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2017年4月26日 (水)

天のつく年号は

天のつく年号は

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コメント

水月さんの推理はどげんでっしょうか。

👇

確かに「天」のつく年号はいくつかあります。ただ本覚院が建久年間(一一九○~一一九八)に開創されたとするなら、その創建者が歿する年としては、天福元年(一二三三)が一番近いです。『聖方紀州風土記』の著者はそのように考えたのかもしれません。けれども、ブログでも書きましたが、あくまで推測です。そもそもは歿年が文永年中から天福元年になった根拠がわからないところにあります。何か資料が見出されたのなら、それを書くべきです。ところがそれも示さず、急に一代で変更しているのは何といっても不自然です。私は高野堂の行空の命日は墓標にある天文十六年七月六日と思います。江頭亨氏は改修の年だといわれますが、命日を書かず、改修の年を正面に書くことがあるでしょうか。天福元年というのは、何かの間違いだと思っています。なお、他の「天」のつく年号では建久年間開創に合いません。

うん、うん。

やめしし、いま見ながら打っていますが
寺社資料
浄土宗一念寺に黒木すけよしの妻小侍従所持の
惠信僧都筆の佛像あり 筑後秘鑑

一念寺は豊福村
へえー

馬場の天福寺

浄土宗 紫雲山天福寺

天平年中行基菩薩開基、本尊阿弥陀、行基作、
建保年中聖光上人再興の時より浄土宗に罷成申候
聖光上人そのご善導寺遷化の節、善導寺より天福寺まで紫雲たなびき。。。これが寛延記。

紫雲山と號ず。四條帝の御宇、天福年中、聖光上人の開基なり。今地境僅に殘れり。寺中聖光の墳墓あり。門前に古松あり。紫雲の松といふ。 校訂筑後志

紫雲山天福寺
浄土宗なり聖光上人再興の地なり
紫雲乃松 在本堂之艮
聖光上人之墓在本堂之横 筑後秘鑑

さいごの資料がなあ、なげーのなんの。
櫻子さんのあしもとには。をみながら。

太宰管内志

鎮西禅師えことばでん八巻
に、筑後國こうづま郡川崎ノ庄内馬場村に寺あり天福寺と號す、そのかみ禅師幽居の處なり
四條院天福年中禅師の弘道盛にして一寺となる
寺中に古松二株あり
入滅の時枝葉ことごとく善導寺の方になびく
禅師の滅後三百年に忽然として孤竹を生ず
程なく茂る故に竹林院と號す
大殿の本尊は禅師の眞彫にて御丈壹尺五寸立像のあみだ佛なり
永享嘉吉の比本坊子院六區兵火にかかりし時本尊は近里に遁賜ふ されどもその後盗賊のために失ひたまへり
いかなる故にや同郡蒲原の農夫の道心者一運これを迎へて
数年の間供養す
宝暦十三年に至りて帰座したまふ
されども地福寺の本堂佛をすゑ奉りて現在したまへば帰来りたまへるは別室を造りて置りとあり、絵詞伝に天福寺の北境に青流あり みやの河といふ
禅師伝法の時この河水に浴して身躰を清め賜へりとてコリパといふ所今にあり、以下略。
ちなみに略したのはかささぎではないからな。

はあ〜
ドラマ、おわったじゃないか。

漢字のいちを、壱ではなく壹とかいてありました。
お初でした。
古田先生のやまいちこくを思い出した

山鹿のことも含めて、長文をありがとうございます。

水月さん

聖光上人、ほんとはどこで幽去なさったのでしょう
中国へは渡られなかったのですか

検索すればドドドと出てこようが

天福寺は以前、八女市戦没者追悼式が執り行われていたお寺なんです

聖光上人(私どもは弁長、あるいは弁阿と呼びます)は、久留米の善導寺で遷化なされました。そこに廟所があります。中国へ渉ったという形跡はありません。
天福寺という寺号が気になりますが、弁長上人と行空上人とは同じ法然門下でありながら、まったく異なる教学、思想をもっておられました。行空上人側の資料がないのですが、弁長上人は行空上人を完全に批判されております。したがって弁長上人に関わるお寺は、行空上人とは無関係といわねばならないでしょうね。

お教えいただき、ありがとうございます。
同時代の高名な僧が、どのような形で八女に痕跡をとどめているのか、わかると思って。

行基や弁長はともかく、
行空上人も初代行空とは別に、天文年間に星野黒木谷で亡くなられた僧が実在したのでしょうか。
あまりにも遠い、はるかな話です。

だが、やまがは近い。
車でなら三号線を熊本方面へ三十分下れば着く。

日本の仏教史上に行空という名の僧は複数いました。確実にいえるのは、(1)『法華験記』から『元亨釈書』に伝えられる一宿上人としての行空と、(2)法然門下の法本房としての行空です。それから、これは推測になりますが、(3)天文十六年七月六日に歿した高野山講坊先師としての行空がいたと考えます。高野堂「行空上人の墓」のあることが証拠です。待宵小侍従説話の行空は架空の人物であり、おそらく(3)の行空をモデルとしたものでしょう。高野山本覚院は(1)と(3)を混同しています。そして江頭亨氏『郷土史物語』は(1)(2)(3)を混同しています。本覚院は現在も伝承として語っていますので、とやかくいうことはできません。しかし江頭亨氏の所論は明らかに間違いです。

先ほど(1)と(2)を混同することが誤りである証拠を見つけました。それは『元亨釈書』が浄土宗を寓宗と語っていることです。方便、仮りの教えという意味です。『元亨釈書』がそのように明言しているのですから、(1)と(2)を同じ人物であるはずがありません。江頭亨氏はただ「行空」とあるのを見て、法本房としての行空と同一人物と考えたのでしょうが、明らかに間違いといわざるをえません。もっとよく『元亨釈書』を見るべきでした。

このように書かせていただくことで、頭の中を整理することができます。ありがとうございます。

水月さん、こちらこそありがとうございます。

石盥に張られた水に映る月、その姿をもっとよくみようと近づくと、自分の影が邪魔をして何も見えない
自分を消さなければ

おもしろいことをひとつ

こうやんどうの前の道が完成したとき、神式で落慶式をなさいました
で、わたしは自分の身内がだれかこうやんどうの門徒さんにいないかと、山口姓を探したのですが
みつけることができず。
わたしの母方の祖父の弟の息子さんは
法華経の信者だけど、こうやんどうの門徒ではないようです。
わたしたち夫婦(離婚はしてないようです)の仲人さんも法華経信者でした

またでました
がんきょうしゃくしょ、と、いつもよんでいました
しかし、ほんとは、
げんこうしゃくしょ、
元亨二年に出たからって。
げんこうという音は元寇しか思いつかないという貧弱なあたまです
また、虎関師錬というと、股間試練という字に変換しそうです
日本初の仏教通史だそうですが漢文なんですね
江頭亨氏のお名前にも亨がありまして、芭蕉の歌仙の、
にることを許してはせを放ちたる
の、にるという字に似ているので、亨を調べてみました。
👇
おもしろいなあ
今から残業します
二時間で済むか

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