無料ブログはココログ

« 送電塔のある風景 | トップページ | コズミック・フロント☆NEXT »

2015年7月18日 (土)

伊福部昭の二十五絃箏曲《琵琶行》~白居易ノ興ニ傚フ

伊福部昭(写真提供:NHK)

ゴジラの作曲家・伊福部昭が85歳の1999年につくったのが、

若手箏曲演奏家・松下知代の2014年 第21回 賢順記念くるめ全国箏曲コンクール第1位賢順賞受賞曲。
曲目 二十五絃箏曲《琵琶行》~白居易ノ興ニ傚フ~

作曲家いふくべあきら、その人生のハイライトをウィキから、

1935年(昭和10年)、21歳。
大学を卒業後、北海道庁地方林課の厚岸森林事務所に勤務[10]
アメリカの指揮者フェビアン・セヴィツキー(クーセヴィツキーの甥)の依頼により『日本狂詩曲』(当初全3楽章)を作曲し、ボストンへ送る[12]

同年、パリでアレクサンドル・チェレプニン賞が催されると、審査員の中にモーリス・ラヴェルの名を見つけ、ラヴェルに見てもらいたいという一心で[要出典]、『日本狂詩曲』を賞の規定に合わせ第1楽章「じょんがら舞曲」をカットして応募する。結局ラヴェルは病気のため審査員を降りたが、チェレプニンを初めジャック・イベールアルベール・ルーセルといったフランス近代音楽を代表する作曲家たちが審査にあたった。このコンクールは日本人に対して開かれたコンクールだが、審査会場はパリであった[13]

パリへ楽譜を送る際、東京からまとめて送る規定になっていたため伊福部の楽譜も東京へ届けられたが、東京の音楽関係者はその楽譜を見て、

  1. 平行五度などの西洋音楽の和声の禁則を無視し、その場の日本人にとって下衆(ゲス)に見えた日本の伝統音楽のような節回しが多いこと
  2. 当時としては極端な大編成である編入楽器多数の(打楽器奏者だけで9人を要する)三管編成オーケストラが要求されていたこと
  3. 北海道の厚岸町から応募してきたこと

との理由から、相当の驚きと困惑があったと言う[14]。とくに1.の理由により「正統的な西洋音楽を学んできた日本の中央楽壇にとって恥だから、伊福部の曲を応募からはずしてしまおう」という意見も出たが、大木正夫の「審査をするのは東京の我々(その場にいた日本人)ではなくパリの面々だし、応募規程を満たしているのに審査をはずす理由もなく、せっかく応募してきたのだから」という意見が通り、伊福部の曲も無事パリの審査会場へ届けられた[14]

結果は伊福部が第1位に入賞し、世界的評価を得ることとなった[14]

さて、この人が松下知代さんです。

酔芙蓉の花のような女性ですね。

17日にテレビではじめてその演奏をみたのですが、圧倒されました。
音もですが、二十五絃箏を奏でられるときのすがたに。
二十五絃箏は、西洋楽器のハープを寝せたような姿をしていて、曲をひきこなすには、中腰にならねばならないところがあるのです。おおおお!と、びっくりいたします。
とても優雅な、おっとりとした物腰の女性でした。
御幼少のみぎりから(三歳から)ずうっとお琴とともに寝食があったというような、そんな神秘性がこのおかたにはあります。

松下知代その華麗な経歴:http://kurumenmon.com/zendouji/kenjyunsai/linklist.html

賢順コンクールは、かささぎの旗の過去ログにあります。
現在開催中の青木繁賞美術展とタイアップの、石橋文化ホールミニコンサートにも出演予定がおありのようです。

ききにいきたい。

動画をさがしたけれど、ありません。

曲自体はここできけます。http://www.mp3you.eu/m/v.php?id=J6JsAgXkQL

野坂恵子さんの音です。ぎゅうっと胸にきますね。

« 送電塔のある風景 | トップページ | コズミック・フロント☆NEXT »

コメント

追伸

伊福部昭、誕生からゴジラまでの経歴


1914年5月31日北海道釧路幣舞町にて父利三、母キワの三男として生まれる。
伊福部家は大己貴命(オオナムチ=大国主(オオクニヌシ〉=(大黒天))を宗祖する因幡の古代豪族であり、武内宿禰(たけのうちのすくね)を祭る、因幡國一の宮・宇部神社の神官を明治維新に至るまで代々務めてきた。伊福部家は昭の代で67代続く家系である。

1923年夏、9歳の時、父利三が官選村長として音更村村長に就任(任期は3期12年に及んだ)したのを機に家族と共に音更に移り、音更尋常小学校4年に編入した。
音更ではアイヌと親しく交流するようになり、この時接したアイヌの歌や踊りをはじめとする伝承芸能、各地から集まる開拓者が歌う様々な民謡により自身の音楽の原体験を得、特にアイヌの叙事音楽「シノッチャ」からは生涯忘れえない深い感銘を受け、同時にその後の作曲家としての人生に決定的影響を与えたという。
この頃よりヴァイオリンやギターを独習しはじめる。

13歳の頃から作曲を独学で勉強するようになり、1933年「ピアノ組曲」を作曲(1938年、ヴェネチア国際現代音楽祭に入選)。

1934年、三浦淳史(後の音楽評論家)、早坂文雄(後の作曲家)らと「新音楽連盟」を結成。

猶、三浦淳史とは札幌二中(現 札幌西高)在学中に出会い、作曲を勧められ、密かに作品の創作を始めたという。伊福部は三浦のことを称して、「(自分を〉作曲と言う地獄に陥れたメフィストフェレスである」と揶揄する。

又、同じく札幌二中時代には、同級の船山馨(後の作家)、一級上の佐藤忠良(後の彫刻家)と出会い、共に絵画クラブ「めばえ会」属し展覧会などを行い、伊福部は主に静物画を描いていたという。
後の伊福部の言では、作曲家にならなければ絵描きになっていた、とも言い、独特のイラストレーションの才能はこの頃養われていたものであろう。

同年9月30日、新音楽連盟主催「国際現代音楽祭1934」を開催。
自身もヴァイオリンを演奏し、この演奏会で、エリック・サティ作曲「右と左に見えるもの(眼鏡無しに)」、「3つのグノッシェンヌ」、「気取りやの気むずかし屋の3つの特異的ヴァルス」、「新婚者の起床」

エルヴィン・シュルホフ作曲「無伴奏ヴァイオリンソナタ」
ルイ・グリュンベルク「弦楽四重奏のための4つのインディスクレーション」
アルフレッド・カセルラ「弦楽四重奏のための5つの小品」

ピエール・オクターブ・フェルー「ノンシャラント(組曲モンソウ公園にて第3番)」が日本初演される。

1935年、北海道帝国大学農学部林学実科を卒業後、帝室林野管理局森林官吏となり、地方林務官として厚岸の森林事務所へ調査造林係補助・作業助手として配属される。

同年、チェレプニン作曲コンクールに応募した初の管弦楽作品「日本狂詩曲」がパリにおいて審査員アルベール・ルーセル、アレクサンドル・タンスマン、アンリ・ジル=マルシェ、アンリ・プリュニエール、ジャック・イベール、ティボール・ハルシャニー、ピエール・オクターブ・フェルーらの満場一致を得て第一位入賞。

翌1936年、ボストンにおいてフェビアン・セビツキー指揮、ピープルス交響管弦楽団により「日本狂詩曲」が初演される。
同年7月、来日中のアレクサンドル・チェレプニンを訪ね、横浜にて約一ヶ月間作曲法・管弦楽法のレッスンを受ける。

その後引き続き森林官として厚岸で生活を送り、1937年「土俗的三連画」を作曲。

1940年、林務官を辞し札幌において北大演習林事務所、45年からは札幌豊平の帝室林野局林業試験場に勤務する。


この間、委嘱に応じ作品を発表し1943年には「交響譚詩―亡兄に捧ぐ―」が日本ビクター主催第二回管弦楽曲懸賞に第一位入選。
同曲を収録したSPレコードには文部大臣賞が授与される。

1946年、栃木県日光・久次良に住まいを移す。9月、校長の小宮豊隆の求めに応じ、東京音楽学校(現・東京藝術大学)作曲科講師に就任。以後1953年まで務める。


1947年、東京都世田谷区に移る。映画「銀嶺の果て」(谷口千吉監督作品)より映画音楽を手掛け、音楽担当作品数は300本を越える。

1952年、前年作曲の「ヴァイオリンと管弦楽のための狂詩曲」がジェノヴァ第2回国際作曲コンクールに入選する。

1954年、生涯の代表作と言える、「タプカーラ交響曲(シンフォニア・タプカーラ)」(79年に改訂版を発表)を作曲。また、映画「ゴジラ」の音楽を手がける。

(この昭和29年はかささぎの生まれた年です。)

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 伊福部昭の二十五絃箏曲《琵琶行》~白居易ノ興ニ傚フ:

« 送電塔のある風景 | トップページ | コズミック・フロント☆NEXT »

最近のトラックバック

2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31