無料ブログはココログ

« 室山熊野神社のカエルは吠える | トップページ | 大圓鏡智 »

2015年3月31日 (火)

星野黒木谷の高野堂

星野黒木谷の高野堂
星野黒木谷の高野堂
星野黒木谷の高野堂
星野黒木谷の高野堂
星野黒木谷の高野堂

« 室山熊野神社のカエルは吠える | トップページ | 大圓鏡智 »

コメント

お久しぶりです。

実は私は、不注意から川に落ち、大腿骨の付け根を骨折して入院し、手術して、リハビリをつづけておりました。そしてまだ完治したわけではないけれども、昨日無理を言って退院させていただきました。

この写真を拝見すると、高野堂に行かれたようですね。何か発見がありましたか?もしあれば、何でもけっこうです。お教えいただきたく思います。

水月さん
そうでしたか。大変でしたね。
しかし、よかった、と申すことにします、大難を小難にかえられたに違いないです。
星野へ行くとき、水月さんや国武先生をお誘いしたいとすぐ思ったのですが、ほら、土日はお坊さんは多忙と仰っていましたので、声すらかけませんでした。ごめんなさい。
たくさん発見はありました。こうやんどうでではなく。
自分、なんも知らんなあと、あきれた。ふるさとなのに。
あれま。時間だ時間だしごとさもどるだ
又あとでかきまさ

水月さん

「大腿骨の付け根を骨折」、うちの母は交通事故でおなじ経験を、父はろうけんに入院中にベッドからおっこって、それをやりました。

さて、かきますといったので、かかなきゃ。
でも、まだことばになってでてこない。
つたえたいことはたくさんあります。

でも、これだけはいっておかなきゃ。
ちょうど、すいげつさんが連絡してくれないかな。と思っていた時でしたので、コメント、ありがたし。
というのは、ききたいことがあるのです。すみません、現金なはなしで。

以下は、四月五日のかささぎブログ記事からの抜き書き(引用の引用)です。

正平3年(1348)4月、法華経普門品を書写して筑後高良玉垂宮に納めた
正平24年(1369)8月16日、(父、後醍醐天皇の忌日)法華経を書写して石清水八幡宮に奉納した
正平24年(1369)5月3日、法華経を書写して阿蘇社に納めた
正平24年(1369)6月18、豊前大楽寺の般若心経に奥書を加え、これを重宝として門外不出を命じた
<<文中元年(1372)8月、太宰府陥落後、高良山に本営を移したが、2年後の文中3年(1374)8月、菊池武朝、武安らは筑後川を渡って福童原で北朝方と交戦。敗退して、9月17日再び高良山に退く。
9月には、菊池一族とともに菊池に退却。菊池武光は文中2年に没したと考えられている>>
天授4年(1378)3月29日、懐良の母とみなされている「霊照院禅尼」の遠忌に梵網経を書写し、肥前東妙寺に奉納したとみられる
文中3年10月以降、懐良親王は、下向してきた良成親王に征西将軍の職を譲った。

このうちの、とうみょうじに奉納したという梵網経とはなんですのん。まったくさっぱりわかりません。
せめてぼんやりイメージがわくくらいの知識をどうかお授け下され。
また、これによりますと、かねながしんのうは、法華経信者だったことになりますが、ということは、なむみょうほうれんげきょう、に帰依されていたのでしょうか。

今回一番最初に黒木谷のこうやんどうにお参りしたのですが、そのとき、うしろにまわったら、卒塔婆が数枚無造作におかれていた。そこに書かれていたのがなんという文字だったかをみそびれました。
つまり、法華経だったかもとおもって。昔の物とは思えなかったけれども、そういうことがみょうにきになるんだ。

いま、てもとに、ほしののこれらの歴史に関する書物が四冊ありまして、すこしずつしかよめないけど、よんだら、景色がまたみえてくるだろう。
しらべさんたち、星野一族につたわる口伝というのがあるらしく、はっきりと文字化できないことがこの世にはあるんだ。ということが、実感として、わかりました。
すいげつさん、同行したえめさんのブログ記事もみてください。↓

『梵綱経』については専門外なので、的確な御返事が出来かねます。申し訳ありません。ただ、うすぼんやりとした記憶で申しますと、それには大乗仏教の戒が説かれています。僧侶になるためにはまず師匠から戒を受けるのですが(浄土真宗は除く)、天台宗の開祖・伝教大師最澄までは奈良の東大寺・下野の薬師寺・筑紫の観世音寺のいずれかで小乗仏教の戒を受けておりました。『天平の甍』で有名な唐招提寺の鑑真が伝えたものです。しかし最澄は大乗仏教の菩薩を養成するために、『梵綱経』によって比叡山で大乗仏教の戒を受けて僧侶になれるようにしようとしたのです。ただし最澄の生前はそれが許されることはありませんでした。ともあれ、そうした意味で『梵綱経』は非常に重要な意義をもつ経典ということになります。(からだが動けばもう少し調べられるのですが……。お許しください)

懐良親王が法華の信者だっとということについて、「南無妙法蓮華経」に帰依したということもいえましょうが、題目を唱えるのは日蓮宗です。おそらく経典の中の王といわれる『法華経』自体に帰依していたのでしょう。これも曖昧な返答で申し訳ありません。

高野堂でないにせよ、たくさんな発見があったということですが、いったい何でしょう。ぜひお教えいただきたく思います。

追伸

前々から高野堂の墓について不審に思っているのですが、墓標の正面に「天正十六年/七月六日」とあるでしょう?江頭亨氏『郷土史物語』では、それを改修の年だといわれていますが、改修の年を正面に書くでしょうか。正面は命日を書くものではないしょうか。どう思われますか。

水月さん
ありがとうございました。
きのうは職場の上司がお子さんの入学式で休まれましたので(近年は父親参加も多いですね、そういえば)、わたしは普段のじぶんの仕事ではなく、ラインのみんなにまじって組立(スチームコンベクションというコンピュータ制御の厨房機器の)を手伝わされました。慣れない仕事に疲れてごはんたべたらねてしまいました。
ありがとうございました。しらべてくださって。
わたしは、すいげつさんに、まだ、お礼をいってなかったのです、去年のあれこれ。
いちばん有難かったのは、お経とは関係ない、国宝の万葉集のデータを母校からとってきてくださったこと。
あれは自分の古典の知識がいかにいいかげんなものかをしるに十分でした。
それから、いつか、アクセスをみているときに気づいたのですがコメントの中で、星野民藝というものすごく高い家具屋さんがあるのですが、その創業者のかたが書かれたかねながしんのうのしょうがい、という本をご紹介くださっていました。おぼえておられないかもしれないけれど。
それ、たすかりました。ほんとうにありがとうございました。たくさんたくさんありがとうございます。
ことばがありすぎて、かくのがやんなるくらいめんどうで。だからなにもかかないのかな、すみません。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 星野黒木谷の高野堂:

« 室山熊野神社のカエルは吠える | トップページ | 大圓鏡智 »

最近のトラックバック

2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31