあ。
ぜんぜん天変地異はないし、地震もなければ隕石もおちんし、たまに洪水や旱魃が襲ったかもしれませんが、土地全体の形相がかわるほどの異変はなかったんじゃないでしょうか。吉田の地、もっと歩いてみたいものです。
しらないことがいっぱいだから。
中島さんにお会いできて、とってもうれしかった。
懐かしいような有難いような、そんな雰囲気の人でございました。

中島くらのすけ翁慰霊祭

写真がなんともはや雑でごめんなさい。
土俵がありますが、毎年ちびっこ相撲があるんです。
土俵のむこうがくらのすけ翁のお墓です。
宮司さんがみえます。
宮司さんのうしろには竹がさしてあって、それはシデの役をしているようですが、その背後のいすにすわった人は、くらのすけ直系の子孫のかたです。小さくてほとんど判別不能ですみませんでした。お墓の正面は写真では左の部分です。
かささぎはまつりを側面からみておりました。

水神への接近ー中島くらのすけ翁慰霊祭

八女は奈良に似ていますよね。・・・

十時から中島くらのすけ翁のお墓で感謝祭が執り行われました。
参拝者たちの車がずらりとたんぼのまわりにとめてあります。

2009年10月13日 (火)

筑後川マラソン大会の歌

かささぎさん、ぼんさん、応援どうもありがとうございました。
おかげで35㎞あたりまでは絶好調だったけど、あと5㎞ぐらいのところで急に肉離れのような前兆が(肉離れの経験ないけど)して、ペース・ダウン、それでもゴール寸前また異変で、おまけにあの暑さ、もう足も頭もヘロヘロ。しかもゴール後、足が2回もつり、2回目は両足同時で思わず倒れ込んでしまうほど。年のせいか?いやいやまだまだ。
というわけで、稚拙なマラソン7首。
 
①ふるさとの千歳の清き流れ見て 号砲待つかマラソン人(ビト)よ
   ※スタートの号砲鳴ったかどうか?いつの間にか始まってた
②高牟礼の山中に見ゆ大社(オオヤシロ) 走り登らんと誓いしはいつ?
   ※ホントは高良大社は見えまへん
③幼き日疲れ歩きし放水路 いま軽々と走り過ぎゆく
④ふと空を見上げてみれば鰯雲 俺と一緒にどこまで続く
⑤筑後路を走りつ願ういつまでも 山よ田畑よ緑豊かに
⑥寛文の五庄屋伝説残る堰 この辺りかと見れどわからず
⑦若者を抜けば翁に追い越され 人はそれぞれ「keep my pace」

 高校1年以来、41年ぶりの真面目な短歌です。いや、お恥ずかしいがこれも愛嬌?もっとひどいのは後日紹介~いらんてか?
 

わお!ろいりーさん。相良さんに勝るとも劣らない短歌群ではないですか。なんだなんだ!能在る鷹は爪かくすって、これまで隠していたのか~!?
個人的にいいますと、7番がいっちゃーん好き。
過酷なマラソンへの挑戦。おつかれさまでしたぁ。

①と②は、諏訪中の校歌のパクリなんじゃねえの?いえ、参考になさったのですね。
私は暇な時、金丸小や広中や諏訪中の校歌なんぞを、時々思い出して風呂の中でうとうとります。1番は全て歌えます。ははは・・・
短歌、お上手だと思いますよ。これからも時々作ってください。

マラソン、完走できたのですね。よかった。
最後まで見ていたかったけど、勤務がありましたので見れませんでした。
朝も彦山を送っていかなくてはならず、スタートに間に合わなかった。
体、大丈夫ですか?お大事に。

マラソン、最後までみているべきでした。ほんとに薄情でした。
フルマラソンの一部をちょこっとみて、応援したなんていうのは恥ですね。
来年は最後までみます。

悠久の川の流れを溯るマラソン人は点描となり
橋毎に応援人が待ち受ける風爽やかな十月の原
梶原の呂伊利さんがあらはれて一瞥くれて去っていく間を
老若男女がろうにゃくなんにょ走るを見てゐるあちこち太き玉になりて
はるかなる黄の花叢に漱石の不濡山の句碑思はるる
サン津軽丸かぢりして大空の腹蔵なきよ雲ひとつなし

にくばなれでしたか。そんなら整骨院にくればよかった。
先生それが専門ってくらいに上手です。競輪選手や高校生がたくさんみえます。

はるかなる黄の花叢はなんてことはない、セイタカアワダチソウ。
ぬれせぬやまにそうせきのくひ、

菜の花のはるかに黄なり筑後川  夏目漱石

(くるめウスにも句碑の写真があった。五分でみた!)

2009年10月12日 (月)

水神への接近 5  

(あおいシャツの右側のランナーがろいりさんです)折り返して四キロ地点。

今朝は「どうらいご」で溝さらいがあったのです。長男は深夜バイトでいず、父が出るというので父にまかせたら、ちょうど私がマラソン応援にでかけようとしてるときに、下半身ずぶぬれで帰ってきました。
溝に入って大量の藻を揚げたという。
いくらなんでも手術をうけてまだ三ヶ月もたたない身でよくもそんなことをしたものだ。とかわいそうでかわいそうで、自分はなんと親不孝だろうとおもった。
みなさんも川に入らないでいいよ、とおっしゃってくださったみたいですが、これが性分というのでしょう、川に入らずにはおれなくなったようです。
それだけ元気だともいえる。以前ほどではありませんが、ふつうに食事はします。ちょこまかちょこまかと。でも、うちは来年はもう米作りはしません。

きょうは、結局、ぼんと約束したとおり、九時半にくるめウスに行き、車をとめて筑後川マラソン大会本部までおりて行ってコース表をもらいました。それから車で折り返し地点まで四キロの地点まで行き、川の土手に腰をかけて呂伊利さんが走って見えるのを待ちました。ぼんとりんごをまるかじりしながら。
とってもいいおてんきで、きもちのいい日でした。
千五百人の走者が目の前を通り過ぎていった。
ろいりさん、元気に走ってみえましたよ。少しも苦しそうではなかった。平常。ひょうひょうとした走り。
青いシャツに青い短パン。白い帽子。だったよね。
目の前を通り過ぎていかれ、折り返し点の朝羽大橋から四キロくだった地点でこんどは戻っていかれるのを見届けてから、帰りました。ぼんが声をかけたのに気づかれました。ゼッケンは901、ろいりさん、完走されたでしょうか。最後まで見届けられずごめんなさい。
十二時をすぎていたので、ぼんと丸星ラーメンをたべて帰りました。ろいりさんもいっしょにたべられたらよかったね。といいながら。
丸星はかつてないほど混んでいました。
列が店の外まであふれていました!

ろいりさん、かささぎさんお疲れ様でした。

1500人の中には70代と思われるような人も混じってました。その後に若者がてれんぱれんで走っているのを見ると、しっかり走れ!と喝を入れたくなります。
どなたも一生懸命走っておられました。自分は走れないからうらやましかったです。

spadeろいりさんお疲れ様でした。よいお天気でよかったですね。
run観戦、応援のお二人もお疲れ様でした。
今日はあちこちでスポーツ大会やイベントがあってたようでしたね☆

 

2009年9月23日 (水)

水神への接近 4 八女の中島氏

真夜中に起き出して、気になっていることを整理してみる。

このところ戴いた縁のなかにそれはあった。

八女戦国百首和歌『夏日侍(なつひまち)』関連でコメントをいただいた倉敷の中島道夫氏からのお便りに、こう書かれていたことが突然気にかかってくる。

>うちの父も旧姓は中島です。高塚というところに住んでいました。
>中島って姓は八女には多いのかもしれませんね。(姫野)

懐かしい高塚という地名を拝見しました。
 吉田の私どもや、黒木町の田本の中島は高塚と深い関係があります。

中島両家とも、1615年に大坂夏の陣で豊臣家が滅亡したとき、旧知の
田中家(筑後柳河藩主、田中吉政)三男が領していた筑後福島に
逃れています。
 大坂城馬廻り七手組(要するに豊臣家の親衛隊、旗本衆)の組頭の一人、
中島式部少輔氏種一門の関係者です。
一部は、大阪の枚方に逃れ、江戸時代は紀州徳川藩の本陣庄屋として
知られています。
 筑後福島に逃れた後、私どもは吉田に定住して、旧吉田氏が管理していた
地域で生活することになっています。内蔵助という官職名を名乗れたのは
氏種の子供の一人であったからです。片田舎の単なる庄屋が名乗れる名前
ではありません。内蔵助といえば、普通、大石内蔵助などを思い出すように
家老クラス(会社でいえば、部長?)の官職名で朝廷から戴くものです。
 高塚には、夏の陣で移ってきた中島一門は多いはずです。私が高塚の
地名との関係を深く知ったのは、田本の典三郎おじが京都大学在籍時の
演習課題で取り上げた家系調査記録論文からです。

姫野さんとは、ご縁がありそうですね。 
ついでに、氏種の前の代は、中島豊後守で、織田家家臣です。犬山城主
織田信清に仕えた後、信長に従っています。現在の、尾張一ノ宮、岐阜
羽島(葉栗郡と中島郡)の木曽川あたりは、尾張中島郡と云われた地域です。
木曽川の氾濫の歴史が当時もあり、田中家や中島の先祖も水とは
格闘していたと容易に想像できます。田中吉政は、愛知県の岡崎城主時、
現在にも残る水路構築と深く関わっています。(中島)

ここで八女を流れる星野川(矢部川支流)の治水にからむ人柱伝説のあるじとなった八女市吉田の庄屋・中島くらのすけ(内蔵助)について、詳しく書かれた資料を貼り付けようと思い、なにか資料はないか。とネットで検索してみましたところ、自分のブログがヒットします。あれ?書いた記憶はないけど・・・。
なんのことはない、竹橋乙四郎が以前調べて書いてくれていたではありませんか。
灯台下暗しとはこのこと。これをよめば、筑後の人柱伝説だけでなく、全国のおなじころの似たような伝説がわかりますので、どうぞみなさま御一読ねがいます。

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-e5c8.html

さて、気になっていることをまとめます。
以下の情報は戦国百首和歌の所有者である中島道夫氏(治水のため人柱にたたれた中島内蔵助本家14代当主)からのお便りから、引用して御紹介するものです。

メールでお答えできる部分は、少し書いておきます。

1)なぜ、私の家に百首和歌があるのか?
ご存知のように、この歌会は、戦国時代の筑後の武将が戦いの前に
行ったものと言われています。今伊勢は吉田大神宮として伝わっている
場所にあり、その神宮へ戦勝祈願のために奉納したことになっています。
 天文(後奈良天皇)時代は、各地で戦乱があり、当地でもいくつかの
勢力が互いに群雄割拠していたと思われます。
 吉田を領していた吉田氏(鎌倉地頭の系譜)は、大分を本拠とする
大友家と関係する系統でした。奉納後の詳しい経緯は分かりませんが、
ともかく、和歌は吉田氏の管理下にあったと思われます。
 我が家には、中島の家紋(長剣梅鉢)とともに、大友由来で良く用いられ
ている杏葉(ぎょうよう)紋も家紋(花抱杏葉)として残っています。
杏葉紋でよく知られているのは、京都知恩院の月影杏葉や、肥前鍋島、
柳川立花などです。
 ともかく、以前お話しました大坂夏の陣後、1615年に先祖が吉田に
住み着いた時に、受け継いだものと考えられます。東大の資料編纂所が
所有する筑後関連の資料では、吉田中島の家系についての記載中に、
「吉田氏から故あって中島氏に改名する」と書いてあります。
 我が家は4代続けて養子の家系です。幼児のころから伝え聴く機会が
親の代も余りなかったので、伝承で伝わる事項に不備があるのは仕方
ありません。
 父は、中島本家関連の伝承事項を、新宅の一之おじ(初代の八女市長)
や、その弟第三おじ(海軍少将)から聞いていました。
私も幼心に両おじから、分からないなりの受け留め方ですが何かと教えて
もらっています(私が長峰小学校の低学年の時亡くなりましたが)。

2)百歌存在の確認時期
 実は、我が家に巻物が存在したことは戦前は分かっていました。
戦後、一度父が吉田に戻った後(私共が小学校を過ごしたころ)、おじ達が
家の由来に関する資料を調査していたところ、なかなか見出せませんでした。
久留米の図書館に貸し出していた書類などは、1953年の筑後川大水害で
消失したので、一緒にだめになったのか?などと残念に思っていたようです。
 私がひとり立ちして1980年以降、両親は再度吉田に戻りました。その時、
資料の整理を本格的に行い、改めて百歌の存在が確認できました。
父は、やっと見つけられたと非常に喜んでいました。亡くなったおじ達に
見せてやりたかったと申していました。
 市の文化財にとの話には、当時八女市の文化財委員をされていた、杉町で
絵の教室をされている杉山洋先生(坂本繁二郎の弟子)が関係されています。
解読を松崎英一先生に依頼し、関連書類を作成してもらったようです。
100首というのに、99首しかないことや、文字の一部が解読困難なところも
あったようですが、ともかく和歌の存在と文言は明らかになりました。
 発見当時、巻物は無残な状況で、広げられない状態だったようです。
義理の父の趣味が高じて、表具の技術を身に付けていたことも幸いして、
百首和歌は上手に修復でき、全体を広げて見ることが可能になりました。
なお、資料登録時にカラーコピーがなされていますので、かささぎの旗では
その写しを利用されているものと推察します。(中島道夫)

▼かささぎのひとりごと

縁というのは奥深い。
中島道夫氏に教えていただいて知ったのですが、山本健吉も中島一族につながり、最近私の父のがんをみつけてもらった胃腸科の先生も中島一族らしく、そしていまネット検索で矢部川関連を調べていて出会ったサイト「筑後川水系ネット」ということばに思い出した筑後川水系事務所、ああそういえば、若いころここで半年近くバイトをしたっけな。父の実家である高塚の中島家の二女が嫁した人が今そこで所長を勤めていることも、もはや無関係だとは思えなくなってきたかささぎです。(ちなみに矢部川に関する史料は筑後川ほどは残っていないらしいのは、単に書き残す余裕がなかったんだろうか、文字を持っている階層が少なかったんだろうか。文化というのは、書き残されたかどうかによるところが大きいとつくづく思う)。

そういう縁を今しみじみおもうとき、かささぎの旗がこういうことをなんとなくやり始めたことも又、理由のあることなんだろうかと思わずにいられません。

この中島氏の返信のなかに、そして乙四郎のしらべたことのなかに、かささぎが百首和歌へ一歩でも近づきたいと今年せっせと打ち込んだ、鶴崎裕雄先生の『連歌師ー政治的な、あまりにも政治的な人たち』で取り上げてあった連歌師たちと武士の付き合いを想像します。織田一族。伊勢にも中島。人柱。

すこしずつ、すこしずつ。みえてくるもの。

2009年9月16日 (水)

山ノ井用水路ー水神への接近3

山ノ井用水路

家の裏を流れる山の井用水路、こども時代はもっと広い川でした。

八女市の山の井用水路は広く農の水をまかない星野川の治水も兼ね、水神のこころをなだめ鎮めてくれるものでした。

そのおおもとには、江戸時代の中島くらのすけという名前の吉田(岩戸山古墳がある地)の庄屋さんがいます。人柱にたたれた方です。有名な伝説の人であり、今なお、地元の人たちから尊崇の念を抱かれて祀られている郷土の偉人です。下にご当地ブログからの一節を引用させていただきます。

▼吉田の庄屋「中島内藏助翁」

 山の井堰の構築に尊い人柱として殉ぜられた、吉田の庄屋「中島内藏助翁」の感謝祭が、村の田んぼが一望に見える墓前で毎年開催されております。三百四十五年前、星野川に河口を開き、八女・筑後・三潴の三千余町歩に亘る水田を潤し、筑後川にそそぐ山の井堰の構築干拓事業。現在でも、水利委員会で田植えの日取りを決定し、その日程を山の井用水関係の町内にお知らせしておりますが、関係町内の協力により、「下流の吉田に田植えの水がかかるのが最優先される慣例が続いてきた」ということからも、翁の功績の偉大さが想像されます。
 賛同者で顕彰会を結成して、墓と隣接する土俵周りの手入れ清掃を定期的に行い、毎年十月十七日には、遺族及び多くの来賓と地元関係者が参集して、翁の遺徳を偲び、墓前祭を執り行っているところです。今年は長峰小学校四年生による紙芝居「左結びの緒の草履」と、子ども育成会主催、長峰小学校男子全生徒による「顕彰相撲大会」が開催されました。農業を取り巻く環境は変わっておりますが、河川の汚染、農地の荒廃など、先代から伝えられてきた「内藏助翁の精神」が風化しているようで、この大切な郷土の遺産は、いかに時世代が変わろうとも、孫子の代まで受け継いでいかなければならないと、あらためて思っております。そのことが、郷土の自然環境と、私たちの命を守ることにも繋がるからです。

引用は、

「わがまち自慢」http://www.wing8.com/dcity-yame/kurashinojiyoho/200401/con02.html

ところで。

かささぎは、この顕彰会のことを、八女戦国百首和歌のところで最近ご連絡くださった、中島くらのすけ直系の子孫のかたのお便りでつい先日知ることができました。
なんと百首和歌はこのくらのすけ翁の直系子孫である中島道夫というおかたが所蔵しておられました。
吉田山の古墳の丘の上にある伊勢宮(大神宮)の神官が所蔵しているとばかり思っていたのですが、そうではなくて、ずうっとこの中島本家が護持してきたものだということです。

そこで、かささぎ的ひとりよがりの感慨にふけりますと、

人柱は庄屋さんの自分の意思ではなく、周囲のなんとなくのそそのかしに人柱に祭り上げられたのである、なんていう無礼な想像をやって申し訳なかった。こんなことを思うから寺田がいちばん遅く水がかかるのかもしれない。長嶺小学校にはその昔、父の姉(若くして結核死)が先生として奉職していたそうです。わが家からは上妻小学校とほぼ同じ距離に長嶺小学校があることも最近知ったことです。校区がちがうと全く関心がむかないものですね。

水神への接近。

神津呂伊利さんが書かれていた久留米の五庄屋さんの伝説もおなじ時代のことでしょうか。

久留米の五庄屋さんの伝説:http://www5b.biglobe.ne.jp/~ms-koga/069goshouya.html

筑後川のほうは寛文年間、1660年ごろとありますね。
星野川の山の井用水のほうは、・・あれ。ほとんど同じ時代のようですよ。
うーん。なんでだろう。

2009年9月10日 (木)

水神への接近  3  「黒木物語」

『黒木物語』についての疑問と考え方

  和田 重雄

(一) 黒木築地殿前霊社の生木焚き神事(12月18日)について

1 地元の説

「黒木物語」の記述のとおり、築地の瀬(窪)にうちあげられた城主の正室(奥方)春日局の蘇生を願って、生木を焚き身体を温めたとする説。

2 氏神と水神に感謝する行事説

11月18日(築地御前霊社でも、従来は11月18日であったが、一月遅らし12月18日となる)に行われる行事で、全国的な信仰行事です。平安時代から宮中の行事として冷泉家の座敷で行われていたのが、民間にまで伝わったものです。神への感謝を表す行事です。
 築地御前霊社の生木焚行事は、春日局入水物語と一体となり、永く実施されたものです。生命をもつ神聖な生木を焚き、矢部川の水神を迎え、感謝と祈願をこめた行事です。
 当日、築地の氏子、早朝より大木を伐り集め、山積にして火をつけます。上空へと立ち昇る白煙と、淡紅の火焔は水神を招きます。午後は氏子全員参拝し、残り火をかこんでの酒宴で、他所にみられない珍しい、美しい伝統神事です。

3 黒木大蔵太輔源助能(おおくらだゆうみなもとのすけよし)は、薩摩国大根占(おおねじめ)、高城城主で、源頼朝の命で黒木に移った。当時は平家の城であった猫尾の城を攻め、二年三ヶ月の後、これを落とした とあります。
 平家方の将兵をうち亡ぼして城主になった助能は、さっそくこの地の開発にかかったのです。ところが黒木、豊岡盆地を東西に流れる、急流矢部川の氾濫、旱魃、に何回も悩まされ失敗しました。  これを平家の怨霊のたたりとおそれた。

 この考え方が、「黒木物語」になり、待宵小侍従が語られ、黒木四郎定善の死となり、更に築地御前霊社の出現となったという説。
 「生木焚の行事」も春日局らの怨霊を鎮めるための行事だとも考えれます。この考え方から「黒木物語」を「筑後の平家物語」と呼ぶ研究者もあります。
 築地御前霊社の御本尊、木造春日局坐像は、三面宝冠を戴く観音さまですが、印は釈迦の定印です。蓮台でなく畳座です。
 左右の脇侍は、乳母の紅梅(老婆)と女房頭の濃君(こききみ)です。ともに神像です。当時は神仏混交の時代で、この姿でよいのです。
 春日局像の造立年月日は、赤外線撮影(九州歴史資料館)により、慶安三年1650、12月27日と判明しました。第二代目の仏像と思います。

 郷土の史話 『貞享版 黒木物語』和田重雄・著より引用しました。
 

水神への接近 談話 2

仕事から帰ってきて、ごはんの用意をしてたべて片付けて。・・・英語にはいけませんでした。当分言い出せない、月に二回早退させてくださいとは。整骨院って忙しい時間が午後五時から六時にかけてですものね。
佐藤哲三先生、すみません。ぺこぺこり。
欠席の連絡もついにとれませんでした。
ところでくるめでは、附設中と明善高は学校閉鎖になっているそうです。一週間くらいとおもうけど。
うらやましい。いやまちがった、可哀想ですね。

え?学校閉鎖って、新型インフルエンザ?
最近、連日のように呼吸がおかしくなるこのおばさん。季節の変わり目は喘息の頻度がたかい。新型インフル、喘息があるひとは要注意。お宅のむすこも、気をつけなきゃね。

 JRの前にも日吉神社があるというのは、うちの甥が城南中の時に修学旅行の集合場所がそこだったそうで、でも間違って日吉町の日吉神社に行ったのが多かったらしいというエピソードで知りました。
 で、小学校の時の遠足のことを篠山小出身の嫁に訊いたら、「鍛錬遠足」の名でやはり「放水路」に行ってきつかったらしいが、どこが放水路なのか今イチ不明。日吉小はどのあたりから筑後川の堤防に出たのだろうか?その記憶も「over the rainbow」、当時はまだ蓮根堀があったので、今のバイパスあたりの地形に全く覚えがない。調べたら筑後川の放水路は幾つかあって、そのうちの1つは1953年の大洪水の後に作られたらしい。そして、同じく大洪水対策としてその後に、反対運動を押し切って作られたのが『砦の拠る』の下筌ダム。姫野さん、話がつながりましたね。

英語に行って来ました。先生から、恭子さんに土曜日にぜひ来てくださいと伝言を頼まれました。尚9月19日、10月3日、24日はお休みだそうだです。
そしてかささぎの句の英訳

「かささぎの蒼き腕を想うべし」
Noisy poor magpies impress me
With their holy azure wings so much.

どういう気持ちを表しているのか、教えてほしかったそうです。

おはよう。
おとといの深夜、海軍の反省会で特攻隊を指示した上層部の軍人たちの戦後のおもいに迫った番組をたまたま見ました。かれらもずうっと苦しんでこられたんだな。とかんじた。ただいわないだけだ。とうぜんだろう。何十年もたってはじめてすこしいえることがあり、死のまぎわにいいのこすことばがあり、そのままあの世へもっていく人もいる。
ってことで昨夜は眠ってしまってました。
早く眠ったら早く目がさめた。りっぱなとしよりだわ。

せいこさん。新型インフルエンザ、ひそかにはやっているようですね。でもなんでエリート校だけだろう?せいこがぜんそくもちとは意外。都さんも持っていた。無理をしないように、かぜをひかないようにね。
子にはマスクの用意してはいるけど、あれはかかってしまった人用だよね?予防のためにつけるのは無意味なんだったよね。

まりさん。ありがとう。
かささぎの蒼き腕を想うべし。
そのままだよ。
黒と白とのうるさくて下品な鳥だと思っていた。カラスの一種だろうって。
ところがある日、間近におりてきたかささぎを観察していたら、羽のいろが黒ではないことをしる。night greenで、光線の具合では青にもなり藍色にもみどりいろにもなる。あれーおまいさんはそんなにきれいだったの。というおどろき。なにもしらなくてごめんね。ってそんなきもちの一句。

ろいりさん。
水神、あばれくるい手のつけられないものを、神と崇めて祀る。それは筑後川でも矢部川でもいっしょです。黒木物語をすこし引用したいなあ。とおもったのは、さいしょにその水神のまつりがかかれていたから。ちなみに、にごる。すいじん、ですね、水神は。
てづかおさむ、もにごったんだね。あたしはずうっとてつかおさむ。とよんでいた。

2009年9月 9日 (水)

水神への接近  談話(えーどこが?)

pencilこんにちは。
句会の件で質問があります。
当日の為に、いくつか作っていくものですか?
それとも即興でその場で作るのですか?
流れの様子で作るのですよね?
今まで作っているものを引用するために持っていってもかまいませんか?
国語辞書や漢和辞典も必要でしょうか?
歳時記は用意しました^^tulipyachtmaplebottle

エメさん。
本当は流れに沿ってその場でつくるのがベストなんでしょうが、わたしたちは素人の域を出得ませんので、前もっていくつか句をつくっていくことをオススメします。
これを「孕み句」といいます。
575の句や、77の句。あるいはキーワードでもけっこうです。歳時記は不可欠ですが、国語辞典は自由です。あるいはお気に入りの小説でもいいかな?ことばをチョイスするために。これはけっこう助け舟をだしてくれます。
恋の句、たくさんつくっていきましょう。
わたしも、これから孕み句をつくるつもりです。

pencilseikoさんありがとうございます。
なかなかすぐには浮かばなくて、当日が心配ですが、、なるほど~、、小説ですか。
book今は寺山修司氏を読んでいますので、それを持っていこうかな。。ただし、湯船読書なので、かなり膨らんでおりますがspasweat01

slate東京日和>>好きな映画です。
叙情的でゆったりとした時の流れで、、。
アラーキー氏の名作だと思います。
竹中氏はこんな感じが普段に近いのではないでしょうか。そんな気がします。
美穂さんもいいですね。 
彼女出演>>岩井俊二監督の「Love Letter」は見られましたか?
こちらもなかなかいいですよshine

月の句を、と課題をだすときに、月そのものを詠んでくださいという一言を書き忘れてしまいました。
音彦さんの月の句をみていて、しまった!と思いました。
月々の引かれもの多し。という月句だったから。笑

これはこれですごい俳諧。
でも、月の座の句にはなれない。

えめさん。
ろいりさんもきてくださるとよかったんですが。
映画の話をもっとしたかったでしょう。こないだのオフ会のときに。そんな気がした。
マラソン大会が来月あるので、そうそう帰省もできないでしょうしね。
そのうち縁があれば連句へもきて下さるでしょう。

詩をかくとき、歌詞をかくとき、なにかひとつのことば、核になるもの、起爆剤としての、たくさんのイメージをわかせる、をみつけてきて、それを中心にふくらませていく。という書き方。普段からなにかを読んでいるときなどに、気になったことばを蔵っておく癖をつけるといいですよね。歌詞をかいたことはありませんが。むかし、杏子さんがなにかにそう書いていたのを立ち読みしたことがある。

sunおはようございます。
ろいりさんはお元気でしょうか。 マラソン頑張ってくださいmotorsports
今度は映画のお話をしていただきましょうね☆

bookなるほど、気になった言葉ですか。。
いいなと思ってもその場かぎりな場合が多かったです。反省。。
杏子さん>>土曜日のベストヒットサタデーはお気に入りです。 ヒロシ君もなかなかいい♪
10年ほど前に、杏子さん、山崎まさよしさん出演のFM公開ライブが当たって、見に行きました(ZEPP)
スガさんがいれば福耳だ~とか思いながら楽しみました。
杏子さんは、バリ!素敵なお姉さんでしたheart
ZEEPは舞台真下から並ぶので(立ち見)5列目だともうまん前です。
パワーがあってほんとにかっこよかったdiamondもち山崎さんも^^
先月の放送で、清志郎氏のことにふれてありましたが、聞いていて涙がでましたclover・・朝から関係ない話になってしまった・・すみません・・。

club↑ZEEPじゃなくてZEPPです。訂正sweat01

音彦句。傑作です。
笑っちゃいかんち思うばってん、爆笑した。

 ご無沙汰してますのでたまにはコメントを。
日曜朝刊の図書広告欄に帚木蓬生氏の『水神』という作品が出ていました。
江戸時代前期、筑後川の水利工事に貢献した五庄屋の物語とか。
この話は小学生の時に学校で何回か聞かされ、うろ覚えしていたものだと思うけど、御存じでしょうか。筑後川は日吉校の(そして篠山校や、たぶん金丸校でも)遠足の定番コースだったので、その時聞いたような気もするし。そして遠足の目的地だった「放水路」とはどの辺だったのか?郷土史には弱いけど、何となく気になっていた「五庄屋物語」について、以下のようなことだけ読んでみました。

ろいりさん、久しぶりですね。
仰せの通り金丸小でも、歓迎とお別れの遠足は必ず放水路でした。
うろおぼえですが、神社の横を通った記憶がありますので、JRの前の日吉神社かとおもいます。だから医大を過ぎたあたりの河川敷ではなかったかと思うのですが、小一年生でも歩けるでしょうか。かなりの距離なので、違っている可能性が高い。12回も行っているのに覚えていませんね。不思議です。

よみました。
高邁な精神です。
高邁な精神が庄屋さんに宿っていたというお話。
こういうはなしがあるのなら、やはり八女の吉田の中島庄屋さんの人柱伝説も実際にあったことなんだろうか?うたぐってもうしわけない。同郷人なのに。
今日連句の付け句で、こんなんだしました。

遠賀川から海までの距離  (雑・裏六句目)

前句は、
お隣の午後のピアノが鳴り始め

すると、句はすきだけど、意味がわからない。といわれました。わたしもなにがいいたいのかわからなかった。川から海までったって、川のどこらへんから?河口からとしたらすぐそこが海じゃろうが。
まあ、だけども、おんががわということばのひびきがとてもきれいで、その川の名をいれたかったわけで、意味はどうでもよかった。
山頭火が浮かんでいた。山頭火が遠賀川を通っていった日の天気とか季節とか。

その句は結局取ってもらえませんでしたが、ここに連句的に書くことができたので、いいか。
以上、ろいりーさん、投稿さんきゅ。
わすれてた。『砦に拠る』は借りてきて冒頭と巻末だけ目をとおして返却期限がきて返しました。方言がそのまんまに採録されていて、それがとても新鮮だった。じぶんたちが使っていることばとさほど変わらぬことばがそのまんま。ああ、堂々としたことばだなあ!と、感動した。

2009年9月 7日 (月)

朝顔のむらさき

朝顔

 筑後国の「一の宮」久留米の高良大社は、筑後国中の僧侶、神官の総元締であった。
同時に盲僧の元締でもあった。多いときは、二、三千人を数える盲僧を擁し養っていた。
生活費や大社の維持費をまかなうため、芸を仕込んでいた。物語台本を与え、琵琶を持たせ弾じ語らせていた。そして村から村へ娯楽に乏しい山村をまわらせ、町部を渡り歩かせた。そのお布施は高良大社に納め、不自由な身を養ってもらっていた。
二、三千人の盲僧は、高良大社の管理化にあり、盲人座を作ってその監督を受けていました。

 北川藤左衛門尉の作といわれる『黒木物語』は、盲僧の弾じる台本だった。
黒木物語の編集は、紀州国高野山で行われたものとも考えられる。
まず高良大社の社僧を黒木地方へ遣わし、鎌倉初期からの素材=話のもとになるものを集めさせ、それを紀州にもっていったと考えられる。
 高野山には、高野比丘尼(女僧)や高野聖(学僧)という唱導文芸家がいて、教祖的文学を創作して広めていた。弘法大使の伝説がそうしてひろまり、ほかにも数多い。

 以上『貞享版 黒木物語』(和田重雄著)の前書より抜粋

コメント

これを読んでやっと腑に落ちた。
君が代を国歌とした乙骨太郎乙のエピソード中、それならおいどんの琵琶歌のなかにもごわす。といったことばが出てきた理由。
それとまだ全く調べていないけれど、水天宮に神として祀られている入水した安徳天皇の御付のあぜちの局関連の物語は平家物語として琵琶法師が伝えたものの中にあるんだろうなということに。
盲僧二、三千人とはまたすごい数。

守武と筑後が繋がった!
俳諧史は、荒木田守武の時代と松永貞徳の時代との間に半世紀強の開きがありますが、鑑実の俳諧興行は、その空白期に行われています。
仮説ですが、守武の俳諧は、その後、盲僧の世界で広まり、筑後の盲僧へ伝わったのでは。
空白期の俳談に「望一千句」「望一後千句」を著した伊勢山田の杉田望一(杉本望一?)という人(1548~1630)がおり、盲人だったらしい。

へえ、ここでつながったとはねえ。
かささぎと乙。
いや、あんたらすごいわ。
執念だねえ。
盲僧から盲僧へ。
その風景を想像すると、胸にしみるなあ。

おつしろう。せいこ。ぼん。それから古賀の音彦さん。らんちゃん。前田先生、私、調さん。これで予定の人数の8人になる。翌朝早くおとひこさんは仕事で帰る、でもエメさんがみえる。すみたからさんもきて、とまってくれないかな。部屋はまだ余裕がある。こういうときじゃないと、めったにゆっくり話もできない。おいでよ。だいたい、医家の妻なんてほうけんてきにもほどがある。
しゃいんりょこうにもつれていってもらえない。かわいそすぎる。だから、おいでよ。うそでもなんでもついて堂々とでておいでよ。夫や子は時にひとりにするべき。ほたるべき。
それから。この↑のコメントよんでおもった。
おつしろうもその場にいなければいかんとおもう。
星野一族の調さんが見えます。
さっきメールをよんだ。
失職中で英文の論文をひとつ抱えているだけの身とのこと。十日から朝倉(本籍地)、11日は星野、12,13は黒木(連句につきあうって)それから佐賀唐津方面へもいって15日ころに関東へかえるって予定らしく。
乙四郎もおってほしい、調さんにあってほしい。
きっと発見と展開があるような気がする。
なんだか、きもちはだんだん最強になってきた。
がるる!!でとろいとめたるしてぃの松山ケンイチみたく。

調さんが参加してくださるのはとても嬉しい事です。「かささぎの旗」おそるべし。
乙さんの参加もお願いします。
そらんさんが来られないのが残念です。

2009年9月 3日 (木)

和田重雄著 『貞享版 黒木物語』

井筒屋古書部ネット販売で入手いたしました。

手にとってわかる。これは借りる本ではなく、もっているべき本。

写真は扉。右の山の上に猫尾城跡、中央奥に高牟礼城跡。

流れる川は矢部川です。

こんどの連句興行は、ここを左にみて矢部川の橋を渡り、猫尾城とは川を挟んだ山上にあるグリーンピア八女でやります。お楽しみに。

郷土の史話(一) 貞享版 黒木物語
 昭和58年(1983)11月3日発行
 福岡県郷土資料調査員
 黒木町文化財専門委員会会長
 編著者 和田重雄

 (資)東兄弟印刷所

「まえがき」にかえて  より幾つか引用いたします。

1 「黒木物語」は貞享五年1692年黒木住人 北川藤左衛門尉作(編)を再起。
 9メートル10センチの巻物一巻である。糊はずれのため、はじめと中ほど二箇所が欠落、それを「調城古談」と「黒木軍記」で補い、原本に近いものへと復元、再編集した。

2 「黒木物語」などの物語本の起源は主として中世(鎌倉以降戦国時代まで、1190~1600)ころの編纂。大衆にとっては読む文芸ではなく、琵琶法師や山伏の唱導する語りを耳で聞く文芸であった。

3 筑後国の「一の宮」久留米の高良大社は、筑後国中の僧侶、神官の総元締であった。
同時に盲僧の元締でもあった。多いときは、二、三千人を数える盲僧を擁し養っていた。
生活費や大社の維持費をまかなうため、芸を仕込んでいた。物語台本を与え、琵琶を持たせ弾じ語らせていた。そして村から村へ娯楽に乏しい山村をまわらせ、町部を渡り歩かせた。そのお布施は高良大社に納め、不自由な身を養ってもらっていた。
二、三千人の盲僧は、高良大社の管理化にあり、盲人座を作ってその監督を受けていました。

4 北川藤左衛門尉の作といわれる黒木物語は、盲僧の弾じる台本だった。が又黒木物語の編集は、紀州国高野山で行われたものとも考えられる。まず高良大社の社僧を黒木地方へ遣わし、鎌倉初期からの素材=話のもとになるものを集めさせ、それを紀州にもっていったと考えられる。
  高野山には、高野比丘尼(女僧)や高野聖(学僧)という唱導文芸家がいて、教祖的文学を創作して広めていた。弘法大使の伝説がそうしてひろまったものだし、ほかにも多い。

2009年9月 1日 (火)

学長ブログと福岡七区の民度の高さ

政権交代と医療(1)

 保健医療経営大学学長 橋爪 章

政権が交代することになりました。

今日、8月31日は各省庁から財務省への平成22年度予算概算要求の締切日です。

現大臣が要求しますので、政権交代を前提としたものではありません。

概算要求は6月23日に閣議決定された「経済財政改革の基本方針2009」等を踏まえて7月1日に閣議了解された「平成22年度予算の概算要求に当たっての基本的な方針について」に基づいて行われます。

現政権の閣議で決められたもので、政権交代は想定されていません。

年金・医療等の経費についての概算要求基準は「高齢化等に伴う自然増1兆900億円を認め」「無理のない範囲で節約に努め、節約できた分は社会保障に充当する」というものでした。

次に予定される政権政党のマニフェストは、社会保障への多大な税金投入を前提としていますので、1兆円程度の増額要求では到底足りません。

概算要求に対し、今後、財務省による査定作業が始まります。

査定は、新政権の財務大臣の指揮下で行われます。

マニフェストを実現するためには、厚生労働省予算については概算要求額を上回る査定増が必要となります。

すべての省庁について査定増をするわけにはいきません。

歳出予算は歳入(財源)の範囲内でしか組み立てられないからです。

公共事業を預かる省庁の予算が大幅に削られるかもしれません。

景気が後退すると保険料が伸び悩みますので、医療には打撃です。

(学長ブログ八月三十一日付記事)

(2)

現政権の下で作られた平成22年度予算概算要求は、どう処理されてゆくのでしょうか。

例年ですと、9月から12月まで、財務省と各省庁との間で具体的な協議が積み重ねられ、修正、査定を経て、12月末くらいに政府予算案が固まります。

政府予算案は内閣が国会に提出するものです。

年明けには、年度内の予算成立に向け、予算案が国会で審議されます。

年度内に予算が成立しなければ、たちまち景気が冷え込むことになります。

(93年の政権交代時には予算編成が越年し、予算成立が94年6月下旬までずれ込みました。)

内閣は政権党の議員を中心に構成されます。

国会審議では、予算案が政権公約に沿ったものになっているかどうか、厳しい視線に晒されることになります。

民主党は、予算編成を官僚主導から政治主導に切り替えることを政権公約に掲げています。

首相直属の「国家戦略局」を設置し、予算の骨格を作成する方針を示すのだそうです。

このような新組織を設置するためには法改正が必要なので、少し時間を要します。

仮に10月に国家戦略局が設置され、予算の骨格が示されたとしても、それから予算の組み直しをするとなると、さらに時間を要します。

歳出予算が歳入(財源)予算と整合しない限り予算編成は完了しませんので、年内に政府予算案を固めるのは難しいだろうと予想されます。

予算編成が越年したとしても、予算の成立は年度内を目指さなければなりません。

予算を成立させるためには、数多くの予算関連法案も平行して審議し、成立を目指さなければなりません。

たとえば後期高齢者医療制度を廃止するためには「高齢者の医療の確保に関する法律」の改正が必要です。

圧倒的多数の議席数による数の力で少数意見を封じ込めることで、予算案審議や法案審議の期間を短縮することは可能でしょう。

国家の将来を決めるのにそんなことでいいのか、という疑問は残ります。

(学長ブログ九月一日記事)

コメント

うひゃーです。
政権交代劇、
想像以上の民主の圧勝でした。

一時期は自民党100議席行かないかも、と思った。
自民党のベテラン勢大物代議士が小選挙区でぼろぼろにやられるのをみて、ああ、国民は本気でこれまでの政権にNOと言い出したんだなあと思った。
歴史に残る選挙です。

学長ブログで、すでに交代劇のことが書いてあったよ。すげえ。
学長、いつ書いたん?ちゃんとねむってる?

おはよう。
選挙にいかなかった非国民のかささぎです。
父母はちゃんといつも揃って朝一でいくのに。

やはりの福岡7区。接戦だった。
広川と八女市部では野田さんが勝っていた。
いとこたちもねむれなかったろう。
かささぎは安眠。もうしわけない。朝がはやいので。
いつも三時過ぎには届く朝刊が二時間遅れの五時二十分すぎに届いた。
選挙のたびに感じる、新聞社ってすごい。
あんな短い時間でどうやって。

現在はどうか知りませんが、30年ほど前は国鉄と地元のバス会社が連係プレーをしていて、路線バスで土橋に新聞を下ろし、そこに待っていた新聞店主がすばやく積み替えてそれぞれの地域に持って行ってました。
乗り合わせたバスで偶然それを見て、感動しました。
こうやって無駄の無い動きをする人たちがいるから、新聞が読めるんだと。
今はトラック輸送に変わっているかもしれませんが、本当のところを知るためには新聞社に社会科見学に行く必要がありそうです。

選挙棄権したことは一度もないのですが、今回は抵抗して行かないことにしていました。
自民がだめだからあっちへとはどうしてもしたくなかったから。
でもだめでした。8時ぎりぎりに行ってしまいました。
だって投票所が隣だから。
よくも悪くも「どどーっと行く」のだということを目の当たりにしました。
戦争中もどどーっと。

ぼん。ありがと。そういえばそういう風景いちどは目にしたことがあるような。
運輸業のひとたちは、もし高速代がすべて只になったらどうしようもないにちがいない。
結果、みんながこまる事態になるものね。

さくらさん。
さくらさんらしいはなしですね。おもわず、わらってしまいました。
失礼しました。いいはなしです。うちの親もぜったい必ずいく、きもち、わかる。
(きのうはどっちにいれたんだろう。絶対おしえてくれない。)
選挙にいかなかったことが結構あります。
大政奉還じゃないけど、もうおかみにすべてお返しします的心情になって。
おゆだねお委ね。
後悔する一票を投じたことが何度もある。
それでも一票を投げにいくべきなのだろう。国民の義務として。
わたしってなんでこうも選挙がきらいなんだろう。
あ。長男には国民の義務だ、と言い聞かせてます。
ちゃんと行ってきたようです。前回はいっしょにいった。

tv選挙の夜は開票速報しかないから、、
いっとかないと見るものがないので・・(^_^;)
行かなかった時に、この手の番組を見ても全然つまらなかったのよ(爆)

今回は6区と7区が激戦で、夜遅くまではらはらどきどきでしたね。
私適には某番組のいもとさんの結果が知りたかったけどね。

政権交代と医療の将来について、学長が金曜日に講演するらしい。
博多。聴衆はお医者様がた。
世の中、地方レベルでは、このようなことを深く分析する人がいないようで、医療があなたまかせであったことのあらわれ。
ところが、学長が頭をかかえてる。
民主党のマニフェストの実現を前提とすると、未来が描けない。
近未来も闇。
景気が健全だと、医療はどうにかこうにか維持できそう。
頼みの綱は景気だけ。
第1次補正予算(14兆円)の執行が凍結され、来年度予算編成が越年したりすると、空前の大失業時代の幕開けとなります。最低賃金が引き上げられても、企業はその賃金を払えない。職にありつけなければ、その賃金がもらえない。
マニフェストの実現を焦らず、じっくり腰を落ち着けて政権を司ってほしいと願うばかりです。

さくらさん。
国民の義務として、、、、なんて大仰なことは思いませんが、選挙はいかんといかんち思うとります。たかが一票ですが、わたしたち国民にはこの一票しかないんだもの、意思表示っつう手段が。
わたしも、行くには行った。
が、けっきょく、わたしの投じた一票は無効票だったはず(支持すべき候補者も政党もなかったので、その旨をかきしるしてきた。笑)なので、国政に反映されることはない。
それでも、行かねばならぬと思うとります。

乙四郎大学の学長ブログは硬くて難しいけれども、お役人用語がきっちりとわかる人を読者に想定して書かれているせいだろう。程度を落として内容を落とさずって言ったのに、こっちの乙四郎は妥協しないので、かささぎは読んでいるとあたまが痛くなるが、それでも固焼き乙四郎の言っていることも少しはわかるので、厚生官僚がどのような未来予想図を医療現場に描こうとしてるか、それが今度の選挙結果によってどうひん曲げられそうか、おかげでとってもとっても心配になってきた。

選挙にいかなかったのはいきたくなかったから。
与党のやり方にけちをつける野党は、大衆に迎合する現実にはありえない、あったらえらいことになると素人にもわかるような砂糖菓子を混ぜて、実現できない政策のあれこれをさしだしました。いつも選挙のたびに似たようなことの繰り返し、あほくさ!です。

かささぎの遠い親類でした、のだ元市長は。でも明確に支持したい気に今ひとつなれなかった。いとこたちの彼への信頼は絶大です。父方のいとこたちはかささぎに似ず堅物が多くて、石橋をたたいて渡る者ばかり、その彼らが野田さんを信頼して応援を惜しまなかった。
はらぐろなまことちゃんに比べて清潔だ、どことも癒着していないと。
なのにかささぎはちいとも応援しなかった。
結果誠ちゃんに負けたけど、接戦だったから比例区で代議士になれてよかったです。
福岡に住んでいた頃の亀井知事と奥田八二さんとの選挙が忘れがたく、みんなして清潔な奥田さんへたくさん票をいれたのに、結果はずいぶんな政治になってしまいました。
あれをいつもおもいだすんですよね。
清潔さとかお金にきれいとか、裏工作をしないとか。
そういうことは大事なことなのでしょうが、わからないよに、尻尾をつかまれないよに裏工作できる名人技も同じようにえらいなあとおもう。
古賀誠を当選させた七区の住民は愚民だとどっかのブログで糾弾されていました。
しかし、それはこちらの自由ではありますまいか。
よその選挙区のひとたちにあれこれ言われる筋合いはないんじゃないかな。
古賀誠は古賀誠で必死でたたかったんだし、野田くによしは野田くによしで必死でたたかった。それできっちりと結果がでた。たぶんそうなるだろうという結果。
古賀さんは見えていたんだなと思った。比例区はけっていたもの。
それでいいじゃありませんか。
七区の住民は現実的かつ理想肌、しかも民度が高くて賢い。笑。

もうしもーし。
別にわたしは
「選挙行くべし」と、他人に強制する気は毛頭ありまっせんので、その辺お間違いなく。
わが息子にも町議選以外は強いる気はなくってよ。
ただ、わたし自身は行かんといかんち思うとるってことよ。
わたしはたぶん死にかけてても行くち思う。
白紙投票するにしても、たぶん行く。意地でも行く。笑

わたしにはどちらの候補者も支持する気にはならんかった。
理由はあるが、ここには書けん。
どっちも市町村合併当時のわたしの個人的感情にすぎないんだけどね。
それでも、わたしはこのふたりが大嫌いであります。

ふうん。そうなの。
いつかじっくりせいこの話がききたい。
内部にくわしい人のはなしだと実感があります。
ほら、きょねん、ふっこうどうそうかいがあったやん。
あのときに、市役所づとめの○ちゃんに評判をきいたんだったよ、のだ市長の。
でも役場のみんなに嫌われているって返事だったので、えっとたいへん驚いてしまった。
で、それをいとこに言ったら、市長は改革派だから内部の人たちからは嫌われて当然、というへんじ。
でも、そうなのかな。わたしにはわからない。

2009年8月25日 (火)

調一族の血 しらべさんからの手紙 2

きのうセイコさんところへイチジクを持っていったとき、調さんのことを話しました。
知り合いに黒木町の調さんがいるとのこと、だけどあまり黒木には調姓はおられないそうです。歴史的な意味合いがあるのでしたね。(しらべさんのお便りの中に少し触れられている、朝倉の入地って地名が関係するんでしょう。)

調さんの手紙に対してのかささぎの返信は省略します。
と思いましたが、初めてのかたのために、引用します。
調さんとの縁は「黒木城哀話」を引用した所からですので、それ以前の伏せんを。

調  様

さっそく返信をいただき、ありがとうございました。
読んですぐ、なるほどとすうっと腑におちました。
あの黒木城哀話を書き写しながら、なにか奥歯にものが挟まったようなかんじといいますか、
隔靴掻痒感めいたものを感じました。それは、小侍従のおなかの子はだれの子だろうか。

という疑問です。後鳥羽院とすればいっそすっきりとほぐれるのになあ。と思いましたもの。
琵琶法師の語る物語では恐れ多くてそこまではいえなかったのでしょうか。
物語の中では、後鳥羽院というお名前さえぼかしてあったような気がします。
わたしはそれとはまったく別口で、ちょうど塚本邦雄の後鳥羽院の歌に関する本を読んでいまして、
だからはっきりと書いてくれてたら、もっと黒木助能の一族の物語について興味が湧くのになあ。
と、まずそのことを思ったのでした。あれをブログに書き写したときに。

ところで、調様は八女が本籍なのですか。
本籍が福岡にあるということは、何かにつけ、福岡の本籍地へ戻らねばなりませんね。

こんど、秋に戻られるときには、ご連絡ください。
なにか、お会いしたい誘惑に駆られます。笑
えーっと、私のほうの因縁ですか。
これはです。書けば書くだけつらいものが湧き出てきますんでちょちょっと。
ざざっと書けば、私は八女市内に住んでいますが、昔は母親の親里で
出産したでしょう、だから母の里の黒木(笠原、八女茶発祥地)で生まれたのです。
ずっと母は黒木が里と思っていました、ところがよく聞けば、母の父も母の母も星野村の
出だったことが解りました。谷一つしか違わないところではありますが。
で、その先祖に拘る猫のひたいほどの土地があって、それが公道になるために私の一族の
印鑑を集めなければいけなくて、それを依頼に星野村役場の人たちと星野村黒木谷の製茶業をされている原口さんとおっしゃる方ともう一人が我が家にお見えになったのです。
これが一年半ほど前のこと。うちの母が最長老になっていましたので。それで私もその印鑑証明を集める手伝いをして、最後の一枚を福岡まで行ってもらって来、星野の役場にだしました。
それでやっと公道ができたという次第です。ちいさな道いっぽん作るのにすごい苦労。
この公道が、「高野堂」への道だと原口さんから聞き、もともとそういうことに興味ありますんで、
高野堂とはなにか、私は一人で見に行った、それはブログで写真をアップしています。

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-b7a9.html

星野黒木谷、高野堂、で検索すれば出ると思います。五枚くらいの写真。
で、ひとことでいえば、高野堂は「行空上人の墓」でありました。
その小さな祠の横に、星野教育委員会が書いた看板があって、写真をアップしたのを引き伸ばして
読んだところ、黒木太夫とか待宵小侍従とか書かれています。
まっさか、うそでしょう、って気分なわけです、だって小侍従といえば、あのとっても有名な小侍従しか知りませんもの。

それに、ブログにも書きましたが、お墓を実際に見に行ったら、
天文十六年、とあるんです。
天文年間、それは私がこの十年間、ずっと調べている八女戦国百首和歌の詠まれた年代です。
本こそ出してはいませんが、九州俳句誌(俳句の超結社誌です)に「暦論」を四年間連載したとき、
その中で、歌のよみをやりました。天文二十四年癸卯、卯月二十五日の記入がある百首和歌、しかし
その年号はおかしいのです。えとと年号があわない、という謎をひめている。
そういうこととか、その和歌を預かっておられたのが吉田山(岩戸山古墳)の伊勢宮の人だったこととか、
いろいろとつながっていて、ずるずると入り込んできている、という次第です。
おおやけの書類では、あまり肝腎なことは載っていないようですね。

しらべさん、このメールの内容はどこまで書いていいんですか。
かささぎのきわだつ特徴として、なんでも書いてしまう癖があります。
あまり隠し事は得意ではありません。ですから、絶対に秘密にしなきゃいけないことは、
教えないでください。
長くなりますから、この辺で。  

                 かささぎの旗、ひめのより

姫野 さん。

こんにちは。

私の本籍は星野ではなく福岡の朝倉入地になるのです。
実はこの朝倉の地にも先祖にとって別の深い意味があるのですが。。

ご存知かもしれませんが、星野氏は島津方につき豊臣連合軍によって
滅びました。その後は鍋島、有馬、久留米、黒田藩等々に散らばって
いくのです。ちなみに蒲池家もそうですね。蒲池家とも調家は深く
関わっています。
(全く何一つ知りません。歴史音痴です。姫野脚注)

行空上人の事は把握していませんでしたが、平安後期から鎌倉初期の
方となっていますね。

#どうも件を見ると空也上人にだぶり気になるのですが。。。

平安後期だとすると助能と小侍従の時代で間違いはないでしょう。
高野山は小侍従の一族ゆかりの場所です。
そこから現在までの高野山と縁ができたと聞かされています。
確か本覚寺は小侍従が建立させていましたね。。うろ覚え。。

六地蔵はその場所に星野ゆかりの墓があったのではないでしょうか?。
現在は一箇所に集められたと聞いていますので。

#今度是非案内お願いしますね。(^ ^;

星野氏の里に古くは行基や柿本人麻呂等々も訪れ滞在していました。
もっと古くは景行天皇。。
また懐良親王、長慶天皇、楠正行一族、前田一族も(尾張→加賀)
訪れそれぞれ匿っています。

表に出ている歴史年号も事実とは限りませんし、多少ずれが生じている
ケースもあると思います。
この場合は多少のずれではありませんが、意外と同じ名前を引き継ぐ方も
いらっしゃるので、断片的な年号だけでは判断しづらい面もあります。

#ただ、いずれ明らかになりすっきりしますよ(笑

因縁とは不思議なもので何か明らかにし無ければならない祖先からの
メッセージだと思っています。自分では意識していなくても何か取り組む
理由が隠れていると思います。
そして姫野さんのご先祖様と私のご先祖様にはつながりはありますね。
因縁も共通部分があるような気がします。


ですので、こうして行動されている事は非常に重要な事ですので引き続き
粘ってお願いします。

#個人的にはインスピレーションが大事だと思っています。
私も直感から事実にたどり着いた内容が多々ありますので。

     調 

1 調さんがお願いされた六地蔵への案内、わたしもまだ行ったことがないです。
しかし、場所はだいたいわかる、黒木とありますんで。荘厳寺境内。
六地蔵つながりで、広川村、熊本にちかい鰐八、そしてここ。
そういえば、文化財課の古賀の音彦さんがいってた、地蔵信仰は十四世紀にいちばん盛んになる。だったっけ?十三世紀だったかな?ああもうわすれてる。あたまわる。
 しらべさんが、今度の連句合宿にいらっしゃれば案内できますが。黒木でやりますんで。それまでに調べておきます。
2 柿本人麻呂。この人、きたのですか?
そういえば、竹橋乙四郎が以前かいていたような。人麻呂神社があるって。

2009年8月24日 (月)

調一族の血 ー しらべさんからの手紙1

しらべさんからのメールをご紹介いたします。

一切、差し障りなどには配慮はいたしません。

けれども、もし何かございましたら、全ての文責はかささぎの旗が負います。

以下、しらべさんからのメール全文です。

私の本籍は福岡なのですが、残念ながら住まいは九州ではありません。
横浜に在住しています。故あって私も以前からいろいろと調べていました。

簡単ですが調一族に関する説明をしますね。内容は一族に伝わる家系譜に
よるものです。

助能には三人の子供がいました。

・黒木氏(猫尾城)→黒木四郎 (父)助能(母)待宵小侍従

・川崎氏(犬尾城)→川崎三郎定宗 (父)助能(母)築地姫(島津忠久の養女)

・星野氏(妙見城)→星野胤実 (父)後鳥羽上皇(母)待宵小侍従

黒木町にある物語のおそらく元となっている「黒木物語」等に出てくる
記述は多くは当時の琵琶法師によってかたり継がれていたもので、
現在のマスコミのような役目をしていた琵琶法師は知られてはなら
ない部分だけは改ざんして一般受けするように脚色したのだと推測
されます。
※そのような話は全国にもありますので。

この三家を総称して調一党と呼んでいたのは事実ですが、調姓はその
特殊な事情から後鳥羽上皇の子供である星野胤実のみ引き継いでいます。

#ただ、この後に黒木家と星野家は血縁を結んでいきます。

私の姓も調ですが、正確には「調姓星野氏」となります。
昔は姓(かばね)は名乗らず氏を名乗っているのが通常でした。。
元々黒木助能から始まった調姓ですが、星野氏もこれは天皇から賜った
特別なものなので、江戸中期までは調姓は使っていませんでした。

小侍従ですが、これも確かに諸説いろいろあるようですね。
ましては当時文学的に重要な方だったので、現代の第三者が考えると
今で言う京のスターが片田舎に落ちていくイメージを覆すものが
見当たらないかと思います。

年代も年齢が合わないと言っているようですが、
元々高倉天皇に御仕えしていた小侍従は待宵の歌を歌った小侍従とは
別人で彼女の母親のようです。
小侍従(阿波内侍)そして待宵小侍従は(貞政院)となっています。
親子なんですね。二人を一人と見られておかしいと言っているようです。

#ただ詳しい年代は私も資料が乏しくこれから調べてくとこです。

待宵小侍従(貞政院)は母親の小侍従(阿波内侍)と父親は源頼政となって
います。

黒木助能自身は摂津源氏の嫡流で多田蔵人行綱の子供なので、同じ摂津源氏の
本流である頼政の血筋と縁談があってもバランスを考えてもおかしくはないと
思えます。

#助能は別に単なる地方の田舎侍ではないのです(苦笑

また助能は幼児期に島津忠久に預けられ、その縁で築地姫と夫婦なのですね。

また、当時の天皇の背景には政治的には非常に複雑に微妙な状態でした。
天皇の側室の子供の存在はあまり表には出さないのでしょう。

お聞きになっていた六地蔵の件ですが。。残念ながら私は現地事情を把握して
いません。何か場所や手がかりになるものはありますか?場所が星野村に
あるとするならば、星野村は元々星野氏(調一族)が統治していた地域なので
何らかの関わりはあると思います。

#少し調べてみます。

ちなみに星野村には散らばっていた星野氏の先祖の墓が集められています。
星野氏が滅んだ後の調姓星野氏の墓は朝倉の入地にあります。
私も常日頃一族の事をもっと掘り下げたいといろいろ調べているのですが、
遠方でなかなか現地に足を運べずいつも歯がゆい思いをしています。

今年は涼しくなってから久しぶりに星野村を訪れるつもりですので、そのときに
お会いできるかもしれませんね。

#メールでは書ききれません。

調(しらべ)は(つき)とも呼びますね。これは時代が更に遡り、東漢氏と西漢氏の
調氏(つきし)に由来するものです。(つき)とはみつき。。つまり天皇に貢物を
意味するものです。これも長くなります。。

姫野さんは因縁と言っていましたが、どのような因縁なのでしょうか?
差し支えなければ教えてもらえないでしょうか?何か手がかりがわかるかも
しれません。

またご連絡下さい。

    横浜市在住  調

参照記事:

東漢氏考:http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-19.html

2009年8月21日 (金)

黒木氏のこと

こんどの国民放送の地域ドラマが黒木だそうです。
黒木氏関連の記事を連句的にまとめてみました。

これ以外にもあるかと思いますが、とりあえず。

1黒木町城山(調山)哀話 上
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-df56.html

2 同  下
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-ff3b.html

3 天文年号誤表記の謎解明まであと一歩:コメント欄
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-b955.html

2009年8月 3日 (月)

「針は真っ直ぐ正直に」、映画のはなし。

広報やめを見てたら、福島高校が松山で開催される「俳句甲子園」に出るらしいよ。8月7日に。

へえ。
高校生の俳句と批評か、たのしみだね。
その映画、おととしだったかな見ましたが、おもしろかった。「恋は五七五!」いつもトップをきそうのは東京の進学校だったような。
ながさきげんばくきへ毎年句をだされる長崎工業高校でしたか、あそこもとても上手です。
まりさん、きのうはどうもありがとう。
あのまんまブログアップしました。
文責、すみたから。

私も福島高校の記事、読みました。
後輩たちも頑張ってますね。
八女は文武両道の教育が行き届いているんではないかと思います。
文化的地盤がすでにできている。
良いところに住んでますね。

松山には一度いってみたい。函館にも。
うどんがだいすきだから。
それと先日まりさんにいただいた俳菓のタルトが上品でおいしくて、その上へんてこなコピーが忘れられません。
時計の針はきっかりまっすぐ。てなの。
それはどういう意味やねん!ってどつきたくなる。腹時計のことやろか。

六時屋タルトなので、六時きっかりにコマーシャルがあったような覚えがある。
六時は長い針と短い針が真っ直ぐになるから、「針は真っ直ぐ正直に」のコピーになったんじゃないかな。
後から出来たライバル社の一六タルトがチェーン店を展開してきて、老舗の六時屋は一時期針が傾きそうになったけど、道後温泉の人気復活によってまたしゃきーんとなったようです。
道後温泉にも入ってきたけど、、若い人もいっぱい来ていて驚いた。入湯切符を買うのに並ばないといけないくらいの盛況ぶり。千と千尋のお陰かなあ。昔のようにのんびりとはいかなかったけど、故郷の賑わいはやっぱりうれしい。
福島高校の面々もきっと道後温泉に入ってくるだろうし、松山城もいくのかな。
恋は五七五みたいに。

その道後温泉、行きましたよ~。
もう随分昔ですが、レトロな雰囲気の大きな温泉旅館がありました。
駅前のにぎやかな音楽の鳴るからくり時計。あら、なつかしい。
mariさんのふるさとはそちらですか?

seikoさん、そうです。松山はわたしのふるさとです。
道後温泉本館は子供の時からよく行きましたよ。
2階の畳の大広間で子供用の浴衣を出してもらえるのがうれしかった。
湯上りにお茶とお菓子を頂いて、汗が引くまでゆっくり涼んでから帰っていましたが、今は盛況のため時間制限が出来てました。まあしかたないかな。
道後温泉のどこかの旅館で、あのお笑いの友近さんが仲居さんをしてたそうです。
あの人のイントネーションがまさしく松山のものです。
ほうなんよー。

ほうなんよー。ですか。
ことば、北九州とおんなじところもあるよね。
きれいかったってことを、きれいなかったよ。って打ち消していいませんか。あれにはびっくりします。意味がつうじなくて。
ところで、まりさん。
「センセイの鞄」小泉今日子主演映画は、レンタルにはありません。
それと柳川掘割物語は柳川図書館にビデオがあるみたいです。
市民じゃないと貸してくれないみたいだけど、そこでみることはできる。

nightこんばんわ
お父様は順調な退院でおめでとうございます。
長引かなくてよかったですね。 でもしばらくはお大事に☆

柳川の風景がとても美しい「東京日和」はお気に入りの映画です。
アラーキー氏がご自身の奥様との日々をつづられた内容だと聞いています。
後半の柳川の川くだりや沖の端の舟だまりなどすばらしく叙情があります。 
中山美穂さんが奥様の役です・・☆

えめさん、ありがと、その映画の題名がわからなかった。
事務所のとなりの席の子が教えてくれてたのですが、こんど借りてみます。
柳川掘割物語も見たい、宮崎駿さんと高畑勲監督のドキュメンタリー。
となりの席の子のチチが川くだりの船頭見習い中で、そういう話をくわしく教えてくれるもので。

 お久しぶりでございます。
オーストリアのザルツブルク近郊で「サウンド・オブ・ミュージック」の世界に浸ったりして、ボケーッとしとったら、ウィーンの地下鉄でスリにあってさあ大変。
失意とともに「第三の男」に出てきた観覧車に乗って、落ち込んだ気分を紛らわし、テーマ音楽を口ずさめばヨメはそれをヱビス・ビールのコマーシャル・ミュージックとしか思とらんし。 
 そういうわけで、何とか映画と関連づけてここにコメント書き込みます。
「柳川堀割物語」も「東京日和」も図書館にVTRやDVDがあるじゃんね、と思ってよく考えたらそれは八王子図書館だった。やはりボケとる。
今日は早朝から仕事行って、しかもその後10日間休みなし。
でもこんだけ休んだからしょんなかね。
久留米図書館調べたら、三潴館に「東京日和」のVTRはあるようです。
私は封切りの半年後ぐらいに見たけど、いい映画です。でももう12年も前の映画か、年とった。髪の毛だけ竹中直人のごつなってしもた。ありゃ、それはその頃からか。
 映画についてもう1つ、松山の話題でなぜか田中麗奈の顔が思い浮かんでたけど、そうそう「がんばっていきまっしょい」が、松山東高校をモデルにしたものだった。私の元同僚がその高校出身、ありゃりゃ、この映画も11年前。
 そういうわけで、脳天壊了状態、久留米には8/11頃帰ってきて、10日間ほどいます。
今は年休ちゃんと取れるのだけが取り柄の仕事かも。
筑後川マラソンは10/11、なんでわざわざ久留米に帰ってまでの出場かというと、その理由はまたの機会に。
  全く無関係ながら、昔作った戯れ歌を一首
  「せろにあす もんくあるかと ピアノ弾きゃ
   ペットでまいるす ジャム・セッション」

まいりました、うたぴあのととらんぺっとのじゃむせっしょん。
ろいりさんはやっぱり二上がりもんだね。

欧州旅行おかえりなさい。すりにあっても、ちゃんと帰ってこれるものなのですね。
ろいりさんが奥さんのことを、うちのよめが。というのはなかなかいいですね。
だれもそんなふうに妻のことを呼ぶ人はいないから。
これが逆のパターンだとどうなる。うちの宿六が。かな?
嫁の対語は婿だけど、ふつううちの婿が、とは妻はいわない、それだと養子のしゅうとになってしまうから。

柳川掘割物語、じつはおととし八女図書館にいれてくださいとリクエストしました。
でも没だった。
久留米図書館の貸し出しカードを作ってもらったので、行ってみよう。
小説『砦に拠る』松下竜一は城島分館、DVD『東京物語』は三潴分館、DVD『柳川掘割物語』は柳川図書館。
以上、整理してみました。

マラソンは十月十一日、その日は日曜ですか。

2009年7月24日 (金)

九建日報

九建日報は九州管内の公共工事入札落札情報や分析などが載った新聞です。
たまにお昼休みに流し読みします。
この日読んだ記事でもっとも目に付いたのは、

「七ヶ月連続の減少」 五月の受注統計調査結果。

景気はどんぞこの底をうったと聞いたのに、うそだったんですね。
新聞読まなくても事業所の入と出の計算してますといやでも解ることですが。

2009年7月21日 (火)

日食談義

北九州の主婦の方が考案された新聞バッグ。前から興味がありました。
今度見せてね。
日食の記事にも興味あり。
22日はお天気が悪いみたいですね。
お店には毎日日食を見るグラスのことで問い合わせがあります。
もう入ってこないんです。
残念でした。

rainこんにちは
日食グラス>>私もまだ用意してません。
前回のときはセルロイドの下敷きを2枚重ねて見た様な記憶が、、。場所は学校の校庭で同級生達とわいわいしながら^^☆
あと、ガラスにローソクの炎ですすをつけたり、、。
でもテレビで今のローソクはすすがあまり出ないとかは言ってましたが、、。
娘が子供時代の部分日食のときは磨りガラスのコップで見たとか言ってたけど、、。
カメラで収める方法もまだ調べてないし、、。
とりあえずはお日様が出ますように、、sun

>前回のときはセルロイドの下敷きを2枚重ねて見た様な記憶が、、。
>場所は学校の校庭で同級生達とわいわいしながら^^☆

乙にも同じような記憶があるのですが、それに該当しそうな日食記録がないのです。
太陽の半分以上が欠けるような部分日食は、前回は昭和38年7月21日。
ただ、この時は、食が最大だったのは日の出の時刻なので、同級生たちとわいわいする時刻ではありません。
その前には、昭和33年4月19日に記録があります。土曜日の昼なのでわいわいできる時刻ですが、この頃の記憶があるはずがありません。
記憶にあるのは太陽の一部が欠けるだけの日食だったのでしょうね。

今回の日食は、八女あたりでは22日の9時37分過ぎくらいに欠け始め、10時56分に91%くらい欠けます。欠け終りは12時18分です。

次回は、3年後、2012年5月21日に日の出の時刻に見れます。八女あたりでは今回と同じくらい、91%くらい欠けます。早起きしましょう。

八女あたりの部分日食(10%以上)を調べてみました。
昭和33年 4月19日 11:04-14:41 87%
昭和40年11月23日 11:55-14:07 21%
昭和44年 3月18日 14:52-16:09 14%
昭和53年10月 2日 15:38-17:22 29%
昭和56年 7月31日 11:39-14:13 43%

小学校の記憶は、昭和40年の21%部分日食でしょうか。
しかし、この日は勤労感謝の日で休み。
学校の校庭の記憶が矛盾。

調査追記。
昭和38年7月21日の前回の皆既日食(北海道)の時は、八女付近では日食は観測されていません。
よって、小学校時代で該当する記録は昭和40年の部分日食のみです。

ぼん。新聞バッグ、北九州の人が考案したのですか。全く知らなかった。握るところを補強したら長く使えるそうです。英字新聞のもきれいでした。こんどもっていきましょうね。
鍬塚さんは戸畑ですけど。
この写真の背景の白い壁はチチが去年塗ったものです。でこぼこがあるけど写真ではでない。
鍬塚さん、ご自分でつくってくださったのですが、絵柄をちゃんと考えて新聞を選んでありました。月特集。裏もちゃんと月。おなじころにおなじマヤ暦にこっていたっけな。というより、旧暦に。ひさしぶりでしたが、鍬塚さんと会うと、昔の話ができます。鍬塚さんがいなければ、私は「樹」に入ってなかったし、石橋秀野も調べていなかった。てことは、八女のみんなも俳句に誘っていなかったんだよ。
ということを思うとき、このかたは、恩人なわけです。

おお、天文写真家えめさん。日食みたことあるのですか。
へえー
どんなんやろ。それみたらいいことある?
写真にとるとき、眼がやけどしない。

おつしろう。あなたはほんまに、せっせとしらべるひとですねえ。
こどものころに記憶がある?自分はない。ただ光を集める実験の記憶はある。
黒い点が燃える。昭和四十年といえば十一歳、小学五年。
そのころ、小川先生に連れられて、みんなで下横山小学校まで三里か四里かの山道を歩かされた、蝶採りで。その記憶だけが鮮明であります。
おつしろうとはクラスがちがかったよね。
こないだ、らんちゃんと星野村に行空資料をあつめにいったとき、ついでに、らんちゃんが行ったことないというので、足をのばして、おぼろ大橋までいきました。そしたら通り過ぎて森林公園までいきそうになった。
あのおぼろ大橋のある付近が、下横山なのでしょうか。八女もひろくて、まだよく知らないところがいっぱいです。

だんだん思い出してきた。
小学校の時、セルロイドの下敷きを重ねて見たのは、単なる太陽の観察。
日食を見た記憶は1980年代以降、就職してから。
ふたつの記憶がごっちゃになってた。

だんだん思い出してきた。
小学校の時、セルロイドの下敷きを重ねて見たのは、単なる太陽の観察。
日食を見た記憶は1980年代以降、就職してから。
ふたつの記憶がごっちゃになってた。

moon3こんばんわ
おぼろ橋が左へならぜぜん社へは右へ行って行き止まりの場所。
学業、就職(わが家の場合heart)などなど。。
是善公=菅原道真のお父様diamondを祀ってあります。
目的方向の道を間違えていつのまにかこの社の前に到着。偶然、娘の受験の最中でした☆
集落も深閑としてきれいで癒されます。
反対側の山手、上横山の奥の滝宮不動尊もすばらしいですよ^^club

そのときにこういうこともした。
髪の毛がたちあがる実験。
コメントがエコーしてる。

sunshinenewmoonshine
セルロイドの下敷は便利なものだったんですよね。。今にして思うと☆
おねどしの夫も学校でみんなで観察した記憶があるようですが、私といっしょで何年生だったのか覚えていない模様。
ちなみに「ガラスにすす」で観察したらしい。
観察する道具を用意してないので、明日めぼしそうなものを見つけに文具屋さんや100キンをうろうろしてきますflair

新聞バッグはここで教えてもらいました。丁度1年前。三苫の循環生活研究所での講座でした。
http://www.pepa.jp/g-betta.com/shinbun.html

今調べてみたら四万十川の道の駅が発祥?

日食って新月の時に起こるんですね。
11時35分に新月になるらしいから、それから8時間以内に白い紙に願い事を10個書きます。願いが叶うと信じながら。
10も書けば7割方はかないますよね。
お試し下さい。
信じるならばですよ。

エメさん

太陽を直接見ることは目に悪いので、安易な道具で見ることは避けたほうがよろしいようです。
使い古しのテレフォンカードに針穴を開け、白い画用紙とかに太陽光を映し出してみるのが良いようです。麦藁帽子の隙間や、木漏れ日の間から差し込む光線をうつすのもいいそうです。
以上、ズームインからの情報です。

2009年7月18日 (土)

繁二郎、連句的

sunおはようございます
青木繁と坂本繁二郎>>終生のライバルで終生の友人と昔ドキュメンタリーで見ました。
表には出てきてない色んなエピソードがありそうですね。
お二人のご生家があいついで改築復元されてうれしいことです。
青木氏の「わだつみのいろこのみや」と「海の幸」は以前石橋美術館で見ました。すばらしかったです。。とくに、わだつみ・・☆
繁二郎さん、アトリエ公開の日に中に入りました。
内部写真も写させていただきました。
室内のイーゼルに写真家土門拳氏撮影の繁二郎さんが立てかけてあります。
ものごとの深い部分をみているような凛とした表情のとてもいい写真です。

うわ、それ聞いて俄然いってみたくなりました。
あたしは八女堺屋の蔵の『夢中落花文庫』の入り口においてある、山本健吉のモノクロの等身大写真がすきで、持って返りたいなといつもおもう。

art年に数回公開日があるから是非☆
天井の低い2階部分が吹き抜けの南に付いています。
上には上がれませんがのぞかせてもらいました。
ほんとに素敵なアトリエです。
青木氏も八女とは深いかかわりがあったのでしょうね☆

繁二郎の結論。

「結論的に言うと西洋と日本の違いは教会の鐘と寺の梵鐘の音色に象徴されます。多くの鐘がぶつかり合いジャランジャランと鳴る向こうの鐘は音は面白くてもただそれだけ。日本の鐘はごうーんと打てば余韻じょうじょう、その響きは遠く深くしみこんでいきます」

たは。鐘で結論づけてたとは。

強固はん。
坂本繁二郎の作品が八女、久留米のどちらに保存されようとも、坂本繁二郎はこのちっご地方のタカラであることには変わらないのだと思いますよ。この偉大な画家の残した足跡は、地域人の心から心へ継承されていくべきでもありましょう。と、やけに、優等生的発言のせーこはんであります。

濃い薄いはともかくとして、杉山先生は坂本繁二郎に師事、乙は杉山先生に師事。よって乙は坂本繁二郎の孫弟子。
mariさんは別の孫弟子の弟子の親。ひ孫の親は孫。よってmariさんも(義)孫。
かささぎさんは杉山先生と犬猿。犬の親は犬。犬の子も犬。よってかささぎさんは孫たちとも犬猿の運命?
変な三段論法でした。

mariさんはひ孫の親でなく孫の親?

ネットで拾った杉山先生の話題。

杉山さんは仕事の傍ら絵画をたしなみ、一九五二年から八女市に在住していた洋画家坂本繁二郎に師事。五八年に仕事を辞めた後、自宅で絵画教室を開いた。現在も約百人を教えており、これまでの教え子は千五百人以上。「技術重視の芸術家としてではなく、人間性を育てる教育者として絵を教えなさい」という坂本の言葉を心に留めて指導してきたという。

「灰皿はそこになければいけない。」
画家の故坂本繁二郎は弟子だった杉山洋氏にそう言った(『新日曜美術館』)。日常会話をしながらも坂本は灰皿の位置が許せなかったのだ。

はい、息子は洋先生、亜土先生両方から教えてもらいましたので、孫弟子とも、ひ孫弟子ともいえますね。Butうちにはもう一人孫弟子がおります。主人は小6まで杉山先生の家で絵を習っておりました。もしかしたら乙さんと机を並べたことがあったかもしれませんね。

せいこさんへ。
おとひこさんが「繁二郎をくるめにとりもどす」っていわれたのをきいたとき、なんだかとっても大切なたからをとられてしまいそうなきもちになって、さみしいなあ。と初めておもった。これは縄張り意識とはちがうんだよ。
はじめて杉山おんじいのこころがわかった気がしたものね。このお方は、とっても大事にされていますからね、すべての資料を。あたしゃさいしょのころ、それでどんだけどなられたことか。することなすこと調べて書くことぜーんぶ、がががーっとどなられて。でも、それもこれもみなだいじなおもいでであります。

おつしろうにまりさんへ。
三段腹論法はただしいか?
うーん。自称がはくのでしのすぎやまひろしはかささぎはとってもにがてだけれど、坂本繁二郎を尊敬しています。中学時代、やはり画伯の弟子であったらしい杉森麟校長せんせいからたびたびお話を聞かされて育ったので、。
ということはどうなるかな。ひまなひとは考えてね。笑

2009年7月15日 (水)

坂本画伯の話をしようよ。

昔の人の謎。

坂本繁二郎は1882年久留米生まれ。
父・金三郎は坂本が4歳の時に死去。
金三郎の長男・麟太郎が京都の第三高等学校に進学したため、二男の繁二郎は進学をあきらめる。
1900年、坂本は母校の図画代用教員となった。
経済的にゆとりがあるとは思えない。

1902年、上京して小山正太郎の「不同舎」に入る。
20歳の坂本、職を捨てて上京。
生活費は?

1921年、渡仏しシャルル・ゲランに師事する。
39歳の坂本、欧州へ。
渡航費は?生活費は?

1924年、久留米に戻る。
42歳の坂本、もう遠くへは行かない。(行けない?)

1931年、高校教師梅野満雄の援助で、八女の梅野宅の隣地にアトリエを建立。
49歳の坂本、八女の田舎にアトリエを建立するのにも援助を必要としている。

大富豪の子息でもない坂本が、20歳以降、職らしい職にもつかず、どうやって欧州留学できたのだろう。
坂本の代表作は八女のアトリエで生まれているので、それ以前の作品がそんなに高く売れたかどうかも疑問。

年譜の補強。

1908年、東京パックに入社し、紙上掲載の漫画を描く。
1911年、東京パック退社。

久留米市梅満町(かな?)にある坂本繁二郎さんの生家が修復保存されて資料館っぽい扱いになるみたいですね。どことなく洋風の面影をのこす質素なちいさな家です。209号線沿いにあって、「坂本繁二郎の生家をのこそう」みたいな看板がかかってたようながする。

あそうか。じゃ荘島町は青木繁の生家跡があるんだ。(その隣にわがいとこ田中恵の夫一家はこどものころ住んでいた。)
おつしろう。
質問に答えられるとおもう。
繁二郎がいくつのとき。はたちね。1900年、ただ一人の兄がなくなって二年。
母ひとり子ひとりになっていた。(青木繁も繁二郎もともに明善中学。)
兵役を免れたのは、背がたりなかったからだそうです。基準の153センチに3ミリ足らなかった。青木繁は乱視その他でおなじく兵役を免れる。
このチャンスに上京しなければ、一生代用教員でおわってしまう。とおもった繁二郎は、一大決心をして上京するのですが、母歌子もそれを望んだそうです。一人で広い久留米の家に住むのはもったいないと、一間だけを自分用にして、ほかは間借りに出して、学費を送金してあげた。えらい母親ですよね。
兵隊にとられたとおもって、送りだすのです。
(ほかに権藤家の支援もあったかもしれない。と書かれているのは、おかねもちの親戚のこと。)その年の八月青木といっしょに上京しています。
これが第一の疑問への回答。

坂本繁二郎の洋行費用について。
当時の繁二郎は二科展で活躍、別途に版画もやっていた。その版画にふしぎと買い手がついた。素材がポピュラーな役者絵だったこともあるだろう。俳優版画、あそびごころがよかったのか売れた。
でも当時の渡欧は三年計画で三ー五千円。現在の貨幣では三~五千万円。洋画は売れなかったが、日本画が売れた。(と書いてある)。ある有力者の仲介で依頼絵がつぎつぎと予価で売れ、インド洋上でもその注文に応えるためせっせと絵筆をはしらせた、という。
それでも、一つ20円の絵をいくつ売ったところで数千円は遠く及ばず、結局は友達の山本鼎(かなえ)や森田などの奔走によって東京湾汽船社長のパトロンにあい、資金援助にめどがたったとあります。

坂本繁二郎のその洋行時のことば。

「インドではスケッチしていると人が寄ってきて金品をねだります。道端にはおびただしい人の群れがなにもせずにごろごろとねそべっています。こういう南方の国では自然のちからが強すぎて、人のこころや生活を押しつぶしているかんじがありました。ですが日本は自然と人とのバランスがよく、ともどもにそのよさを発揮できますので、じつに恵まれているとおもいます。」

このひとはパリにいっても、自然ばかりがきになっていたようです。
「夏があまりにもちからが弱くて、ほかの季節へもそれが影響をおよぼし、いま一つ四季のめりはりがない。わたしの絵の目標は自然にあり、町よりもいなかを歩き回りました。家もふるびるほど自然とマッチして美しい。しかしただ美しいだけ、日本のように自然が語りかけてくることはありませんでした。」
とさいごにはいっている。着いた当初はパリのみせかけの美しさに打たれて、日本のわるくちをいっていたのに、です。

上記はみな谷口治達のふくおか人物誌『青木繁 坂本繁二郎』西日本新聞社刊から引用。
『無冠の男』の小島直記の書いた伝記も持っているので、それからもいくつか引きたいのですが、探すちからが今日はのこっていません。
また機会があればご紹介いたしたいとおもいます。

高等学校へ行かなかった坂本。
フランス語は喋れなかったのでは。
どうやって意思疎通していたのだろうか。
言葉が通じなければ人間へ関心が向かず、自然へ関心が向かう。

 「東京パック」ちゃ、岡本一平(岡本太郎の父親)と並ぶ漫画家、北沢楽天が関係した雑誌でっしょ。後に「楽天パック」ちゅう、漫画雑誌もできて、このへんが日本の漫画雑誌第一期黄金時代~かどうかは自信がないが、へ~、坂本繁二郎はそげな漫画雑誌にも描きよったとか。いや、実は近代漫画の歴史にも興味があるとです。

たまたま今日の夕刊に画家の古賀耕児さんという久留米市の方の死亡記事が。享年78歳。
45年前、33歳の頃、渡仏されてます。
「父は画家坂本繁二郎に師事し・・・」とありました。
音楽家も画家も、なぜ、外国へ行くのだろう。

人間は49歳から住み始めた土地にふるさと意識を持つものだろうか。
坂本画伯の意識の上では、自身は久留米人と思っていたのでは。
八女はアトリエの所在地でしかなく、そのアトリエさえも久留米へ移築された昭和55年の時点で、坂本画伯は久留米へとられてしまっています。
   ↓

あ、その建物。去年みた。そばの建物で説明会があるのに行ったから。
お上に出さんといかん書類の書き方説明会。公共工事なんとかいう。

そんな早くから移転していたとは知らなかった。
さすが石橋美術館。石橋正二郎は繁二郎にこどものころ絵をならった。それが動機となって繁二郎の意をくみ、青木繁の散逸した絵も集めたし、フランス語に堪能な小島直記を伴ってフランスへも渡った。すべては絵のために。これはいくらお金もちだからってできることではない。美術への愛情と造詣と熱意がなければ。

とはいえ、八女人にとってはいまだに繁二郎は八女の画家であるのでして。
いまのこどもたちはそこまでの思いはないかもしれません。
でも、少なくとも、かささぎにとっては、坂本繁二郎は耳にたこができるくらいにどんなに偉い人だったかと聞かされてきた郷土の画家なんです。
繁二郎の絵をはじめて見出したのが俳人でもあった夏目漱石であったことも含めて、じっくりとつきあってゆきたい画家です。青春性のきらびやかな天才画家青木繁とともに。

2009年7月 9日 (木)

ちくしとつくしの無意識の使い分け

すいませんが話がワープします。
今『朝日新聞』夕刊、「人生の贈りもの」というコーナーに帚木蓬生氏の連載があり、それによると、一度就職したTBSをやめた後、九大医学部に入り直すため、M高校付属?時習館予備校に模試を受けにきてたんだそうな。で、今のペンネームもこの時に、昔習った教員に気づかれないよう、『源氏物語』にあやかって考え出したとか、そんなことが書いてあります。それがちょうど私の浪人生時代、ということは、どっかですれ違っているのだろうか、当時相手は24歳、当時の6歳違いはええおっちゃんに見えたはずだが。で、そのころ弟の光章氏はどうしていたのだろう?
 ここで、話を「筑紫」の読み方に戻すと、私の祖母がファンだった、佐賀にわかの筑紫美主子の名字は「ちくし」と読むらしい(これを調べるため昔読んだ本を探して時間食った、ネットで調べりゃ早かったのに)。でもどの地図帳見ても「つくし平野」「つくし山地」と書いてある。更にまた日本史関係で調べたら、これにも「筑紫(ツクシ)国造磐井の乱」とルビがふってあるし、これはチクシ族に対するヤマト族の陰謀だ!だから私はヤマト(大和)=日本という考え方は好かん。日本民族という表現なら許せるが大和民族と言うのも好かん。大和魂もまやかしじゃ(本居宣長の「やまと心」にはまだ共鳴できるところがあるが)。私見だが、磐井(八女のみなさんは誰でも御存じですよね)は国造などではなく、大和国の大王に敵対していた筑紫国の大王ではなかろうか、根拠薄弱だが~そう考える歴史家も実際にいる。

夢ごころいかなるものぞ夕暮れは
藻伏し丘伏し獅子狂ひゆく  山中智恵子

(うた、きおくです、ちがってるかもしれません)

あ。それと。ちくしのいわいは、くにのみやつこではなく、九州の王だったと思っているのが八女人です。

昔から、色んな戦いがあってきて、負けたほうは反逆者としてあつかわれ、歴史の年表には1行で終わりますね。
たとえば「528年・磐井の反乱」とだけ★
九州の王の墓がなぜ「八女」にあるのか☆☆☆ 
それはこの地でなければならない「必然性diamond」があったから?
さあみんなで空想してみましょう~(^_-)-☆

             えめ

連句的:「筑紫哲也さんありがとう」
http://chaorica.blog92.fc2.com/blog-entry-119.html#comment
『チャオ、Ricaです!タンゴバイオリニスト麻場利華の日記』

2009年7月 7日 (火)

ドヌーヴ映画と六つ門とつくしの地名とハイカイ談義

sunこんにちは
ろいりさんこんにちは。
sprinkleシェルブールの雨傘と昼顔は見たことがあります。
映画談義をこれからもちょくちょくお願いします^^slate

筑波・筑紫・筑豊・筑後・・・ルン♪

下記でちょっと見てきた。
ドヌーブの美しさ、ヘヤーリボンにシンプルな赤いセーターに部屋の赤い壁紙、おっかさんの服も赤いスーツスタイル、おお、これがパリって風景がふんだん。
ちょうどビビットな色に挽かれる今日この頃なので、タイミングよくこの映画を話題にしてくだすった。

http://www.youtube.com/watch?v=LH2s0Uur0nM&feature=related

割と最近、深夜番組で見ました。
何度目かでした。
こんな調子だからファッション本位でしか見れなかったけど、やっぱり印象に残っているシーンは、好き同士で結婚できないでお互い子供持って再会する最後の大雪の場面だけだった。
何度見てもジンとくるわ。

 「連歌」「連句」「俳諧」「俳句」の違い、私的には一応わかっとるつもりです~この中で「連句」という言葉だけがこのブログで初めて知った、何しろ学校で習っとらんし、日本史用語でもないけんね。連歌とヤマトタケル(古事記では倭建命、『日本書紀』では日本武尊と書くが後者はいかにも後世の当て字っぽい)の関係も日本史用語辞典に載っていて、だから連歌集には『莵玖波集』新撰莵玖波集』『犬筑波集』と、やたら「つくば」がついているのだそうです。ちなみに「筑紫」を九州では普通「ちくし」と読むが、関東人は「つくし」と読み、地図帳でも「筑紫平野」のルビを「つくしへいや」と書いてある。こら、ほんなら筑後川は「つくごがわ」か!筑前煮は「つくぜんに」か!と、急に筑後国・筑紫国ナショナリストになってしまう。
 日本史と映画のこつになったら、これまたきりがないけど、カトリーヌ・ドヌーブについて、そうそう巨匠ルイス・ブニュエルの『昼顔』も忘れちゃいかん、あとロマン・ポランスキー監督の『反撥』も。どっちも女の恐さを描いた…と言ったら女性陣に怒られるだろうか。あと中年時代?の『終電車』、初老期の『インドシナ』、アラ還時代の『8人の女たち』『輝ける女たち』も良かったし。男も女も、50代はまだまだこれから、若いもんに負けちゃおられん。

笑。

えめさん、筑前ばわすれとる。
と書こうとしたら、ろいりさんが筑前煮(がめ煮)をだしてくれらしゃった。

ちくしへいやはちくしへいや。ろいりさん。六つ門の名の由来。
久留米の文化財担当のおかたにたずねてみたら、六つ門には門があったからだそうです。むつの鐘が鳴るとしまる門。六角堂とは関係ないそうです。(桜島へいったとき、古賀音彦さんにどさくさまぎれにたずねたらそうこたえてくださりました)

 「六ツ門」の由来については、なぜか1年ぐらい前にうちの父親がそう言ってました。
久留米藩領内の中心部に入るための門だったのでしょうか、ちなみに池町川は久留米城(これが篠山城の正式名)の外堀の名残というのも昔誰からか聞いた覚えがある。
「六角堂」はあけぼの通りと明治通りの間に、まさに六角形の広場(放射状に広がる小路の中心)に御堂があったからだけど、いつ頃どういう事情で作られたものか、その由来は調べたことありません。一帯はアーケードのようになっていて天井があり、夜の電気も暗かった記憶がある。
 筑紫平野は「ちくしへいや」私もそう主張したい、しかし現に地図帳では「つくしへいや」となっている=共通語になっている。
私はたぶん、「筑紫」「筑後」と「筑波」はもともと無関係だと思います。
たまたまヤマト言葉、ならぬチクシ言葉に「チクシ」という地名があり、ケヌ(毛野)言葉に「ツクバ」という地名がもともとあり、後からこれにヤマト人が、それぞれ「筑紫」「筑波」という漢字を当て字したのではないだろうか、なお前者の当て字はチクシ人自らがやったのかもしれない~漢字文化はかなり早く入ってきてるはずだから。以上が私の推量で、学問的裏付けは全くありません。
 確認ですが、連句=俳諧連歌と思っていいのでしょうか(辞書にはそう書いてある)?あと、数日前に病身の野坂昭如が一人連句を巻き上げたという新聞記事を見たけど、そういうのもあり?それと、井原西鶴は一昼夜に2万3500句の「矢数俳諧」を詠んだと言われるが、この場合の俳諧は今で言う俳句のことなんでしょうね。

ろいりさん。ありがとうございます。
連句は、「俳諧の連歌」です。連歌と連句は雰囲気も使われることばもうんとちがいます。
それはたとえはあんまり適切ではありませんが、伝統俳句と現代俳句くらいの違いがあります。

その前に、さくらさん。きのう書き込みで「シェルブールの雨傘」の一場面を出してくださって、ありがとうございました。お礼をいってなかった。あれをみて、どうして女は男をまたずに結婚したのかが少し予想がつきました。それにしても、どぴんくとあか。どひゃーな色彩。一番ピンクがにあわなさげな女優さんなので驚きます。母親役の人より雰囲気がずっとオトナに感じられますので、むりくりピンク着せたってかんじです。ドヌーヴさん。

野坂昭如、連句、独吟。
井原西鶴は、れぎおんでも研究者が何人かいらっしゃいました。あさぬま・はくさんとか、まえだ・あやさんとか。私は前田亜弥さんが調べて書かれていた妻の命日に詠んだ作品群というものに心うたれたことがある。さがせばどこかにある。いくつか句をひきたいくらい、まことのこころのこもった句たちでした。
あと、矢数俳諧については大野鵠士さんの研究書がかなりへんでおもしろい。へんといういいかたはへんなんですが霊的というのかな。33間堂。
かささぎはきになっていてですね。
33間堂棟木の由来。松延かんらん。いつきひろゆきの祖先の一人かもしれない人物ですが。八女福島の灯篭人形の祖。
あれ。話が別方向へいってしまう。
ぜんぶつながっている。わたしのなかでは。

俳諧と普通にいったら、俳句もふくめた連句のことですけど、矢数俳諧は即興の数でかぶく句のことなんだとおもう、きっと連句的な句だったんじゃなかろうか。

安西均の詩につくし恋しやつくつくほうし。みたいなんがあったなあ。このひとのふるさとは、筑紫字筑紫。

2009年6月22日 (月)

ナオ3~5 恋~恋離れ

12  陽炎の芯犯しだす午後    bud

ナオ

静まらぬ鼓動に百千鳥響む    整子
2   恋文一つ渡せぬままに    すぎさく

ナオ3恋

ぼん

1  夢を見るあなたの顔をじっと見る

2  寝たままで煙草くゆらす悪い癖

3  激情愛情そして平常

えめ

☆授業中 君のいる席そっと見て

☆ 言えないわ ミキの彼氏に横恋慕

☆ 夜が明けて 君のぬくもり腕の中

さくら

☆内気でも恋心多し若きとき

☆銀行にプロポーズに来た同級生

☆初恋は社会科の先生地理好きに

↓は、何年か前の保険会社の川柳コンテスト一位
★プロポーズあの日に返ってことわりたい

整子

1、カンタータ媚薬のやうに麝香嗅ぐ
2、挿げ替える下駄の鼻緒の豆絞り

東妙寺らん

1目も鼻も口も苔むす道祖神
2毒虫めしろき柔肌蚯蚓腫れ
3待ち人はもうすぐ来るとおみくじに

恭子

1諸九尼の我をつらぬく恋羨し
2伝統のおもさ切なし皇太子
3真横から見れば消えてる土星の輪

乙四郎

1 地球よりおおきなものの居座りて
2 丑三つにメール送りて四つを待つ
3 教えない知っているのはふたりだけ

ぼん追加

銭湯と言いつつ走る安下宿
首すじのあざを隠して月曜日

整子追加

1、臍の緒でつながるやうに君とゐる
2、お前さまの膝貸してくんろ つつつつつ

澄 たから

1. 君居りし幾多の四季は風の中
2. 温もりの沁み込まぬよに拳分
3. 霞みても君は君なり桜島(恋句?)

選句

静まらぬ鼓動に百千鳥響む    整子
2   恋文一つ渡せぬままに    杉作
3
地球よりおおきなものの居座りて 乙四郎

静まらぬ鼓動に百千鳥響む    整子
2   恋文一つ渡せぬままに    杉作
3
臍の緒でつながるやうに君とゐる  せいこ
(鼓動。へその緒。リンクするか。)

静まらぬ鼓動に百千鳥響む    整子
2   恋文一つ渡せぬままに    杉作
3
言えないわミキの彼氏に横恋慕  えめ

静まらぬ鼓動に百千鳥響む    整子
2   恋文一つ渡せぬままに    杉作
3
温もりの沁み込まぬよに拳分   たから
(「温もり」が冬めく。やさしさの、でいいかもしれない。
微妙に複雑な心理の恋句。コブシ一個分のすきまをあけておく、というのです。
それはあまえない意思であり、遠慮であり、恥らいであるのでしょう。・・・というふうな読みでいいのでしょうか。「拳分」がむずかしい。)

静まらぬ鼓動に百千鳥響む    整子
2   恋文一つ渡せぬままに    杉作
3
夢を見るあなたの顔をじっと見る  ぼん

静まらぬ鼓動に百千鳥響む    整子
2   恋文一つ渡せぬままに    杉作
3
毒虫めしろき柔肌蚯蚓腫れ     らん
毒虫が秋かも。うちこしに鳥。(異生類だけどね)

静まらぬ鼓動に百千鳥響む    整子
2   恋文一つ渡せぬままに    杉作
3銀行にプロポーズに来る同級生  さくら

静まらぬ鼓動に百千鳥響む     整子
2   恋文一つ渡せぬままに     杉作
3
諸九尼の我をつらぬく恋羨し     きょう

こうしてみますと、どれもそれぞれ捨てがたい。

いがいとよかったのは、乙四郎の句、たからさんの句でした。
おつしろう句は、場の句でありながら、とっても愛情の深い句であること。
たから句は、よく読まないと読み取れないかもしれないかそけさが、よい。

と迷いましたが。いろんなさわりを考慮しますと、、

静まらぬ鼓動に百千鳥響む     整子
2   恋文一つ渡せぬままに     杉作
3
諸九尼の我をつらぬく恋羨し     きょう
4   
激情愛情そして平常       ぼん
地球よりおおきなものの居座りて 乙四郎
6夏
7夏
8雑
9雑
10雑
11 秋の月
12  秋

かささぎの旗では、いずれ「有井諸九」をきっちりと詰めたいと考えています。
この人は筑後出身の江戸時代中期の有名な女流俳人です。
浮風という大坂の俳人と出奔し、大坂や京都に住んで俳句をかきました。
資料をまとめた研究書が、海鳥社から平島愛子著『「秋風の記」をゆく』として出ていますが未だ手に入っていません。

田主丸の人で、晩年は故郷に帰ったようです。
かささぎがふっと思うのは、高良山の松尾桃青霊神社を勧請してきた岡良山という俳人なども、その周辺の俳人だったのではなかろうか。ということです。浮風は志田野ばの門下、志田やばは八女にも来た事のある有名な俳人で、芭蕉の七部集にも作品を残しています。ということで、これは地域学に属する領域になります。八女の灯篭人形をおこした松延貫嵐とはどうつながっていくのか、そこのところも知りたい。

一人で勝手に駒を三つ進めてしまいました。

つぎは、夏の短句をおねがいします。

じつは、えめさんのブログに偶然夏のタンクで、

きゅうりのほうが多いポテサラ

という句をみました。(ここにはつきませんが。)
そんなふうにもうまるきり関係のない話題をもってきてください。

おつしろう句が恋離れです。地球よりおおきなもの。
それはなんでありましょうか。

かささぎは、この句を恋と愛とのちがい句として認識いたしました。
だから、いろけがない。と感じた。
おおきくて包容力があって安らいでなんでもかんでも包んでしまうようなモノは、恋という概念の対極に位置します。


朧夜の底をゆくなり雁の声  諸九

この句を諸九尼がいつ詠んだのかをまだ知りませんが、その出奔の日を茫茫と回想しているかのようなイメージがわいてくる句です。
恋と旅。
これらは一所定住の封建的なおんなの生と性とに真っ向から解体をせまる、抗いがたい魔力をもったモノでありました。

  


2009年6月21日 (日)

国指定文化財

国指定文化財

写真をクリックで大きくすると、緑のプレートの文字が読めます。

月照の遺跡

月照の遺跡

つぎの写真のビルの前にある。

天文館商店街でおひる、鹿児島のラーメンをたべました。
その近くにあった碑。

桜島まで山下、東妙寺、姫野三人を運んでくださった古賀音彦氏(やまなみ短歌会所属歌人)は文化財担当者。
その視線は私達が見落とすようなところへ常に注がれていた。

2009年6月14日 (日)

バスガイドさん中島照美さんの思い出

うんだもこうりゃ いけなもんだ
あたいがどんな ちゃわんなんだ
日に日に三度も あらもんせば きれいなもんがんさ
ちゃわんにつけた 虫じゃろかい
めごなど きゃあろぐ むしじゃろかい
まこっちげなこちゃ わっはっは

これ、熊本民謡(鹿児島民謡かも)の『ちゃわんむしのうた』です。
いまでも歌えるし、歌詞もきっちりあたまに入ってた。
中学時代南九州への修学旅行で出会った観光バスのガイドさん、中島照美さん(だったと思います)が教えてくださいました。
あまりにもすばらしいガイドさんだったので、旅行がおわってから、しばらくして、みんなで学校へ来てくださるように頼んで、ほんとうにきてもらいました。
かささぎが覚えているのは、「相談室」(という小さな部屋が当時の学校にはありました。高校にもあった。笑)でバスガイドの照美さんに歌を歌ってもらってテープに吹き込んだ思い出です。私のよこにだれか男子が一人いたような。
でもおもいだせません。それがだれだったのか。
接待役だったということは一緒にクラス委員をしていたのでしょうか。

なんで急にこういう記憶が蘇ったのかといいますと、乙四郎のこども時代の世間体とこどもらしい本音のあいだで書かれた日記を読んだからという理由のほかに、こないだ行った太宰府文書館での加川良と新良幸人、下地勇の三人のコンサートで、シンラとシモジ、二人のユニークな沖縄のシンガーが二人とも数年ずれてどうも同じバスガイドさんに惚れていたようだって話をしていたからです。
沖縄の子たちは修学旅行で九州に来るのですね。


それと、きのうのオフ会(八女市福島「すずめ」にて)で、えめさんが最近行かれたバス旅行(破格の二万円余で京都からくらしきからこうべからとにかく昔のアンノン族なら必ずきっちりマークして行ってたという観光地をひたすら回る疾風怒濤のてんこもり旅)の話をなさったのですが、その中で、すばらしかったガイドさんの話というのがすごく面白かったので、忘れていたことをひょっこり思い出したという次第です。

ところで忙しいせいこさん、昨日一時間ほど遅れてきましたが、レディスセットを注文するや、しゃかしゃかとあっというまに食べ終わりました。しかもきれい!感心してしまいました。梅の砂糖煮を箸休めに作ってきてくれて、それをみんなでいただきました。

ぼんはおまごちゃんをお宮参りにつれていった写真をみせてくれた。
久留米の水天宮さんです。
あかんぼうの額に炭でマーキングするのですねえ。
これはびっくりの習慣です。
大という字をかくところもあるようです。
うちの子たちもお宮参りはしましたが、うぶすなのお宮に行って他に成田山、福島の八幡さんと三社参り、そのあとまっすぐ帰ったらいけないというので、親戚の家に立ち寄って用意してくださった祝い膳を戴いてからかえった思い出があります。

さくらさん。
オフ会でさくらさんのこと、東京のはなし、せいこさんから聞きました。
びっくりするくらいお若くて、きれいなひとだったって。
かささぎも甲四郎先生から見せていただいた写真でえっと想ったもの。
いつか八女においでくださいましね。オフ会、しましょうね。
ほんとは連句会がしたいかささぎでした。

ところで、ろいりさんはなしのつぶてじゃのう。
連句する気がないのはよおくわかりましたとも。
あの祝句はとってもおもしろいものでしたのに、残念だなあ!
きっとこのひとは、歌詞の才能があるとおもうのね、かささぎは。
でも、こういうのは無理じいするものじゃなし、気長にいきましょう。


葵くんのややこ歌仙はまたみんなに句をだしてもらって再開しませう。
おらおら、しっかり句をだせや~!!

晩春または三春の季語入り俳句的五七五。
いくつでも、なんでも。少し格調を意識して。
恋句でもいいですよ。折端が折端でしたので、。

2009年6月10日 (水)

黒木町城山(調山)哀話  下

『黒木町 猫尾城の悲しいおはなし』 後半

(六月七日からの続きです)

六 奥方たち、矢部川の流れに

うちひしがれ、日に日にしずみこんで行く奥方をまわりの人びとは、何とか元気づけようとしました。乳母(うば;小さい時から母親がわりに育ててきた人)の紅梅(こうばい)も、女房頭(にょうぼうがしら;そばにいて身のまわりの世話をする人びとの中で一番えらい女の人)の濃君(こきぎみ)やたくさんの侍女(じじょ;おつきの者)たちもたいへん心配をしました。

ある日、奥方・春日の局は勇気を出して琴をひきました。
以前に夫とよく合奏したなつかしい曲をひいてみたのです。
ところがどうしたことでしょう。琴の弦(糸)が全部切れてしまったのです。
今はもうこれまでと、春日局はたくさんのうらみの言葉や別れの言葉を書き残して、雨で水がふえ荒れくるう矢部川の流れの中に身をなげたのです。
乳母や侍女たちもつぎつぎに身を投げました。

古い記録では十三人の女の人たちが、奥方のあとを追って身を投げ、おどろいた家臣(けらい)たちの必死の努力のかいもなく、みんな激流(げきりゅう)にのまれて見えなくなったとあります。
昔の矢部川は、いつも満々と水をたたえて流れていたのでしょう。

(写真:奥方たちが身を投げた矢部川:剣が淵)

七 築地観音像(ついぢかんのんぞう)と神社

黒木西小学校の東、やく百五十メートルくらいの築地(ついぢ)という所に、小さな神社があります。まわりは大きなブナの木や、イチョウの木や竹林にかこまれている小さなかわいい森です。ここの神社を「築地御前神社」(ついぢごぜんじんじゃ)といいます。
築地の人びとはこの神社を親しみをこめて、「築地の観音さん」と呼び、自分たちの氏神(うじがみ)さまとして先祖だいだい長い間守りあがめてきました。

小さなほこら(神さまをまつったやしろ) の中に、木造の三つの古い観音像(かんのんぞう)がまつられています。中央の少し大きな本尊(ほんぞん)は奥方・春日局(かすがのつぼね)、両わきの脇侍(わきじ)は乳母の紅梅(うばのこうばい)と 女房頭の濃君(にょうぼうがしらのこききみ)の座像(ざぞう)です。

ではどうして、お城から二キロ以上もはなれたたんぼの中のこんな小さな神社に、黒木城の奥方たちがまつられているのでしょう。
もう皆さんは想像がついたと思います。

(写真:御前霊社 ついぢのかんのんさん)

八 築地(ついぢ)の人びと・そして行事

矢部川の激流にのまれたあわれなあわれな女たちは、家臣に助けあげられることもなく、あっという間に川下へと流されていきました。
そして二キロ以上もはなれた築地の瀬にうちあげられたのです。
築地の人びとはみんなでこれを抱き上げ、大きな木を切ってこれを燃やし、女たちの冷えた体を静かに温めました。しかし村人の努力のかいもなく、ついに帰らぬ人になってしまったのでした。

城主助能と村人は、ここ築地の窪(くぼ)に神社をたて、春日局・紅葉・濃君の三人の仏像をつくり、神としてまつりました。
そして八百年以上たった今もなお、築地の人びとはこの神社を大切に守りつづけているのです。

南本分(みなみほんぶん)の老人会や築地の人びとは、神社をきれいに掃除します。毎年大晦日(おおみそか)には、立花町の黒木氏の子孫が赤の手ぬぐい・おしろい箱・べに皿・赤緒の草履(ぞうり)を三人分持って神社にまいられます。十二月十八日には「生木焚き神事(なまきたきしんじ)」という行事が築地の人びとによって行なわれ、奥方たちの霊(れい)をなくさめ、氏神や水神に感謝をされるのです。

(写真:築地(ついぢ)の観音像(かんのんぞう))

九  史跡「剣が淵(つるぎがふち)」

奥方春日局(かすがのつぼね)たち13人の女官たちが矢部川に身を投げたあと、猫尾城や黒木の郷(さと)ではたくさんの不吉な出来事(できごと)が起きました。矢部川は氾濫(はんらん)し、郷(さと)はたいへん荒れ、お城のなかでも困った出来事がつぎつぎと起きたのです。

城主助能は妻の死をいたみ、女官(にょかん)たちの死をたいへん悲しく思っていました。彼は妻たちが紅緒の草履をぬぎすてて身を投げた岩の上に立ち、京で帝(みかど)にもらった刀(剣;つるぎ)を水に投げ入れました。そして妻たちの霊(れい)をなぐさめるために、心をこめて笛をかなでました。彼の吹く笛の音は水の音にもまさり、あたりにひびきわたりました。きっと城主の心が妻や女官たちの心にとどいたに違いありません。その後は川も荒れることなく、不吉なできごともおさまったと言い伝えられています。

このことから、城主助能が立ったこの矢部川の深みを「剣が淵」といいます。
グリーンピア八女に行く橋(つるぎがふちばし)のたもとの岩の上に「史跡剣が淵」という記念碑が建てられています。

(写真:記念碑「史跡 剣が淵」)

十  北木屋の聖観音立像(しょうかんのんりゅうぞう)

城主助能(すけよし)が京からつれ帰った待宵小侍従(まつよいのこじじゅう)の子・黒木四郎(幼名四郎丸)は、その後どうなったでしょうか。

彼は成人して黒木四郎調宿禰(つきのすくね)藤原定善(ふじわらのさだよし)と名乗り、中務大輔(なかつかさだゆう)筑後守(ちくごのかみ)というえらい職につきました。しかしどうしたことでしょう。健康そうであった定善(さだよし)は、ふとした風邪がもとで18才の若さでこの世を去ってしまったのです。

城主、助能の悲しみは言うまでもありません。つたえ聞いた京の父・徳大寺卿(とくだいじきょう)もとても悲しみました。そしてこの不幸なわが子・四郎をあわれみ、等身大(とうしんだい;本人と同じ大きさ)の仏像をつくり、黒木に送りました。

この仏像は、今では北木屋の氏神熊野神社のすぐ近く(東方)の観音堂にまつられ、県の文化財にも指定されています。

毎年この地区では、10月の第1日曜日に1000個以上の提灯に火をともして盛大な“ちょうちん祭り”がおこなわれ、黒木名物”だんご汁(だごじゅる)”などがふるまわれ遠くからお参りする人も多いと聞きます。
夕方いっせいに灯がともされると、山手にすばらしい明かりのパノラマが広がります。

(写真:北木屋の聖観音立像(しょうかんのんりゅうぞう)

付記)八女市柳島(やなじま)の十七夜祭(あめがたまつり)

湯辺田(ゆべた)の先から国道442号を左に折れて、矢部川ぞいにさらに下り、北田形地区を過ぎると、次は柳島という地区になります。
そこの入口の右側に大きな若宮神社があります。その境内にも、黒木のこの話にかかわりのある小さなほこらがあります。

昔は行商人(ぎょうしょうにん)といって、物を売りあるく人がたくさんいました。ある朝、”あめがた”の行商人が岸に打ち上げられた女の人を見つけ、村人と一緒に火で体を温めましたが、すでになくなっていました。猫尾城の奥方と一緒に身を投げた女官の一人だったのです。その時、木製の仏像も岸に流れついていたそうです。奥方が日頃大事にしていた仏像だったといわれています。

その後村人たちはほこらを建ててこの仏像をまつり、その霊を慰めてきました。毎年一月十七日の夜に境内で火をもやし(ホッケンギョウの行事)、霊をなぐさめるためのお祭りをつづけています。
今でもその日には”あめがた”の店が出てにぎわい、”十七夜祭”とか”あめがたまつり”とか呼ばれているそうです。

(写真:八女市柳島の若宮神社)

※お詫び:写真画像をいれこむことができませんでした。

 編著者   黒木町教育委員会
        地域活動指導員 田形光義
 発行    平成14年11月1日
 一部改訂 同年12月2日

参考文献:
『郷土の文化財 改訂第一集』 黒木町教育委員会
『郷土の史話(一) 改訂黒木物語』 和田重雄著
『郷土資料 黒木城史話』 故・東 種吉 遺稿

2009年6月 7日 (日)

黒木町城山(調山)哀話  上

『黒木町 猫尾城の悲しいおはなし』

 編著者   黒木町教育委員会
        地域活動指導員 田形光義
 発行    平成14年11月1日
 一部改訂 同年12月2日

参考文献:
『郷土の文化財 改訂第一集』 黒木町教育委員会
『郷土の史話(一) 改訂黒木物語』 和田重雄著
『郷土資料 黒木城史話』 故・東 種吉 遺稿

一 初代城主 黒木助能(くろきすけよし)

“しろやま”の頂上は今では公園になっていて、昔の面影はうすれてしまっています。しかし昔(800年くらい前)は、ここに小さなかっこ良いお城があったのです。

城主のいる館(やかた・二階だてぐらいのかんたんなお城)、今の役場の仕事をする役所、さむらいがいるたてものが二つ、やぐら(見はり台)が三つ、それに大きな門と板べいや土るいがあり、まわりは堀(ほり)にかこまれた山城だったことが、調査の結果わかっています。このお城は猫尾城(ねこおじょう)と呼ばれ、初代城主黒木助能(すけよし)のお城でした。

助能はふだん、裾野(すその)の陣の内一帯に奥方(おくがた)と三人の子どもと暮らしていました。かれは笛をふくのがうまく、春日(かすが)という奥方(おくがた)の琴に合わせて演奏するのが何よりの楽しみでした。しずかな山城に、息のあった笛と琴の音が毎日のように聞こえたことでしょう。

山の頂上にのぼり耳をすますと、今もあたりの木立(こだち)の中から、笛と琴の音が風にのって聞こえてくるような気がします。

(写真:本丸あとの勤王史蹟猫尾城跡と戦没将士の霊の碑)

ニ 城主 京の都へ(みやこ、今の京都)へ

静かな黒木のお城に、とつぜん、きんちょうがはしりました。
城をあけて、三年間京都に行かなければならなくなったのです。
大番役(おおばんやく)といって、皇居(天皇のいられるところ)をお守りする役にえらばれたのです。名誉(めいよ)なことですが、とてもたいへんなことです。

800年以上も昔の話です。飛行機とか汽車とか車などは、もちろんありません。京の都に行くには馬にのるか歩いていくしか方法はありません。行くだけでもとてもたいへんなのです。
もちろん、ことわることは、ぜったいにゆるされないのです。

奥方(おくがた)春日(かすが)のつぼねは、たいへん悲しみました。3年間どころか、もう一生会えないかもしれません。
城主すけよしも、これからのことがたいへん不安でした。お城は大丈夫(だいじょうぶ)だろうか。るすの間、家族は大丈夫だろうか。自分の京都での暮らしのこともとても気にかかりました。

少しばかりの家来(けらい)をつれて、やむなくふるさと黒木をはなれたのです。

(写真:昔の石で復元された本丸の石垣)

三 京のくらしと笛のしらべ

京についた黒木助能は、帝(みかど)のおられるところをお守りする仕事に忠実にはげみました。しかしふるさと黒木や、残してきた家族のことが忘れられません。彼は大好きな笛を心をこめて吹くことで、さみしさをまぎらわせました。それだけに彼のふく笛の音は人びとの心をうつのでした。彼の仕事ぶりと笛のことは、すぐにまわりの人びとに知れわたりました。

二年目の正月、京では帝(天皇)をまねいて舞楽の催し(ぶがくのもよおし;曲や舞をみんなで楽しむ会)が開かれました。左大臣(帝の次にえらい人)から、その場で笛を吹くように頼まれました。彼ははるか遠い黒木にもとどけとばかり、心をこめて横笛を吹いたのです。

助能のふく笛の音は、きく人びとの胸をすごくうちました。
帝はたいへん喜ばれおほめのことばをかけられ、ごほうびとして、「調(しらべ)」の姓と、「待宵小侍従(まつよいのこじじゅう」という美しい女官(にょかん;帝につかえる身分の高い女の人)を彼に贈りました。

(写真:本丸あとに建てられた彦山神社)

四 つとめを終えて ふるさと黒木へ

助能(すけよし)は、その後も真面目(まじめ)に館(やかた)をお守りする仕事にはげみました。

舞楽のもよおしでの帝からのごほうびのことは黒木の城にもつたわり、人びとは城山や猫尾城のことを、「調山*」「調城(しらべじょう)」と呼びたいへんほこりに思いました。(※かささぎのひとりごと:しらべやま。つきやま。両方いいますよね。)
もう一つのごほうび「待宵小侍従(まつよいのこじじゅう)」は、じつは徳大寺左中将実定卿(とくだいじさちゅうじょうさねさだきょう)という身分の高い人の恋人で、すでにおなかには三ヶ月になる子どもがいたのでした。
月みちて男の子(のちの黒木四郎)を産みましたが、助能はまるで自分の子どものように可愛がりました。
この親子は帝からのおくりものです。もちろん大切にしなければなりません。
しかし小侍従(こじじゅう)親子を自分の妻や子どものように可愛がったのは、妻や子どもを黒木に残した淋しさからだったかもしれません。

助能が京へ来てから三年が過ぎました。
大番役という大役(たいやく;とても大切なしごと)を無事に終えたのです。助能は小侍従親子をつれて、お供のものたちと喜びいさんで黒木へと旅立ちました。

(写真:三の丸あとにつくられた城山公園)

五 留守をまもった奥方(おくがた)の悲しみ

黒木の城で留守(るす)を守っていた奥方(おくがた)・春日局(かすがのつぼね)は、夫(おっと)がつとめを終えて黒木に帰って来る日を、今かいまかと待っていました。

夫助能(すけよし)が帝の前で笛を演奏し、たいへんほめられ、ほうびとして「調べ」の姓をいただいたことは聞いていました。
「名誉なことだ」と家臣ともども喜び合い、会う人ごとに誇らしげに夫の話をするほどでした。しかし、待宵小侍従(まつよいのこじじゅう)という美しい女官のことやその子ども「四郎」のことなどは、奥方の耳にはとどいていませんでした。
純(じゅん)な気持ちでただひたすらに夫の帰りを待つ奥方にしらせるのが、まわりのみんなにとってはしのびがたく、またつらかったのに違いありません。

城主が黒木に向けて京をたったという報せ(しらせ)は、すぐに奥方の耳にもとどきました。涙をながして喜んだのは言うまでもありません。しかしそれだけに、待宵小侍従という美しい女官とその子どもも一緒だと聞いたときの彼女の心は悲惨(ひさん)でした。
子どもは夫の子ではなく、徳大寺というえらい人の子だと聞かされても信じることができなかったのは、当然のことだったかもしれません。彼女は一度にうちひしがれ、ショックをうけてふさぎ込んでしまったのです。

(写真:城山公園の入り口一帯)

後半は明後日に続きます。※写真画像は入れることが出来ませんでした。

▼お詫びとお願い▼

この資料は、かささぎの旗姫野が先週星野村教育委員会へ「星野黒木谷のこうやんどう」に祀られている「行空上人」についての資料をいただきにあがったとき、黒木町の資料ですが。といって見せていただいた子ども向けの小史です。
ここに丸ごと引用いたしますことを、お許しください。
この時代(13世紀)のことは謎が多いのです。
五木寛之氏の新聞連載小説『親鸞』にも「行空」が登場しますし、その行空とからむかたちで、黒木の調氏がいたことを、わたしはこれまで全く存じ上げませんでした。

郷土の埋もれた歴史を掘り起こすとは、こういう作業の積み重ねかもしれません。
一つ一つの事実はすでにもう既知であると、ひとつひとつに関係している身内の人たちには思いこまれていて、もっと知られるための努力がなされていないように思われます。
が、じっさいには、それぞれの事実が、それぞれ独立して、はなればなれに存在しているがために、有機的結合をとげられないでいるのではないでしょうか。
連句的視座ということは、そういう事実をすべて大局的に俯瞰し、結合してものごとを視る、ということです。
そういう仕事をかささぎの旗は、「地域学」と名づけてやっていきたい。
ぼちぼちとできる範囲で。

2009年6月 6日 (土)

六地蔵さんの前

六地蔵さんの前

午前中、隣人で連句仲間の澄たからさんを見舞いました。
たからさんは英語を休んでいたので気になっていたのです。
すぐ近くですが、そうそうは会えません。この時とばかり、話し込みました。
そのとき、六地蔵談義を少ししました。
たからさんのお里は愛媛ですが、ふるさとの墓地の隣に六地蔵さんが祀ってあり、いつも供え物が耐えないとのこと。
そういう話、座で連句を巻いていればきちんと聞けますが、ネット文音では一方的になってしまいます。きけてよかった。
お見舞いにはお古で申し訳ないけど、竹内まりやのアルバム「DENIM」をもっていきました。
若い頃からまりやさんの歌が好きだったそうで、喜んでもらってよかった。
「みんな一人」「返信」「シンクロニシティ」「君住む街角」「デニム」などなどいい曲ばかり入っているし、元気がでるのです。
たからさん、思っていたより元気そうでした。
かわりのきかない主婦、母親役、おからだ大事にしてくださいね。

帰宅後、うちの母に六地蔵の話をしたら、母がとつぜん、そういえば。
といって、自分の生まれ育った黒木・笠原の鰐八地区の六地蔵の話をしてくれました。
じぶんではいったことないといいます。小学校のころ、鰐八の六地蔵が来るぞといって、その地区から六人の生徒が通ってきていたのをガキ大将たちがからかっていたのを覚えている。というのでした。

それでは、今から行って見ようと思い立ち、すぐさま実行しました。
まさかこのように山の中とは思いもしませんでした。
母は途中で断念し、車の中で待っていました。
半ズボンにサンダルばきのかささぎは、足が傷だらけになりました。
でも、案内人・月足さまの温かいお心と、六地蔵さんの無言の励ましに勇気をもらって、元気に山を下りることができました。

ほんとうに、ありがたいご縁に感謝いたします。

案内人

案内人

「鰐八の六地蔵さんへはどういったらいいですか」

山の茶畑で作業をなさっていたかたに道を尋ねた所、道はあってないようなものだからと
言って、ご親切にもけもの道を連れて行ってくださいました。

月足聖子さんとおっしゃいました。
むすこさんとお茶を作っておられるそうです。
とても親切にしていただきました。

車をとめて、道なき道を百メートルほど草や潅木をよけながら登りますと、ほぼ頂上に出ます。その先に向かう六地蔵さんの祠がありました。草に埋もれていました。
年に一度「祭り」の日があり、それは七月二十三日だそうです。
三軒の家で当番を勤めるとのこと。
そのときだけは草も刈られるので、道が出現しますとおっしゃいました。

2009年6月 5日 (金)

おじぞうさんとふろしき

ことし勤務先の仕事量ががたんと減った。

去年のはんぶんもいかない。
まいにち暇なんである。
いそがしいことはよかったんだなあとためいきの日々である。
しかし現場はひまでも事務はひまとはいえない。

「おじぞうさん」娘と同年齢のセイネンが私の右側の机にいる。
あたまは坊主、とても素直でいっしょけんめい、こころうたれる。
最初銀色の金属製のかばんをもって電車通勤してた。
いま、なぜか風呂敷。笑
かんぜんに書生スタイル。
わたしはかれのファンです。応援してる。
時給700円で毎日五時間。
ボスの酷使にたえ、洗濯物から犬の散歩、食材の買出しまで、いやな顔ひとつせず、こなしてる。偉い。かれはこうがくかんでた子なのよ。パソコンもだれより上手なのにえばらないし、寡黙。すごい子だ。

ところで。
さっき神津ろいり文書のカテゴリーをひらいて、注意深く読んでいたら、えめさんのコメントのなかに、広川に六地蔵がある。と書かれていた。それ、気になるよね。
たからさんの句、六地蔵を地蔵様とかえたけど、最初の偶然の出方ってとても大事だし、広川のそこへ行きたくおもう。それと菅原道真の父上をまつるというぜぜしゃへも。こっちは朧大橋への道を逆方面へおれる。とだけかかれていますね。
ぜひ、いつか。あたまにいれておこうね。

▼広川町在住、山下整子のコメント:

八女郡広川町の六地蔵について

広川町の六地蔵はわたしの住む地域の隣の地域にあります。
一條区。
六体の地蔵さんが立っているわけではなく、一枚の岩に六体のおじぞうさんが描かれているものです。
路肩にひっそりと立っていますが、地域のおばあちゃんたちが気がけてお花やお供え物を供えてくださっています。

以下は、町のHPから。

「広川町指定文化財第4号 有形文化財(書跡)」

 天正15(1587)年に、豊臣秀吉が島津征討に赴いた際の往復路(太閤道)の辻に1基立っています。自然石(緑泥片岩)の1枚石に六地蔵が陽刻された六地蔵塔婆です。
 年代は室町時代後期の作と推定されます。

正式な名称は、一條六地蔵自然石板碑。
いちじょうろくじぞうしぜんせきいたび。

2009年5月29日 (金)

行空の碑 下部

行空の碑 下部

行空の碑

行空の碑

 行空上人廟所法会記念

 高野山別格本山本覚院は行空上人が黒木大蔵太夫と待宵小
侍従の請により 建久年間に建立された名刹である その縁
により上人この地方に行化すること屡々 終に文永年中星野
村に於て九十才を以て遷化せられた 因って廟所を構えて祀
り爾来篤信の有志これを護持し今日に至っている 昭和五十
九年三月十一日本覚院第三十八世住職稲葉義猛大和尚を導師
として 九州在住の本覚院法縁の住持諸徳この碑前に参じ
また村民挙げて此処に参詣し上人の第七百五十二回忌法会を
修し 上人の遺徳を追慕し菩提を祈念する 茲にその勝業を
記念して永く留むるものである

行空上人の墓

行空上人の墓

星野村指定文化財
高野堂「行空上人」の墓(史跡)

 行空上人は天台宗を学び、さらに真言宗門下に修業した後、源空(法然上人)の弟子となって浄土思想・専修念仏の普及に努めた僧で、一宿上人とも称されます。
 『元享釈書』には、年九十にして鎮西に没すとは記されていますが、念仏一念義を唱えた罪により追放されて後の、行状や没年については不詳とされています。
 『郷土史物語』(江頭享)には、天福元年(1233)七月六日、星野村と黒木町を境する高牟礼峠を越して星野谷へ下る途中、縫尾久保という所で亡くなったとあります。
行空上人の旧墓塔にかく記されていたように書いてありますが、今日ではそれを確認することができないのは残念です。
 『高野山本覚院因由並ニ筑後国檀縁之由来』には、最終の行化(ぎょうげ)文永年中(1264~1273)、星野村にて年九十、口中より光明を放ち仏舎利を吐いて掩化(えんげ)せらる、とあります。
 いずれにせよ星野谷の人達は、遍歴の途中この地で亡くなったと信じて一堂を建て、遺徳をしのんできました。五十年ごとに高野山本覚院講坊から使僧が来訪して、供養が営まれてきました。現在の墓塔は、宝暦十年(1760)に改修されたもの*で、次のように刻まれています。

 高野山講坊先師行空上人

  時宝暦十天三月 日**
   講坊法印弟子
    戒浄 建之

 また玉垣には、嘉永三庚戌(1850)正月、講坊之建、とあります。
 ところで、行空上人の話は、黒木氏や待宵小侍従との関わり中で説かれます。
また高野山本覚院は、待宵小侍従によって建立された講坊(元禄年間に待宵小侍従の法号に因んで、本覚院と改称された)を起源とします。
 そのいきさつについて学び『高野山本覚院因由並ニ筑後国檀縁之由来』から引用しますと、

(前略)小侍従一子を生むに牛(うし)たり。哀(かなしみ)殺して葬る。媱逸(いんいつ)の難縷陳(るちん)して済度(さいど)を願ふ。上人応請(おうしょう)して、宿世の因縁輪廻し現世の業報(ごうほう、極善極悪ハ中有ナキ理由)遁れ難きを説示(ときしめ)す。大蔵太夫並に侍従等大に懺悔し厚く帰依す。此(ここ)に於て業障消滅家運長久の為、資財を擲(なげう)ち上人に依願して、高野山に講坊を建立し、次いで十二坊を建てて諸(もろもろ)の修業者を供養し聴講に資するを、待宵の十二坊と云。(後略)

このような縁(えにし)によって、筑後と高野山本覚院とは深い関係を持つようになり、今日なお続いているのです。

  引用「星野村史」 星野村教育委員会編より

*その後、数度の改修が施されてきたようです。
かささぎの旗が尋ねて行ったお堂には、平成十三年の印が入っていました。
また、お堂へ登る村道ももうじき舗装されると伺っています。
**
現在の墓塔には天文年号が彫られています。
このずれがなぜなのか。ふたたび混沌としてきました。
(墓塔の側面の文字をうっかり読み損ないました。)

  

2009年5月28日 (木)

「ややこ」 二案

1目に青葉やま時鳥ややこ生る      恭子  
2  夏霧はれて現(あ)るる玉石     ぼん  
3蚤の市自転車こいでTシャツで     さくら 
4  学生街の行きつけのカフェ   乙四郎  
5望の夜の甍に波のさやぐらん     らん  
6  田畦豆(たのくろまめ)を小筵に入れ  整子 


1秋扇追ひ払ふものと掬ふもの   ぼん
2 鳥栖に栄えし久光製薬      恭子
3切れっぱしばかり溢れる抽斗に  さくら
4恋、77

神崎さくら裏3案

鳥栖の人なら久光のはなしはいっぱいあります。
鳥栖高校から毎年どっと就職したので、親しい友人はほとんどあの会社へ就職してたし、隣近所にもいっぱいあの会社勤務の人がいたし、鳥栖の生活を支えていたことが今わかりました。


サロンパスにつなげてもいいのですか?
全然関係ないものを作るんですか?

下記適当
1シップ薬貼りて友は散策楽しむ
2切れ端のサロンパス引き出しにあふれ
3家々にサロンパスのにおい鼻をつき
4病院でもらうシップ薬、たぶん久光製

隣近所のサロンパス勤務のおじさんたちが切れ端をいっぱいもらってきてくれていました。
形が四角じゃなくいろいろな。
遠い昔ののんきな時代の話です。
以後禁止されたようです。(さくら)

さくらさん。

初めてきくお話と四つもつけ句をありがとうございました。
句の付け方は、べたつきでつけて、それからべたの部分を引き剥がせばいいと最初に習います。
これはその典型的な例だとおもいます。
どの句も、べたつきの部分、(ちょうどサロンパス)をはがしますと、とても面白い雑の句になります。

1貼れるだけ貼って散策楽しみぬ(商品名と誰がを消す)

3家々にただよふ匂ひ鼻をつき 
4苦笑。ユーモラス。モーラスっていうんでしたね。
むかしは、サロンパスの箱、右から左へ書かれていました。
スパンロサ。

1目に青葉やま時鳥ややこ生る      恭子  
2  夏霧はれて現(あ)るる玉石     ぼん  
3蚤の市自転車こいでTシャツで     さくら 
4  学生街の行きつけのカフェ   乙四郎  
5望の夜の甍に波のさやぐらん     らん  
6  田畦豆(たのくろまめ)を小筵に入れ  整子 

1鶏頭の種子くろぐろと掌にこぼる  せい
2  たった一人で守る灯台      きょう
3履歴書の趣味欄埋める軽い嘘   おつ
4  年端もいかぬ娘でありぬ    ぼん 
5琵琶法師

1 履歴書の趣味欄埋める軽い嘘
2 古家電エコの御旗でゴミとなる
3 筆跡をあたたかくせし肥後守 (乙四郎案)

履歴書の趣味欄埋める軽い嘘
  ブリッジに惚れた年端いかぬ娘

(ほりけんが結婚したと今TVで言っていたので)happy01
22歳、うちの子より若い。(ぼん)

2009年5月26日 (火)

星野 こうやんどう

星野 こうやんどう

写真は4月23日ころのものです。
まだ取材にいっていません。
きのう、星野から再び原口さんがおみえになり、新茶を戴きました。
おいしい星野の黒木谷のお茶です。
そろそろ行って確かめたくなってきました。
この墓は行空の墓というけど、それではなぜ年号は天文年間のものなのか。
いま、五木寛之の『親鸞』に行空が出てきますので、注意して読んでいます。

一連の高野堂関連の写真資料:
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/cat549968/index.html

裏折立句と二句目「ややこ生る」

1目に青葉やま時鳥ややこ生る      恭子  
2  夏霧はれて現(あ)るる玉石     ぼん  
3蚤の市自転車こいでTシャツで     さくら 
4  学生街の行きつけのカフェ   乙四郎  
5望の夜の甍に波のさやぐらん     らん  
6  田畦豆(たのくろまめ)を小筵に入れ  整子 


1秋扇追ひ払ふものと掬ふもの   ぼん
2 鳥栖に栄える久光製薬*     恭子

旧仮名遣いでは「栄える」は「栄ゑる」「栄へる」「栄ゆる」いずれでありましょうや?・・・古語辞典で確認、栄えるでした。

*

金美齢さんのお話の中で印象に残ったことの一つです。

「サロンパスで有名な久光製薬は昔とかわらず本社を鳥栖におき、地域に貢献している。今時とても立派である。」とのことでした。マラソン好きのらんちゃんもこう言っていた。久光の社長さんはマラソンに出てはサロンパスを配られている、と。
http://www.hisamitsu.co.jp/company/enkaku.html

前句との距離、ついているのかいないのかよくわからない。
こういうのは疎句(そく)といいます。べたつきは親句(しんく)。

(企業の回し者ではございませんのでご安心ください。)

つぎは、もう一句雑か、恋前句をおねがいします。
鳥栖出身のさくらさん、お願いします。
あるいは、マラソン好きなロイリさん、どうぞ。
どなたでも、なにかひらめいたら句をだしてくださんせ。

(しっかし、こっからどうやって恋にもっていけるだろう?)

2009年5月23日 (土)

おわわ、ねぶたは秋!

やりなおし

1目に青葉やま時鳥ややこ生る       恭子  夏
2  夏霧けぶる玉石の段(きだ)       ぼん  夏
3自由市Tシャツを着て自転車で      さくら  雑
4  行きつけ店のコーヒーの味     乙四郎  雑
5望の夜の甍の波の光るらん        らん  秋月
6  田畦豆(たのくろまめ)を包む小筵  整子   秋

はらほろひれはれな展開。いえ、ごめんなさい。
まさかねぶたが秋の季語とは。
暑いさかりの祭りで、立秋にはおわるのに。
なんてこったい!しかし歳時記には絶対服従です。
南のもんには東北の人たちのあつい想いはわからない。

おもて六句の禁忌。

神祇じんぎ・釈教しゃっきょう・恋・無常(死)・述懐・懐旧・妖怪・地名・人名・病態などは初折のおもてには出さない。

その視点から、脇の「いつか来た道」を変え、第三のねぶた句も変えました。
第三のねぶたは祭り、まつりは祀り、かみさんごとです。
連句をやっているとそういう分類に神経質になるし、同じようなもので、別のさわりない言葉を捜してくるのがうまくなる。
こうして沢山の語彙が集まります。
これは文芸に携わるものにとっては、武器が増えたことを意味します。
無駄ではありません。
今回この頁をかくために、芭蕉七部集のすべての歌仙のおもてに目を通した。発句には何を出してもいいので、伊勢参りがあったけど、ほかの位置にはなかった。あ、一つあったな。四句目くらいに角大師の句が。つのだいし。伝教大師、元三大師ともいいます。深大寺にも祀られてますし、久留米の宮の陣にもあります。関係ないか。

あとは五句目くらいにねのひのまつりのある巻きと、祝い餅を食べる句があるだけで、見事なまでに宗教色は表にはなかった。

もう一つ書きます。

それは第三のかたちといって、三句目はとめかたがきまっている

句のさいごを、「に・にて・て・もなし・らん」のいずれかで留める。
「で」これは「て」の変形だと思う。
「みてごらん」といって、第三で「て」、五句目で「らん」を使いました。
ちょうどらんちゃんのとこに「らん」がきた。

乙四郎句、いじったけど、あまりいいなおしではありません。
気になるのは、シサン*と上下が切れてたこと。
行きつけのカフェいつものコーヒー
シサンとは、下半身が四・三のリズムになることです。
いつもの=四音、コーヒー=三音に近い四音
シンプルな句なのにね。
発句がぶちぶち切れているので、流したい。
ほかにあったらさしかえますのでどうぞ。
さくらさんも、自由市のところにもっといい言葉があれば差し替えます。

フリマーでは連句の市民権はまだ得ていないようです。

ああややこしや。

2009年5月21日 (木)

let's俳句を英語に  保健医療経営大学英語公開講座にて

きのうはみやま市の保健医療経営大学での第二期一回目の英語講座の日だった。
一回目は全員出席!(と、てぃーちゃーせっど)。
中級クラス、十数人でちょうどまとまりがいい。
連句の座が三つほど組める。
あ、すみません。つい連句的思考が身についてて。


佐藤教授に言い渡されていた詩の英訳、自分のへたな句をいくつかと芭蕉句と蕪村句を一句ずつやってみた。
どれにしたらいいかなと迷う。
んがしかし、今、当季ということで麦秋句をやろうとハラをきめ、「これにします」と先生に頼んだら、先生はほかの句も書いていた下書きプリントを一枚まるまるコピーして(うっわー・・・)、140問の復習初歩英作文をせっせと書き込む肉体労働のような作業がおわったあとで、みなさんに配られてしまいました。
とほ~杜甫徒歩。カッコ悪。まったく自信ない。
だけど、まちがいがあるからまなぶんですし。
ところで。
自分でも迷訳だと思う↓

逝く春や重たき琵琶の抱きごころ  蕪村

spirng passing by

when I am holding you
like a heavy biwa

この句、ずしっと下腹部にくるのは恋句(そう思った)だからかな。
これと有井諸九(筑後の俳人、大坂の俳人と駆け落ち、死なれて尼)の次の句が、かささぎの中では連句的に響きあっている。

朧夜の底をゆくなり雁の声  諸九尼

諸九という女流俳人について、もっとよく調べようと思いつつ、まだ果たせていない。
高良山の中腹にある桃青霊神社も、そういう筑後出身の俳人のつながりがあってこそ、祀られているのだろうから。

この諸九の印象深い一句にどこで出会ったかといえば、久留米図書館で、北村薫のノベルででした。題はわすれた。あっ、と思うほど、すごい句。なにも知らない自分を恥じた。

2009年5月20日 (水)

脇起半歌仙『さまざまの』 花句

脇起半歌仙『さまざまの』の巻

さまざまの事おもひ出す櫻かな   翁   
  花を見しこと花見ざる事     兼坊  
春月が朱に染めあげる洋(わた)なかに 恭子
  トランジスタのボリューム高く    整子
大襷大和撫子大舞台         乙四郎(雑)
  鞍上の風夏帽子飛ぶ      たから(夏)


くちなわの肌ぬめぬめと砂を這ひ 兼坊
  そこから先はご法度である  せいこ
瀬戸凪いで小舟のやうに思ふひと えめ
  ランデヴーせしアポロ・ソユーズ 乙
動名詞「~でない」と否定して   恭
  身を切る風の中の葬列   兼
漆黒の闇を知らぬ子月冴ゆる  たから
  草食獣も爪を研ぎます   整
古き良きレコード盤に傷が付き ぼん
  自恃自照てふ雛の酒あり  恭
散りゆきてふたたびの幽花の川 えめ

えめさん
たくさん作ってくださってありがとうございました。
どんどん句が締っていくのがみえる。
かささぎの巣篭もり句が一番の出来です。
しかし、これは俳句として鑑賞したい。
付としての花には上の句をいただきます。

ネックは、「ふたたびの幽」。
幽玄の幽です。川べりの花が散ってしまった。
これからはまた日常にもどる。とふつうはおもいます。
しかし、えめさんはそれを逆に表現しました。
そこが面白い。そういう手がある。
反対のことを書いてみるというやりかた。
するとそこにふわりとなにかがまいおりる。
直接事実をのべるときには降臨しない何か。

「ふたたびの幽」とは、再びなんかではなく、作者にとって初めて現前するものでありましょう。それは花が咲く前の、なにもなかったときの想いとは明らかに違う何かです。

花とはなんでしょう。幽とは、なんでしょう。
この句がでてきてくれたときから、それを思う人になるのです。

ガストでのオフ会で、うどん食べながらぼんのご主人さんが何かの拍子にいわれていたことをふっと思い出しています。(うどんじゃなかったかもしれません。)
彦さんは謡曲をなさる人ですので、花とはなにかが、わかる人なんだろうな。
と、てんこもりパフェをたべながら、かささぎは思った。
ああそうだ。久留米のスターの話をしていたんだ。
藤井フミヤはバンド時代のほうがずっとよかったよね。
って話とか。
そこで、出たんだ。花があるかないか。ってはなし。
なにしろバンドの話も専門的なことはわからず、ご近所の話もついていけませんで、あちこちしか聞いてなくて申し訳ないことでした。ろいりさんと山彦さん、ろいりさんとぼん。かささぎは縁をみまもる役でしたねえ。

ということで、揚句にきてしまいました。
なかなかしぶい一巻になりそうです。
揚句は、今日英語教室があるのです。
なんでしょう、↑の文章の脈絡のなさ。
つまりね、たからさんに会うのですよね。
ということは、こころが命じます、たからさんに頼みなさい、と。
これ、かささぎ流。「シンクロニシティ」。
迷いが消える。

エメさん。
かささぎとの縁は、「たらおさ」でした。

棒鱈をもどす匂ひもお盆かな  恭子

2009年5月16日 (土)

乙四郎語録  官僚番外編

高野山

 竹橋乙四郎


昭和が平成になる頃、和歌山県で課長をやってました。
和歌山県には、宗教都市、高野町があり、宗教法人ばかりの町なので、税収が心配でした。
高野町の予算は26億円規模なのに町税歳入は3億5千万円しかありません。
こういう町は地方交付税に頼るしかありません。
しかし、三位一体改革(地方のことは地方でせんね、おりゃ知らんけんね~改革)のあおりで地方交付税は先細りです。

どことも合併せずに独自の宗教文化を育んでいる大好きな町なのですが、今や破産寸前らしい。


この先、高野山文化はどうなるのでしょうか。

かささぎの連句的:

マンション建設

 
平成二十年頃、久留米で警備会社のパート事務をやってました。
建設業界は四月五月は超ヒマで、仕事が入らず閑散となります。
このヒマをもてあますときに一人の隊員さんが暇を取らされ帰ってきました。

「現場は解散するんだって。明日から来なくていいよって言われた。
作業員もみんな帰って誰もいなくなったから帰ってきた。」

えーっ!!

事務所にいた全員が絶句しました。

彼がこの数ヶ月立っていたのは高層ビル建設のための交通誘導でした。
そこの仕事がなくなるということは・・・。

まさか!
みな青くなりました。
ビルは親方日の丸みたいなところのマンションで、そこが潰れることは考えられない。
請け負った地場建築会社にお金が回らなくなったに違いありません。

かささぎは一年間毎月手書きで書いてきた、その会社宛の長い長い請求書を思い出しました。
よそより事務時間が倍かかり、入ってくるお金は一方的に削られている・・
と何度も愚痴をかいたところ。
それでも、潰れるとなると気の毒でした。

建築会社を替えて、マンション建設は続けられるのか。
そこの大きな売り出し広告を先月見たばかりなのです。
それともこれは大元から資金をひきだすための「手」?

余計な気の回し方まで勉強させてくれます。

この不況の大元にあるのは、何なのでしょうね。

2009年5月11日 (月)

黒木の日向神社案内板

黒木の日向神社案内板

八女津媛神社の磐座2

八女津媛神社の磐座2

八女津媛神社の磐座

八女津媛神社の磐座

八女津媛神社2

八女津媛神社2

八女津媛神社1

八女津媛神社1

2009年5月 7日 (木)

オフ会始末談義

気のせいでしょうか?
ぼんのご主人とろいりーさんって、
お顔の雰囲気まで似てらっしゃいません?
体つきまで。

まるで、兄弟みたいですね。

似ているというよりそっくりでした。波長。笑
すがたかたちは背のたかさが違うけど、やせているところとかおなじでした。
うしろから二人を写したのがありましたが、よくにています。どことなく。
ろいりさんは高校の歴史の先生だそうです。

nightこんばんわ
オフ会>>おつかれさまでした。 今回は欠席で失礼しました。
それと、「MK」は終わっとったですか。。ごめんなさい。。未確認情報やったですね★失礼しました。(これは中華料理やさんの件です、かささぎ脚注・でもひょっとしたら探せなかっただけで、あるのかもしれないです。)
ろいりさんは無事に合流できてよかったですね。
歴史のプロやったとですね☆ひめさん心強いですね^^☆☆☆
久留米から上陽へ>>深い森があったでしょう。
それと深い谷にかかる大きな橋も。
おぼろと逆の右のほうへ行くと「是善社」があります。
道真さんのお父様の。
こちらは必ずご利益があるとですよ(^_-)-☆
http://yamep.sblo.jp/article/9935605.html(是善社、八女)

エメさん、おかえりなさい。
どうでしたか、岩国は。
十八歳のエメさんの記録ノートの断片、ちゃんとろいりさんへ渡しましたので、ご安心ください。
ろいりさんから当日きいたことであっとおもったのは、六角堂。くるめの広場のある。ほんとうに昔お堂があったんだって。
そこまで言われてやっと結びついた。
六角堂、聖徳太子、法然、親鸞、そして行空上人のその1その2!

sunおはようございます
ノート>>へた字で恥ずかしいですが、女子高生のいきおいということで・・(^^ゞ・・その頃はまだ17よ♪)
六角堂>>あ~、、そうですか・・お堂が~☆
熊本県の某所の神社に六角の聖徳太子廟があります。
そんなに古くはないんだけど、すてきな廟ですdiamond
広川の某に私の好きな六面のお地蔵様があります。
六根清浄って言葉があるけど、神仏には大事な数字ね。きっと☆

 一昨日は、ありがとうございました。で、いろいろありすぎて何から言っていいのやら。まずこのようなオフ会が持てたのも、ぼんさんのお連れ合いとまでお会いできたのも、何よりもかささぎさんのおかげ。以前ぼんさんのコメントで「夫は無口で何もしゃべりきらんかも」と言われていた割にはとてもおもしろい方(もちろんこれは褒め言葉)で、本当にまたお会いしたいです。それにしても、どっかこっかでつながりがあるもんたい。ぼんさんのお姉さんの中学・高校の卒業アルバムがもし見られたら、そこにうちの姉も写っているはず。

 あの夜、父親から聞きだした情報を幾つか。まずぼんさんの金丸校時代の同級生のおうち、「平井理髪店」は弥永外科のすぐ近くにあったけど、後継ぎがいなくて廃業したそうです。しかも何と「平井君」のお父さんは、昔日吉町にあったうちの店(おそらく祖父の代)で職人さんしてらしたとか。
 それから、釣りができる池のある豪邸、やはりラッキーパチンコ店の経営者の家のようで、日吉校で私と同学年だったのが後を継いでいるらしい。
 広川町にお住まいの方、父の出身地は梯という所みたいです。S15年3月上広川小学校卒業で、5年前に行われた同窓会の名簿でわかりました。まともに小学校行ってない割には、今も地元に残ってる人たちと付き合いがあるようです。おっと、ここで検索して数ヶ月前のseikoさんのコメント探し当てたら、梯区という地名も、広川ダムの近くに大森姓の友人がいるとも書いとらっしゃった。父の時代(約70年前!)は、当時の校長が、生徒は1000人以上いて税金の滞納者も一番少ない校区ち言うて自慢しよったらしい。
 エメさん、ノートありがとう。ホント、当時の女子高生っぽい文で、胸キュンものですね。福岡系の深夜放送では「ユー・アンド・ミー」を聞いてました。確か番組最初のフレーズが「あなたと私、you & me!」とか言ったんですよね。でもこれは事前録音番組だったようで、やはり生のほうがおもしろいと、当時はまだ福岡に中継局がなく、東京から直接流れてくる電波を拾ってました。ちなみに大阪では、当時無名の笑福亭仁鶴のエッチなトークが思春期の少年心をくすぐり、これも時々聞いてました。
 オフ会でも話題になったダンス場の件、ぼんさんの夫さんの話を参考にすれば、さくらさんが行っていた社交ダンス場というのは「ダイアナ」ではなく「ダイナ」ではないでしょうか、というわけでさっそく「ダイナ」のホームページhttp://www.dinah1947.com/見つけたら「社交ダンスと共に半世紀」という宣伝文句が載ってました。で、Go!Go!系というか前ディスコ系のダンス場は「クインビー」ちいう名前じゃなかったろかとも言ったけど、こんどそこでバンドやっていた同級生に会ったら確認してみます。
 ふ~、なごなった。後は他の記事にコメントするか、後日にと思たけど最後に1つ、これまた父から聞いた話で、数日前に満州屋(屋台店舗)の元祖が50代の息子を刺し殺したという事件が、数日前にあったとか。でも検索してもほとんど出てこない。詳しい記事がどこかに出とらんやか。

ろいりさん、そう、、クインビーかも☆彡
そんな気がしてきました☆彡
私の記憶力は全然だめですね~(^_^;)
ノート>>久しぶりに眺めましたら懐かしい気分です。 字ヘタはごかんべんを。。 あの頃はサンデーVSマガジンの激烈な頃でしたので(タイミングよくNHKでドキュメンタリーがあっていました)、チョイスしながら読んでいたマンガもキラ星のごとく名作がありましたね。
それと、当時のラジオでは米軍(?)の板付けから(?)の音楽だけのチャンネルがありましたでしょう。
英語のMCで、あちらのヒットチャートの音楽がバンバンかかっていました。
家のラジオでは受信できなくて、カーラジオだとなんとか聞こえたたのでよく車庫の中で聞いていました^^♪

ろいりさん。
今日ろいりさんちの前を二回通りましたよ。笑
ちゃんと出世したバイクがあった。みた。
朝九時過ぎ、広川町のせいこさんちへ豌豆をとどけて、それからぐにゅぐにゅ道をまっすぐ相川経由で209号線へ出、福岡方面へ出ました。のはずが、梶原理容店の前の道をまた引き返したのは、五号線を通ろうと思ったので、旧かささぎロードの。ところが長く通らないので、どの橋をわたった道がそうだったのかを思い出せず、これだろうと思っていったら、200号線でした。すいていてびゅんびゅん飛ばせた。が、しかし、途中有料!!200円とられた。ああ、そういえば言ってましたね、ひやみず峠の道。長いトンネル。なーんだ。っていうか。遠回りだね。きっと。
かささぎは戸畑の夫へおかみの給付金を届けにいった。ひとりぶん。今回は速かった。とくに帰路は三号線を遵守して帰ったので二時間しかかからなかった。前回行って帰るのに七時間もかかったのが嘘みたい。九時に出て二時だから、二時間短縮。

オフ会の話題について、書こうとしたんだよね。
ところが、笑、かささぎは聞いていなかったんだろうね。なーんもおぼえていませんでした。だから、書いてくださったの、ありがとう!!
じぶんの知らない話って聞いているようで残らないものですね。今回のオフ会はある種、ろいりさんとぼんの同窓会でしたからね。
だけど、ふしぎだね。
架け橋、梯って書く、その地ですが。
私は高橋甲四郎先生に聞いたことがあって。
去年。先生の母方の里だったかな。父方の里だったような気がします。たしか梯というのがこうしろう先生のおとうさんの旧姓で、黒木の高橋家の養子になられたのでした。
なんとなく、そういうことを連句的に思い出しております。関係ないのかあるのか知らないけどね。
せいこさん、今日はのこの島にいってたそうで。
いつかまたの機会に、みんなで会いたいです。
そうしたら、縁がよりはっきりしそうな気がします。
とにかく、ありがとうございました。どちらさまも。

追伸、こうしろう先生の先祖は青木牛之助です。

呂伊利さん

お疲れ様でした。夫は「彦さん」というハンドルネームにします。いつまでも「ぼんさんのだんなさん」では時間がかかりますから。
で、彦さんを連れて行ったのは正解だったようですね。遊ぶ事やバイクの事などはよく知っています。車を買い替えるときなど展示場を何件も回り、パンフレットを何冊も集めて吟味し、どの車種にどんな機能がついているかを暗記しているのですから、たいしたものです。ここのところだけはやっぱ男だなあと思います。
息子も「お父さんがパンク修理をするのは当たり前(自転車、バイクの)だとおもっていたけど、ちがうとやね」と言っておりました。他所の家ではしないんですね。わたしも知りませんでした。ふだんばかにばかりしてますけど、かなわない面を持っているから、今までもてているんだと思う。
かささぎさん、旦那さんは元気でしたか?だんなさんもギターが上手いって言っていたから、今度は一緒に会おうね。

ぼんさん。彦さんは面白い人でしたなあ。
そしてたよりになるドライバーでしたなあ。

 昨晩、父が上広川小学校創立百周年記念誌というのを出して見せてくれた。この小学校は昔から現代に至るまで、1組・2組…でもA組・B組…でもなく、い組・ろ組…なんですね。まるで江戸の火消し衆みたい。そして各年度の卒業写真が、古いのでは大正10年頃のものから載っており、でも戦前~戦後直後までは、写真のない年度も。空襲で焼けるなどして散逸したのか、載っているのはたまたま誰か保存していた人から提供があったのか。S14~20年あたりだけ奉安殿をバックに、S50年頃だけ?日の丸をバックに写真撮っているというのも、何か時代的意図を感じる。S23年ぐらいのからは全部載ってるようです。ということは、このブログに投稿している上広川小出身の人の写真も載っているということですよ。
 上広川小出身で、この記念誌を持っておらず見たい方はご一報ください。ただし夏まで待っていただかなければいけないけど。
 おっと、もう1つ別の話題、もはや壊滅状態と言われていた「具うどん」のメニュー、古賀久近くの「三潴屋」食堂で発見!
        プラネット西鉄久留米リベール店にて

「ダイナ」のホームページ見ました。
住所から言うと私の思ってる場所の住所ですが、経営陣の顔ぶれと経歴がぜんぜん違う。
ただし、昭和22年ごろからやってたという「ダイナ」は別の場所にあったそうで、その当時の「ダイナ」にも一度行ったことがある。
そのご、今の東町にあったダンスホールを買い取って移ったんじゃないかと想像しました。
昭和40年ごろの東町のホール経営者の山田先生と、今の「ダイナ」の経営者の先生は、昔のダンス教師のタイプ(細身で色白)なところがそっくりです。

ろいりさん、ホームページ紹介していただいてありがとうございました。
必死で検索かけたよ。

昭和50年から51年にかけて、このダイナにも何度か行きました。職場の12月のダンスパーティに向けて、社交ダンスを習いに行ったのでした。同僚達と。若かったなあ。
ダンスパーティのことをダンパと呼んでいました。今は死語ですね。笑

2009年5月 6日 (水)

六角堂

仕事で六角堂広場のもよおしの雑踏警備を請け負った去年。
そのときには六角堂っていうのは久留米市民のための広場のなまえ、くらいの認識しかなかった。広場についた名前にしては六角堂だなんてね。くらいのかんじ。

それが西日本新聞の五木寛之の連載小説『親鸞』を読んでいて、六角堂が出て来たことにおやと思う。
38歳の親鸞が(未だしゃっくう、という名前のころ。綽空)、京の吉水の六角堂に百日のあいだ籠る。そのおわり近くになって、聖徳太子の夢のお告げがある。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E9%B8%9E#.E5.85.AD.E8.A7.92.E5.A4.A2.E5.91.8A
わたしは親鸞のみ教えの真宗を信ずる家で育ったけれども、そういう親鸞の出自については知らないできた。

上記の資料から、気になるいくつかをこぴぺする。カラー部分は引用文です。

1 改名について。

「綽空」から「善信」に改めたのではなく、「善信房綽空」から「善信房親鸞」に改めたとする。法名は、自ら名告るものではないため、「親鸞」の法名も法然より与えられたとする。
親鸞は、晩年の著作にも「善信」と「親鸞」の両方の名を用いている。また越後において、師・法然より与えられた「善信」の法名を捨て、「親鸞」と自ら名告るのは不自然である。

2 妻帯

    妻帯の時期などについては、確証となる書籍・消息などが無く、諸説存在し推論である。

    当時は、高貴な罪人が配流される際は、身の回りの世話のために妻帯させるのが一    般的であり、近年では配流前に京都で妻帯したとする説が有力視されている。

3 法難

  このくだりで「行空」が出てきます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E5%85%83%E3%81%AE%E6%B3%95%E9%9B%A3

 目下かささぎは親鸞より「行空」が気になるので、その部分のみコピペ。

しかし『六時礼讃』に節をつけて勤める法会で人気を博していた安楽房遵西法本房行空が、非難の的にされた。法然は、行空を破門処分するもののの事態は収まらなかった。

この文章の要点、当時の最高権力者であった後鳥羽上皇が寵愛していた松虫・鈴虫というふたりの女性が、世を憂いて出家してしまう。それを知った上皇は激怒していかりの矛先を僧門籍へ持っていった、という流れの一部。てことは、おもいきり単純なかささぎ語にしてしまうと、ただの男、オスとしての後鳥羽上皇の嫉妬がふたりのきれいなお坊さんのちんこのじゆうを断ってしまった。ということになるんだろうかなあ。おおっと、放送禁止用語でした。下品でごめんなさい。何しろかささぎですから。

5 行空(ぎょうくう)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E7%A9%BAより丸ごとコピペをごめんなさい。

ところが翌年(1205年)、興福寺の僧徒らが『興福寺奏状』をもって再び専修念仏停止の訴えが起こると、行空は「一念往生義」を立てているので流罪にせよと訴えられた。そして建永元年(1206年)、遵西とともに流罪に処せられ、法然より破門された。なお、この2名の流罪では収まらず、翌年承元の法難へと発展した。

※かささぎの独り言:

このあいだ、星野村の黒木谷、こうやんどう「高野堂」からみで行空を検索したとき、上記の項目はヒットしませんでした。その後どなたかが書き足されたものと存じます。ありがとうございました。だけどだけど、どなたか、ふたたびかささぎの次の疑問に答えてはくださいませんか。

一つ。女犯の罪で行空はもうひとりの僧とらせつの刑に遭う。とあります。↓

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%88%91「宮刑」

実際の執行例としても、土御門天皇の代、1207年(承元元年)に法然の弟子である法本坊行空と安楽坊遵西が、女犯の罪で羅切の刑に処せられたとの、「皇帝紀抄(巻7)」の記録がある。

このはなしと行空の流罪と恋多き小侍従との関係はどうなるのでしょうね?
なにか小説みたいなものでもあればいいのですけど。
高野山別格本山講坊という名のお堂を行空が持ったのは○○(かささぎの旗にはアップしてない写真にあります星野の高野堂=行空上人のお墓にあった碑に書かれている、よめない、もう一度行って要確認、でもまだ日本一の玉露の茶摘が終わっていない、大事なときであるため、行くにいけない。というのはど真ん中にあるわけです、玉露園の)と小侍従の請願により。とありました。

あー。なにがいいたいのかさっぱり要をえない文になった。
ごめんなさい。親鸞で読まれていた方、ごめんさない。
途中で行空になってしまってごめんなさい。
ともかく、謎だらけで、こんぐらがっています。

親鸞が法然に許されてというか、夢のお告げに聖徳太子が現れて、妻帯をすすめられた。
ってことだけどもさ。
じゃなんで行空は女犯の罪でおちんこをちょんぎられちゃうの。
ってはなしになるんだよね。
ほぼ同時代のことでしょう。
わけがわからない。

このへんのところを、どなたか、資料もそろえてきちんと説明してくださいませんか。

かささぎは、この文章を、おととい帰省された歴史の先生という神津呂伊利さんから「久留米の六角堂広場には昔ほんとうにお堂があったんだ」って聞いてから、ほんとうの「六角堂」、聖徳太子に立ち戻り、書いた次第です。

本来の六角堂:http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%85%AD%E8%A7%92%E5%A0%82/

リンク記事:「星野村高野堂」http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-12.html(写真、この頁の上部にクリックするところがあります。このほかに五枚ほどありますのでどうぞごらんください。)

ご詠歌  頂法寺=六角堂http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%82%E6%B3%95%E5%AF%BA#.E5.BE.A1.E8.A9.A0.E6.AD.8Cより

  わが思う 
    心のうちは 
    六の角 
  ただ円かれと 
  祈るなりけり

2009年5月 5日 (火)

御井の山の城跡

2009年5月 3日 (日)

エメさんを待ちながら

エメさんを待ちながら

心霊写真ではありません。ご安心ください。
外の景色まで写ってしまいました。
エメさんと三時に納楚の31(アイスクリームやさん)で待ち合わせ。
自転車で五分です。むすこなら二分かも。
おこさまとカップルばっかりがうじゃうじゃ。
こんなに客が多いって知らなかった。
向かって右の通りが国道三号線、写真を撮ってる私の背後を走っているのが羽犬塚から黒木方面へ抜ける442号線。
ここは四つ角でして、町内でも最も交通量の多いところです。
信号は「納楚北」。

さて、お待たせしました。
エメさん!
コメントくださる印象とぴたりと重なる!
かささぎ語では、エスティローダーみたいなかんじ。
エスティローダーってなんやねん。笑
ぱっと見、華やかなかたって意味よ。
んが、座って話しておりますと、とっても落ち着く女らしい方です。
混雑をものともせず、一時間半も百円のコーヒーだけで話し込んでいた。
それができるとこでした。お店の人ありがとう。

エメさんの話で印象にのこったこと。
娘さんが壱岐にとついでおられるんですって。
その壱岐ですが、島内に二千もの神社があるんだって。
あっと驚く神社の数です。
金印の島だし、ソラの死んだ島ですものね。
曾良。芭蕉の奥の細道の旅に同行した。*
(いつか行ってみたいんだよ、ソラのお墓に。)
それと、エメさんが話してくれた。月読神社。
壱岐の月読神社は全国のつきよみ神社の総本山だって。
それなのに、手の平にのるくらいちいさいんだって。笑
想像を絶する。見てみたいなあ。
壱岐。しらないことがいっぱいだ。

壱岐の月読神社サイト:http://www5.ocn.ne.jp/~tukiyomi/menu.html

つぎにやめつひめ神社。矢部の。
エメさんの話を聞いて、はじめて行きたいなあと思った。
情けないことに、かささぎは八女人なのにその地名の由来となった地へいったことがないのであった。
これは自分の目が中央へばかり向いていたことの反省となって胸に迫る。
そのことをエメさんの話からさりげなく気づかせてもらいました。
八女津媛神社、むかしはとっても神秘的な場所だったんだそうです。
それはことばにはできないじげんのはなしで。
聞いていて、そう思った。
ひとにしられずひっそりとあるからこその真ってものがある。

話していたら、あっと驚く接点があることを発見しました。
だけど、ここには書きません。
ろいりさんと同学年らしいことも判明しました。
明日ろいりさんへ渡すノートのコピーをあずかり、再会を期して別れました。

*

村松なんとかって人の書かれたソラの本を読んだことがあります。
お役人だったソラは幕府のお金をたくさんもらって旅のお金にあてた。もちろん芭蕉のぶんもあずかってた。今で言うなら百万近い大金を枕元においてどきどきで歳晩を寝た、っていう感慨を詠んだ句もあるらしく。記憶で書いていますんで間違っていたらごめんなさい。
どういう仕事をしてたのだろう。諸国の事情をさぐる旅だったのは間違いないのでしょう。
これ、とても面白い本でしたので、いつかきちんとご紹介いたします。佐賀図書館の本。

2009年5月 2日 (土)

オフ会への道談義

ほんなこて。
だけん、ろいりさん、もし時間が少しでもあけば、すぐこのブログコメント欄でよかけん、連絡してくだされ。ぜったいかけつけるから。えめさんせいこさんぼんまあおつしろうはむりとしてもともかく声かけられるしこ声かけてみんなでめしくお。うんそうしよう。
ついでに六句だけでも蒔こう。←したごころ

 よかですよ、なかなか計画が立たんかったけど、いろいろ事情あって、東九フェリーで5/4早朝に新門司港に到着、その後70ccのカブに乗って久留米へと向かう予定。5/4の昼~夕方で久留米市内ならほぼ大丈夫でしょう、連絡先は…さすがにここに電話番号や携帯メールアドレスのせるわけにはいかんけんね。また連絡します。

了解。わかりました。ではお気をつけて。

おもいだしました。
はじめて夫が八女にきたとき。
50のバイクで博多からきました。
茶畑まで歩いて迎えにいきました。
あれから何年たつだろう。

4日ですか。まだシフト表をもらってないのでなんともいえませんが、善処します。
稼ぎ時なので・・・相談してみます。

オフ会>>せっかくのチャンスなのに、みなさんごめんなさい。。4、5日は岩国に行きますので、、。
呂伊利さんに会えなくて残念です★
こちらのみなさんとはいつか会えるチャンスがあると思います☆

マネージャーと相談して、4日お休みになりました。どういった形で連絡を取るのかわかりませんが、待っています。詳しいことは明日カササギの長老と話をします。
エメさん、お会いしたかったけど、又の機会にね。岩国は航空ショーですか?

よかった。ぼんさまありがとうございまする。
ひとりならできかねることです。
ところで。ついに長老、、、、でででででいやだで。
その長老は前田師に説教うけまくりですわ。
文体、てぬきするな。と。よれよれですものね。
最近わたしはブログ体というからだになっているんだそうです。そうではないかとおそれてはいたんですが。
そのうちだんだんうきあがってきます。

えめさん。いわくに。はじめて目にする地名です。
レポートおまちしてます。

ごめんごめん、私より数ヶ月若いのにね。
長く携わっているってことなんだけど。
前田師にいろいろ言われてるんだ。
窓口でもあり、愛弟子でもある。
さっぱりはしてはるけど辛口やもんね、
一直のこと、又書いてね。

 4日ということでトントントンと話が進んでいますが、70CCではスピードも出ず高速にも乗れないうえに、方向音痴の私なので、久留米に着くのは10時頃かも?そして3時頃には先に帰省しているヨメを高良台方面まで迎えに行き、櫛原の私の実家で両親の相手したりということもあるので、昼間の数時間ぐらいしか取れないと思っておいて下さい。せっかくみなさん都合つけてくださったのにごめんなさい。でも、大胆に7・8と年休取ることに決めつつあるので、5/8の朝までは久留米にいることになりそうです。この間の予定は姉や甥次第で、これはまだ未定。
 岩国と聞いてすぐ思い浮かべたのが米軍基地だったけど、三大奇橋の1つ錦帯橋が近くにあるのではなかったですか?昔「おいでませ、山口へ」という観光CMがあったのも思い出しました。三大奇橋のあとの2つは、徳島のかずら橋、山梨県の猿橋、いや日光の神橋という説もあるそうな。おっと、私は全部制覇した!猿橋はバイクで日帰り十分というところだが、JR中央本線の駅や中央高速のバス停もあるのに、ほとんど観光客が訪れないところ。

sunこんにちは
ぼんさん、岩国は航空ショーも計画してますが、知人に会うことと街並み散策がメインです。
宇野千代さんの故郷を一度訪ねてみたいと30代のころから思っていました。 念願なのです^^heart

呂伊利さん、ゆっくりご滞在ですね。 故郷を楽しんでください。
岩国>>錦帯橋も行きますよ^^
徳島のかずら橋>>こちらもいつかはと思っていますが、いずれなくなるとも聞いたことがあります。
早く行きたいものです。
ひめさん、岩国は城下町のようです。
知らない街をぷらぷら歩くのが好きですので、たっぷり歩くつもりですdenimriceball
レポ書きますね^^camera

4日、主人も暇そうなので、連れて行こうと思っています。上手く会えるといいですね。
高良台って家の近くじゃないですか。相合の近くにカラオケやさん、ありましたよね。ふ・ふ・ふ・

ろいりーさんえめさんこんばんは。
岩国、思い出しました。
うかい。
さびしい。
さびれている。
きんたいきょう。
・・・二年前連句大会があって。やまぐちで。
そのとき、とおりぬけた町だった。ありゃあこれがかのゆうめいな・・。とおもって。
ところで。バイクは車より早く走れていいですね。
高速が混んでいてびっちり後ろからと横からとつめられて走っているとき、すぐ真後ろにぴたりと大きな単車が割り込んできた。バックミラーでみますと、そののっかってる人、たってる!つまり中腰。っていうか腰うかせてる、自転車でいうなら立ちこぎスタイル!
ハラハラしてこのひとへんじゃないやろかとおもって。どっかいってくれんやろか。でもずうーっとおなじかっこでついてくる。びたーっとつけて・・。あのときはこわかった。追撃される人のきもちだった。
バイクのみなさん。そういうことは、やめましょう。
あと、バイクにのりながら、大きなくまのぬいぐるみだっこするのもやめましょう。(くるめにいる、大のおっさんなのに超へん)目が点になるから。気がちって、あぶないんであります。
いやー。つい関係ないことまでかいてしまいました。
ほんとにこのろいりって人は二上がりもんさんみたいなので、つっこみたくなるかささぎの畑であった。

えめさんは宇野千代ファン。
その理由は・・?きものですか小説ですか生き方ですか。

cloudこんにちは。夜は雨かな?
宇野千代さん>>30才の頃、知人から借りて読んだ本が「生きて行く私」。
内容にね、もう、「ぐっ」ときました。
読みながら、装苑に連載されていた着物の話や、昔 叔母の本をみていた頃に載っていたエッセイとかですでに見知っていた人だとわかりました。
生き方は凡人にはとても真似ができないけれど、
ものの見方や考え方にとても心ひかれます。
「人生はあざなえる縄のごとし」この本で千代さんの生き方の筋を伝えるものだと感じました。
以来、自分の中にこの言葉を銘としていますclub(辛い事を経験したあとに、こそっと銘をひっぱりだすのよ^^)
小説よりエッセイのほうを読みましたが、映画は「おはん」を見ました。
幸吉役の石坂氏はこのぐだぐだしたどうしようもない男をみごとに演じていました。
女がしっかり者だから男が甘えてだらしないのか、どうしようもない男だから世話をしてあげたくなるのか・・「男と女」とは、現実でも不思議な世界☆★☆

↑禍福を入れ忘れましたsweat01
人生<=>禍福はあざなえる縄の如し☆

もひとつ↑私も以前3号線で、このハッピーそうなくまおじさんを見ましたmotorsports

 バイクの中腰、立ちこぎスタイルは、スピードが遅かったり前傾姿勢に疲れた時、そのほうが体に楽だからです。ちょっと違うけど騎馬民族の馬の乗り方も中腰、立ちこぎスタイルなので、わかってあげて下さい。かささぎさんに身に覚えがないのなら、追撃しているのではないでしょう。大きなくまのぬいぐるみは、確かに怖い、精神的に。

ろいりさんは論理的ですね。
ストンと納得できます。
中腰には、そういうふかい理由があったのですね。
痔になったわけではないのか。
騎馬民族がこんなところで出てくるとは。
おしゃかさまもどひゃーです。
ところで。閑話休題。
ちょっとのあいだに、ふえている!しかもとんでもなく飛躍充実。なにがかって。「こうやの宮」関連記事。九州古代王朝。いやあずうっとさっきまでそれをのぞきこんでいました。月9ドラマみようと思っていたのに忘れてしまったよ。(きのうの「ぼくの妹」はシリアスでおもしろかったですね)
一方。
おととい知ったことですが。
星野の黒木谷農道のちかくにあるらしい、こうやんどうさん、村人のはなしから想像すると高野の堂さん。だれを祀っているのかをききもらしてしまいました。現地にいって調べてこようかとおもっているところです。かささぎの意思にかかわりのないところで、いやおうなく開けてゆく地平。七百五十年忌が昭和57年ということは、その人物はいつ亡くなっている?えーとえーとざざざっと計算して1222年ころかな。いつじだい。なにじだいよ。高野山に関連する人物が星野の黒木谷で亡くなっているってことは。だれ。わざわざ高野山の本覚院からもおまつりにくるほどの人物って、いったいだれ。

なにを言っているとあっけにとられるでしょうね。
言っている本人にもよく見えていないから、人にわかるはずがない。笑

エメさん、バイクはサイドカーつきのド派手なものでした。くるめではゆうめいなひとなんですか。

えめさん。私もよんでみます。宇野千代。

nightこんばんわ
私が以前見たくまおじさんもサイドカーでしたよ@@

1222年頃は鎌倉時代かな。 市内にも鎌倉時代からのお寺がありますよ。
鎌倉時代>>昔からみょうに心惹かれる時代です。
衣服や文化など絵巻ものに庶民が描かれているものに興味が・・。
着物も動きやすい小袖に前掛けファッションとかネheart02

tv昨夜のドラマはまりそう☆脚本家は池端俊策氏。大作書いてた方みたい。。

book宇野千代さん読みますか^^

おはようございます。
昨夜この頁をひらいて文章うちこんでる途中で寝入ってしまってた。とほほ。
ぼくの妹、長澤まさみがシリアス、かわいいだけだったのが、ちょっと脱皮。ともさかりえ、ラストで死んでいたよね。つぎ、みたいね。むかしむかし、つぎはどうなるんだろ。ってわくわくして一週間まちかまえてテレビの前でみんなで正座してみてたころがなつかしい。あのころといま、たましいのからだがすっかりいれかわってる。とくにかささぎはブログ体ってからだになってしまった。はらだけまっしろのあーおかからだで浮遊するとです。いろんな雑多なもんばどっからかあつめてきて。
市内にもある鎌倉時代のお寺。
それはどこですか。

sunおはようございます
ブログ体>>この時代、、きっとみなさんそうかもよ^^pc
長澤さん>>数年前の朝ドラ「さくら」の時もかわいかったです~cherryblossom
日曜のこのドラマ、掛け合いのテンポもいいし、静かな場面の表情もいいし、なかなかですね☆☆☆
お寺>>幽霊の掛け軸で有名な正福寺さんです。
岩戸山資料館の石馬はもともとこのお寺にあったものだとなにかで読みました。 そうしてみると鎌倉よりもっと前かしら?
では今日もお仕事、ほどほどにお励みください。
当方、励みすぎて高いところにあるコーラのケースが手の甲に(ガンimpact)落ちてきました・・・(^_^;)

おおそりゃ災難でしたね。
コーラのケースがなんでまた天井からふってくるんです?
ゆげがてんじょからぽとりとせなかへ。でしょうもんが。
手の甲はむこうずねよりは痛くないとしても相当いたいとおもいます。

きのうもまた十時にはおやすみしていました。
徹夜して回復するのに時間がかかるようになった。

 古い話題に戻るけど(と言っても1週間前)、ぼんさんの家って荒木なんですか?相合って、相川(あいごう)のこと?久留米から行くと高良台の次のバス停が相川ではなかったですか?小学生の時、父のスクーター(ラビット!)に乗せられてこのへんに来た時、へえ~「あいかわ」じゃのうして「あいごう」ち読むったいね、ち思った記憶がある。朝露がきれいだったのがなぜか印象に残ってます。
 で、たぶんこの近くに「荒木のおばしゃん」と呼んでいた親戚が住んでおり、何度か行って泊まったこともあったなとか、ここが典型的な農家で母屋の近くに馬小屋か牛小屋があり、ハエが飛び交う中を、私は「郷にいれば郷に従え}(そげな難しか言葉は知らんじゃったろが)でバリバリ御飯のおかわりしたが、神経質な弟はあまり食いきらんやったこと、私が初めてちゃんと泳げるようになったのはこの近くの川でだったことなどなど、様々な記憶が蘇った!その後「荒木のおばしゃん」は父の10歳上の姉で、だから私たちに親切にしてくれたということなども判明したが、その頃には引っ越されて今はその家もなく、「おばしゃん」どころかその息子(従兄になるがほとんどつき合いなかった)も亡くなって荒木とは縁遠くなった~と思ってたらヨメの実家が近くで、数年前には高良台~広川町~相川周辺を道に迷いながらランニングしたこともあります。意外とぼんさんの家の近くも通ったかも。
 いや、朝っぱらから長々とすんまっしぇんでした。

ろいりさんごめん!
ぼんがお返事してくれるかおもいよったけど、きづかなかったね。コメントにうもれちゃったね。

ぼんが書いていた相合、すぐ相川だと気づいたけど、まいいかと。あいごうといういいかたが哀号を連想しかささぎは五木寛之のゴキブリの歌なんぞを思い出すのでありました。

 かささぎさん、ナイス・フォロー。ところでメルアドの件、東京離れたらパソコン・メール使えないので携帯アドレスでよかでしょか、また次回にでも。
 それにしても新門司港から久留米までの道を調べたら、どこをどう通ってきたらいいのやら。20年以上前に香春岳の近くを通ってきたら、甘木の手前がクネクネの上り下り道で困ったのを思い出した。九州道路地図ば買わにゃいかん。

ろいりーさん。ぼんさんは、荒木在住でも、荒木出身でもありませんよ。ま、現住所が荒木と同じ久留米市ではありますが。
相川と書いてあいごうと呼ぶ。
地元の人間しか読めませんね。

で、わたしは広川在住ですが、国道3号線じゃなく、国道209号線が生活圏内です。相川に近い。自宅から車で3分も行けば、相川の信号に出ます。あのあたりもすっかり様変わりしましたからね、迷子にもなるでしょう。

あらあらごめんなさい。出遅れましたね。
相川もまちがってたのね、重ねてごめん。
相川にはせいこさんのほうが近いですね。私は10分弱かかります。

どこで何時に待ち合わせるのか、そろそろ決めないと。六つ門の六角堂でxx時でもいいですけど、呂伊利さんのバイク次第ですもんね。パソコンのことは良く解らないので、窓口はかささぎさんになってもらって、かささぎさんからの連絡を待ちます。よろしくね。


高良山の真上でまちあわせ、ってのはどうよ。
きついじぇ~

あ~、つつじがきれいでしょうね。
まさか徒歩で・・・といってるんじゃないでしょうね?
15年ぐらい前、子供たちと一緒に登りましたが、きつかったじぇー。最後はやっとという感じでした。
元自衛隊員という人とお知り合いになりましたが、毎日上っているとのこと。退官後も。よく覚えてないけど、15分ぐらいで登るとか。
又,南筑高校の県道部員は朝練の前に登り、毎日鍛えているとか。走って上ってますもんね。余談が長くなりました。
連絡待ってますよ~。

cherryこんにちは
ろいりさん、お気をつけていらしてください。
先日昔のノートのことを書きましたが、、ひょっこり出てきましたよ♪(真剣に探すまえにほんとに「あら!なんでここに?」みたいに^^)
高校生のころ、クラスに提案して「青春書き込みノート」を教室の後ろ棚に置きました。
それは数冊続いて、終わるたんびに先生に持ってもらう意見があったので 渡していました。
最後のノートの時、はたして先生が大事にもっていてくれるのか不安に思いましたので(書いたほうは思い入れがあるけど先生にとってはどうかなと・・)
最後のノートは仲良し以外は誰にも言わずに私が持ち帰りました(ノート提供者の強みで^^)
書き込みの後半は数人の仲良しグループばかりがメンバーで、自宅に持ち帰って書いたりしていたので内容もかなり私的だったしネ・・(^^ゞ・・恋、おしゃれ、音楽、エッセイ、、などなど ☆彡

なので、オールナイトニッポンの実況書き部分をひめさんに添付メールしますね。
シミもそのままうつるし汚いヘタ字ですが、ご勘弁を★
長々書いていた記憶があったのですが2ページくらいです。
ではのちほどにmusic

エメラルドさまのノート は あしたかあさって 借り受けにいきますか
じつはかささぎ、ほんとのこといえば 社交的な人間ではなーいのだ
たぶん 年代ものの目には かささぎは 発展家 と映るようでありますが
この発展家て言葉懐かしいです
青い山脈あたりにでてきそう

nightこんばんわ
ノート後半はほとんど私物化して書いていたのでかなりcoldsweats01sweat01sweat01ものです。
なので今回は、実況部分のコピーだけでいいでしょうか☆
添付ファイルは目に見えましたか?
見えにくかったらコピーをお渡ししますね。

明日とあさって>>今日、娘の嫁ぎ先のおばあさまが亡くなられたのでお通夜、葬式で遠出します。
一度お会いしたいとは思っていたのですよjapanesetea
1、2、3日のいづれかでどうですか? 場所と時間は昼でも夜でもひめさんに合わせますclub
こんどのメールにケータイアドも入れときますね。
もちろん電話でもOKです。

社交的>>どっちかっていうと、こんな人のほうが少ないんじゃない?
みんな素朴でドキドキな人がほとんどかも(*^_^*)scissors

よみました。
読めました。
実況ノート、すばらしいです。
そのままあの時代の人になれるノートですね。
竹橋乙四郎の大学時代の文芸誌を読んだときにも、それは生々しく感じたことですが、エメさんのこの深夜放送オールナイトニッポン実況中継の記録は、予想以上にすばらしい。
私は連休という名の一時帰休休暇を賜りましてございまするゆえ、なんとかここに乗せてあげたい。

sunこんにちは
高校時代のらくがきノートなのでかなり恥ずかしいですよ~coldsweats01
あの頃は「書きたい衝動」がかなりありました。
深夜とか授業中とかに主に書いていましたsweat01
友人達やお互い、書いたものにつっこみを入れながら、漢字の間違いは訂正しながらの楽しい時間でした。
書き込みノート>>今だとブログがこの代わりをしてるかもだけど、
書き込む人それぞれ字形が違うし性格の個性の楽しさもあって、とても温ったかみがあります。
あの時持ち帰ってきてほんとによかったと思ってます^^☆
掲載はかまいませんよ。。かなり恥ずかしいのが本音ですけど。。
せっかくなら、ろいりさんが見られたあとのほうがいいかな~と思います。memo
△小さな薄いつっこみは写っていないかもです。。

私もクラスノート、持って帰ってます。
同窓生が集まった時たまに見せるんですけど、誰が書いたかわからないのが1ぺーじだけあるんです。解っていても言えないのかもしれませんが。
エメさんのノート、見てみたいな。実物も見たいです。

ブログは文字の羅列だけかもしれませんが、やはりそこにも人格いえ性格が出るように思います。
いろいろ想像してますので、それが当たっているかいないか、会って確かめるのも楽しみです。自分もどう思われているのやら・・・おとろしい。(福井弁かも。)

ただいまー!
今日は母をつれて、上津の山の中にある「おやざと」へほとけさんまいりにいってきました。
母の里は黒木の笠原だったけど、三十五年くらい前に土砂崩れに遭って久留米に移ったのです。
最初は南薫町、ついで高良台、さいごに上津に家を建てました。伯母はひとりでその山中の広い家にいます。時々リュックをしょって歩いて25分のルミエールまで買出しにいくそうです。草むしりさせたら右にでるものはいない。

ところで。
ぼん、みせてよ!!そのノート。
去年ちょっとだけみせてくれたのがそれ?
それじゃ、エメさんの言われるとおりにしましょう。
ろいりさんへみせてから。
らんちゃんから今日はメールがきて、こんど八女学院である金美齢講演会にいっしょにいく約束をした。ぼんも暇ならいこう。十六日だったかな日曜の昼だよ。

ほほお、金美齢女史の講演会か。
私は早稲田大学某教室で聞いた。
日本人の気がつかない日本のいいところをびしばし言って下さると思います。
で、びしばしなんだけど、私の記憶にあるのは、世界中回って物を食べた結果、パンだってチョコレートだってケーキだって日本の物が一番おいしいよってとこだけ鮮明に覚えてます。

さくらさん
こないだたかじん久々にみていたら、金さんは欠席だったけど、国民放送の台湾をめぐる偏向報道を、出演者がぶーぶーいってらした。
そのNHK番組をみなかったので、なんともいえませんが、台湾は舅一家が終戦近くまで暮らしていた地、夫の父方の祖父(大分・宇佐出身)は台湾の学校の校長でした。だからなのかもしれないですが、ずっと毎年舅あてに台湾から同窓会の案内みたいなものが来てました。非常に丁重な扱いでした。いろいろと話をききました。
あちらの人は日本人を尊敬してるのがよくわかりました。私は夫の父が好きでした。寡黙でとっても達筆だったし、胎の座ったひとだった。
十年ほど前に肺気腫でなくなりました。

5月17日日曜日かい?
その日は福島高校の同窓会でもあるけどむしだね。
その日は娘の出産予定日。予定は未定でなんともいえないが、行きたいけど行けないと思う。せいこさんのNPOの乙四郎先生の講演会はいつ?その頃じゃなかったですか?
ノートはいつか見せたと思うけど、又持っていくよ。あれを読んで、消挙はんの才能に気がついたのでは?
エメさんほどではないが、私もよく書いていた。詩集もあるんだよ、1さつだけ。
まだとってある。未完の小説もある。これを仕上げたいけど、時間がたちすぎていて書けないでいる。
恩田陸さんの本、もう直ぐ読み終える。
感想文は又の機会に。

4月28日付書き込み訂正

県道部員改め剣道部員です。
何回も目にしていたのに今気がついた。
あほじゃね~。

ぼん、五月十七日は予定日だったね!
そわそわしてる日だったんだ。
きちんと予定日に産まれるといいね。
せいこさんに尋ねたら七月だったよ乙四郎講座。
ううよかった・・金さんがみたい!

町の広報誌に、八女青年会議所主催の金美齢女史の講演会がついてたけど、5月24日(日)16時開演になってわよ。八女学院体育館で、入場無料。演題は「呼びさまそう 日本人の心」だった。らんちゃんが言ってるの、これじゃないの?日時が一週間違うけど。笑

ちなみに、乙さんのマブダチの、保健医療経営大学学長の国際理解のための講演会は、つぎのとおり。
 と き  7月21日(火)9;30~11;30
 ところ  広川町中央公民館にて。
演題「JICA(国際協力機構)活動体験者による実情報告」・・世界を見る目が」変わる異文化理解のポイント・・・です。お時間があられる方はぜひどうぞ。入場無料!

おわ。・・・・

ひづけがまちごうとるやん!ううう
ぼんはあほだとおもいよったばってん、じぶんのほうが数倍あほだった。

 ご無沙汰しました、連休前の忙しさと荷物が片づかんのとで、パニック状態、いや一番困ってるのが通勤距離・時間の長さです。1年で別の島に移してくれんやろか。
 携帯アドレス入れておきます。場所は、八女の地理には詳しくないので、と思っていたら「六角堂」という話が出てきて、なるほどここならわかりやすい。ロイリー跡地でもいいけど、他の人たちが知らんか。ところで1つだけ心配というか何というか…皆さん女性なんですね。この年になっても女性と話すのは苦手で、若い頃はこの性分で損してました。さすがに今は昔ほどではないとしても。男性も来ていただければいいのですが、まあ、あとはどうなろきゃあなろたい。

 あわわ、まちごうて、アドレス(URL)のとこに携帯のメルアド入れて空の文送ったかも知れん。そん時は無視して下さい。

nightこんばんわ
ろいりさんいよいよ里帰りですね^^
当時、オールナイトニッポンの前にKBCのヤンポーとかRKBのユー&ミーを聞いていませんでしたか?
ノートにはそれも少し書いていました。
いまじどんとか^^☆彡 今もお元気なんでしょうか~?

お役に立つかどうか解らんばってん、うちの旦那を連れて行きます。三潴弁しかしゃべりきらんけん、よろしくおねがいします。

まあ、あとはどうなろきゃあなろたい。

またでた!
ろいりさん、あーたおかしかぁ。

そいばってん、これが一番九州人らしかとこ。
ここが共通なら、心配せんちゃよか、どうかなるくさい。

ろいりさん。
メールアドレスちゃんと届いてました。
じつは携帯ではなくパソコンへ送信したいものがある。それはエメさんが送信してくれた深夜放送実況中継記録一回ぶん。三枚のノートです。
添付資料としてつけて送信したい。
コピーでは字が浮き出ません。
また、パソコンでなら拡大もできますから、ちゃんと読めるはずです。
個人の日記ではなく、複数へ向けて開かれているので、微妙な味わいが面白い。個であって、公。
まるで連句みたいではありませんか。

それと、もう一個ろいりさんへお願い。
くそいそがしかろうとはおもいますばってんが。まあこらえてきいちゃり。
あつかましいお願いではあるのですけどね。
以前紹介くださった、「アメリカの歴史教科書問題 先生が教えた嘘」、これを連休中に読もうと思って、図書館をあちこち探してみました。しかし、ありません。そこで、古本で買おうかと思いました。あまり安くならない本。てか送料はらったら新品買った方が安いよな値段。
わたしがよみたいのは、序章です。
序 文 なにかがひどく間違ってしまった 富田虎男訳
このところだけでいいから、写しを取ってきてくださいませんか。
それを読んでから、買うかどうか決める。
ってことで、いつ出発なさるのですか。
そちらにいらっしゃるうちに、パソコンのアドレスを教えてください。

ぼん、せいこさんへ。
六角堂広場に駐車場あったっけ。
いまから調べる。

追伸。
竹橋乙四郎にも声かけた。
そしたらろいりさんとは逆でそっちへきのう帰った。
なんとおそろしや、軽乗用車にのって東京くんだりまで行くんだと。そういえばおつしろうの小さな車のナンバーはあっち方面だったんだよねえ。
のびたくんにしかできないことだ!笑

六角堂に駐車場はないと思う。井筒屋駐車場か、杉本か、小頭町公園地下にしかない。元のショッパーズの契約駐車場もある。杉本が一番近い。

は?
そのオフ会とやらのメンバーには、
わたくしも組み込まれてるわけ?
わたし、まったくその気がなかったんで、その話題にはあえてスルーしとったとばってん・・sweat02

そもそも、日時もよう覚えとらん。
いつじゃったっけ、それ?

ほいよ、せいこさん。
4日の午前十時頃。
あいてたらでておいでよという趣旨のもの、強制はいたしません。
せっかく都から70㏄バイクでふんだふんだしてこらっしゃるとですけん、多い方がよかちおもって。
歓迎って書いた旗を作るべきかも。笑

ところで、保健医療経営大学のことが今日新聞に写真入りでのっとった。
小アジサシの写真、とってもうまく撮れていた。
かなり近くまで寄って撮ったんだろうか。
望遠でどんぐらいまで寄れるのかな。
鳥や虫の写真は接写ががばり難しい。
ブログでは大江希望さんの蜂や蝶の写真がすごいと感心している。
西日本新聞、今日は蜘蛛研究者で独身のまま亡くなった女性を特集してありましたが、そのなかで、ひさびさに昆虫学者江崎悌三博士の名前を見つけました。博士のもとで下働きしながら、自分の研究をこつこつと続けた、と書かれていました。すばらしいです。なんのためでもなく、そうしたいから。

あいよ、了解。
気が向いたら来るね。

 アジャパー!かささぎさん、いろいろ事情があって「明日の朝この町を、僕は出て行くのです」(井上順「お世話になりました」より)、もっともまた帰らにゃならんけど。さすがに70CCバイクはきついので、東九フェリーでのんびりと2泊の船旅、これで睡眠不足解消してきます。というわけで、パソコンアドレスはお会いした時にでも~別に匿名性に隠れてるわけではないのでご理解を。それから本のほうも、近所の八王子図書館で借りて読んだので、手元にはありません。東京に帰った後、また借りて、FAXかなんかで送ることはできますが。私がメモした部分を一部紹介すると次のような感じ。

・高校生は歴史嫌いで、特に非白人生徒は米国の歴史に嫌悪感さえ抱いている
・高校のグリークラブで「歴史の本をのぞいてごらん…われわれが誇りを高くもたなければならないかわかるから」と聖歌が歌われる
・すべての大統領に対して一段落を当てている米国の歴史教科書
・歴史の専門家ではない人が書く歴史教科書
・ベトナム戦争の結果、『アメリカ国家の興隆』を『アメリカ国民の勝利』と改題~戦争には負けたが本のカバーでは勝つぞ!という意味を込めたこの教科書が販売市場の1/4を占めている

 とにかく、今から帰省の用意、ありゃりゃ、今携帯メール見たら、いつの間にか親族~兄弟ならぬ姉弟会議までやることになってしもうとる。この連休に帰省することをちょっと後悔、皆さんにお会いできるのは嬉しいけど、もうバタバタであきまへんわ。
 ぼんさんの旦那はんは三潴出身ですか、三潴高校出身者が大学のサークルの後輩に2人いました。いや、そんな話もしたいけど、関西フォークについて、また今しござるバンド活動についてなどお聞きしたいです。場所は久留米市内ならどこでも結構、旧井筒屋前でも、旧新世界入口でも、旧一番街たがみ書店前でも。ハハハ、久留米の廃墟地ばっかりや、「廃墟の鳩」が飛んでくるかも。

sunおはようございます。
廃墟の鳩>>なつかし~♪ 
ノートはプリントしたら薄かったのですね★ごめんなさい。
コピーしたものをお渡ししましょうか。
今日3時頃お時間ありますか? どっかでお茶しません?
ぼんさんやseikoさんはお仕事かな?
11時頃電話しますね^^mobilephoneドキドキ

タガミ書店ですって?

あのメインストリート沿いにあった大きな書店?
裏口は一番街にあってどっちからでも入れたんじゃなかった?
「女性セブン」をよく買ってた。なつかしい!

オフ会、インターネットの正しい利用の仕方のお手本のような会やね。
君たち。

アメリカの歴史教科書、私も図書館で探したくなりました。

残念、お仕事でありんす。お料理上手なエメさん、貴方の作られた夕飯が食べてみたい。かなわぬ夢ですが。

restaurantぼんさん、我が家用やけんお口に合うかどうか(^_^;)
そんなのでよければいつでも。
出張でもしましょか。。
今日はお仕事ですか。 GWはいそがしかでしょね、、。
お気をつけて^^☆

2009年4月26日 (日)

こどもん記憶、そうづつ談義

ろいりさん。それ、まちごうとらん。かつがつでたべる。ち、いいよったですか。
それをいうなら、あんたどんなめんめんですきなもんばたべんね。というのが最もポピュラーなちっごべんじゃなかろうか。
さくらさん、そうです。かつがつは、かつがつたい。

えめさん。さくらには一番きれいな年頃がある。ほんとうにそうだろうとおもいます。京都円山公園のしだれさくらも二代目でしたが、写真とはまったくちがっていてがっかりした。
熊本の一心行の桜も、落雷で樹勢が二つにわれたかんじになっていて、ことしはどうだったか見てないのでわかりませんが、。きれいはきれいだったけど。
それと、見る人のこころもちでも、花は違ってみえるものではないでしょうか。しんからながめると、それにこたえるものがあるような。

貝殻の件

うちは庭が広いので今でも貝殻はコンポスターの横に「ポイッと」すてます。久留米市になって燃えるゴミにも入れて捨てますが、貝殻に気の毒なような気がして・・・考えすぎでしょう。

cloudこんにちは
かつがつ>>そのつどってことに使うとやろか?
方言は日常の言葉に「ぽろっ」と出たり、聞いとって「あっ」と気づいたりするばってん、、頭の中で文で考えるとなかなか出てこんですよね~。
たぶんどっかで使うとる言葉ち思います^^

 そういや「めんめんで」も使いよった気がするけど、こだわってgoo国語辞典で調べてみると、「めんめん」=面々は共通語のごたる。で、更にこだわり「かつがつ 方言」で検索してみると、何と地方によっていろんな使い方(意味)があり、長崎方言では「それぞれ」「各々」の意味で使うらしい。ありゃりゃ、いつの間に長崎方言が私の周囲に紛れ込んでいたのだろうか?で、これを↓で皆様にお示しできればいいのだが、やり方がわからん、「かつがつ」にこだわりの方は、お手数ですが面々で検索してみて下さい。

貝殻>
>子供の頃、大きいお兄さん達にくっついて水路でシジミば採ったことがあるとですよ。近頃のシジミはすっかり高級品でとても買われんですね~★
>牡蠣は沖の端から毎週自転車で行商のおっちゃんが来てありました。
祖母から言われてどんぶりを持ち、うちがき ば入れてもらいました。
こぶりのうちがきは甘くてほんなこておいしかったです。
自転車の行商さんはほかにも豆腐屋さんとか風鈴屋さんとか来よらしゃったです。
風鈴屋さんは賑やかな音と、とりどりの風鈴で大好きやったです♪
祖父は山苔にシダを組み合わせたものをいくつか作っとって、これに風鈴ば下げて縁側の軒にぶらさげて楽しんどりました^^cute

あ、それはです。コメントを書く。の下には内容の上に3段腹のように細長四角の空欄がありましょう。まず名前、メールアドレス(ウェブ上には掲載しません)、アドレス(URL)(任意)の順。ふつうは名前だけであとの二つには書かないことが多いですね。
そん任意のURLアドレスのところに、ろいりさんが引用したいちおもわしゃった頁の一番上に出ているアドレスhttp://ではじまる。をぴぴっとコピーして、はりつけたらよかとです。
ついでに、ひみつの連絡方法です。
メールアドレスにそちらのメルアド(ろいりさんのパソコンの)をはりつけてください。するとこちらの編集画面のとくべつな内ふところに出ます。公開はされません。機械をしんじてください。

>あんたどんなめんめんですきなもんばたべんね。

これ可笑しすぎ。

誰かの家に大勢の子供が集まってご飯食べることが多かった。田植えの時期とか。
すると、ばばちゃんがこんな風に言いよったです。

エメさんうちの曾祖父(今生きてるなら130歳ぐらい
)も苔で風雅なものを作って下げていましたよ。
園芸市や浅草などに行くと高価で売っていて曾祖父と結びつくんです。

グルメ番組や旅の番組では普通に「牡蠣」と言っていますが、そう言やそこらへんは「うちがき」といいますよね。

それにしても、なんでマニアックな言葉がどんどん出てくっとね。
カササギさんはいまどきの若者言葉もすぐ出てくるし。
おまいらって言うのも好きだし、おまーらとも言うよね。私も心の中は常にこういう世界です。
表面はすまーしとるばってん。

さくらさんの曽祖父さんも園芸の趣味ばお持ちやったですか♪
昔はクーラーとかなかったけん、打ち水とか苔の風鈴とか、、涼しく感じるための努力ばしよらしゃったですね。
行商のおっちゃんは牡蠣ば手に取って、目の前で殻からピックのようなもんを使こうてカンカンと打って中身ば出さしゃったです。
もちろんこの間に、おっちゃんと私にやりとりがあっていて、おっちゃんは病弱の祖母の様子を気遣ってくれたりしました。
今となっては懐かしか風物と風景です☆彡

さくらさん。見えるような気がします。
わるがきショーネン語はたたみかけるよなリズム感があって元気が出る。(苦労図2みにいきたい!)
えめさん。牡蠣は有明海にもあるとですか。
うちがきってはじめてきいた。内海の牡蠣っていう意味?知っている魚と貝はタイと鯖とアジとイワシとトビウオと赤魚ぐらい。貝はアサリとしじみ赤貝の剥き身くらい。
この赤魚ってのは何物なんでしょうね?わたしは大好きでしたが、あかざかなとか「あたまなし」というふうに呼んでいました。

waverestaurantうちがきは「打ち牡蠣」だと思います。
細いピックのようなものを殻の間に差し込み、トンカチのようなものでカンカンと打って出してあったと覚えてるとやけどネ。
有明海は豊穣の海(昔はそういわれてたやろ?今もかな・・)。福岡、長崎、佐賀、熊本の4県に面していてきっといろんな種類の魚が採れてるはず♪
養殖も多種で、盛んやもんね^^ 
11月ころの竹崎蟹もおいしかね~heart01
タイラギは有明海から全国に行ってたと思うけど、最近はね~★
絶対、ホタテよりタイラギファン!! でも、近頃は韓国産が多かね。味はいいとよ~☆
子供の頃はアゲマキがかなり特産やったと思います。
安かったらしくしょうちゅう食卓にあって、夫は見たくないくらい食べたと言ってました。
今は昔ほど採れんかもと思いますが、、。
時期は春の初め~今くらいまでじゃなかでしょか~。 酢味噌がおいしかですよ^^♪
赤魚>これはほとんど冷凍なので身がぱさぱさしとるでしょ。 なのでよく甘めの味噌付けにして2、3日後に焼いて食べるか、かなりこってり甘辛煮がいいでしょうか~happy01

エメさんの八女弁、さいこーですね。笑
わたしも負けとられん!
自転車の行商で忘れてならないのは、飴売りのおじいさんですたい。「つばつけでんでん」とか言う飴ば売りにきよらはったです。
ストローの先にやわらかい飴をつけて、息をぷ~っと吹き込んで、動物(といっても、小鳥しか記憶にない)のカタチにしてくれるもの。お宮の境内で遊んでると決まってこのおじいさんがやってきて、年かさのにいちゃんたちがズボンのポケットから小銭を出して買いよらはった。うちの母はこれが大嫌いで買ってはいけないことになってて、うらやましくてしょうんなかった。とうとう一度も味合わないうちに、あのおじいさんがこなくなった。
今から思うとずいぶん不衛生な食べ物ではありましたね。笑

めんめんに匹敵する言葉に、「そうづつ」という言葉があります。(そうずつかもしれん)それぞれというニュアンスのようです。
主人とばあちゃんの会話は私でもわかりにくく、今でも聞き返す事あり。今度実況中継せないかんね。

不衛生な食べ物といえば、試験管みたいな容器に入っていた毒々しい色のヨーグルト?みたいなのなかったですか。赤や緑があったように思います。竹串のようなものでかきだして食べていたような記憶あり。きっと人工着色料が使ってあったんだと思う。

つばつけでんでん、懐かしい響き。
買いましたが食べませんでした。
結核かもしれないおじさん(昔は結構高い確率で結核菌排菌者がいました)が息で飴を膨らませ、唾で形を整えるのですから・・・

cloudおはようございます
つばつけでんでん???ぜんぜん食べたこつも見たこつもなかですでんでんcherry
紙芝居の水あめもながめるだけで食べたこつがなかったです(禁止されとった)。。。この記憶はつい私に、スーパーや土産物屋でビンに入った水あめを買わせようとすっとですよ(^_^;)
近所に塩せんべいば焼きよっちゃる家があって、よ~買いに行かされよりました。
もうほんなこておいしいせんべーやったです。
駄菓子屋にぬりえノートがあって、小遣いもらうとお菓子よりぬりえのほうば買いました。
ぬりえノートの裏表紙に切り抜きの着せ替え人形が付いとってね、もうわくわくしましたheart

「そうづつ」・・・まるごと。ぜんぶあるだけ。
そうぞつ、ともいう。
けん使う。(父による実例)
きょうは、ぴーちーえーの廃品回収のあっげな。
あんやったちゃうちまで入り込んで来んやろけん、小屋にためとったもんば「そうぞつ」だしてきたぞ。
対訳)
今日はPTAの廃品回収があるらしい。
あの者たちは家まで入り込んで来ないだろうから、小屋にためていたものを全部出してきた。

ほよよ。たしかに荒い。不用品をもっていってくださる人たちをつかまえて、あんやったちゃ、はなかろうもん。きさまなにさま。っていわれる。笑

なお、どうでもいいことの補足。
最近、自分ちの備品、たとえば軽トラを廃品回収に出してみんなのために使ったら、謝礼として缶ビールくれたりします。それと同様、びっくりしたのは、道路愛護(道普請とかともいうし、溝浚いもその一種)に出て、草刈り機を使って仕事をした場合、五百円玉一ケくれます。組長さんがくれます。
反対に出不足金といって用事やなんかで出られないときは、いくばくかのお金を払います。

行商のおっちゃんは二人、今もきっちりと顔をおぼえてとって、念力でエクトプラズムば出して再現でくるちおもうとです。ドラえもんにその補助道具をつくってもらえたらのはなし。
アイスキャンデー売りのおっちゃん。木箱を自転車にくくりつけてちりんちりんとベルを鳴らしながらきてた。ちょうど学校から帰ったころに来てた。だだばしりで家にかけこみ、ばあちゃん、はよ十円とか言ってお金を握りしめて買いに走ってた。
リアカーで来てたごうださんは、ずいぶん遅くまでみえていました。高校生くらいまで。
カレー粉とか塩鯖とかおばいけとかね。いろんな生活用品を積んで。なつかしい。おかしはあまりなかった。
つばつけでんでん。その名は知らんけど、硝子細工のような見事な飴菓子を実演販売してたおっちゃんはいた。買ったこと、一回くらいあるかも。顔おぼえていない。おなじおっちゃんだろうと思います。
あと、はっさくさんの祭りの夜、きといんの河原に見世物小屋がかかり、その絵がどうしてん見ろうごとなるような絵で、入ってみたことがありました。一回だけだったけど。がっかりした。こびとのおんなのひとだった。ふつうの。看板は世にもふしぎなかめおんな。ってのだったか、へびおんな。だったか。こどもごころにも、「ちがうやん!」ってはっきりかんじた。
いまなら人権侵害で即逮捕だ。

幼少の頃は久留米にすんどったけん、記憶に差があるようです。
水天宮さんのお祭の時、私も18歳以下出入り禁止のテントに入った事がある。(連れは当時の不良少女たち。中に隣のゆっ子チャンがいたから付いていった。)
で、男性器の病気になったのが展示してあった。また、蛇を食う女の人がいて、頭から食べてた。あと、鼻から細い鎖をいれ口から出すという芸もやっていた。ほんとに今なら人権侵害もはなはだしいよね。この人たちは鞭で調教されたりしてるんだろうか、芸をしないといったら叩かれるんだろうかと幼心に心配した。
忘れる事のない強烈な思い出。

cherryそういえばもうすぐ「すいてんぐさん」の季節ですね。
久留米のすいてんぐさんにもよく連れてってもらいましたが、その恐そうな小屋には入ったことがありませんでした。。そうか~、、18banだったのね☆
看板だけ見てもほんとにおどろおどろしかったぁ~☆彡
ここの屋台ではトコロテンをよく食べましたよ^^

寅さんの映画にも風景が登場しましたねslate

 

2009年4月25日 (土)

どろみちに棄てる貝殻、かつがつ談義

なんとまあ、そげなきおくまでいっしょ。
確かにあさりの味噌汁のあとの貝殻は
屋敷の庭さきのへこんだ部分、
つまり水溜りができるところにかつがつ投げ込んで、小石代わりに敷石代わりにつかっていた。つかっていたというより、再活用してたってことでしょう。この記憶は貴重。もうすでに風化していた記憶だ。

cloudこんにちは
こどもの頃は土の道を「どろみち」と呼んでました。
へこんだ部分に貝殻が入れてあって、、そこを通る時かかとで殻を踏むのですが、こどもの足ではなかなか割れませんでした。
隣の鶏小屋の隅には牡蠣の殻がたくさん積んでありました。
おばさんはそれを細かく割って鶏のえさにまいてありました。
学校帰りにギシギシの葉を摘んできてここんちの鶏にあげるのが楽しみでした^^notes

せいこさん、そん「かつがつ」!
かつがつ。
おい、おまいら、そんなにがっつくんじゃねえ。
てときにはがっつく、かつがつはもっとゆっくりした飢餓感。・・じゃないか。そうじゃなくて、いっぱいいっぱい、ぎりぎり。という限界をあらわす。いや、まてよ。それは「はつはつ」だったかな。はっ。もしや、これは方言ではないんじゃない。和歌で読んだきおくがあるようなきがしてきた。岡井隆あたりの。

エメさんのおはなしは、どこを切っても具体的な生々しさがありますね。それはすばらしい能力だと感心しきりです。わすれていたものが蘇ります。
それから、先日のゆうれいのお寺、どこにあるのですか。調べたら立花町とでますが。黒木ではないのですね。

そのエメさんの「先日のコメント」を読んでいないので、はっきりしたことはいえませんが、ゆうれいの掛け軸のあるお寺のこと?年に一回だけ公開されるという、枝垂れ桜で有名な黒木の寺のことじゃないの?実家の母が短歌仲間とさくらを見に行ったときに幽霊の掛け軸を見たといってた覚えがありますが。

ゆうれいに気をとられて、書きそびれた。
かつがつは古語にもあった、共通語。かろうじて。とかの意味。でも、やめ弁での使い道はびみょうにちがってたろ?そのつど、そのたんび捨てることを、かつがつ捨ててから、とか言ってなかった?

 「かつがつ」、久留米んにきでは「それぞれ(で)」のような意味で使う(使った)ような気がします~例えば食堂に言って「みんな、何ば食ぶっの?」「かつがつで、頼みゃよかろもん」ちいう具合に。
 昔、父が孫(私の甥)たちに、私の弟のことを「ちんか兄ちゃんが…」と言って、父としては年下のという意味で言ったのだろうけど、私より背が10㎝以上低いので弟にちょっと気の毒な気がしたことも思い出した。

nightこんばんわ
今夜は孫達が泊まりにきてるので、、やっと合間を見つけました^^
幽霊の掛け軸>>福島の矢原町にある正福寺。 福島幼稚園もありますよ。
伝説のお話はPCでも見れます(正福寺 幽霊の掛け軸で検索してください)。 以前、市の広報にも載ったことがあるんじゃないかな?
黒木のそのお寺の枝垂れ桜はほんとにきれいですね。
20年ほど前に初めてその桜を見たときはその美しさに息をのみました☆
今よりもっと妖艶な気がしました。 桜の木は年々衰えているのかもしれません。
人といっしょで 美しいときはいっときの夢・・・。
cherryblossom数年前にしっかりカメラに収めました。 誰も人がいなくて桜と二人だけでした。 
鐘楼も、きれいに掃かれた砂の庭も美しいです。
お寺の裏の杉の古木もぜひ見てください。 こちらは雨あがりがおすすめです^^

かつがつ、アサリの貝殻・・・
思い出して泣こごたる。

かつがつはseikoさんの使い方に同じ、正しい。
意味の解説ば書きよったけどわからんごつなった。
かつがつはかつがつたい。

鳥栖は海もないとにどうしてかあさり貝はよう食べよった。しじみ貝も。
庭の隅などに妙に貝の埋まった風景が蘇る。
誰ね、こんなマニアックなこと思い出したとは。
ほんなこて。

☆どちらの掛け軸もまだ実際に見たことがないんですよ★ 福島のはPCで見ましたが、、すてきな民話伝説があります。

八女をめぐる四人の坊さん

混乱してきたので自分用の整理メモ。

1、八女で有名なお坊さんといえば、まずこの人。

八女茶発祥の地、黒木の笠原霊厳寺に名を残した栄西禅師。
 

八女茶
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%A5%B3%E8%8C%B6
栄西http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%84%E8%A5%BF

どの時代の人かといえば、後鳥羽院のころでした。
へーえ。なんだか、歴史が身近になってきたような。
ーちょっと待った!!

栄西はたしかに後鳥羽院のころの僧です。
しかし、奥八女の笠原にお茶を植えたのは、栄林周瑞(えいりんしゅうずい)
でした。
そそっかしいかささぎはしょっちゅう間違えています。
大事なことですから、まちがえないように!15世紀初頭です。

2 つぎに行基。

毎年戦没者慰霊祭を執り行って下さっていたお寺の開基が行基(ということになっていた)でした。

八女市天福寺:http://www.mfj.co.jp/tenpukuji/rekidai.htm
(菩提樹の花で有名)

行基:

http://www.city.itami.lg.jp/_8014/_8210/_8439/_8440.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E5%9F%BA

行基が八世紀、栄西が十二世紀。

3 行空上人

星野で没したとされる行空上人は本覚院由来記では十三世紀(未確認)、
しかし、現地に残るお墓は十六世紀天文年間のもの。

ということは。
行基、栄西、行空1、栄林周瑞(えいりんしゅうずい)と行空2とがほぼ同じではないかな。 の順です。

ということは。

栄西と栄林周瑞(えいりんしゅうずい)とを同じ人と思い込んでいたかささぎのことですから、どうせ間違っているにちがいないんですが。

ひょっとして、栄林周瑞(えいりんしゅうずい)は行空2と同じ坊さんじゃなかろうか?

2009年4月23日 (木)

星野村高野堂(こうやんどう) 6

写真、クリックすれば大きくなりますのでお読みください。
祠の左横にあった解説板です。
もう一つ「行空上人廟所法会記念」と題する一文が彫られた碑も立っていて、それも写真に収めてきたのですけど、かなり縦長だったため、全容を写せませんでした。しかし、読める範囲をここに参考までに書き写しておきたいと思います。謎は謎のまま。

  行空上人廟所法会記念

 高野山別格本山本覚院は行空上人が黒木大蔵太夫と待宵小
侍従の請により 建久年間に建立された名刹である その縁
により上人この地方に行化すること屡々 終に文永年中星野
村に於て九十才を以て遷化せられた 因って廟所を構えて祀
り爾来篤信の有志これを護持し今日に至っている 昭和五十
九年三月十一日本覚院第三十八世住職稲葉義猛大和尚を導師
として 九州在住の本覚院法縁の住持諸徳この碑前に参じ
また村民挙げて此処に参詣し上人の第七百五十二回忌法会を
修し 上人の遺徳を追慕し菩提を祈念する 茲にその勝業を
記念して永く留むるものである

(後日、書き足しました。読みは正しいか疑問はございますが)

参照:

歌人伝 太皇太后宮小侍従 http://homepage2.nifty.com/H-Suga/koji01.html

リンク:http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-80ea.html

星野村高野堂(こうやんどう) 5

お堂の背後から一枚。
寄進者のなまえが書かれていました。
ところが、年号がすこし前です。
ということは、改築になったという意味であると思います。