無料ブログはココログ

« コメントまとめ①  おくらと懐良親王と与謝野晶子と高野山 | トップページ | コメントまとめ③ 石ばしるか、石そそぐか&わらびか、ぜんまいか »

2015年4月12日 (日)

コメントまとめ② 水月さんからのお便り

コメント

 

お久しぶりです。

実は私は、不注意から川に落ち、大腿骨の付け根を骨折して入院し、手術して、リハビリをつづけておりました。そしてまだ完治したわけではないけれども、昨日無理を言って退院させていただきました。

この写真を拝見すると、高野堂に行かれたようですね。何か発見がありましたか?もしあれば、何でもけっこうです。お教えいただきたく思います。

水月さん
そうでしたか。大変でしたね。
しかし、よかった、と申すことにします、大難を小難にかえられたに違いないです。
星野へ行くとき、水月さんや国武先生をお誘いしたいとすぐ思ったのですが、ほら、土日はお坊さんは多忙と仰っていましたので、声すらかけませんでした。ごめんなさい。
たくさん発見はありました。こうやんどうでではなく。
自分、なんも知らんなあと、あきれた。ふるさとなのに。
あれま。時間だ時間だしごとさもどるだ
又あとでかきまさ

水月さん

「大腿骨の付け根を骨折」、うちの母は交通事故でおなじ経験を、父はろうけんに入院中にベッドからおっこって、それをやりました。

さて、かきますといったので、かかなきゃ。
でも、まだことばになってでてこない。
つたえたいことはたくさんあります。

でも、これだけはいっておかなきゃ。
ちょうど、すいげつさんが連絡してくれないかな。と思っていた時でしたので、コメント、ありがたし。
というのは、ききたいことがあるのです。すみません、現金なはなしで。

以下は、四月五日のかささぎブログ記事からの抜き書き(引用の引用)です。

正平3年(1348)4月、法華経普門品を書写して筑後高良玉垂宮に納めた
正平24年(1369)8月16日、(父、後醍醐天皇の忌日)法華経を書写して石清水八幡宮に奉納した
正平24年(1369)5月3日、法華経を書写して阿蘇社に納めた
正平24年(1369)6月18、豊前大楽寺の般若心経に奥書を加え、これを重宝として門外不出を命じた
<<文中元年(1372)8月、太宰府陥落後、高良山に本営を移したが、2年後の文中3年(1374)8月、菊池武朝、武安らは筑後川を渡って福童原で北朝方と交戦。敗退して、9月17日再び高良山に退く。
9月には、菊池一族とともに菊池に退却。菊池武光は文中2年に没したと考えられている>>
天授4年(1378)3月29日、懐良の母とみなされている「霊照院禅尼」の遠忌に梵網経を書写し、肥前東妙寺に奉納したとみられる
文中3年10月以降、懐良親王は、下向してきた良成親王に征西将軍の職を譲った。

このうちの、とうみょうじに奉納したという梵網経とはなんですのん。まったくさっぱりわかりません。
せめてぼんやりイメージがわくくらいの知識をどうかお授け下され。
また、これによりますと、かねながしんのうは、法華経信者だったことになりますが、ということは、なむみょうほうれんげきょう、に帰依されていたのでしょうか。

今回一番最初に黒木谷のこうやんどうにお参りしたのですが、そのとき、うしろにまわったら、卒塔婆が数枚無造作におかれていた。そこに書かれていたのがなんという文字だったかをみそびれました。
つまり、法華経だったかもとおもって。昔の物とは思えなかったけれども、そういうことがみょうにきになるんだ。

いま、てもとに、ほしののこれらの歴史に関する書物が四冊ありまして、すこしずつしかよめないけど、よんだら、景色がまたみえてくるだろう。
しらべさんたち、星野一族につたわる口伝というのがあるらしく、はっきりと文字化できないことがこの世にはあるんだ。ということが、実感として、わかりました。
すいげつさん、同行したえめさんのブログ記事もみてください。↓

『梵綱経』については専門外なので、的確な御返事が出来かねます。申し訳ありません。ただ、うすぼんやりとした記憶で申しますと、それには大乗仏教の戒が説かれています。僧侶になるためにはまず師匠から戒を受けるのですが(浄土真宗は除く)、天台宗の開祖・伝教大師最澄までは奈良の東大寺・下野の薬師寺・筑紫の観世音寺のいずれかで小乗仏教の戒を受けておりました。『天平の甍』で有名な唐招提寺の鑑真が伝えたものです。しかし最澄は大乗仏教の菩薩を養成するために、『梵綱経』によって比叡山で大乗仏教の戒を受けて僧侶になれるようにしようとしたのです。ただし最澄の生前はそれが許されることはありませんでした。ともあれ、そうした意味で『梵綱経』は非常に重要な意義をもつ経典ということになります。(からだが動けばもう少し調べられるのですが……。お許しください)

懐良親王が法華の信者だっとということについて、「南無妙法蓮華経」に帰依したということもいえましょうが、題目を唱えるのは日蓮宗です。おそらく経典の中の王といわれる『法華経』自体に帰依していたのでしょう。これも曖昧な返答で申し訳ありません。

高野堂でないにせよ、たくさんな発見があったということですが、いったい何でしょう。ぜひお教えいただきたく思います。

追伸

前々から高野堂の墓について不審に思っているのですが、墓標の正面に「天正十六年/七月六日」とあるでしょう?江頭亨氏『郷土史物語』では、それを改修の年だといわれていますが、改修の年を正面に書くでしょうか。正面は命日を書くものではないしょうか。どう思われますか。

水月さん
ありがとうございました。
きのうは職場の上司がお子さんの入学式で休まれましたので(近年は父親参加も多いですね、そういえば)、わたしは普段のじぶんの仕事ではなく、ラインのみんなにまじって組立(スチームコンベクションというコンピュータ制御の厨房機器の)を手伝わされました。慣れない仕事に疲れてごはんたべたらねてしまいました。
ありがとうございました。しらべてくださって。
わたしは、すいげつさんに、まだ、お礼をいってなかったのです、去年のあれこれ。
いちばん有難かったのは、お経とは関係ない、国宝の万葉集のデータを母校からとってきてくださったこと。※1(http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-aede.html
あれは自分の古典の知識がいかにいいかげんなものかをしるに十分でした。
それから、いつか、アクセスをみているときに気づいたのですがコメントの中で、星野民藝というものすごく高い家具屋さんがあるのですが、その創業者のかたが書かれたかねながしんのうのしょうがい、という本をご紹介くださっていました。おぼえておられないかもしれないけれど。※2(捜索中http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-4329.html
それ、たすかりました。ほんとうにありがとうございました。たくさんたくさんありがとうございます。
ことばがありすぎて、かくのがやんなるくらいめんどうで。だからなにもかかないのかな、すみません。

コメント

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-1836.html#comment-110750162

ここ、読まれています。
国武先生や水月さん、去年あんなにお世話になったのに、私は賀状一枚書いてないのだった。いや、まったく、恐ろしい。いつからこんな恥知らずになったんだろう。
いま、久々定時あがりで、マルキョウの駐車場にクルマとめて、書いてます。かいものしなくちゃ、冷蔵庫空っぽ。
あわわ、冷蔵庫、、、谷口慎也先生にも預かった写真送ってない、田中さん、そらんさんにも。よし、絶対日曜日

水月さん、ココ読み直してみてください。

行空の墓の年月は天正ではなく、天文でした。
そして、それが天文だったからこそ、わたしはとても気になって、もっと調べたいと思い、星野の役場までいったのです。なぜか、東妙寺らんというともだちを連れて。

なぜ天文時代が気になったのか、それは、ミレニアムを祝ったとし2001の元旦、いわいをまつるいわとやまのいまいせぐうで、翁という神事能をみたのです。そのとき、赤崎さんという八女の学芸員さんからいただいたのが戦国百首で、それを解読する作業をこつこつとしたからです。
なぞがいくつかある。年号は天文二十四年卯月なんですが、干支がキボウ、みづのとう。一致しません。なぜなのか。
背景をしりたくて、もういちど役場に出向くと、それをはじめによみとかれた人はなくなられていました。

水月さんがご紹介くださって井筒屋古書部でもとめた「懐良親王の生涯」の余聞のなかに、若き時期の、福島高校教諭だったころの國武久義先生が登場されている!

コメント

行空上人の墓

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-b7a9.html#comment-110753279

三度目です。
どうしても気になり、今日、えめさん、ぼん、せいこさんとのオフ会のあとで、一人また訪ねてみてきました。墓塔の側面に彫られている文字が、上記の文中にある、
時宝暦十天三月 日
   講坊法印弟子
    戒浄 建之

でした。この墓石は宝暦十年、1760に彫られたものでした。戒浄という僧が建立したと書いてあるけど、この僧は初代の行空も二代目の行空も知っていたのだとおもえる。行空と小侍従とのかかわりを書いてある資料。「媱逸(いんいつ)の難」とは難しいことばですね。どういう意味なのだろうか。
それにしても、五木寛之の親鸞にでてくる行空は、目下、悪役で、じゅんさいといっしょにわるだくみをして、しんらんの持っている法然上人の「選択本願念仏集」をよこせ。と汚い手を使っておどし、そそのかしている。この行空がどうして最後は小侍従の帰依を得て高野山に講坊を構えたのか、その運命の流れ、その信仰の変化、そのえにしというものを深くたずねてみたいと、おもいました。

こうやんどうまでの小道は、半分、舗装がおわっていました。段々のたんぼには水がはられ、あらしろかきがあっていました。

本覚院講坊についてのサイトを名前にはりつけましたのでご覧下さい。筑後関連の物語は出ませんが、わけがあるものとおもわれます。かささぎには黒木物語のすべてが虚構であるとは考えられない。そうするにはあまりにも生々しい。
ちなみに、上記星野村教育委員会による星野村誌にある資料引用と、黒木物語にある資料引用とを見比べますと、おなじ資料でも字が微妙にちがっている。たとえばいんいつのいんですが、黒木物語のてがきでは女偏に宝がインでした、こっちは媱逸。

さて、やっと道ができたなおらいの行事があります。
師走三日。かささぎはいくつもり。

はじめまして!
私は、星野村在住で、高野堂「行空上人」の墓が
ある地域に住んでいる者です。
この度、高野山に旅をする事になりまして、
記載されている内容が分かりやすく参考に
なりました。 ひとつお願いがございます。
行空上人をあまり知らない同行者の方々へ
このページをプリントして同行者に渡したく
思っております。 どうぞご了承のほどお願い
します。

うわあ、ありがとうございます。
まだまだなぞがいっぱい、ございます。
だけど、高良山の宝物や黒木家、星野の調一族などに伝わる系図などをちょっとでも調べますと、黒木物語の世界には大きな真実が横たわっている、それは歴史の真実だという気持ちになってきます。
高野山へいかれるとのこと、なにか新しいことがわかりましたら、ここでご報告をよろしくお願いいたします。

姫野恭子様

コピー配布のご理解・ご了承有難うございます。
では、明日から高野山へ行って参ります。
天気が少々気になりますが。。

新しい発見がありましたら連絡させて頂きます!

今日はお天気あんまりよくありませんね。強い風がふいてますし、曇っています。でも雨はまだ降っていません。高野山までどうやって行かれたのでしょうね。よい旅となりますよに。どなたか存じませんが、・・

ここ数年間にいただいた縁を振り返っています。
ここを訪ねてくださった方、ありがとうございました。
久々で高野山講坊サイトを開きましたら、かなり以前とは、つまり、私が上記記事を書いたころとは違うものが出ました。
ここをご覧ください。↓

まだ高野堂「行空上人の墓」に興味がおありですか?
私はこのサイトによって行空の墓があることを知り、少し研究をおこないました。
その結果、この行空は法然の弟子としての行空ではなく、『法華験記』に出る行空であると考えます。
詳しくは論文を発表していますので、関心がおありのようでしたら、お送りいたします。

水月様、

コメントありがとうございます。

それは是非読みたいです。

おくっていただければ、さいわいです。

水月さん、
これが最初でした。

この墓石は宝暦十年、1760に彫られたものでした。戒浄という僧が建立したと書いてあるけど、この僧は初代の行空も二代目の行空も知っていたのだとおもえる

と書いたが、じっさい、わからんなあ

おおそうそう
室山熊野神社に宝暦13年の石灯篭がありました

室山熊野神社のカエルは吠える

 画像は室山熊野神社(八女市星野村)

▽かささぎまとめ

なぜ星野に熊野神社なのか。

それは創建したといわれる星野胤実が後鳥羽院の子だったという伝説によるのだろう。

後鳥羽院は熊野詣を28回もしたひと。(その外出中に女官ふたりが法然のわかき弟子に感化され、出家してしまう事件がおきる。そのとき院は、烈火のごとくいかり、首をはねたり、島流しにしたりしている。今、現代の目で事件をふりかえっても、どっちもどっち、非常にうつくしく、ぴーんと張りつめた弦の響きを思わす出来事だ。http://anrakuji-kyoto.com/about

しらべ城哀話によると、黒木助能(くろきすけよし)が院から笛の演奏の褒美に下賜されたものは、調の姓と剣と待宵の小侍従で、小侍従のお腹には院の子がいた。
後鳥羽院は、水月さんが行空とはなにものだったかというご研究にも登場したし、連句や俳句の作者間で高く評価されている歌人としての院も、故眞鍋呉夫の俳句とともにとりあげたことがたびたびある。

だから、いやでも興味がわいた。

つながっていることはしらずにおっていて、つながった。

http://ilove.manabi-ehime.jp/system/regional/index.asp?P_MOD=2&P_ECD=2&P_SNO=54&P_FLG1=3&P_FLG2=2&P_FLG3=2&P_FLG4=9

« コメントまとめ①  おくらと懐良親王と与謝野晶子と高野山 | トップページ | コメントまとめ③ 石ばしるか、石そそぐか&わらびか、ぜんまいか »

コメント

かささぎさま

おっしゃるとおり、「天正」ではなく、「天文」でした。まったくのケアレスミスです。國武先生の御論文「唱導文学としての『黒木物語』」の中に『聖方紀州風土記』を引用され、その中に高野山・本覚院が「天正十六年罹災、稲葉公の再興」とあったのと、こんがらがっていました。申し訳ありません。

天文十六年について、貴女が「とても「気になられる」という点、私にはわかりかねます。

ただ私が気になるのは、宝歴十年に改修したという文字が墓標の左側面に刻まれているのは納得できますが、「天文十六年/七月六日」の文字が正面に刻まれていることです。これが不自然に思えてならないのです。宝暦十年に戒浄が改修したとき、その前に改修した年の「天文十六七月六日」を正面に刻んだのでしょうか。何か腑に落ちません。なぜ行空の命日である「天福元年七月六日」(これが大いに疑問ではありますが)を刻まなかったのしょうか。改修の年より命日のこの年月日こそ正面に刻むべきでしょう。それを刻んでいないということは、この墓の行空は天文十六年七月六日に亡くなったのではないでしょうか。つまり天文十六年は命日に思えてならないのです。同じことの繰り返しですが、天文十六年が改修の年であるなら、なぜ肝心の命日が刻まれていないのかということです。

貴女が問題に思われていることと、私が疑問に思っていることと、かみあっていないようで申し訳ありません。

うーん
私はなにも知らないので、そうなのか、そうなのか、と聞いているしかありません。
戦国時代だから、というのが、プラスになったり、マイナスになったり。時間だ

たいへん御無礼ながら、この場をかりて、今日はけっこうなものを送っていただき、ありがとうございました。あつく御礼申し上げます。

私は、高野堂の行空は『法華験記』に出ている一宿上人といわれた行空だと思ってきました。年代で申しますと、遅くとも1020年までの人物です。しかし、墓標の正面の「天文十六/七月六日」から考えると、天文十六年(1547)に没した人物ではないでしょうか。その人物の名も行空であったのでしょう。そしてその人物の生涯を『法華験記』の一宿上人に重ねたのではないでしょうか。何の論証もできませんが、そのように推測します。ただ問題になるのは、では高野堂の行空の没年を天福元年(1233)七月六日するのはどこか来たのかということです。これをどのように解決するか、高野堂は一筋縄でないきません。

水月さん、

仰る通りだと思った
ふつうはそう思います

無料樹陰の山本健吉墓、中央には、
石橋氏累代の墓
側面に各人の名前と忌日があります
関係ないかな

けさ、連句的にうちの先祖の墓をみてきました。
正面はひめのけせんぞのはか、側面に「昭和三年拾月再建」。しかし、私が覚えているだけでも、昭和五十年代にここに(おみやのうら)移動している。そのとき、村のひめの一族はあつまっておはかのまえで写真をとってるの、みたことあります。
母にお墓、いつが最初だろうね?ときくと、さあ、もうずうっと昔からあったからわからん。という。笑。

共通認識でわかっていることや、わからないことは、彫らないだろう。

あまり参考にならないけど、それでも、行空のお墓の記載は天文年間になくなっているとしかよめない様に思います。

霊照院禅尼へのお経
一度東妙寺に見にいきたい
ネットみてさらにいきたくなる
👇

すいげつさん。
ぼだいって、なんですか。
ひまなときにでけっこうです。
おしえてくださいませんか。

ぼだいをとむらうのぼだい。
ぼだいじ、のぼだい。

じぶんのかいた文のなかに、菩提の行方、というのがでていて、はっとしました。
いみもわからずでてきたことば、これはきっと水月さんの領域だ。

それから、以前、ほけきょうとはなにか、たずねました。まだこたえておられません。

その宗派の信者のともだちに、まさこさまはそうかがっかいですか、ときいてみました。ネットで見てきになるから、と。
ちょっとまっていてね、とともだちはいって、しばらくしてこうこたえてくれた。
まさこさまはきくところによるとクリスチャンで、でも受洗はなさっていないらしく、ごかぞくの母方はたしかに法華経信者だそうよ、ということでした。
(きになったのは、神道はなんの拒否もしない、それにくらべてそうかがっかいはいっしんきょうみたいなところがあるからでした。)
かささぎの夫は、かささぎが結婚後まもなくして、なくなった弟のともだちから強く勧められ、学会にはいったとき、やめぬなら離婚する、といいました。
おどろいて、すぐかえしにいきました。
おもいだすにつけ、皇太子さまのことがおもわれます。
りっぱです。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: コメントまとめ② 水月さんからのお便り:

« コメントまとめ①  おくらと懐良親王と与謝野晶子と高野山 | トップページ | コメントまとめ③ 石ばしるか、石そそぐか&わらびか、ぜんまいか »

最近のトラックバック

2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31