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2006年7月14日 (金)

東京 4

九日朝に三鷹の永井菊枝氏を訪ねようと思っていた。前もって訪問を断るのが礼儀なんだが、それをするのがいやで、勝手に訪ねていこうと決めていたのだが、松本さんにそれじゃいけない、先方の都合を聞きなさいとたしなめられた。そこで前夜、お電話でご都合を伺うと、歌会で留守というお返事。ほらね。

じゃ、どこへ行きたい?今日はあいているからどこでもつれていってあげるよーと松本さんに聞かれて思いついたのが、調布の深大寺である。そこには十年来、気になっている仏像があった。「ほんとうは浅草の鬼灯市が今日から始まるから、そこへ行こうかと思ってたんだけど」と松本さんはおっしゃったが、私が見たがっている深大寺の白鳳佛は御存知ないそうで、希望をかなえて下さることになった。

人が蟻並みにうじゃっといる新宿駅で待ち合わせたが、奇跡的に間違わず落ち合って、○○方面行きの電車にのる。(失念)。調布駅で降り、駅前から深大寺行きのバスに乗り換える。電車のなかで、ふっと調布にお住まいの連句人、川野蓼艸(かわの・りょうそう)先生を思い出し、連絡すると、「山門の前で待ってなさい。すぐ行くから」とおっしゃる。お言葉通り、ものの十分もしないうちに川野先生が見えた。写真をご覧下さい。ベレー帽に群青色の綿シャツ、オフホワイトのパンツに見えないけど白い靴でした。(これでうちのチチとおないどしかよ、とひそかにつぶやく。誕生日までほとんどいっしょなんですよね、言わないけど。)

深大寺は古い武蔵野のおもかげを今に遺しているといわれる通り、とっても森深い地にあった。鬱蒼と繁った樹木のあおが滴るように目にしみた。医院の仕事を息子さんに譲られ晴れて隠居となられた川野りょうそう氏は、この日、昼まで時間が空いているとのことで、一度しか深大寺にきたことがないという松本さんにとっても、初めての私にとっても、へえっと驚くような案内をしてくださった。

私と松本さんだけでは決して気づかなかったと思う、境内には驚くほど沢山の句碑や歌碑が樹木の陰に埋もれるようにして、ひっそりと建っていた。それをひとつずつ紹介して下さって、説明も行き届いたものをしてくださる。たとえば、中村草田男の有名な「万緑の中や吾子の歯生え初むる」自筆句碑を指しながら、「もしこれが孫の歯だったら孫俳句に堕してしまってつまらなかったろう」とか講釈をつけられるので、分りやすかった。そのすぐ傍らには高浜虚子の句碑と胸像が鎮座している。虚子の草書みたいな行書は読みづらいが「遠山に日の當りたる枯野かな」とよめる。えーっと、なんでここに虚子の句碑があるっておっしゃったのかな。メモしとけばよかった。確か、一時的にここに虚子は住んでいたというんじゃなかったっけ。すみません、記憶があやふやで。

そのむかいに、目指す白鳳佛のお堂があった。ガラス戸越しに拝顔できるようにしてある。椅子にすわった珍しい「倚像いぞう」というタイプの仏像である。石橋秀野の句を読み解いているころに、たまたまこの像を詠んだ句をみつけ、それを秀野ノートに書いた以上、ずっと確かめなくては・・と思い続けてきた。

やっと、あえたね。おや、きみは中宮寺のみろくにどこかそっくりじゃないか。

こころでそんな言葉をかけながら、じっと顔をみる。大きさといい、黒くひかるからだといい、似ている。勿論、中宮寺の弥勒はエレガントでなよやかであり、一方こちらはなんとも素朴で、いかにも性格がいいという感じの仏像である。にもかかわらず、似ているモノを感受したということは、同じ時代の空気をまとっているということなのだろうか。

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2006年7月13日 (木)

東京 3

8日の午後一時半から上野の国立博物館でジョー・プライスさんの講演会を聞いた。松本さんと湯島聖堂を見て、昼食をお茶の水駅前の高級おふらんす料理店前の庶民的な中華の店(ラーメンたんたんめん冷麺方面の)でゴマ味冷麺を食べ、ちからが湧いてきた所で松本さんは漢詩の会へ、わたくしめは上野へと別れた。

上野駅へおりて横断歩道を渡ると、左右に人波がわれている。さてどっちへいけばいいのか、松本さんが教えてくれたのになんにも聞いてなかった私は適当に左に行ったところ、間違った。

そこらを歩く為に歩いている感じの戦中派のおじさんに道を尋ねた。すると、上野のお山を越える散歩を毎日自分に課している・・とおっしゃり、ついて来なさいと先導して下さった。歩きつつ、ここらは昔、草野球場があったんだよと教えて下さる。なんとなく乙骨三郎のことを思い出し、訊いてみたくなったが、ぐっとこらえた。美術館や博物館や動物園が集中していて、博物館は岡の上だった。館の手前で散歩のおじさんとは別れ、ふと右をみると、何かの行列がぐるりと樹木たっぷりの一角を取り巻いていた。あれはなんだったんだろう。長蛇の列をみることがないので珍しく、最後尾に並びたくなったが、これもこらえた。

時間はちょうど。「若冲と江戸絵画展」だけの入場券を買い、平成館へ急ぐ。なんでというほど中は広い。お茶の水駅でちらりと見えたニコライ堂と同じ屋根の表慶館が工事中で北村薫の『冬のオペラ』中のトリックが確かめられず残念である。

講演はアメリカ人コレクター、ジョー・プライスさんが自身で編まれたビデオを見つつ「どうして若冲の絵に魅かれたのか」を説明されるもので、同時通訳付だった。私の耳で聞いたお話では・・自分はオクラホマで大学の工科の勉強ばかりしてきた。記憶、記憶、また記憶することの繰り返しが勉強の総てだった。或る日、父が塔を建てるのでその設計を父の友人で建築家のフランク・ロイド・ライトに依頼した。こまごまとした折衝を父が私にするようにいう。私は初めてこの高名な建築家と近く接することになる。ライト氏は私にいろんなことを教えてくれた。塔を建てるということは、自然の生きた樹木に学ぶということだよ。草木は、風が吹いても風に撓い、地震がきてもしっかり地面にへばりついている。根っこ、茎、はっぱの一枚一枚がそれを可能にしているんだ。私達はそれに学ばなければならない。自然は神と同じ頭文字を大文字で書くべき存在なんだ。

ロイド氏は東洋美術にも詳しかった。氏にくっついて行った美術商であるとき、誰の絵か分らないがとてもこころ捉える一枚の蒲萄の絵を見つけた。江戸の画家伊藤若冲の絵だったが、そういう知識は何もなかった。ただ、ロイド氏の言った言葉とその絵が自分のなかで一つに重なって見えた。まだ若冲の絵なんて誰も注目しない時代に私はせっせと絵を買い集め、気づいたらおのずから若冲のコレクターになっていた。

若冲の絵は確かに自然の写生だが、具象画とは微妙に違う。装飾的であり、作者の中の審美眼を潜り抜けたものを綿密な配慮のもと、再構築したものだ。自然そのものではないが、輝くような自然のいのちに充ちている。私はそこに涙があふれるような感動を覚えた。じっさい、若冲の絵の何枚かを見て、わたしは涙が自然とわきおこるのをおさえることが出来なかった。私のスポーツカーはすべて絵に消えた。

私はタヒチも愛する。タヒチの自然は生の自然だ。タヒチ女性が化粧もせず、生のままで美しいように、タヒチの自然はそのままで美しい。しかし日本の自然は、人の繊細な手が加えられた美である。日本女性の美もまたそうであるように。どちらも、私には同じ自然であり、どちらの自然も女性も私は愛している。(プライス氏の奥様は昔、氏の通訳だったかわいらしい日本人女性であった)。

2006年7月12日 (水)

東京 2

急に思い立ったので、新幹線だった。自由席の禁煙席に半日座っていた。着いたのが夕方(昼近くに発ったから)で一日目は終了。土曜は朝一で九段下の靖国神社へ参拝にゆく。東京の電車はなんてごちゃごちゃしてるんだろう。路線も色分けしてあるとはいえ、乗り換えのときにぼーっとしてたら大変な目にあう。JRと思っていたら私鉄だったりして、ややこしいし、こんがらがってくる。距離的には近い千駄ヶ谷から九段下まで行く時も、一度乗り換えなきゃいけない。そして階段を昇ったり降りたり。本がたくさん詰まった荷物を提げて苦行僧みたいだった。数日腕がしびれた。

その夜、連句で親しくさせていただいてた松本杏花さんに電話をした。太郎乙の八十の賀の漢連詩をよんで下さったさいたま市在住の俳人である。松本さんは私が上京したらいっしょに永井邸についていきたいとおっしゃっていた。突然なのでどうだろうかと心配だったが、ふしぎと体があいてらして、八日の靖国参拝のあと、十一時にお茶の水駅で待ち合わせ、湯島聖堂を案内していただく。私は昌平坂学問所というのを一度見てみたかったのだ。聖橋を渡りきり、階段を下りてしばらく歩くと、鬱蒼とした森に囲まれた聖堂があった。昔よりかなり敷地が狭くなっているというが、ふつうのお宮くらいの広さはある。

松本さんと会うのは、何年ぶりだろうか。平成十五年の秋、伊丹かきもりぶんこで連句人による連歌会というのに参加したとき以来だ。なつかしく、うれしかった。連句の縁は、こんな風にとってもあったかい。まるで寝起きをともにした肉親のように。あるいはぶざまな癖も知りぬいた古い愛人のように。

松本さんは今、中国に凝っておられる。夢中になっておられる。おととし、「拈花微笑ねんげみしょう」という題の句集を漢訳付で出された。(ちなみに、このタイトルの花の字は、華ではないかと言われようが、漢字の国中国ではこの簡略な字です)。中国語も勉強されているし、漢詩も漢俳(かんぱい)もなさる。来年は二冊目の漢訳句集を出されるとのこと、こころは中国へ飛んでいる。この点『アーチ伝来』の永田圭介氏とそっくりだ。そして、驚くべし、喜ぶべし、松本さんの第一句集『拈花微笑』が、中国で話題になり、売れているらしいのだ。歴史ある自分たちの国の文化は衰退しているのに、日本にはまだそれが洗練された姿で残っている・・と中国のこころある人々は気づき始めているのだろう。

私も太郎乙や耐軒のこころに少しでも近づきたくて、漢詩をのぞいてみたくなる。だから、湯島聖堂では漢詩入門の本を買った。

蚊に刺されながら、案内者のおかげで、みるべきところはきっちり見てこれた。お昼からは上野の国立博物館に行かねばならず、松本さんも同じ時刻に近くの漢詩の会に出られるというので、そこでいったん別れた。九日の再会を約して。

2006年7月11日 (火)

東京 1

唐突に東京へ行ったのは、一つは応募していた東京国立博物館の講演会案内(江戸の画家伊藤若冲展。ジョー・プライスというアメリカ人コレクターがその魅力の発見について語られるというもの。←これがとても深いお話だった)が届いたからだ。それも講演当日(8日)の数日前に。親と子を抱えていれば、いきたいなあ・・とは思っても、行けるかどうかは当日まで不明である。しかし、私のような立場の主婦には、今しか行けるときがないのも事実で、年に一度のことではあるし、行かせてもらった。

東京では、会いたい人がいた。乙骨太郎乙の直系の孫である永井菊枝氏と、このブログの師匠の横浜のアッサムさんである。結局、永井菊枝氏には先方の都合で会えなかった。でも、ひさびさにお電話で聴いたお声はとってもお元気で、嬉しかった。

大好きなあっさむさんには、あえた。土曜も仕事をしておられた。想像通り、まかふしぎな雰囲気の人だった。大人っぽいのか子どもっぽいのか。とてもマニアックでおたくっぽくもあり、でも私と違ってのめりこまない慎重さがある。さめた禁欲的な印象を受ける。一年近く毎日ブログでつきあっていたので、興味があった。私より一回り年下である。でも、やはり今思い返すと、あちらのほうが年配のひとのような感じであるのはなぜなのだろうか。

あっさむさんにずっと聞きたくて聞けなかったことを訊いた。独身だった。笑

「マリオットの盲点」で実際の写真も見たのですが、お寺の砂の庭の模様を作っておられるそうです。ひとことでいえば、お寺のしごと代理人みたいなものだそうです。砂の模様は毎日つけないといけないんですねえ。考えたこともありませんでしたが、お寺さんて景色を維持するのも結構大変なんですね。(岐阜の斧田さんとこの福乗寺は、どうなんだろう。それと、亜の会仲間だった山口の木戸葉三さんとこの円乗寺はどうなんだろう。って連句みたいについ連想しました)。

恵比寿にて

 一つづつ梅干食つて別れたり   (梅干は夏の季語)

玄米ごはんに梅干で、そば茶をかけて戴いたのですが、梅干がうそものじゃなくておいしかった。あれだけは本物にせものすぐ分りますよね。(って、この言葉も、連句会亜の会の宗匠だった前田圭衛子先生がおっしゃった言葉なんですが。私たち田舎ものはにせものを知らず、言われてみてそうなのかとおもった)。あっさむさん、お疲れのところ、ご馳走して下さってありがとうございました。都会でたべる田舎メシ、おいしかったです。

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