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2017年4月19日 (水)

るなさんブログへのコメントをここに



先日はお世話になりました。

じつは母にとびかたやまのお宮について尋ねていたら、玉垂さんならあそこだ、馬場の矢部川近くのお宮、といいます。
白鳳元年開元の熊野速玉神社。
それって西暦何年よ?と調べようとしたら、
ここにでました。

白鳳元年と白鳳二年

写真、八女市史を開きました。
一枚は母のいった八女のたまたれさんです。
あとのは、水月さんへの問いかけと答えかも。









石橋秀野もねむる、山本健吉もねむる、坂本繁二郎も、有田焼の柿右衛門も眠る、
八女福島の無量寿院。
西向きに建っているのは何故とずっと思っていた。
お寺だからありなのかな、と。
だけど、神社はたいてい南面しているか東向き。
なのに馬場の熊野速玉さん、西向きなんです。
あと、福島の宮野町の八幡宮も西向き。
これはいったい何故だろうね。

たまたれさんが隠れていらっしゃるなら、
海のほうを向いている理由もなんとなく分かる気がします。

2014年12月22日 (月)

冬至の朝

冬至の朝

冬至の朝

山は真っ白だったが、水は凍らず。

今年の冬至は19年にいちどの「

(

さく

)

(

たん

)

冬至」。

古代には、冬至を1年の始まりとしていた。
近世語で「唐の正月」というと冬至を意味するが、中国で冬至を元旦としたからである。
その名残で、現在でも冬至は暦の基準となっている。中国や日本で採用されていた太陰太陽暦では、冬至を含む月を11月と定義しているが、19年に1度、冬至の日が11月1日となることがあり、これを朔旦冬至(さくたんとうじ)という[9]
太陰太陽暦では、19年間に7回の閏月を入れる(19年7閏)周期を「」と称し、古い章から新しい章への切り替えとなる年を新しい章の最初の年という意味で「章首」と呼んだ。章首の年にはまず前の章の締めくくりに当たる7番目の閏月を迎え、その後に到来するその年の冬至をもって新しい章の開始とされた。そして、その章首における冬至の日は必ず朔旦冬至となるように暦法が作られるのが原則とされていた。

朔旦冬至が正確に19年周期で訪れることは、19年7閏原則に基づくが正確に運用されているということである。暦の正確さは、政治が正しく行われていることの証(あかし)であるとして、朔旦冬至は盛大に祝われた。中国では古くから行われ、659年に偶々遣唐使の都・洛陽に滞在中で儀式への参加が許されている。日本では唐風儀式の取り入れに積極的であった桓武天皇784年に初めて儀式が行われた。なお、11月1日は元々翌年の暦を天皇に奏進する御暦奏も行われていたことから、非常に盛大な行事となった。

ただし、破章法を採用している暦では19年7閏が守られない場合があり、その場合新しい章の最初に朔旦冬至が到来するとは限らず、逆に章の途中で偶々朔旦冬至が到来してしまう事態(臨時朔旦冬至)も生じた。日本ではこのような状況を放置することは不祥として、暦を人為的に操作して朔旦冬至を到来させたり、回避させたりすること(「改暦」)が行われた。なお、後には章の最初以外の朔旦冬至も祝われるようになった。なお、1768年光格天皇の時に朔旦冬至の儀式が行われたのが最後であり、次の1870年の朔旦冬至の際に明治政府は古い因習として、以後こうした儀式は行わないこととした。

前回の朔旦冬至は1995年、直近の朔旦冬至は19年後の2014年、その次は38年後の2052年である。

旧暦2033年問題も参照。ただし2014年の19年後である2033年が朔旦冬至にならないのは旧暦2033年問題(暦月が決められない)のせいではなく、冬至を含む日と朔を含む日が一致しない(5時間差ながら日を跨いでしまう)ことが原因である)

以上ウィキペディア引用。

以前見た、ラストクオーターを思い出した。下弦の月。映画。

これ。http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/10/post_412a.html

うわあ。。。なんという偶然。

わたしはさっき、椅子を一脚買いにニトリにいった。
帰りにだいすきなかぶとまんじゅうをかってこうと思って、川崎病院前経由の遠回り。
でも先週もいったなと恥ずかしくなって素通り、農道へはいりお宮を迂回するコースで帰ったら、ひさしぶりにイチゴ農家仲間だった懐かしい人をみかける。
遠目ながら元気そうだった。

そのひとに言及している記事をちょうど開くなんて、まことにふしぎ。(12・23記)

2013年10月13日 (日)

「天地明察」

誕生日、仕事帰りに八女のTSUTAYAでTポイントカードをつくり、DVDを借りた。
日本初の貞享暦をつくった天文学者の渋川春海こと安井算哲の話で、見たいと思っていたが、上映は日に一回きりで見られなかった。
二時間をこえる長い映画だが、最後まで一つのゆるみもない映画だった。
えんという妻(宮崎あおい)と算哲は同じ年の同じ日に死んだ、というテロップが流れるラストまで、まったく気がぬけない。

「わたしより先にしなないでくれ。」
「わたしより先に死なないでください。」

互いにそういいあっていた夫婦。
エンドロール。
長い映画がおわり、ぼんやりしている頭に縦に流れていく文字と景物。
これがまた美しかった。
日めくり暦の一枚が出てくる、その日付は十月二日。
よりによってその日である必然があるだろうか。

神道の供え物が、あんなにも美しかったとは。
ことにまっしろの紙垂(しで)のかたち。

生石山の大草原保存会、という文字が目をよぎる。
生石山?どこだ・・と気になり調べるといくしやまでなく、おいしやま、和歌山。
・・ここで撮影があったんだそう。

登場人物が様々に出てき、それぞれ面白かった。
ことに、襲撃された算哲を守るため、火矢に背中を二箇所射抜かれて死ぬ神道家。
役者さんはだれだったか。あの長時間推理ドラマによく出る、おくさんがお掃除上手な人によく似ていたけど、ちょっと違うような。で、調べる。白井晃、というはじめて知る役者さんだったよ。

山崎闇斎。
山崎 闇斎(やまざき あんさい、元和4年12月9日1619年1月24日) - 天和2年9月16日1682年10月16日))は、江戸時代前期の儒学者・朱子学者・神道家思想家敬義、通称は嘉右衛門。闇斎は。「嘉」の字を二文字「垂」と「加」に分解し「垂加霊社(すいか・しでます)」という霊社号を生前に定めた。
この人が、算哲が海の際で天文観測をしている横で、なにかえ~い、え~いとやっている。
あの場面は妙に印象に残ったなあ。

かささぎの旗姫野は九州俳句誌に十二回にわたって書かせてもらった「暦論」という随想の中で、貞享暦についても書いていたが、もともとは芭蕉の歌仙のなかの三句のわたりについて考えていたからであった。
芭蕉も算哲と同じ時代を生きた人だったんだ、と思いつつ見た。

えんと算哲が地球儀を手作りする場面。
地球が地球という風に丸いものだとわかったのは、マゼランの大航海時代と思っていた。
西洋人に地球儀をもらった織田信長だけが知っていたらしいが、まだ算哲の時代でも一般的ではなかったらしい。(だから、地球という言葉をはじめて作ったのは渋川春海だと出てくる。)

知と周知。

ずれがある。だから面白い。
過ちがある。だから面白い。

岡田准一、図書館戦争で小柄な人だと初めて知ったが、ガッツのあるすごい役者だ。
また、引越しのサカイで有名になった徳井優(名前、初めて知る)、この人も北極出地隊員の端っこにいたが、いい顔になった。背は低いが、そういうことはぜんぜん関係ないんだね。

2013年9月 5日 (木)

平成26年度診療報酬改定の動向(41) 急性期患者に必要とされる重症度・看護必要度とは

保健医療経営大学学長

橋爪 章

2013 年 9 月 5 日 平成26年度診療報酬改定の動向(41)

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入院医療等の調査・評価分科会の中間とりまとめで打ち出された、データ分析に基づく方向性の続きです。
重症度・看護必要度に関する方向性です。
~~~(方向性)~~~
① 複雑な病態をもつ急性期の患者に必要とされる重症度・看護必要度とは何かという観点から、特に、療養病棟の患者において該当率の高い項目や、項目に該当する患者像が本来評価すべき患者像と乖離している項目については見直しを行うことが必要である。
具体的には、
ⅰ)時間尿測定及び血圧測定については、項目から削除すること、
ⅱ)創傷処置については、褥瘡の発生状況を把握するためにも、褥瘡の処置とそれ以外の手術等の縫合部等の処置を分けた項目とすること、
ⅲ)呼吸ケアについては
喀痰吸引を定義から外すこと、
ⅳ)追加項目については、7対1入院基本料を算定する病棟において該当割合の高い、計画に基づいた10分間以上の指導・意思決定支援、抗悪性腫瘍剤の内服、麻薬の内服・貼付、抗血栓塞栓薬の持続点滴をA項目に追加することが考えられるが、このうち10分間以上の指導・意思決定支援については、実施すべき内容等定義を明確にした上で、A項目に追加すること、等について見直すことが考えられる。
② こうした見直しの方向性のうち、呼吸ケアの喀痰吸引については、気道内吸引、口腔内吸引、体位ドレナージ等、内容が多岐にわたり、各病態の患者に必要なケアは異なることから、複雑な病態をもつ急性期の患者にふさわしい内容は、重症度・看護必要度の項目として残すべきとの意見もあった。

③ なお、これらの見直しに当たっては、中央社会保険医療協議会において、現場の看護師への負担も含め、どの程度の影響があるかを分析した上で検討する必要がある。
~~~~~~~~~~~
7対1入院基本料の届出病院の多くは、看護必要度基準を満たすのに苦労している実情があります。
看護必要度の項目の削除や追加が大打撃となる病院もあります。

(保健医療経営大学学長ブログ転載)

▼コメントまとめ(上とは関連ありませんが)

コメント

エメさんの特選句は他の選者でも入選句になっていましたね。
句に優劣が全くなければ、一般の部で誰かに特選か入選に選ばれる確率は823分の540なので、2句を投句すれば1句が選ばれる計算なのですが、実際は優れた句を複数の選者が同時に選ぶので、確率はぐっと低くなります。
複数の選者が選んでいる句は、確かに、私なんか足下にも及びません。

(訂正)
828分の540でした。
823はエメさんの特選句。
828のオオトリはうたまるさん。

乙四郎句はゆたりとしたよみぶりの句でした

この世界あの文月に生まれしを   乙四郎
入道や岩戸のように雲隠し       〃

優雅すぎたんじゃないですか
長崎忌は文月、広島忌は水無月で、あいだに立秋がはさまります、かね?
地獄絵をハイクには詠めないから、おのずと周辺を意識はさまよう。
かささぎは四つもボウズだったけど
来年度頑張る
チョウコク忌とはすごい発見だと思ったのになあ
肇国忌。造語ですが。
日本国の神話に国のはじめのお話がありますが、それを捨て去ることがいとも簡単にできた。
それは原爆のおかげだとかささぎは信じてる。
過去の全否定から始まったのが今の世界で。
それがまたまずいといってるけれども、こないだまではそうだった。

かささぎは宮崎駿監督の「風立ちぬ」では泣かなかった。
だけど鹿児島の詩人の岡田哲也さんは泣いたそうだ。
あのかたの感想文はとても印象に残った。
(はなしがあっちにとび、こっちにとびしていますが、根っこはつながっているのでお許しくださいね。)

いまはむかし。ということばがあるでしょう。
ふしぎなことばだ。今も昔もきっとおなじように、これ以上は謝るまい。
と思う時があって、それで歴史がターンしたに違いない。

原爆忌のころというのは、乙四郎句が認識させてくれたけども、あはひの頃です。
季節にとればそうなんだけど、農事でいえば、ことに稲の生育でいえば、青田が最も青いころ。もうすぐ穂を孕む稲に最後の水を与えなければならないころ。
あの年のコメの作況はどうだったんだろうか。

被爆かぼちゃも食したり、と句によんであったくらいだから。

あの夏は被爆カボチャも食べました  犬童ともよ(長崎)

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&ldtl=1&dtltbs=1&mcmd=25&st=update&asc=desc&pg=6&ndc1=611&ndc_lk=1&id=1000038384

ひとつ時代がおわりひとつ時代がはじまる記念日のつもり
って言わなきゃ分からんかいな

九州俳句の岩坪英子さんの樹が素晴らしかった

きのこ雲思考という帰路うしないて  英子
ひとめぐりすれば噴井のような樹よ   〃
彼女が今、面白い!

最近新聞の論壇批評でだったか被爆についての世論と被爆者の感情の流れをまとめたのがありました。
あれは考えさせられる内容でした。

日本人自身が敗戦直後には原爆のおかげで戦争がおわったと言っていたのですね。

統計をとってみました。
828の投句のうち、
選者に拾っていただけた句は39.4%
2人以上の選者が選んだ句は14.0%
3人以上の選者が選んだ句は6.6%
4人以上の選者が選んだ句は3.0%
5人以上の選者が選んだ句は1.3%(11句)
6人の選者が選んだ句が1句(52番)
これは、現代俳句協会長賞に入賞しています。
5人の選者が選んだ句は、
695番(特選3人、入選2人)大会大賞
186番(特選2人、入選3人)九州俳句作家協会賞
345番(〃)西九州現代俳句協会賞
148番(特選1人、入選4人)実行委員会賞
182番(〃)実行委員会賞
218番(〃)実行委員会賞
489番(〃)実行委員会賞
629番(〃)実行委員会賞
539番(入選5人)空がまた揺れだす気配八月忌
741番(入選5人)長崎の夜景よ通夜の灯もあろう
4人の選者が選んだ句は、
115番(特選3人、入選1人)長崎県議会議長賞
392番(〃)長崎県教育委員長賞
777番(〃)長崎新聞社賞
63番(特選2人、入選2人)長崎平和推進協会賞
418番(〃)優良賞
526番(〃)優良賞
748番(〃)八月の大きな石に腰おろす
29番(特選1人、入選3人)八月九日朝垂直に切る豆腐
503番(〃)被曝図のかげろえるまで沖を見る
28番(入選4人)噴水にゆがむ日輪ナガサキ忌
415番(〃)八十路一団よろよろとゆく爆心地
515番(〃)八月の水の底にも消えない火
712番(〃)いくさあるな昼寝の園児足伸ばす
727番(〃)闇を抱く母に添寝の八月忌

うわ。どうもありがとう。
これをはりつけるだけですぐ食べられます。
ありがたいなあ。
えめさん。この大会は今年第六十回だとあります。すごいシンクロだわ。
やはりあの句はいい線いきましたねえ。

ぱっと読んだときにイメージが二重に浮かびました。

噴水が砕く青空原爆忌   えめ

噴水が真っ黒のきのこぐもに暗転する怖さ。
さらっとこんな句がでてくるえめさんはすごい。

原爆忌語ることなく人逝けり  一ノ瀬 凛(孝子ちゃん)

たっこちゃんは無心の構えでいたいとこを衝く。苦労人。

頼りしは一本の杖原爆忌     田中恵美子(たかみやのえみちゃん)

これはもともと、パーキンソンになったご主人のまあちゃんのことを詠んでいた句なのですが、原爆忌とあわせると、まるで原爆忌自体が、人を支える杖の役目をしているかのように思えるのでした。ひさびさに俳句に誘ってよかった。また書いてね。

山王の鳥居に響くクスのせみ   調 うたまる
広島へ想い受け継ぎ長崎へ     〃

うたまるさんの二句、独特ですよね。
そのまんまの手を入れていない原石の輝きみたいな光。
調一族の有名な医師が長崎にはいらして、ご親戚だとか。
ということも加わっている?とりにとってもらっていた。

澄たからさん。旅仕舞の句が出ました。
ご主人のお父上を詠んだ句とか。

特攻の笑顔や若葉ざわめけり  たから
杖つきぬ同期の桜旅じまい   

特攻から、久能中尉の第一号特攻の記事へついたコメントを思い出す。
けれども、大石政則日記を転載していたわたしは、たとえそれが敵艦にとどかなかったとしても、どれほどの重圧にたえて敵陣へ向かったことかと思われてならない。
立派な特攻だったと称えてあげたい。

樋の口へ青葉若葉のダイビング  かささぎ

穂孕みの水引く青田肇国忌      〃

澤田都紀子    殻負うてでで虫自由に這う命

この句、地味だけども味わいのあるいい句だなあ。

さわださんは連句の沢都。文章に、「赤とんぼ」という名作あり。

どこかに引用していなかったっけ。沢田のおじいさんが零戦を作っていた話。
緊密な文章で、町工場の青春が香るような。もう一つの風立ちぬ。

八山呆夢      街中の川に蛍の夢を見む

古賀音彦       雨三日トマトの根元草繁る

東妙寺らん     石段に青いホオズキ座ってる 

おがわ千代    魔を滅す使命ありけり原爆忌

どちらさまも参加いただきありがとうございました。
やはりこれは特別な大会だなあと感じます。
毎回学ばせてもらっている。

※山下整子さんと中山宙虫さんが出ませんでした。ざんねん。
この二人がいちばん上手なのにな。

(せいちゃん、うたは応募してくれた?わたしは何もできなかった。暇ないもん。 )


 

投稿: 傘 | 2013年9月 4日 (水) 23時34分

2011年9月29日 (木)

八女戦国百首和歌に新たな論客登場を祝し、長々とコメント集成。

コメント

おはようございます。
ふとしたことから,この不思議で魅力あるブログに行き当たりました。

ここ数日色々と読ませていただき,やはり姫野さんが女性であるという確信を得ました。(笑)

俳句をなさる方には「〜子」と名乗る男性もいらっしゃいますので,記事を拝見しながら,文末表現から時に男性のような気もしていたのです。

小生は以前県南に勤めたことがあり,様々な懐かしい場所や事柄が登場するのに惹かれ,カテゴリー別に大半を読ませて頂きました。

記事中にしばしば登場する竹橋乙四郎氏が橋爪章氏であるという事もやっと同窓会の文章の所に至り,了解しました。

八女や黒木を含む筑後一帯は間違いなく何やら大きな魅力を秘めたエリアのようで,日本の古代史の重要な場所の一つです。

橋爪氏には是非とも古田武彦氏の初期の著作『盗まれた神話』と『失われた九州王朝』をお読み下さるようお伝え下さい。
(いくつか版がありますが,角川文庫のがハンデイでお薦めです。しかし,これは既に絶版ですので,古書店の店頭か「日本の古本屋」のサイトで探すしかありません。後者が簡単に早く見つけられるかもしれません。)

古田氏の著作の全ては薦められませんが,初期のものは大いに参考になります。

これからも,しばしばお邪魔させて頂きます。どうか,宜しくお願い致します。
時節柄,ご自愛下さいますよう。不一。

ごいんきょ。
すけさんかくさんはいませんが、どうかくつろいでいっておくんなさいまし。
お茶ひとつさしあげることはできませんが、不出来なかささぎめに、どうかいろいろとご教示ください。
おかげの一句。

「不一」とは虔(つつま)しき鵲(かち)の羽の蒼 

はじめてであったのです、不一↓

http://dic.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&dtype=2&ei=utf-8&p=%E4%B8%8D%E4%B8%80

ハハ~ン、ここですね、原因は。
きょうね、うちのブログにいつもの倍のお客さんが来んしゃったとです。アクセス数を見て驚いた。

なんでだろう?なにもめぼしい記事はないのに・・・と思ったら、ここで、ご紹介してもろうたとですね。なんでこんなに急に人気ブログになったんだろ?とびっくりしましたが、はい、一過性の現象だとわかり、ちょっと安心しました。

百済と日本との関係は、七支刀の謎解き以来、気になっています。
大善寺玉垂宮の由緒書によれば、玉垂命は西暦369年に大善寺に御宮を造営して筑紫を治めた、とあるそうです。
七支刀が「倭王」へプレゼントされた年に起きた出来事です。
古田武彦氏は、百済は九州王朝の遷都を祝って七支刀を贈ったのではあるまいか、と推定しています。
523年以降の数年間は、激動の年です。
(年表)
523年 武寧王崩御(百済)。
524年 聖王即位(百済)。
525年 百済と新羅、国交を結ぶ。
526年 武寧王妃亡くなる(百済)。
継体天皇、初めて大和に入り磐余(奈良県桜井市)に都す。
527年 近江毛野臣、兵六万を率いて新羅に破られた南加羅・喙己呑を再興して任那に併合しようとするが、新羅は磐井に財貨を送って毛野臣の軍を防ぎ止めるよう勧め、磐井の乱が勃発する。
528年 磐井亡くなる。
529年 百済に高句麗が侵入。
530年 近江毛野臣、対馬にて病死。
538年 百済の首都を泗沘に遷都し、国名を南夫餘に変更。
百済から倭に仏教(仏像・経典・僧侶)を伝える。
蘇我氏(崇仏派)と物部氏・中臣氏(排仏派)とが対立。

武寧王陵の陵碑文は次の通りです。
「寧東大将軍百済斯麻王年六十二歳癸卯年五月丙戌朔七日壬辰崩到乙巳年八月癸酉朔十二日甲申安暦登冠大墓立志如左」
古田武彦氏は武寧王陵碑を見学し、その碑面の字の「癸卯」の部分が改刻されており、原刻は「甲辰」であったことを確認したのだそうです。
武寧王の没年は『日本書紀』や『三国史記』では癸卯。
古田氏は、干支が一年引き上がった暦が百済では採用されていて、武寧王埋葬後まもなく暦が現行暦に変更され、王妃の埋葬時に改刻された可能性が高いと指摘しています。

『よく分からない話。』

今日の乙四郎氏の「ついに解けた」というコメント(記事)を読みながら,いったい何が解けたのかという疑問を抱きました。

互いの基本認識は,下記2点です。

(1)武寧王が亡くなったのは,
[523年〕6月7日。

(2)『八女戦国百首和歌』が豊饒濃守源鑑述により奉納されのは,[天文卯年(1543)〜]。

したがって,武寧王千年忌は1543年でなく,[523+1000]=1523年でなければなりません。

何か勘違いをなさっていらっしゃるのではと思われますが,あるいは小生の考えに間違いがあるのでしょうか。

昨日のコメントに脱字があるのに気が付きましたので訂正させて頂きます。失礼致しました。

『八女戦国百首和歌』を奉納した豊饒[美]濃守〜。

【気付き】
『八女戦国百首和歌』という書名は元々のものではないように思われますが,いかがでしょう。

それは,今でこそ“天文”年間は戦国時代ですが,当時は“戦国”などという呼称はなかったものと思われます。

したがって,“戦国”の2文字は後世転写の段階で入ったのではと考えられます。

それとも,当該の作品には題名は付されていないのでしょうか。

まだブログ記事の全てに目が通せていませんので,或いは小生の早とちりかもしれません。

>したがって,武寧王千年忌は1543年でなく,[523+1000]=1523年でなければなりません。

干支は60年周期なので、1000年に最も近い60の倍数の1020年を千年に近似してみました。
1000というぴったりの数に美学を求めるか、干支周期に美学を求めるか、の価値観によります。
ちなみに1500年忌は60の倍数なので、12年後の2023年となります。
http://lunabura.exblog.jp/16421532/

>いったい何が解けたのかという疑問

八女の百首和歌の奉納年と干支との間に12年の誤差があった謎がずっと気がかりでした。
気にしてた人はごく数人ですが・・・

そう、それなんです。
十二年の誤差。
これを気にしていたのは、天文歌人という項目を掲げて八女百首和歌を紹介した江戸時代の考古学者・矢野一貞その人。
竹橋乙四郎。この人は調べる人なんです。
おとといのご隠居さまがおすすめくださった古田たけひこ先生のご本はよんでるんじゃないかとかささぎはおもうのですが。
矢野一貞と古田先生と少しかさなるところがある。矢野の研究はずうっと後年になるまで認められなかった。
今から父のところへ服をなげいれて、それから仕事。ではいってきます。
よるにまとめるから。

小生は以下のように考えました。

杉山洋氏の『善知鳥吉三の八女夜話』No.788あるいはNo.789に当該資料の奉納に就いての経緯が記されています。

奥書の奉納年次の干支が12年ずれていることは,確かに問題(不審)ですが,だからといって『抜書』の説明を無視して,新説(武寧王云々)がその不審を解決することになるでしょうか。

(1)『百首和歌』は筆蹟が天文期から江戸前期のように思われますが,干支の筆蹟が本文と同筆なのか否かに就いては現物を見ないことには何とも言えません。本文の手馴れた筆蹟は,連歌師等のプロの手によるものと思われます。

(2)『抜書』は明らかに『百首和歌』よりも時代が下ります。

(1) がオリジナル(原本)であるのか,それとも時代が少し下る時期の写本なのかについては[料紙]等の検討が必要です。

『百首和歌』なのに,一首足りないという状況は,原本書写の際のミスによるのかもしれません。

『開記(ママ)抜書』には「自ら書き奉納」とありますが,現在残る『百首和歌』は明らかにプロの手になるもの。

という事は,当初奉納したものは各自の自筆。後(12年後)にプロの手になる浄書本を再度奉納したという事なのかもしれません。(書写者はそのことをさり気なく示したのだと思われます。)

「武寧王云々」の入る余地はまったくないと思われます。

以前見た大内氏の系図には一番大事な地名に誤記が見られました。しかしながら,それは単なる書写者(プロ)のミスではなく,原本ではない,つまり写し(コピー)であるという事の明示ではないかと思われました。

武寧王に惹かれるのは、武寧王と磐井との同時代・同地域性からです。
百首和歌が奉納された場所が岩戸山古墳の今伊勢宮であるということから、筑紫の君磐井に読み解きの鍵があるであろうというのは自然な推理。
武寧王については、磐井との濃厚な姻戚関係があるという説があること。すなわち、磐井の血縁である可能性があること。
磐井と同時代の、磐井の乱を抑えた継体天皇(507-531)は皇室血縁の正当性に疑義があること。
継体天皇の没直後、空位、安閑天皇、宣化天皇と皇位継承に混乱があったこと。
(継体、安閑、宣化の親子が次々に暗殺されたという説あり)
その後、継体天皇と皇室直系の手白香皇女との間に生まれた欽明天皇(539-571)が即位したが、手白香皇后については武寧王の血縁説もあること。すなわち、磐井の血縁の天皇が即位した可能性があること。磐井のリベンジ。
欽明天皇が即位した直後(欽明天皇元年)、磐井討伐作戦の主犯である大伴金村が失脚したこと。
欽明天皇の時代、百済側の古文書に磐井の後裔の活躍の記録が散見されること。

武寧王の登場の余地はあるのではないかと思います。

ほうらね。乙四郎はなかなか面白いおとこじゃろうが、ご隠居。

あたしはなんも知らんばってん、一つ乙四郎の論点ではっと目がさめるようだったのは、千年紀をまつる、ってのは、西洋の思想かもしれんなあ。ということでした。ミレニアムがどうのって大騒ぎしたのはつい十年前のことでしたよね。
そうそう、あのときさ、なぜ、だれが、大神宮のなかで慶事のお能、神事能といわれる「翁」を舞わせる興行を計画したのでしょうか。それ、わたしはずうっと気になっている。梅若なんとかいう有名なお能の人が舞ったんじゃなかったかなあ。とっても客がおおかった。正月です、たしか元旦かそこら。
二千年だったか、二千一年。笑。すみませんねえ、かささぎ、どうも記憶がぼける。

で、乙四郎がいうように、えとは六十年で一回りする性質があります。華という字には十が六個ありますんで、還暦を華甲ともいいます。それを思えば、むかしの陰暦に暮らしていた人々の意識は今のわたしたちとはまったく異なっていて、それは無意識の次元からまったく違っていたってことです。
六十の倍数で時をはかっていたのかもしれません。よくわかりません。

ただ、すぎやまおんじいのブログをよんでいたら、
松嵜英一氏の遺した読みが手元にある、とありました。それ、ブログに出してくれないでしょうか。
いや、なぜってかささぎは無くしてしまったんだ。
そういうてえげまんげなところがかささぎにありまして、でも松嵜さんの一次解読のそれがあると、自分のよみ解いたところがはっきりすると思って。

それにしても、なぜ松嵜さんは61くらいで亡くなってしまったのでありましょう。おしむべきことです。

いつもおもいます。
すぎやまおんじいブログをよみますと。
なぜかささぎのかいた石橋秀野ノートのこきおろしをやらんのだろうかと。あの性格だし、きっといっぱい突っ込みたいでしょうに。
いまなら、なにをいわれても、かささぎは泣きませんよ。だって、ほんとうに間違いばっかだったから。

それと、ご隠居へ。
八女戦国百首和歌という名前は、そういや、わたしが勝手につけたような気がします。だってさ、ほんとうに戦国時代真っ只中ですからね。
それ、読んでいてもびんびん感じましたよ。どこらへんかって?
憂き世。

八十九    橋     頼運

これも又憂世をわたる心かは
賤が深田を越ゆる柴橋

九十六    述懐    鑑教

かへりてもおなじ憂世とおもひとる
爪木の山にいつまでをへん

九十九   祝言    塩亀

なべて世に神の恵みのはやくして
よろこぶ事をかさねつたへん

100首目がないのはわざとないのだとかささぎは思っています。ほら、行き着いてしまったら崩壊があるのみ、という思想で、建築なども完成の一歩手前で寸止めというか、わざと手を抜いた。例、日光東照宮。それとおなじ思想をかれらはもっていた。
えんぎとよむのか、塩亀の最後の挙句(?)は、
歌としてよんだとき、とっても違和感をもったのは、神のめぐみの「はやくして」。
そんなの、みたことない。
まるで、早く早く、かみさま、たすけて!
と呼びかけられている気がした。

これだけの量の歌を、五百年も前の武士たちが今に残してくれたことが、すばらしいと思っています。
まだいくつか書きたいこともございますが。
よみとかせてもらえたことには、感謝するべきか。それとも、なんの因果かと悔やむべきか。

【あらためての考察】

残念ながら乙四郎氏は小生の言う『抜書』に記されている奉納の経緯をまったく考慮せず,武寧王と磐井に就いての思いつきのみから干支のズレを考えようとされています。

杉山氏の『善知鳥吉三の八女夜話』に紹介されている『抜書』は原文そのもののではありませんから問題はありますが,最初奉納されたものは当該部分が「各自の自筆」である寄合書き(分担執筆)だったのだと思われます。

現在残っているものは,全文一人の手になるものと思われますので,『抜書』に云うところとは異なっています。

したがって,現在残っているものは後世(12年後)の再写本(浄書本)と考えるのが妥当だと思われます。

まずは,その資料事実から考えるのが研究の常道だと思われるのです。

『抜書』にあるような経緯に就いての伝承がなく,また豊饒美濃守源鑑述が,例えば周防山口の守護大名大内氏のように,自らの出自を百済系(聖明王の第三子)であるなどと言っているのであれば,武寧王云々も考えられなくはありません。

しかしながら,そのような事実はないように思われます。

収録歌が一首足りないのは,最終の99首目が“祝言”で完結していると思われますので,やはり途中の一首が落ちていると考えざるを得ません。

何はともあれ,現物或いはコピー等拝見したいものです。

今一つ気になるのは,大神宮は
(1)いつ,(2)誰によって勧請されたのかという事です。

皇室の祖神を祀るお宮ですから,他のお宮のようには簡単に勧請出来なかったのです。

『百首和歌』の冒頭(今伊勢寳前)さらには奥書から天文二十四年(1555)には現在地に存在していた事は確かでしょう。

伊勢神宮の最初の地方への勧請は,永正17年(1520)山城の管領代として幕政を牛耳っていた六ヶ国守護の大内義興が後柏原天皇の許可を得て,吉田社の仲介で自らの領国周防山口に勧請したのが最初と云われています。

したがって,それから35年後に筑後に勧請されていたという事実に驚かされますが,直接伊勢からなのか,それとも例えば山口からなのかに就いては考察の余地があります。

ご隠居。
乙四郎の説は、専門家からみたら、単なる思い付きでしかないんですね。ふうん。
ではありましょうが、こうもちょうどのところに時の石(意思)が落ちてたら、なんというシンクロと、わくわくします。きっとなにものかが道案内しているんだろう。
かささぎは昨日寝るとき、ぶねいおうぶねいおうぶねうぶにゅう・・・とごろあそびをやっていて、さいごははにゅうのやどにいきつき、埴生の宿はわ~が~や~ど~と歌って、寝入りました。で、朝おきたとき、ぶねう、ってなんだったっけ、とおもった。
ぶねう。ぶにゅう、じゃなかったぶにょう。ゆたかな尿か?いやちがうぞ。地名でもあるようだな、大分の。・・・そうか!
ほうじょうだった。豊饒とかいて、ぶにょう。でした。今伊勢に歌を奉納した、みなもとの鑑述です。
ぐうぜん音がにているのですね、。

わたしは歴史をしらない、ただ□□□になっていた歌の空白部分を興味にかられてよんだだけの者です。だけど、どういう事情でか、だれも手をつけなかった歌をぜんぶ世に出す仕事にむりやりひきずりこまれてしまった。
それは杉山洋先生のブログをごらんになれば漠然とみえてくるように、八女の文化行政がみずから所有する宝のカチにきづかず、怠ってきたことが偶然あったからです。誰が悪いとかではなくそういうふうになっていた。かささぎがあっさり書いてしまえば、八女の地へおいでになった学芸員さまはよそものでいらしたため、土着のくせのあるいじわるじいさんと気があわず、とうとう仕事において一致協力が図れず、こうなったんじゃないかなあ。すぎやまのおんじい、あるいはその周辺のおのおのがた、この見方はいかが。え?そげんはっきりいったらいかんち?ごめんなさい。
きのうのおんじいのブログよまれましたか。
役場前に秀吉時代のしゃちほこが飾られたとか。行方知れずになっていたのがでてきたそうです。筑紫広門のいた城の。クリスチャンだった殿様です。

【あらためて思い出したこと】

『開記(ママ)抜書』に云う
「自ら書き歌巻一巻として奉納」について,あらためて思い出したことがあります。

明応4年(1495)長門住吉神社に連歌師の飯尾宗祇が『新撰菟玖波集』の完成を感謝して奉納した“法楽百首和歌”は各自自筆の短冊でした。

現在は折帖になっていますが,それは江戸時代初代長門府中藩主毛利秀元の寄附により改められた結果です。

宗祇は大内政弘の手厚い保護を受け,二度周防に下向しています。政弘の推薦により念願の『新撰菟玖波集』の撰者に選ばれ,完成の大任を果たしたお礼に人々に呼びかけ奉納したのです。

後土御門天皇や勝仁親王(後柏原天皇)など三十名の著名な歌人から寄せられたものです。

したがって,岩戸山の今伊勢の寳前に奉納されたものも,最初は現在のような巻子状のものではなく,短冊そのものだったと思われます。

現在八女市の文化財に指定されているものは,おそらく何らかの事情(閲覧の便等)により,短冊を写して一巻にしたものと思われます。したがって,本品に対する副本的性格のものと思われます。

ただ『開記(ママ)抜書』に「歌巻一巻として奉納」という表現から考えると,『抜書』が書かれた時には既に短冊自体は失われていたのかもしれません。

本来神の寳前に奉納するものは,時に右筆(ユウヒツ)の手になるものもあるようですが,原則“自筆”なのです。(以上,気付きまで。)

[追而]
杉山洋氏の『善知鳥吉三の八女夜話』,また貴女様の『かささぎの旗』は大変興味深く,どうしてもっと早くに行き当たらなかったのかと残念に思いました。

貴女の文章中に時々登場する“ぼん”という方,てっきり男性だとばかり思っていました。
まさか女性だったなんて(笑)

>思いつきのみから干支のズレを考えようとされています。
まさに「思いつき」のみです。
ホームランを期待して打席に立っても技量がない打者は凡ゴロが関の山。それでも打者はまぐれ当たりを夢見てバッターボックスへ向かうのです。そんなところにアマチュアの楽しみの多くが転がっています。
観客の期待に応えるべきプロフェッショナルだとそういうわけにはいかないのでしょうが、自分としては、推理小説のプロ作家のような厳しい視点ではなく、推理小説の読者と同じ視点で古代史推理を楽しんでいるだけですのでご容赦ください(でなきゃ、イスラエル十二支族と磐井とを結びつけるような楽しい推理ができるわけがありません)。
ところで、八女99首和歌の特色は、同じ語彙が多用されていることです。(事実)
ここに暗号の臭いを禁じ得ません。(思いつき)
また、歌がそれぞれ独立しているのではなく、出された歌と対を成す歌が多いことも特色です。(事実)
ここにも暗号の臭いを禁じ得ません。(思いつき)
語彙の多用例の代表的なものは「松」です。同音の「待」も併せると、数えきれぬほど。「夏日待」のタイトルの中にもあります。(事実)
これは、鑑述が兼「松」城主であることへの敬意かも。(思いつき)
ところで「松」と題した歌があります。(事実)
八十一  松  弘智
得てうへし松にならへる君が宿を
猶すみよしの神や守らぬ
ここに暗号を解く鍵がありそうです。「君が宿」すなわち正統な皇室のことを「松」と例えて、他の歌を解読せよと言ってるかのようです。(思いつき)
「君」「きみ」が使われている歌には、
一    立春  鑑述
君が代のためしにすめる千年川
かはらぬたねに春や立つらむ
三    霞  鑑實 
朝夕に霞たなびく小松原
きみがちとせの春ぞ久しき
の対(「君」~「きみ」、「千年」~「ちとせ」、「春」~「春」)をなす歌がありますが、そのほかの歌では、
八十二   竹  宗房
きみが代を久しかれとて植へをきし
たけの臺のかげ越しぞ思
のみです。(事実)
歌が前後連続している上に、「うへ」~「植へ」、「君」~「きみ」と二つも語が重なっていますので対を成していると考えてもいいでしょう。(思いつき)
ところが、不思議なことに、どちらの歌も「植へ」の送り仮名が「へ」になっています。旧かな遣いでは「ゑ」であるべきところです。(事実)
これは、敢えて「へ」と誤用して、暗号だよ、と強調しているのかも。(思いつき)
「小松」の語彙と「君が代」の歌詞の補完で前後の「君」「きみ」歌と関係性がある次の歌、
二      子日  鑑教
さゝれ石の庭に小松を引き植ゑて
苔のむすまで友とこそ見め
では「植ゑ」となっていますから、これらの関係歌を対比させると、「へ」が浮き立ちます。(事実)
これは、「得て植へし」ではなく「得て得べし」と読むのが正しいかも。(かささぎ思いつき)
「得て得べし」とは聞き慣れない言葉ですが、キリスト教の「信ぜよ。そうすれば救われる」という重要コンセプトを伝えるのに使われる一節、「すべて祈りて願うことは、すでに得たりと信ぜよ。さらば、得べし。」(マルコ伝十一章二十四節)が想起されます。キリスト教伝来の頃だし、この歌に「神」の語彙が同居してるので、キリスト教がらみの暗号だといえなくもない。(思いつき)
この歌以外で、99首和歌で「神」が登場するのは、
十九    三月盡  孫七
伊勢のうミや波よるもくさかきためて
くらす神代の春はいく春
四十八    月  塩亀
あまてらす月を清水にうつしきて
猶かけまつる伊勢の神垣
六十四  神楽  覚元
祈てふ事はおろかにあらし世に
しらゆふかけてうたふ御神楽
九十九   祝言    塩亀
なべて世に神の恵みのはやくして
よろこぶ事をかさねつたへん
の四首です。(事実)
「祈てふ事はおろかにあらじ」にもキリスト教の匂いを感じます。キリスト教はこんなこと言ってるけど、昔からの「神」に守られているのだと。(思いつき)
こんな風に、歌と歌とが何らかのキーワードのもとに網の目のように繋がっています。磐井に関連する歌というのであれば「岩」「祝」などもキーワードかも。(思いつき)
一    立春  鑑述
「君が代」のためしにすめる「千年」川
かはらぬたねに春や立つらむ
二      子日  鑑教
「さゝれ石の」庭に小松を引き植ゑて
「苔のむすまで」友とこそ見め
と、最初の2首に「君が代」の歌詞がてんこ盛りですが、なぜか「いわお」が隠されています。この99首は隠された磐井の真実を伝える暗号だよ、というサインかもしれません。(思いつき)
99首の中で「岩」が使われているのは、
十七    藤  宗右
岩に生ふる松にかゝれる藤なみも
をのれくだけて春ぞ暮けり
九十八    尺教(釈教) 宗右
岩つたふよ川の水のつふ/\と
とくをまことの御のりとぞしれ
の2首で、「祝」は、トリ歌の題(「祝言」)として使われています。(事実)
「岩に生ふる松」は磐井に始まる皇紀、「岩つたふ」は磐井の血が伝わっている、という解釈もありかも。「藤なみ」は天皇とりまきの藤原氏でしょうか。(思いつき)

隠居さまのおかげで、「思いつき」がパワーアップしてきました。

こんにちは。
合宿の件でと覗いてみたら「ぶねいおう」一色でした(笑
内容に関してはこの場で言葉をはさむ余地もありませんが。。

「思いつき」

私はこの言葉はとても素晴らしいものと感じます。
一筆書きが云々・・歴史や考古学、いずれも証拠となるものは「点」でしかなく点と点を結ぶ重要な要素は直感(思いつきから)始まると思います。決して「点」を無視しているものではなく、アプローチの違いというものでしょうか。。。
「思いつき」から「点」を繋げるのが先か「点」を積み上げて検証を重ねていくのが先か。。今のこの場で脳で議論をしても互いに求めるものは、なかなか交わりにくいかと思います。

仮に論理的考察を基点として捉えるも、実際に点と点を結びつけているのは人の感性。その「点」が本当に確かなものか。。仮に同様記載の文書が異なる場所に複数存在したとしても、いくら検証をしても当時の大きな文化的・政治背景からの時の権力者や人々の「思惑」や「成り行き」まで「点」の証拠を積み上げていく論理的考察からだけでは読み解けない部分が多々あると思います。
大脳生理学的に経験を持っている人はこの世に皆無。
所詮、その時代に生きていた人は今は誰一人いません。

「口伝とDNA回帰」

私は歴然たる事実して歴史を紡いでいるDNAには「幽かにその記憶はある」と思っています。そしてそのDNAが直感に大きく語りかけてくるような気がします。各人のDNAが無意識に「これを理解して。これからも子孫に繋いで」と。。。

先の合宿にて乙先生とお話した事があります。
「直感、とても大事ですよね。DNAの記憶を如何に呼び起こす事が出来るのか。。。」と。
私がなぜ古来の音を求めたり和歌・俳句・連句に興味があるかと言えば。。
そのDNAの記憶を少しずつ呼び起こしていく方法が古来から受け継いでいる曲音であったり、和歌・俳句・連句を「口伝」から学び楽しむ事と感じるからです。とても感性を刺激し変化させます。

ご隠居殿、是非一度連句をご一緒しませんか?
ご隠居殿の卓越した現在の知識とご経験に、さらに違った視点の感性がきっとまた違う新たな発見を見つけ出してくれるような気がします。

ご隠居

拝復、
ぼんは呆夢とかいてぼん、手芸好きでしっかり者の古風なおっかさんです。

どこのどなたか存じませんが、知らないことを教えてくださってありがとうございます。

ところで、わたしは抜書というものをよんでおりません。それはなんなのですか。ごぞんじでしたら、おしえてくださいませんか。
うたの写しのみでの印象でしかものを申せませんが
はじめからおわりまで、一人の人物の筆になるものです。年号もみたところ、そうです。
ご隠居の書かれている通りに、天文廿四年が実物を転写した年として、その右かたえに小さく書かれている癸卯こそが実際に奉納した年度の天文十二年の干支である、としますと、ご隠居、過去にそういうような表記法をとった先例があるのでしょうか。

神前に奉納するのは原則自筆、はいわかりました。

追記
これが八女市の有形文化財指定をうけたときの名称は、
うとうきちざのやめよばなしにはこうあります。

>八女市は文化財専門委員会の答申にもとづき平成七年一月二十五日付でこれを有形文化財に指定した。

指定名称は「天文二十四年源鑑述ら今伊勢奉納百首和歌」。

ちなみに、このころの文化財専門委員会長は杉山洋先生、副会長が第一次解読をされた故松嵜英一先生であると書かれています。↓

http://ameblo.jp/yameyobanashi/entry-10946546123.html

2009年6月 7日 (日)

天文年号誤表記の謎解明まであと一歩。

▼竹橋乙四郎のコメント

矢部の六地蔵。
天文17年申戊とあるが、天文17年は戊申。

↓(下のほう)

http://snkcda.cool.ne.jp/yabemurasi/6bunka/seiiki.html

上記のサイトから一部引用させていただきます。(かささぎの旗)

引用1

□奉造立十一面観音菩薩厨子
 意趣者仰仏日光輝転法為
 山門鎮静瑞憑三十三身変
 異得家門繁昌栄専祈者
 子孫全盛之連綿万変如意也
  □天文十二夘癸季十一月廿一日成就之
   雲護寺松林禅寺 持住 明意
  筑後州上妻郡河崎庄矢部村内
  当檀那願□栗原式部少輔源臣朝親直(花押)

引用2

六地蔵者下向七代調月宗仙居士 遺言信□
  
天文十七申戊季十一月五日逝矣(夭□)
  児孫清源(原)朝臣鑑量 造立□拝
  仏法灯前得威光
  正眼見来六塵主
  総在這裡明 
文化九申

▼ かささぎの旗がおもったこと。

天文12年は本当は癸卯ですが、上記の現物表記では「夘癸」とさかさまになっています。

天文17年は本当は申戊ですが、これもまた現物史料には「申戊」と逆になっている。

上記史料にもう一つ書かれている史料作成時の年号、文化九年「」、これは本当は壬申年です。

そして残るは、天文年間の戦国百首の年号の謎。
天文24年は本当は「乙卯」なのに、現物史料では「癸卯」と記されている。

かささぎが「希望」という歌を聴いていたとき、ひらめいたのは、「みずのと・う」は「きぼう」と音読みできますから、恣意的に「乙」を「癸」に書き換えたのではなかろうか。ということでした。それは「祈り」として、の意味です。

江戸時代末期の久留米が生んだ考古学者・矢野一貞は著『筑後将士軍談』で、この天文百首和歌を『天文歌人』の見出しをつけて紹介しています。そのときに感じた疑問に、おそらく年号の二十四年がまちがいではないだろうか。干支がただしいのではないか。と書いていたのですが、同年代のものに付された年号のうち、二つが誤表記の干支であることを思えば、年号よりは干支のほうが怪しい。と思うのがすじだろうという感じがしてきました。

これだけでは断然たりないのですが。
ほんとうに時代のあわただしさをじかに知ることができる史料だとおもった。

参照させていただいたこよみの頁 http://koyomi.vis.ne.jp/directjp.cgi?http://koyomi.vis.ne.jp/kyuureki.htm

2009年1月 7日 (水)

春秋を分けるもの  乙四郎語録33

八女戦国百首和歌『夏日侍』をよむ

    

      竹橋乙四郎

戦国の世の暦感覚


▼ 春秋を分けるもの      

(32番)  氷室     松寿

春秋をわけぬはかりか松かさき
氷室も夏をほかにこそもれ

春秋をわけるのは雁です。
それは松ヶ枝の先に来て又松ヶ枝の果てに消えてゆく。
飛翔という名の一本の航跡で季節を鮮やかに区切ります。
夏にはどこかほかの世界に籠っています。
氷室も夏はほかの処に籠って守られているのか。

     (上は試みとしてのかささぎ読み)

竹橋乙四郎の連句的


雁 ・・・ 春分の日に去ってゆき、秋分にやってくる。
松かさ ・・・ 松ぼっくりは秋の訪れ。
氷室 ・・・ 古来、氷室開きは春分の日の行事。

松寿という人物が不詳。
氷室開きは本州には行事として痕跡があるが、どうも九州にはなさそう。
遠方から来た特別ゲスト?
くるす野を詠んだ鑑秀の知人と見た。

わが国の氷室のルーツ、氷室神社が鎮座する西賀茂氷室は、古代には栗栖野と呼ばれていたそうです。

春もみる氷室のわたりけを寒み
こや栗栖野の雪のむら消え(源経信)

http://www.kagemarukun.fromc.jp/page036.html

ここが丹波篠山であることに目がいく。
丹波には籠神社があった。豊受大神をまつる。

かささぎの連句的

「くるす野」は源をよびさますつけあいだったかもしれない。

2008年6月26日 (木)

達するを恐れる

   暦論  その十三(むすび)

夏日待  雑の部

八十  暁    鑑述

あかつきの枕の夢の覚ぬるは
八こゑの鳥のつげわたる空

八十一  松   弘智

得てうへし松にならへる君が宿を
猶すみよしの神や守らぬ

八十二   竹    宗房

きみが代を久しかれとて植へをきし
たけの臺のかげ越しぞ思

八十三   苔    鑑栄

千代をかね松の下蔭苔むして
雨にいづれも色ぞまされる

八十四   猿(ましら)  覚元

秋の夜の月さへをそき山の端に
慰めとてやましらなくらむ

八十五   山     鑑實

ますらをが山分衣うちきつヽ
渡るや寒き岨の架け橋

八十六   川     鎮光

いかにせん河瀬のなみの色々に
月のさそへる船の行末

八十七   野     鑑栄

見渡せば移りにけりな春の野の
風より他に訪ふ人もなし

八十八    関     通次

せきもりの厳しく見ゆる陰ながら
行き過ぎ難き山さくらかな

八十九    橋     頼運

これも又憂世をわたる心かは
賤が深田を越ゆる柴橋

九十      海路    鑑實

うなばらや浪路はる/\旅だちて
いづくを船のとまりなるらん

九十一    旅     鎮時

明更の空にひかれて旅衣
いく野山をか越してきぬらん

九十二    離別    覚元

中々にうき旅人にともなひて
わかるヽときの袖のくやしき

九十三    山家水    述秀

すみなれて結ぶもいざや流れては
世にいづるてふ山川の水

九十四    樵夫     宗房

けふは又山路の雪を知りそめて
かはる嘆きの袖のくやしき

九十五    懐旧    宗右

古をつみてや誰もしのぶ草
しげる軒端の見しこともなき

九十六    述懐    鑑教

かへりてもおなじ憂世とおもひとる
爪木の山にいつまでをへん

九十七    夢     廣吉

待人はよもきが宿のよるの夢
さむるまくらに風ぞ声する

九十八    尺教(釈教)  宗右

岩つたふよ川の水のつふ/\と
とくをまことの御のりとぞしれ

九十九   祝言    塩亀

なべて世に神の恵みのはやくして
よろこぶ事をかさねつたへん

天文廿四年癸卯 * 卯月廿五日

長々と紹介した百首和歌もこれで満尾する。
完成を拒むかたちとして、百首目は、ない。
行き着いてしまえば、崩壊が始まるからだ。

さてここまで来て、ようやくこの歌に付されている年号が判明した。湯浅吉美編『日本暦便覧』 によると天文24年乙卯四月二十五日己丑小満、となっている。*

この時代は宣明暦が使われており、前年は355日、この年は384日、つまりひと月多い閏年である。十月が二回ある。(改元は十月二十三日)。

いまのところ私の浅学では、当時の人たちが実際にどんな暦を用いて時を知ったのか、見当もつかない。この史料の干支が間違っていることから、戦国の世の慌しさを推察するのみである。それにしても、九十六番さばきのつぎに名のある武士と思える、鑑教という人の述懐、

かへりてもおなじ憂世をおもひとる
爪木の山にいつまでをへん

この歌の深い諦念が胸をうがつ。前へ進んでも憂世、うしろへ退いても憂世。どこにも逃げ場はないのだ。だからこそ、うたを残したともいえる。

一昨年、たまたま八女市役所の学芸員赤崎さんに見せて貰った戦国時代の貴重な和歌を、たまたま通ってた柳川古文書館の解読講座のおかげと連句を通じて知ることができた俳諧学者の東明雅先生と連歌の光田和伸先生のわかりやすい講釈のおかげでなんとか読み解くことが出来た。この誌上で公開し終えた今、大きな荷をおろした気分だ。

これまで江戸末期の久留米の考古学者・矢野一貞(この人は、岩戸山古墳の周りを測量して、八女岩戸山が古事記や風土記に記載のある筑紫の磐井の墳墓であると初めて看破した人である)の『筑後國史ー筑後将士軍談』 の第四十四巻に「天文歌人」 の見出しで鑑述と鑑教の歌のみが紹介されているだけで、まだどこにも発表されていない。そんな貴重な史料を九州俳句という場で発表できたことがうれしい。

それにしても、なぜ、「今」だったのだろう。

        ◇

前回とんでもないミスをしてしまった。
それは、東明雅著『芭蕉の恋句』 からの引用で「一巻に恋句がなければハンパモノ」といって、芭蕉が昔の事例を引いて、門人達に教えた、その昔とは、当時よりも500年昔のことだ。・・と、まるで見てきたかのように書いてしまったことだ。間違いである。

「えっ。連歌は平安時代に始まったの」とたまげた人もいらっしゃるだろう。たしかに芭蕉にとっての憧れの歌人である西行は五百年ほど前の人だが、連歌形式が確立するのはそれより二百年ほどあとの戦国時代である。ということは、この百首和歌は連歌が生まれる端境期のころの作品といえるのではないか。ともあれ、素人のわたしには、なにをもって連歌というのかがよく見えないまま、古今集の紀貫之にも連歌(短連歌というのだろうか、一句のみのかたち)があるものだから、適当に書いてしまった。申し訳ない。

        ◇

さすがに、東明雅先生には、「私生活でとちめんぼうを振っていたため、まちがえました。すみませんでした。」と正直にわびた。すると熊本出身のこの高名な先生は、「五百年にはびっくりしましたが、運悪く貴方の振った栃麺棒に当たったのでしょう。今後はお手柔らかに」と寛大な返信を下さった。

            ◇

「俳諧は歌なり。歌は天地開闢の時よりあり。」 で始まる服部土芳の『三冊子』 にはきちんと歌の歴史が書かれており、初めて連歌の式目書を著したのは、後鳥羽院のころの善阿弥法師だといっている。だが、これも間違いらしい。のりかかった船とばかり、ほんとうはどうだったのかと堅苦しい歌論俳論集をあたってみる。興味のあるかたは、どうぞご自分でお調べください。和歌の始まりは、「連歌」つまり唱和のかたちだったことに気付かれ、目からうろこでありましょう。

論は最後まで書けなかったけれども、この拙い文章を読んで下さったあなたには、私の伝えたいことは行間から見えてきたにちがいない。時間、時代というのは生きていて、それ自体澄明な意志をもっている一つのカラダである。私たちの先祖はそれを霊的に知っており、だからこそ「形(フォルム)の文化」と三島由紀夫が呼ぶところの表現形式を古より営営と練り上げてはそれに同調し、果ては乗りこなそうとすらしてきたのであった。

    『九州俳句』129号平成十五年冬号より引用 

*  天文歌人の残した百首和歌の干支が実際の年号のえととは違っていることについて、矢野一貞はこう書いていました。

 ほかの同時代の史料をあたると鑑教という名の人が没した年は天文○○年であるようだから、この和歌の年号を記載どおり天文24年だとすると、その人はすでに生きてはおらず、おかしなことになる。であるから干支が正しいとすれば、癸卯は天文19年となり、その間違いかもしれない。・・・・(これは十年前くらいに読んだ記憶から書き出しましたので、かっちり正確ではないかもしれませんが、だいたいそのようなことをかれは書いていました。)で、いまふっと思ったのですけど、この奉納歌はじっさいの天文年間のものを後世の人が写本して伝えてきたものかもしれない。だから年号と干支とが合致しないというミスが起きたのではないでしょうか。 

ほかに、「豊饒美濃守」という尊称ですけれども、これはいったいなんなのでありましょう。ほうじょうみののかみ。役職を指すことばだろうか。まったくの無知であります。

吉永正春という人の書かれたお城の本に、、「豊饒美濃守」という名前の武将がちらりと出てた気もしますが。ごぞんじのかた、ご一報いただければ幸いです。  

2008年6月25日 (水)

天と地をつなぐもの

  暦論   その十二

夏日侍

    恋歌

七十   初恋     鑑述

見初つるその面影の身にそひて
わすれもやらぬおもひとぞなる

七十一  纔見恋 *  宗房

ほの見てし人に想ひをかけ初て
打いでぬ間の身をいかにせん

* 纔見恋・・わずかに見たる恋

七十二  不逢恋   鑑冨

今は我見る目も隠す言ふ甲斐も
なく/\袖のうらなみぞたつ

七十三  来不逢恋  嵐竹

とひきてもねぬときなれやくやしくて
おもひわすれじ庚申かな

七十四   度ゝ思恋   塩龜

ついにきてとはぬ仲かな花の春
もみぢの秋の空頼めして

七十五   片思     宗右

雨となり露とみだれて松の葉の
なびかぬ色にとしはへにけり

七十六   恨恋    鑑述

中々に身こそつらけれ今はたゞ
うらむるすぢをいふよしもなし

七十七  祈身恋   鑑秀

色かへぬ槇の下葉に立そひて
祈るこころも誰ゆへの身ぞ

七十八   後朝    藤次

とはぬ間を待ちならひたる夕より
わかれし今朝ぞしづ心なき

七十九   契恋    鑑述

黒かみの雪となるとも契りしは
かはりかはらじ頼むわが中

(※恋の字、実際は正字です)

君が代の歌に始まり、春夏秋冬の伝統的季題の歌が69首続いた後、恋がくる。この位置、この数。いかに恋が尊ばれたか。前回言及した二条良基の連歌式目での恋の扱いについて、昨春日本青年館での光田和伸国際日本文化研究センター助教授の講演の際に頂いた資料を基に、簡単に説明してみる。
天然界人間界のすべてが、人倫(ひと)を中心にして、合わせ鏡のように部立構成される。ぶだては具象抽象を含む森羅万象の分類だ。

天然界

1 天・・・光物(日月星)と時分

2 地・・・山類、水辺(海や川)

3 媒(なかだち)・・聳物(そびきもの。霞霧等)
                   降物(ふりもの。雨雪等)

4 飾・・・動物(うごきもの。獣鳥虫)植物(うえもの)

人倫・・・・我汝君人身友父母主誰彼某関守等

人間界

1天・・・神祇(神事)と釈教(仏教)

2 地・・・旅と名所(などころ) 

3 媒・・・恋と述懐(しゅっかい。懐旧、無常等)

4 飾・・・居所(家)と衣裳

この部立が、いまの歳時記の基層部にある事を記憶したい。

      ◇ 

七十三番「来て逢はざる恋」の面白さ。

訪ひ来ても寝ぬときなれや悔しくて
想ひ忘れじ庚申(かのえさる)かな

庚申の夜は、眠ると体内に住む三尸の虫(さんしのむし)が天に昇ってその人の悪事を天帝に告げ口すると信じられていたため、寝ないで起きていた。せっかく想い人を訪ねていったのに、みな起きている庚申待ちの夜であった。

恋句の伝統について調べていると、東明雅著『芭蕉の恋句』(岩波書店刊)と出合った。主として蕉門俳諧における芭蕉と門弟との恋句のさまざまを紹介されている。そのなかの一節。

・・・お前たちは知るまいが、昔は恋の句が出ると、相手の作者は恋をしかけられましたと挨拶したものであった。また五十韻・百韻の作品でも、その中に恋句がなければ、一巻とは言わず、半端ものとした。(「恋句の伝統」の章の芭蕉のことば)。
三百年前の俳諧師芭蕉が話している昔とは当時より五百年ほど前の連歌の伝統 *である。

      ◇

佐賀市立図書館で、本をみつける。『人は月に生かされている』(志賀勝 著、中公文庫)。三年前、暦論を書き始めたきっかけを思い出してしまった。グレゴリオ暦が均してしまった時空間への怒りや懐疑を捨てて、旧暦のゆったりとしたこよみがきざむリズムへ回帰する。
日本の歌垣に似た中国の伝統行事を同著に見つけたので、引用したいと思う。

月と女性の神話に、中国『淮南子』(えなんじ、紀元前二世紀前漢、劉安編)にも記載がある嫦娥(じょうが)伝説がある。
日本の月はうさぎが餅つきをしてるが、中国の月はうさぎが杵で薬をつくる。嫦娥は女神だったが、地上の暮らしがいやで天に戻りたがっていた。彼女は夫が異形の女神西王母から盗んだ薬を飲み、月にのぼる。嫦娥は月に着くとヒキガエルになっていた。この嫦娥は12の月を生んだ月神である。毎年二月から三月にかけて、桃や李の花が咲くころになると、あらかじめ田畑の畔の平坦な地をえらんで「月場」とし、晴天で雲ひとつなく、月光がうららかに照る夜に、お祭りの盛装に身をつつんだ若者と乙女が集まって、蘆笙を吹き鳴らしながら、輪になって踊る。これが「跳月」で、この場で意気投合した男女は合体にいたる。・・・恋に月が同座する。

       ◇

戦前の「大東亞鳥瞰絵地図」の嬉々とした陣取り野望図を笑いものにしたけれど、結果論でしか語れないのが歴史である。いま現在の刹那享楽主義ともいえる生き方も、のちの時代の人たちに厳しく糾弾されるのであろう。

横光利一の『旅愁』にこんな件りがある。

「今はむかし、といふ言葉があるでせう。僕らは何げなくいつも使つてゐるが、どうも恐ろしい言葉ですよ、これがね」
「何のこと、今はむかしつて?」
「今がつまりむかしで、今かうしてゐることが、むかしもかうしてゐたといふことですがね。きつと僕らの大むかしにもあなたと僕とのやうに、こんなにして帰つて来た先祖たちがゐたのですよ。むかし日本にお社が沢山建つて、今の人が淫祠といつてゐるのがあるでせう。その淫祠の本體は非常にもう幾何学に似てるんですよ。それも球体の幾何学の非ユークリッドに似てゐて、ギリシャのユークリッドみたいなあんな平面幾何学ぢやない、もつと高級なものがご本体になつてゐたんですね。つまり、アインスタインの相対性原理の根幹みたいなものですよ。それもアインスタインのは、ただの無機物の世界としてより生かしてゐないところを、日本の淫祠のは、音波といふ四次元の世界を象徴した、つまり音波のひろがりのさまを、人間の生命力のシンボルとして解してゐるんですね。それも函数で出てるんだから、自然科学も大昔の日本ではそこまで行つてゐたとは云はなくとも、そんなに非科学的なものではない。妙なものだ。今はむかしといふのは。」

この長い台詞を吐く主人公の名は矢代という。社であり、利一の言霊学(波動学)の一端がうかがえる。利一は宇佐を父の郷とするが、しかり利一は憂鬱な先学者だった。利一も芭蕉同様、五十そこそこで没した。

  『九州俳句』誌128号、平成14年秋号より引用

リンク:http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_26e2.html

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_c273.html

「太宰府」http://kotomachi.exblog.jp/3206008/

太宰府のこの紹介ブログは、大きな写真がすばらしいです!じっさいに参詣した気分になれますので、ぜひご覧下さい。観世音寺の鐘のところに菅原道真の歌がふされていまして、その歌に、「纔見恋」(八女天文百首和歌・夏日待71)とおなじ文字「纔」が出てます。鐘、必見です。後鳥羽院とも遠くひびきあっています。後鳥羽院は新古今集の歌を選定するとき、菅原道真の歌もたくさんいれました。

ここまで打ち込んで、はたと思い出す。
この文章を書いたときに、連句会の仲間だった生石の貞永まことは亡くなったんだなあって。52歳、早すぎる死だった。
ことし七月三十日が七回忌です。(七回忌、私は来年だとばかり思っていました。それと、命日も三十一日とばかり思っていました。でも、メモを見ますと、三十日です。まことさんがなくなった翌年の七月三十一日に知人の少年野球監督が四十代で亡くなったものですから、記憶が重なっている。)

2008年6月22日 (日)

臺上の蟻

    暦論  その十一


臺上に餓ゑて
月高し    

            横光利一

石橋秀野が一時小説の師と仰いだ横光の句だ。昭和初期の句である。現在は台という字をこの旧字にあてるが、台と臺では印象がまったく異なる。
前回文末に引用した大伴部博麻呂の美談は日本書紀本体からの引用ではなく、荒金卓也著『九州古代史の謎』(海鳥社)からの孫引きである。邪馬壹国(魏志倭人伝表記、臺タイでなく壹イチ)の本はたくさんあるけれども、これがいちばんおもしろかった。

著者は古田武彦を師とする在野の研究家である。冒頭にこのタイとイチの字の混同を糺すために古田武彦氏がなさったことを紹介されている。魏志倭人伝が記載された本編の三国志(小説とは別)全六十五巻にすべて目を通して、その用い方を調べたという。するとこの二つの漢字、壹と臺はきっちり使い分けがされており、誤記されている箇所はなかった。

臺は皇帝の宮殿を指すことばらしい。邪馬台国が邪馬臺国ではなかったことにまず驚き、大和朝廷の日本国統一以前にすでに太宰府を都とする九州王朝(倭国)があったとする論の建て方に、あらがいがたい魅力を感じた。

そして私は連句的にこの横光の蟻の句を考えずにはおれなくなる。臺上の蟻句は、時代霊への存問の句だ。芭蕉の血をひくと信じて疑わなかった、昭和初期を代表する作家の句である。この「臺」一字に、かれはどんな想いをこめていたのだろう。もしも彼と同時代の人に聞けるものなら、尋ねてみたい。思えば昭和の大戦後、国語の表記はあっけなく変革された。敗戦の体験が痛ましすぎて、すべての記憶を一度無にせねば耐えられなかったかのように。だがなにか肝腎なものを取りこぼしてしまったのもまた、事実だ。

ほんとうは邪馬壹国なのに邪馬台国とよびならわしてしまったような間違いを、ほかにもたくさんしているにちがいない。

      ◇

亡き祖母の箪笥から、昭和十三年師走の「家の光」誌付録の「大東亜鳥瞰絵地圖」が出てきた。大判の絵地図で、日本列島は右端にちいさく描かれ、中央にはでんと中国大陸がある。大陸各地の特産品が絵で描かれ、別枠で「皇軍占領區域」を赤で色分けしてみせている。当時は大日本帝国だったのだ。まるで陣取り図のように、牧歌的ともいえる欲望をまるだしにした地図が、全国の農家に届いていたのかと思うと、時代を支配するモノの存在、時代霊ともいうべき実在の通過がふっと感知され何やらおそろしい。

この恐れはまた、歌仙を座でさばくときのおそれにも通じる。みえない糸を見ることにおいて。

去年、日本青年館で『芭蕉俳諧の真価』 と題して熱のこもった講演をなさった光田和伸氏の「わたしたちは、二条良基という天才が作ってくれた連歌式目を、世界に誇ってよい」 ということばが突然記憶によみがえる。現在の連句式目や俳句歳時記の源には、この式目がある。天然界と人間界のすべてを整然と分類し緻密に秩序だてた、うたの哲学。

源鑑述百首和歌の冬の部に入る。
それにしてもこの百首和歌に名を連ねている武士たちは、うたの教養を身につけた当時の文化人であった。いまだに私はこの24人のうち、ひとりの素性すらわからない。だが「柳川市史」「大和町史」*などで当時の古文書に似た名前の武士をみつけると、みな弘治~天正年間に戦死している。佐賀で、あるいは豊後で討ち死にしている。当時は九州の広範囲が豊後大友氏に制圧されていて名前に鑑と鎮がつく武士がやたらと多い。だからこのなかの連衆だと確認することはとうてい不可能だが、骨肉相食む戦国の世に、かくも優雅な歌を残した二十四人の天文歌人を、わたしはこころから尊敬する。

      ◇

 「夏日侍」  冬の部

五十五   初冬   鎮續

山姫や手染の色を白妙の
雲の衣にかへてたつらむ*

五十六   時雨    鑑教

むすぶてふ柴の庵のとこの上に
まなくしぐるヽ雲のよな/\

五十七   霜    鎮時

天つ星ひかりつつゆくあかつきの
空よりやがて霜やをくらむ

五十八  霰    鑑実

閨近き楢の枯葉の玉あられ
音してかへす夜半の夢かな

五十九  雪   鑑述

かきくもる雪に出で立つ朝あけや
枩に花さく岡の辺の山*

六十   千鳥   鑑教

霜さむきよるはすがらのうらなみに
なきたつちどりいづち行くらむ

六十一  氷    牧也

氷るかとかけひの水のたえ/\に
寝覚めさびしきあかつきのとこ

六十二  水鳥   鑑実

打羽ぶくこゑこそたゝね池にすむ
をし明かたの霜やさゆらむ

六十三  網代    鎮續

氷魚のよるながれも見えて田ノ上や
まもるあじろのとこはなれせぬ*

六十四  神楽     覚元

祈てふ事はおろかにあらし世に
しらゆふかけてうたふ御神楽

六十五  鷹狩    鑑栄

ふる雪に狩場の鷹の一つがひ
花をはらへる袖かとぞ見る

六十六  炭竈     鎮時

さしこもる小野の炭がま都にも
こころしられて立つけぶりかな*

六十七   埋火    宗右

さゆる月の老のおもひを埋づますは
何にかからむ夕べならまし

六十八   寒梅    廣吉

木ヽにつむ雪をはらへばはるをまつ
むめの匂ひにをどろかれけり

六十九  歳暮      鑑栄

忘めやあか井の水にとし暮て
わが身のかげをなにとくむらん*

冬の歌はここで終り、恋の歌が始まる。

「九州俳句」誌127号より引用

*  当時柳川古文書館で月二回無料の古文書解読講座がひらかれていて、八女市民にも開かれていました。初級と中級、二年ほど通いまして、実際のテキストをなんとなく読めるようになるまで指導していただきました。先生は九大の教授と古文書館の学芸員さんでした。その当時は柳川市史編纂中で、ちょうど大和町史が出来上がったばかり、四千円で買わされた記憶があります。もんんんのすごく分厚い!つけもの石にできる重さ。内容はふつう。が、相撲の歴史というのがついていて、それはおもしろかった。雲龍ってひとがでているんですよね、この地からは。

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