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2015年11月 5日 (木)

まんにひとつのアダもない 談義

コメント

あのこたち、生きていれば、22歳よ。うちの姪っ子と同じ年です。
姪っ子に縁談の話があった。
そんな年頃。

そうでしたね
うちの次男と同い年だった。
縁談が、そうですか。

縁談。養子を取れとおっしゃるわけで。
本家筋のおじさんがうるさい。
今時、見合いで養子を迎えるなんて、アリエナイ。姪っ子にた自分の好きな人と結婚していいと伝えた。中島を名乗る必要も要らん。時代錯誤もいいとこ。
まあ、ありがたい話しではあるのですが。
男親がいないから、心配してくださってるみたい。

ようしをとれ。

おおお、
そう、たしかにむかしはまわりからそういう声がすぐあがった。いまもいうんだ、とちょっとあんしんした。
時代錯誤だろうか。
いちばんくろうしているぶぶんは文字化できないもので、かいてこなかったばってん。おもういじょうにねぶかい。めにみえないぶぶんがうんとある。
りこんしないともとのせいにはもどれないし。
という点で、けっこんするとき、いえどうしのやくそくだった両方のせいをまもる、ができていないものとしては、なんともいえない。
まあ、わかいときだったら、せいこさんとおなじことを言っただろう。
さいきん、ショックだったのが、こないだ介護認定に役場からみえたとき、まちがって隣にいかれたのです。そのかたのやいてこられた地図をなにげなくみたら、となりがひめの、うちは夫の姓になっていました。はははひめのだし、だからまちがえられたのですね。
いや、たしかに父が亡くなったから、そうなるのだが、夫はとばたに自分の母といえがあるし、それもまもらなければならない。
(と、こんな例がふえてくるにちがいありません。)

それとおどろいたことのもうひとつ、新道が442で、ふるいほうのみちは、べつの呼称になってた。
なんか、じだいについてけないかんじ。笑。

ひめ。そうだった。そちらも同じような経験があったのね。
時代錯誤だと決めつけることは出来ないのかも知れん。誰かが仏さんを守って行かんといかん。でもさ、氏ってそんなに大事かねえ?

平成生まれの姪っ子を家の犠牲には出来んと思う。
つきあってる男の子かおるって。
長男だって、彼は。でも、姉と弟がいるって。
マスオさんになってくれないだろうか、と思わんでもないが、このおババからはよう言えん。

蝶なんですか。いや、長男ですか。
そこがうちの場合は問題だった。
姑はきっちりとした信仰をもち、長男はいえのあととり、と夫がまだちいさいときから諭してそだててきたようです。
うちのほうではそのころはまだ元気だった伯父が、えっとあれはなんといいますか、「ききづくろい」か、結婚する前に勤務先の上司にまであって、夫にはおとうとがいることをきいてきてくれた。(いもうと、おとうとがひとりづついた。)
それに自分たちはいえのことなんて、これっぽちも考えてなかったし、さきのことはさきになって考えよう、と楽観的なおもいでいっしょになった。
ところが、じょじょにイエがのしかかってくるようになりました。
せつめいするのもきがおもい。

きょう、ニュースで夫婦別姓を国はみとめよ、と裁判で争うというのをみました。
賛成反対おなじくらいでしたね。
じぶんがこうなるまでは同じ姓がいい、とおもっていた。
しかし、代々養子のいえに縁があって生まれ、どちらもまったくおなじ境遇の、長男長女同士だったら、どうしたらいいのでしょうか。
うじかばねはどうでもいい、というけれど、けっきょく、なにがきになるのかといえば、菩提の行方です。
家の犠牲、といういいかたは、してはいけないとおもいます。
そういういえにうまれたものの責任だとおもったほうがいいようにおもう。
むかしのひと、あるいは、おやのいけんは、傾聴すべきでありました。
ありましたねえ、ことわざが。
おやのいけんとなすびのはなは。まんにひとつのアダもない。

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コメント

菩提、とはなんていいこというのでしょう。
意味もわからんとにね、ほんなこつが。

イエが、まごこにのしかかるのであれば、それは、なにかをかえねばならないのだとおもうのよ、わたしは。ごせんぞさまは、決して、孫子がかなしむようなことはおのぞみではないはずだ。

むかし、こせきのしごとをしていたころ、日本国の戸籍法ってうまくできてるなあとおもってた。家族を夫婦単位でくくるやりかた、よくかんがえられてると信じてうたがわなかった。
いまは、ちがう。そうはおもわない。
夫婦別姓どころか、同性のパートナーが伴侶としてみとめられようとしているのだ。時代はかわった。時代がかわったのなら、戸籍法もみんぽうもかわるべきだ。そして、イエのありかたも、墓のていぎも、寺のありかたもかわるべきだとおもう。
うじをおなじくしない家族制度が市民権をえるとき、きっと寺も墓も変わるよ。かわらなきゃ。かわらなきゃ、やっぱり犠牲者と呼ぶにんげんがでるとおもう。

おしかりを覚悟でいうなら。
ニンゲンは死んだら無だよ。なーにものこらない。肉体がほろびたら、それでジエンドだとわたしはおもう。それでいい。それいじょう、なにをのぞむ?
たましいがあったとして。たましいは寡黙で寛大で。
しんだひとより、いまをいきるひとの都合をゆうせんさせても、お咎めにはならぬ。そうおもいたい。

》イエの犠牲になるとは考えてはならない。
うん、確かにそうだ。
家の犠牲になったと考えたら、被害者意識が生まれる。
そうじゃない。
被害者じゃない。
跡を継ぐには知恵と工夫が要る。知恵を出し、工夫をすればいい。それが出来る人だから、跡取りとして生まれた。それを自覚することが大事なのね。

うん。

せいちゃん、あのさ。
おてらのたてかえがあちこちであってる。
うちのおてらもたてかわったし(らっけいほうようをみとどけて、ごいんげさんはなくなられた)、すこしまえにみょうえいじもたてかわった。こないだいったくるめのおてらも工事中だった。
でも、あたらしいお堂も、やっぱりおんなじなので、まったく、なんというかな、つまんねえ!って、ほとけさんにはわるいけどさ、おもっちゃったよ。たてかわるいみがない。では、どうかわってほしかったのか。いすしきになってほしかった。としよりに正座はつらかろう。本堂をおもいきっていたばりにして、いすをならべる。・・こらこら、それは教会じゃん!このどあほう!!
と、こんなことをいうようでは、とても日本文化の継承はおぼつきません。文化はかたちだから。
とはいえ、かささぎ、あの寺院用のひくい座椅子は苦手なので、ちゃんとした椅子にすわりたい、いまの日本人は椅子でくらしている、それで、ネットでいす式のお堂をさがすと、あった。なんだあるんじゃん。ここ、なまえもおおよう、だいおうじ。↓
納骨堂のあるお寺、とかかれていますが、くるめの街中のお寺にも納骨堂があり、ロッカー式、二段仕様のがななじゅうごまん、だったかな、一段仕様ならよんじゅうごまん、だったっけ。きいた。たかい。のうそむらにくらべたら。でも、たぶん、そんなもんなんだろうね。てらだ、のうそむらは父たちの代から自主組織運営だけど、だんだん利用者がふえて、来年度から入会費を一気に三倍の15まんえんにするといってた。それでもやすいです。みなさん、おとくですよ。いらっしゃいいらっしゃい。ばしょは新442のすぐそばです。はっはっは。こらこら、こんなところでのうこつどうの宣伝をすんな。

おてらにはまだよめさんがこないし、おおっと、このいいかたは差別を助長する、ばってんほかにおもいつかんけん、ごめん、すいげつさんのことばでは、「ぼうもりさん」だった。僧侶のつまって重労働だからなあ。
きっとなにかを改善しないことにはいかんのじゃろう。
よめさんか。よそごとではありませぬ。うちにもふたりもいる、むすこが。
まずよめさんがきてくれんことには、まごもできん。
そうだ、どうしてもだめなときは、やめしのごえんあっせんしょにとうろくしよう。
いつも倫風をとどけてくださるかたのむすこさんは、そこでよめさんをみつけられました。とてもいいごえんだったそうで、うらやましいです。
(倫風は立正佼成会かな。ちがうな。早起き会だ。いぜん、整骨院ではたらいていたとき、中村先輩がもってきて、よませてくださっていました。それがなくなったら、ふしぎとまたとどけてくれるひとがあらわれた。きちんとよんでます)

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