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2009年9月 3日 (木)

和田重雄著 『貞享版 黒木物語』

井筒屋古書部ネット販売で入手いたしました。

手にとってわかる。これは借りる本ではなく、もっているべき本。

写真は扉。右の山の上に猫尾城跡、中央奥に高牟礼城跡。

流れる川は矢部川です。

こんどの連句興行は、ここを左にみて矢部川の橋を渡り、猫尾城とは川を挟んだ山上にあるグリーンピア八女でやります。お楽しみに。

郷土の史話(一) 貞享版 黒木物語
 昭和58年(1983)11月3日発行
 福岡県郷土資料調査員
 黒木町文化財専門委員会会長
 編著者 和田重雄

 (資)東兄弟印刷所

「まえがき」にかえて  より幾つか引用いたします。

1 「黒木物語」は貞享五年1692年黒木住人 北川藤左衛門尉作(編)を再起。
 9メートル10センチの巻物一巻である。糊はずれのため、はじめと中ほど二箇所が欠落、それを「調城古談」と「黒木軍記」で補い、原本に近いものへと復元、再編集した。

2 「黒木物語」などの物語本の起源は主として中世(鎌倉以降戦国時代まで、1190~1600)ころの編纂。大衆にとっては読む文芸ではなく、琵琶法師や山伏の唱導する語りを耳で聞く文芸であった。

3 筑後国の「一の宮」久留米の高良大社は、筑後国中の僧侶、神官の総元締であった。
同時に盲僧の元締でもあった。多いときは、二、三千人を数える盲僧を擁し養っていた。
生活費や大社の維持費をまかなうため、芸を仕込んでいた。物語台本を与え、琵琶を持たせ弾じ語らせていた。そして村から村へ娯楽に乏しい山村をまわらせ、町部を渡り歩かせた。そのお布施は高良大社に納め、不自由な身を養ってもらっていた。
二、三千人の盲僧は、高良大社の管理化にあり、盲人座を作ってその監督を受けていました。

4 北川藤左衛門尉の作といわれる黒木物語は、盲僧の弾じる台本だった。が又黒木物語の編集は、紀州国高野山で行われたものとも考えられる。まず高良大社の社僧を黒木地方へ遣わし、鎌倉初期からの素材=話のもとになるものを集めさせ、それを紀州にもっていったと考えられる。
  高野山には、高野比丘尼(女僧)や高野聖(学僧)という唱導文芸家がいて、教祖的文学を創作して広めていた。弘法大使の伝説がそうしてひろまったものだし、ほかにも多い。

2009年8月24日 (月)

博才とはなにか。

博才=ばくちに勝つ才能。

長男へ言い聞かせたことの一つに、自分の小遣いは自分で稼ぎなさい。
ということがあった。
これは最重要項目であることを何の苦労も知らない青年に解らせた。
結果、彼は週に二回、コンビニで深夜バイトをするようになる。

あたりまえのことだ。
父親が失職して、無収入なのだから。
学費はなんとか母が工面してあげるけど、生活費はあなたが稼ぎなさい。

むすこは二年前、派遣社員として岐阜に行っていた時期がある。
そのころパチンコをして、勝って、株をやっていたらしい。
いや、なにも話さない。でも、部屋を片付けていたら出てきたのだ。
通帳。すぐ撤退したようだったが。

本を買っている。

たとえばこんな。

「なぜ投資のプロはサルに負けるのか?」 藤沢数希

「マンガでわかる株式投資!ー女子高生株塾」 ホイチョイプロダクションズ

「他人を見下す若者たち」 速水敏彦

ライトノベル作家の上遠野浩平が好きな長男。誰よりロマンチストなんだよ。
兄ちゃんは何を考えてるのかわからない。
と弟に思われているけど、やはり兄は兄なんだな。と、さいきんおもう。
父の仕事をしてくれる。米のすりはぎ係、運ぶの重いんだよね。

博才とは何か。

それは負けを察知したときに、冷静にさっさと撤退する才能のこと。

むすこには、どうやらその博才があるような気がする。
(ばどさん、うらやましかろ)

あきれた母親だとじぶんでもおもうとります、はい。
どうか、ぶたないでください。

2009年8月13日 (木)

『お伊勢まいり』  西垣晴次著

あった荑

朝、この本が足元におちていた。
結構あることです。
読んでおくれ、とあちらから肩をとんとんと叩くみたいな。
かささぎの机はいつだってごちゃごちゃしてる。

んで、ぱっとひらいた頁が15世紀の山田と宇治の抗争時代。
神人(じにん)=神職集団と神役人(じやくにん)=御師が醜い争いをする。血で血をあらう。
外宮と内宮の争い。

荒木田守武については直接載ってはいないみたい。
でも、さっきのところに、こういう記述がある。

「そうして、神は高いところから降りてこられるし、別の処から飛んでこられるのだと考えられていた。飛び神とか飛来神とかよばれるものである。そうした神が出現するのが影向(ようごう)であり、影向石とか影向松にまつわる伝説は各地に多い。影向したり、飛び来たった神がその地に定住するようになると、その地に昔からいた神は片隅におしやられてしまう。」
  中略
さて、「今神明(いましんめい)」という狂言がある。
「此頃、宇治へ神明の飛ばせられたが、これを今神明と名付けて、夥しい参詣がある。」
「宇治へ神明の飛ばせられて、申し事が叶うと申す、参詣致そうと存ずる。誠に末世とは申しながら、奇特がござる。」

ここから、宇治に今神明とよばれる社があり、それは神明が飛んできたことによるもので、流行神的に多くの人を集めていたことが知られる。

ところで、この狂言でも神明=伊勢の神が飛んできたことに、別に不審を持ってはいない。伊勢の神が伊勢の地以外に飛んだのは、これが最初ではない。

応永十四(1407)年の二月、若狭(福井県)の小浜に近い白椿上谷に天照大神が影向し、その三年後の応永十七(1410)年、これが今神明と呼ばれ、鳥居と橋が造立され、九月二十六日に供養があったことが記録されている。影向あるいは飛んできた神明が今神明と呼ばれ、供養されるほど人々を集めたのは、宇治の神明と同様である。」(ブルー字は引用)

と、このころ続いてあった、天からの飛来物の怪異とそれについてのまことしやかな噂が伊勢の神の信仰を得る格好のチャンス到来とばかりに広まって、それで民衆の不安な気持ちを鎮めることに成功してゆく様子が描かれます。
中世に多い天から「光りもの」が熱田社に落ちて、それが伊勢の神の影向によるものということにされ、その理由として伊勢の神は山田が不浄であるから、清浄な熱田に逃げていった、というような解釈がなされている。
それが人々にすんなり受け入れられるのは、それだけの背景があった・・・。

(この項、つづく。)

2009年7月26日 (日)

流れゆくものの蘇生  穴井太の山頭火

ほうたるの闇に戻りし山頭火   穴井 太

『行乞流転の旅人 山頭火の世界』
穴井太 著

小崎侃 版画
本多企画 発行
第一刷発行 1990・2・10
(写真は第四刷1992・10・30発行のもの)

流れだすもの流れしめ梅雨明ける 恭子

梅雨の雷むかしの音を連れてくる

じぶんは穴井先生のかなり特殊な生徒だった、とおもう。
句会にはいちども出ず、だれとも連携せず、ひとりだった。
てんらいにいた四年近く。
博多と戸畑はさほど遠かったわけではない。なのに師を一度も訪ねなかった。
遠くから見ていた、そして句(へたくそな)だけきちんと毎月五つ出して、あとは先生とはがきで文通していた。あんまり俳句とは関係ない世間話を。
穴井先生からの返信のはがきが沢山残っている。
しようもないことにもちゃんと答えてくださってる。

ゆうそらの雲のおばけへ花いちもんめ  太

在籍していた期間、いちどもあわなかった。
なぜだろうか。
なぜだろう。あいたいとはおもわなかった。

太師が共感をもって書かれた種田山頭火の本を、ひさびさに読み返し、師のこころの跡を辿る。
太師と出会ったころの自分は三十代半ばであった。
それから二十年近くたつ。
以前見えなかったものが見える。
太師が山頭火に重ねられたものの影がほのみえてくる。

2009年7月21日 (火)

藤沢周の。

藤沢周の。

『ダローガ』 藤沢 周・著

(新潟日報事業社)

杉山おんじいの。

杉山おんじいの。

『燈篭人形夜話』 杉山 洋・著
      (東兄弟印刷所)

 

2009年7月14日 (火)

時間をおいて又みるということ

ろいりさん、情報ありがとうございます。
絶唱>>モノクロだったような・・☆・・また見たいものです。
慕情>>こっちも見たいです。 最近はワンコイン(¥500)で昔の映画DVDが並んでいるので、ちょっと探してきます。
映画や書籍は不思議なもので、年齢が変わってみるとまた感想が違いますね。
お姉さんは思春期のど真ん中だったのですね^^slate

映画や書籍は不思議なもので、年齢が変わってみるとまた感想が違いますね。(えめ)

そうですよね。
ときに無性によみたくなる「春にして君を離れ」(これを栗本薫は「春にして君を離れ病」と名づけていた)。ひさびさに読んで、やっと今日さいごまでいきついて、はじめて栗本薫の解説をよみました。恐ろしい、哀しい話である、じぶんはこの話にのめりこんでいた時代があった、せりふまできっちり暗記してたほどに・・と書かれていました。おおあんたもか!とついいいたくなった。(今年なくなったのでしたよね。)
だけども、しかし。
さめた視点もでてきました。
これまでは主人公の主婦の自省に加担して、夫や子供たちが(妻に母に管理されるという意味で)気の毒でたまらなく思えたものですが(それはそう思えるようにクリスティが書いているからなのですが)、今回は、待てよ。っていうか、そうは浜名の焼き蛤的心境。
ことに今回はじめてきづいた、最後ちかく、列車のなかで同室になるロシア貴族のサーシャって女性とのやりとり。ここに丸ごと引用したいほど魅力的な会話です。イギリス人を日本人とおきかえてもいいような。
人の見方が多層的であり、個に執着してない。
やっと読めたのかもしれない。
それにしてもよ、すごいタイミングで栗本薫だったんでぎょっ。
以前買って持っていた文庫は旧版のだったから。
翻訳の中村妙子はおんなじですが。

 「そうは浜名の焼き蛤」ちゃ、「その手は桑名の焼き蛤」じゃなかと?それとも何か一ひねりしたギャグ?だとしたら、恐れ入谷の鬼子母神!
 エメさん同様、私もアメリカン・ニューシネマ衰退後の70年代洋画では、フランス映画のユーモア感覚ととイタリア映画の猥雑さが好きだった。それから小林旭の映画をほとんど(リアルタイムで)見ているとはうらやましい。
 数日前の新聞に、「ドヌーヴ×ドゥミ×ルグラン」DVD4作品セットが紹介されていて、「シェルブールの雨傘」がそのうちの1枚に入ってます~買おうとは思わんけど。

うわ、まちがえてた。なんかへんとはおもったんだけど。↑ろりりーさん?
こばやしあきら。石原ゆうじろ。そのた。そのた。
一回もみたことない。やくざ映画もとらさんも成人映画もとうとう一回もみなかった。映画の広告で、なんとかの顔役、ってのがあって、なんだろうか、この顔役というのは。とずいぶんかんがえたものです。聞く人もいないし、あとで考えようと思ってるうちに大人になった。顔の役。すんげおもそ。親分かいな。

nightこんばんわ
当方の子供時代に、叔父叔母達は青春の真っ只中で、映画はその中でもゆいいつの娯楽だったのでしょう。 
叔父叔母が面倒をみてくれていたので、私はいつもオマケで連れて行ってくれてました。
小林旭氏の映画は本当におもしろかったです。
あの渡り鳥シリーズです。
宍戸錠が拳銃をくるくる回す場面、荒野に立つ旭さん、今思うと、荒唐無稽なお話だったのでしょうね。
今調べてみましたら、監督=斉藤武市、助監督=神代辰巳の両巨匠でした。
裕次郎氏のも同時期に見ていたはずですが、旭氏の映画のほうに強く印象を残しています。
シリーズとは別かもだけど、サーカスの場面で球体の中でオートバイが縦横してハラハラするものがありました☆slate

2009年7月12日 (日)

『絶唱』その他、呂伊利さんの映画うんちく話

  元久留米人  梶原呂伊利(神津呂伊利)

ぼんさんが若大将シリーズ3本立て見たというのは、今の文化街の地名の由来となった、「文化会堂」ではないでしょうか?ちなみに、封切り後ちょっと間をおいて安い値段で上映するのが2番館、ぼんさんが小6の頃なら、「文化会堂」は更にそれより後に上映する邦画の3番館で、3本立てだった。これと同じ場所にあった「名画座」(だったかな?)が2番館、わが「ロイリー」が洋画の2番館だった(時々試行錯誤して邦画や成人映画を上映した時期もある)けど、どちらも通常は2本立てでした。
 若大将シリーズは封切りの時、怪獣映画と2本立てのこともあり、私が最初に見たのは小5の時の「ハワイの若大将」で、お目当ては怪獣映画「マタンゴ」だったが、普通の怪獣映画と違ってあまりに気色悪く、悪夢を見るほど。大学生の頃に、星新一らSF作家が原案を書いており、今で言うカルト映画化してると知りました。で、この時は姉弟3人で見に行ったけど、帰ってきた私が「若大将のほうが面白かったね」というと、姉が「いやらしか」と言って笑ったのを覚えてます。青大将がスミちゃんを襲うシーンがあったからでしょう。子供が素直に楽しんでるのに~姉はその頃中2だったから、あーいうシーンの意味がわかったつか。

 「ある愛の詩」や小椋佳のごつふーたらぬるかつは好かん、という点では奇しくも3人意見が一致、でも「さらば青春」は例外という点ではかささぎさんと意見が一致、高校卒業した頃流行ったので、よくギター弾いて歌ってました、自分の家で一人、聴く者もいないのに。あ~、暗い青春の1ページじゃった。
 恥ずかしながら舟木一夫もファンでした。それも紅白で「絶唱」を聴いてから(作詞は西条八十、この人もいろいろやっとるのお↓)。映画は文化会堂で見逃し(数年前、名画座最後の砦、池袋文芸坐でやっと見た)、高1の時、古本屋で原作見つけて読んだら、何か印象が違う。寄生地主制度に疑問を持ち、「アカ」の思想にかぶれたと勘当される息子、アプレゲール(戦後派)なんて言葉もこれで覚えたし。ここで正しい日本語について、戦後生まれは戦後派ではないのに、最近は間違って使われてることが多いようですね。あ、それで原作者大江賢次とは、かささぎさんとそういうところで縁があるのか。私が買ったのは初版本のようで、今は希少価値あり?しかし当時の高校生で、大江健三郎より先に大江賢次を読んだとは、イヤハヤ何とも言えん。
 エメさんが勘違いしたのも無理はない、「絶唱」では和泉雅子が相手役だったのに、悲恋もの第2弾の「夕笛」では松原智恵子に変わったからでしょう。「絶唱」の最初の映画化は、マイトガイ・渡り鳥以前の小林旭・浅丘ルリ子が主演で、モノクロ映画です。これも20年以上前に文芸坐で見ました。百恵ちゃんのは見とらん。テレビドラマ化も何回かされてます。「慕情」は、手元にあるキネマ旬報社刊の「アメリカ映画作品全集」によると1955年に初公開、その10年後ぐらいに再公開しています。これも東京のどっかの名画座で見た。そして香港行った時、慕情のシーンに出てくる海辺にも行きました。映画公開後にナット・キング・コールが主題歌を歌いヒット、私も1度カラオケで歌ったことあり。
 あ~、またなごなった、

     以上、投稿。

西條八十:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%A2%9D%E5%85%AB%E5%8D%81

「蘇州夜曲」も、このひとの書いたものだったんだね。作曲は服部良一。
誕生日にむすこが中古のcdシングル『ジュピター』平原綾香のをくれた。
そのなかにあった。ゆったりと川をくだるときのような、たゆたひの。
ジュピターと蘇州夜曲は「みむねに」ということばでつながれていた。

服部良一は「夜のプラットホーム」、アストロリコのcdアルバムで知った。

2009年7月 3日 (金)

文庫本

文庫本

『パーマネント野ばら』 西原理恵子
『紫の領分』 藤沢 周
『春にして君を離れ』 アガサ・クリスティー(メアリ・ウエストマコット)
および、太宰府駐車場の駐車券栞(山上憶良の和歌つき)

2009年7月 1日 (水)

かるがも物語

かるがも物語

神崎さくらさんからいただいた、手作りの絵本です。
絵本ではないな。
写真絵本です。
アコーディオンみたいな仕立てになっています。
写真の部分と文字が入るスペースとのバランスが絶妙です。
いちばんしあわせだった、と書かれている頁には
きれいなピンクのつつじがふんわりとさし色として使われていて、

さくらさんのセンスはすごい。と感心しました。
さいごの「おしまい」のところのみどりのはっぱ。きれいです。
これ、みんなにもみせてあげたいなあ。てのひらにのっかるっちゃんね。

内容は、かんどうします。

なみだでますよ。そして、げんきもでます。
動物好きのらんちゃんにみせてあげなきゃ。

2009年6月24日 (水)

『ややこ』歌仙ナオ3の差し替え

静まらぬ鼓動に百千鳥響む     整子
2   恋文一つ渡せないまま     兼坊(シサン訂正申し出あり)
3やさしさの沁みこまぬよに拳分    たから

4   激情愛情そして平常       ぼん
地球よりおおきなものの居座りて 乙四郎
6   キュウリの方が多いポテサラ  えめ   
7展示会臨時雇ひも客にされ      恭子
8雑
9雑
10秋
11 秋の月
12  秋

きのう帰宅すると、本が二冊届いていました。
一冊はメアリ・ウエストマコットの『春にして君を離れ』、もう一冊は『「秋風の記」をゆく』海鳥社刊行、平島愛子著です。

諸九尼のことがずっと気になっていたものの、評伝を読んだことがありませんでした。
ざっと目を通してみた。
なぜ「駆け落ち出奔」したのか。
まずこれが気になることでした。

考えていたよりずっと複雑な婚家の事情があったようです。
もっともいたましい事実は、
三年子無きは去る。といわれた時代に結婚後十年余、三十歳になっても子がなせなかったことへの風圧。

そのことを、「前置き」文で著者の平島愛子氏は、このように書かれていました。

以下引用文です。

「後日、妹はなに送った切々と血を吐く思いを綴った手紙の文面からは、何の言い訳も許されずに「欠落(かけおち)」の汚名を着せられ故郷を捨てざるを得なくなるまでの背景には、相当深刻な家庭環境があったものと推察されます。なみ(諸九尼の俗名)の人柄は、筑後を去って一年ほど経つと中原村からの客が次々に彼女の許を訪れていることからも推し量られます。」

なにも知らず、出奔の小見出しのように句を詠んだ自分を恥じる。

恋句、澄たからさんの思いの深い「拳分(こぶしぶん)」の句に差し替えます。

以下、たから句のよみです。

(「温もり」が冬めく。やさしさの、でいいかもしれない。
微妙に複雑な心理の恋句。コブシ一個分のすきまをあけておく、というのです。
それはあまえない意思であり、遠慮であり、恥らいであるのでしょう。・・・というふうな読みでいいのでしょうか。「拳分」がむずかしい。)句を貰った最初の時点での読み。

2この「拳分」というぶっきらぼうな一語のもつ、なんともいえないあじわい。
気をゆるせば一気になだれこんでしまうじぶんがいる。
それがこわくて、じぶんでじぶんの感情を必死でおさえている。・・・っていうことなんだよね。
これボツにするのにしのびない。


3(ヤマシタセイコ)の深い読みのコメント。

まりさんの拳分の解釈。
ふたりのあいだを拳分空けておく。まさにそのような状況をイメージした。これは実に奥深い句だと思った。実はこの句に、もうひとつ意味がある。それは、よく指先なんかの皸や傷に湯が沁みて痛むとき、しみないようにぎゅっと拳つくってお湯につかってなかった?生きるためにわたしたちはいっつも拳を握ってるんですよ、そんなメッセージを受けた気がしたよ。

優れた句は、まず問いかけとして目の前に立ち現れる。
これがまさにそんな一句でしたね。
たからさん。おそらくは体験から得た貴重な一句、どうもありがとう!

さて、ここからふしぎなはなしを。
えめさんてふしぎな人です。

かささぎがたまたま訪れた日の彼女のブログで、こういうフレーズに出会い、一句つけておりました。それをそのまま、ここへ放り込みます。

夏が一句、それも短句きりになりますが、発句脇に夏ですし、これでいいのではと思います。

http://hatue62.seesaa.net/article/121862291.html#comment

時事ネタの川柳に属する句ですね。かささぎのは。
よく聞かされることなので、いつか句によみたかった。笑

ここまで一気にすすめました。
途中停滞してたのを挽回しました。

つぎも雑です。短句を、いろいろとおねがいいたしまする。

2009年4月30日 (木)

フェーズ5!

インフルエンザの封じ込め

 保健医療経営大学長   橋爪章

インフルエンザは咳やくしゃみとともに空気中を漂って感染するタイプの感染症なので、接触感染や血液感染の感染症とは違い、封じ込めは困難です。

また、インフルエンザのように潜伏期がある疾患は、水際作戦で完璧を期することにも無理があります。

WHOもCDCも、これだけ流行が拡散した段階での封じ込めは現実的ではないという見解を当初から示していますが、わが国では封じ込めにエネルギーの大半を注いでいます。

封じ込めが可能な疾患であれば、季節性インフルエンザ対策に応用すれば、毎年数千、数万の命が奪われるのを未然に防ぐことができるはずですが、それができないのが現実です。

インフルエンザ対策の基本は、地域への侵入を前提に、具合の悪い時の外出控えや、手洗いやマスクなどの個々の拡散防止策を積み上げてゆくことです。

予防接種ワクチンがあれば、免疫を持った人の集団が流行の防波堤になり、終息へと導くことができます。

人類は、ワクチン登場以前は、感染症と共存してきました。

毒性の強い感染症が人類を滅ぼす勢いで大流行していても、自然感染で免疫を持つ人が増え、やがて終息します。

豚インフルエンザの毒性が強いのか弱いのかの見極めが判断の決め手になっています。

仮に毒性が弱いものであったとしても、メキシコの状況から、やがて強い毒性のものに変異して大流行する可能性は大きいと思われます。

もし、毒性が無視できるほど弱いものであれば、封じ込めに失敗して大流行した地域ほど自然免疫を持つ人の数が増え、来るべき強毒性インフルエンザの流行に強い地域となる可能性もあります。

(保健医療経営大学学長ブログより引用)

▼かささぎの連句的資料添付

医療漫画『仁』村上もとか著
『仁』公式ホームページ
http://sj.shueisha.co.jp/contents/jin/index.html

2009年4月 9日 (木)

本の見出しがそそのかす。

隣組(まだあります)のお花見で写した一枚の写真から、ヘレンケラーが思われ、ヘレンケラーからアメリカの思想をはぐくむ教育の話へと話が移ってきました。神津呂伊利ご推薦の一冊。固い話は苦手、だけど、ちょっと見出しだけのぞいてみませんか。

紹介

アメリカの若者たちが歴史を学んでいる教科書では,自分たちの歴史がどのように書かれているのか。先住民や白人以外の移民の歴史・社会・文化の無視,白人西洋文明中心の嘘を,代表的な教科書の記述を取り上げながらえぐり出す。

目次

本書で検討された一二冊のアメリカ史教科書一覧
謝 辞

序 文 なにかがひどく間違ってしまった 富田虎男訳

第1章 歴史にハンディキャップを負わされて 富田虎男訳
    ——英雄づくりの過程
英雄化/社会主義者ヘレン・ケラー/対外侵略の急先鋒ウィルソン/人種主義者ウィルソン/英雄はつくられる/われわれの英雄はだれか

第2章 一四九三年 佐藤 円訳
    ——コロンブスの二回目の航海の重要性
コロンブスの目的/コロンブス以前のアメリカ探検/コロンブスの実像/コロンブスによる収奪と奴隷貿易/「ヨーロッパ」の誕生/自己陶酔の歴史

第3章 最初の感謝祭の虚実 佐藤 円訳
疫病の影響/ヨーロッパ人到来以前のアメリカの人口/「民主的で道徳的な」ピルグリムズ/ピルグリムズの協力者たち/起源神話としての感謝祭

第4章 赤人の目線から 鵜月裕典訳
歴史教科書のなかのインディアン像/文化接触とインディアン文化の変容/インディアンになったヨーロッパ人/インディアン文化の貢献/インディアン戦争は戦争でないのか/植民地争奪戦争とインディアン/一八一二年戦争とインディアン/戦争に代わる選択肢/インディアン文化は生き残れるのか

第5章 『風と共に去りぬ』 竹本友子訳
    ——アメリカ史教科書の目につかない人種差別主義
奴隷制をめぐって/人種差別主義の原因/建国の父祖と奴隷制/奴隷制と対外政策/ダグラスとリンカン/南部連合の再建神話/「どん底」の時代の人種差別主義/その後の人種差別主義

第6章 ジョン・ブラウンとエイブラハム・リンカン 竹本友子訳
    ——アメリカ史教科書の目につかない反人種差別主義
ジョン・ブラウン——狂信者か殉教者か/リンカン——奴隷制の告発者/南部連合内部の矛盾/再建期の理想主義

第7章 機会の国 鵜月裕典訳
貧富の格差と学校教育/階級的成層化と社会的流動性

第8章 ビッグ・ブラザーを監視して 近藤淳子訳
    ——教科書は連邦政府についてなにを教えているか
「国際的にいい奴」アプローチ/多国籍企業と合衆国の対外政策/アメリカの六つの謀略/公民権運動とFBI

第9章 記憶の奈落の底へ 白井洋子訳
    ——消された少し前の過去
歴史教科書のなかのヴェトナム戦争/無視されるサシャ

第10章 「進歩はわが社の最も重要な製品である」 篠田靖子訳
    ——ジェネラル・エレクトリックス社のモットー
進歩の理念/進歩の代償/魔女が歌う「進歩」の歌

第11章 歴史はなぜこのように教えられているのか 富田虎男訳
「現在を支配するものが過去を支配する」/教科書の採択過程/執筆者の責任か/教師の怠慢か/検閲は必要か

第12章 このように歴史を教えるとどういう結果になるか 富田虎男訳
生活に根づいた歴史教育/「ヴェトナム練習問題」/忠誠と社会化

結 び これからの嘘——どう対処すべきか 富田虎男訳
歴史教育の改善に向けて/新しいアメリカ史像の探求

引用:http://www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-7503-1831-8.html

本の題名:『 アメリカの歴史教科書問題 先生が教えた嘘       
       LIES MY TEACHER TOLD ME』
本の著者:ジェームス・W・ローウェン
監訳:富田虎男
出版:明石ライブラリー60(明石書店)
出版日:2004・1      

一枚の写真:「へれんけらー」
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-1d1b.html

そりゃそうと、かささぎはこないだ、昔のテレビ映像をだらだら~とみていたのですが、お茶の間、卓袱台が健在だったあの懐かしい昭和の御世に、加藤茶「ちょっとだけよ~」って言っては、にゅ~っと画面に突き出された一本のむくつけき足は、いったいなんであったのでありましょうや。

すぐ話をそっちへもっていく。笑
なんでも共有していたあのころ、全てが暗黙の了解の上に成り立っていた。
知らず知らずに教育されてきた。
これはおもてにだしていい、これはだめ。
ってふうに教えられていたのだと今になって思い至る。

2009年3月31日 (火)

縺糸闇と遊糸

四月号の『樹』より、東妙寺らんの五句。
おお。りっぱだ!俳句始めて二年ほどとはとても思えぬ。
熱心に俳句歳時記を読み、勉強をしているのだろう。

おみくじの大吉結ぶ春心
隠国の千手を拝し春の闇
縺糸闇の中にもあたたかし
芹の香やゆるりと水を愉しみぬ
芹の葉を辿れば白根したたかに

高卒後夢見る少女は、生き馬の目をぬく銀行業界に就職。
やわらかくて美しい窓口係はどんどん偉くなっていった。
あれよあれよと歳月は矢の様に過ぎ、でも夢見る少女はそのまんま。
高校時代、わたしたちは、いつもいっしょにいた。
なぜかしら気があった。でも大人になってからは疎遠になっていた。
体調を壊し職を辞していなければ、俳句は勧めなかっただろう。
縁が、あったのよね。
最初に出してくれた句を、ちゃんと覚えてる。


朝涼の腕の淋しさ天の風  東妙寺らん

ああ。このためにであっていたのか。
と、そう思った。

俳号は彼女の亡き愛猫の名。

ところで、三句目。
最初、「縺糸闇れんしやみ」というのがあるのかと思った。
普通の歳時記にはでてこないし、かささぎがもってる角川古語辞典と新明解国語辞典第五版と健吉の季寄せにもない。
けれど、もつれた細い糸が闇に浮かぶ様は、わたしに以前読んだある本を思い出させた。鏡五郎*の飛行蜘蛛の研究書である。

英語でゴッサマー。遊糸=ちいさな蜘蛛の糸。有名な追跡調査の本、まだ山下整子が広川図書館で司書をしていたころ、偶然見つけ、借りてきて読んだ。れぎおんにも書いたっけ。とても面白い本だった。蟲好きなひとはよまれてください。感動します。ただ題を忘れました。空飛ぶ蜘蛛。だったかも。

* あれ。鏡五郎。で今検索したら、ど演歌歌手の名だった!
ってこた、まちがえた。間違いの天災かささぎのやりそうなこと。
鏡がついたとおもったのですが・・。山形の人。
何年もかかって遊糸の正体をつきとめるのです。すごいです。
うーん。鏡リュウジじゃないしなあ・・・だれか知ってない。
最初は山本健吉の『遊糸繚乱』の資料で知った本。
追ううちにその鏡さんの本にであった。別名、雪迎え。
かささぎは恋句で一度出したことがある。

雪迎へ垣間見しより繋がれて  恭子

ここで、仕事より帰還。さっそく調べる。
雪迎え。で調べたら、出てきました!
なんと鏡ではなくて、錦でした。とほほ。
ほんとに失礼いたしました。
錦三郎。資料くっつけておきます。齋藤茂吉文化賞受賞の頁。


http://www.pref.yamagata.jp/ou/bunkakankyo/050001/bunkasinko/21-30.html

思えば、かささぎが連句に誘った人たちは、みながみな、本当にすばらしい。
ぼんもせいこさんもたからさんも都さんも乙四郎もばどさんもおとめさんもまことくんもわこちゃんもかぐやさんもさくらさんも木戸さんもらんちゃんも・・ここにあげてない人たちもみんなとってもうまいです。
この有難き縁に、こころからの感謝をもうしあげます。ぺこぺこり。

追伸:

だいじなこと、書き忘れていた。

縺糸闇の正体。

東妙寺らんに「縺糸闇って何。季語?」ときいた。
するってえと、「あれは、もつれいと。闇の中にもあたたかし。
」と言ったあと、「きょうこちゃんたちのことを詠んだとよ」。
やはり天然。

資料紹介:『空をとぶクモ』 錦三郎(学習研究社)
  (八女郡広川町の図書館においてあります)

錦 三郎(にしき・さぶろう)

《南陽市》

 大正3年生まれ
<南陽市赤湯、高畠地区において晩秋の青空を飛ぶ奇現象の解明>
 通称「雪迎え」について、昭和13年より関心を持ち、昭和30年東亜蜘蛛学会に入会、追手門学院大学教授八木沼博士に師事し、専門的に研究し、日本において未開拓の蜘蛛の空中分散について継続的な研究を行い、クモの種類、生態を観察記録し生態学的な解明を果した。蜘蛛の空中分散についての研究では日本で唯一の権威者であり、外国の研究者にもよく知られている。
<山形県内の蜘蛛採集と研究>
 昭和26年より県内の蜘蛛を採集し、リストを作り現在約160種を確認している。その中には新種として発表された「ニシキサラグモ」を始め、数種類の新種を発見している。
<山形県指定天然記念物「白竜湖泥炭形成植物群落」の研究>
 昭和31年から白竜湖湿原植物の調査を行い植物相の推移の記録、スライド作製を続けるほか、昭和33年から同湖周辺の野鳥の観察と記録(映画、スライド製作)を行い、自然保護や野鳥保護に対する貴重な資料を提出し、その重要性を啓発する等、その対象は蜘蛛のみではなく各分野にわたり積極的な活動を続けている。
 主な著書
  昭和39年 「蜘蛛百態」
  昭和47年 「飛行蜘蛛」
  昭和49年 「空をとぶクモ」
  昭和50年 「雪迎え」

2009年3月26日 (木)

片桐ユズルの詩「幼年時代」  やなせたかしの本から

やなせたかし著『だれでも詩人になれる本』

     かまくら春秋社・刊

帯のことば  (本文より)

なぜ、東京は乱雑で、街はメチャメチャなのか。
なぜ、ほとんどの印刷物は奇妙なのか。
なぜ、文学も、漫画もポルノ化するのか。
なぜ、幼児の本が、あんなにけたたましいのか。
もちろん、ぼくらは天使じゃない。
ぼくらは聖人じゃない。
しかし、これらの現象に対して精神は加速せずにはいられない。
君はどうなのだ。

  幼年時代

     片桐ユズル

ぼくの絵を ふつうの大人はほめたが
図画の先生は よろこばなかった
枝をそんなに一本一本かいてはいけません
全体の感じをつかんで かくのです
つめたい色彩です
と 絵の先生は話した
のを 母親は見て
それはお前の心がつめたいからだ
不親切で 思いやりがない
もっと暖かくなれそうなもんだのにねえ
夕食のとき たとえば今日ちゃんばらして
遊んだらとても面白かったよと話すと
そんなことして目でもつっついたら
たいへんだ おまけにあんな塀の上に乗っかったりして
塀がこわれたりしたらどうします
それにあの子と遊ぶのは感心しません
などと言われるにきまっていた
それから
今度放課後に 図画の先生が特別に教えてくれるんだって
などと言えばかならずそれじゃ教えてもらいなさい
なんてことになると遊べなくなるから
昼間あったことは言わないことにした

2009年3月24日 (火)

幸せって。片桐ユズルの幸福論、ってかこうづさん。

竹橋乙四郎が新明解の幸福論を出してくれたとき、ちょうど同じ頃に久留米人・神津呂伊利さん(神津兵六)が別件でコメントしござったなかに、(どこさんか行ってしもたコメントのなかに)詩人で翻訳者の片桐ユズルってひとが出てきました。ボブディランの歌詞の翻訳などで知られる人って。

興味があり検索しました。すると舶来の思想を翻訳しござってた。
「幸福論」片桐ユズル訳・バートランド・ラッセル著。
こっです。↓

http://russell.cool.ne.jp/28T-KATA.HTM

で、どこさんかいってしもたコメントば、みつけてきた。
ここんとこ、おせこせしよって、気がぼおーっとしよると。
あ。野球、今日けっしょうですね。
事務所では昨日、部長がケータイ開きっぱなしでみござったので、こちらも聞いておりました。棚からぼたもち。横からwbc。
仕事、もうシーズン終盤。今こんな仕事が多い。建設会社から、伝票を送って。と依頼。から伝票ならこっちは楽なのですが、こういう風に書いてくれ。という依頼がある。それ、困る。共犯依頼なのですよね。冗談じゃない。と思いつつ、逆らえない。ご協力します。だってあちらさんの懐具合と毎日の労働の大変さを肌で知ってる。むげにはできませんとも。なんだかなあ。こういう世の中、矛盾だらけだよね。おとなになりましょうね。

ついでのことに、みつけてきました。
はりつけておきまひょ。それにしても、このこうづ・ろいりって人、何者。
ちっごの方言で、こうづとはふくろうをさします。
ぴったりです。
時々その静謐な文章にひかれて覗いている希望さんのサイトで、こうづをみたっけ。あれはふくろうではなく、みみずく。だったような。まあ、似たようなもんだわね。素人には。

「ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし」~詩は苦手な私だが、寺山修司と片桐ユズルだけは詩集を読んだ(後者はフォークソングがらみで)。私はこのような思いを感じたことはなく、京都でも東京でも、筑後地区の友達としゃべるときはほとんど久留米弁、今でも年1回やっている高校の関東地区同窓会では、ほとんどの連中がそうです。あ、昔よく寺山修司の物真似やってました。
 大学時代「仁義なき戦い」の影響で、広島弁を喋るのが流行り、おかげで筑後弁(ほぼ久留米弁)・関西弁(京都・大阪・神戸も多少使い分け)・広島弁のバイリンガル、それなのに、英語・中国語・コリア語とそれなりに勉強してもなかなか身につかない。やはり10時間の勉強より1時間の実体験、英会話は中高大と8年やった後よりも、実際海外旅行に行くようになってからのほうがうまくなったし、後の2つも、勉強しただけでなく、今も数年に1回行ってることで何とかそれなりに現状維持している。習うより慣れろ、昔の格言どおりです。

片桐はいりさんとは違うのか。片桐ユズルさんを知りませんですみません。てか、ろいりさんのいわっしゃる人達、たとえば、岡林信康などのメジャーな歌手にしてからが、あまり得意なほうではありません。ほとんど吉田拓郎くらいしか知らない。したがって、あまり詳しくはわからないまま、ついていきますんで、よろしくおねがいいたします。

 片桐ユズル、詩に詳しい人にもあまり知られず、むしろボブ・ディランの歌詞の翻訳とかのほうが知られているかも。ちなみに片桐夕子は日活ロマンポルノで活躍?今もたまに映画・TVに出てます。
 岡林よりずっとメジャーな吉田拓郎、思うにこの2人の活躍する交代期(1970年代初期)が、一つの時代の変わり目のような気がする。「学生運動」が衰退し、三島由紀夫が自死し、米国の威信がガタ落ちし、「いったい日本はどこへ行くんだ」「モーレツからビューティフルへ」というCMがあった時代、久留米では一番街ができ、アマチュア・フォーク団体が生まれては消えていった時代。フォークも売れたもん勝ちとなり、チューリップも海援隊もプロになって売れ線を狙った時代。
 それでも木村屋の味パンはメロンパンなどという小じゃれた名前に変わっていないのでしょうか、うどん屋のメニューに関西や東京にはない「具うどん」は残っているのでしょうか。高校1年の時、大阪から引っ越してきて1年もたってないやつが、学食でこれを「貝うどん」と間違ったのがおかしかったけど、久留米でも今は具うどんというのを見かけない気がする。麺食いの人、教えて下さい。
 

 1970年の久留米の出来事をもう1つ、ロイリーがなくなった年だった。

詳しい解説ありがとうございました。
具うどんはありません。全滅壊滅。
具うどんと素うどんが天下分け目の決戦をしていたのに、いつのまにか両方ともが消えていた。
ぐがおおきい。って言っていたレトルトカレーのシーエムをみたとき、ああそういえばぐうどんはどこへいってしまったの。っておもったくらいですから、もう相当長い不在です。
いまあるのは、ごぼう天うどんと二句うどんとわかめうどんといか天うどんとかぼちゃ天うどんと。そんなのはないか。
ごぼう天にしても、むかしのはほんとにその場でごぼうを裏庭からとってきて(まさか)それを千切りまたはささがきにしたのを目の前で揚げてくれ、その揚げたてをジュッとのっけてくれたものでしたが、いまは出来合いの、たいがいが薄い拍子木きりのばんびろごぼうのてんぷら。それはまさに、博多うどんのも久留米うどんのも筑後うどんのも八女うどんのもぜーんぶいっしょ。てぬきじゃろうが!とひそかにおもいつつも、かささぎはやっぱりごぼう天うどん。あと邪道ですが、カレーうどん。

片桐ユズル、名前が記憶のどこかに残っていました。翻訳でしたか。そうだったのか。名づけ方が、どこか「私のように黒い夜」の平井イサクに似てる気がする。

ごぼ天うどんファンから一言。

八女市役所前のつるやうどんは、注文した後でてんぷらを揚げてくれます。カウンターに座ったので、ほんとに目の前であげてました。
息子は鯛生金山にある、地元野菜を使ったうどん屋で食べたごぼ天うどんが、今までの中で一番おいしかったと言っております。ここも揚げたてでした。

つるやだったんだ。今もあるのね。
こんど行ってごぼ天うどんたべてみる。
目の前で揚げてくれたのは、むかーしむかしの記憶だったので、いまもあるとは知らなかった。
それと、そのたいおきんざんのうどんやさんにもいってみたいものです。いってみたくなるようにかいてあるから。

エメさんが書いていた、げっそうえん。月窓園。レストランだったみたいですが、どこらへんにあったか覚えてますか。私はさっぱり記憶にありません。
高校時代いつも福島に寄り道して帰っていたけど、それは岩田屋のフードセンター界隈だったように覚えています。
松延寛之の連載小説の欄外に広告があって、月窓園の名が載っているので、どこかにあったのでしょね。

鯛生金山へ行く途中、日向神社にお参りしてください。

へへい。ほんじゃ、そうします。
ちかくなんだね。星野とたいお。

月窓園はお菓子の菊屋の近くじゃなかったね?レストランは2つあって、2階建てのところと、信号の横と。どっちだったかよく覚えてない。

こんばんわ
月窓園>>たしか、清水町商店街の南側列の真ん中あたりだったと思いますが、、。
銀行に就職した友人とお昼に入ってオムライスを食べたのが最後です。
バス停四つ角にあったほうの岩田屋の2階でホットケーキを食べてました(高校生のころ)
つるやうどんは土橋の東側列にもあってよく入ってました。
そこは一間口くらいの幅で奥に長いうなぎの寝床タイプの店舗で長いカウンターにお客さんがびっしりでした。
7歳のころ、土橋にある細い路地にある喫茶店でデートする叔母のおまけに連れて行かれた私はコーヒーの香りの室内でココアを飲んだ思い出がありますcoldsweats01
清水町商店街で覚えていて今はないのは履物屋(青木)、帽子屋、桐明書店、薬屋(貴命堂?)とかでしょうかね~(*^_^*)

エメさん。清水町がどこらへんをさすのかさえ、よく知らないというなさけないやめりかんです。
よく覚えてあることに敬意を表します。
ぼんも、わたしよりずっと記憶力がいいんだなあ。
ショック。

九州帰ったら必ず食べるのが「ごぼうてんうどん」です。
昨秋帰った時、なんと実家のそばにおいしいうどんやさんができていて、すかさずごぼうてんうどん食べました。
何しろ田んぼしかない陸の孤島のような実家周辺に、田んぼが全部つぶされて広大な流通センターができて、それでうどんやさんができたというわけ。
ごぼうてんうどんはくるめか博多に行かないと食べられなかったのに。
人が作って人が食べるごく当たりまえの貴重な「おいしいたべもの」です。
東京じゃ、最近こそ少ないけど(おいしくないと売れない)、試食したんかい?と思うような食べ物多かった。

WBCジャパン勝って、超うれしいさくらでした。

 鯛生金山、20年ぐらい前(結婚前)ヨメに車で連れて行ってもらったことあるけど、今調べたら大分県日田市になるんですね。子どもの頃父に八女(たぶん広川)の鉱山発掘跡のようなところに連れて行かれ、「ここは昔だいかが金ば掘りだして一山当ちゅうち思たばってん、金は出らんで大損したとこぞ」と言われたのを思い出しました。いったいどの辺やったのやら。 
 ゴボウ天、私も好きです。前に紹介した、櫛原町1丁目の交差点にある「桃屋うどん」は、いつでも揚げたての天ぷら出してくれまっせ。でも具うどんはやはりない。具うどんって、昔はうどん専門店ではなく、普通の食堂にあったような気がする。それから久留米の素うどんはトロロ昆布が入っていたけど、今は入ってないようですね。それに、昔の食堂でただ「天ぷらうどん」と言えば丸天うどんのことだったけど、こっちではあれを薩摩揚げと言います。やはり文化が違えば言葉も違う?

こんばんわ
鯛生金山や杖たて温泉に行くのに矢部から中津江村に抜けて行きますが、昔から七曲り(車酔いの名所)と言われていた県境に竹原トンネルができてからは早くて便利になりましたね。
この矢部地区の知人の庭近くに大分県にむけて金鉱を掘ったという大きな縦の深い穴がありました(中学時代)
やはり金を掘っていたようです。
星野村も、昔、矢部か大分のほうに金を掘っていたと聞いたことがあります(たぶん事実)
金>>広川の山も上陽黒木星野矢部とつながっているのでありえない話かもですね^^夢は多いほうが楽しいですshine
うどん>>子供時代に自宅で一時期 祖母がうどん屋をしていました。
種類は素うどん、具うどん、肉(牛)うどんの3種でした。
素うどんはネギととろろ昆布。 具うどんはネギ、かまぼこ2枚、カク天をななめにスライスしたもの2枚、ちくわのスライス2枚。 肉うどんはネギと甘辛に煮込んだコマ肉。 ・・・だったと思います。
母は岡持ちを持たされて「出前に行かされるのがすごくいやだった」と後年に言ってました(20代だったから?)・・余談ですけど^^

2009年2月21日 (土)

『安楽病棟』を読む  松永伸夫

 『安楽病棟』 を読む

       松永 伸夫
       

1 はじめに

開業医であり作家でもある帚木蓬生さん*の作品(四六判、1999年4月15日新潮社発行)である。全462頁は30の話から成っている。装丁は、目次に続いてそのまま第一話が始まり、第30話のすぐ後には奥付が来ている。(このような構成は、聖書が全部で66の話=旧約聖書39話と新約聖書27話*から編集されていて、前言もあとがきも著者紹介もないのと似ている。)

この本『安楽病棟』 は、介護老人保健施設で働く医師と看護婦との目を通して、老人医療・福祉・介護のあり方について鋭く問いかけている。全30話は1話ごとに完結しているが、全体を通してこの本の底を流れているのは、現在の日本が直面し将来にむけて善処すべき課題の、老人医療対策である。
特に高齢者医療・看護の問題に関係する話をとりあげて、自分の思うところを記してみたい。

2 本文から

「(略) もう亡くなられた高名な陶芸家の残された言葉があるので、みなさんにも紹介しておきましょう」
先生はそう言って、黒板に大きく四つの漢字を書きました。
〈手考足思〉という言葉でした。
「手で考え、足で思う。これは看護の精神そのものなのです。机の上ばかりでひねくりまわさない。何はともあれ、患者さんの傍に駆けつけ、手で触れ、そして見守るのです。机の前に坐って手も動かさず、考えるだけでは看護とは言えません」
(略)

そこで強調されたのは、痴呆といっても個人によって千差万別だということでした。その人の病前の性格、学歴、職業、家族の状況によって、何十通り、何百通りの呆け方がある。(略) それぞれの特色に応じた看護が要求されるのです。ーそんな言い方で、その日の講義は終わりました。
(略)
先生はスライドを百枚近く持ってきていました。痴呆病棟でのお年寄りの暮らしぶりと、看護婦の働きぶりを、余すところなく撮ったという印象でした。食事、入浴、歯磨き、身体の運動、おむつ替え、排尿誘導、散歩、そして雛祭の行事など、人間の生活の隅々までよくもこんな風に援助できるものだと感心しました。〈手と目で護る〉看護、〈手考足思〉だと先生が言ったことは、全く本当だったのです*。
(略)
「これから先、痴呆の患者さんはどんどん増えていきます。こんなにお年寄りの多い国は他にありません。日本が世界に先駆けて、老人国に突入していくのです。これまでの歴史で、どの国も体験しなかった状況にわたしたちの国が立ち向かって行きます。人類史上初めての大きな実験といえます」*
(略)「老人をかかえる経済的な負担も、国としては相当なものでしょう。それに看護についても、まだまだ模索状態です。有効な薬物もないし、各個人の実情に合わせた看護や介護も確立されていません。みなさんが現場で働いてみたら、多くの矛盾を感じるでしょう。無力感を味わうでしょう。あるいは絶望を感じるかもしれません。
しかし、(略)この老人問題にこそ、日本の進む道があるような気がします。本当に困難な事業ではありますが、今の時代こそ、日本が世界に先駆けてよその国にお手本を示す絶好の機会なのです。(略) ここで本当の知恵を出して、歩むべき道を見出すチャンスでもあるのです。どうか、老いから眼をそむけないように。老いや痴呆に接する機会があったら、そこに何か、人の生きる道、いやこの国が生きる道のヒントが隠されていると思って下さい。(略)
」*

3 私見

1 「後期高齢者医療制度」について

健康保険の仕組みが大きく変わって、2008年4月1日から、「後期高齢者医療制度」なる公的な医療保険が、新しくスタートした。
従来の医療保険から、高齢者だけを分離して管理していこうとする新制度である。
具体的には、75歳以上の人は、医療機関での発生医療費の一部を自分達で負担しあい、その保険料は各県ごとに設けられた広域連合が運営する。
高齢になれば多くの人は、体のあちこちにがたが来て、病院にお世話になる機会がふえる。そのための支払医療費も多くなる。その医療保険料を、若い人たちの支払う保険料だけにのっかっていくのではなく、高齢者だけの別会計で管理しようという仕組みである。
だから、今までは息子らの扶養家族になっていて保険料負担がなかった人にも、新制度では負担を平準化させる。すなわち高齢者全員に、医療費応分の負担(一律月額6000円)が発生する。この新制度のもとでは、夫婦の一方が後期高齢者である所帯では、実質的な保険料が増額負担となるケースが発生している。
2年前小泉内閣の時に行財政改革の一環として、この「後期高齢者医療制度」が国会で可決されて今回スタートした。内容面では、保健・医療・福祉・介護の方法を、これまでの症状別に専門病院での治療・看護・介護という方式から、かかりつけ医による治療、在宅介護という方式に変更している。

今回の制度改正は、医療費削減の視点からだけで、せっせと在宅治療へと促す厚生行政の思惑がある。医療費の発生総額を抑えるためにだけ、机上で編み出した制度であるので、医療の現場・市町村の窓口ではすでに混乱が生じていることを、マスメディアは伝えている。

また、この政府による「診療報酬」の抑え込み策によって、閉鎖に追い込まれた医療機関が多く発生している。このような現実に直面して、まさしく医療・看護・福祉に関わる教育機関には、「昨今の福祉切り捨ての中で、社会の中の弱者とされる高齢者や障害者の方々とともに生きていくすべを考え、実践する役割が課されている」* のである。

2 地域医療の衰退の現実とその対応策

小泉内閣のもとで、行財政改革の一として全国で市町村の大合併が推し進められた。複数の行政機関の合併により業務の合理化を図ろうとしたのである。
この医療制度改革の大きいうねりの中で、医療機関についていえば、次のような現実がある。例えば、長崎半島の最南端にある長崎市野母崎町(旧・長崎県西彼杵郡野母崎町)は、合併前は町立病院を常勤の医師5名体制で運営していた。しかし、合併後は市民病院の分院として、常勤医師は3名になった。これまでは町立病院で診てもらえた診療科目だったのに、現在ではバスを50分ばかり乗り継いで都心部にある市民病院の当該診療科まで出向かなければならなくなった。
このような地域医療衰退の実態に対しての善後策は何なのだろうか。
30余年前、高齢者の死亡数が全国でも上位にあった長野県では、鎌田實医師らが旗振りをして、その時から地域全体で地道に生活習慣の改善など予防医学への取り組みを進めてきた。その結果、現在では高齢者の死亡数は減少し、必然的に地域での医療費の発生額も日本で際立って少ない地域へと成果を勝ち得ている。*
為政者はこのような事例を研究しながら、中長期スパンでの医療行政・厚生行政へと、舵取りを見直すことが緊要だと思う。

4 おわりに

この『安楽病棟』 は、10年前に出版された本である。
帚木蓬生さんの視点のすごさに敬服させられる。
著者は、今回の「後期高齢者医療」にどのような意見をもっておられるのだろうか。
保健医療と経営とを学ぶ本学の学生達にとって、大変参考になる本だと思う。

* 帚木蓬生:小郡市生まれ、本名は森山成彰。
東京大学文学部卒業後、民放勤務を経て、九州大学医学部に学び精神科医になる。現在は中間市でメンタルクリニック開業医師として診察をしながら、作家としてヒューマニズムに満ちた作品を発表している。最新刊は『インターセックス』(2008.8月)がある。
* カトリック教会ではこのほかに、旧約聖書続編13話を第二正典としている。
* 帚木蓬生『安楽病棟』p141-142「起床」
*     p142
*           p144
*  井手信「聖マリアグループの福祉のこころの行方を問う」
  『ルルドの聖母』2008・8月巻頭言
*国民健康保険中央会は、このたび(9月4日)、後期高齢者医療の4月分医療費を発表したが、加入者一人当たりの平均額は7万350円で、最低の長野県は5万6697円、また、最高の福岡県は8万7396円であった。
同じく一人当たりの入院費は、最低の長野県が2万5861円、最高の高知県が5万1475円であった。(『毎日新聞』ホームページ2008・9・4)

▼執筆者

松永伸夫:保健医療経営大学(みやま市瀬高町)
       学務課 参与

『保健医療経営大学 紀要』
    
創刊号 平成21年1月刊より引用

  

  

2009年2月 3日 (火)

『海やまのあひだ』

『海やまのあひだ』

自選歌集『海やまのあひだ』 折口信夫著
 大正十四年五月三十日発行定価一円八十銭
    改造社刊

   

  供養塔

      釋 迢空 

数多い馬塚の中に、ま新しい馬頭観音の石塔婆の立つてゐるのは、あはれである。
又殆、峠毎に旅死の墓がある。
中には、業病の妻を家から隠して、死ぬるまでの旅に出た人のなどもある。

人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝけり。
旅寝かさなるほどのかそけさ

道に死ぬる馬は、佛となりにけり。
行きとゞまらむ旅ならなくに

邑(むら)山の松の木(こ)むらに、日はあたり
ひそけきかもよ。旅びとの墓

ひそかなる心をもりて をはりけむ。
命のきはに、言ふこともなく

ゆきつきて 道にたふるゝ生き物の
かそけき墓は、草つゝみたり

   以上、大正十三年の作より

戦時中の馬たちのたましい

     神崎さくら

戦争中の馬の活躍話を私はこう書きました。
泣けちゃうよ。

砲兵隊では兵隊と共に数百頭の軍馬が配置され、分解した大砲や弾薬を背に載せて運び、頼もしい戦友として戦いました。
疲労困憊した隊員は、馬の尾につかまって引っ張って助けてもらう事もありました。
しかし敵機の激しい空爆の中で次の陣地への移動は、病傷馬は連れていけず、餌を与えて放馬するしか有りませんでした。
よろよろと後を追ってきた馬や、事態を悟っていなないた姿の哀れさは、復員した隊員の頭から離れる事はなく、各地に軍馬の慰霊碑が建立されました。  


▼戦争追悼画より
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Screen/3222/ehagaki3.htm

▼ かささぎの旗姫野

さくらさんのその文章、こころがこもっています。やさしい短い文章ですが、これだけ要約するために、たくさんの資料をよまれたことがしのばれます。
兵隊さんたちといっしょにいったい何頭の馬が大陸へ渡ったのでしょうね。

同じようにしてその昔、日本へ舟で渡ってきた馬たちを思います。(かささぎは、馬ってずっともとから日本にいたと思い込んでいた。でも、やまたいこく調べてたらそうじゃないとわかったし、「装飾古墳のふしぎ」を読んで、馬が大陸から舟でやってきたと知った)。

2009年1月16日 (金)

久留米ゆめタウンで

紀伊国屋書店。人がいっぱい。
で、売れていた!

・・・買った。読んだ。

くっくっく。文句なしにおもしろい!
内容ももちろんのこと、まずはその書き方が。
なんともうしましょうか。
受験生必携必ず出る英単語マスター本のノリで、要所要所に横文字が入ります。それがべつにヤらしくはなく押し付けがましくもなく、とても自然です。これ、なんなんだろうね。

ああそうか。わかった。

この文章、きっとブログ文化がもたらしたものなんだ。

だからスムーズに発信されているし、スムーズに受け取れる。

時代の潮流をうまく摑んでいる本だなあと感心します。

竹橋乙四郎、おそるべし!!
丁度のときに、よくぞこのようなヒット本にめぐり合いましたねえ。

『下流大学に入ろう!』  山内太地著 光文社刊

2009年1月 1日 (木)

佐藤春夫著 『上田秋成』

佐藤春夫著 上田秋成

    桃源社・昭和39年8月20日発行

上田秋成の『菊花の約(ちぎり)』、昔少年少女名作全集にて読みしに、
年末に届く神田の古書店のリストでこれを発見す。

原価850円が時価3千円。高いか安いか。読みしのちに判断せん。

▽ 連句的

http://www.ksskbg.com/navi/a-fuka/29.html より引用一行。

「秋成は、伊勢の国学者・荒木田末偶から宣長の著書を借用して、
それを返す時、次の如き批評を書いている。」

2008年12月27日 (土)

田北鑑富   乙四郎語録27 

八女戦国百首和歌「夏日待」をよむ

      竹橋乙四郎

▼  田北鑑富(たぎたあきとみ)物語

天文24年の時点では仲良く歌を詠みあっていた橋爪鑑実と田北鑑富であったが、四半世紀後に鑑富は鑑実の軍に討伐されることになる。
その物語。
鑑富は大友家奉行人の子。
のち鑑重(あきしげ)と改名し、入道して紹鉄(じょうてつ)となる。

天文19年 申次職として義鎮の側近。
天文24年 八女百首

弘治2年(1556) 小原鑑元の謀反鎮定のため出陣。
永禄5年(1562) 対毛利戦。戸次鑑連の指揮下で門司城を攻める。
永禄8年 豊前長野筑後守討伐。三ヶ岳城破却。
永禄12年 毛利軍の豊前進出に備え、宗麟は鑑富(紹鉄)を田川郡に駐屯させる。

天正6年 日向土持氏討伐に出陣。日向高城合戦で多くの一族を失う。
天正7年 秋月種実討伐に出陣。夜襲を受けて敗退、中津城 に入る。
天正8年 秋月種実との謀書が発見される。
筑前秋月種実が筑前から大友氏の勢力を駆逐するため、紹鉄に反乱工作を行ったとするもの。
また、紹鉄の宣教師(巡察使バリヤーニ)殺害計画の情報が宗麟に通報され、調査の結果、事実であったことが確かめられた。
陰謀が露見したことを知った紹鉄は大友氏への敵対を明らかにした。
紹鉄は朽網郷松牟礼城を出て熊牟礼城に拠って抵抗。
宗麟・義統は、一万田鑑実らを将とする一万余の討伐軍を出陣させる。
紹鉄勢はわずか百人ばかりの人数であった。
城中で一族から諌言を受け逃走を決意した紹鉄は、逃走径路を朽網郷阿曽野(庄内町)にとる。
ここで激しい追撃戦をかわして日田郡に向かう。
4月13日、 五馬荘を経て松原村(大山町)にさしかかったとき、財津久右衛門の手にかかって最期を遂げた。法名清台院殿手翁紹鉄大居士。
乱後、大友義統は謀叛は紹鉄ひとりの企てであり田北一門の罪は問わないとし、統員に相続させている。
謀書には讒言説がある。讒言のため切腹を命じられ、それが不服で熊牟礼城で挙兵したというもの。
紹鉄は親類等に、両殿様(宗麟、義統)に私曲はないこと、讒者の妨げか、御不満はわからないが切腹を仰せ出されたこと、自分は切腹するが、統員(むねかず)に相続させしてもらいたいことを記した書状を送っている。
紹鉄は讒者が誰であるかは記していない。

歌を詠んでいた頃がいちばん平和だった。

十二  帰鳫(帰雁)  鑑冨
見るうちもたちぬかずとや天津雁
雲間にきえて立かへるらん

とんでも超訳:
社宝として飾って見るだけで抜くことはないとおっしゃってた渡り鳥のような荒木田守武さん。出雲の向こうまで行ってしまわれたのだが、太刀は帰ってくるのだろうか。

かささぎ訳:

見ているうちにも次々と北の空へ旅たって行く雁よ。その夥しいまでの数よ。
数える間もなく雁の列は雲のはたてに消え、あとには呆然と口をあけて見送っているわたくしだけが残る。

かささぎの連句的:

▼ 『ツルはどこからやって来るのか』 
        鴨川誠・著(葦書房刊)より引用

世界にいるツルは19種。
昔、日本に渡ってきていたツルは6種類いた。
いま、わたってくるツルは3種類しかいない。
その3種は、丹頂、真鶴、鍋鶴のみ。
明治以前、たくさん全国へ渡ってきていたこれらのツルは、将軍家が大事にして保護していた。
御鳥見役という役人を置き、餌をやって保護した。
ところが将軍家光以来、正月には鷹狩でツルを捕らえ京都御所へ献上した。
もっともその折でさえ、丹頂鶴は霊鳥としてあがめ、決して捕獲しなかったのである。中略ー
いまはわずかに鹿児島県出水、荒崎一帯に真鶴と鍋鶴を二千羽、山口県熊毛郡にニ、三百羽の鍋鶴、そうして北海道の釧路にニ、三十羽の丹頂を見るだけになってしまった。中略ー
かれらは多くシベリアで繁殖して、十月、あるいは11月になって日本へ渡ってくる。
そして、三月にはまた北へ去るのである。
彼らは、ミミズ、昆虫類、蛙、泥鰌、小魚、まれには蛇、ねずみなども食い、豆類や草の葉、水草などもたべる。(内田清之助『渡り鳥』)

2008年12月14日 (日)

下流大学に入ろう!

おつしろうの大学がここに載っています。

http://tyamauch.exblog.jp/9895753/

写真、やってくれます。うまいよ!

わたしも写真をとろうとしたけど、広大な田んぼの中にぽつんとあるそのイメージをなかなかうまく伝えきれず、・・。
案内板があっても、何度ゆきすぎたりもどったりしたことか。
荒野、そうか!

こうやの宮。http://www.geocities.jp/bicdenki/newpage74.htm#kouya
っていうのは、じつは廣野の宮なんだね。
七支刀を持った人形のある、大学のちかくの、全国的に有名な祠。
ユグドラシル、世界樹、生命の樹
のことです。

http://cse.niaes.affrc.go.jp/minaka/files/TreeOfLife.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%AE%E5%A1%94

保健医療経営大学は、ユグドラシルをめざします。

これ、かささぎが考えたキャッチコピー。

ちなみにかささぎの旗はいかなる営利団体にも与していません。
んが、今回は本の宣伝をしました。

山内太地(やまうち・たいじ
『下流大学に入ろう!』光文社2008・12・16刊
http://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334934538

2008年12月13日 (土)

連歌の発生

連歌から俳諧へ

左・隔月刊『文学』2002年9、10月号(岩波書店)
右『荒木田守武』(俳祖守武翁顕彰会編・没後450年記念事業実行委員会刊)

「文学」

特集 連歌の動態

光田和伸先生は連句誌れぎおん巻頭で芭蕉の「冬の日」講釈をなさっていたプロの連歌師、高名な国文学者であります。かささぎは、連歌とはなにをもって連歌というのかがわからなくてうろうろしていたとき、この本が目に留まった次第。以下、ざざっと引用をお許し願います。

連歌の発生

あやにやし えをとこを あやにやし えをとめを 

ご存知、 いざなぎ、いざなみ二神のご唱和。55 55。
女神が先導するかたち。これが原初の連歌である。
ここから旋頭歌とよばれる577・577がうまれてくる。
独詠型と唱和型と並存する。この変化は大和政権に引き継がれる以前に出雲王国において起こっていたのであろうか。それとも継承以後に起こったのだろうか。スサノヲの神詠、

八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに
八重垣作る その八重垣を 57577

これはもう完成された短歌形式で立っている。

万葉集の旋頭歌62首のうち、作者不明歌はじつに51首。このうち、柿本人麻呂作とするものが35首、巻7に23首、巻11に12首とまとまって収録されている。一方人麻呂個人名の作歌はない。旋頭歌という形式は民謡、ひなぶりであったか、民謡に仮託して歌われる一種の牧歌だったろうか?それは作家が勝負をかけるような形式ではなかった。短歌を晴(はれ)の文学、旋頭歌を褻(け)の文学とする意識がもう、この時代にはあった。八世紀には旋頭歌の命脈はつきた。

旋頭歌にかわるあたらしい連歌形式は、現在広く「短連歌」の名で呼ばれている、575・77形式である。その最古の記録は、万葉集巻8の尼と大伴家持の唱和。

佐保川の水をせき上げて植ゑし田を
刈る早稲はひとりなるべし

中略。

古今風に花をうばわれて、短歌の風下にたった連歌に、あたらしい動きがおこる。鎖連歌である。その嚆矢は「いろは連歌」のように各句の頭に決まった文字を配して、つぎつぎに歌をよむ「冠字連歌」であった。

うれしかるらむ 千秋万歳
ゐはこよひ あすは子日と かぞへつつ   小侍従 
                           『古今著聞集』

これはその現存最古文献、1165年、藤原定家はこの3年前に誕生している。
鎖連歌では続けるための動機付けに制約を設けるが、この制約を連歌用語で「ふしもの・賦物」という。「冠字」はそのもっとも早い時期に誕生した形式である。(さいしょの歌いだしのことばを
決めてから、詠む歌形式である。小侍従の上記の歌は、いろはの「うゐ」をあたまに冠している。札幌の故クボタカオル宗匠に、この冠字連句としりとり連句でずいぶん遊ばせてもらいました。ほんとうに有難いことでした。いまおもえば。かささぎ注)

ふしもの、賦物は、とても高度な知的ゲームであった。
藤原定家は賦物連歌に参加することで新しい風、新古今調を獲得したのだろうか。しかし、定家の時代の鎖連歌の実作はきわめてわずかしか残っていない。わたしたちの目にする鎖連歌のほとんどは、新古今和歌集成立以後のものである。

ふしもの連歌は定家死後さらに発展し、上賦下賦連歌は百句をつづけるようになる。
それからいろんなスタイル素材が生まれ、飽きられ、いろいろとくるうちにやがて、去嫌連歌が発生する。さりきらいれんが。誕生した時代、発生場所は正確にはわからない。その
最初のルール、「連歌本式」は1260年のなかば文永のころの誕生と伝えられる。以後、ほぼ十年ごとに「建治新式」「弘安新式」という改訂版が出る。賦物連歌勃興期を代表する作者は、藤原定家であった。去嫌連歌の勃興期を生きた作者は『徒然草』の著者、占部兼好である。兼好は歌人としての誇りを維持し、連歌には冷淡だったといわれるが、徒然草の段落配列には去嫌連歌の展開を踏んでいるところが多くある。

連歌新式。
兼好晩年のころ登場する二條良基によって、連歌は完成をみる。1372年、良基が救済の協力で完成した「連歌新式」がそれである。以後、わずかな改定をみながらほぼそのままのかたちで、こんにちまで去嫌連歌の式目の地位を保っている。

さいごに、その式目の説明にはいるのだが、これは連歌の世界観、哲学の具現である。
引きたいが、肝腎かなめの部分であり、それは読者が本を手にしてよまれんことを願うのみ。

▼光田和伸先生のご本二冊。
「芭蕉、めざめる」http://seisoushobou.com/book/nonfiction/aaiacioaae/
「恋の隠し方」

(けっきょく、百首和歌の位置づけはまだよくわかりません。)

2008年11月 9日 (日)

Stephen King

Stephen King

Steven King という綴りでなく、ステファン。

映画監督のスピルバーグは上記ですが。

公立病院外科待合室本棚にあった箱入り六冊セット文庫本。

息子の付け替えを待っている間、一巻を少し読みました。

映画は見ましたが、原作は違いますね。雰囲気が。

長い前書きがとてもおもしろいんです。
連載で書くということの利点について、イギリスの小説家ディケンズの例をもとにあれこれ詳しく書いてあります。ディケンズの連載小説が届くのを待ちかねて、海に転落して死んだ人まで出たという話。小説を連載するということは、子どもの頃、母がしてくれるお話を待ちかねる思いに通じ、ひいては読者と書き手であるわたしとの共同作業にもなってゆくのだ。とするくだり。まさにそうですね。

いま、五木寛之の新聞連載小説『親鸞』がそんなかんじです。

2008年10月 5日 (日)

雨のコスモス

雨のコスモス

秋霖の日々というより、まるで梅雨です。

けさの訃報欄にて映像作家・吉田直哉さんの死を知りました。
享年77歳。

「脳内イメ-ジと映像」文春新書 1998年10月

かささぎとは、この本一冊を買って読んだだけの接点でありますが、その文章が内包するものは連句と深く関連していて、教えらることがたくさんありました。れぎおんの「俗の細道」でだったか「連句的」にだったか取り上げて文章を書いた記憶があります。

あざやかな印象、それはとてもデリケートな話題、それも映像にのっける音楽と思想について書かれたものでありましたが、音楽批評の第一人者・吉田秀和と作曲家・武満徹との論争を興味深く紹介して余韻を残すものでした。どちらも自らの主張を掲げて、一歩も譲らなかったのです。そこがそれぞれ、芸術家のたましいの証明のように思えました。深い感銘をうけて、文章に記録した吉田直哉氏もまた。

ご冥福をお祈り申し上げます。合掌

2008年7月19日 (土)

邪馬台国の本

邪馬台国の本

『女王ヒミコのなぞ わたしが歩いたヤマタイ国への道』
     たかし よいち 著
     大日本図書 1979年第七刷
     (初版 1976、昭和51年)

近くに古書店がいくつかありまして、一番近いブックマーケットというお店で発見した掘り出し物、著者のサイン入り100円。わたしが値段をつけるんであれば、二千円以下にはしない。
こども向けに書かれた、やまたいこくへの近づきかたの本。
写真や図がほうふ、ひしひしと著者のせいじつさが伝わる。
これまで読んだ邪馬台国本の中でベスト3に入れたい一冊。

表紙絵、生き生きとしていていいでしょう。

どのあたりに、じさいはいたんだろう。

持衰:

持衰とは、倭人が中国へ行くとき、その航海の安全のために一人の男性がなるもの。その男性は、航海の間、髪を梳(くしけず)らず、シラミも取らず、衣服はあかまみれのままで、肉を食べず、婦人を近づけず、まるで喪にでも服しているかのように生活するとされています。そして、航海が無事に終われば、持衰をつとめた者には、当時生口(せいこう)と呼ばれた奴隷や、財物を与えましたが、もし、航海中に病人がでたり、災害にあった場合は、「持衰がちゃんと慎んでいなかったからだ!」として、彼を殺そうとしたのだそうです。(以下より引用させていただきました)http://members.at.infoseek.co.jp/Accord/BIGLOBE/HIMIKO/052734375r.htm

2008年7月11日 (金)

本を買う

おととい、お昼休みに近くのゆめタウンの本屋に行った。ただ一冊、あった。わたしのために残ってくれていた。

きっと八女にはないが、久留米にはある。そう思った。だって久留米のおとのさまの本だもの。

「恋と伯爵と大正デモクラシー」 山本一生(やまもといっしょう)著。
日本経済新聞社刊行。二千円くらい。

さあ。
よむぜ。

2008年7月 3日 (木)

あべしげさんの書評から

『恋と伯爵と大正デモクラシー』 山本一生 著

    阿部 重夫

歴史は時代の哀しみを語る。それなくして史家を名乗る資格はない。私は生来の怠惰に加え、古人の書牘を読み解く学識と考証が不足している。書物の森に深く分け入って、徒労も辞さず埋もれた固有名詞を追う「訓詁探偵」の無垢の情熱にも乏しいから、そういう史家には脱帽するばかりである。

けれど、いつのまにか、そんな史家が消えて久しい。平成はたった一人の司馬遷、一人の森鴎外も出せずに終わるのか。

今は、否、と言おう。

久留米藩二十一万石の伯爵家を背負った有馬頼寧(一八八四~一九五七)の人生の一隅を照らした史伝がここに出現した。一見、トリヴィアルな秘話発掘とも読めるのは、頼寧の名がすでに忘却の波間に沈みかけているからだろう。

辛うじて記憶にとどめている人でも、中央競馬の年末のフィナーレを飾る「有馬記念」のもとになった中山グランプリの生みの親、そして精々が直木賞作家、有馬頼義の父というくらいの知識だろうか。

しかし、この本は頼寧の波乱万丈の一生を追うものではない。大正八年のたった一年、頼寧が断念した恋に絞って、あとは枝葉と思い切り刈りこんでいる。だから狷介詰屈な『渋江抽斎』のように、素養がなければ歯が立たない鴎外の重苦しい史伝とは趣を異にし、優れた小説のように芳醇で読みやすい。

頼寧の生涯を知りたいなら、巻末の年譜(簡にして要を得た記述は春秋左氏伝の筆法である)で一望すればいい。華族の桎梏に屈したこの哀しい恋を浮かびあがらせ、一斑にして全豹を知らしめんとした工夫がよく分かる。

歴史上の頼寧はA級戦犯容疑で巣鴨プリズンに八カ月半収監された人だ。学習院高等科時代から近衛文麿や木戸幸一、志賀直哉らと親しく、襲爵前は農商務省に入省しており、貧民教育や差別撤廃運動、農民運動や労働運動などに私財を投じた善意の華族政治家である。

産業組合中央金庫(現在の農林中金)理事長から産業組合中央会(のちの全中)会頭を経て、第一次近衛内閣では農林大臣に指名された。その後も近衛の新体制運動に参画、「大政翼賛会」の事務総長を務めながら、国策イデオローグたちに「アカ」と呼ばれて集中砲火を浴び、近衛の切り捨てによって失脚した。

山あり谷あり、人物も魅力的なのに、本格的な伝記が書かれなかったのが不思議である。もっとも「世の中で一番嫌いなものは銅像と伝記」と頼寧本人が峻拒し、戦後に沈痛な自伝の筆を執っただけに、なまなかな史家や伝記作者の手には負えなかったのだろう。

作者はそこに挑戦した。アカデミシャンではない。石油会社で経理を担当し、のちフリーランスとなって競馬の血統研究の翻訳や、秀逸な競馬文化論を書いてきた在野の人である。九〇年代から刊行が始まった有馬頼寧日記全五巻を編纂した伊藤隆東大名誉教授に薦められ、索引づくりを手伝うことになった。

日記には詳細な注が必要で、フルネームでない名称、略称、愛称の正体を突き止めるのは容易なことではない。資料渉猟は頼寧日記のみならず、有馬家を支配した枢密院議長倉富勇三郎の日記や、信愛学院史、民俗学の柳田国男から俳人の松根東洋城など広範囲に及ぶ。その徹底した博捜からこの作品は生まれた。

劈頭、都立中央図書館の検索キーボードを叩く場面に始まるように、これは一種の追跡ミステリーである。読者はいつのまにか「検索の猟犬」となって、ひたすら謎を追っている。日記に点綴された「ミドリ」「M」とはいかなる恋人なのか。親友「八重ちゃん」の業病は何だったのか……。

驚くべき発見があった。意外さは奇遇の域を超えている。やはり、優れたノンフィクションは凡百のミステリーにまさるのだ。私のようなジャーナリストはそこで納得するが、作者は立ちどまらない。頼寧とミドリの別れのクライマックスは虚実の境を越え、ほとんど二人に仮託したモノローグになっていく。

実を言うと、作者と評者は高校以来の友人である。彼は伊藤門下の優駿だったが、大学紛争の余燼で院を受験しなかった。当時は「ボンクラが大学に残るのさ」とうそぶき、在野の意地に生きた。「所詮、学者は史家ではない」というのが僕らの結論である。身びいきでなく言うが、この本はその渇を癒してくれた。

「思い残すことはもうない」

作者はそう言う。でも、この本を読ませたかった友がいる。五月に亡くなった作家、藤原伊織である。大学でみな一緒だった。

二人の作品は同じ哀しみをたたえている。消えた時代の哀しみを。

2007年10月03日 http://facta.co.jp/blog/
書評欄http://facta.co.jp/blog/archives/20071003000529.htmlより無断引用

あべしげさんの文章は、とてもかちっとしているくせに叙情的で、こころ騒ぐ。1991年2月、いちまいの拾った新聞でよんで以来、あたまから離れないなにかがある。引用した文章はそんな彼の特質がよく出ている。
「一斑にして全豹を知らしめんとした工夫」・・・、これ、こんな言葉が自然にくちから「ふっとでる(八女の方言)」、なんだかすごくない。ほれぼれします。

2008年6月17日 (火)

貨幣論

『貨幣論』

岩井克人著

ていうむづかしそうな本、石がよんでた。

かきましたよね石のこと山という名前で。

かむあがる〈また〉のような石。はたまた山。

しごとをすればくれーむのやま。

でもだれより碁がうまい石。

黒体放射のきたないしゃついつもきてる。

にんげんはかねがからむといやらしいな。
しんせきはかねがからむとかなしいなあ。

と やにくさいてで ぼそぼそっという。

いさん、とりもどせるの。石。

するとちっともほしくもなさそなひとごとの目で

とりもどせるよ。いまちゃんとやってくれてるんだな。

という。

だからひほさにんなんだ石は。とふいに熱いものがこみあげて私はおもう、ばかばかばかばか。石のおおばか。

でも。

ほんとの大ばかはわたしなんだ。

貨幣論。よまないもの。

http://www.mayq.net/kaheiron.html

かむあがる〈また〉

星永文夫『肥後飢餓講』

2008年5月25日 (日)

がねーしゃ

がねーしゃ

先日博多から帰省したむすめが置いていった本の一冊。
『夢をかなえるゾウ』水野敬也著・飛鳥新社。

とてもおもしろくて、かるい。
どこか先日の同窓会講演の天野周一師の主張に似てる味わい。
軽くておもろいんやけど、時代が求めるものを深いとこにひめとる。
うん。これやで。

いま、みたい映画がひとつ。よみたい本が一冊。
どっちもブログ仲間がもたらしたもの。
映画は「ミスト」、(そらんさんのおじさん日記ご推薦)
本は・・ありゃタイトル忘れた。でも目次の一番最後の見出しは覚えとるで。包茎が世界をゆるがす。ね。こらなんだんねんておもいまさ。よみたいよね!むすこが二年前の夏しゅじゅつをしたとき、聖マリアの小児外科の先生がおっしゃったことで、わからないことがひとつあった。で、だれかに聞きたいのですが、ことがことですから、なかなか聞けず、そのままうっちゃってまして。これよめば、分かるかと思って。著者は高山なんとかさん。これもわすれちまいました。ごめんなさいまし。あうんさんすうちー女史の正体は民衆側にはなくてあちら側の人ってことを書いてある本らしいっす。

それから最後にいちばんたいせつなことを。
『ペンを剣に代えて』大石政則日記ですが、最後の遺書にあった「正真正銘バーです」、これを、「正真正銘バーデス」という表記にしてしまった戦友の編集者の思い。この複雑で微妙な乙女心にも似たニュアンスがわかりたいあなたは、本屋へ駆け込んで、ぜひに本をお求めの上、熟読くださいませ。

参照

いま検索しました。

『スーチー女史は善人か』 高山正之著 新潮社
立ち読み
http://www.shinchosha.co.jp/books/html/305872.html

『ペンを剣に代えて』 (西日本新聞社刊)
特攻学徒兵海軍少尉 大石政則日記
          大石政隆編より
表紙写真のある紹介記事:

http://www.geocities.jp/masa030308jp/penoturuginikaete.htm
抄出:当サイト 右端のカテゴリー「大石政則日記」

『ミスト』の紹介記事http://musinandanikki.at.webry.info/200805/article_13.html
スティーブン・キング(『スタンド・バイ・ミー』でおなじみ)の本らしいです。

2008年4月20日 (日)

本
本

夫が買って読んでた本。

下の写真は八女市役所前庭のものです。

2008年2月 3日 (日)

朝鮮全土を歩いた日本人

日本評論社から『朝鮮全土を歩いた日本人ー農学者・高橋昇の生涯』 (河田宏著)が出版された。

かささぎの旗では高橋昇博士のことを以前少々ご紹介していたご縁があり、著者の河田氏より一冊を贈呈された。折りしも中国からの食品に農薬が入っていて犠牲者が発生した事件により日本中が激震しているこの時機、国の「体」をなす農業とはなにか、農作物を作る農民はどんな苦労をするのかを知るためにも、ひろく読まれて欲しい一冊である。

植民地時代、朝鮮の農法は遅れたものとされ、日本農法を押しつけられた。それに反対した農学者がいた。総督府農業試験場西鮮支場長・高橋昇である。彼は朝鮮全土を調査して歩き、膨大な資料を残した。そこには、朝鮮のきびしい風土に対応した驚嘆すべき農法があった。(帯文)

オモテ表紙にはむかしの木造の小学校みたいなかの地の農場試験場の建物の前で、帽子を手にロングコート姿の壮年の博士が笑みを浮かべて立っている写真が掲げられているが、博士の左肩のうしろあたり、背景の建物の壁に埋め込まれた日の丸が、大日本帝国時代の雰囲気を雄弁に物語っている。

ウラ表紙には、十歳未満の朝鮮の少女がふたり、背中に麦藁束*をしょって、石垣の坂道を下っている写真が取られている。博士の写真も少女の写真も、人物の影がくっきり地面に落ちているのが印象的だ。

以下に目次と著者を紹介しておきたい。

第一章 筑後の山河
第二章 境涯の地へ
第三章 欧米視察旅行
第四章 黄海道沙里院
第五章 農業実態調査
第六章 日本の敗戦と朝鮮の孤立
第七章 『朝鮮半島の農法と農民』 の出版

著者略歴

河田 宏(かわだ ひろし)

1931年東京生まれ。
早稲田大学文学部社会学科中退。以後、日本近現代史、軍事史を中心に著述。
著書:『日本人の攻撃性』(共著、三一書房)、『明治四十三年の転轍』(社会思想社)、『第一次大戦と水野博徳』(三一書房)、『満州建国大学物語』(原書房)、『内なる祖国』(原書房)

『朝鮮全土を歩いた日本人ー農学者・高橋昇の生涯』
  2007年12月20日初刷本より引用

*麦藁と書きましたが、どうもいま一つ自信がありません。ほかに考えられるのは高粱の藁。見たことがないのです。調べると、こうりゃんのわらって、家の材料になるようなものらしい。ではちがうのか。http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00486665&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00486665

かささぎの旗『農学者高橋昇』の第一回http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_09fb.html

表紙写真付き本の紹介:http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31998507

参照:http://medakadaigaku.hp.infoseek.co.jp/kimurakouza01.htm
   http://www.ihatov.cc/blog/archives/2006/02/post_350.htm

2008年1月11日 (金)

正月休みに読んだ本

『四日間の奇蹟』 原作:朝倉卓弥
           漫画:瓜生花子
           宝島社
   買ったお店・八女市牟田「ミニ・ストップ」 

『かぶく者』 原作:デビッド・宮原
        漫画:たなか亜希夫
    買ったお店・同上

『古代史の秘密を握る人たち』
    関 裕二 著
    PHP研究所

『黒髪考、そして女歌のために』
    日高堯子(ひたかたかこ)著
    北冬舎刊行
    久留米図書館蔵・去年から四ヶ月借りている。
※すごいとおもう。この人の感性。いい歌をたくさん紹介してくださってて、ありがたい。連句人としては、恋歌のヒント集みたいなよみかたをしております。

※ 日高堯子:参照

http://www002.upp.so-net.ne.jp/f-yamaguchi/kajin-kenkyu.htm

追記:

桜ばないのち一ぱい咲くからに
  生命(いのち)をかけてわが眺めたり
       岡本かの子

有名な歌だが、作者名を憶えていなかった。
岡本かの子の第三歌集『浴身』の桜百首、その巻頭歌だということを日高のこの本で知る。

2007年9月 6日 (木)

『ペンを剣に代えて』

『ペンを剣に代えて』 大石政則日記

(三日前の夜、ネットで初めて注文した西日本新聞社の本です。きのう帰宅するともう着いていました。むすこを塾まで送らねばならず、もってでかけました。車中でとって送信したのでやや暗い。)さくらさんのブログをごらんください。

http://blog.goo.ne.jp/ssj19430903/e/f4c28e076ab1cebbeba0d1d1f148e596

久留米図書館駐車場の夕空。

2007年6月25日 (月)

虹の足

机まわりを片づけていたら、むすこのプリント類が大量に崩れ落ちてきた。捨てようと確認していると、二枚のプリントに目を奪われる。

図書便り。高橋甲四郎著『バルビゾンの道』が紹介されているではないか。いわく、著者の高橋先生はこの学校でも数学の先生として赴任されてました。この本は先生の日ごろの考えと息遣いが伝わるすぐれた本です。みんなのお父さんやお母さんにもたくさん甲四郎先生に習った人たちがおられることでしょう・・。と、そんなふうに紹介されていた。たちまち甲四郎先生のおかおと、毎朝お散歩されている道とがいっぺんにこころに浮かんできた。

 バルビゾンの道まみどりに朝焼けて  

矢部川沿いの道、バルビゾンの道。その道をてくてく歩いていかれる先生のお姿。みどりという先生のおくさまのお名前。山本健吉の母上と同じ名。翠と緑はどう違うのかな。きっとかささぎの風切羽の色みたいに微妙に違うのだろう。そんなことをいろいろと思わせるバルビゾンの道。

図書便りには、もう一冊、社会科学の大家の翻訳書もとりあげてあります。

『評伝 ウイットフォーゲル』 

G.L.ウルマン著・亀井兎夢・監訳(協訳・堤 静雄)

この協訳の堤先生は学校の数学の先生だそうです。その先生が翻訳のきっかけをこう語られています。

 世界で最も早く発展したのは、黄河文明・インダス文明・メソポタミア文明・エジプト文明だと、子供の頃に習いました。しかし、それらの地域はいずれも今は文明の先進地域ではありません。私は、そのことが不思議でなりませんでした。
 高校や大学の歴史の授業でも、その理由を習いませんでした。ところが歴史を勉強していて、世界史の比較研究をしているウイットフォーゲルという学者が、その理由を明らかにしていることを知りました。
 しかし、学界では彼の研究は認められず、伝記があるのに、それを日本語に翻訳する人もいないのでした。
 そこで、仲間とともに4人で伝記を翻訳することにしました。翻訳は予想をはるかに越える難しさで、困難を極めましたが、4年半もかかってやっと出版できました。この本が「図書新聞」で高く評価されたときは、翻訳の疲れも飛ぶ思いでした。長年の疑問を解決してくれた学者の伝記を翻訳できたとは何という運命でしょう。(堤 静雄)

私の目を引いた、もう一枚のプリントは、国語のテスト問題である。教師の手作り風の。その手書きプリントに使われていたのは、吉野弘の詩「虹の足」であった。すばらしい詩です。漫画「蟲師」にもよく使われる虹を思わせ、森本太郎の詞「青い鳥」も思わせ。これも引用するはずが、時間がありません。弁当をつめないといけない。あした、続きを引用します。

2007年6月 4日 (月)

京都 絵になる風景

京都 絵になる風景

『京都 絵になる風景  銀幕の舞台をたずねる』

吉田 馨 著

ダイヤモンド・ビッグ社 2007年春刊 

地球の歩き方シリーズ008

吉田馨:

1964(昭和39年)兵庫生れ。昭和62年大手前女子大卒業後、尼崎市立地域研究史料館に勤務。平成7年に京都映画祭事務局員となり、現在は事務局プロデューサー。愛知大学および京都精華大学非常勤講師。著書に『銀幕の湖国』、構成編集に『映画の4日間PART1 中島貞夫ゼミナール』、『映画の4日間PART2 中島貞夫シナリオゼミナール』ほか。信濃毎日新聞で「映画の味かた」を連載中。大阪大学大学院後期課程に在学中。

(つい表紙見返りのプロフィールを全文引用してしまいました。なんとなくそのウンのころがりかたがおもしろくて。兵庫というところは勉強する地域だなあと前から思っていたのもあります。地域性としての「学問に熱心」という県民性。それと顔写真が載っていますが、カンヌで賞を取った女性監督と同じような気を感じるお顔です。精気にみちた、いきいきとしたきれいなおかお。)

タンゴバンドのアストロリコのヴァイオリニスト・麻場利華さんが送ってくださったご本です。題名にあるとおり、銀幕と映画が呼ばれていた時代の名画から『パッチギ!』のような現代映画まで舞台となった京都の名所を取り出して、映画と名どころをいっしょに紹介したおしゃれな本です。読みやすいのは、写真と文章との分量がちょうどいい比率になっているからです。以前、「写真でよむ ぼくの見た大日本帝国」を取り上げたときに、写真で読むと書いているのに、文章の文字が小さくてぎゅうぎゅう感があるのが惜しい、って批評したことがあるんですが、それと好対照です。内容も歴史的なことがらをおさえて、映画の知識と愛情がよく伝わるものになっています。行ってみたいなあと思わせるし、行ったことがある地であれば、へえーそうだったのか、とおもわせる。

写真がとてもきれいです。一目瞭然。たとえば冒頭の『暖春』小津安二郎監督映画のワンシーン、岩下志麻が着物姿で下駄履きのまま駆けるように弾む足取りで歩く写真と、その次のページにある現代のその地で同じように撮影した着物姿のかわいらしいむすめさんの写真が、この本のすべてを語っているようで、編集が素敵だなあと感心しました。

利華さんは映画『二人日和』に登場した地のところに付箋をしてくれてました。鴨川、梨木神社(なしのきじんじゃ)、室町通・三条通。

ほぼ毎日行ってる(いりびたっているというか)あっさむさんのブログに京都紹介本がよく出てきますし、私自身も紹介したい京都の本ってあるんですが、映画と京都を論じたこの本はかくべつ新鮮です。みんな、買ってね。

りかさんありがとう!!

追伸:

きょうの夜(六月五日ですが)NHKテレビの特集はカンヌで賞を撮った監督のインタヴューでした。あの「殯の森」、日本での上映はそうたくさんはないといってました。分ります。だって、「二人日和」もそうですもん。レンタルも置いてないし、あたまにきます。

でも。よく考えると、質より量をとるのが今の世の中なんですよね。

2007年2月 2日 (金)

秋瑾 その2

(きのうのつづきです。文章: 狭間直樹京大教授)

20世紀初頭の東京は、清国をはじめ、ヴェトナムやフィリッピンさらにはインドなどの革命をこころざす青年があつまる政治活動の中心地であり、彼等の必要とする情報の発信源だったのである。その東京で彼女は実践女学校に学んだのだが、彼女は「この上なく人のよい」、礼儀正しい女性との印象を人びとにのこしている。

ところが、帰国して一年半後、秋瑾は故郷の紹興で武装蜂起を主導し、未発のうちに逮捕されて斬首の刑に処された。時に31歳。逃げる余裕はあったのだから、あえて動こうとしなかったのは、そのような「成仁」 への道を彼女自身が選んだからである。その「凛」とした生き様が世にあたえた衝撃はきわめて大きかった。

秋瑾の伝記として、私たちは武田泰淳氏の名作『秋風秋雨人を愁殺すー秋瑾女士伝』 をもっている。それが雑誌『展望』 に発表されたのはほとんど40年前、1967年のことである。そのころの日本、さらに世界には、大きな変動の時期にさしかかっているかの予感がみなぎっていたと言ってよいだろう。そのような時代にあって小説家の武田氏は、秋瑾とその周辺の人びとの心象風景を描き出すことにより、うちつづく革命と戦乱を生き抜いてきた中国人の「重苦しい気持ち」 を日本の読者に伝えようとされたのだった。これは、東アジア世界における秋瑾を媒介とした精神史的交流の重要な成果だといえる。

永田氏がこの大作に取り組む呼び水となったのは、やはり武田氏の秋瑾伝であった。紹興の街を歩いていて、『秋風秋雨人を愁殺す』 の心象風景が胸に浮かんだことが、のめり込みへのきっかけだったという。今の時代「閉塞」 というべき状況のもとで、氏は秋瑾なる「ひとつの凛とした魂の軌跡」 を追い、「圧縮された精神の密度」 を描くことにより、理念にもとづく実践の輝きを人びとの心に映そうとされたのである。これは、東アジア世界における秋瑾を媒介とした精神史的交流の、武田氏をつぐ成果といってよいだろう。

    (あしたにつづく。)

武田泰淳は石橋秀野に戒名を与えた、僧でもあった小説家です。

実践女学校:http://www.jissen.ac.jp/library/shimoda/documents/his09.htm
                 (ここのサイトに昭和八年の運動会の映像があります。見ますと、まるで北朝鮮のマスゲームを見てしまったような感慨がありました。)

2007年2月 1日 (木)

女傑 秋瑾

秋瑾と書いて、しゅうきんと読む。れぎおん同人・永田圭介渾身の秋瑾評伝『競雄女侠伝』が秋瑾の祖国中国で翻訳出版されるという。永田氏よりお便りをいただいたので、ご紹介する。私の知識ではうまく紹介できないので、狭間直樹氏の序文を一部引く。

永田圭介 『秋瑾伝』 序文

   狭間 直樹
       (京都大学名誉教授 京都産業大学教授 
        孫文記念館館長)

前略

歴史は持続をその本質とするものだが、時に大きな飛躍をともなう転換期に出くわすことがある。中国史上の大転換期といえば、まず諸子百家が縦横無尽の活躍をした春秋戦国時代である。その結果としてつくりだされたのが、秦の始皇帝にはじまる皇帝支配の王朝体勢であった。「近代」 は春秋戦国時代にまさるとも劣らぬ激動の時代であり、そこでは人の心をゆさぶる多くのドラマが生み出された。

「女性革命家秋瑾」 は、その「近代」 の一段、ラスト・エンペラー溥儀を退位においこんだ辛亥革命の主役の一人である。

辛亥革命では、多くの女性が活躍したのだが、歴史舞台への女性の登場ということも中国史の新しい段階を示すことだった。それらの女性のなかで、みずからの信念に殉じた秋瑾の姿は際だってあざやかなものである。

秋瑾がみずからの人生の意義に目覚めたのは、祖国の紹興や北京における生活の中でのことである。だが彼女が女性革命家となるには、日本の土を踏むことが必要だった。

        つづく。

※ 拓の感想文の途中でありますが、すべてのことが根では繋がっている(私の中では)ので、突然入ってきたこの秋瑾をあいだにはさみます。朝と夜の時間で出来る範囲でやります。 

2007年1月27日 (土)

解纜19号より

別所真紀子氏より俳諧研究誌「解纜」19号を戴いた。大き目の定型封筒にちょうど入るサイズの文化の薫り高き同人誌である。印象的な表紙絵カットは小原洋一氏。一巻を引く。

   ソネット恋尽し「肉叢」

             捌  滝田 遊耳

 紅を肉叢(ししむら)として曼珠沙華 遊耳
  弾んで月もうきあがる水       秋扇
 少年は団栗独楽をてのひらに    千晴
  もっとシュールにもっと激しく     耳

 旅人にわが妻を貸す包(パオ)のうち  扇
     猛る牡牛は制御不能と         晴
 稜線といふやはらかき線なぞり     耳
   閑もてあます短夜の爪         扇

 哭く女嗤ふ女を待つピカソ        晴
   われめにおちてもがくももんが    耳
 鸚鵡貝にメモリーの量(かさ)巻き戻す 扇
   
   君が吐息を如月の筥        晴
 この先はちんからころりんと花の酒  耳
   燦爛として古都の春逝く       扇     

  

     平成十八年十月十九日首尾
                於 セシオン杉並

なぜこの巻きを引いたかといえば、秋扇さんの「旅人にわが妻を貸す包のうち」。

橋本光寳(はしもと・こうほう)というチベット学研究者にしてラマ教研究者が戦時中の昭和十七、八年ころに書いた痛快な日記「モンゴル冬の旅」(ノンブル社刊)に出てきました。この時代は石橋秀野の「櫻濃く」執筆時代とも重なりますし、興味がありましたので、数年前に買いました。例によってかささぎ読みです。ほんとはこのぶぶんより、共同便所の記載が圧倒的に秀逸なれど、それは又の機会に譲ります。

 ウヂムチン地方にはラマ三千あり、このうち西蔵(ちべっと)文を解するもの百分の一に過ぎず。外蒙との関係は全然なし。ラマと一般旗民の妻との間には確かに関係あり。しかし此処には日本式道徳をもってしては得ざる蒙古式道徳律あり。すなわち蒙人一般はインテリであり、救世者であるラマとの親密なる交際を非常に要望しあるところ。したがって親密なる俗人とラマとの間に於いては妻を中心にして益々その親密の度を加え、俗人は妻に対してよくラマに奉仕すべきことを慫慂する。かくて一旦関係の出来たるラマと俗人との間は兄弟以上の親密さを増すと云う。不思議なる心理あり。(「モンゴル冬の旅」橋本光寳より)

閉鎖的な社会ではこうすることで血の混合をはかったという見方もできるのでしょう。

2007年1月12日 (金)

記憶の抽斗

学校の先生は昔の記憶、ことに生徒の記憶をどうやって保っておられるのでしょうか。

あるとき、高橋甲四郎先生が、こんな話をなさいました。

「わたしは職員室用の、小抽斗がたくさんある整理棚を買って、それに年度ごとの記憶を仕舞っています」、と。

だからきちんと色褪せないでいろんな思い出が残っているのですね。年度ごとに引き出しにしまう思い出の資料。まるで、パソコンの記憶ファイルのように、必要に応じて取り出せます。

なにかを思い出すときは、なにかに刺激されないと発火しません。それまでは、どんな鮮やかな大事な記憶も、眠りひめ状態です。

それで思い出しました。ねむり姫、という題の澁澤龍彦のおはなし。
どなたかきちんと記憶なさっていませんか。わたしは以前、星野石雀先生の「摩天楼」誌で沼野正子さんの表紙絵にあった、塔に閉じ込められた髪の長いおんなの子を見て、いつもその澁澤龍彦のねむり姫のお話を思い出しました。

西洋の眠り姫とはぜんぜん違うおはなしです。うーん。思い出せそうで、思い出せないなあ。日本のお姫さまのお話だったことと、なんとなく泉鏡花の天守物語や江戸川乱歩の押絵と旅する男ともほそい糸で連鎖する通路があったことだけは、思い出せます。

こどものことでとても気になることが今、あって、それと、そのねむりひめの話とが、結びつくのです。じぶんの深層意識はそれを知っているのに、なぜか知りたくなくて認めたくなくて、鍵がかかっているようなかんじなのです。そういうかんじ、ありませんか。記憶と思い出と予感と気配とは、そこにいま、影しかないという点において、同一の抽斗に入っています。

※ ねむり姫についてのブログ発見。http://blog.goo.ne.jp/curonyanko/e/706d79ec7c5109551b3a30f69aae5d94

2007年1月 9日 (火)

紅白歌合戦

ことし、いやちがった去年になりますかもう、大晦日の紅白歌合戦を見ませんでした。毎年かならずちょっとは見ていたのに、初めてぜんぜん見ませんでしたね。年末はずっと体調が悪く鼻かぜがぬけず、なれない仕事でばてて、することが目一杯で、そんな余裕はこれっぽっちもありませんでした。おせちも作りませんでしたとも。はじめてですね、そんなことは。

でも。(と、身をのりだす。)おっぱいぽろりの演出があったって本当ですか。へえー。犬みたいにおとなしい品行方正の、ブッダの如きエヌエッチケイがねえ。いや、あっぱれあっぱれ。

抗議にひるむなかれ。こんな辛気臭い世の中だからこそ、おっぱいにはかつやくしてほしいな。ハイ。

きょねん、ですね、わたくしが書いている、はりかたとしてのはいくへの応援のように、ながーく俳句をなさっている俳人のかたが、らしくない過激な俳句作品を発表なさいました。男版橋本多佳子作品みたいだった。笑

で、びっくりしたのです。女は男には浮気され、家庭にはとじこめられて、息ができない。親の顔色は伺わなきゃいかんし、全く人権なんてどこにあろうか。・・と長らく思ってきたのに、男も又、おなじように滅私奉公としかこの世のなりわいを感じられぬ人が少なからずいるのですよ!しかもご苦労なことに、選んだ詩形は俳句であり、精神をぎゅうっとたわめられる。そんなに自分を幾重にも押し込めて、息がつまるつまるとうなっていた日には身がもつまいが。・・いや、そこまでは書かれてはおりませんでしたが、そんなふうにわたくしは気を回しつつフォローして読んだのでありまする。(いやらしいやっちゃなあって声がする。でもこれが連句的ってことだよ。) ほんとに自分だけが苦労しているって思っていたら、にんげん、みんな似たようなものなのですわ。しみじみ手をとりあって、わーいいっしょだいっしょだって激励したかったほどです。

いつかも書いた新聞連載『戦力外通告』っていう藤田宜永の小説が終わったのですが、ときどき読んでました、私にしては熱心に。団塊世代の夫婦のありかたを現実に即して率直に描いていたからです。おとこは同級生と浮気をしている。おんなもまた若いおとこと浮気をしています。夫婦は夫婦なんだけど、恋愛の自由をたがいに認めようと努力し、しかし、夫のほうは妻の恋愛が許せないで苦悩している。これはよくわかる。封建的というより、それが男のさがなんだろう。小説は別に大団円では終わりませんでしたが、それがよかった。小説は、いいですね。なにか解き放たれます。俳句じゃなく、小説を選べばよかったなあ、斧田千晴みたいに。笑。

みなさん、斧田千晴(独身、花の四十代)の小説、三作出ていますから、買ってくださいませ。一押しは最新刊の『父の居た場所』(中日出版社、1200円)です。

中日出版のホームページ:http://chunichisyupan.jp/

それと京都に関心のあるかたは、ルポライター菊池昌治が克明に足で取材して書き上げた、「農耕と園藝」連載の文章をまとめた『現代にいきづく京の伝統野菜ー古都の食文化を担って』(誠文堂新光社、1890円)をぜひ買って読んでください。この人の文章はとても品格があり、うつくしい。まさに文は人なり、です。http://www.seibundo-net.co.jp/CGI/search/syousai.cgi?mode=id&id=02420

2006年11月28日 (火)

新刊本ご紹介

新刊本ご紹介

斧田千晴著 『父の居た場所』 中日出版社 
平成18年12月1日刊行 1143円+税

新刊本ご紹介

菊池昌治著 『現代にいきづく京の伝統野菜』
     副題 古都の食文化を担って
平成18年10月20日 誠文堂新光社刊行
     1800円+税

斧田さん、やはり接写はすこしぼけてしまいました。
菊池先生、伊藤若冲の表紙絵、ネガ反転しました。

(なにとぞおゆるしください。)

2006年11月22日 (水)

高橋甲四郎先生との出会い

「この夏もひたすら生きて海軍橋」という佐世保の橋の検索で知り合った東京のさくらさん。その縁の重なりの中に、ぐうぜん高校時代の数学教師である高橋甲四郎先生がいらっしゃいました。さくらさんは鳥栖の高校時代に縁があられたそうです。甲四郎先生はすぐ近くに住んでおられることに気づき、雨の降る日でしたが、尋ねました。道がわからなくなり電話しますと、先生は雨の中をわざわざ車で迎えに来てくださいました。81歳になられるとのことでしたが、うちの父よりずっと若く見えました。

先生から、『父の遺稿』(高橋甲四郎・著)と『稲作の歴史的発展過程』(高橋昇・著)、それに、貴重な或る史料をいただいて帰りました。今日、やっと時間がとれて、『父の遺稿』を一冊読み上げました。感動します。いろんな意味で今、先生に出会えてよかった。

読んでいるうち出てくる登場人物に関する資料を持ってたことに気がつき、それを出してきては確かめたりしました。たとえば、落合直文という歌人が背景にちょっと出てきましたが、「ん。おちあいなおふみ。どっかでみた。そうだ、乙骨菊枝先生の近代短歌百年の歩みに出てた。正岡子規と並ぶ巨頭の一人だ。」と気づき、菊枝先生が送ってくださってた本を開いて確かめ、また、落合直文の弟子であった前田夕暮の名を見たときも、「あっ、この歌人の歌集持ってた!たしか、木下利玄などとのアンソロジーがあったっけ」という具合でした。もちろん、甲四郎先生の本に出てきたのは、そういう和歌の話題で出てきたのではありません。わたしは、そこがおもしろいのです。

甲四郎先生の父上である高橋昇博士は、戦前から朝鮮半島に渡り、かの地の農業事情や民俗を30年近くかけて足でくまなく調べ上げ、膨大な史料を残された、朝鮮にとっての柳田國男のような偉大な研究者でした。敗戦による引き揚げのときにも、朝鮮政府から頼まれて一年近く当地の農業指導者にさまざまな指導をしてから、引き揚げてこられたといいます。しかし、帰国後まもなく病に斃れられ、残された13000枚にも及ぶ膨大な研究結果は宙に浮きました。それを、何十年にもわたって根性と執念でこのせちがらい金万能の出版界に送り出された甲四郎先生の、亡きお父上への類まれなる尊敬の念と愛情は、ほんとうに胸を打ちます。登場人物のどの人も、その研究の偉大な価値に気がついて、協力なさいますが、やはり、ただ一人の子であった甲四郎先生の執念がなければ、あの大著は世に出ていないでしょう。すこしづつ、ご紹介していきたいと思っています。

 高橋 昇・著 『朝鮮半島の農法と農民』
     1998年2月発刊、未來社。

落合直文の「孝女白菊の歌」http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/koujoshiragiku.html

孝女白菊の歌の歌詞を読みますと、なぜか上田秋成の「菊花の契り」が下敷きにあるようにおもわれました。父は千尋の谷底で冷たくなっているのに、思いに応えて霊のかたちで兄妹の前にあらわれる。それは菊花のちぎりをした武士が死んでしまったにもかかわらず、血の約束に応えて、幽霊になって弟分のところに帰るおはなしとつながっています。
前田透(歌人・前田夕暮の子)著「落合直文ー近代短歌の黎明」

高橋甲四郎先生の随筆「バルビゾンの道」:http://www.wing8.com/dcity-yame/kurashinojiyoho/199911/con02.html
   〃「S君の答辞」http://www.wing8.com/dcity-yame/kurashinojiyoho/199906/con01.html

2006年9月 5日 (火)

椿山課長の七日間

椿山課長の七日間

浅田次郎 ちょ

http://www010.upp.so-net.ne.jp/iraija21/dokushohome/tubaki.html

2006年7月20日 (木)

人民中国

上京の折、松本杏花氏から『人民中国』7月号をいただきました。

以前、同じ本を蘇州にお勤めの連句人で『アーチ伝来』の著者永田圭介氏からもらったことがありました。カラー頁が多く読みやすい中国の月刊誌です。アサヒグラフみたいなかんじの本。定価400円。

7月号には現代中国の農業についての特集が組まれていて、米や茶やイチゴや・・同じような作物がとれる八女の百姓としては興味深く読みました。目をひいたのは、田植えが人による投げ植えだったことです。私もこのあいだの田植えで、長靴が深みにはまってしまい動きがとれなかったので(笑)、数株を投げ植えしました。それでもちゃんとイネは地に刺さるし、風にそよぐんです。機械が残す四隅のほんのちょっとを手植えするのと違って、広大な田んぼ全体に投げて植えるのは想像を絶する気がしますが、それでも腰をかがめて植えていくよりは楽にちがいありません。(広西チワン族自治区ーとありますが、どこいらでしょうか。)

日本の都市と地方でのくらしぶりは、いま、さほど違うことはありませんが、中国では都市部と農村部では天と地ほどの差があるらしい。ことに文化の水準。それというのも交通網が出来ていないからで、道路が通じたところでは、取引ができるので豊かになります。いま、どうやったら豊かになれるか、それを模索する農民でいっぱいと書かれています。

文章とともに景色の写真が載っているのですが、見たこともない植物がありました。サルオガセというんです。眞鍋呉夫句集の句のサルオガセとは別物です。まるで白糸の滝みたいに植物に絡み付いていて、奇妙な眺めです。やまびこ仙人の長いひげのようです。

ほかには、韓国と同じく中国も、とても整形がさかんだというレポートがありまして、驚きました。なんだか、気鬱になりますねえ。整形で「この人みたいな顔にして下さい」とスターの写真を持ってくる。そういう人が増えると、似た顔ばかりにならないでしょうか。なんだか、日本の地方がどこも同じ表情なのと似ています。

2006年6月21日 (水)

乙骨家の歴史

乙骨家の歴史

2006年6月15日 (木)

『小伝 乙骨家の歴史』刊行

去年、冬至に始めた当ブログの中心にすえた「君が代研究ノート」に、最も多く引用させていただいたのが、乙骨一族の交友誌「円交五号」です。昨年十月、沼津の明治史料館でコピーをとってもらったのは、そのほんの一部でしかなかったのですが、乙骨太郎乙の没年の確認を問い合わせたり、君が代を国歌に進言した太郎乙の真価に気づいてからはその人となりを知りたい旨ご協力を仰いだりしましたので、資料提供者で太郎乙の子孫である永井菊枝氏が手許の貴重な一冊をお譲りくださり、その全貌を知ることができました。内容があまりに公的で、歴史的、文化的、資料的価値を有するものであることに思い至り、全文を書き写してでも広くご紹介をしなければいけないという思いに駆られ、迷わず「本の丸写し式紹介」を小分けしながらこれまでの半年でほぼ終えました。非常識なことだったと思います。しかし、著作権法がどうの、プライバシーがどうのと、そういうことはあまり考えたくなかった。いろんな人たちに知って欲しいし、国の歌君が代について、これまでの狭いイデオロギー論争とは違った視点で、長い日本の歴史の中において真剣に考える核石としたかったのです。

去年、このブログを始めるまえに、自分が以前まとめた俳人の石橋秀野についての研究書と、暦論と題する日本の暦と八女に残る戦国時代の百首和歌のよみを一冊にまとめて出版しようと思っていたのですが、乙骨資料ととりくむうちに、そちらのほうが全然手付かずになってしまいました。何かを始めて熱中してしまったら、ほかのことが全く手につかなくなるのです。でも、いくらなんでも、無責任だと反省しました。天文年間の和歌の読みはブログで紹介すると言うわけにはいかないです。紙に書いたものでなければ、当時の武士たちにも、読みを手伝ってくださった今は亡き先生がたにも礼を失すると思います。

本日、『小伝 乙骨家の歴史ー江戸から明治へ』永井菊枝著、フィリア刊(星雲社)をご恵贈いただきました。手に取り、頁をひらき、内容のすばらしさに驚いております。写真資料や色んな珍しい歴史的資料がたくさん挿入されており、円交五号(君が代研究ノートにほぼ所収)を本ブログでご覧頂いた方々には、それを小見出しとして、あっと驚くような挿話が、奥行のある歴史的事実に照らされて、この中身の濃い一冊のなかに浮上してきます。日本史研究者にとってはこの上ない面白さの必読の一書です。どうぞみなさま、手にとってご一読されますようにお祈りいたします。何もわけのわからぬままに、かくも大きなご縁をいただけましたことに、深く感謝いたします。ありがとうございました。

(ちょっと考えましたことは、乙骨家は清和源氏の流れをくむ諏訪郡乙事の五味氏が先祖とあります。西暦二千年に解読した岩戸山古墳の伊勢社に伝わる西暦でいえば1555年頃の100首和歌を奉納した武士のリーダーの名前が美濃守源鑑述だったこと、なんとなく符牒みたいです。そういえば、先日からコメントいただいたタンゴバンド・アストロリコの麻場利華氏の文章に五味こうすけの名が入ってたのを今思い出しましたが、ひょっとして収斂されていくのでしょうか。同じ時代の同じ地へ。ーこんなこと考えたら、たのしいですね。だれもみな、もとをたどれば、ただ一本の血筋に連なるのです。いまさらながら、人類みなきょうだい・・を実感します。)

この本とご主人の本のご紹介を、またゆっくり致したいと思います。とりいそぎ、乙骨菊枝様、念願の御著書の刊行を心よりお祝い申し上げます。かつてなく、すばらしいご本です。

ざっと一読後、思いついたキャッチコピーを本書に捧げます。

「白洲正子を超えたー乙骨という強靭で無骨な一本の蚊帳つり草」

2006年6月 8日 (木)

アーチ伝来

アーチ伝来

「アーチ伝来」 永田圭介・著 編集工房ノア、六月五日刊。

(帯文より)『満濃池』という、わが国最大の池を、小高い岡から眺めると、不思議な興奮に駆られる。

 「これが、池か」

 想像を超える広大さで、この池面は人の心を圧倒する。

 満濃池の名を高からしめたのは、いうまでもなくアーチ理論を応用した、弘法大師空海による扇形堰堤の築堤だろう。

 しかし伝えられているように、空海が設計・施工を指導して巨大な水圧を支え、満濃池を長く崩壊から守った経緯については、定量的な記録がない。

 本書は彼の唐留学の跡をたどり、アーチ構造の技術習得を現代の農業土木技術と対照して伝承の矛盾を衝き、『史実としての土木技師空海像』を追求したレポートでもある。

 併載:「江南の道」トレース記・「和社会の掟」

著者紹介:2004年「競雄女侠伝ー中国女性革命詩人秋瑾の生涯」出版。

1935年、大阪生れ。連句人。連句誌「れぎおん」同人。連句結社「海市の会」(鈴木漠主宰)同人。日本ペンクラブ会員。現在、装和技研(蘇州)建材科技有限公司副董事長。

2006年2月26日 (日)

農耕と園藝 3月号

 京都在住のルポライター菊池昌治氏から「農耕と園藝」三月号をいただいた。菊池氏の紀行文が好きな私は、あんな上等の俳句みたいな文章が書けたらなあといつも思っている。自分の感情をいっさい交えず、淡々と風物に語らせる手法。やってみれば、これがとにかく至難のわざであることに気づく。まず、細かなことまで物事を知っていなければならない。足で調べなければならない。どんなにもっともらしく文面をつくろっても、地理的なことや風土がうむ空気は取り繕えないのである。嘘の通用しない世界で体を張って文章を書いてこられた今時めずらしい「文士」という言葉が似合う物書きである。いわば発散を拒み、辛抱に辛抱を重ねた禁欲がもたらした恩寵のような文章。何度か電話でお話をしたことがある。東北訛りの残るやさしい声だった。山形出身で京都の大学へすすみ、それからはずっと京都在住でいらっしゃるという。いつかこの句について聞いてみなきゃとずっと思っている句がある。

 下京や雪積む上の夜の雨  凡兆

 知られているように芭蕉が上五を一直した句だが、この句は果たしてどんな心情を詠んだものなのか、私はどうもいまいちわからないのです。ある本には「下京という下町の風情と、雪に降る雨が暖かく呼応し、こころなごむ句になっている」みたいなことが書いてあり、またある本には「京都とは差別感情の烈しい土地で、なかでも上京と下京ではその様相は一変する。歴史的とさえいえる差別だ。であるから、この雪に降る雨は、わびしい冷たい情け容赦のない雨であり、下京で生きる人々の真情と合致するものだ」とあるんです。こうもいってることが違うと、読むほうとしてはどっちを信じればいいのか迷います。よそものとして京都に入り京都に住み、なりわいとして京都の風物を人を丹念に取材しては文を紡がれている菊池氏に、じっくりと一度尋ねてみたいです。

 「農耕と園藝」3月号に、八女の苺あまおうの出荷風景が載っていました。二年前まで毎日のように軽トラで出荷していた稲富集荷場の写真も鬼のような厳しい検査をする美しい検査員たちもちゃんと掲載されてました。なつかしかった。

 菊池昌治氏はこの雑誌に「京野菜の周辺」という連載記事を書いておられます。(吉野慈治の名前です)。私の所属俳句誌「樹」の足立雅泉氏が「農耕と園藝」を読まれていて、本当に植物が好きな人たちには知られている本みたいです。よく読んでいた「家の光」をちょっと高級にしたような月刊誌です。950円。誠文堂新光社刊行。

※ ほっと一息写真  http://ikoku.cool.ne.jp/china/sisen1/huukei.htm

※ 「農耕と園藝」カマタスエコのブログ

このなかの、セリ料理が圧巻です!

http://bistro.exblog.jp/

2006年2月 9日 (木)

西牟田靖の本

「坊ちゃんナショナリズム」の末尾でご紹介した『僕の見た「大日本帝国」』の著者・西牟田靖氏から、紹介お礼と続刊『写真で読むー僕の見た「大日本帝国」』発刊のごあいさつコメントをいただいてました。右下の見出しからどうぞご覧下さい。今やってる乙骨太郎乙(日本の国歌に「君が代」を推薦した人)を深く知るための研究も、ブログ「マリオットの盲点」のassamさんの歴史への興味も、このブログを読んでくださってる方々すべての想いの何か、ことばで言い表せない何かにつながっていて、その意識の触手が招きよせた最初の本です。

川柳家・矢島玖美子氏の「矢島家 矢島玖美子第一句集」のあとがきに、

「パソコンの画面を見ていると、このむこうには無限の宇宙がある、と錯覚することがある。

自分の句集が見知らぬ誰かに届くかもしれないという妄想は魅惑的である。妄想が現実化するためにはインターネットの回路のほかに、作品の力が必要なのだが。

この本が、あなたと川柳の宇宙とをつなぐ装置になりますように。             

    二〇〇一年十月   矢島玖美子」

この文章はわたしのおもいをほぼ言い尽くしてくれてます。同時代をほんのちょっとだけ重なって触れ合って生きるわたしたちですが、それは意味ある重なりだと信じます。この世界の外に出なければ、この世界は見えません。向こう側から心配そうな顔をして見守ってくれている大いなるものの視線を感じるときがあります。西牟田靖のまなざしは、その視線にも似て、あたたかい。政治的なイデオロギーに染まっていない世代のたましいがもたらした、「問いかける一冊」です。そのキャッチコピー「歴史には、触れてはいけない禁忌などない。」

2006年1月31日 (火)

斧田千晴の本

「大根注意報発令中!」は陽のオノダ、「ひんやり・さ・せ・て」は陰のオノダ。

じつは、彼女あての年賀状に「二冊とも軽すぎる。いつかの詩にあったような真正面むいた重さがどこかに必要なのでは・・・」と、正月早々滅相もない感想を書いてしまった。

ずっと、そのことが気になっていて、ことにお寺に報恩講で参ったりすると思い出してしまい、寺に生まれるとはどういうことなんだろうなんてことまで考えていた。うちのお寺は四百年つづく古いお寺であるが、ご院家さまの後継ぎにはまだお嫁さんがこない。立派なお坊様なので檀家のものは心配はしていないが、それでもお寺の激務を知っているからそれなりに案じている。お寺に生まれるって大変な苦労なのだ。

「大根!」に、さすがにお寺の娘が書いたと思わせる一編がある。「うなぎご飯」という題の話なのだが、他の話があまりにもえげつない印象のものが多いためにとても発光してみえる連句的効果の一編である。しみじみとして深い余情を残す。「クモとゴキブリ」もきれいなはなしだ。このようなお話が書ける人が、なぜまたあのように俗っぽいだけの話を紡がねばおれぬのか、人間は不可解だ。以前非常にこころ洗われるような彼女の詩を読み、感動したことがあった。とても同じ人の作品とは思えない。また、山口のやはりお寺の子息である木戸葉三氏と三人で短い連句を二巻巻いたときも、要所で視野の広い句をポーンと出してくれた。木戸氏は抽象的な詩を、オノダ氏は足が地に着いた視点の句を出してくださった。そういうありがたい縁のことなどが自然と思い出されて、この読みようによってはひどく思えるかもしれぬ一文を草せずにはおれなかった。

斧田千晴の本。

斧田千晴の本。

由緒正しきお寺の娘オノダ(特技こめだわらはこび)が書いたちょっとエッチでちょっとみょーな味わいの捨てたらバチがあたるハートウォーミングショートショート集二冊。大根注意報発令中!ひんやり・さ・せ・て。日本文学館、ノベル倶楽部刊。

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