『黒木町 猫尾城の悲しいおはなし』 後半
(六月七日からの続きです)
六 奥方たち、矢部川の流れに
うちひしがれ、日に日にしずみこんで行く奥方をまわりの人びとは、何とか元気づけようとしました。乳母(うば;小さい時から母親がわりに育ててきた人)の紅梅(こうばい)も、女房頭(にょうぼうがしら;そばにいて身のまわりの世話をする人びとの中で一番えらい女の人)の濃君(こきぎみ)やたくさんの侍女(じじょ;おつきの者)たちもたいへん心配をしました。
ある日、奥方・春日の局は勇気を出して琴をひきました。
以前に夫とよく合奏したなつかしい曲をひいてみたのです。
ところがどうしたことでしょう。琴の弦(糸)が全部切れてしまったのです。
今はもうこれまでと、春日局はたくさんのうらみの言葉や別れの言葉を書き残して、雨で水がふえ荒れくるう矢部川の流れの中に身をなげたのです。
乳母や侍女たちもつぎつぎに身を投げました。
古い記録では十三人の女の人たちが、奥方のあとを追って身を投げ、おどろいた家臣(けらい)たちの必死の努力のかいもなく、みんな激流(げきりゅう)にのまれて見えなくなったとあります。
昔の矢部川は、いつも満々と水をたたえて流れていたのでしょう。
(写真:奥方たちが身を投げた矢部川:剣が淵)
七 築地観音像(ついぢかんのんぞう)と神社
黒木西小学校の東、やく百五十メートルくらいの築地(ついぢ)という所に、小さな神社があります。まわりは大きなブナの木や、イチョウの木や竹林にかこまれている小さなかわいい森です。ここの神社を「築地御前神社」(ついぢごぜんじんじゃ)といいます。
築地の人びとはこの神社を親しみをこめて、「築地の観音さん」と呼び、自分たちの氏神(うじがみ)さまとして先祖だいだい長い間守りあがめてきました。
小さなほこら(神さまをまつったやしろ) の中に、木造の三つの古い観音像(かんのんぞう)がまつられています。中央の少し大きな本尊(ほんぞん)は奥方・春日局(かすがのつぼね)、両わきの脇侍(わきじ)は乳母の紅梅(うばのこうばい)と 女房頭の濃君(にょうぼうがしらのこききみ)の座像(ざぞう)です。
ではどうして、お城から二キロ以上もはなれたたんぼの中のこんな小さな神社に、黒木城の奥方たちがまつられているのでしょう。
もう皆さんは想像がついたと思います。
(写真:御前霊社 ついぢのかんのんさん)
八 築地(ついぢ)の人びと・そして行事
矢部川の激流にのまれたあわれなあわれな女たちは、家臣に助けあげられることもなく、あっという間に川下へと流されていきました。
そして二キロ以上もはなれた築地の瀬にうちあげられたのです。
築地の人びとはみんなでこれを抱き上げ、大きな木を切ってこれを燃やし、女たちの冷えた体を静かに温めました。しかし村人の努力のかいもなく、ついに帰らぬ人になってしまったのでした。
城主助能と村人は、ここ築地の窪(くぼ)に神社をたて、春日局・紅葉・濃君の三人の仏像をつくり、神としてまつりました。
そして八百年以上たった今もなお、築地の人びとはこの神社を大切に守りつづけているのです。
南本分(みなみほんぶん)の老人会や築地の人びとは、神社をきれいに掃除します。毎年大晦日(おおみそか)には、立花町の黒木氏の子孫が赤の手ぬぐい・おしろい箱・べに皿・赤緒の草履(ぞうり)を三人分持って神社にまいられます。十二月十八日には「生木焚き神事(なまきたきしんじ)」という行事が築地の人びとによって行なわれ、奥方たちの霊(れい)をなくさめ、氏神や水神に感謝をされるのです。
(写真:築地(ついぢ)の観音像(かんのんぞう))
九 史跡「剣が淵(つるぎがふち)」
奥方春日局(かすがのつぼね)たち13人の女官たちが矢部川に身を投げたあと、猫尾城や黒木の郷(さと)ではたくさんの不吉な出来事(できごと)が起きました。矢部川は氾濫(はんらん)し、郷(さと)はたいへん荒れ、お城のなかでも困った出来事がつぎつぎと起きたのです。
城主助能は妻の死をいたみ、女官(にょかん)たちの死をたいへん悲しく思っていました。彼は妻たちが紅緒の草履をぬぎすてて身を投げた岩の上に立ち、京で帝(みかど)にもらった刀(剣;つるぎ)を水に投げ入れました。そして妻たちの霊(れい)をなぐさめるために、心をこめて笛をかなでました。彼の吹く笛の音は水の音にもまさり、あたりにひびきわたりました。きっと城主の心が妻や女官たちの心にとどいたに違いありません。その後は川も荒れることなく、不吉なできごともおさまったと言い伝えられています。
このことから、城主助能が立ったこの矢部川の深みを「剣が淵」といいます。
グリーンピア八女に行く橋(つるぎがふちばし)のたもとの岩の上に「史跡剣が淵」という記念碑が建てられています。
(写真:記念碑「史跡 剣が淵」)
十 北木屋の聖観音立像(しょうかんのんりゅうぞう)
城主助能(すけよし)が京からつれ帰った待宵小侍従(まつよいのこじじゅう)の子・黒木四郎(幼名四郎丸)は、その後どうなったでしょうか。
彼は成人して黒木四郎調宿禰(つきのすくね)藤原定善(ふじわらのさだよし)と名乗り、中務大輔(なかつかさだゆう)筑後守(ちくごのかみ)というえらい職につきました。しかしどうしたことでしょう。健康そうであった定善(さだよし)は、ふとした風邪がもとで18才の若さでこの世を去ってしまったのです。
城主、助能の悲しみは言うまでもありません。つたえ聞いた京の父・徳大寺卿(とくだいじきょう)もとても悲しみました。そしてこの不幸なわが子・四郎をあわれみ、等身大(とうしんだい;本人と同じ大きさ)の仏像をつくり、黒木に送りました。
この仏像は、今では北木屋の氏神熊野神社のすぐ近く(東方)の観音堂にまつられ、県の文化財にも指定されています。
毎年この地区では、10月の第1日曜日に1000個以上の提灯に火をともして盛大な“ちょうちん祭り”がおこなわれ、黒木名物”だんご汁(だごじゅる)”などがふるまわれ遠くからお参りする人も多いと聞きます。
夕方いっせいに灯がともされると、山手にすばらしい明かりのパノラマが広がります。
(写真:北木屋の聖観音立像(しょうかんのんりゅうぞう)
付記)八女市柳島(やなじま)の十七夜祭(あめがたまつり)
湯辺田(ゆべた)の先から国道442号を左に折れて、矢部川ぞいにさらに下り、北田形地区を過ぎると、次は柳島という地区になります。
そこの入口の右側に大きな若宮神社があります。その境内にも、黒木のこの話にかかわりのある小さなほこらがあります。
昔は行商人(ぎょうしょうにん)といって、物を売りあるく人がたくさんいました。ある朝、”あめがた”の行商人が岸に打ち上げられた女の人を見つけ、村人と一緒に火で体を温めましたが、すでになくなっていました。猫尾城の奥方と一緒に身を投げた女官の一人だったのです。その時、木製の仏像も岸に流れついていたそうです。奥方が日頃大事にしていた仏像だったといわれています。
その後村人たちはほこらを建ててこの仏像をまつり、その霊を慰めてきました。毎年一月十七日の夜に境内で火をもやし(ホッケンギョウの行事)、霊をなぐさめるためのお祭りをつづけています。
今でもその日には”あめがた”の店が出てにぎわい、”十七夜祭”とか”あめがたまつり”とか呼ばれているそうです。
(写真:八女市柳島の若宮神社)
※お詫び:写真画像をいれこむことができませんでした。
編著者 黒木町教育委員会
地域活動指導員 田形光義
発行 平成14年11月1日
一部改訂 同年12月2日
参考文献:
『郷土の文化財 改訂第一集』 黒木町教育委員会
『郷土の史話(一) 改訂黒木物語』 和田重雄著
『郷土資料 黒木城史話』 故・東 種吉 遺稿
ねえ、鈴木先生ってまんが読んだ。
こんな話よ。
班でむかいあって給食をたべている。ある男子が突如カレーをたべているときに、くそとか、げろとか女子の前で大声でさけび、ごはんをまずくしてしまう。女子は怒り、鈴木先生に相談する。それには実は裏にひめられた事情があった。その事情とは・・・
食事中に言ってはいけないことを叫んでめしをまずくした男子は、とてもしつけの厳格な家に育ったまじめ少年である。それなのに、なぜ。という疑問。その理由を考えていた先生は、給食時間中の観察を通して、ある事実にきづく。
さあ、こっから、おもしろいよお!!
展開はおしえないどこ。笑
行儀というものはじつにさりげないものだから、それを当然として育ったかどうかで許容範囲が狭まりも広がりもする。その男子は向かいの席の女子のひじつき食事が許せなかった。断固。それをずうっと抑圧していたけど、あるときついに我慢できなくなって食事のとき決して言ってはいけないことばをまきちらして復讐した、ってわけです。
これ、だれが悪いとか、いいとかの問題とはまったく次元のちがう話でしょう。これ、とってもよくわかる。
こどものころ。いちばんうるさくしつけられたのは、音をたてるな。ということだった。口をあけてたべたらいけない。でもともだちにはぺちゃぺちゃと音をたててものをたべる子が必ず一人はいた。それ、いやでいやで。でもいえない。いえないということが、小さな子どもごころにもなぜかわかった。
そういうことを漫画にしたてるなんて、すごかろ?
投稿: かささぎ | 2009年10月27日 (火) 22時28分
遅くなったので、今日の夕ご飯は刺身のある定食屋にしました。
わが家の終わりかけごろ作業着の若者が入ってきて4人だと伝え靴を脱ぎました。
彼は普通に上がったあと屈んで靴を前向きにきれいにそろえました。
あとの3人は上がりながら初めから前向きに脱いであがりました。
家庭の躾とはそれぞれに特徴を作りますね^^
投稿: エメ | 2009年10月27日 (火) 23時26分
同じ久留米の、歩いて20分ぐらいの距離の所に生まれ育ち、しかも親の職業はどちらもいわゆる商売人、それなのになぜこんなに生活習慣が違うのだろう~と結婚で思い知らされた。うちは比較的自由、それなのに相方は、あ~だこ~だとうるさくて。特にここで話題になっている食べる時のマナーです。いっそ、外国人みたいに異文化関係だったら、お互妥協しあえるかなと思いました。いやはや、今でも「しぇからしかね」と思いつつ、口には出さず、ただ忍耐の日々。
かささぎさん気になる、中学校での給食の件、私は以下の2つのどちらか、あるいは両方が原因かなと推測しました。正しいかどうかはわからんよ。
①久留米(の中心部)は大規模校が多く、体育館または講堂らしきものさえなく、本来室内でやる運動部も外でだし、剣道・柔道などは近くの公的施設を使ってやり、あまつさえ、入学式・卒業式でさえ、当時近くにあった久商の講堂借りてやった記憶がある。つまり、給食関連設備を作る場所がなかった。同じ久留米市立中なのに、あそこにはあるけどあそこにはない、というわけにもいかなかった。
②給食がなければパン販売が必要になるが、八女では全中学校に販売業者を配置するのが難しかった。
投稿: 呂伊利 | 2009年10月31日 (土) 05時50分
えめさんところのおまごさんをみて感じました。
小さいときからさりげなく仕込まれておられるのだと。お茶にしましても、あんなに小さなときから自然に触れ合わせておけば、お茶独特の異空間ポケットがあたまにできますよね。連句もそうですよ、前田先生のお孫さん、あかちゃんのときから連句にふれておられた。ゆきちゃん、あかんぼのころ、八女の堺屋でのぼんぼり連句にきてくれた。お母さんの前田亜弥さん(西鶴研究家、連句もさすがにうまい。とても美人であります)次に久留米耳納連山のふもとのスパリゾートでの合宿にも来てくださったのですが、そのときゆきちゃんはちょうどえめさんちのお孫ちゃんくらいで、おかあさんのおひざから連衆のおひざにきて、お絵かきをしていました。大人が必死で句をつくっているとき。こういうのが無言の教育だろうとおもった。その座のくうきにふれていた、ってことが。
投稿: かささぎ | 2009年10月31日 (土) 08時00分
ろいりーさん。商売人の子ってそうなんでしょうね。
奥様との食事のときの場面が浮かぶようです。
と同時に、山本健吉の妻だった石橋秀野の昭和二十三年に出た句文集の随筆を連想しました。新婚のころの妻の心理。お料理学校でならった最新の自信作を必死で作ってたべさせても夫がよろこぶとは限らない。味噌汁も辛いとかいわれ口をつけよううとしない。新妻はこまってしまって、泣きたくなり、手持ち無沙汰でいつしか新聞をひろげたりするようになった。というようなことが書いてありました。
投稿: かささぎ | 2009年10月31日 (土) 08時06分
食事>>わが家は自営だったので、家族揃って食べるのは元旦だけで、ほかの日のほとんどは祖父母と食事をしていました。
明治生まれの二人はやはり食事中のマナーには厳しかったです。
姿勢、ひじ、お茶碗の抱え方、箸使いの色々、、でもそれができていれば特にうるさいわけではなかったです。嫌いなものもなかったしね。
叔母はハンバーグの時、私と弟を相手にナイフとフォークの使い方をよく特訓したがりました。その時は鬼軍曹の叔母でした(爆)
給食>>学校をお休みしたきお友達にパンだけを届けていなかった?
プリント用の紙に包んで。
今も届けるのかな?
投稿: エメ | 2009年10月31日 (土) 17時40分
ゑ目さん、届けないと思う、今は。ぱんのゆくえやいかに・・。あのそっけない色気のないぱんがすきだった。で、今も食ぱんはやかないのがいい。なにもつけないの、禁欲的なあじがするから。だんだんそうなってきた。これはなんだろ、って自分がふしぎ。
そりゃそうと。
うちのちびと今夜this is itをみにいってきます。ミッドナイト上映。なかよし友達もつれて。わたしもみるけど、おかあさんは離れて座ってって。苦笑。
どっちかというと、沈まぬ太陽のほうがみたいけど、
投稿: かささぎ | 2009年10月31日 (土) 19時41分
いってきました。深夜なのに350席ほどのスタジオ1がほぼ満杯でした。
むすこの友人の少年たち5人もいっしょ、言われたとおりうんと離れて座った。
しごとにきびしく、完全主義のマイケル。
こどものころのかおとまったくちがうおとなのマイケル。でもどっちもマイケルなんだよね。じぶんのもとめるものがはっきりしていた。えられるまで妥協はしなかった。
イントロダクションのバックダンサーズオーデションから一気でしたね。少年たちも面白かった、と言ってた。
投稿: かささぎ | 2009年11月 1日 (日) 00時52分
高校生のころ持ってたモータウン全集にマイケル少年の顔がありました。
きれいな伸びやかな声でした☆彡
投稿: エメ | 2009年11月 1日 (日) 07時01分
「味噌汁も辛いとかいわれ口をつけようとしない」、
そんな大それたことは1回も言ったことないでございます。
自分が作ったものを、「これおいしかね」とも言わず食っているので不満言われる。
そんなこと一々言わずただバリバリと完食するのが食事に対する満足の表現だったので、一言言えば良いとわかっていながら、却ってわざとらしくて言いきらん、でもしょんなかけん、時々言うちゃる。
新聞読みながらどころか、テレビ見ながらでさえ許してもらえん。
子どもの頃は、わが家もほとんど祖父母と食事をしていました。明治生まれの2人は全然厳しくなかった~やはり人それぞれですね。
投稿: 呂伊利 | 2009年11月 1日 (日) 07時35分
明治生まれのばあちゃんと子ども時代を過ごしました。食事のしつけはばあちゃんよりも、母の方が厳しかった。でも、洗濯に関してはばあちゃんはことのほかうるさかった。洗濯機がわが家に来てから、タオルや下着がいっしょに洗われるのが、それはそれは許されなかったみたいで、小学生のころから、風呂場で自分の下着と靴下を洗わされ、タオルはタオルだけ洗濯していました。そんなばあちゃんの影響なのでしょうね、いまもって、タオルはタオルだけしか洗濯しない(できない?)わたしです。
投稿: seiko | 2009年11月 1日 (日) 08時04分
えめさん、マイケルさんはほんとにきれいですみきって少しビブラートがかった声でした。踊りもまったく静かでスムーズ、ほかのきんにくもりもりの人たちとはまったく違っていた。一人特別な存在でした。孤独だったろう。スーパースターは早く死ぬのですね。
ろいりーさんのおよめさん、かっこいい。普通の家庭は、すでに堕落している。うち、ながら食事を厳しく言っていたのに、当のおとうちゃんおかあちゃんがテレビみながら食べている。だから、そんだけ厳しく言えるってことは、当然自分もそのおきてをいまだに厳守しているってことで、とてもうつくしいです。
えっとかささぎは、ひとりでたべるときには、本をひろげたまま食べたりもします。最低です。笑
しかも、通勤の運転中に片手でりんごやジャムぱんをたべるので、とってもあぶないしきたないです。これはよいこのみんなはけっしてまねしないでね。(するか!
せいこさん。
お姑さんがすこし心配ですね。
うちの場合、わたしが炊事洗濯をすべてやっていたころ、そうなりかけました。(馬場先生にアルツなりかけ、といわれた)。その後、くすり服用で、食い止めている。一時期は、自分の妹より年をわかくいったり、ものわすれがひどかった。それを救ったのは、わたしの再就職で再びの家事担当となったことではないかとおもいます。
投稿: かささぎ | 2009年11月 1日 (日) 16時52分
ひめどん。
あなたが言うとおり。
わたしが意地になってなんでも、自分でやりすぎたんだと思う。自分でも可愛げがない嫁だなあと思うけれど、「これ以上、このひとに借りをつくりたくない」という一念で、仕事前に掃除も洗濯も炊事もこなして、残業のときは夕食を準備して仕事に行ってた。勝気といえば、勝気。根性もんといえば根性もん。笑
いまはね、おばあちゃんに食器を洗ってもらってる。自分が食べた分だけね。あとから洗いなおしたくなる状況だけど、ま、よかたいと思って。早くにこんな大らかな気持ちになってたらよかったのにね。
投稿: seiko | 2009年11月 1日 (日) 18時38分
やっぱりなあ。同居の嫁ってそうなるのでしょうね。
母と祖母の関係をずうっと見て育ちました。いえることは、嫁と姑って、愛情ではないけど義務感でびちっとつながっているんだなということです。愛情を無理してもたなくてもしてあげていることが愛情の行為なのだから。母も必死でつくしていました、姑に。
せいこはとってもりっぱです。
おかあさんもあなたを頼ってらっしゃる。
年をとることは、なんとこころぼそいことだろうか。
夫を独り暮らしの母のもとへ返してよかったと思う。
投稿: かささぎ | 2009年11月 1日 (日) 22時57分