狂いと信仰
五木寛之の『親鸞』、読んでいますが、少しもわくわくしない。
同郷人で母校がおなじひとだし、応援もしていますが、。
これまで、いくどかの「見せ場」がでてきました。
だけども、どうもいまひとつ迫力に欠ける。
予定調和の世界に安住している気がするのです。
かささぎとしては、お行儀がよすぎる気がして面白くない。
もっとあの時代は物狂おしい時代だったはずなんだ。
もっと野性的でもっと野蛮でもっと無常でもっと無情な。
ここぞというときに、主役の救援に奉仕する筆。
もっとよごせ。
きよらかなものはうそっぽい。
ぞくっぽいではないか。
・・・とそんなことをおもっていたら、足元に一冊の本が落ちていた。
手に取れば『〈狂い〉と信仰』町田宗鳳著(PHP新書、1999)。
ぱらぱらとめくれば、こんなことばが目にとまった。
「此道の、第一の面白尽くの芸能なり。物狂の品々多ければ、この一道に得たらん者達は、十方へ渡るべし。繰り返し公案の入るべき嗜みなり。仮令、憑き物の品々、神・仏・生霊・死霊の咎めなどは、その憑き物の体(てい)を学べば、易く、便りあるべし。親に別れ、子を尋ね、夫に捨てられ、妻に後るる、かやうの思ひに狂乱する物狂、一大事なり。」
能の謡曲には、さまざまなストーリーがあるのだが、世阿弥は〈物狂い〉の舞いをマスターすれば、あらゆる能を演じることができるといっている。あの世からの怨霊にせよ、この世での深い執念に燃える人間にせよ、その人物の情念が凝縮し〈物狂い〉となるのだが、この世とあの世を貫く掛け橋となっている〈狂い〉の世界にこそ、能の「花」を見ていた世阿弥の眼は深い。
なんでこの本を買っていたのだろうねえ。
と尚もめくれば、おしまいのほうに聖アウグスチヌスの悟りにいたるまでの蛮行が書かれていた。
(これをよみたくてこの本を買ったんだった。わずか数行のために。)
聖なるものへの道へいたるには、ひとたび狂わねばならない。
では、。
親鸞は、なにに狂うのだろう。
まだまだつづく、五木寛之の『親鸞』。
「しんらんのくるひ」に、期待している。
連句的:
聖アウグスティヌスの生涯:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8C%E3%82%B9
此れを読みますと、アウグスティヌスはアルジェリア生まれ。
(ところで、このなかにでてくる「マニ教」とは、こないだポタラ宮展にいったとき、チベット密教の祭祀備品の一つ、マニ車と関連するものだろうか?あのマニぐるまってやつは、なんともいえず、ものぐさでおもしろいものでありますよね。一回まわせば、経文を一回唱えたことになる。と決めたことがすでにかっとんでいる。おもしろいなあ。とおもいました。)














































片桐はいりさんとは違うのか。片桐ユズルさんを知りませんですみません。てか、ろいりさんのいわっしゃる人達、たとえば、岡林信康などのメジャーな歌手にしてからが、あまり得意なほうではありません。ほとんど吉田拓郎くらいしか知らない。したがって、あまり詳しくはわからないまま、ついていきますんで、よろしくおねがいいたします。