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2017年7月25日 (火)

ちょっと長いが、乙四郎博士の日食コメント

コメント
武寧王陵と出雲大社と伊勢神宮・内宮は一直線上に並ぶらしい。
また、武寧王陵と難波宮跡と石上神宮も一直線上に並ぶらしい。
(↓)
投稿: インディー乙 | 2013年6月 1日 (土) 20時38分
コウヤマキは秋篠宮ご夫妻の長男悠仁さまの「お印」です。
皇室医務主管を兼ねておられたK・国立精神神経センター総長にお仕えしていた頃、悠仁さまがお生まれになられました。その際、センター敷地にコウヤマキを記念植樹しました。枯らすようなことがあってはいけませんので、コウヤマキについてはかなり勉強しました。
投稿: 乙四郎 | 2013年6月 1日 (土) 23時14分
乙四郎先生。
前から気になっているのですが、一直線上に並ぶとは、それはどういう意味があるのでしょう。
はじめてそういうのをみたのは、吉野裕子の隠された神々という題の本で、三十代半ばころでした。
たしか、熱田神宮とお伊勢さんと出雲大社がおなじ高さにあるというのでした。・・いやそんなはずはないよね。そうじゃなくて、同じ緯度で一番の東の端にある熱田神宮と一番西にある出雲大社がどうのとあったと記憶していて、あの本はわたしにとって大きな影響をもった本だったので、ボロボロになるまで何度も眼を通したのですが、とくに北斗七星のところ、芭蕉の有明の主水に酒屋作らせて。を深く考えるのに。
もう一度久しぶりに読もうと探せど、これまた発掘しなければ見つからず、あきらめて、ネットで探していると、思いもかけぬ吉野先生の批判記事を見たりしまして。だけど、その逆もたくさん。たとえば、ここ☟。
投稿: かささぎ | 2013年6月 2日 (日) 20時36分
上記引用ブログ、面白いです。
幽霊のはなしもですが、吉野裕子先生とじっさいにお会いになられて、江戸弁というかとってもきれいな東京弁を聞かれている話。
それと、雅楽の話も面白かった。東儀家のこととか楽屋話とか。
じつは、この一直線にならぶ神宮であちこち検索かけていたら、色々であったのです。これと。必読かもしれんなあ。と思い、貼り付けておきます。☟
投稿: かささぎ | 2013年6月 2日 (日) 20時43分
ほかに、このブログを推奨いたします。
すごいです。☟
まったく、おっしゃるとおり。
かがなべて。
かがり火をたくさん並べたように感じます、それが背景にすーっと浮かぶのです。
かささぎは、このみひたきの翁とヤマトタケルの唱和(はじめての連歌とされる)を知ったのは、石橋秀野の俳句からでした。
かがなへて、で始まる句を秀野が詠んでいたのですよね。ヤマトは天理出身の俳人です、やまとことばがたくさん使われていて、わたしは石橋秀野と石橋貞吉(山本健吉)によって豊穣な日本語の世界を開かれたようにおもう。
もちろん、そのおなじころに、連句や前田圭衛子師とあったこともあります。安西均先生へ詩の投稿をしていた、そして先生が亡くなられる直前に、連句なさっていることを知ったのでした。幾重にも偶然が重なっていて、これは、書くのもめんどうなくらいで。
投稿: かささぎ | 2013年6月 2日 (日) 20時56分
連句的に書いておきたい。
吉野裕子本で、こういうことを知りました。
古代、カカというのは、へびのことであった。
かがみはへびの目。瞬きをしないへびの目。
み火焼のおきなは火の番をする人。
(問ひ) 新治筑波(にひばり・つくば)を過ぎて
 幾夜(いくよ)か寝つる
(返し) かがなべて夜(よ)には九夜(ここのよ)
日には十日(とをか)を
原爆忌の俳句を考えているのですが、このはるかな昔と、いまのウランのあかりの世と、裏と表がひっくり返ったのかなあ。
投稿: かささぎ | 2013年6月 2日 (日) 21時13分
滞在時間 5分12秒 閲覧ページ数 3ページ 参照元 武寧王 環頭太刀
投稿: かささぎ | 2014年9月30日 (火) 12時55分
武寧王は62歳で没したのですね。同い年です。
癸卯年5月7日に崩御。
グレゴリオ暦では西暦523年6月7日。
百首和歌の日付は癸卯年卯月25日で、グレゴリオ暦では西暦1543年6月7日です。
この一致性を発見して以来、武寧王が気がかりな存在になっています。
また、新しい発見がありました。
武寧王の没年の前年の西暦522年6月10日に皆既日食。北九州で見れる日食の規模としては、西暦247年3月24日以来の規模で、これ以降も数世紀間はありません。
西暦247年の日食は「ヒミコの日食」(最近、CMでヒミコが日食の中、スマホを手にする場面が描かれていました)で、北九州は9割食で暗くなったが畿内では部分食。
『魏志倭人伝』に正始八年(247 年)魏使が邪馬台国にやってきて間もなく女王卑弥呼が没したとありますが、卑弥呼の死と日食との関係性が疑われます。シャーマンとしての霊力の衰えを疑われての失脚でしょう。
武寧王の死も、ヤマトの磐井侵攻(527年)も、日食と関連しているのかも。
投稿: 乙四郎 | 2017年7月23日 (日) 00時39分
古代の日食については天文ソフトを使って計算することができ、北九州では暗くなったが畿内では部分食なのでインパクトはなかったということですが、地球の自転速度は一定ではなく、わずかな誤差で畿内でも暗くなった可能性があるとのこと。
247年3月24日の夕方に始まった日食は、太陽が欠けながら沈み、最大限に瘠せ細り(18時25分)暗黒を迎えた直後(18時30分)に没した、と劇的な見え方であったのが北九州でした。韓国や中国ではもっと早い時間に観測され、何事かと魏使がシャーマンとして名高い卑弥呼に伺いを立てにわざわざやってくるのはあり得ることです。
2012年の国立天文学報に、247年の日食の見え方についての分析が載っていました。さすが天文学の専門家、247年の日食について三國志巻十四(『正始八年春二月朔 日有蝕之』)と晋書巻十二(『正始八年二月庚午朔 日有蝕之』)に観察記録があるのを考慮に入れて自転誤差を推定し、この論文では、この日食は北九州で深食~皆既日食であった可能性を結論づけています。
昨夜、NHKで邪馬台国の畿内説と九州説のそれぞれの論拠解説をしていましたが、日食の論拠は示されませんでした。
次の522年の日食は暗闇が6分も続いた皆既日食が全国的に観測され、日本史上、目立たぬはずのない日食でした。ところが、日本最古の日食の記録は 628年4月10日の記録からで、日本最古の皆既日食の記録は975年8月10日です。6分もの暗闇の訪れの記録が記紀に一行もないのは、この頃の出来事が、日本の歴史の記録からごっそりと消されてしまったことの証拠ではないだろうか。日食の不吉にかこつけて武寧王を失脚させ、後ろ盾を失った磐井への侵攻がそれに続き、この辺の日本史が改竄されたのでは。磐井の乱については日本書紀に反乱として描かれていますが、『筑後国風土記』によると「官軍が急に攻めてきた」ようで、反乱ではなさそうです。
投稿: 乙四郎 | 2017年7月23日 (日) 09時36分
うわ。わわわ。
ひさびさ炸裂、乙四郎砲。すげえ。
中国の人たちに選挙権がなかったなんて、わたしははずかしながら知らなかった。ダーシューさんブログをよんで、初めて知り、そうだったのかと。
まことに小さな金魚鉢のなかで暮らしておるなあと反省させられます。
ことし与謝野馨さんが亡くなり、117代文部大臣のころの
全古墳を学術調査すべし。という、きわめてまっとうで科学的な彼の意見を、もう一度振り返ってみてくれる人がいないかなあと期待していましたが、皆無でしたねえ。知らないあいだに、おそろしくきゅうくつな国になっているような気がしてきた。
検索かけても出ない・・・
投稿: かささぎ | 2017年7月23日 (日) 18時35分

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