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2009年5月16日 (土)

霊峰高野山にある慰霊塔

  神崎さくら

高野山には「大石政則少尉」も眠っています。
海軍第十四期飛行予備学生戦没者慰霊塔  

ああ同期の桜の慰霊碑に名前が刻まれています。

http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/0815-2kouya2.htm

2009年5月 7日 (木)

乙四郎、宇佐で蓑虫に会う。の巻き。

帰りました。
明日から通常勤務です。
今日は時間的にも心情的にも余裕があったので、
USAに立ち寄ってきました。
宇佐神宮。
広い。
数十年ぶりに蓑虫と再会しました。
通り道だったので、鯛生金山にも立ち寄り。
山菜うどん、おいしかった!
その昔、矢部村のさらに向こう側に、3000人もの人々の暮らしがあった。映画館もあった。
なんとイギリス人(技術指導)も住んでいたと。

その他、発見事項。
北九州空港は北九州市にはない。

訂正

北九州空港の北半分は北九州市でした。

え?北九州にあるんでしょ?
小倉にあるんじゃなかったですか?
ま、まさか、苅田町?

あ、半分が苅田町ってことですか。

そう、かんだ。たしかそうだよ。
おつしろう、おかえりなさい。
何時間かかるものなんだろう、関東から。
ところで。
おつしろう先生。
あした、たからさんと申し込みにいくことになりました。英語。ううう。わすれたふりしていたが・・・
佐藤先生、また不出来な生徒ですが、よろしくお願いいたします。たからさんは優秀でありますからね。
今日きいたはなしでは、すみ先生(ご主人ね)も独学で英語を学んでらして、それがもう二年目、今やドイツ語まで手をひろげておられるそうですよ。

みのむしの音をききにこよ草の庵 (芭蕉)

蓑虫が消えてしまった。
九州では絶滅かと思ってたら宇佐神宮の古木にぶら下がってた。
小ぶりだったので種が違うのかもしれない。

およ。ここで芭蕉をだしてくれるなんて、。
じゃやっぱ、あれです。
脇をつけてください。
おつしろうがつけてください。
かささぎは、芭蕉祭に半歌仙を奉納しようと長らくおもいながら、一回やっただけでした。今年は今からやれば間に合いそう。一つは、昨日杉浦けんぼうさんに脇を頼んで、今みたら付けてくださっています。
さまざまのこと思ひ出すさくらかな。これ。春です。
蓑虫は冬かな。
同時期、同場所の句をつけてみてください。三句。

あさがお忌のもりたけ忌のはやっているのかな。
芭蕉祭の応募要項は毎年おくられてきます。
連歌にしろ連句にしろ、法楽であるということは。

  貞享四年秋
蓑虫の音を聞きに来よ草の庵

  貞享五年春
さまざまの事おもひ出す櫻かな

ぐうぜん、ほぼおなじころの句です。
芭蕉44~45歳。
岩波の「芭蕉俳句集」(中村俊定校注)で確認。

半歌仙は、文字通り歌仙の半分です。名残の折がついてないもの、ほかは歌仙と同じ。
付句はべつに芭蕉の生涯に寄り添わなくても、自分なりのよみで自分なりの脇をつければいいと思います。
なお、蓑虫については、かささぎも忘れがたい詩がある。
さぐりあてたその位置は正しい。
で始まる詩です。有名な人でなく無名の詩人の。
いわれてみて気づく。蓑虫、ながらくみてない。

みのむし:http://puh.web.infoseek.co.jp/aboutminomushi.htm

2009年3月 4日 (水)

生等もとより生還を期せず。一人称談義

こんばんわ
箒草ってほんとにホーキになるんですね^^♪
手作りのあったかみがありますねheart04

おもてんくち。
あるいは、おもてんかど。
うらんくち。
でも、うらんかど、とは言ってなかった。

ばあちゃんのことば。
「かどんくちにほってとかんの」
まじないみたいな、まかふしぎさよ。

「かどんくちにほってとかんの」

最後に・・・・「の」がつくのは福岡弁です。
2,3軒さきの家が福岡県、こっちは佐賀県の県境にあるわたしんち、見分けるのは「・・・・の」の違いでした。

福岡県 来んの、行かんの、しとったの?
佐賀県 来んね、行かんね、しとったね?

その他はほぼ共通語です。
裏んくちも。

うおおお。
ここまでこまかくなってくると、さすがのかささぎもそうじゃったろか?状態です。
せいこさん、かどんくち、ってきいたようなわすれたようなことばねえ。
さくらさんちは県境でしたか。
八女もどっちかといえば熊本のほうが近い。
むかし、ガキだったころ、山の母の里へ泊りがけで行くのが楽しみでした。ディーゼルカーに乗って。
私たちは、じぶんのことを「うち」って言ってた。でも、黒木の山の子は、じぶんのことを女の子なのに「おどん」って言ってたので、内心、うわあいなかもんやんねえって思っていました。笑
黒木瞳さんはどういってただろうね。「うち」だろか。
おどんなんてそんな熊本のおてもやんみたいな呼び方だけはしてほしくなかとです。はい。

おどん、爆笑!!!!!!!

知っとるよ、もちろん、今90歳の親戚のばぁちゃんは言うもん。

私たちも「うち」でした。

相手のこと「自分」ちゅう大阪弁にもまいるけど。
やくざ風に「知っとーか、じぶーん」

訛りが全然抜けない佐世保出身の友人がいた。田舎くさかったが、その人間性と言葉の力で自治会長に推された。
佐世保うまれのワルツ。さっき、テレビで流れてた。

美 し き 天 然
1 空にさえずる鳥の声 峰より落つる滝の音 大波小波とうとうと 響き絶えせぬ海の音 聞けや人々面白き この天然の音楽を 調べ自在に弾きたもう 神の御手の尊しや
2 春は桜のあや衣 秋はもみじのから錦 夏は涼しき月の絹 冬は真白き雪の布 見よや人々美しき この天然の織物を 手際見事に織りたもう 神のたくみの尊しや
3 うす墨ひける四方の山 くれない匂う横かすみ 海辺はるかにうち続く 青松白砂の美しさ 見よや人々たぐいなき この天然のうつしえを 筆も及ばずかきたもう 神の力の尊しや
4 あしたおこる雲の殿 夕べにかかる虹の橋 晴たる空を見渡せば 青天井に似たるかな 仰げ人々珍しき この天然の建築を かく広大に建てたもう 神のみ業の尊しや

   ↓

   ↑
この「美しき天然」のページの下のほう、「私の愛唱歌」をクリックすると、懐かしい歌がぞくぞくと出てきました。そのページの「謹告」を読んでから味わってください。
勇敢なる水兵だって、精霊流しだって、帰ってきたヨッパライだって、ケメ子の歌だって、受験生ブルースだって、レナウンの歌だって、エメロン(ふりむかないで)だって、狼少年ケンだって、まぼろし探偵だって・・・なんでんかんでんあります。
さらに、上のほうの「放送禁止曲」をクリックすると、実録三億円事件だとか、これまたいろいろ出てきます。フォークルのイムジン川もここで聴けます。「謹告」を読んでから味わってください。ヨイトマケの歌、山谷ブルース、五木の子守唄ほか、SOS、プレィバックpartⅡ、ウェディングベルもここで聴けます。

自分~>>久留米の男もそういいますよね^^
イムジン川>>高校生のころ、ラジオで放送禁止になる直前まで、、流れるとほんとにかじりついて聞いていました。 いい曲ですね~。
イムジン河>映画「パッチギ」で全編にゆるやかに流れますね。
この時の音楽担当は加藤和彦氏ですね。
シーンの中で、坂崎役のオダギリ氏がギターでしみじみと歌う「イムジン河」は秀逸ですね☆
ここだけ、CDで買いたいくらいすばらしいです^^slate

↑すみません(^_^;)訂正です。
オダギリ氏が歌ったのは「悲しくてやりきれない」でした。ちょっとごっちゃになってました。
slate最近また見たいモードです^^☆
あのやんちゃな井筒監督も同世代ですね♪
私らも含めて、このへん前後はスポット世代って言うんですよね。
団塊世代と共通一時世代のはざまにある・・・わりと自由で、欲がなく、のんびりしてるってゆうか・・・denim

イムジン河が発売自粛となり、イムジン河の曲を逆回転させた曲調をベースに作られたのが「悲しくてやりきれない」だから、その2曲は表裏一体。

さくらさん。少林寺拳法を教えている「うち」の中学時代の男ともだちは、平成のこの時代にも、自分のことを「じぶん」と呼んで、通常的会話をいたします。最初は違和感があったものの、いまは聴きなれた。

エメさん。スポット世代は、のんぽり世代でもあるよねえ。自分でもノンポリやなあって思うもん。

乙さん。うつくしきてんねん。サーカスの薄暗いテントの下のものがなしさを彷彿とさせるのはなぜ。わたしの愛唱歌には、ホント、わたしの愛唱歌が、ばさらかうまっとる。

乙さんが書かれている歌、知ってます。ほとんど歌えます。イムジン川はときどき口をついて出てきます。主人は高校へ、ギター片手に通っていたような人なので、かなりの曲を今でも弾けます。坂崎さんには負けるけど。
岡林やかがわ良のことなどよくしっています。友部正人にいたっては今でもファンクラブにはいっているほどです。
小郡で行われたコンサートに一度付いていきました。農家の納屋をステージに改造してあるところでした。ピアノがおいてあって黒い幕も備えてあり、
ちょっとしたステージでした。知っている曲は1曲もなく、私にとっては長い時間でしたが、前の席の佐賀から来たという女性はのりのりで、そう体をゆすらなくても良いじゃないといいたくなるほどでした。
私が気になったのは、幕の下から出てきた一匹のごきぶり。左端から右端までゆっくり移動して・・・
前の席なら靴で落としてやろうかと思っていたのですが、件の女性は気がついてなかったらしく(主人も)それだけのめりこんでいたんですね。アットホームなステージでした!?
乙さんがこういう歌を知ってあることにも驚きます。俗に言う頭のいい人は歌なんて聞いていない。馬鹿にしている・・・と思い込んでる私です。そうじゃないんですね。父が「歌番組ばかり見ると頭が悪くなる」とすりこんでいたので、そんなふうにおもったんでしょう。父は大正元年生まれでした。

そおらぁにいぃさええずるう・・・・を見て、サーカス小屋は思いつかなかったわ!
そういやそうね。
歌ってるのが小沢昭一というのもおかしか。

あまりに聴きたい曲が多かったので、とうとうお気に入りに入れちゃった。時間があるときにじっくり聴きたい。それにしても、ここの管理人の執念、おそろし!脱帽!すごいねえ、このバラエティにとんだ選曲は。

恋人もいないのに、悲しみは駆け足でやってくる、五番街のマリーなどなど、なつかしい曲がいっぱい。

でも、ここまでで一番わたしに受けたのは、これ。守屋ヒロシさんの「僕は泣いちっち」
14歳違いの叔父が持ってたレコード。
聴いた聴いた。まだわけもわからんチビのときに。思わず吹き出しながら、なつかしくてなつかしくて、涙が出たわ。

「私の愛唱歌」の歌詞入りの軍歌の数々には目頭が熱くなります。「麦と兵隊」にはラヂオ実況入り。中に、米国軍歌だが、自分の記憶に残る最古のSP曲があった。多分、ステレオ購入時にオマケで付いてきたやつ。
「史上最大の作戦」
The Longest Day MARCH(1962) - Mitch Miller
Many men came here as soldiers many men will pass this way
Many men will count the hours as they live the longest day
Many men are tired and weary, many men are here to stay
Many men won’t see the sunset when it ends the longest day
(乙訳)
男たちは兵士としてここに来た 男たちはこの道を通ってゆく
男たちは時を数えながら 長い一日を生きる
男たちは疲れてここにとどまる
長い一日が終わるとき、男たちは日暮れを見ないかもしれない

当時、まったく意味もわからずに何百回も聴いていた。こんな深い歌詞だったとは。
外国語は「音」でしかなかった。(シルビーバルタンのフランス語の「音」は心地よかった。彼女が日本語で歌ったレナウン娘は意味が認識できた)

それにしても(乙訳)は下手っぴ。「私の愛唱歌」にカチューシャの原詩(ロシア語の訳)と日本語詩とが対比してあります。原詩は、ロシアの軍歌だった。
(原詩)
リンゴとナシが花咲いていた
霧が川面を漂いだした
カチューシャは岸へと出かけていた
高くけわしい岸へと
歌いながら出かけていた
ステップの青灰色の鷲の歌を
愛していた人の歌を
手紙を大切にしまっておいていた人の歌を
ああ、歌よ、娘の歌よ
輝く太陽の後を飛べ
そして遠い国境地帯の兵士に
カチューシャからよろしく伝えよ
純朴な娘を思い出させよ
彼女が歌っているように聞こえさせよ
故郷の大地を守らせよ
カチューシャは愛を守るだろう
(訳詩)
りんごの花ほころび
川面(かわも)にかすみたち
君なき里にも
春はしのびよりぬ
岸辺に立ちてうたう
カチューシャの歌
春風やさしく吹き
夢が湧くみ空よ
カチューシャの歌声
はるかに丘を越え
今なお君をたずねて
やさしその歌声

日本語訳の何と豊かな響き!
でも、最近の日本の歌も負けちゃぁいない。日本語が乱れているとはいわせない豊かさがある、病院で戦う看護師たちのための軍歌。
「みんな元気!」
きみの元気は僕の元気さ ファイト!
いのちのよろこびに Yes it's goo-d goo-d Mor-nin'
だってこんなに Fine Day~
笑顔が輝けば Yes it's goo-d goo-d Fee-lin'
みんな元気に Say Hello~
僕のハッピーはきみのハッピーさ トライ!
こころがつながれば そう it's goo-d goo-d Talk-in'
はじめましてと How do you do~
あの子も笑っている Yes it's goo-d goo-d Smi-lin'
みんないい顔 Say Com'-on

出勤前にちょいと読もうと思ったら、読めない濃さであります。帰ってからじっくり読ませていただきやす。

一人称代名詞
このブログに初投稿したのは3月2日の夜だったので、1年が経過した。このブログ上では、よく一人称として「乙」を使った。時に「私」。書き物の場合、一人称はよく用いる。しかし、口語では事情が違う。
小さい頃から「僕」は使っていない。自分のことを「僕」と称する同級生が気障っぽかったので、そう思われるのが嫌で使わなかった。作文の宿題の時に嫌々使っただけ。男の子は「僕は・・・」、女の子は「私は・・・」。日常生活で「僕」は生涯一度も使っていない。
「私」を使うことはできない。女、女といじめられる。「おどん」は田舎っぽくて絶対に嫌。「俺」は、ひ弱系の人間は使わない。
かくして、一人称を全く用いずに、幼年期、少年期、青年期を通過した人間が生まれた。ごくごく小さい頃、周囲の影響で「ウチ」を用い、それが間違いだと知らされ恥ずかしい思いをして以来、一人称を避ける癖が身に付いていたので、比較的楽だった。
成人し、面接試験など一人称の使用が必要な場面が訪れた頃からは「私」。作文の時の「僕」みたいなもので、割り切れる。日常生活は一人称なしで過ごした。「私がやります」→「こちらでやります」みたいな翻訳リストが脳内にぎっしり蓄積されている。公務員は自分を前面に出してならない滅私奉公の職域。一人称なしで困る場面はほとんどなかった。子どもに対しては一人称で強い親を演じなければならないこともあったが、そういう時は「お父さんにまかせなさい」。
最近は、「私」の使用場面が増えてきた。大衆を前に「私」と称することに抵抗がない年齢となってきたため。使ってみると、以外と楽。翻訳リストも少しずつ消えつつある。でも、いまだ家族は「私」が一人称代名詞を口にするのを聞いたことがない。

 私も仕事中にふと覗いたら、その濃さに驚いて、思わず仕事サボってコメントします。
 「美しき天然」はそのワルツのジンタッタというリズムから「ジンタ」という通称がつき、サーカスやチンドン屋の曲として有名になったようです。イムジン河を初めとするフォークル関係・パッチギ関係については語りたいことが多すぎて省略。ロカビリー「3人ひろし」の1人だった守屋浩、その友達なのに全く女性に人気のなかったかまやつひろしのことも、いろいろコメントしたいけど省略。
 「史上最大の作戦」の作曲は「ダイアナ」のポールアンカで、「ザ・ヒットパレード」では誰かが日本語で「いつも 戦いはつらい ものだぜ…」と歌っていた。ちなみに「北京の55日」の日本語バージョンを歌ったのはあの克美しげる、そして映画には伊丹十三が出演している。
 一人称を「自分」と言うのはもともと軍隊用語らしく、そこから体育会系的用語になったのが、一般にも広まったのではないだろうか。関西では二人称で「お前」みたいなニュアンスだから、使い間違えると誤解されてさあ大変、ヤーさん出てきて何やわれ、おっちゃん一緒にケンカしよ、となる。
 

 職場のパソコンで送信したら名前が出なかった。ついでに追加のコメント、「史上最大の作戦」の原題は「The longest day」で、これをもじった日本の終戦記念日映画が「日本の一番長い日」、怪獣映画が、キングギドラ初登場の「三大怪獣 地上最大の決戦」です。ところで、「史上最大の作戦」を日本語で歌ったCDは出てないのだろうか?

のっとられた、完全にブログを。笑

美しき天然とは縁があります。ちんどんやの歌とおもっていましたが、ジンタはこの曲をさすんですね。
櫻濃くジンタかするゝ夜空あり  秀野
墨堤での句。
ぼんの父上は大正元年生まれ。これには驚きを禁じえませんでした。何歳のときのこども?かささぎは計算ができん。えーと昭和29年生まれだから29に大正年間の14年を足すと、43か44だよ。考えたらちがうはずよね。うちはどっちの親とも24しか離れていない。生れたとき親は24だったからだけど。環境におやの年齢は関係するよね。そういうのすべてひっくるめて、いまの愛情深いぼんがある。

おつしろうを小学校のときから知ってるけど、といっても遠くから知ってるって意味だけど、昔からきみの印象はどことなく浮世離れしてたよ。最初の文で書いてるけど、「老」ってことば、がぴたっとはまる気がした。そんなこどもってほかにはいない。なんでかしらんが、きみには「公」ということばがにあった。
んで、この「私」をさす呼称についてのこだわりかたを読んで、深くおもったのは、なんでやねん。ってことだよ。
ひとはそんなにはやい時期から自分の運命に従順であるわけ。なんで。わからん。

ろいりさん。きっとがっこの先生か公務員でしょう。そんなかんじです。勝手にそう思っている。

ではさようなら。ねむいのでねます。
一日こきつかわれたので、許容限度量をこした。

わたしはまだいいほうだ。弟は34年生まれだから父が48の時の子。熊本君にはまけたね。
母は大正8年、9人兄弟のただ一人の女。(たぶん)呉服屋のお姫様だったらしい。なにせ、八女津高女を出ていなさる。八郎叔父さんだけが存命。私ももう寝よう。明日も5時45分起き。おやすみ。

 山本五十六はもっとすごい、父親が五十六歳の時の子だからね。うちの父は昭和2年生まれで若いと思っていたが、早生まれなので学校では大正末年と同じクラス、というか、そっちが主流派だったらしい。
 ところで、私も実は乙四郎さんと同じく、姉の影響で小さい頃、恥ずかしながら「うち」と言っていた。その後は「僕」と「おい(俺)」の使い分け、今でも家族や筑後地区の友達には「おい」(これに格助詞の「は」が付くと「おや」か「おりゃ」に変化)、ちょっと皮肉ったりすねた感じの時は「あたし」「あたしゃ」、それ以外で親しい人には「僕」、ちょっと公的には「私」(文章は親しい人にも)、大学時代の関西系友達には「わし」「わしゃ」を使うことも。同人誌的なものには「おいら」を使ってたこともあるが、これはビートたけし登場以前。昔何かに、一人称をいろいろ使い分ける人は信用できんと書いてあり反省しようとしたが、やはりこうなるのは多重人格のせい?ところで神津島では老若男女問わず、自分のことを「おい」というので、最初はびっくりした。自分の家のことを「おいんげ」というのは、久留米の男言葉と一緒。
 二人称の使い方は、ボランティアで外国人に日本語教える時難しい。「あなた」なんて、丁寧語のようで却って相手に失礼に当たることも多いし、「あなた♡」ってな場合もあるし。コリアン語も似ていて、同じ言葉が「あなた♡」になるかと思えば、「貴様」のようなニュアンスにもなる。あ、でも三人称も難しいか。

呂伊利さん、このごろかささぎの毒にやられてませんか?(笑)

異動or移動と言っておられたようですが、いずこへ?言えない?時を待ちましょ。

三潴は自分ちは「おりげ」です。かあちゃんは「かか」落ちたは「ひっちゃげた」わかめは「めのは」茸類は「なば」・・・ほかにもいっぱい。

「おりげ」は、叔父たちも使っていました。
「おどん」「おまん」複数形になると「おりどん」「おまんどん」に転じます。叔父に至ってはいまでも使う。彼らは方言の宝庫。貴重な存在。

一人称、わたしも使い分けるほう。多重人格ではないが、職業意識がそうさせたものだと。しごとでは、「わたくし」、あるいは「わたくしども」。個人的には「わたし」幼いころは「うち」と呼んでました、もちろん。高校時代か中学生のころの一時期「ぼく」を使ってましたっけ。赤面ものです。

箒草のほうきから、一人称の話題で盛り上がる、連句的転じ方。かささぎの旗。おもしろくて、日に3度も4度も覗いて、自分のブログより長く滞在しておりますが・・・、これってsweat02

山本いそろくの数字の意味はそういう意味か。しらなかったな。

自分のことを自分というのは生硬なかんじがする。
しかし、東条英機の雨の昭和18年の学徒出陣壮行会にて、代表が挨拶したのに、せいら。ってじぶんらのことをよんだのにだけは、ほんとうになんともいえない悲壮感が、あった。
せいら、です。生等もとより生還を期せず

2009年1月 8日 (木)

皈(け)の発見

「け」は、これかもしれない。
こんなところに、いた。
皈。
源の歌。

春もみる氷室のわたりけを寒み
こや栗栖野の雪のむら消え(源経信)

まず、「けを寒み」皈を寒み。で、帰りたがる魂魄は寒さの中「こや・くるすのの」「来や・来るす野の」で、雪となって帰ってくる。ひむろは霊室。

ちなみに。
去年貞永まこと追善歌仙にきてくれた山口のお寺の息、木戸葉三の本名は氷室である。彼は逆子であったときいた。かささぎも逆子、逆子クラブを結成するも、その後逆子だという人にあったためしがない。

かささぎは、今朝、基山のだいこうぜんじが妙にきになり、ウィキペディアの中国のをくっつけようとして失敗したことを思い出した。それであれこれやってたら、大石政則日記17にゆきあいました。そのコメントを読んでいたら「け」にあいました。以下、引用。

リサーチ:皈
http://takasi-azuma.de-blog.jp/blog/2008/01/post_c07a.html
(一茶の歩んだ道)
http://www16.ocn.ne.jp/~yenmado/omukae.html
(お精霊迎え)
http://www.miyoshi-mlit.go.jp/shasei/michi/hane.htm
(「君がため  名を高松に とめおきて 心は皈る 古郷の方」)
http://www2u.biglobe.ne.jp/~n-fuji/k116.htm
(除隊記念徳利)

次に面白いことが書いてありました。とつぐ、とも読むらしい。
婦のつくり 帰ると同じ ふしぎかな  (乙)
http://www.komazawa-u.ac.jp/~hagi/ko_tame27.html
嫁・婦(とつぐ)」(室町時代の古辞書『運歩色葉集』)

婦人(フジン)謂テ嫁ヲ曰(イフ) ∨皈(トツグ)ト。言(イフココロ)ハ女人適(ユク)コト∥夫(ヲトコ)ノ家ニ|如∨皈(カヘル)カ∥己カ家ニ|。故ニ云フ∨歸ト也。

「婦人を謂ひて嫁を皈(とつぐ)といふ。言ふ心は、女人夫(をとこ)ノ家に適(ゆく)こと、己が家に皈(かへる)がごとし。故に歸と云ふ」

はや!
すばらしい。
漢字字典では「かえる、かえす、き、」と出てました。き、け、は音読みでしょう。婦人は掃除する人のことと思ってた。
関係ないのですが、最初にあげてくれた資料の中にあった一茶の俗っぽい時鳥句を読んで、やっと「なるほど!」と溜飲が下がったことがあります。其角の時鳥の句に付随する艶っぽいかんじが隔靴掻痒で、たぶんそうじゃないかと思ったんだけど、権威ある岩波本にはなにも解説がないんで確かめようがなかった。乙四郎、ありがとう。

乙四郎さんのお友達のお父上である渋谷幽哉氏について

熊本のお寺のご住職であり、永年教育長を務められた。
大石家とは戦後ずーっと親交があり、政則少尉の母親の葬儀では弔辞を読んでいただいた。

「政則日記」のあとがきに登場する協力いただいた方々の中(231ページ)の渋谷月子さんは、渋谷幽哉氏の奥様である。
確かに熊本県芦北町とある。

184ページから始まる母親の手記
「想いで草」の中に登場する「マサノリイル、クシラヘイケ」と謎の電報を打って下さった方(197ページ)は、渋谷幽哉氏が自分の親に電報を打つよう頼んだための出来事であった。

私は今朝、出撃直前までの一部始終を一番知っていたのは渋谷幽哉氏であったことを知りました。
幽哉氏は数年前に亡くなられ、現在奥様は
お元気とのこと。(テンダさんのお母さんですね)

ものすごく穏やかで優しい方でした・・・
との乙四郎さんの印象はあたっていると思います。
生死の境を潜り抜けてきた戦中時代の方に共通するものだと思います。

乙四郎さん、ひめのさん、美恵子(さくらの本名)
これ、どうしましょう。

ネットにも 魂魄皈る 彼岸かな  (乙)

2008年7月 3日 (木)

あべしげさんの書評から

『恋と伯爵と大正デモクラシー』 山本一生 著

    阿部 重夫

歴史は時代の哀しみを語る。それなくして史家を名乗る資格はない。私は生来の怠惰に加え、古人の書牘を読み解く学識と考証が不足している。書物の森に深く分け入って、徒労も辞さず埋もれた固有名詞を追う「訓詁探偵」の無垢の情熱にも乏しいから、そういう史家には脱帽するばかりである。

けれど、いつのまにか、そんな史家が消えて久しい。平成はたった一人の司馬遷、一人の森鴎外も出せずに終わるのか。

今は、否、と言おう。

久留米藩二十一万石の伯爵家を背負った有馬頼寧(一八八四~一九五七)の人生の一隅を照らした史伝がここに出現した。一見、トリヴィアルな秘話発掘とも読めるのは、頼寧の名がすでに忘却の波間に沈みかけているからだろう。

辛うじて記憶にとどめている人でも、中央競馬の年末のフィナーレを飾る「有馬記念」のもとになった中山グランプリの生みの親、そして精々が直木賞作家、有馬頼義の父というくらいの知識だろうか。

しかし、この本は頼寧の波乱万丈の一生を追うものではない。大正八年のたった一年、頼寧が断念した恋に絞って、あとは枝葉と思い切り刈りこんでいる。だから狷介詰屈な『渋江抽斎』のように、素養がなければ歯が立たない鴎外の重苦しい史伝とは趣を異にし、優れた小説のように芳醇で読みやすい。

頼寧の生涯を知りたいなら、巻末の年譜(簡にして要を得た記述は春秋左氏伝の筆法である)で一望すればいい。華族の桎梏に屈したこの哀しい恋を浮かびあがらせ、一斑にして全豹を知らしめんとした工夫がよく分かる。

歴史上の頼寧はA級戦犯容疑で巣鴨プリズンに八カ月半収監された人だ。学習院高等科時代から近衛文麿や木戸幸一、志賀直哉らと親しく、襲爵前は農商務省に入省しており、貧民教育や差別撤廃運動、農民運動や労働運動などに私財を投じた善意の華族政治家である。

産業組合中央金庫(現在の農林中金)理事長から産業組合中央会(のちの全中)会頭を経て、第一次近衛内閣では農林大臣に指名された。その後も近衛の新体制運動に参画、「大政翼賛会」の事務総長を務めながら、国策イデオローグたちに「アカ」と呼ばれて集中砲火を浴び、近衛の切り捨てによって失脚した。

山あり谷あり、人物も魅力的なのに、本格的な伝記が書かれなかったのが不思議である。もっとも「世の中で一番嫌いなものは銅像と伝記」と頼寧本人が峻拒し、戦後に沈痛な自伝の筆を執っただけに、なまなかな史家や伝記作者の手には負えなかったのだろう。

作者はそこに挑戦した。アカデミシャンではない。石油会社で経理を担当し、のちフリーランスとなって競馬の血統研究の翻訳や、秀逸な競馬文化論を書いてきた在野の人である。九〇年代から刊行が始まった有馬頼寧日記全五巻を編纂した伊藤隆東大名誉教授に薦められ、索引づくりを手伝うことになった。

日記には詳細な注が必要で、フルネームでない名称、略称、愛称の正体を突き止めるのは容易なことではない。資料渉猟は頼寧日記のみならず、有馬家を支配した枢密院議長倉富勇三郎の日記や、信愛学院史、民俗学の柳田国男から俳人の松根東洋城など広範囲に及ぶ。その徹底した博捜からこの作品は生まれた。

劈頭、都立中央図書館の検索キーボードを叩く場面に始まるように、これは一種の追跡ミステリーである。読者はいつのまにか「検索の猟犬」となって、ひたすら謎を追っている。日記に点綴された「ミドリ」「M」とはいかなる恋人なのか。親友「八重ちゃん」の業病は何だったのか……。

驚くべき発見があった。意外さは奇遇の域を超えている。やはり、優れたノンフィクションは凡百のミステリーにまさるのだ。私のようなジャーナリストはそこで納得するが、作者は立ちどまらない。頼寧とミドリの別れのクライマックスは虚実の境を越え、ほとんど二人に仮託したモノローグになっていく。

実を言うと、作者と評者は高校以来の友人である。彼は伊藤門下の優駿だったが、大学紛争の余燼で院を受験しなかった。当時は「ボンクラが大学に残るのさ」とうそぶき、在野の意地に生きた。「所詮、学者は史家ではない」というのが僕らの結論である。身びいきでなく言うが、この本はその渇を癒してくれた。

「思い残すことはもうない」

作者はそう言う。でも、この本を読ませたかった友がいる。五月に亡くなった作家、藤原伊織である。大学でみな一緒だった。

二人の作品は同じ哀しみをたたえている。消えた時代の哀しみを。

2007年10月03日 http://facta.co.jp/blog/
書評欄http://facta.co.jp/blog/archives/20071003000529.htmlより無断引用

あべしげさんの文章は、とてもかちっとしているくせに叙情的で、こころ騒ぐ。1991年2月、いちまいの拾った新聞でよんで以来、あたまから離れないなにかがある。引用した文章はそんな彼の特質がよく出ている。
「一斑にして全豹を知らしめんとした工夫」・・・、これ、こんな言葉が自然にくちから「ふっとでる(八女の方言)」、なんだかすごくない。ほれぼれします。

2008年6月 9日 (月)

渋谷幽哉師を偲ぶ

渋谷幽哉師を偲ぶ

[道端での立ち話]   道川内  宮内 春樹

平成七年三月十五日の午前十一時ごろだったか、肥後銀行の駐車場前で先生とばったり会った。

宮内  アラ銀行でしたか。

先生  今済んだ。時にアンタ身体の方はどうな。

宮内  肝臓は良くなったといわれましたが、血圧と胃が不調で困ったもんです。まあ、七十ぐらいまでいったら上々だと思ってはいますが。

先生  なんばいうとな。アンタ今幾つな。

宮内  六十九です。

先生  私は七十四バイ。七十ぐらいでどげんするな。まだまだ頑張らんば。時に今の日本についてアンタどげん思うな。

宮内  そうですな、私の十六、七のころは陸軍の幹部候補を目指して、学校の勉強はそっち除けで陸軍の勉強に熱中していましたが、昭和十九年になっていよいよ国が危ない、陸軍になって、たとえ将校になっても三銭五厘の鉄砲ん弾一発で死ぬことになる。
     国家、国民を守るためには、自分たち若い者がその防波堤となって死んでゆかねばならぬだろう。どうせ死ぬなら飛行機に乗って魚雷を抱いて敵艦に突っ込み、一対千、一対二千と刺し違えて死んだ方が、より効率的だと考えて予科練に行きましたが、本当に純粋でしたなあ。(中略)
            戦後も五十年を経過し、国際、国内の情勢、国の将来あるべき姿を考慮した日本という国に相応しい憲法に見直し、特に教育の面では人間教育とともに日本の鎖国時代以降の世界史を学校教育に取り込む必要がありはしないでしょうか。いたずらに国民が萎縮し、卑下し、祖国に希望を見失うことなく、誇りと親愛感を持つようにしなければならないと思います。(中略)

先生  私たちが生きているうちに、この国が正常な、本来の姿に建て直されるのを見届けてから逝きたいと思うナ。

以上のような立ち話をして別れましたが、その時点では健康そのものの先生が、間を置かず同期の桜の待つお浄土にと旅立っていかれました。この国の姿がさぞかし心残りであったろうなァ、と返すがえすも無念の思いでいっぱいです。(同誌より引用)

※ ほかに、渋谷幽哉師自身の書かれた「ノーマライゼーション」、「”教育”の字義に思う」をここに引きたいと強く思いました。

連句的参照

http://www.randdmanagement.com/c_seiji/se_230.htm

2008年5月20日 (火)

大石政則日記について

大石政則日記ですが、一点疑問におもうことがございます。

それは一度出撃して油漏れがひどくて爆弾を海上に棄て

帰還したとき。すごい冷静な判断だなあと私はとても感心したのですが、

というのも、もし自分が特攻隊員であの立場であれば、油漏れしていようがいまいが、

とにもかくにも海中でもどこでも突っ込んだという気がするからです。

それをちゃんと引返すとは、なんと勇気ある行為であったことか。すごいなあと感心します。

じぶんの死を無駄にはしたくないとの思いが、人一倍強かったのだと思いました。

でも、須崎さんの書かれたものを読んでいましたら、そのことで上層部にどういわれたのか

火を見るより明らかだ。というように書かれています。ということは、やはり厳しくなじられたの

でしょうか。どんなふうに教えられていたのかわかりませんけれども、飛行機の調子がよくな

いときには、引返す勇気をもて。と教えられていたのではないのですか。それをなじるなど

正気のさたではありません。

カタカナ漢字まじりの無骨な文章を、ひらがな文に編集なさったときの戦友のこころと情感

が、例の「バーデス」のおかげで生き生きと伝わりました。これははからずも竹橋乙四郎が

ころんでくれたおかげです。それも伏線だったのかもしれませんけれど。

よくわからないことだらけではありますが、ただひとついえることは、たしかに飛行機を後輩

の新しいのと交換したとき、政則さんには又これは油漏れするだろう。でもそのときは堂々

と引返せるからね。じぶんが先例を示したように。・・というような確信があったのですね。

悲惨ではぜんぜん、ない。むしろスカッとした爽快感があります。

これはいったい、なぜなんでありましょうか。

これまでとは全然ちがう文脈で、特攻隊を描くことが出来てるからだと思います。

2008年4月28日 (月)

海軍少尉大石政則 その人格と品格

      須崎 勝彌

歴史とは連環である。環の一つが抜け落ちても歴史は断絶する。国の同一性は保てない。滅んだも同じだ。だから同義地に墜ちた昨今の日本に絶望することはやめよう。それにしてもひどい世の中になったものだ。徒(いたずら)に警鐘を鳴らして空騒ぎするよりは、日本人の理想像はこれだと示す方が世直しの効果は大きいのかもしれない。
澆季(ぎょうき)の時をかい潜(くぐ)って六十余年を遡(さかのぼ)ろう。昭和二十年(1945年)四月二十八日、朝まだき大隈半島のシラス台地にひれ伏す若者の姿があった。

 たらちねのいませし空を伏し拝み
   別れの言葉告げ奉る


その日の夜を待たずに、彼は二十二歳の若い命を沖縄に断った。
詮(せん)なき仮定と知りながら、あえて言おう。もし戦争が起きなかったら昭和二十年四月二十八日はどうなっていただろう。大石政則は東大法学部を卒業して念願通りに外交官としての一歩を踏み出していたはずだ。
しかし彼は豊かな未来を祖国のためになげうった。ぎりぎりのその日まで彼は克明に心の軌跡を書き綴っている。知性に裏打ちされた勇気がなくてはとてもできることではない。日本民族には死にたじろがない男をサムライと呼ぶ伝統がある。大石政則はサムライである。
出撃が相次ぐ串良基地で、明日はわが身と皆が極度に緊張していたとき、渡辺信彦が語りかけた。

「大石はいつもと変わらんな。他の者は目の色が変わったりそわそわしてるのに、やはり純な人は違うんだな」

とんでもないと照れて笑ってごまかすのが普通だが大石は違う。自分が本当に純な人なら、明日は必ず体当たり攻撃に成功して戦果を挙げるはずだと決意を固めた。
しかし戦場の現実は思うに任せない。大石は四機編隊の一番機として発進したが高度をとるにつれて潤滑油が漏れだした。風防はべっとり黒く汚れた。これでは体当たりするにも目標をつかめない。やむなく爆弾を投棄して反転した。帰投するなり司令室に出頭を命ぜられた。延々と一時間近くも何を追及されたか、おおよその見当はつく。優等生であり続けた大石には絶えがたい屈辱であっただろう。初めて舐めた挫折の苦汁からか、その夜は三十八度の高熱に喘いだ。
わが子はまだ生きていると伝え聞いた両親は、基地へ駆けつけた。親の愛は強い。おかげで大石は挫折感から抜け出した。生気を蘇らせた姿に親は錯覚した。子の命を取り戻したのではないかと。子は感謝した。

「ありがとう」

しかしそれは今生(こんじょう)の訣別の言葉だった。
親と子の間で生と死がすれ違っている。聞く者は粛然と涙するだろう。
危急存亡のとき祖国への献身こそは至高の行為、先だった不幸は却って大孝となる。
大石が到達した究極の境地である。
身辺整理はすべて終わった。しかし乗機三○三号に不安があった。
地上の試運転に異常はないが、離陸して高度をとると油が漏れてエンジンに不調を来す。整備員にも原因が分からなかった。このままでは再度の出撃も失敗するおそれがある。大石はこの難問をどのように処理したのだろう。
戦後四十余年も過ぎてからようやくその全容が判明した。二番機の操縦員船川睦夫二飛曹が発表した手記の一部を引用させてもらう。

「作戦会議が終わり宿舎に帰って身の周りの整理に掛かろうとしたとき、隊長機の操縦員大石少尉が近づき、搭乗機を代わってくれないかと相談が始まった。いくら何でも心血を注いだ愛機を交換することはできない。『代わってくれ』だめ、『たのむ』だめ。繰り返すこと一時間、ついに私も根負けして愛機三五三号を大石少尉に譲ることにした」

同じ九七式艦上攻撃機にも形式が異なる一号艦攻と三号艦攻があって、大石の三○三号は一号艦攻、船川の三五三号は三号艦攻である。三号艦攻の方がカッコいいし性能もいい。船川が交換を渋ったのも当然だ。
船川が串良へ進出したのは菊水二号作戦の後だから、大石がエンジン不調で心ならずも反転帰投した事実を知らない。大石は三○三号機の欠陥を船川に告げるわけにいかなかった。正直に言ってしまうと交換話は初めから成り立たなくなる。大石に他意はない。ただただわが命を敵艦に砕くためである。だからといって欠陥機を押しつけることが正当化されるわけがない。大石は良心の呵責に苦しんだだろう。しかし確実に任務を遂行するためにはなんとしても三号艦攻が欲しかった。もちろん交換は無条件ではない。大石は心中秘かに船川への見返りを用意することで、我とわが無法を許した。しかしそれを口にできる時でもなく、所でもない。大石はひたすら頭を下げて頼むしかなかった。

船川はついに根負けしたと記しているが、その気にさせた何かがあったはずだ。船川がペアを組んだ偵察員はO少尉である。上級者であり機長でもあるO少尉に、船川は電信員の佐藤二飛曹と連れだって挨拶をしたであろうそのとき、あまり良い印象を受けなかったのではないか。もし頼もしい機長だと思ったら、大石に難題を持ちかけられたとき助けを求めたはずである。しかし一言も相談していない。大石の印象はどうだったのか。士官の身分をかなぐり捨てて、年若い下士官にただただ叩頭(こうとう)する姿に、人間的な誠意を感じたのではないか。根負けしたとはそういうことだと思う。
船川はさらに重大な事実を記している。

「搭乗員整列、出撃前の訓辞があり、別れのサカズキを飲み干し、出撃の命令で機に搭乗するとき、偵察員のO少尉が急病とかで出撃できず、二番機は電信員と二名の搭乗となった。そんなことはどうでもよかった

予科練出身の十代の若者たちは、O少尉のあまりにもタイムリーな急病など意にも介さなかったが、偵察員を欠いたまま発進を命じた司令部には大いに問題がある。偵察員はいなくてもいいということか。しかし複座機には必ず偵察員を配置した。旧式の水上機や練習機の特攻には無線機を積まなくても偵察員という命は必ず積んだ。未帰還機の備考欄に「電信機ヲ有セズ戦果不明」の文字を見ると悲憤を禁じえない。

四月二十八日、宇佐八幡神忠隊の四機は、薄暮攻撃を企図して串良基地を発進した。船川が操縦する二番機は、大石の操縦する一番機を懸命に追った。交換した三○三機にも船川はすでになじんでいた。敵機を警戒しつつ編隊の間隔を開けて飛んだ。上昇する一番機に引っ張り上げられるようにして高度二千メートル、翼下に屋久島の宮之浦岳を見た。
その頃から風防に点々と油が付着しはじめた。油漏れはひどくなるばかりで、機は黒煙を曳き始めた。船川は一番機に翼を連ねてエンジン不調を伝えた。大石が「帰レ、帰レ」と何度も手を振った。一番機は「無事ヲ祈ル」の文字を示すと、訣別のバンクを振って速度を上げた。機影はたちまち南へ消えた。

「船川兵曹、貴様は死ぬことはない。生き残れ」

大石が心中秘かに用意した見返りとはこれである。

戦後になっても船川は大石の心を知らなかったが、いつとはなく「もしあのとき三号艦攻を譲らなかったら」という仮定が脳裏にこびりついてきた。そして譲ったために大石少尉、清水少尉、犬童二飛曹の三人を死なせてしまったという悔悟の念に苛まれた。自分を責めることに急な彼もまた「純な人」である。戦後四十年も思い悩んだ末に串良町主催の慰霊祭に参列し、大石の遺書を眼にした。最初の出撃に挫折した大石の苦境を初めて知った。船川は記す。

「遺書を読んで、これほどまでに思い焦がれた気持ちならと”ホッ”とするとともに涙を禁じ得ません」

大石は二度目の出撃の前夜、すなわち搭乗機の交換を承諾してもらった後に最後の日記をしたためている。文中の一行に大石の人柄がにじんでいる。

「使用機が待望の三号艦攻(一度も乗りたることなけれども)なので本当にそれ丈でも心の弾むを覚えます

譲り受けた三号艦攻について「一度も乗ったことなけれども」と特に括弧の註をつけて船川への謝意を表明した。現世の縁(えにし)を何一つおろそかにしていない。そして翌昭和二十年四月二十八日の午後、串良を発進して四時間余を飛び、目標突入の長符を打電しながら、「純な人」大石政則の生涯を全うした。

須崎 勝彌
大正11年1月1日生。
学徒出陣の第十四期飛行予備学生。
大石政則とは宇佐海軍航空隊で操縦訓練を共にした間柄である。戦後は文章を業とし、映画『連合艦隊』などのシナリオを執筆し、『カミカゼの真実』(光人社刊)などの著作がある。

『ペンを剣に代えて』 (西日本新聞社刊)
特攻学徒兵海軍少尉 大石政則日記
          大石政隆編より
表紙写真のある紹介記事:

http://www.geocities.jp/masa030308jp/penoturuginikaete.htm

2008年4月27日 (日)

大石政則日記  最後の遺書

昭和二十年四月二十七日

父上、母上

男子の最後の壮途に上るに際し、遥かに皆様に訣別の言葉を述べさせて頂きます。明二十八日の午後四時頃私は廿四歳を最後として散ります。決してお嘆き下さいますな。出撃前夜の私の心は平静沈着、少しも普段のそれと変る所はありません。むしろ去る十二日の第二次特攻にて引き返した不面目と責任とをこそ今こそ果たしうるという雄心に充ち溢れて居ます。
只今、最後の鬚(ひげ)剃りを鯉田少尉にやって貰い終ったので又続けます。三五三号(中間席小野寺少尉、電信員犬童二飛曹)で宇佐の区隊長機として行きますが、待望の三号艦攻(一度も乗りたることなけれども)なので、本当にそれだけでも心のはずむを覚えます。一二二○発進。(午前空襲あらば一五三○)沖縄周辺の敵輸送船に対して痛快なる突入を決行します。假令(たとえ)途中にて墜さるることあるも、戦果小なりとも二十代の若者が次から次へと特攻攻撃を連続し、ますらおの命を積み重ね積み重ねして大和島根(やまとしまね)を守り抜くことが出来れば幸ではありませんか。ここでしばし回顧させて頂きます。

一心館での面会が本当に最後の面会でしたね。
ご両親様の御顔を拝し、また竹内夫妻の消息、家の様子などうかがうことが出来、また心残りと思いし「荒波越えて」を一読するを得て、私の心には少しの心残りもありません。満足のみです。本当に出撃前にこの機会を与えられた運命の神秘*、神の御加護を畏(かしこ)む次第です。雨の日空襲で防空壕に入ったことや、かしわを喰いすぎたことなど・・・
お陰で風邪をひき胃をこわしましたがね。

二十有余年、並々ならぬ御苦労を以て育てられた御思を有難くいただきながら、最大の親孝行を尽くすべく行きます。少しでも御膝下(しっか)に帰って御面倒を見、万分の一でも報じたく思いましたが、それは日本の戦局が許しませんでした。若い者は皆皇国の捨て石たるべく運命づけられています。今になってこの運命の尊さを泌々(しみじみ)味わっています。
私が亡くなっても政隆の偉大なるあり、また竹内大尉あり、私一家のみにても後に才々たるものあり。後に心をやるなど毛頭ありません。政隆は私に優る者、将来は期して待つものあります。どうか政隆に全幅の愛情と期待をかけられて、これからをお送り下さい。

宇佐発進の折りの句を再び決意に示して

待ちわびし 身に甲斐ありて 大君の
  御楯と飛び立つ 今日のうれしさ

国体擁護の日本民族総力戦の真只中、神風特別攻撃隊の一員として敢然(かんぜん)沖縄の海に予は死す。身は敵艦諸共四散し去るとも魂魄(こんぱく)は国体擁護聖戦に永久に生き抜き以て日本の四海に神風を吹き起さなん。神州興隆、四夷撻伏(しいたっぷく。吉田松陰の言葉、外敵を叩き伏せること)の悲願を抱き戦死に至極する廿四の人生を終る。涛(きゅうとう)*を挽回し攻勢を移転の機の一日も速やかならんことを切に懇望す。

 天皇陛下万歳
二十、四、二十七、二○○○時

竹内夫妻*

一足お先に参りますよ。お二人の結婚生活の甘い所など拝見したく思いましたが、出来ず残念でした。もっとも父母から面白可笑しく聞きましたが、精々拙(つたな)い何も出来ぬ妹ですが可愛がって下さい。
「兄さん」とお呼び下さるには尤(もっと)もといえば尤もなんですが、でも一寸(ちょっと)照れくさく思いました。もう呼ばないで下さい。


一回目の出撃は潤滑油が風防に一杯かかったので途中から飛行場に向いましたが、小隊長機たる責任観念よりまた列機の後を追いましたが、ますますいけないので涙を呑んで爆弾を海に落として引き返しました。飛行機は地上と空中で故障具合の違うことをはっきりと知りました。

同じ出水七分隊出身では富士原少尉が十二日の特攻で死にました。また金田少尉は三月中、敵機来襲にて第二美保へ避退のとき離陸直後失速して死にました。飛行時間一○○時間、離陸と編隊、計器飛行、互乗二、三回やったきりの何とも青二才ですが、恐れを知らぬ図太さを以て我武者羅にやりますよ。私は最後まで正真正銘バーデス*。

政隆君

よい弟だったな。本当に君が可愛くてなりません。兄さんは大尉で結構です。早く行かぬと獲物がなくなりますからね。ヤンキーの恐怖におびえた顔また痛快です。
兄さんが居なくても、もっと大きい兄さんが出来たわけだから元気で暮らしなさい。お母さんのお手伝いはよくやるように。一目可愛い中学生姿を見たかったですね。一種軍装を残して行きます。

許斐(このみ)先生 鯰田中学校恩師
藤井先生       竹田中学校恩師
菊池先生       富山高校恩師
植木先生       富山高校恩師

私の学生生活を通じてこの四先生には特に御高恩を賜りました。厚く御礼申し上げます
子弟教育に愈々御精励、皇国守護の基礎たる有為の人材を育成して下さい。今更何も思い残すことはありません。
四ツ谷巌兄(東大法)
学生時代無二の親友
元気で信念に直進してください。

編集者註:

*竹内忠治氏は出水空時代の大石君の分隊長で、その縁で大石君の妹の禎子さんと結婚された。

*後述。

記録では大石機からの電信は次の通りであった。

一九一三  ヒ ヒ ヒ ヒ・・・(敵戦闘機の襲撃を受く)
二○○九  敵艦船見ゆ
二○一八  長符十秒(体当りに突き進んでいる)

なおペアは清水吉一少尉(立大・十三期)
       犬童憲太郎二飛曹(甲飛十二期)

『ペンを剣に代えて』 (西日本新聞社刊)
特攻学徒兵海軍少尉 大石政則日記
          大石政隆編より
表紙写真のある紹介記事:

http://www.geocities.jp/masa030308jp/penoturuginikaete.htm

大石政則母刀自・大石トク『想いで草』より引用します。

任官を祝う母子の酌みかわす
     琥珀の酒の味わい深し    大石トク

二十年四月のある日、ある方から、「至急、大石少尉に面会に行かれるように」と内密の連絡をいただきまして、私ども夫婦は何事であろうかと、やっと手に入れた切符で電車に乗り、宇佐航空隊に向かいました。
「まさか、政則が特別攻撃隊で出撃するのではないでしょうね」
満員の電車の中で、私が主人の耳許で申しますと、
「几帳面な政則のことだから親に黙って行ってしまうはずはない」
主人は不安を隠すように言いました。
列車の走り方さえもどかしく感じられる思いで、ようやく航空隊に駆けつけました。
昭和二十年四月七日のことでございます。
「大石少尉に面会をお願いいたします。」
隊門でそう申し出ますと、
「大石少尉は昨日出撃されました。もうこの世には居られませんー」
受付の兵隊さんが静かに言われました。
電気に撃たれたようにその言葉が私の体を突き抜け、体中の血が地のなかに吸い込まれてゆくようでしたが、
「士官の母としてまさかの時にも涙を見せてはいけません」
と申しておりました政則の言葉をしっかりと噛みしめ、私は葉隠れ武士の母らしく涙をこらえておりました。
せめて息子のお友達にお会いして出撃の様子をお聞かせいただきたいとお願いしまして、五、六名の同期生の方々にお会いすることが出来ました。私ども夫婦はその同期の戦友方と昼食を共にしながら皆様から政則の想い出をあれこれと際限がないほどお聞かせ願い、政則が目の前にいるようにしっかりとその姿を想い浮かべることができました。
その日の午後も特攻隊の出撃がありますとのことで、特攻隊の遺族として是非それを見送って息子さんの出撃の姿と思って下さいとの温かいお許しを隊からいただきまして、私ども夫婦はしっかりと自分の目で特攻隊出撃の様子を見届けることが出来ました。

出撃される勇士達は皆様、桜の小枝を襟に飾って水杯を交わされておられましたが、
「先に往くから、あとは頼むぞ」
「必中を願う、あとから往くからな」
と、見送られる戦友、見送る戦友は交々、明るい笑みをたたえながら語り合っておられました。
やがて、一番機を先頭に次々と滑走路を離れた特攻機は飛行場の上で編隊を組み、大きくお別れの翼を振って南の方へ向かいました。
これが政則の姿だったのだと、私はいつまでも涙を拭わずに機影に手を合わせておりました。私どもは政則が残した鞄をしっかり抱いてその地を後にしました。

それから十日程後のことでございます。
「マサノリオル、クシラニイケ」
謎のような電報が、思い当たりのない方ーあとで、このお方は政則の戦友の親御さん*と分かりましたがーから届きました。
まさか政則がまだこの世に居るとは、と半信半疑の気持ちで、主人と私は宇佐より遥か南の鹿児島県串良に急ぎ参りました。
串良航空隊は一望の藷畑の中にあって宇佐航空隊のような立派な建物は一つとしてありません。
ようやく見つけた隊門で、またも「大石少尉は昨日ー」の言葉を聞くのではないかとの不安にかられながらも、恐る恐る政則の名前を申しますと、
「大石少尉は只今作業中です。しばらくお待ち下さい」
との返事が返ってまいりました。
”政則が生きていた、まだこの地にいるー”
私の顔に一度に血が上ってまいりましたが、まだ半信半疑の夢のような気持でございました。神仏の御加護があって、私は我が子に再び会うことが出来ました。
その晩は隊の近くの「一心館」という旅館に三人で泊まり、夜の更けるのも忘れて語り合いました。
宇佐を飛び立った政則の飛行機は、潤滑油が漏れて風防にかかり、前方が見えなくなったので一旦は引き返しかけたが、責任ある一番機であることから再び進路を南に向けたものの、どうしてもそれ以上の前進が出来ず、戻ったとのことでございました。
命が惜しくて引き返したと思われるのが辛い、と政則は唇を噛んで申しました。
私は「立派に整備された飛行機がそうした故障を起こしたのは、お母さんがあなたに会いたいと思う一念が天に通じて引き戻して下さったのです、ご奉公はいつでも出来るのですから決して死に急ぐことはありません」と申しました。
その夜と明くる日の夜、「久しぶりだからお母さんの懐(ふところ)で寝るよ」と申す息子の体をしっかり抱いて、私達親子三人は「川」の字になって眠りました。ようやく這い這いをしだした頃と同じ政則の温もりが私の体中に伝わってまいりました。
いま思いますと、こうして最後にわが子を二晩も抱きしめて寝ることが出来ました私は、他の特攻隊員のお母さま方には申し訳ないほど幸せであったわけでございます。
幸い、政則はまだすぐに出撃する様子ではありませんでした。
朝になると隊に向かい、夕方は旅館に戻って来るという、まるで政則が学校に通っていた頃と同じように、親子が朝夕に顔を合わせるという日が二日続きました。
丁度その折、娘、禎子の夫、竹内大尉が朝鮮光州航空隊から諫早航空隊に転勤になり、夫婦で私の家に立ち寄っておりましたので、
「政則ちゃん、あなたの居場所が分かったのでちょっと竹内夫妻に会って来て、すぐに戻りますからね」と、出撃の気配を感じなかった私はうっかり申しました。
政則はそうしなさいと言うように、黙って深く肯きました。
私は後に知ったのでございますが、竹内大尉は特攻隊長を命ぜられておりました。
同じ海軍軍人であった政則はこうなることを早々と予想していたのでございましょうか、自分の妹に軍人の妻としての万一の時の心がまえを、その遺書となりました日記にも書き記してございました。
妹思いの政則は、娘が私と久々の対面をどれほど楽しみにしているかを心の底で思っていたのでございます。
それが「お母さん、行ってらっしゃい」と無言の返事だったのです。
そのとき、政則は自分が「明日、出撃」と知っていたはずですが、私には一言もそのことを申しませんでした。
おそらく、自分と両親との別れの悲しさよりも自分の妹が親に会う喜びの方を考えていたのでございましょう。その朝、私達は前の日と同じように旅館の玄関へ隊に向かう政則を見送りに出ました。
外は霧雨でした。
「お母さん、雨が降っているから此処まででいいよ」
道まで出ようとする私達を、政則は手で押さえるようにして言いました。
「お母さんはまたすぐここへ戻って来ますからね」

これが私が息子にかけた最後の言葉になりました。
そのとき、「お母さん、明日は出撃です」と一言漏らしてくれれば、私は何事を措いてもそれを見送るまで居たのでございますが、息子は私の嘆き悲しむことを心配し、また、妹を喜ばせて上げたいとだけ考えていたのでございましょう。

旅館の道をまっすぐに歩いた政則は曲がり角に着いたとき、初めて私達の方を振り返り、煙るような雨のなかで長い長い挙手の礼をいたしました。
軍服の肩に雨が粒になって光っているのが私の目に映りました。
これが、私達が息子政則を見た最後の姿でした。   

「神風特別攻撃隊八幡神忠隊、昭和二十年、四月二十八日、沖縄周辺ノ敵艦船群ニ体当リ攻撃ヲ決行ス」
息子、大石政則海軍大尉の戦死は、海軍布告にこのように記されております。

2008年4月16日 (水)

大石政則日記 その31

「大石政則日記」編集者(伊東一義*)註

私が大石家よりお借りした大石君の日記(原本ノートは傷みが甚だしく、コピーしたもの)はここまでである。従って十四期会が遺稿集「同期の桜」 を編集した頃は、四月十二日出撃前の文章が遺書として扱われたようだが、昭和五十一年頃次の遺書が出て来た。

後掲のお母様の手記にあるように、ご両親は四月二十五日に串良を訪れ二泊する。その際持参して大石君に読ませたお父様の一代記「荒波越えて」 のノートの末尾に、この最終の遺書は書き込まれてあった。

四月十二日の菊水二号作戦に参加し、引き返した大石君が、十六日の三号作戦には下命なく、四月二十七日に翌日の出撃を命ぜられるまでの十数日は長い長い苦悩の日々であったろう。「さすがの大石君も最後は乱れた」 という同僚の話を聞いたこともあり、私にはそれで当然と思えるのだが、しかし最後の遺書は晴れ晴れとしている。

昭和二十年四月二十七日最後の遺書

(最後の遺書は四月二十七日に打ち込みます。)

『ペンを剣に代えて』 (西日本新聞社刊)
特攻学徒兵海軍少尉 大石政則日記
          大石政隆編より
表紙写真のある紹介記事:

http://www.geocities.jp/masa030308jp/penoturuginikaete.htm

伊東一義氏:

大正11年11月21日生まれ
東京帝国大学法学部並びに第十四期海軍飛行科予備学生で大石政則と同期生。(渋谷幽哉氏も同期生でしたよね。これで「九州十四期会報」の十四期の意味がわかりました。

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