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2015年2月16日 (月)

『漱石・柳村のおもひで』  辻村鑑

 (一)

 

 辻村氏は、今日も開会が定刻よりおくれた。いつもおくれる慣習だが、あのパルナサスの山では、山中暦日無しだといふ、この会は、のんきで、この集まりで二時間でも、三時間でも、浮世のことを忘れるのが、この会の有難さだといふやうなことをいはれた。聴く吾々は、早くも漱石の『草枕』中の、「春は眠くなる、猫は鼠を捕ることを忘れ、人間は借金のあることを忘れる」あたりの句をおもひ出した。
 氏は、夏目、上田両先生が学校にゐられた頃の大学生であったと先づ関係を明かにされ、漱石、夏目金之助先生が外国から帰られて、大学の講義をなさる前に、多少準備期があつた。私共が教へを受けはじめた頃、柳村、上田敏先生も居られたので、私共は三年間、両先生の御講義を聴くことが出来た。こちらに、大に勉学する用意があれば、十分に好適な場所と時をもつたといへる。文科大学で漱石先生は「文学論」を講ぜられた。又、十八世紀英文学を講述された。後者は、『文学評論』の名で出版された。先生のシェイクスピヤの講義を聴いた学生が多く、ただに英文科ばかりでなく、漢文科、その他から学生が押しかけ、講堂は溢れるばかりで、廊下にまで多くの者が居並んだ。先生の名講義は面白いから、一度聴けばこたへられない、のみならず友人を伴れてくるから、さういふことになつたのである。
 私は上田敏先生の講義をも聴いた。この方の教室は寂寥の感があつた。狭い教室でブラウニングを講ぜられた。学生が多からうと少なからうと先生は、悠々としてゐた。学生は、シェイクスピヤの講義がおもしろいのと、シェイクスピヤを聴いておくのは英文研究者の面目とでも思ふのか、これと比較して、ブラウニングの詩は、第一読みにくいといふので受けない。
 上田先生が私共に講義されたものに、How they  brought the Good News from Ghent to Aix がある。これは短いものであるが、詩中に出てくる馬の蹄の音がしみ込むやうな印象を与へた。上田先生の解説によつて今に忘れ得ぬ余韻を残してゐる。

 漱石先生は、明治三十一年頃から、「ホトトギス」に作品を発表された。「吾輩は猫である」は同三十八年同誌に出はじめて好評嘖々たるものがあつた。私がある日、畔柳先生を訪問すると、床の間に短冊がかかつてゐて、「冠を挂けて柳の緑かな」といふ俳句がかいてあり、作者も筆者も漱石先生の自作自筆だつた。畔柳先生のいはれたには、夏目君が近く大学の教壇を去つて新聞社に入り小説を書くといふのだ。夏目君の大学を去ることは非常に惜しいので、吾等は思ひとどまるやうにと忠告し、小説で立つといふことは、容易ではなからうといふと、なに僕にだつて出来るよ。先日或小説を一読してあの位のものなら書けるよと自信たつぷりだつた。で一体、誰の小説を読んだのか、と尋ねたら、『金色夜叉』だといふのだ。この小説は紅葉が明治三十年頃読売新聞に発表したもので、それを同四十年頃に読んで、自分にも書けるといふのだ。加之、その頃は、自然主義が台頭してゐて、『金色夜叉』なんぞは時代的にもずれがある、翻意するやうに熱心に留めたが、この句にあるやうに、たうとう大学教職を辞めてしまつたと其時畔柳先生のお話であつた。
 私は其後明治三十九年、大学を出てから夏目先生のお宅へ一度うかがひたいと思つてゐた。で、春四月、櫻の咲いてゐる頃、千駄木林町五七番地、私と同郷の先輩齋藤阿具先生が住んでゐたそのあとに、夏目先生が入られた其附近は閑静なよい散歩場であつた。私はブラブラ散歩しながらうつかり先生の門の前まへ出たのであつた。門の前に立つと、門柱にま新しい表札が、かかつてゐて、まだ墨色も乾かないかの感じであつた。まん中に、「夏目金之助」と記し、左右に猫の絵が描いてあり、二つの猫が向ひあつてゐる。どうも、これは、先生の趣味としては、素直に受け取れない。実はこの門札の由来を先生からお聴きしたかつたのでフラフラと門内に入つた。先生の在不在は問題でなく、猫の表札が心に引つかかつてゐて、それを切出さう切出さうと思つてゐたが、先生の話がおもしろく、いひ出す機会を失つた。お話には始終犀利な観察が、光つてゐる、うつかりしたことを言ひ出してはいけないと学生らしい気分に支配されて、つひに門札には一言も触れることが出来ずやがてお暇をして、おくられて玄関まで出た時、先生は、ちよつと待つてくれと言はれ、発行後間もない、「漾虚集(ようきょしゅう)」を一部と、別に、前田林外作の詩集「夏花乙女」を、手にされ、この詩集は、自分に寄贈されたのだが此の方は僕より君の専門だから持つて帰つて一読してくれ給へと言つて渡された。私は当時、文学青年として「明星」などに詩を、書いてゐたのが、先生の目にとまつてゐたのからであらう。それから「君門札を外して持ちかへつてくれ、どう始末しても構はない」といはれた。先生は此の門札について次のやうに話された。
 昨夜遅く嵐のなかを一枚の端書が配達された。見ると『先生は高名な文学者だから、門標なぞなくても世間によく知られてゐるけれど、先生の門標を見ると雨風にさらされて文字が見えにくくなつてゐる。どうせ門標を懸ける位ならはつきりしたのの方がよいと思つて新しいものを差上げる。お用ひにならうとなるまいと、ご随意です」とあつた。で、今朝、嵐が止んで好天気になつて気持がよかつたので、楊枝をくはへながら庭へ降りて、ふと門柱を見ると、あんなものが掛けてあつたのだと。私は、二冊の本と、門札を持ち帰つたが、引越しや火災で、その門札を失つたのは惜しい。

 柳村先生の講義も忘れがたいもであつた。世間で上田先生をペダントといふものがあるが、これは当らないと、辻村氏はこの点特に力をこめて弁じられた。(昭28・3)

   (二)

三十六年から三年間大学で上田先生の教を受けた。「藝苑」は先生と旧「文學界」の諸氏を中心にして編んだものだから同誌を通じて上田先生とは其の後もお近く指導を受けた。大学に於ける先生方で印象を長い間もたせる人は少いが、先生の印象は今日なほ新である。先生の教を喜んで受けたことは、田部氏と同様であつた。(※後述) 学生は上田先生の講義を消化し得ない。夏目先生の教室は聴講の学生が満員で、教室外まで聴講生が溢れてゐた。それに比較して上田先生の方は寂寥々。先生はスウィンバーンに傾倒して、これはテニスンの上、ブラウンニングと並び立つと賞揚されて、ブラウニングをも講ぜられた。
夏目・上田両先生の印象は余程違つたものがある。
 ある時教室でこんなことがあつた。
 魚住君といふ学生がどう言ふことか知らぬが、片一方の手を切断してゐるので懐手で聴講してゐる様に見える。そこで夏目先生は、知らずに一度咎めたが、わかつてからも、魚住君、手を出したまへ、無い手だつて出してもよいだらう、僕も無い知恵をしぼつてシエークスピアを講じてゐるのだといつた風に滑らかにやられたことを記憶してゐる。上田先生の文学と行動とともに高踏派的なのと明瞭に対蹠的である。夏目先生の、シエークスピヤの講義は面白い、学生は勉強しないで聞いても、面白いからまた出かける。萬人向きでもあつた。
しかるに上田先生の講義は素質が無いとついて行けない。聴く者に詩心といふ準備がないと、聴いても面白い筈がない。話は別になるが、「文学会」の終刊号に『町むすめ」といふ詩が載つてゐる、上田柳村作である。また先生お作の短篇小説が二つある。二つとも町娘に関係がある。「宵やみ」「短夜」がその題名である。先生は文学界を通して一葉と旧知の間柄である。一葉の名篇「たけくらべ」にも町娘の描写は素晴らしい。諸文豪の前週は生前に出るものも多いが、先生の全集発刊が非常に遅れた点、先生の没後未亡人には大層物寂しく思はれた。それで取敢へず先生の詩集だけでもと言ふので新村、日夏、西條等の先生の遺友後進に私も加はつて、第一書房から出版したものがある。今日では珍本になつてゐる。上田先生の風格を捉えることは難かしい。先生は旧幕の旗本の家に生れ、江戸つ子の趣味に加へて武家の気品を保つものの様で、外国文学にたづさはつてもあくまで高踏的なのもその為であると思はれる。先生外遊中、イタリアでお父さんに会われたことを話された。それは、今日も伊太利に残る厳父が幕命で欧州に使した折に描かれた肖像にゆくりなくも遭われたことである。博覧強記で一つのものにのみ精力を集中されなかつた。このことは『イソップ物語』一つみてもうなづかれる。「すべての芸術は交流する。画家は音楽を、詩人は絵がかきたいのだ」と言はれ、先生は、詩の最高の形式の極意は象徴にあるとよくいはれた。音楽がお好きで、民謡研究は詞そのものよりも詞の音楽に引かれ、楽器にものる曲調に心が引かれたと思はれる。(昭和29・10)

講演集というものだそうですが、ふしぎな文体です。
著者名ではなくて、おはなしをなされた方の名前がある。
速記者がまとめた原稿に講演者が朱を入れたのだろうか。
よくわかりませんが、おもしろいものです。
いくつかを転載したい。

出典は、『文學談叢 日本詩人クラブ講演集』初集
 昭和33年10月10日発行

▽掛冠(けいかん)の意味

[名](スル)《「挂」は掛けるの意》官職を辞めること。辞職すること。致仕(ちし)。かいかん。
[補説]後漢の逢萌(ほうぼう)王莽(おうもう)に仕えることを潔しとせず、冠を解いて東都の城門に掛け、遼東(りょうとう)に去ったという「後漢書」逸民伝の故事から。

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コメント

すこしかきたしています。

なつめそうせき、おもしろいですね。
こんなことをいまいおうものなら。

さらにかきたし、辻村鑑の講話部分はこれでおわりです。つぎは田部重治氏の上田敏追悼です。

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