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2015年3月 4日 (水)

浜寺における「やははだ」の考察

柔肌の 熱き血潮に 触れもみで
寂しからずや 道を説く君
  ~与謝野晶子 『みだれ髪』

やわはだという言葉が女性そのもののように働く。
このうたに、もしも柔肌にかわることばを置けといわれたとして、なにが思いつけるだろう。
せいぜい、わが肌の、くらいだ。
もしや晶子ははじめ、そうおいていたのではなかろうか。
わが肌のでは鼻つまみ、ところが柔肌になると微妙にきいてくる。
この絶妙なことばの斡旋力こそが達人の証明なのだとおもえる。

じつはこの『柔肌』には先蹤があった。
という事実を、上田敏を知りたいために求めた古い詩人クラブの講演集のなかにみつけた。

題は『濱寺を語る』、話者は河井酔名。

よしあし草という同人誌があって、その活動の事が書かれている。

いらこせいはく、とともに、やう、という詩人名があげられており、夜雨、そのひとのそのころの詩に「やは肌」がでてくるという。晶子が鉄幹にであうころの話だ。

与謝野晶子は藪秀野がうたをまなんだ歌人、(かささぎは秀野ノートで秀野とあきこを逆にかいてしまった面白いエピソード、はみだし口紅事件)がある。

いらこせいはくについては、ときおり目にするが、夜雨を知らぬ。
調べた。

横瀬 夜雨(よこせ やう、1878年明治11年)1月1日 - 1934年昭和9年)2月14日)は、日本の詩人歌人

茨城県真壁郡横根村(現・下妻市)生まれ。本名・虎寿(とらじゅ)。別号に利根丸、宝湖。幼時、くる病に冒されて生涯苦しんだ。『文庫』に民謡調の詩を発表し、1905年詩集『花守』を刊行して、浪漫的な色彩で人気を博し、1907年河井酔茗主催の詩草社に参加した。地方の文学少女たちがその境遇への同情から夜雨の妻になると言って数名やってきたことは、水上勉『筑波根物語』に詳しい(伊藤整『日本文壇史』の記述は連載終了後単行本化されなかった水上の著を参考にしたもの)。

その後結婚し、昭和期には幕末・明治初期の歴史について研究した。「処寿(しょすみ)」の名も用いた。1934年、急性肺炎により56歳で死去。(うぃき)

ここで浜寺町も調べる。俘虜収容所の話があるので、気になっていた。

浜寺町(はまでらちょう)は、かつて大阪府にあったである。現在の大阪府堺市西区の一部に相当する。堺市編入後も名称を廃止せず、「浜寺○○町」といった地名になっている。

歴史[編集]

浜寺の名称は、14世紀中頃(正平年間)に三光国師が建立した大雄寺[1]南朝の拠点のひとつとなり、吉野山日雄寺の山寺に対して「浜寺」と呼ばれたことに由来する。現在は堺市の地域名として定着しているが、本来的には高石市の羽衣なども含む広域地名であるため、高石市域にも浜寺郵便局や浜寺病院など「浜寺」を冠した施設があり、浜寺公園も両市に跨っている。

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コメント

追記
かわいすいめいがのべていることに、
与謝野晶子の活字デビュー作はうたではなく、新体詩だった。『春月』という五七調の恋の詩です。よしあしくさの、二月号(第十一号)掲載。鳳小舟の筆名。編集者のすいめいには、作者が多分駿河屋のおじょうさんだとわかった、といっている。
また、明治三十三年正月に近畿青年文学会をひらいたとき、浜寺での会合に晶子が玄関まできたが、とりつぎのものが、男ばかりの席上、良家の令嬢をいれるのをはばかっておいかえしたという。
そういう時代だったのだ。
あきこはすいめいの家に女中をつれて何度もきたし、手紙も幾通ももらった、という。まだ独身だったころで、鉄幹あきこが、出会う前。

昭和初期の石橋秀野(藪秀野)をひきだしてくる。
彼女の作品でもはじめて活字になったのは、俳句ではなく和歌だった。
そして、秀野もおとこばかりの句会に紅一点まじって論陣をはった。芥川賞を受賞した清水基吉の『雁立』にはそのすがたが生き生きと描かれている。
晶子と秀野、つよい個性であることは共通しているが、晶子に恋愛ものが多く、源氏物語に没頭したことなどと比べると、秀野は戦時中の貧苦をまっすぐよむことで生活のうさをはらしている。

この文章をよめてよかった。
あきこはとてもわかりづらい字をかいていた、とあった。鉄幹にまじわることで、ようやくよめるような字になった、とまでかいてあった。
じつは、秀野の文化学院中等部卒業アルバム、こくりこ、には、与謝野晶子のうたを一首と、高浜虚子の俳句が一句、掲載されていた。
虚子の字、草書体でよみとくのに数か月要した。
だが晶子のうたは、ついによめないままである。

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