無料ブログはココログ

« HACCP、出ました。 | トップページ | 医療費助成の対象とならない指定難病の患者を含む指定難病患者データベースを構築する »

2015年9月 2日 (水)

日光の星野源流氏、コメントまとめ

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-f2aa.html

へのコメントまとめです。
かみあっていない部分は、どうかごかんべん。
かささぎなりのことへのたちむかいかたです。

源流さん、しらべうたまるさんが連絡をとりたがっておられます。
こんどコメントなさるときに、メールアドレスをかいてもらえませんか。
コメント本文ではなく、

コメントを書く

のところの、にばんめ、

メールアドレス:(任意) (ウェブ上には掲載しません)

(この部分です。そうすれば、ネット上にさらされることはありません。)

コメント

カササギ様
ありがとうございます。足尾郷の星野氏が九州の星野氏と続くと思った第一の歴史遺物がこの佐野天明の(今現在も続く)鋳物氏に鑑定をお願いに上がった時です。
1、90センチ経の銅鍋(佐野天明製)他数こ
2、チヤガマ(利休)以前の湯釜(鋳物氏いわく)この湯釜が砂鉄で作られている。白く光っている。(40センチ経)ここから始まって九州芦屋釜が浮かんだのです。この記念館に尋ねたら今までに見たことがない。そうです
この時代九州に勢力のあった大内氏の元芦屋釜が
運営されておりました。
それがみごとに現存しておりました。時代が下がって数々の古伊万里の品品です。
その中に初期以前の(裏名窯山)大皿がまぎれていました。(肥前焼き記念館)に他の品を鑑定しこの大皿はムグッテしまいました。
そして田布施流秘伝書です。
私は大内領、山口県田布施町の田布施流と思っております。
そしてこの大内氏は朝廷と深く関わり、徳大寺、近衛氏と深くつながり
星野氏の歴史をインターネットで調べ九州の星野氏へ続いたのです。
たの歴史遺物もありますが長くなりますのでまた書き込みます。

源流さん、補足してくださり、ありがとうございます。
田布施は長州のだろうなとすぐ思いました。
これまであちこちブログ記事をのぞいてきたことと、つながるところが多々あります。
蔵を見学したいものです。

うたまるさんが日光にいかれるそうですが

うたまるさんが同族代表で源流さまの蔵をみてこられたらなあ。
と、ひとり、おもいました。
確か今週末に行かれるご用がおありとか。
日光ならまさに!と思ったのでした。

芦屋釜とは?
調べてみた。
👇

カササギ様
ウタマル様は調さんですか?日光へ来られる?
お互いに連絡方法があるとよいのですが
このブログ上に私の電話番号を公開するのはちょっと抵抗があります。
写真等送れる方法もあると思いますが考えていただけないですか?
歴史遺物も九州につながるものが他にあります。九州、足尾、新潟とつながつたわけですから良い連絡方法を探しましよう。

源流さん、ありがとうございます。
調うたまるさんは連句に何度か入って下さいました。
ですから俳号で呼びますが、星野大円寺の資料館にある系図にお名前があると言ってありました。
私たちがまだ知らない家に伝わる口伝の類いも、同族でいらっしゃるなら、話しやすいことでしょう。
資料をみて、新しい展開があるとすれば、歴史の空白が埋まります。
連絡は源流さまのメールアドレスをコメント欄の、メールアドレス記入欄に書かれて下さい。かささぎの旗の編集人にしか、見えないようになっています。
それを、調さんへ取次ぎます。
調さんがなぜ日光へ行かれるのかを知りませんが、先月は高野山で雅楽奏上なさったと書かれていましたし、もしや、その雅楽奏上の旅であるのかもしれません。
とりあえず、よろしくお願い申し上げます。
かささぎも、ゆっくり時間かけてあちこち旅ができる身空になりたいものです。笑

まだあれから源流さまのブログに行けていませんが、
私はこないだの訪問で、日光東照宮に家康以前の歴史があったことを知り、びっくりしました。
東照宮といえば、家康を祀る廟とばかり思い込んでいました。
なにも知らないといっても過言ではありません。
ですから、興味しんしんです。
星野金山と足尾銅山、どっちが古いのですか。
あの女性研究家の、じぶとくら、注文したのですが、まだ来ません。。。

カササギ様
本を書かれた方と一緒に星野治部左衛門を探し研究していました。時代が食い違ってしまいました。私は彼女には非常に感謝しており彼女の本があつたおかげで星野治部左衛門が完結したのです。
手前味噌ですが私のブログがすべてを語っています。一番古いものから読んでください。

そうでしたか。

あすは休めますので、ゆっくり伺います。

記事の見出しだけあるのが、すごく気になり、よみたくなりますね。

カササギ様
忙しいところありがとうございます。
星野親忠、が星野治部左衛門である。という
ポイントが2こあります。
1、桐生仁田山城に里見氏が居住しているその子供が上杉謙信に人質として預けていましたもちろんこの地は上杉謙信領域であかがね街道の出口です。この仁田山城が落城してしまいます。
そのおおえん仇打ちに預けられた子供2名が仁田
山城を取り戻しに来て帰りうちに(今もいい伝えがあり、売店で里見饅頭が売られています、)
、その地に星野治部左衛門の孫の蔵人が弔いを兼ねあかがね街道出口を守りに下った。その星野蔵人の末裔の方ともお会いしております。(彼女の本に登場します。)

実は、源流ブログを読みつつ、あちこち調べていました。
ダウジングと質問することとは似ている、という記事を開いてついつい読んでると、画面がブチ切れ、暗転してしまいました。まだパソコンは起動せず。
携帯から入力しています、

不思議だと感じた、
三十三間堂通し矢物語、星野勘座えもん字がちがうか、長谷川一夫にやらせて、成瀬巳喜男という人は、敗戦直前に時代劇映画を撮っている。
これが私はみたい。
星野氏の熱田流の一派らしい。
星野氏はすごいなあ。

すみません、いつも、遠くからものを投げるような受け答えをしまして。

ほしのじぶざえもん、という名前は
ほしのかんざえもん、に似ている。

パソコン、復旧しました。
昭和20年6がつの映画、「三十三間堂通し矢物語」のサイトをかささぎの名前にはりつけておきます↓。
きっとふかい意味があるようにかんずるので。

以下を星野氏のサイトの、筑後の星野氏から転載します。足尾銅山の開拓者としてあらわれる星野氏をよむまえに。

 中世、星野村を中心に威を振るった星野氏は、その祖を星野胤実と称し黒木助能の猶子で、京都に生まれた
    という。嘉禄二年(1226年)、京都から当村に来たと伝え、本拠を本星野に置き、天正年間(1573~92)末まで
    勢力を誇った。(『角川日本地名大辞典』より)     
    胤実は源助能(黒木大蔵大輔源助能)の猶子で、徳大寺実定の子と伝えられており、黒木氏(黒木助能)は
    多田行綱の子と伝承されて来ているが、最近の研究の醍醐源氏有明親王の後胤源高能五代説が有力と思われる。
    《以下、黒木町史より》「黒木氏の祖先は京都御所を守る武士であったが助能の四代前の源高能が朱雀天皇の
    命により、太宰府を焼き払った賊、藤原純友を四国へ追い払った先祖の功により大隅国根占城主となると伝えられて
    いる。高能の代から京都在住の徳大寺家とは親交のある関係から、瀬高庄の紛争解決とその後の監督、支配の為、
    父能永と黒木庄に移ったのである。その年代は史料や系譜によって一致しないが、『根占文書(九州史料刊行会編、
    『九州史料叢書』)』と『大根占町誌』により仁安元年(1166年)頃と推定される。」
     
    『九州治乱記(北肥戦誌)』に、「黒木山の城に蔵人源助善(能)という者あり、其の先は薩摩の根占の蔵人とも
    申しけり、歌よみにて笛の上手なり。」とあり、高倉院の御宇、源助能が大番役にて上洛した折りの内裏での管絃
    の御遊に、助能の笛の器量を兼ねてから良く知っていた徳大寺左大臣實定卿の勧めにより笛を奏で、帝の叡感に
    預かり調(しらべ)の姓と従五位下を賜った旨が記されている。又、「蔵人助善(能)、元来高倉院北面の侍なり。
    六位を歴、歌人にて、異名にやさ蔵人と云う。」との記述がある。※助善を或いは助能と記されている。
    別史料(『樋口宗保覚書』‐1669年、『北筑雑藁』‐1675年)などには、後鳥羽院の御宇とあり、「懐胎せし官女
    小侍従を賜る」ともある。 ※黒木山の城→猫尾城
      
     胤実は童名を八郎丸といい京都樋口小路に産まれ、小侍従の家と由緒あった樋口次郎太郎藤原実安が元服
    させ、その後、後堀川帝より星野を拝領あって星野へ下向し、黒木の小侍従と母子の対面を成し、助能の猶子と
    なり、これより黒木氏、星野氏は調(しらべ)党と号すことになり次第に繁栄する。(『樋口宗保覚書』より)      
    ※樋口氏と小侍従の家との由緒とあるが、樋口氏と徳大寺家との由縁もあるものと思われる。
      
    『太宰管内志』に収載されている星野氏の事跡を辿ってみると、「多田蔵人行綱の子大蔵大輔源助能、云云。
    助能の子に川崎三郎貞宗、次に星野中務大輔胤実、次が女子で、次が黒木四郎定善。胤実は星野氏の鼻祖で
    幼名を八郎丸と云う。母者は待宵ノ小侍従といって、京都樋口小路の産まれで徳大寺実定卿の子か、或いは
    後鳥羽院の皇子にして実定卿に託して子と成したとか。」とある。
     ※徳大寺実定(後徳大寺左大臣)→藤原北家閑院流公実の曾孫、保延5年(1139年)~建久2年(1192年)      
      
     続いて『太宰管内志』に【堀川院の時胤実は筑後国星野を賜り、嘉禄二年十一月星野に館を構えて本星野に
    居る。且つ星野山中に内城高岩城を築き、其の後子孫は繁栄し生葉・竹野両群を領してゆく。家紋は〔亀甲藤丸〕
    とす。八郎丸は長じて胤実と名乗り常陸介・中務大輔を称す。胤実には二子があり、長を鎮実と云い右近大夫と
    称す。本星野館に居り、後、延壽寺村に福丸城を築き移って福益館に居る。次を実隆と云い、樋口次郎太郎実安
    の養子となる、三郎二郎越前守と称す。兄の譲を受けて本星野館に居る又十籠館とも云う。鎮実の子星野民部
    大輔鎮能、其の子星野宮内小輔鎮行、其の子星野八郎元行、其の子星野志摩守元実、其の子星野民部大輔
    元親、其の子星野下總守親実、其の子星野志摩守鎮忠、其の子星野中務大輔鎮種、鷹取城に居る。
    鎮種の子星野下總守実世は福丸城に居る。実世の子星野伯耆守職泰福丸城に居る。職泰の子伯耆守元康は
    本星野館に居る。次に樋口実房、元康の子星野下野守鎮康は石垣邑中山城を築く。鎮康の子星野中務大輔
    吉實、次に星野右衛門太夫重実、吉實は福丸城に居り生葉群三十二村竹野群東郷五百町を領す。星野中務大輔
    吉實は戦国時代の人で、この頃豊後の大友氏と肥前の龍造寺氏と常に争って戦乱が止むことがなかった。
    吉實自立していずれにも偏せず。龍造寺隆信が黒木に侵入するや、星野氏黒木氏同盟して猫尾城を守る。
    大友氏は偽って竹尾外記なるものを猫尾城に入れ、奸計をもって吉實を殺す。この後黒木氏は龍造寺氏に属す。
    常陸介親忠跡を嗣ぎ、驍勇を以て名がある。天文元年大友義鑑の兵が来攻する時、妙見城を守りて天文三年
    (1535年)九月十三日に死す。その子伯耆守正実は福丸城に在ったが、大友勢に攻められて周防(山口県東部)に逃る。
    この後星野氏は大友氏に属し、右衛門太夫重実は、大生寺村立石城の門注所氏を逐ってその跡に住む。重実死する後
    福丸城に高実がいたが、大友氏の命により蒲池氏の鎮泰(母は星野氏の娘)を養子に入れて星野氏を嗣ぎ白石
    城に居る、後福丸に移り肥後勝山にて戦死する。右衛門大夫鎮虎は、白石城に居たが龍造寺氏に襲われて、
    豊後に奔り、弟鎮胤(吉実)は初め福丸城その後高取(鷹取)城に居たが、やがて島津義久に属し、天正十四年
    (1586年)八月二十五日筑前高鳥居にて討死、次の弟鎮元(吉兼) も同じく戦死する】とある。
 
     高鳥居山(たかとりいやま)は若杉山山脚の西に続く草山也。往昔若杉太祖宮二之鳥居の建つ所に因んで、
    地名と為す、俚俗 は竹城と呼ぶ。蓋し小笹族生ずるを以て也。海抜三百八十一米東方は若杉に、南方は上須恵
    に、西方は須恵に突属し、山上に高鳥居城址在り。若杉山の渓より引水を為す溝渠有り、十間戸樋と云う。これは
    古え城中之用水を引く所也。東方の第一峰を飯焼と云い、最西方を草城と云う。九州探題北条貞時之臣、河津氏
    が初めて高鳥居に築城するが北条氏滅亡より宗像大宮司の持城となりその後様々な氏が城主となるが天正二年
    冬よりは空城となる。天正十四年筑後高取(鷹取)城主星野中務大輔吉実、星野民部少輔吉兼、島津氏の催促に
    応じ八百人を率い筑後を発し、岩屋根城を攻略し、筑前高鳥居城に入り、直ちに城櫓を修し、守備を厳にす。
    八月十六日秀吉の先手が長門を発して豊柳ヶ浦に押し渡り、島津勢は陣払いを為して引退す。八月二十五日、
    立花勢は進んで高鳥居城を囲む。初めより星野吉実、吉兼、高鳥居城を守りて生還を期さず。其の子、長虎丸を
    使しめて、筑後に帰す。吉実主従自ら殉節を為し、草城十五詠を作り、辞世とする。(「竹城址蹟碑文」より)
     ※星野吉実、星野吉兼、主従は武士としての道を貫く為に、武士の本懐を遂げる為に死んで行った。撤退して
     星野に戻り領民を巻き込み無駄に故郷を血に染めたくはなかった、義のために命を捧げた。武士とは義の為に
     自己を犠牲に出来る人の事を言うのかもしれない。

>この星野治部左衛門と云う名前は近衛氏にいただいたのです。そして朝廷に指名されたことになります。これにつながる歴史遺物があります。
この二代目は隼人親政が星野治部左衛門となります。そして星野久之じようの子供となります。これで一族一統です。

日光山御領地 足尾鉱山
朝廷、近衛氏、大内氏、上杉氏、星野氏
は日光山のたから物として守ってこられたのです。
これは後にすごい力になりました。
そしてこの地は特別なものとしてされておりました。
日光山輪王寺が皇室のものとなり代だい続いてゆくのです。 」

源流さんのブログより

カササギ様
丁寧な説明と提示ありがとうございます。
私も一とうり勉強させてもらいました。
(インターネット上)
星野氏、星野氏の歴史
(出販本、上)
越後相川城の歴史、新人物往来社、
あえて人名はだしません。(インターネット上に日光山星野氏で2へイジに出ます)
星野親忠氏の九州脱出劇が見られる。
私は歴史上の議論は歴史家にまかせます。
私の手もとにあるものを取り上げ、自分なりに勉強し表現し、納得し書くのです。
ウタマル様は?
また交信します。

ありがとうございます!
なるほど、たしかにそうですよね。

わたしは本を出版元にたのんで2週間たっても、うんともすんともいってこないので、アマゾンにたのみなおしたしだいです。

うたまるさん。そうだった。つい連絡をとりそこねました。源流様がメールアドレスをおしえてくださらなかったので。これ、かんがえなおしてみます。

台風がいってしまったら、またあつくなりました。
賢順コンクールの優勝者が演奏した曲目の作曲家、伊福部昭についてしらべていると、たちまち日光にひきもどされました。
日光、にっこう、にっこう。
ああ、まだなんにもしていません。ごめんなさい。

こんな文章がのっています。↓

 ぼくには思い込むところがあって、「とにかくこういう先生につかなきゃ」と一途に思ったわけですよね、そのとき。それで二回目の授業のときに、先生につきたいから自宅へ行きたいといったら「私は日光に住んでます。日光まで来るのたいへんです」。
 ぼくは学校の総代とかいう世話役をやっていたんで、授業が終わってから学友会の仕事をして、夕方、浅草から東武電車に乗った。そのときは雪が降ってきて、当時の電車は電灯がつかなくて真っ暗なんですよ。窓という窓はガラスが一枚もない、板が張ってあったりして。それで日光へ着いたんですよね。着いたら真っ暗。大体、道を教わっていたんだけれども、山の中を手探りなんですよ。ポチッと光りが見えたんです。それ以外、光りがないから、そこだろうと思って・・・・・・。コンコンとドアをたたいたら、奥さんが出てきて先生が出てきて・・・・・・三日三晩泊り込んだんです。伊福部さんは自分の昔の「交響譚詩」だとかいろいろな作品のスコアを見せてピアノを弾いた。当時、食糧事情の非常に悪いときで、奥さんが苦労しておイモやなんかで今川焼みたいなのをつくって下さった。三日間も不意の来客で、さぞご迷惑だったろうと思うんですけれども。学校なんかすっぽらかしちゃって。

(「芥川也寸志 その芸術と行動」東京新聞出版局 収録“芥川也寸志、芥川也寸志を語る”より抜粋)

源流さんには申し訳ないのですが、わたしのなかではずらずらっとつながっているので、寄り道をおゆるしください。なにしろ、ふりかかってくるのです。あちらから。

伊福部昭の自伝、北の賦、ここで一気によみます。笑。
おもしろいことに、このいふくべ、という家は、鳥取の大黒天の代々続く名家の66代目で北海道へ渡っている家なんですね。それはなぜなのかが第一回目にかかれている。ふうん。
こないだの黒木瞳の父方の樋口家も金山で尾羽打ち枯らして北海道へわたった、というのがありました。なるほどです。

きのうからよみはじめました。
「足尾銅山発見の謎」
とてもおもしろいです。
わくわくします。
三分の一よみました。
とちゅう、やまもとけんきちがでてきたのにびっくり。
59頁末。
写真がたくさん掲載されていて、星野本家の、いかにも旧家という一枚は風格をかんじます。どくとくな庭木の刈り込み方、おだんごをかさねたような。(あれはひょっとして、石?)
また、表紙写真の、かさとばとごりんのとうのでかいこと。こんなにおおきいのははじめてみました。
二メートル以上もあるなんて。

ことし一月末、国東のふきじ(富貴寺)でみたかさとばは、五輪塔と合体したようなかたちで、あれは、くにさき塔となづけられていたっけが。古い時代のものでした。(たしか室町期)
かささぎの名前をクリックしたら、写真が出ます。

« HACCP、出ました。 | トップページ | 医療費助成の対象とならない指定難病の患者を含む指定難病患者データベースを構築する »

コメント

佐野がでたので、いまいちばんホットな話題を。
まねた、ぬすんだ。と、わるくいいますが。
それは、べつの次元の話ではないのか。
世論におされてずるずる後退するのはおかしい。
たとえば、あおきしげるの海の幸でも、
レーピンの絵ぼるがのふなひきをしたにしいている。(とかささぎはおもった)
まねしたまねした!とさわいだとて、べつのところで、きちんときれいにたっているじゃないか。
こんなことをやっていたら、収拾がつかないのでは。

高崎経済大学の論文に、こんなものがありました。
源流さまの一族でしょうか。
👇

エメさんブログでたまたまの、銅山発掘!
👇
和銅、ていう年号がついた理由、なーんだろ。
きのうは一日古田武彦関連ブログをさまよっていた。
おもしろい。

おひる、食堂でみたテレビに芦屋釜、出ました!

「イスラエルと田布施町の怪」↓
をよんでいったら、たちまち源流さんへとひきもどされました。
源流さん、そういえば、ずっとききたかったことがあります。
「田布施流秘伝書」って、なんのことですか?
よくわからない。いや、まるきりわからない。
きちんとおしえてくださいませんか。

そういえば、いろんなことがつながっている。
もりもりもりやまさんの句集に書かれていたたくさんの句にも、それらはあった!
いったいぜんたい、これはなに。

火繩銃田布施流秘伝書、星野家に伝わった古文書
現代の仕様書ですがその中には先生と弟子そして立会人が3名出てきます。それは田布施流の鉄ぽうしか使えません。銃、火薬、弾、的、を細かく教えています。その他使用者の精神まで教えています。初歩、使用認定、免許皆伝、の三部
そして鉄ぽうを手に入れた経過が書かております。そして秘伝書を他人に見せてはいけない口伝にしなさい。見せたら災いがある。と書かれているそうです。
年記は1612年たしか、今までの鉄ぽう伝来の歴史とは違っております。
大変と遅くなって『実はブログを見落として』申し訳けありません。
この火繩銃田布施流秘伝書は発見されておりません。
国博の先生が鑑定済みです。申し訳けありませんでした。

ちょっと待ってください
源流ブログにまいります
仕事、終わっていきます

と。
よしこ先生のヒカルランドの新刊と、底流でつながるか

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 日光の星野源流氏、コメントまとめ:

« HACCP、出ました。 | トップページ | 医療費助成の対象とならない指定難病の患者を含む指定難病患者データベースを構築する »

最近のトラックバック

2020年2月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29