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2009年10月31日 (土)

八女福島『白壁ギャラリー』めぐりのご案内

先日の保健医療経営大学での『第三回ありあけ連句興行』にご案内申し上げた地元の若い女性・Kさん(去年の堺屋での興行に飛び入り参加された独身の方、なんと医療従事者でありました)から、白壁ギャラリー散策地図つきのイベント案内が届きました。麻莉子さん、ありがとう!

白壁ギャラリー巡り、
かささぎの旗でも以前一度、取り上げました。↓

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_6c3e.html

▼今年は八女福島に今も残る町家を案内人と一緒にめぐります。

八女福島・穴場散策ツアー

日時:11月1日(日)13:00~/15:00~
集合場所:横町町家交流館 
参加費:300円
普段はよく見ることができない町家の裏側をご案内します。
お問い合わせ:八女ふるさと塾090-8917-8208(中島)

リンク記事(高橋):http://yame1030.blog68.fc2.com/

以上、パンフレットから引用いたしました。

▼かささぎのおすすめ

俳人のあなたには、せっかく八女福島白壁ギャラリーにいらっしゃるのであれば、散策が終わってから、無量寿院の山本健吉、石橋秀野の墓を訪ねられることをおすすめいたします。(ご連絡いただければできるだけご案内いたします。・・かささぎ)

2009年4月13日 (月)

師は着物でした

土曜日、前田圭衛子師はつむぎの着物姿でした。
季節は薄暑、急に肌寒くなったりしますので、鮮やかな抹茶色の小柄の道行きコートを持っていらしてた。
はじめて雪の名古屋でお会いしてから十五年近くたつけども、まったく印象が変わらない。
少しゆったりなられたかなあと思うくらいで。

私はかつて師の着物姿を二三度見たことがあった。
一度は五年ほど前の伊丹市柿衛文庫での連句人による連歌会。
その前にも一二度、東京青年館での全国連句大会でだったか。
あの時は紬のシックな着物に塩瀬の帯を締めてらっしゃった。
・・・とこう書きますと、いかにも着物文化に詳しそうで困るのですが。
つむぎとふつうのきもののちがいくらいしかわかりません!きっぱり。
圭衛子師は少女時代から着物は着慣れているとのこと。
お茶お花の世界はすべて着物ではあります、たしかに。
そういう習い事を自然に身につけて、嫁いでいった良き時代。
若大将加山雄三と同世代です。
思い返せば、師が今の自分とおなじ年頃のときに出会いました。
繊細にして大胆、細心の気配りの人でありつつ豪放磊落。
ふしぎな人です。気がおそろしく強そうで弱い。弱いでなく、優しい。

八女筑後にフツウに住んでいますと、余り文化の香りは漂いません。
それは連句連歌などうたの資料を探せば痛感することです。
ほんとうになにもないのだなあと愕然となる。思い知らされる。
(戦国百首は、だからもっと大切にしなければならない宝だと思う。)
前田圭衛子師は、私にとって、文化そのものです。

遠慮なくあれこれと細かい批評をしてくださる。
歯に衣を着せない。
誰に何をいわれても腹がたつのに、唯一腹が立たない人。
その深いところからくる感覚を畏敬している。
なんどか衝突もしましたが、すこしも嫌にならない。
ただ反省させられる。

まことに、師はありがたし。
公私とも超ご多忙なところ、寸暇を縫うようにしておいでいただきました。
まったくの初心者軍団が二度のご指導で中級軍団にレベルアップいたしましたのが、なにより作品で一目瞭然です。

塩瀬の帯:http://blog.murablo.jp/zen/kiji/68605.html
(上記、忘れないためにある歌)
「女ひとり」http://momo-mid.com/mu_title/onna_hitori_w.htm

2009年3月24日 (火)

新解さんの変遷と幸福論その他

早起きしすぎてしまったので、モーニング珈琲をすすりながら、これまで、斜め読みだったものをじっくり時間をかけて読ませていただいた。乙さん。あーたはおもしれえおとこじゃのう。

こい・れんあいの類もこう論理的に語られると、なんかねえ、恋する気持ちも失せてしまう。さくらさんがいうごと、最後はわらってしもうた。
よのなかにしても、へえ、けっこう時代背景あらわしてんなあと思ったわ。変革を羅列して比較するってのは面白いもんが見えるね。

だれか、わたし自身の変貌の比較ってのもやってくれんやか。

新解さんの人格
新明解国語辞典の醍醐味は、その用例の変遷。たとえば第五版では、『せこい』の用例に、
「献金に百円持ってくるように友だちにいわれたそうで、訳のわからない息子は“----教会だな”と思いながらも、たった百円でたくさんお願いをしてきたという。どっちが----のやら」「消費税が五%もかかると聞いた時、“そんなの----”と思った」「世界征服をたくらんでいるというわりには、どうして幼稚園のバスをねらったり、子供をさらったりと、----ことばかりをするのだろうか」「ただ、ぼくらは宇宙船から見た地球をポケーッと見ていたいのに、やらたにスタジオにカメラを切りかえ、タレントたちにムリヤリしゃべらせたりするのは、宇宙の広大さにくらべて、ちょっと発想が----」
これが第五版では、
「百円ショップで売っているのと同じ品を九十八円ショップで買ったと喜んでいるのだから----」「一日一箱吸っていたタバコをやめて、その金を貯金することにしたのは----ようで堅実な蓄財法かもしれない」
に変わる。
新解さんの用例では、生活苦にあえぐ主人公(職業は物書きらしい)の日常がさりげなく(?)書かれている。
第五版『たっぷり』
「お金はないが夜を徹して文学論をやる時間だけは----ある」
第五版、第六版『だって』
「洋服----靴----みんな兄貴のお古だ」
次の版で子供の数が増えていたり、前の版では近かった妻との距離感が、次の版では遠ざかっていったりと、はらはらどきどきで、次の版が待ち遠しくなるような仕掛けもあります。最近の版では、妻に出て行かれて一人暮らし。自炊しています。

すぶた【酢豚】中華料理の名。角切りの豚肉にかたくり粉をまぶして油で揚げ、いためたネギ・タケノコなどを加えて、酢・砂糖などで調味し、水に溶かしたかたくり粉を入れ、とろ火でからめたもの。

第五版から第六版にかけてのクライマックスは親子関係。詳しくは本書(辞典)で。
第五版『しみじみ』
「別に父と私との間に----としたものがあるわけではないのに、そうして山の端に二人でしゃがんでいると、親しいものがあるのであった」
第五版『ちょいちょい』
「私が床につくと、父は母よりも----病室に来た」
第五版『たま』
「----にやってくる(かと思えば、また金の無心かね)」
第五版『たまたま』
「文明の民はたとい親子の間でも・・・別居しなければならない。・・・----親子同居するものがあっても、息子がおやじから利息のつく金を借りたり他人のように下宿料を払ったりする」
第六版『たま』
「----には連絡してくれ」
第六版『たまたま』
「----無駄遣いを注意したばかりに、その後妙によそよそしくなった」

ふうん。みにしみるねえ。
なんかさ。いまって時代はなにが普通なのかが、さっぱりわからない。でも、この山田って辞書編集者は、われらの父、母の世代とおなじく子沢山の家に生れて、目一杯その団欒のなかでもまれて大きくなった。という印象がありますね。目一杯昭和の人。
ところで。
乙四郎はいつから竹橋乙四郎となったのかを調べていた。そしたら全く関係ないけど、3月18日ごろ息子の修学証明書を母校のふくしま高校にとりにいったことを思い出しました。ということは、去年のいまごろは子はまだ試験もうけていなかったんだ。なんだかみょうだねえ。

日付まちがえた。
3月23日

新解さんの魅力を紹介する面白いページがありました。
   ↓

   ↑
これは危険なページでした。
貴重な時間を何時間も食われてしまった!

中に、金田一春彦氏が新明解から去ったエピソードがあり、次の用語解釈の対立が書いてありました。

マンション〔mansion〕
 スラムの感じが比較的少ないように作った、鉄筋のアパート式高層住宅。〔各階で個人・家族が使用する一画には、賃貸しのものと分譲する方式のものとが有る〕 (第4版まで)

 危険なページ、今回はちょびっと覗いただけですぐ逃げてきた。マンションの項目なんて、ここまでくればビアスの「悪魔の辞典」ですね。
 福島高校という学校があるのを知ったのは大学に入った年で、1講座30~40人ぐらいしかいない中に、2人も福島高出身者がいた。そして数日後に島を出て行く同僚の奥さんも福島高出身、夫は八女高校、2人も立花町出身で中学生の時の同級生らしい(御夫婦ともに60歳)。奇遇でした。

新解さんの哲学
これは、是非、皆さんへ紹介せねば。

いのち【命】①生物が生きている限り持続している肉体や精神の活動を支える根源の包括的な呼称。(一瞬一瞬生きることの繰返しとしてとらえられる緊張の持続であり、客観的には有限であるものが、主体的には無限の連続として受け取られる所に、その特徴が有る)「----を賭けて守る」《その他用例省略》②「命①」の続く間。

命を賭けて、の命も、客観的には有限なものだったことに気付かされ、ハッとした。

こうふく【幸福】現在(に至るまで)の自分の境遇に十分な安らぎや精神的な充足感を覚え、あえてそれ以上を望もうとする気持を抱くことも無く、現状が持続してほしいと思う△こと(心の状態)。

幸福は自分の心の内にあり、追い求めようとすると消えてしまうものだと教えられた。

ぼんじん【凡人】自らを高める努力を怠ったり功名心を持ち合わせなかったりして、他に対する影響力が皆無のまま一生を終える人。

「ぼん」は凡人にあらず。

(第二版~第五版)ぞくじん【俗人】①高遠な理想を持たず、すべての人を金持と貧乏人、知名な人とそうでない人とに分け、自分はなんとかして前者になりたいと、そればかりを人生の目標にして△暮らす(努力する)人。②天下国家の問題、人生いかに生きるべきかということに関心が無く、人のうわさや異性の話ばかりする人。③高尚な趣味や芸術などに関心を持たない人。④俗②。
(第六版)ぞくじん【俗人】①(高遠な理想を実現させるためには全てを犠牲にしても惜しくはないなどといった考えは持たず)世間的な立身出世にあこがれたり自分の家族の幸福を願ったりして生きる、ごくありふれた常識感覚を身につけている人。②出家していない人。

山田主幹(1996年没)の影響力が薄れた第六版では、俗人でいいじゃないか、という気分になるが、第五版までで育った者には、俗人であってはいかん、という気概があった。

なるほど。
むかし、「なるほど」なる莨ありけり。
たばこもこっちの草冠に良いという字(ほんとはウシトラね)ですと、くすりなみの待遇になる。けさのちびまるこちゃん、おやじさんのたばこネタ。これもペーソスがあった。
おつしろう。まだ付けてくれた項、開いてないけど、付けてくれた文章から察するに、山田さんは近代知さんと決裂したの。へえ。どっこの世界にもそれありますね。昭和の俳句界を批評で牛耳っていたといっても過言ではない山本健吉にしたって、かげで批判を浴びていた。あったりまえなのかもしれないけど。当人の死後にでてくるのが腑に落ちないというか卑怯な気がする。だけどこれが俗世間なんだろう。

ろいりさんへ。
福島高校はかつて女学校でした。
五木寛之さんが出られたころは、まだ女学校があった地(いまの市役所があるところらへん)に建っていたらしいです。

こぶし咲く 昨日の今日と なりしかな 健吉

午前中、こぶし満開の堺屋へ行ってきました。夢中落花文庫に健吉愛用の辞書。山田俊雄編修の『新潮国語辞典-現代語・古語-』。かなり出世しており、使い込みが良くわかる。
横町町家交流館にも行ってきました。ここの二階を訪れるたび、何か書き残さねば、と触発される。もし、作品が後世に残り、誰かが資料館を作ってくれるような展開になれば、愛用の辞書として新解さんが並ぶことでしょう。

名前の由来

その昔、東京ボンタというコメディアンがいました。彼が一世を風靡していた頃、大都会久留米から一人の転校生が広川中にやってきた。
美しく?聡明な?彼女は一日で彼らを魅了した。廊下側の一番前の席に座らされ、誰も彼もが彼女を一目見んとて、5組の廊下を行ったり来たりした。
担任の国語の先生は、「ほんだ」という姓を使って遊び、ほんとうだというところを「ほんだ、ほんだ。」というふうに言って、クラスを笑わせた。
その内仲良くなったとっしゃんが、ほんだを逆にして「ぼんたちゃん」と呼び始めた。それからは皆が「ぼんたちゃん」と呼び始め、いつからか「た」がとれ、さらに「ちゃん」もなくなった。

な~んも関係なかばってん、書いておこうかなと思いました。

留め書き  どうにかできました。これから清書です。あーもう、ベストも編まないかんとに、いそがしかあ。ご飯のしたく、すうごつなかー。

危険なページ  覗いてしまいました。

「ぶす」は舐めたらいかんのです。きりがなくなります。困ったもんだ。

へえそうだったの。はじめてきいたよ。
ごはんのしたく。これはねー。
最後の砦だ。
逃げられない。
おひるなにした。
こんぶといりことしいたけで大根とごぼう天とゆで卵をおでんみたいに煮た。あと葱とかまぼこだけ入ったニュウメン。これ、年寄り風だよね。子ども中心にすればじいばあが食べんし、年配メニューにしたらこどもは他にラーメンとかを自分で作る。どっちもはきつい。以前はやっていた。今はせん。食べたければわがでせい。とおもうようになった。
昔にくらべれば、ずいぶん父が進歩した。
朝わたしが起きれないときがある。すると父がスイッチいれてる。それどころかたまに味噌汁もこさえてる。およよとおどろきです!これが三人目を出産したとき、母が介護にきてたのを六日目で呼び戻したおとこか。と思う。
やっぱりどうしてん、九州のおとこは男尊女卑やけん。ばってん、それじゃいかんのよ。いまという時代は。

2009年3月 9日 (月)

自我の越境体験としての連句

I, my, me, mineを一切使わずに英語圏で半世紀を生き抜くことなんてできそうにないが、日本語圏だとそれができる。句や歌も、一人称代名詞がないほうが世界が広がる。
哲学としての「我思う故に我あり」思想には馴染めなかった。自我って、そんなに強固なものではない。「自分」は輪郭で明確に内と外とに区分できるものではなく、他人の心の中にも自分が入り込み、自分の心の中に他人が入ってくる、という感覚のほうが日常的。だからこそ文を書いて他人の心を動かそうとしたり、文を読んで他人の心が入ってきたりする。
君の元気は僕の元気さファイト!
   ↓

乙先生

本日はお疲れ様でした。そして、ありがとうございました。歌仙巻き上がって良かったです。

はらみ句(前もって作っていく句)をどんなに数多く作っていても、自分が出す句は前に出る句によって変わってくるから、意味がないと言う事がわかった。でも、ゼロだとそれはそれで心もとない。
また恋句を出す事ができなかった。次への課題です。
それにしても今日はいい天気だった。矢部川もきらきらして、菜の花は満開で。風は冷たかったけど。
きょうこはん、お疲れ様でした。

いまごろこのコメントに気付きました。
連句が巻き上がって編集してるとき、座でまったく気付いていなかった障りに気がつくことがある。
座はいきものだから、押しとどめようない力が働いている。その力を御すのは「しき」式目でありさばきのちからなんだけど、そのさばきでさえ後でしか見えないものがある。
当日出たたくさんの短冊をもう一度とりだして見直しているとき、それが突如みえる。やれやれ。

2009年3月 3日 (火)

あんぐらだんぎ

乙四郎又はろいりさん
つかぬことをお尋ねしますが
アンダーグラウンドてのは何
石橋秀野を調べていたときから 赤の言葉と 地下生活 が目につくのですが
かささぎのあたまでは ほんなこて地下に穴掘ってコソコソくらしてるイメージしか湧かない
日本のアングラを定義してやっておくんなせい

難しいこた ナシでたのんまさ

我々が住んでいる地球には、内部に大きな空洞があって、高度な文明を持つ「地底人」が住んでいます。地表に出るたびに“UFOだぁ!”と大騒ぎになるので、ひっそりと暮らしていましたが、姿を見られなくてすむ音楽の世界などには昭和40年代くらいから少しずつ進出してきています。近年は、ネット上を堂々と闊歩するようになってきました。彼らは地上征服の機会を虎視眈々と狙っています。
なお、地底人の住む空洞のさらに下にも空洞があり、そこには「最底人」という情けない種族が存在するそうです(いしいひさいち)。
このような駄文を書いて喜ぶひとたちがアングラでした。

アングラ
   ↓

「きさんなめとんのかっ、こんあほんだらがあ!!」

と言いながら、こぶしをしっかとにぎって、はあはあ息をふきかけて向かってくる教師がいた。たしかにきおくのそこにある。英語と体育の先生だったが。
なつかしいなあ!!
昭和の先生。ばんばんぶったたきよった。
おやもおやで、どうぞたたいてください。とあたま下げていた。あんぐら。まだどこかにあるだろか

 五木寛之の「青年は荒野をめざす」を読み、俺も数年後には横浜からナホトカまで船に乗り、そしてヨーロッパへと放浪の旅に出ようと思ったのが15歳の時。でも実際に最初に海外行ったのはその20年後、下関から船に乗って釜山へ、たった3日間の放浪の旅でした。
 アングラについて、易しく簡潔に。唐十郎などのいわゆる前衛的な演劇がアングラという呼称の始まりでは?それに前衛美術・自主映画もアングラと呼ばれ、新宿あたりがその中心地?フォークル以降は体制批判・反戦歌を主とする関西系フォークソングもそう呼ばれるようになり、高石友也・岡林信康などが主となり、今で言うインディーズ、日本初の自主制作レコード会社URC(アングラ・レコード・クラブ、最初は会員制)が誕生した。私はさっそくその会員になったが、そこから五つの赤い風船、高田渡、六文銭などがレコードデビュー。
 おっと、簡潔にと言いながら、アングラ・フォークについてが長くなった。ほんで、森山光章さんにつながるけど、同級生になった私の友達(これがseikoさんも御存じの、広川町で木下塾をやってたやつ)が、2年はじめの自己紹介で、森山さんが「アングラ」に興味があると言われ、「アングラフォーク」のことかと思って早速話しかけたら、演劇のほうへの興味だったらしい。でも私の好きなアングラ系バンド「ジャックス」(のちにつのだひろなども参加、リーダーの早川義夫は「サルビアの花」の作詞・作曲も)のLPを聴いてもらうと、詩が良いと評価され、嬉しかった。
 以上、長々となりました。元フォーク少年ゆえご勘弁を。

2008年11月 1日 (土)

清水崑

林家木久扇のなまえを調べてたら、経歴のなかで、若き日、漫画家清水昆の弟子だった。とあるのを見つける。

えっ、清水崑。
石橋秀野の妹(歌人)が嫁いだ人だ・・・。

http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/shimizu/index.html

ナガサキ。山本健吉のふるさとだ・・

2008年9月15日 (月)

椎窓猛先生講演会

俳友・東妙寺らんが誘ってくれた文化講演会に出かける。
椎窓先生のお話で八女市出身の作家・小島直記の死を知る。
きのう、亡くなられた由。享年89歳。

かささぎの旗で小島直記。
右横のカテゴリーから、「無冠の男」をクリックすれば、小島直記文学の真髄に触れることができます。筆が生き生きと動き登場人物たちが生きています。

第一回:http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/01/post_1355.html

通し:http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/cat3670117/index.html

かささぎの旗2006・2/24~4/1(『無冠の男』小島直記著より)
4/3、4/5付には暦の資料。(『日本の暦』岡田芳朗著より)

また、石橋正二郎のところではりつけたばかりですが、ふしぎなので。
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_6c3e.html

八女公園の小島直記・記念碑と椎窓猛先生の頌(しょう)

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2005/12/post_cdbb.html

ご病気だと知ったのは、「致知」という雑誌ででした。

ブログに長期にわたる長文の引用をしながら、一言もご挨拶を申し上げられなかったことが心残りであります。

かささぎの旗とのご縁を感謝するとともに、八女の地からご冥福をお祈りいたします。

合掌

次男が通う学校に、若き日の小島直記氏は勤めておられた。

追記)

なぜ私は小島直記の『無冠の男』を、それも乙骨太郎乙が出てくるくだりだけをこんなに必死で写したのだろう、とふしぎな気がする。まあノリで、、、としかいいようがない。旧漢字と旧かなの、一部には濁点さえないものを、きっちり写した。写す作業は気が一点に集中して忘我の境地になれ、きもちよかった。作家の意識と一体化したような感じだった。

2008年8月 3日 (日)

おそ松くん

乙四郎のコメントで、漫画家赤塚不二夫逝去を知った。

中学の卒業アルバムに、だ・よーんのおじさんを大きく描いた垂れ幕を前景にして二階の窓からクラス全員が顔をだして写っている構図のが一枚ある。その絵を放課後の教室で机を片側に寄せて、墨で描いたのを覚えている。当時はやっていたアッと驚くタメゴローを描きたかったんだけど、どうかいていいかわからず、(そっちはおなじソフトボール部のピッチャーだった北島が文字でかいた)、だよーんをかいた。橋爪章少年がシェーやってたのが小学六年生のころだから、けっこう長く連載は続いていたんだなあ。

レレレのおじさんハタ坊デカパンいやみさんチビ太・・
大好きと意識せぬほど自然にせいかつの仲間だった。
「おそ松くん」 は永久に不滅です。
赤塚不二夫先生、長い間、ありがとうございました。

合掌

赤塚不二夫:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%A1%9A%E4%B8%8D%E4%BA%8C%E5%A4%AB

2007年8月18日 (土)

編集者の目

先日引用した五年前のれぎおんの文章に、横光利一の古神道とのかかわりを書いていました。『旅愁』で利一の神道へのうんちくを読んだとき、あっとおもいました。というのは、1991年2月9日土曜の日本経済新聞の付録記事で、まさにおなじことをよみ、しかも、記事自体を大事にしまっていたからです。

それは、ケルトの古い聖書写本の表紙にある複雑な渦の紋様が、数学ではフラクタル幾何学とよばれるものであり、マンデルブロ集合という数式でも表せ、なおかつ、蛇の目のような「五十鈴」 (吉野の山奥にある天河神社のご神体でありお守り) にそっくりである。・・という事実を、記者のひとが抑制の効いた筆で書かれていたからです。

きれいな渦の模様はカラーで大きく引き伸ばされてました。いまも色あせてはいません。さいきん、文章を書いた人の名を知りました。阿部重夫という人でいま現在はある情報誌の編集者です。すごい感性の人だとおもいます。

ところで、ふしぎなのは、この記事を入手した経緯です。当時、博多の五十川にすんでいました。新聞が郵便局の外に落ちていたのです。笑

運命的なものを感じました。

2007年8月 7日 (火)

協賛ウチワ

協賛ウチワ

久留米祭りの協賛団扇。うらには出資した会社の社名がはいってます。

浅葱色の着物からのぞく手が十露盤をカメラのようににぎる。構図も色も線もすっきりと片付いていて、きれいです。うーん。だれかの有名な絵を連想しますねえ、この団扇。芹沢銈介!におい付けのように、けむりのように、その影響力を感じる。

2007年6月13日 (水)

日本自費出版文化賞

高橋甲四郎先生の著書「父の遺稿」(海鳥社刊)が、第十回日本自費出版文化賞の「個人誌部門賞」を受賞しました。7月21日、京都の弥生会館で授賞式があるのに出席なさるそうです。

すごいのは、受賞であると同時に、先生の積極的な生き方です。この耳慣れない賞も、先生が一人で探してこられて、応募なさったものです。すごいなあとおもいました。めちゃくちゃかっこいいです。

先生、おめでとうございます!

京都にお住いのかたは、どうぞのぞかれてください。

7月21日土曜、午前11時受付、弥生会館

14時から記念公演:色川大吉選考委員長
コメント:鎌田 慧選考委員
対談:色川大吉&中山千夏日本自費出版ネットワーク代表理事

まず、応募しなければ受賞もないんだなあと教えられました。

んで、さっそく、私も竹内まりやのCDアルバム「DENIM」についてた、ちいさな懸賞におうぼしました。
あたるといいなあ。(先生の士気と比べて、なんとちいさなわがしき。

2007年2月15日 (木)

横山康夫ー峰雲物語

   峰雲物語

         横山 康夫

陽を見たる    ひをみたる
日の        ひの
母瞽女の     ははごぜの
雛かな       ひひなかな

字を問へば    あざなをとへば
羽高岩伏     はだかいはぶし
漢の        あやの
足跡        あしあと

一の澤      いちのさは 
二の澤      にのさは
生き極まつて  いききはまつて 
賣らるる子    うらるるこ

恩讐の      おんしうの  
隧道       ずいだう
随喜の      ずいきの
夢半ば      ゆめなかば

鶴舞の      つるまひの
戀し        こひし
飛雪の      ひせつの
鶴見岳      つるみだけ

百年を     ももとせを
棚田は     たなだは
しのび     しのび
哭く水車    なくすいしや

死後は      しごは
櫻木        さくらぎ
周防見下す   すはうみおろす
鳥居立ち     とりゐだち

去にし子の     いにしこの
名は         なは
風に乗る      かぜにのる
狭霧臺       さぎりだい

南へ        みんなみへ
神發ち       かみたち
見返り坂      みかへりざか
にほふ       にほふ

北に         きたに
時雨の        しぐれの
語り繼がれし    かたりつがれし 
行者の杉      ぎやうじやのすぎ 

『円錐』32号より引用(2007年1月)

2007年1月16日 (火)

光あれ

光あれ

青木繁 の絵です。明治39年24歳、1906年。油彩。
23.5×33 
明治40年中村吉蔵訳「旧約聖書物語」(金尾文淵堂刊)挿絵。

2006年11月30日 (木)

市史と詩志

昨夕、松延貫嵐の直系のひまごにあたるというお方から、コメントを頂きました。それには、もし貫嵐の系図がわかれば・・と書かれておりました。私は、このような名家の方がなぜそういう大事なことをご存じないのだろう・・とふしぎに思いました。と同時に、いや、待てよ、と、考えてみました。

五、六年前、柳川古文書館に古文書の無料解読講座を聴講に通っていたとき、近代だけでも何度かの行政区域の変更があっており、史料の行方があちこちに分散してしまっているという事を知りました。当時柳川市は柳川市史を編纂中だったので、史料を回収するのに苦労しているという内部事情を学芸員に伺ったことがあった。たとえば、筑後関連でいえば、三潴県という県がまぼろしのように存在した時期がある。みづまという地名は、折口信夫の「水の女」(昭和二年、『民族』所収)の中にきちんと調べ上げられて登場するような古い言霊をもつ、由緒ある地名です。

そういうことをおもえば、直系の家に系図が伝わっていないということも、あるのかもしれないし、八女福島の燈篭人形(重要無形文化財)を創設した松延家の家系図が、市役所の蔵に眠っているかもしれないとも思います。そうあってほしいものです。

でも、自分の経験で書きますと、市役所は行政をするところであり、文化財の管理や収集にはよほど強力な力が働かぬかぎり機能しないです。文化財担当だった杉山洋先生がいつも烈火のごとく怒りくるっておられたのは、市は文化財の管理をやる気がない、ということです。しかし、それは現在の市の立場から言うと、お金がなく、人も足らず、したくても手が回らないのです。学芸員さんが二人おられますが、それぞれ熱心にご自分の仕事をなさっておられますもの。市長さんも一度は胃がんを克服なさった身で、とても熱心に動いておられます。平成13年のぼんぼり連句大会のときには八女市と商店街のみなさまにとてもお世話になりました。石橋秀野の法事のとき(八女デザイン会議・主催)に、野田国義市長さんが「人は二度死ぬといいますが、一度は生の終り、今ひとたびの死は、人々の記憶から忘れられるときです。しかし石橋秀野は、その二度目の死から蘇らねばならないすぐれた俳人でした。縁あって、その人の墓がここ八女の地にあり、理由があって死後50年間も埋もれたままになっておられましたが、こころある人々によって揺り起こされ、蘇る機縁となりますことは大いなるよろこびです。」と、立派なご挨拶をなさったことは、忘れることができません。

これまで、なんどか個人的に調べていることで、史料がないかと市史をあたってみたけど、入り口があるだけで知りたいことは書かれてないと、腹がたったことがありました。たとえば魚のギギについて。方言でやかましもんのことをギギュタンといいますが、そのことばの元になった「鳴く魚」がぎぎです。聞けば、郡部出身の人が川にいたと記憶しておられました。郷土の川にどのような魚が生息しているのか、せめて市史には書いておいてほしいとおもいました。でも、一定の期間で、あれだけの広い範囲で資料を集めて筆を起こす、歴史書であり博物誌でもあるものを編むのは、並大抵のことではなかったのでしょう。そういう目でみれば、入り口があるだけで詳細がない、と怒るのは間違っていました。それは自分で調べよ、ということなのでしょう。

いま、福島の杉山洋先生から返信の電話がありました。(八女の者が福島というときは、町の意味です。)お聞きしていた、松延貫嵐の件ですが、やはり先生が詳しい系図を持っておられるそうです。その生涯について、杉山先生がもっとも肝腎であると言われたのは、なぜ貫嵐は(この名は実は俳号である。劇作家としての貫嵐はいくつかの別の筆名がある)、かわらこじき、かぶきものの世界へ飛び込まねばならなかったのか、という動機であろうとのことです。

というわけで、長くなりましたが、松延公平様、どうか杉山洋先生にお手紙で、またはご近所にいらっしゃるのであれば、訪ねていかれたらと思います。さいごに、杉山先生はこうもいわれました、「松延貫嵐の一族だと思う、五木寛之もまた」、と。

http://park6.wakwak.com/~shiraki/family.html コメントを頂きました松延一族のかたが書かれていた、血縁にあたるという八女郡立花町の大内家の史料館です。五木寛之関連資料もあるようですね。(まだ行ったことないのです。行かねば・・)

※ 先日、ご紹介しました、朝鮮半島全土の農業(大日本帝国下の)を、足で27年間も踏査されて詳細な研究書を残された、遺伝子研究学者・高橋昇博士のご子息で、かつて高校教員であられた高橋甲四郎先生は、福島高校勤務時は新聞部顧問だったそうです。そして、福島高校の新聞部は五木寛之こと松延寛之少年が創設した部だったという。それに松延少年は処女小説を連載していたそうです。(先生がご自分で古い学校新聞を調べていて、ぐうぜん発見されたものらしい。)それを聞いて、私も半年ほど新聞部にいたことを思い出し、だから甲四郎先生のことを覚えていたんだと合点がいきました。笑

2006年11月26日 (日)

松延貫嵐の生涯「八女伝説」

クリスマスに博多座で『八女伝説 松延貫嵐の生涯』が上演されます。
脚本:米倉テルミ   演出:米倉斉加年
監修・出演:米倉斉加年と八女市民

平成18年12月25日月曜日
午後0時30分開場、1時30分開演
全席指定観劇料税込 
                 A席   5000円
                 B席   4000円
                 C席 3000円

観覧ご希望のかたは、0570-02-9999チケットぴあまで。

簡単にあらすじをご紹介いたします。

松延かんらんは八女福島の大庄屋・松延家の跡取りとして生れました。しかし、十六歳のときにお伊勢参りかたがた浪速で見た人形浄瑠璃が忘れられず、二十代のある日、庄屋職も妻子も全てを捨てて浪速に出奔します。浪速では当時、竹本座などの人形浄瑠璃が盛んでした。そこで彼は浄瑠璃書きとして成功します。そして四十代のある日、ゆるされて故郷に帰り、一俳人として多くの弟子を育てるとともに、八女福島の町に人形浄瑠璃の灯をともし、それはいまも「八女福島燈篭人形」として、秋のまつりのときに上演されています。

ここから私のひとりごとです。
十年前くらいに、れぎおんに俗の細道という題で文章を書いていました。少年少女世界の名作という文学全集が小学館から出ていて、夫は子供時代に病弱で親に買ってもらって揃えていたのが、戸畑の夫の実家にありました。で、私の子もまた夫ににて全員病弱で、こども時代は割と入院したり病欠したりが多く、その本のお世話になったのです。そのうち、日本のものはたった二巻しかなかったと思います。その中になんと、ふしぎなことに、これがあったのです。「柳の精」副題、三十三間堂棟木の由来。作は、若竹笛躬となっていました。わかたけてっきゅうとるびがついてます。そして、祇園女御という物語から引いたと書かれていました。

えっとおもいました。当時岩戸山古墳を調べていて、八女市の文化財保護委員長だった杉山洋氏の本でたまたま松延貫嵐を知りました。それには祇園女御も彼の作だと書かれていたからです。ちょうど、石橋秀野ノートを書いていて、それにもついでに書いたんでしたが、18世紀といえば、中国では聊斎志異という本が出て、菊の精の話が出た頃でした。かたや菊の精、こちら柳の精。なんだか気脈が通じていて面白いではありませんか。

当時のほんは共同制作が多かったみたいだし、若竹てっきゅうという人の名も、個人ではなく製作集団の名だったんでしょうか。私は詳しく調べるすべもなく、杉山先生にも聞きましたがはっきりとは応えてもらえなかった記憶があります。

そういうふしぎな縁といいますか、ありまして、わたしは見にいこうかと考えているところです。(それに、父方の従兄が三味線弾きとして出演するので、どちみち親を連れていかねばならぬでしょう。)正直な話、こどものときからあの人形浄瑠璃は苦手で、最後まで見切ったことがありません。だっておもしろくないし、たいくつだからです。それでも、ちゃっぽんぽん祭りに必ず行ってたのは、夜店が沢山出て、それを目当てに行ってました。いま、次男がまさにそうです。

文化財っていうのは、たいへんなものではありますね。みなさん、どうか清き一票を。
もとい、クリスマスにはおそろいで博多座へどうぞ。(あそこの喫茶室のベーグルサンドはいけます。)

※ ところで、素朴な疑問。なして米倉さんがこれに関係されているとでしょうね?八女の人とは違うのに。松延っていうから、私はひょっとして五木寛之の祖先じゃないかと思ったのでしたが。

2006年11月11日 (土)

竹騒ぐ

竹騒ぐ

北九州の画家、うえだひろしのリトグラフ「竹騒ぐ」です。

竹騒ぐ

この絵が好きなのは、見るときのきもちによって表情を変えるからです。泥をくぐったような緑の濃い色と、ところどころにぽっかりと空いたくろい穴は、どこからか不安な一陣の風を呼び、さらさらと音無き音を奏で、こころにさざなみをたてます。

竹騒ぐ

11月5日20時8分の月。この夜21時58分が満月。
月をみよう:http://www.astroarts.co.jp/special/moon_watching/index-j.shtml

2006年11月 8日 (水)

イングリッド

イングリッド

矢車菊を抱いた少女。矢車菊を描いたのが多くあります。ほんとに美しい青です。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Hanamizuki/4556/yagurumagiku.htm
イングリッド

詩人ジャン・コクトーです。ピカソの画集にもよく出てくる詩人ですよね。

イングリッド

表情がぼやけてしまいました。接写は光が逃げなくて反射するんで、ちょっと離れて写しました。携帯写真は接写向きじゃないですね。これがイングリッドです。確か1932年くらいの作品で、画集自体はキスリング生誕100年を祝した展覧会の図録集であったと記憶しています。

Ingrid キスリングの憂愁

キスリングの憂愁
  
                      本馬 梨枝子
           「アンブロシア」同人 熊本県植木町

        
「エコール・ド・パリ」展の最終日は
たくさんの人で混んでいた
キスリングの「イングリッドの肖像」
の前にやっと立ったとき
ずっと探し求めていた人に会えたような
不思議な想いにつつまれた

哀愁をおびた青いひとみ
優美にデフォルメされたからだの線
黒い衣装と白い襟のコントラスト

パリのラボワール(洗濯船)に暮らし
ピカソとも親交があった
ポーランド出身ユダヤ人画家の傑作だ

館内にある椅子に腰をおろして
キスリングの絵のうしろに
私は描かれていない窓を想像する
その窓から歴史の迷宮に入り込む

美術館を出ると
よく晴れた空に雲が浮んでいる
その彼方にイングリッドの眼をとおして
翳りゆくパリの風景が見えてきた

人はなぜ愛を求めるのか
そのこたえは一枚の絵のなかにある

   西日本新聞平成18年11月6日付「詩2006」より

月曜日に西日本新聞の同人誌の詩紹介コーナーで、「キスリングの憂愁」と題する本馬梨枝子という人の詩を読んだとき、たいそう驚いた。こういうことって、あるんだ。やはり、優れた絵は生きている。人を摑んで放さない。

去年、「マリオットの盲点」で紹介された映画『サイダー・ハウス・ルール』で、助演女優シャーリーズ・セロンをみたとき、おやっと思った。彼女は、モンパルナスの画家・キスリングの描いた女性の肖像にどこか似ていた。三つの図書館を捜し佐賀の図書館に唯一あった「KISLING」画集。十年ほど前に日本でキスリング展をやったときの図譜です。それを読んで(観て)いましたら、パイロットになった息子さんが父キスリングの画業と優しかった母について書いた文章がありました。「父の絵は一見易しいように見えるが、実はとても深いところから出ていることを知っているし、勉強を怠らず苦労して描いていたことも自分は父の身近にいたから知っている。母は常に父が仕事をしやすいようにと気を配っていた。だから自分は苦労の多い画家などにはならなかったのだ」、と語っていました。なるほどとおもいました。ほんとにどの絵も、あっさりと描かれているように見えて、その実、繊細な繊細な絵です。その繊細さは、余分なものを全てそぎ落として心眼が捉えたたましいのかたちをうつしているところからきている。色彩は華やかでも独特の翳りがあり、それが心を捉えて放さぬ魔力になっています。

最初に実物を見たのは、独身のころです。三十年近く前、天神のニューオータニの画廊で、黒い服を着た女性の小さな肖像画をみた。こころに食い込んで離れなくなった。それからキスリングが気になってしようがない。でも、資料がなにもなかった。

ぐうぜん佐賀市民図書館に一冊あった画集。それを借りては眺め借りては眺めしていた。そこへシャーリーズ・セロンを映画で観た。また借りて、確かめると、絵は「イングリッド」と題されたもので、去年携帯で写真を撮っていたのを思い出した。(後でアップします。)

※ シャーリーズ・セロンhttp://www.asmik-ace.com/Cider/Cast02.html
  http://blog.ketainovel.com/?eid=180510(これはまだみておりません。)

   モイーズ・キスリングhttp://www.artschool.jp/columu/kissling/index.htm
  

2006年11月 5日 (日)

白壁ギャラリー巡り

白壁ギャラリー巡り

紺屋町ギャラリーの樋口善造展を覗いてまいりました。すると、画伯はなんと『無冠の男』著者である小島直記氏とは画学生時代から交友があるそうで、写真が飾られておりました。奥様に了解を得て、撮らせていただいたものです。左から、三十代の小島直記氏、そのご母堂、そして二十歳の樋口氏です。(撮影時は1951年か、場所は東京芸大校庭。)

白壁ギャラリー巡り

展示されていた二十点あまりの絵の中で、一番こころひかれた絵(油彩)です。向うに見える飛形山(とびかたやま)の色が切なくて、胸がきゅんとなります。手前のコスモスが深い陰影を添えて、郷愁を誘う。八女はほんとにいい土地だと、この絵を見て、感じました。これと、黒木の山中の農家を描いた小品が欲しいとおもったけど、油絵は高いですね。二十万ほどします。見ただけで帰りました。富士山の絵、とてもきれいなピンクの暁光につつまれた、が、確か三万ほどでした。それはデジタルアートだから安いのだと言われた。ほんものは電通という会社が所有しているそうです。デジタルアートというのは本物をうつして、少し加筆したものとか。リトグラフと、デジタルアートと、油彩が展示されていました。

白壁ギャラリー巡り

絵を観に来た大学生をスケッチする和服姿の画伯の手。早くて精確です。

樋口善造画伯の略歴:
1931年 八女市生まれ
1949年 八女高校卒業(第一回生)
1954年 東京藝術大学油絵科卒業
      日展、光風会展に発表(光風会会員)
1983年 ドイツ観光局の依頼により、家族と共に
       ドイツに住んで製作する
1994年  10年間のドイツ生活を終え帰国
2004年  八女郡黒木町に移住する

アトリエ:八女郡黒木町大字今42-5

ずうっと前に、八女福島の横町町家交流館で求めていた小島直記著『坂本繁二郎伝』を、『無冠の男』を読んでから読みました。それによると、小島氏は、昭和38年、石橋文化会館ができたとき、ブリジストンの社員で、石橋会長の自伝の口述筆記を勤めたそうです。石橋コレクションの始まりは、石橋会長が久留米高等小学校六年生のころ、図画の先生だった坂本繁二郎から絵を指導された。その後坂本さんは東京に学び、フランスへ留学され、二十年もたって久留米に帰り、石橋会長宅の近くに住まわれた。昭和五年のある日、坂本さんは、郷里出身の青木繁は天才でたくさんの傑作を残したが、散逸したままで惜しい。これを買い集め、小さな美術館を建ててくれと言われた。だからその意を受けて四十歳ころから十年あまりで「海の幸」ほか代表作を集めた。・・小島直記はこう説明しています。たしかに事業も軌道にのり、資金的にも余裕ができたころであったが、絵画をあつめたのは金が余ってたからではない。坂本先生の訥々とした親友を思うきもちに打たれてのことだったと。その後、小島氏は石橋会長の特命を受けてフランスへ随行しますが、フランス語が堪能で文化にも通じておられたところが買われたのでしょう。それなのに、そうは書かれず、自分は自伝の口述筆記をしたからその労をねぎらわれたとかかれています。まことに、坂本繁二郎といい、小島直記といい、謙虚な謙虚なゆかしい人々です。今日知った樋口善造画伯もまた、その偉大な先人二人の薫陶を受けられた、穏やかでゆたりとした謙虚なお人柄だと感じ入りました。小島先生は、お仲人だったそうです。

 小島直記著『坂本繁二郎伝』 
     平成三年 茅ヶ崎の寓居にて執筆の文字あり。
     発行:八女市(市長・斉藤清美)
     製作:中央公論事業出版

2006年1月22日 (日)

八女老連広報第38号

毎年一月に発行される市の老人クラブ連合会誌を楽しく読んでいます。

八女に生きてこられたお年寄りの方々が書かれた地元の特産品みたいな文章に、自分の知らなかった土地のことや歴史のこと、人情のことなど教えられることがたくさんあるからです。文章で多いのは、戦時中の辛かった記憶をつづったものですが、それは割合男性の従軍した方々にみられ、女性は戦前の(戦後派にはふしぎに思える文体です)幼少のころの八女の慣習や地形など克明に書いてあり感慨深いのです。

文芸のところに平成十三年ぼんぼり祭り協賛連句会に飛び入りで参加していただいた「やまなみ短歌会」所属歌人のお名前を幾人か見出しもして、うれしいです。

  麦うれて五月の風のさはやかさハミングしてゐるオールド・ブラック・ジョー                                       (大坪キヌ子)

  陽に透きて白く光れる逆まつげ亡母に抜きゐし秋の縁側(桐明フミ子)

  心臓は「ハウルの動く城」のごとく紅き血を吐き体が動く(江頭六郎)

  七年の姑の看取りがわが生の盛んなりしと思うときあり(大坪雪枝)                                    

  稲作の役目終えたる秋の水ゆたかな音に小溝を走る(同)

  目覚めしより予定組みたる年の瀬の仕事自づと嫁とは違ふ(熊本美和子)

  しなやかな春の愛撫を想ふ日よ日本列島は雪皺手をさする(同) 

  母の忌や月に寄り添う星ひとつ(沢田桔梗)

  神池の鯉の吐き出す花筏 (高田紀代子)

  雨待って待って大根の種を蒔く(樋口さかえ)

  釣瓶落し畑に白煙父の影(東 日出雄)

  亡き祖母を慕ふ吾も祖母秋深む(浜田フジ子)

  暁の星のあるうち水盗む(栗原三千人)

  番付の上にズラリと出稼ぎさん(山口幸敏)  

  

2006年1月 7日 (土)

おめでとう!

俳句仲間の息子さんでいつも児童俳句を寄せてくれてる角賢典くんが、ペットスケッチコンクールで福岡県知事特別賞を受賞しました。それはそれはすばらしいです!ぜひ、ご覧下さい。http://www.fukuoka-douai.jp/をひらいて、お知らせのとこを押してね。

考えたら、とてもふしぎな縁です。と申しますのも、よしくんはうちのすぐ前に住んでるのですよね。うちの末子が福岡から越してきたとき、最初に友達になってくれた一つ年下のおさななじみです。まだほかにもたくさん偶然が重なっているのですが、それは省略いたします。とにかく、おめでとう!!(樹八女句会:姫野記す)

                       

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