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2015年3月15日 (日)

「上田敏追悼」  田部重治

 文(語り手)・ 田部重治

 私は、富山の中学校にゐた頃、上田先生の書かれたものを、「明星」「帝國文學」「文學界」で読んだ筈だ。先生は、私の崇拝の的であつた。キーツやペーターには先生の筆を通じて親しんだ。先生は、明治七年生れであるから、私より十歳上である。四十三で亡くなられた。
 私が大学に入った時は、西片町に居られた。きれいな奥さんがゐられた。お母さんに対しての親おもひの情が知られた。お父さまは早く亡くなつてゐた。その頃は、九月が授業の始まりであつて、日露戦争が屈辱的交渉に終つたといふので、交番焼き討ち騒ぎがあつた頃だ。私は入学して、スウインバーンの、Atalanta in Calydon を先づ教へられた。それから、イエーツ、文学概論をやられた。夏目、上田孰れも講師であつた。私共三年の時、文学教師は去り、語学の教師が幅を利かせた。上田先生は学生から評判が悪く誰も訪問しない。私が先生の所へ行つた。私は多数行くところへは行かない。教師としても官立へ行かず、私立で通した。このごろ評判の悪い吉田首相を私は、ひいきする。夏目主義に傾いている学生は、スウインバーンやロウゼッティを罵つた。夏目といふ人は異説を吐くことを喜ぶ人である。上田は、前ラファエル派ともいふべき人で、「風疾のトロイ」なんか云はれると、夏目趣味派は、いやな奴だと厭(いと)つたが、私だけは一週間に一度だけ訪問した。上田が「象徴詩」を唱へるのを彼らはいやがつた。私は上田先生の、ワッツ・ダントンの「詩について」のお話なんかに耳を傾けて好いと思つた。上田は趣味が広く、夏目は集中的であつた。学者としては集中的なのがいいだらう。上田は不断に読書され人力車上でも読書された。コナンドイルが好きで、彼の物は読まないものは無い、この作者を豪いとは思はないが、面白いからねといはれた。ギボンの名句、ワーズワスの詩でも一頁くらいは暗誦された。佐久間信恭氏も暗記では秀れてゐた。夏目の英語は、正確な努力した英語であり、上田は、ギリシャ、ラテンまで出来た。楽に外語を採りいれる方で、スペイン語でも短時日の講習で得る處があり、教へた人が「敏」といふ名は彼をよく表してゐるといつた。夏目が早稲田大学で教へた頃の英語はへたであつたが後には評判がよくなつた。
 夏目は哲学的でない。上田は読んで直感する能力があつた。夏目は前にも云つたやうに異説を立てて、好いものをいいとしない傾向があつた。上田の方が正しい。上田がペーターを最初に認めた。田中王堂もペーターをよく読んだ。「書斎より街道へ」を著したが、ペーターの説をとり入れてゐる。上田を悪くいふ人が一杯で、「帝國文學」編集の櫻井天壇氏は、上田はドイツ語が出来ないと大に云ひ触らした。しかし上田は語学には鋭敏であつた。
 夏目の俳句趣味に感染した連中は、上田をきらつたが、あれだけの年齢で、あれだけのことをやられたのは豪かつた。私は批評するのでなく、印象を述べる。先生は至つて酒がお好きであつて、一友人と飲較べをした際、十一本のみ、対手は一ダースのんだときいてゐる。登張竹風さんとは親しかつたが互に悪口を言ひ合つた。平田さんと三人は仲が良かつた。小牧、生田、森田と上田さんの家であつた事もある。

出典;『文學談叢 初集 日本詩人クラブ講演集』より引用

語り手の田部重治について

田部 重治(たなべ じゅうじ、1884年明治17年)8月4日[1] - 1972年昭和47年)9月22日)は、日本英文学者・登山家である。

富山県富山市長江(旧:富山県上新川郡山室村)生まれ[1]。旧姓は南日[1]で、長兄に英語教育者の南日恒太郎、次兄に英文学者の田部隆次がいる。

東京帝国大学英文科卒[1]。在学中に木暮理太郎と知り合い、山への関心を深める。大学卒業後、海軍経理学校東洋大学法政大学などで講義をする[2]。研究対象は19世紀の英文学で、ウォルター・ペイターウィリアム・ワーズワースなどを研究した[2]

登山家として日本アルプス秩父山地を歩き、1919年大正8年)に『日本アルプスと秩父巡礼』を刊行、1930年昭和5年)に『山と渓谷』として出版される。日本アルプスを偉大な山として、秩父山地を緑の渓谷美としてその魅力を表現した。

また「只今のところ日本アルプスという名称によって総括されている山脈を概括的にあらわすべき適当な名称が無く、かつ今俄かに適当なる名称を創造することも出来ない為め」日本アルプスという名称を使う、として、アルプスという表現を日本の山にあてはめるのに抵抗を示している。(ウィキ)

▽ことば抄

1 キーツ;

ジョン・キーツJohn Keats1795年10月31日 - 1821年2月23日)は、イギリスロマン主義詩人

ロンドンモーゲートにて馬丁の長男として生まれる。人生の初めの7年は幸せであったが、1804年、父を落馬事故による頭部骨折で亡くしたのが困難の始まりであった。母はまもなく再婚したが、再婚相手とはすぐに別れ、子供たちをつれてキーツの祖母と同居するようになる。1810年、母は結核で死去。祖母の計らいで外科助手として奉公に出される。1814年まで奉公を続けたが、親方との激しいやり取りの後、奉公を終えて地方病院の学生となることができた。このころ、詩作に傾倒しはじめる。

1817年の春、ジョンはワイト島へ1週間ほどの旅行に出かけた。同年、処女詩集『詩集』(Poems by John Keats)を出版した。1818年スコットランドを旅行した時にファニー・ブローン(en:Fanny Brawne)と知り合い翌年婚約を交わす。同年、彼は4巻4千行にも及ぶ寓意叙事詩『エンディミオン』(Endymion)を出版したが、評論誌、雑誌から激しく批判される。気落ちした彼は、スコットランドとアイルランドへ旅行に出かけ、ブリテン島最高峰のベン・ネヴィス山頂に立った。このときの体験は彼を精神的に成長させたといわれている。旅行中、ジョン自身も結核の兆候を示したので、旅行を短縮して帰郷した。弟トムは1818年に彼の母と同じく結核により死去。

キーツはミルトン風無韻詩による哲学的叙情詩『ハイペリオン』(Hyperion)を書き出すが、未完に終わる。これをスタイルを変え改稿し『ハイペリオンの没落』(The Fall of Hyperion)として新たに書き始めたが、こちらも未完に終わる。

ジョンの病状も悪化し、医者の勧めでイギリスの冷たい空気をさけ、イタリアで療養することになった。イタリアでの住まいはローマスペイン広場の近くであった。1819年には、『秋に寄せて』(To Autumn)、『ギリシャの古壺のオード』(Ode on a Grecian Urn)などの代表的オードが次々と発表された。しかし、病状は好転せず、彼はファニーとの結婚を諦める。友人たちの手厚い看護もむなしく、ジョンは1821年2月23日、25歳の若さで死去。ローマの新教徒墓地に葬られる。彼の遺言により、墓石には「その名を水に書かれし者ここに眠る("Here lies one whose name was writ in water")」と彫られている。(ウィキ)

2 ペーター;

ウォルター・ホレイシオ・ペイターWalter Horatio Pater, 1839年8月4日 - 1894年7月30日)は、イギリスヴィクトリア朝時代の文人(文学者評論家批評家随筆家小説家)。主な著作に『ルネサンス』、『享楽主義者マリウス』、『想像の肖像』、『鑑賞批評集』、『プラトンとプラトニズム』などがある。

語録

  • "All art constantly aspires towards the condition of music."
    「すべて芸術は絶えず音楽の状態に憧れる。」(『ルネサンス』「ジョルジョーネ派」)
  • "To burn always with this hard, gem-like flame, to maintain this ecstasy, is success in life."
    「こうした硬い、宝石のような焔で絶えず燃えていること、この恍惚状態を維持すること、これこそが人生における成功ということにほかならない。」(『ルネサンス』「結論」)
  • 日本におけるペイター受容

     3 スウインバーン;

    Algernon Charles Swinburne sketch.jpg

    アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーンAlgernon Charles Swinburne, 1837年4月5日1909年4月10日)は、ヴィクトリア朝イングランドイギリス)の詩人。スウィンバーンの詩は、その中に、SM死の衝動レズビアン無宗教といったテーマが繰り返し出てくるため、発表当時はかなり物議をかもした。 小説「アルジャーノンに花束を」に登場するハツカネズミの名前は彼にちなんで付けられたもの。
    スウィンバーンは、チャールズ・ヘンリー・スウィンバーン海軍大佐(後に海軍大将)とアッシュバーナム伯爵(en:George Ashburnham, 3rd Earl of Ashburnham)令嬢、レディ・ジェイン・ヘンリエッタの間の6人の子供の第一子として、1837年4月5日、ロンドンのグローヴナー・プレイスのチェスター通り7で生まれた。幕末日本に赴任したイギリス外交官アルジャーノン・ミットフォードは、母方の従兄弟にあたる。

    と、ここまで引用して、アルジャーノン・ミッドフォードの名前にびびっと反応。

    このミッドフォードなら、阿部重夫の小説「有らざらん 壱」にでてきたっけ。
    この本です→http://www.onbook.jp/bookd.html?bid=0012
    このなかにあべしげさんの自著についての紹介がありますが、そのなかの思想史家、愛在亜・バーリンがトルストイの戦争と平和批評でのべたことばの引用と、この田部重治の上田敏のよみかたとが、うつくしく重なり合います。そのことばをしりたいひとは、上記サイトをひらいて、あべしげさんの文章をあたってくれ。コピペができないんだ。ごめんね。
    それにしても、うつくしいなあ、この詩人。つい、ひとりだけ、似顔絵つけた。
    アイザイア・バーリンも印象的なので、引用しようとしたが、できなかった。
    ここにあります。http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3-%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%B1%E3%83%AB-%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%83%95/dp/4622070979

    アタランタ・イン・カリドゥンhttp://www.ma.ccnw.ne.jp/kwc/mnm_oche/hounds.htm

    4 前ラファエル派

    ラファエル前派(ラファエルぜんぱ、Pre-Raphaelite Brotherhood)は、19世紀の中頃、ヴィクトリア朝イギリスで活動した美術家批評家(また時に、彼らは詩も書いた)から成るグループである。19世紀後半の西洋美術において、印象派とならぶ一大運動であった象徴主義美術の先駆と考えられている。(ウィキ)

    まだまだ調べねばならないことはありますが、きりがないのでこの辺で。

    わずか半世紀の昔なのに、この時代の人の文章には面食らう。
    ほんとうはこれ、全部、漢字部分は正字(旧漢字)なのだが、変換に時間がかかりすぎるので、本の題名など短いもの以外、現代表記に変えている。しかし、それだと余りにも時代の香りが伝わらないので、仮名遣いだけ旧仮名とした。
    きょうの?は、おなじページに、ふたつの「ところ」があること。
    所と、處。
    なぜだ。単なるミスだろうか、気分だろうか。
    おなじことは、いう、言う、云う、にもいえる。

    それにしても、前田圭衛子師の「連句誌れぎおん」で、芭蕉忍者説を長期間連載されていた、フランス語学者の家柳速雄氏が、こぼされていた。連句宗匠の窪田薫師の作品・文章がすべて正字・旧仮名だったのを、仕事の合間にきちんと毎回タイピングするのはほとほと疲れるのです、と。
    その長く膨大なお骨折りに、花束をささげます。御二人ともなき今。

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    コメント

    三島由紀夫、ウォルター・ペーター、ボッティチェリ

    検索でみえていました。
    ぼってぃちぇり、同時代の画家だったっけ。

    滞在時間 1分 閲覧ページ数 2ページ 参照元 上田敏と夏目漱石、かささぎの旗

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