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2013年4月11日 (木)

かささぎカレンダー

かささぎカレンダー

五月の、都合をみなさまどぞ!

2012年8月10日 (金)

トンカチとハンマー

トンカチとハンマー

ハンマー取って、とボス。
持ってません、トンカチならあります。と言うと、笑われた。
ハンマーがトンカチだったなんて。
トンカチが英語とは思わなかったにしろ。

2008年1月 4日 (金)

こよみのこと

以前書いた記事に書き足しました。

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_1ee5.html

2007年12月20日 (木)

大石政則日記 その2

昭和十九年九月九日の日記より、一部を抜粋させていただきます。
この日の日記は、突出して長いのです。
記載のない日やわずか一行という日もあるなか、七ページにわたり(正確にいうと六ページ余り)、大好きな竹田の記憶をはじめさまざまな思い出を綴っておられます。それが目をひき、重陽の日付との関連性(菊の節句とはもののふにとってどんな格別の日だったのか)、それと死期が近いことをじゅうぶん悟っている魂の「書きのこすこと」が知りたいのです。*)

思い出(一)

私は至って不器用な方である。けれども唯一つ、人前に出て大して恥ずかしくもなさそうなのがある。それは模型地図の作成なのである。地図の等高線を拡大してボール紙を切り、それを糊で貼り付けて行くありふれたやり方であるが、小学五、六年の頃は組中のオーソリティを以て任じ、盛んに作成したものである。
ここに至ったのは抑々(そもそも)、鯰田炭鉱に勤めていたT氏に教えていただいた賜物に外ならない。私が主宰して級友と作ったもの、或は一人で作ったものは四つか五つかある。今憶えているものでは東北地方、支那本部*、台湾、富士山等であるが、すべて手元には持っていない。みな鯰田の小学校か竹田の中学校にある筈である。今もあるかどうかは分らないけれども、何時か折りがあったら両校を訪ねて思い出の品を見せてもらいたいと期待している。

  (「ペンを剣に代えて」 117頁

  特攻学徒兵海軍少尉 大石政則日記 より)

時間が許せば、この前段階も後ろもこの日の記載を全部ひきたいんですが、とりあえず。場所的なことが私にはよくわからないんですが、竹田は豊後竹田で、鯰田はなまずた、きっと筑豊のほうじゃないのかな。福岡県人のくせにさっぱり位置がつかめてない。すみません、ただ、模型地図とはどういうものか、どんなに時間をかけて根気をつめて、集中力をもってするものかは、漫画「七夕の国」を読んだものにはわかります。

まだあるのでしょうか。鯰田小学校か竹田中学校には古い戦前の地図模型。・・ないでしょうね。

※ いましらべてみたら、福岡県飯塚市の鯰田小学校は、昭和36年の火災で全館焼失、重要書類も全て灰燼に帰した模様です。もう一方の竹田中学はいまの竹田高校らしいのですが、七十年ちかくも前のものはおそらく保存されてはいないでしょう。

* 重陽の節句、菊の節句ともののふの話で思いつくのが、上田秋成の物語と石橋秀野です。『石橋秀野ノート』には書いた記憶があるのですが、そらで憶えていません。ただ、上田秋成のはなしはこんな話でした。父を亡くしおちぶれた武家のあととりの少年が、或る日落ち武者を助ける。家に連れ帰り看病する。やがて男の傷も癒え、二人は菊花の契りを結ぶ。男は故郷に帰り、主君の敵を討とうとするが、それは適わず、獄に幽閉され死ぬ。少年とかわした約束があった。敵をうち、必ず菊の節句の日には少年のもとへもどる。というもの。九月九日、死んだ男は霊になって、少年のもとへ帰る。

かささぎはこのはなしをよみ、重陽の節句ともののふの菊花の契りを重ねることの歴史的な先蹤がほかにもあるのだろうか。それを知りたく思います。と同時に、佐賀の金立の弘学館裏にある「葉隠」を書いた人の碑を思い出します。それと・・・それを翻訳し実践しポピュラーなものにした三島由紀夫も。

2007年9月 6日 (木)

卯の花のこと

http://www.tcct.zaq.ne.jp/bpbuv603/shibai/unohananokoto.htm

本にまとめねばと思ってる原稿があって、出版社に入れたままにしてある。あれは一昨年の冬でした。編集長、まだ、取ってありますよね?

暦で気になってることがある。

卯月について。
でも、あまりあいだがあいてしまったので、なにを気にかけていたかさえあやふやになってきた。笑

苗代ぐみに気づかせていただいたのは北原志満子の句でだったが、上記のブログには卯の花に水口花という別名があることに気づかせてもらった。つまり、田植えの取水口に実りを祈念してうえられることが多かったという。

これをよみ、「じゃやっぱり、あれがそうでは」 と思う木が一つこころにうかぶ。その写真をとらねば。でももう咲いてはいないだろうな。

*どうもわからないこと:しきりに思われること。

卯月という名前の由来です。大概の本には、卯の花月から来たことばだと書かれております。しかし、私はそうじゃないとおもう。その逆だと。卯の花という花の名前こそが卯月に咲くからそういう名前がついたんであって、卯月というのは、もともと旧暦四月を指すことばでなく、旧暦二月を指すことばだった。旧暦二月というのは太陽暦だとさくら花咲く四月ころとなります。
では、なぜ卯月は旧暦二月だったか。それはずっと古い時代、今とおなじようにこよみが切り替わった時代があって、子の月は旧暦1月ではなく、ほんとうに冬至をふくむ十一月であったとすれば、子、丑、寅、卯と数えていって二月ということになるわけです。

そう思い始めたのは、吉野裕子の本でそのようなことが書かれていたこともありますが、数年前に岩波書店から出た江戸時代の歳時記の先駆け、「俳諧歳時記栞草」 の卯月のところに、こう書かれていたのを「おや。なんだかへんだぞ」と思って読んでからです。

はいかいさいじきしおりぐさにかかれた説明文。

夏之部

卯花月(うのはなづき) 卯月 [釈名] 波流花(うのはな、とルビ)さかりにひらくる故に、うのはな月と云。」又略して、卯月とも云。

ね。へんでしょう。どう変かといいますと、波流花は、ふつうに万葉かなみたいなよみでは、「はるはな」としかよめない。ということは、春花が盛りと開くから、卯の、花月というんだよ。って書かれているのです。つまり、卯月というのは、もともと波流、春の花咲く月だった。と考えるのが普通じゃないでしょうか。冬至はいまのこよみだと十二月後半にありますが、ずっと昔は十月末にきた。新酒の仕込みの始まる時期で、冬至には杜氏が山から下りてきます。この冬至のある月を1月としていた時代があり、卯月は四番目の月ですから、もともと、さくらなどの花がさかりの旧暦二月をさしていたのではないだろうかと思われます。それが何時の時代かにこよみの切り替えがあって、正月は二ヶ月あとにずれこみ、卯月は四番目の月、つまり四月にずれた。だからうつ(空)木の花はそのずれた時代の名付けなんではないか。と、こう考えた次第です。・・考えていると段々わからなくなって、混乱してきます。だれか、真実をごぞんじのかたがあれば、教えてください。

「有明の主水に酒屋つくらせて」

この芭蕉が巻いた有名な「冬の日」五歌仙最初の巻の第三は、有明の月を詠んだものでありますが、先日の冬至の日、地元の酒造(高橋酒造でした、繁升、しげますという酒をつくっています)をていねいに取材した新聞記事をちらっと読みました。それによると、ことしも(もう去年になるんだけど)杜氏が十五人ほど集まり仕込みが始まった、というもの。午前三時半には仕事を始める・・と書かれていた。有明の月がよく実感できる。むかしの句をよむと、こよみのことがしきりにおもわれ、大自然が時空を超えて、胸にせまってくる。実体をともなったすごいリアルなものとして。(後半記事は、平成二十年壱月三日記す。)

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