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2017年1月26日 (木)

ろてんじんじゃ?

ろてんじんじゃ?

つゆのてんじんしゃ。曽根崎心中。

ガイドさん

ガイドさん

商都観光バスさんです。
とても細かな数字まで記憶されている、その説明にひきこまれました。
みんな寝ていたのかな?申しわけなかった、
もっといろいろききたかったなあ。

壱岐出身とおっしゃったから、すぐ、エメさんの娘さんを連想しました。

2017年1月24日 (火)

プラザホテルには人工温泉があった。

プラザホテルには人工温泉があった。

ツインに見えるか。
ほんとは手前にもう一つベッドがある、三人部屋。
観光組のほうがUSJ組より一時間早くホテル着だったから。

プラザホテルには人工温泉があった。

まわりは静かな処。遊びにいくには一駅のらねばなりませぬ。
元気な人は遊びに行ったが、かささぎは年寄だから。
去年のANAホテルには熊本なのに温泉がなかった、が、
ここにはちゃんとありましたよ。
二階のジムに付属するかたちで。
500円。
熱くて、とてもよかお湯じゃった。

それと、
朝食のバイキングに、おかゆ、あり。
女性は皆おかゆ食べてました。笑

2016年3月21日 (月)

露天    タカヒロの黒川温泉便り④

露天

露天

露天

露天

▽かささぎ日誌
 
黒川温泉で住み込み派遣バイト中の次男に会ってきた。
なんの連絡もせずに行ったが、自由時間中だったので、いっしょに絶景の露天風呂にいくことができた。
86になった祖母の手をひいてくれたり、レストランに備え付けの車椅子にのせ移動したりしてくれた。
四月になれば天神の会社に入社がきまっている。
「温泉がいいのか食事がいいのか、アトピーが治ったんよ」

ストレスがなにもなくなったからもあるんだろう。
「仕事は配膳だけだけど、上下関係に厳しい。
学ばされているよ。
おばちゃんたちにはかわいがられている。」

八女から黒川温泉までの道、国道442

黒川温泉までの道、国道442

八女市後の江(ごのえ)信号。前を走る堀川バス。
あれ?なくなったんじゃなかったの。

黒川温泉までの道、国道442

八女市山内、童男山古墳の信号。ミニストップがある。
星野へはここを左におれます。
黒木・矢部方面はまっすぐ。
442はまっすぐに走ります。

黒川温泉までの道、国道442

矢部村の先へいったことがありませんでした。
日向神(ひゅうがみ)渓にはダム湖があり、そのぐるりを桜の並木がふちどっています。
開花はまだ先のようでした。
道がわからなくなると、えめさんに携帯で尋ねました。
鯛生金山のあたりで、442のルートマークがきえます。
それでたずねました。
そこと、上のところでも。
道が広い方へつい曲がって、しかし、どうも違うようだ。
とまって思案中にとった一枚。
結局よりもどって、右へいきました。
暫く山道を走ると、また442の表示がみえた。

黒川温泉の文字が道路案内にみえてきたとき、ホッとしました。

九時十分に八女を出て、黒川温泉の優彩についたのは十一時半ころだった。
母をのせていたので、トイレ休憩をとりたかったが、一度も休まなかった。
コンビニがなかったので。
(厳密にいうとひとつあったが、見落として通り過ぎてしまう)


2016年3月17日 (木)

タカヒロの黒川温泉便り③

タカヒロの黒川温泉便り③

タカヒロの黒川温泉便り③

タカヒロ、黒川温泉便りをなにか頼みます
てか、こないだ何をみてあんなに笑っとったと。

これくらい?
千鳥ってお笑い芸人のロケ!
面白いよ。ガンミっていう番組の企画で神通力が手に入る島に千鳥がいくっちゃん

産休。
にまいめは神社?

うん。なんか温泉街っち言って宿が集まっとる所にある神社。

2016年3月 3日 (木)

タカヒロから黒川温泉便り①

タカヒロから黒川温泉便り①
タカヒロから黒川温泉便り①

この風呂に毎日入れる笑
1枚目は旅館やなくてそこらへんの風景

温泉宿は優彩(ゆうさい)ってとこ!

2016年2月20日 (土)

さて比恵はどっち

さて比江はどっち

さて比江はどっち

さて比江はどっち

20年ぶりの博多、道をわすれていた。
ネットのナビにログインできず、吉塚五丁目とかまでいってしまう。
ローソンで道を尋ねると、あら。店員さんが印度人。
ひえはどっちでしょう?とたずねますと、
「わたしわかりません。」
「そうですよねえ。」
では、と、質問をかえて、

「博多駅はどっちでしょうか?」

ちゃんとおしえてくださいました。

おかげでぶじに博多駅の裏に回り、筑紫口にでました。

 

2015年5月13日 (水)

おすみさんの連休便り

おはよう
   お元気ですか?
4日に主人が急に思い立ち、母を連れて3人で車で1時間くらいの所、小川町に行ってきました。
目的は、山岡鐵舟ゆかりの宿  二葉  で 食事をしにいったんですが、母も喜んでくれて良かったです。庭園の池の上に建つ離れ客室兼 茶室  六六亭  は、中村天風  安岡正篤  も愛用されていたと聞き 260年も存続しています。 二葉は凄いと思いました。
日本五大名飯  の忠七めしを頂いて  山岡鐵舟、中村天風、安岡正篤  の時代と同じ食事だと感じながら、心の栄養もいただいてきました。
鐵舟、天風のお二人は主人にとっても大事な人物。とても満足し、喜んで、心温まる一時でした。
今日の夕方、病院へ戻る母への思いで作りができて良かったです。   
お互い様 体に気をつけて行きましょうね。お元気で。
                             すみ子

忠七飯とニ葉

http://ogawa-futaba.jp/menu/chusitimesi (一種のお茶漬けかな)

  山岡鐵舟

 中村天風:中村 天風(なかむら てんぷう、1876年7月30日 - 1968年12月1日)は日本の思想家実業家諜報員。日本初のヨーガ行者で、天風会を創始し心身統一法を広めた。本名は中村三郎(なかむらさぶろう)。

来歴[編集]

「玄洋社の豹」[編集]

1876年(明治9年)、大蔵省初代抄紙局長の中村祐興の息子として豊島郡王子村(現東京都北区王子)で出生[1]。父祐興は旧柳川藩士で、中村家は柳川藩藩主である立花家と遠縁にあたる。王子村や本郷で幼少を過ごした後、福岡市の親戚の家に預けられ、修猷館中学(現・修猷館高校)に入学。また立花家伝の六歳の時より家伝の随変流の修業を始める。随変流は立花宗茂を流祖とし[2]戦国時代に成立した流派で、剣術抜刀術をもつ。天風は後に随変流を極めることとなる。ちなみに、「天風」という号は天風が最も得意とした随変流抜刀術の「天風」(あまつかぜ)という型からとられたものである[1]

幼少期より官舎の近くに住んでいた英国人に語学を習い、修猷館ではオール英語の授業を行っていたため語学に堪能となり、また柔道部のエースとして文武両道の活躍をするが、練習試合に惨敗した熊本済々黌生に闇討ちされ、その復讐を行う過程で出刃包丁を抜いて飛びかかってきた生徒を刺殺してしまう[3]。この件で正当防衛は認められたものの、修猷館を退学となった。その後、1892年(明治25年)に玄洋社頭山満のもとに預けられる[4]

天風は玄洋社で頭角を現し、気性の荒さから「玄洋社の豹」と恐れられた[5]。16歳の時に頭山満の紹介で帝国陸軍の軍事探偵(諜報員)となり満州へ赴き、大連から遼東半島に潜入し錦州城九連城の偵察を行う[4]日露戦争が迫った1902年(明治35年)には再度満州に潜入し、松花江の鉄橋を爆破したり、仕込杖青竜刀を持った馬賊と斬り合いを演じるなどの活躍を見せ「人斬り天風」と呼ばれたという。1904年(明治37年)3月21日にはコサック兵に囚われ、銃殺刑に処せられるところであったが、すんでのところで部下に救出された[6] 。その後天風は様々な危険を乗り越え、無事目的地の大連に到着した。日露戦争に備えて参謀本部が放った軍事探偵は合わせて113名いたが、そのうち生きて大連に到着したのはわずか9名であった[6]

求道の日々[編集]

戦後は帝国陸軍で高等通訳官を務めていたが、1906年(明治39年)に奔馬性(結核の症例の中で、急速に症状が進むもの。現代では「急速進展例」と呼ばれる[7])の肺結核を発病。北里柴三郎の治療を受けたものの病状は思わしくなかった[6]。その後1909年(明治42年)に作家オリソン・スウェット・マーデン(en:Orison Swett Marden)の『如何にして希望を達し得るか』を読んで感銘を受け、病気のために弱くなった心を強くする方法を求めてアメリカへ渡る決意をする。しかし結核患者には渡航許可が下りなかったため、親交のあった孫文の親類に成りすまして密航する[8]

アメリカに渡った天風はマーデンを訪ねたがあまり相手にされず、願いは果たせなかった[8]。その後親戚筋にあたり、当時アメリカ公使館に勤めていた芳澤謙吉の勧めで哲学者のカーリントン博士に面会したのち、華僑の学生に代わって授業に出席したのをきっかけにコロンビア大学に入学し[9]、自らの病の原因を尋ねて自律神経系の研究を行ったとされる。ヨーロッパではイギリスでH・アデントン・ブリュース博士(en:Addington Bruce)に面会したのち[9]フランスでは大女優サラ・ベルナールの家に居候したり、ドイツハンス・ドリーシュと面会するなど数々の著名人を訪ねるが、いずれも納得の行く答えを得ることができなかった[10]

こうして天風は1911年5月25日に日本への帰路に就く[11]が、その途中経由地であったアレキサンドリアにてインドヨーガ聖人であるカリアッパ師と邂逅[12]。そのまま弟子入りしヒマラヤ第3の高峰カンチェンジュンガ山麓にあるゴーク村で2年半修行を行う[11]。この修行を通じて結核はすっかり治癒し、さらに悟りを得るに至った[13]

1913年にインドを立ち日本へ向かうが、その途上で孫文の起こした第2次辛亥革命に巻き込まれ、そのまま「中華民国最高顧問」として協力[13]。革命は挫折したものの、その謝礼として財産を得た。

実業界、そして導師へ[編集]

帰国後は時事新報の記者を務め、実業界に転身すると東京実業貯蔵銀行頭取などを歴任し実業界で活躍していたが[13]1919年(大正8年)5月末のある日、頭山に代わって公演を行っている最中に突然感じるところがあり、頭山に相談した上で一週間の間に一切の社会的身分、財産を処分して6月8日に「統一哲医学会」を創設。街頭にて心身統一法を説き始める[11]。その後、本部を芝公園内においた[14]

その後統一哲医学会は発展し、政財界の実力者も数多く入会するようになった[14]1940年(昭和15年)には「統一哲医学会」を「天風会」に改称。1962年(昭和37年)3月には国の認可により「財団法人天風会」となった[14]1968年(昭和43年)12月1日に天風は92歳でこの世を去った。墓所は東京都文京区大塚の護国寺にある。2011年(平成23年)には内閣府認定の公益財団法人に移行した[14]

教え[編集]

クンバハカ
瓶に水を満たした状態という意味。肛門を締めて、肩の力を抜き肩を下げ、下腹に力を充実させる体勢[15]

(つい、。大量にコピペしてしまいました。)

2015年4月 8日 (水)

大圓寺のさくら  星野と東京

DSC_6879 (480x320).jpg

星野村  えめさん撮影http://hatue62.seesaa.net/article/416850409.html

大円寺のご住職とうたまるさんの笛の音

ひちりきの音にしろ、竜笛にしろ、とてもよく通るので、どこにいても聞こえる。

ひちりきはさいごでなければ、くちびるがのれなくなる、みたいなことをおっしゃっていました。

大圓鏡智

しらべうたまるさん

DSC_6818 (321x480).jpg

だいえんじの山号は玉水山でした。

星野村の大円寺

しんのうのおうた

DSC_6858 (320x480).jpg

かねながしんのうのみささぎのあるやまのはた(えめさん撮影)

http://hatue62.seesaa.net/article/416811352.html

行空上人の墓;こうやんどうまでの道http://hatue62.seesaa.net/article/416768344.html

 永福町のだいえんじ 出典;さくらさんのデジカメ日記http://blog.goo.ne.jp/ssj19430903

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