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2015年6月28日 (日)

鉄砲伝来、日本の歴史がかわる!星野源流氏の史料から

しらべさんからの手紙1についた源流さんのコメント、そこでご紹介があった、ご自身のブログ記事を、いま、拝読しておる途中です。まだ全部をよめていません。

(すみません、なにしろかささぎは貧乏な鳥で、しじゅういそがしくて、ゆっくり思いをめぐらすことができません。ですから、思いついたことを思いついた時にメモする式でいくしかできません。)

「足尾郷から日本の歴史の重大な1ページがかわる??火縄銃伝来1543年が1541年に、、? 」という見出しの源流記事を、もっと大きな文字でここにご紹介いたしますね。

そのまえに、確認しておきましょうか。
「鉄砲伝来はいつ?」

定説は1543みたいですね。
こんなおもしろい記事にぶつかったので、ついでにさくさくっとよみます。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1488322814

↑の回答を採録しておきます。回答者の方、どなたか存じませんがかたじけない。

>種子島への鉄砲伝来は、セールスで来たのではありません。
ポルトガル人が乗っていた倭寇の船が難破してたまたま種子島に流れ着き、たまたま持っていた銃を披露したものです。

銃そのものは早いうちに国産化されたので、商品としての価値は暴落しました。
しかし、銃には火薬が必要で、火薬のない銃はただの鉄パイプです。
火薬も国産化が図られましたが、原料の硝石を国内で産出する技術はかなり遅れて、戦国末期になりました。
日本で銃が普及すればするほど、硝石を売りつけることが可能です。
銃を保持する限り、硝石は買い続けなければならないというジレンマが日本にはありました。
糞尿を干して硝石が採れるといいますが、もっと効率のよい入手手段が確立するまでは、貿易を通じて買い続けるしかありませんでした。
これはポルトガルにはおいしい商品だったのですよ。

補足
1400年代にヨーロッパで手持ちの銃は開発されています。
標的には当たらないが、とにかく弾丸が前方には飛ぶ「砲」なら、それ以前に中国やヨーロッパでそれぞれ生まれています。
手で持てる手軽さと狙った標的にあたる正確さを備えた「銃」は100年ほどかけて火縄銃に進化しました。(引用終り)

さて、つぎに、星野源流氏(日光)のブログ記事です。必見!
引用元;http://blogs.yahoo.co.jp/genryuu11/63802361.html

(引用元には実物史料とおぼしき写真が掲載されています。)

足尾郷に入った星野治部左衛門一家の田布施流砲士達の田布施流秘伝書の中に
(日本の鉄砲伝来記、1543年南蛮人により種子島へ、)伝来をくつがえす記載がありました。
1618年にかかれた伝書、答海書
それによると天文十年1541年鉄砲を持ち帰る
歴史の中では1543年種子島へです。
2年も早く日本の国へ入ったことになります。
さらに種子島、手久により南蛮へ向いと
あり、種子島は南蛮と貿易でもしていた
と?
天文六年四月三日に南蛮へ向いとあります。
この記載については近いうちにまた取り上げたいと思います。
 

▽人物

ほしのじぶざえもん

http://www.zuisousha.co.jp/book6/978-4-88748-196-1.html

 足尾銅山発見の謎

 「治部と内蔵」の真相をもとめて

 池野 亮子

 足尾銅山草創期の歴史の闇に挑む!!
 足尾銅山の始まりについては「慶長15年(1610)に備前の国の農民、治部と内蔵によって発見された」と伝えられている。今回、その一人・治部の墓が見つかった。足尾町中才墓地の笠塔婆に刻まれた戒名・没年月日と、赤沢本妙寺所蔵の過去帳に記された星野治部左衛門のそれがピタリと一致した。発見された墓を手がかりに、中世から近世にいたる足尾銅山を取り巻く歴史の真相を探る意欲作!!

 「足尾銅山発見者」の墓を確定!!
 足尾銅山発見者の「治部の墓」が選鉱場の叢の中にあると知ったとき、本当にいた人物だったのかと思った。そして、ある墓からついに驚くべき事実が判明していった。今回判明したことは、中才墓地の五輪塔は座禅院時代の「星野治部左衛門」のものであり、笠塔婆は輪王寺時代の足尾郷代官その人のものだったということである。(本文より)


 四六判/上製/248頁/定価 本体1500円+税
 ISBN 978-4-88748-196-1



著者プロフィール 

池野 亮子(いけの  りょうこ)

池野亮子(いけの あきこ)
昭和27年、栃木県日光市足尾町に生まれる。
千葉県習志野市の東邦大学附属中学・高校から、埼玉県越谷市の立正女子大学教育学部(現・文教大学)へ進む。
平成14年、足尾町教育委員会主催の「ふるさとあしお歴史セミナー」を受講。ふるさとあしお歴史セミナー自主研究会で「足尾銅山百選産業遺産保存活用の手引き」作成。
足尾歴史館立ち上げに尽力、ボランティアガイドを務める。
現在、聖徳大学短期大学部通信教育部司書課程在籍。NPO法人足尾に緑を育てる会の事務局を手伝いながら、近世を含めた郷土史研究として足尾の歴史研究に励む。

  目 次

第一章 知られざる墓石

    1 治部の墓はどこに
    2 中才墓地の五輪塔と笠塔婆
    3 星野家子孫との出会い
    4 輪王寺文書と出会う
    5 本妙寺の過去帳
    6 浮かび上がった星野治部左衛門

第二章 五輪塔を取り巻く謎

    1 中才墓地の五輪塔
    2 足尾銅山の歴史
    3 中国地方と足尾の山先人
    4 墓の移動の経緯
    5 中才墓地で考える

第三章 足尾銅山と星野治部左衛門

    1 日光山輪王寺文書
    2 判明した「星野治部左衛門」の身分
    3 輪王寺文書から見えてきたもの
    4 輪王寺文書の「足尾銅山草創書」
      足尾銅山の歴史を記述/複雑な日光山統括の歴史/二人の山先人が遺したもの
    5 星野治部左衛門邸の住居判明
      大きな区域を占める代官屋敷/日光銭座も取り仕切った治部左衛門/治部左衛門邸は現在の通洞あたり
    6 星野治部左衛門家系図
      川内村下仁田山の星野家/足尾に残った星野本家/川内町星野家の人々/五〇基の五輪塔が秘めたもの

第四章 足尾五姓のルーツを探る

    1 足尾五姓のたどった道
      足尾五姓はいつごろ来たのか/峠越えを余儀なくされた足尾/一四世紀の戦乱期に移住
    2 齋藤氏――南北朝争乱で足尾に移住
      南朝方に荷担した齋藤氏/下野の武将たちに仕える/齋藤氏が臣従した佐野氏/銅山奉行を足尾に派遣
    3 神山氏――安達・高橋一族と結合か
      新田義貞の挙兵に参加/戦国期には佐野氏に仕える/現代へと繋がる神山姓
    4 星野氏――カギを握る桐生仁田山城
      近世足尾と星野治部左衛門/五〇基の五輪塔の謎/星野家の家紋

第五章 深い絆で結ばれる日光山と足尾

    1 日光山の変遷と足尾
      光明院と座禅院/豊臣秀吉の日光山処分/座禅院座主・昌尊の策謀/天海の来山と座禅院廃絶
    2 天海大僧正と日光目代山口忠兵衛
      黒衣の宰相・天海と目代・山口忠兵衛/天海により復興した日光山/知られざる日光を訪ねて
    3 星野治部左衛門の時代の足尾銅山
      銅山の隆盛と宿の繁栄/天災・飢饉と銅山の衰退/日光目代・山口新左衛門の罷免
    4 善女神谷が結ぶ日光と足尾
      日光山善如寺から一五両を借用/各谷ごとに区分けされた坊舎/善女寺は「善女神谷」にある寺の総称

第六章 移動された墓をめぐって

    1 本妙寺と大圓寺そして蓮慶寺
      渋川をはさんだ宿の繁栄/本妙寺の過去帳が語るもの/銅山の盛衰に左右された足尾/
      名門銅山師・田中一族が眠る/吉田氏の五輪塔が建つ蓮慶寺
    2 五輪塔の人物
      中才墓地の五輪塔と笠塔婆は語る/六人の星野治部左衛門/さまざまな五輪塔
    3 「開闢の来由」碑の行方
      伝わり方の微妙な変化/すべては「足尾銅山草創書」から
    4 石碑に刻まれた文字
      大圓寺跡地の石碑/輪王寺宮就任に建立された石塔の碑文の意味/笠塔婆と石塔を見守る楢の老木

    あとがき

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コメント

かささぎさん。

ひさしぶりです。

字が小さいと源流さんを批評しながら、かささぎさんのほうがもっと小さいじゃないですか。
拡大しなければよめませんよ。

きちきちさん。おひさ!

ではもうしわけないですが、かくだいしてくだされ。

武器商人はもうかるのですね。
ここにつながっていきます。
まさにいまのにほんとおなじ。↓

きのう、縁があって、「今いちばん受けたい授業」(どこかできいたタイトルね)を受けました。
場所は城島のインガットホール。

「いんがっと」とは、「もっとっと」とおなじような意味の筑後弁で、IN GOD WE TRUSTとも響きあうナイスな名づけです。
そこへ行ったのは、此れで二度目。
図書館に本をさがしにいったことが以前、ありました。

はじまるまで時間があり、やはり図書館にいきました。そこで、ぽぽなさんが連載している俳壇誌をさがしてみましたが、みつけることができませんでした。
ふと、新潮45という月刊誌が目にとまる。
そのなかの、平山周吉という人が書いた長文の「天皇皇后両陛下の「政治的御発言」を憂う」という論文をよみました。
はじめてしるようなことがつぎつぎとでてくる。
そうだったのか、というような思いで、頁をくる。
そうするうち、核心部分へきました。

美智子皇后は去年、ある機会に(ご自分の誕生日に、だったか)こういうはなしをどこかに書かれたらしい。
戦前の日本にも、民間人による憲法がすでに起草されていたこと。立憲君主制ではあるがその大部分が人権擁護をうたうものだったこと。

これは色川大吉氏が昭和43年に五日市の旧家の土蔵でみつけた、五日市憲法草案、というものらしい。
この論文の著者は、このように評している。
内容をほぼ、引用する。
「明治憲法にとっては伊藤博文が、また、現憲法にとってはマッカーサーが不可分であるのとおなじく、五日市憲法というものには色川大吉がかかわる。
この人の存在なくして五日市憲法というのは世に出ず、ずうっと蔵のなかに眠り続けて居たろうからだ。」
起草者の千葉卓三郎(↓)は反天皇制の意図をしのばせていたようだ。というより、自由民権運動家だった、といったほうがより伝わりやすいかもしれない。ロシア正教の信者でもあった。
それに言及された皇后を、ある文化人は朝日新聞でほめそやしたらしいけれど、自分はそうは思わない。と、平山周吉は書いている。
むいしきになにかをおそれるかんじで。
(てんのうは、たみになってはいけない)、と言っているのだな。
と、かささぎはおもった。

平成の小泉信三よ、いでよ、とむすんでいた。

なんにしろ、いろんな意見がいえるのは、しあわせなことだ。

源流さんの記事の中、
「田布施流砲士」というのを、わたしは、なぜか、やまぐちの政治家軍団がでた、あの田布施地区と関連がある連中かな、と、勝手に想像していた。

足尾銅山をウィキで検索しますと、二人の農民が発見した、とちいさく確かに出ています。
それ。ほんとは筑後の星野氏だったってわけ?
落ち武者!

源流さんの記事ではこうもあっさり。

>近衛氏尽力した松平家康から徳川家を名乗ったおりの出来事があり近衛氏の計らいで(足尾銅山発見、農民冶部と蔵)ということで以前の発掘は不問となりました。

ね。なんじゃこりゃ!!
うんとつっこみをいれなくなるでしょう。
「以前の発掘は不問」、というのはなに。

あ~まだ本をよんでいないから、全体がつかめない。
源流さんはブログに全部書いているとおっしゃいますが、あまりにもちょこっとすぎて、まったく雲をつかむようなかんじです。

けさ、やまももさんへの返信につけてしまった、国会前の反戦デモ光景(10日)、もしや、あれがパソコンでのスパムとなったのかもしれません。

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