暦論 その十三(むすび)
夏日待 雑の部
八十 暁 鑑述
あかつきの枕の夢の覚ぬるは
八こゑの鳥のつげわたる空
八十一 松 弘智
得てうへし松にならへる君が宿を
猶すみよしの神や守らぬ
八十二 竹 宗房
きみが代を久しかれとて植へをきし
たけの臺のかげ越しぞ思
八十三 苔 鑑栄
千代をかね松の下蔭苔むして
雨にいづれも色ぞまされる
八十四 猿(ましら) 覚元
秋の夜の月さへをそき山の端に
慰めとてやましらなくらむ
八十五 山 鑑實
ますらをが山分衣うちきつヽ
渡るや寒き岨の架け橋
八十六 川 鎮光
いかにせん河瀬のなみの色々に
月のさそへる船の行末
八十七 野 鑑栄
見渡せば移りにけりな春の野の
風より他に訪ふ人もなし
八十八 関 通次
せきもりの厳しく見ゆる陰ながら
行き過ぎ難き山さくらかな
八十九 橋 頼運
これも又憂世をわたる心かは
賤が深田を越ゆる柴橋
九十 海路 鑑實
うなばらや浪路はる/\旅だちて
いづくを船のとまりなるらん
九十一 旅 鎮時
明更の空にひかれて旅衣
いく野山をか越してきぬらん
九十二 離別 覚元
中々にうき旅人にともなひて
わかるヽときの袖のくやしき
九十三 山家水 述秀
すみなれて結ぶもいざや流れては
世にいづるてふ山川の水
九十四 樵夫 宗房
けふは又山路の雪を知りそめて
かはる嘆きの袖のくやしき
九十五 懐旧 宗右
古をつみてや誰もしのぶ草
しげる軒端の見しこともなき
九十六 述懐 鑑教
かへりてもおなじ憂世とおもひとる
爪木の山にいつまでをへん
九十七 夢 廣吉
待人はよもきが宿のよるの夢
さむるまくらに風ぞ声する
九十八 尺教(釈教) 宗右
岩つたふよ川の水のつふ/\と
とくをまことの御のりとぞしれ
九十九 祝言 塩亀
なべて世に神の恵みのはやくして
よろこぶ事をかさねつたへん
天文廿四年癸卯 * 卯月廿五日
長々と紹介した百首和歌もこれで満尾する。
完成を拒むかたちとして、百首目は、ない。
行き着いてしまえば、崩壊が始まるからだ。
さてここまで来て、ようやくこの歌に付されている年号が判明した。湯浅吉美編『日本暦便覧』 によると天文24年乙卯四月二十五日己丑小満、となっている。*
この時代は宣明暦が使われており、前年は355日、この年は384日、つまりひと月多い閏年である。十月が二回ある。(改元は十月二十三日)。
いまのところ私の浅学では、当時の人たちが実際にどんな暦を用いて時を知ったのか、見当もつかない。この史料の干支が間違っていることから、戦国の世の慌しさを推察するのみである。それにしても、九十六番さばきのつぎに名のある武士と思える、鑑教という人の述懐、
かへりてもおなじ憂世をおもひとる
爪木の山にいつまでをへん
この歌の深い諦念が胸をうがつ。前へ進んでも憂世、うしろへ退いても憂世。どこにも逃げ場はないのだ。だからこそ、うたを残したともいえる。
一昨年、たまたま八女市役所の学芸員赤崎さんに見せて貰った戦国時代の貴重な和歌を、たまたま通ってた柳川古文書館の解読講座のおかげと連句を通じて知ることができた俳諧学者の東明雅先生と連歌の光田和伸先生のわかりやすい講釈のおかげでなんとか読み解くことが出来た。この誌上で公開し終えた今、大きな荷をおろした気分だ。
これまで江戸末期の久留米の考古学者・矢野一貞(この人は、岩戸山古墳の周りを測量して、八女岩戸山が古事記や風土記に記載のある筑紫の磐井の墳墓であると初めて看破した人である)の『筑後國史ー筑後将士軍談』 の第四十四巻に「天文歌人」 の見出しで鑑述と鑑教の歌のみが紹介されているだけで、まだどこにも発表されていない。そんな貴重な史料を九州俳句という場で発表できたことがうれしい。
それにしても、なぜ、「今」だったのだろう。
◇
前回とんでもないミスをしてしまった。
それは、東明雅著『芭蕉の恋句』 からの引用で「一巻に恋句がなければハンパモノ」といって、芭蕉が昔の事例を引いて、門人達に教えた、その昔とは、当時よりも500年昔のことだ。・・と、まるで見てきたかのように書いてしまったことだ。間違いである。
「えっ。連歌は平安時代に始まったの」とたまげた人もいらっしゃるだろう。たしかに芭蕉にとっての憧れの歌人である西行は五百年ほど前の人だが、連歌形式が確立するのはそれより二百年ほどあとの戦国時代である。ということは、この百首和歌は連歌が生まれる端境期のころの作品といえるのではないか。ともあれ、素人のわたしには、なにをもって連歌というのかがよく見えないまま、古今集の紀貫之にも連歌(短連歌というのだろうか、一句のみのかたち)があるものだから、適当に書いてしまった。申し訳ない。
◇
さすがに、東明雅先生には、「私生活でとちめんぼうを振っていたため、まちがえました。すみませんでした。」と正直にわびた。すると熊本出身のこの高名な先生は、「五百年にはびっくりしましたが、運悪く貴方の振った栃麺棒に当たったのでしょう。今後はお手柔らかに」と寛大な返信を下さった。
◇
「俳諧は歌なり。歌は天地開闢の時よりあり。」 で始まる服部土芳の『三冊子』 にはきちんと歌の歴史が書かれており、初めて連歌の式目書を著したのは、後鳥羽院のころの善阿弥法師だといっている。だが、これも間違いらしい。のりかかった船とばかり、ほんとうはどうだったのかと堅苦しい歌論俳論集をあたってみる。興味のあるかたは、どうぞご自分でお調べください。和歌の始まりは、「連歌」つまり唱和のかたちだったことに気付かれ、目からうろこでありましょう。
論は最後まで書けなかったけれども、この拙い文章を読んで下さったあなたには、私の伝えたいことは行間から見えてきたにちがいない。時間、時代というのは生きていて、それ自体澄明な意志をもっている一つのカラダである。私たちの先祖はそれを霊的に知っており、だからこそ「形(フォルム)の文化」と三島由紀夫が呼ぶところの表現形式を古より営営と練り上げてはそれに同調し、果ては乗りこなそうとすらしてきたのであった。
『九州俳句』129号平成十五年冬号より引用
* 天文歌人の残した百首和歌の干支が実際の年号のえととは違っていることについて、矢野一貞はこう書いていました。
ほかの同時代の史料をあたると鑑教という名の人が没した年は天文○○年であるようだから、この和歌の年号を記載どおり天文24年だとすると、その人はすでに生きてはおらず、おかしなことになる。であるから干支が正しいとすれば、癸卯は天文19年となり、その間違いかもしれない。・・・・(これは十年前くらいに読んだ記憶から書き出しましたので、かっちり正確ではないかもしれませんが、だいたいそのようなことをかれは書いていました。)で、いまふっと思ったのですけど、この奉納歌はじっさいの天文年間のものを後世の人が写本して伝えてきたものかもしれない。だから年号と干支とが合致しないというミスが起きたのではないでしょうか。
ほかに、「豊饒美濃守」という尊称ですけれども、これはいったいなんなのでありましょう。ほうじょうみののかみ。役職を指すことばだろうか。まったくの無知であります。
吉永正春という人の書かれたお城の本に、、「豊饒美濃守」という名前の武将がちらりと出てた気もしますが。ごぞんじのかた、ご一報いただければ幸いです。
八女戦国百首和歌『夏日侍』をよむ
竹橋乙四郎
戦国の世の暦感覚
▼ 春秋を分けるもの
(32番) 氷室 松寿
春秋をわけぬはかりか松かさき
氷室も夏をほかにこそもれ
春秋をわけるのは雁です。
それは松ヶ枝の先に来て又松ヶ枝の果てに消えてゆく。
飛翔という名の一本の航跡で季節を鮮やかに区切ります。
夏にはどこかほかの世界に籠っています。
氷室も夏はほかの処に籠って守られているのか。
(上は試みとしてのかささぎ読み)
竹橋乙四郎の連句的
雁 ・・・ 春分の日に去ってゆき、秋分にやってくる。
松かさ ・・・ 松ぼっくりは秋の訪れ。
氷室 ・・・ 古来、氷室開きは春分の日の行事。
松寿という人物が不詳。
氷室開きは本州には行事として痕跡があるが、どうも九州にはなさそう。
遠方から来た特別ゲスト?
くるす野を詠んだ鑑秀の知人と見た。
わが国の氷室のルーツ、氷室神社が鎮座する西賀茂氷室は、古代には栗栖野と呼ばれていたそうです。
春もみる氷室のわたりけを寒み
こや栗栖野の雪のむら消え(源経信)
http://www.kagemarukun.fromc.jp/page036.html
ここが丹波篠山であることに目がいく。
丹波には籠神社があった。豊受大神をまつる。
かささぎの連句的
「くるす野」は源をよびさますつけあいだったかもしれない。