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2014年10月11日 (土)

親鸞聖人における宿縁の意義 六・七章全文

水月(森本光慈)・文

 

 

  六

 

 親鸞以後、宿善を積極的に取り入れたのは覚如(かくにょ・1271*-1351 、親鸞の曾孫。覚恵(かくえ)の長男。浄土 真宗本願寺3世)であった。若いころ宿善をめぐって叔父にあたる唯善と論争したが、そのとき『最須敬重絵詞(さいしゅきょうじゅうえことば)』によれば、宿善必要を主張する中に、

 

 いま聞法能行の身となるは善知識にあへる故なり、知識にあふことは宿善開発のゆへなり、されば聞て信行せん人は宿縁を悦べし・・・往生の因とは宿世の善もならず、今生の善もならず、教法にあふことは宿善の縁にこたへ、往生をうくることは本願の力による。聖人まさしく「遇獲信心遠慶宿縁」と釈し給うへは、余流をくみながら相論にをよびがたきかと云々。

 

とある。宿善と宿縁を同じに用い、宿善必要の証として遠慶宿縁の文をあげている。
 ただ、後年の著作である『改邪鈔』第八条では、

 

 そのときおほせにいはく、世間の妻子眷属もあひしたがふべき宿縁あるほどは、別離せんとすれども捨離するにあたはず。宿縁つきぬるときは、したひむつれんとすれどもかなはず。いはんや出世の同行等侶においては、凡夫のちからをもて、したしむべきにもあらず、はなるべきにもあらず、あひともなへといふとも縁つきぬれば疎遠になる、したしまじとすれども縁つきざるほどはあひともなふにたれり。これみな過去の因縁によることなれば、今生一世のことにあらず。

 

とある。これは『歎異抄』第六条と同内容の法話であり、世間の妻子眷属、出世の同行等侶が親しんだり離れたりするのは宿世の因縁によるというのである。そして、宿善のある機は善知識に親しみ、宿善のない機は悪知識に近づくといって、「宿善の有無」という語を用いた後、「一旦の我執をさきとして宿縁の有無をわすれ、わが同行ひとの同行と相論すること愚鈍のいたり、仏祖の照覧をはゞからざる條、至極つたなきものか、いかん、しるべし」と結んでいる。ここでは宿善と宿縁が区別されているようである。

 蓮如は覚如を承けて盛んに宿善を語り、五重義相を示す中には第一に位置づけているが、宿縁の用例を見てみると、亡き母の十三回忌の法事にあったこと、他屋の坊主達の内方となること、出口・山科・大坂に坊舎を建立し居住するようになったこと、文明十二年三月二十八日に山科本願寺・御影堂の棟上の祝いにおいて諸国の門徒中が出会うこと、命長らえ報恩講にあうことを宿縁といっている。

 また、殊勝の本願にあうこと、殊勝の法を聞くこと、仏法の次第を聴聞すること、三国の祖師先徳がわれら凡夫に法を説き聞かすこと、聖人の勧化にあうこと、聖人の一流にあうこと、弘誓の願船にまかせること、信心を獲ることも宿縁といっている。

 そして、『御文章』四帖目第一通には、

 されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。しかれば念仏往生の根機は、宿縁のもよほしにあらずは、われら今度の報土往生は不可なりと見えたり。このこゝろを聖人の御ことばには、「遇獲信心遠慶宿縁」とおほせられたり。

とあり、宿善を説く中に遠慶宿縁の文を挙げ、宿善も宿因も宿縁も同じに用いている。また文明九年十二月廿九日付の「御文章」にも、

 又或時は、念仏往生は宿善のきによるといへるは、当流の一義にかぎるいはれなれば、我等すでに無上の本願にあひぬる身かともおもへば、「遇獲信心遠慶宿縁」と上人の仰せにのたまへば、まことに心肝に銘じ、いとたふとくも又おぼつかなくも思侍べり。

とあり、宿善と遠慶宿縁の文を合わせている。
 また文明八年七月廿七日付の「御文章」には、

 宿福深厚の機は生得として弥陀如来の他力本願を信ずるに、さらにそのうたがふこゝろのなきがゆへに、善知識にあひて本願のことはりをきくよりして、なにの造作もなく決定の信心を自然としてうるがゆへに、正定聚のくらゐに住し、かならず滅度にもいたるなり。これさらに行者のかしこくしてをこすところの信にあらず、宿縁のもよほさるゝがゆへに、如来清浄本願の智心なりとしるべし。しかれば、いま他力の大信心を獲得するも、宿善開発の機によりてなり。

とあり、文明九年三月の『御文章』にも、

 されば往古より、当流門下にその名をかけたるひとなりとも、過去の宿縁なくば、信心をとりがたし。まことに宿善の機は、おのづから信心を決定すべし。

とあり、宿福・宿善・宿縁を同じに用いている。

 ただ、『御一代記聞書』第二三四条に、

 他宗には法にあひたるを宿縁といふ、当流には信をとることを宿縁といふ。信心をうること肝要なり。

とあり、宿縁と宿善を区別しているようであるが、すでに深励が指摘しているように、ここでも宿善・宿縁は同じ意味である。他宗では遇法をいうのに対して、真宗では獲信のところを宿縁とか宿善といっているのである。

      七

 こうして、親鸞の宿縁をめぐって先哲の間にA説、B説の二説があるが、A説の結縁と見るのは『安楽集』所引の『随願往生経』に淵源があると考えられる。そして『法華文句記』『往生要集』に宿縁の語が見られ、『往生拾因』には宿縁の内容が説かれている。A説というのはこの流れの中における理解であろう。それに対してB説の宿善と見るのは、もともと「往観偈」や「定善義」に示されるものであるが、また『観経』下下品の十念往生を問題にする中で宿善の語が用いられ、宿縁とは区別されているから、とくに蓮如を通した理解と思われる。しかし、親鸞自身に両方の意があるのであるから、どちらか一方を取るというのではなく、ともに認めてよいのではなかろうか。いずれも過去のことであり、親鸞が「遠く宿縁を慶べ」と振り返ったとき、片方を除き、もう片方だけを想うということはないであろう。そこで親鸞における宿縁とは、阿弥陀佛は此土で発願し、永劫の修行の中で、われわれとさまざまに縁を結んでくれていた。また、われわれも過去にいろいろと善を積んできたけれども、みな自力無効と知らせ、他力に帰せしめるための調育であったと慶び、「遠く宿縁を慶べ」と言われたものと考えられる。

そしてA説が認められるとすれば、そのとき親鸞の中で貞慶・明恵に対する意識もあったのではなかろうか。彼らは法然と鋭く対立し、厳しく論難した。親鸞はその応答として『教行証文類』を著していったのであったが、論敵である彼らは熱烈な釈迦信仰の鼓舞者であった。そして、その根底には『悲華経』の教説に基づく釈尊観があった。釈尊こそ娑婆の衆生に有縁の仏であり、阿弥陀仏は縁が浅いと見ていたのである。貞慶の『弥勒講式』には、

 爰に牟尼は一代の教主、恩徳諸仏に超えたり。逸多は世尊の補処、宿縁此の土に厚し。群生の仰ぐべき、誰か斯の二仏に如かん。

 とある。釈尊・弥勒の二仏こそ此土、この世に宿縁が厚いというのである。こうした彼らの信仰を背景にA説を合わせてみると、親鸞が「遠く宿縁を慶べ」といったとき、彼らを意識していたという一面も考えられるであろう。

 

  終

 

  平成十八年五月発行、
  行信学報通巻第十九号抜刷本より引用

▼かささぎことば抄

五重義相

五重の「五」とは、

(一)宿善。宿世の善根。今生において本願の法にあい、信心喜ぶ身にならせていただくのは、この宿善のおかげであるといわれる。

(二)善知識。本願の法を説いてくださる方。まさしくは釈迦仏であるが、七高僧、宗祖聖人、歴代相承の宗主、更に僧俗を問わず本願の信を勧めてくださる人は、すべて善知識であります。

(三)光明。私どもを照育し摂取してくださる阿弥陀如来の光明。

(四)信心。他力真実の信心。

(五)名号。如来の名号が到り届いて信心となるという意味で、信心の体(ものがら)は名号であると示されたものとも考えられる。しかし、今は信心のあとに出されているので、「真実信心必具名号」(真聖全ニー六八)ー真実信心は必ずあとに称名相続をともなうーという意味で、この場合の名号とは信後の称名を示されたものと見る方が適切でありましょう。

次に五重の「重」というのは、単に五つならべたというのではなく、ちょうど一つの波が次の渡をおこすように、前のものが後をおこし、後のものが前に重なってゆくことを意味します。

そのことは「往生論註』下巻の願偈大意から利行満足までの十章を「十重あり」(*)(真聖全一-三一二)と示されているのと同様であります。

今この五重の次第によれは、「宿善」によって「善知識」にあい、「光明」のおんはたらきによって、「信心」獲得の身となる。その信心がまことであれぱ必ず「名号」が称名念仏として出てくる、という意味になります。ですから、五重の義というのは、正しい信心獲得のすがたについて、その始終をお示しくださったものとうかがわれるのであります。

http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%AE%89%E5%BF%83%E8%AB%96%E9%A1%8C/%E4%BA%94%E9%87%8D%E7%BE%A9%E7%9B%B8

改邪鈔 http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%94%B9%E9%82%AA%E9%88%94

貞慶・・・信西の孫。しんぜいは平将門(大河ドラマ)であの人、ええっと奇跡のりんごの主役をはったあの人がやりましたね。田口トモロヲ、じゃなくて、阿部サダヲでした。笑。
興福寺奏状の起草者。別名、解脱上人。

貞慶をしらべていると、こんな記事にでくわす。よき一文とおもふ。
というのは、私もまったく同感だから。

全文ひいておきましょう。

「講談社学術文庫 「鎌倉仏教」 田中久夫著

 

 

 

「五十九歳の貞慶は、臨終にあたって弟子に語り、次のような意味のことばをのべたという。(『観心為清浄円明事』)。
『身の出離・解脱は明らかでない。出離のための教えを知識としては聞いているが、どうしても発心できない。教えと自分の素質が相応しないのであろうか。どうしたらば発心できるかという問題について、いろいろな人にたずねたけれども、誰も教えてくれない』

 

貞慶は、自分の心が頼りにならないことを嘆いている。このように徹底的に自己を追求していくことができた貞慶に深い尊敬をささげたい。」

 

 

 

興福寺の高僧貞慶を、著者田中久夫が語った部分である。

 

貞慶は臨終に当たって、自分が悟りを得られていないことを告白しているのである。
悟りを得るための心の置き方、つまり菩提心が確固としたものにならないのだといっている。

 

貞慶の嘆きは、著者自身の思いであったかもしれない。
そして多くの読者の嘆きでもある。

 

 

 

「貞慶に深い尊敬をささげたい」

 

 

 

田中先生の言葉は同情と真心があふれている。
本を読んでいて、こういう言葉に出会えることは本当にうれしい。」
興福寺の学僧貞慶が悟りを得るための発心がどうしても定まらないと、臨
終に際して弟子に語った件に関し、2つほど思い出す話がある。
 
 
一つは、禅の公案集「無門関」の大通智勝仏の話。
もう一つは、維摩経の中の舎利仏が維摩居士の病気を見舞ったときの話。
 
 
まず、「無門関」の大通智勝仏。
大通智勝は、長い時間(十劫)、道場で座禅したが悟りを得なかったが如何。
「大通智勝はすでに仏である。仏が仏に成りようがないではないか」と。
 
 
維摩経。
舎利仏  「維摩殿、あなたの病いの元は何ですか。悟っておられるなら病の苦
はありえないのではないですか?」
維摩居士 「衆生は病む。ゆえに私も病むのだ」と。
 
 
貞慶上人の最期の言葉をこの二つのことがらに重ねて理解してよいのだと思
う。
貞慶上人が仏であることを信じよう。
貞慶上人が、まさに維摩居士のように衆生とともに悩まれたことを信じよう
と思う。
 
仏陀は最後の旅で、病の苦しみを味わわれた。
苦しみで横になる姿を何度も見せられている。
自分の苦しみを逃れるために仏教に帰依することは間違いなのだと思う。
維摩居士も、仏陀でさえも病の苦しみを味わう。
 
苦しむことを恐れることはないと教えられて、やっと安心したというか、仏
教はありがたいと思った。
 
「ありがたい」
まさにありえないような稀有な宗教なのだと思う。

引用元:http://blogs.yahoo.co.jp/gmstwd/3181099.html

http://blogs.yahoo.co.jp/gmstwd/3325843.html

明恵 みょうえ。

この僧は俳人人気が高くて、さまざまの人の書物の中に見出すことができる。 
されど、わたしはあまり知りません。ながく夢日記をつけていた人だったということくらいしか。

いま、しらべよう。

別府大学の先生がこんなことを書かれている。以下ぜんぶがひっこぬき。

引用した、興福寺蔵『栂尾明恵上人伝』について奥田氏は「伝記系諸本の中で最も古い時代の書写本」であり、「鎌倉時代末期書写」とする。また、平野氏が「最も古態を保つ」 として紹介する『梅尾明恵上人伝上』も貞治3年(1364)書写である(12)。それに比して 、無住は『沙石集』を弘安2年(1279)ころから「執筆開始」(新編 日本古典文学全集。無住関係略年表)しており、現在確認出来る「太郎・次郎説話」の初出である。次に、伝記系諸本の写本に見出せる。奥田氏は「伝記系の基をなしてゐるのは、喜海のなした和文行状の稿本的なもの」と推察する。とすると、喜海(1174~1250)が奈良の情報を参照しながら記したのであろうか。しかし、前述した如く、『神現伝記』を著したのは喜海であり、「太郎・次郎説話」の創作者に擬することは出来ない。
 『沙石集』と同様に、『神現伝記』を参照したと推察される作品に、延慶2年(1309)頃に成立した『春日権現験記絵』(『春日権現験記絵 注解』(和泉書院)。以下、『験 記絵』と略記)がある。その巻十七(13)には、建仁2年正月19日(29日の誤記か)に、

又おほせらるゝ様、「解脱房をもて、同隷としたまふべし。解脱御房は不思議にあはれに候人なり、と四五度おほせられても籠居の事、我等うけず。かくと申と御物語候べし」とのたまふ。

とある。『沙石集』の記述と比較すると、明らかに『験記絵』のそれが『神現伝記』に近似していることがわかる。
 引用した箇所の翻刻を比較してみると、「解脱房をもて、同隷としたまふべし。」の波 線部を、多くは「同齢」としている(14)。18歳年少の明恵と解脱を「同齢」とするのは不審であり、意図的な格差意識が読み取れる。「同隷」は「同じ主人に隷属する仲間。同じ仲間の者。」(『岩波 古語辞典』)の意である。ここで「同じ主人」とは春日明神を指すのであろうか、すると、「信仰を同じくする者。同朋・同学。」の意であろうか。「解脱を、あなた(明恵)と同様に春日明神の信仰者となさるべきですよ。」となる。そうすると、「同齢」よりも「同隷」が相応しいことになる。
 『験記絵』の影印を見るも、いずれとも判断出来ない。
 『験記絵』詞書の成立について略述してみたい。解脱の著述が詞書の成立に深く関わっ ていたことは、先学から指摘されてきたことであり、特に、最近、五味文彦(15)近本謙介(16)両氏により詳細に検討されている。また、延暦2年3月に西園寺公衡(1264~1315)が著した『春日権現験記絵目録』がある。同目録には『験記絵』制作の意図等が記されているが、その中に、

篇目においては覚円法印注し出し、且つは両前大僧正〈慈信/範憲〉に相談しおはんぬ。

とあり、覚円を中心として、慈信・範憲を相談役として成立したとある。興福寺の高僧3人がその成立に深く関わっていたことが明記されている。加えて、解脱は南都焼討で壊滅的な被害を受けた興福寺の教義の再構築に加えて、伽藍や仏像等をも精力的に復興したとの指摘もある。(17)解脱は『験記絵』成立期においては、興福寺・春日神社に関わった最も重要な人物の一人として、尊崇され、絵巻物でも同様に描かれる資格を有していたと考えられる。先に引用した『験記絵』巻十七と『神現伝記』との関係は検討する必要があるが(補注(13))、「解脱房をもて、同隷としたまふべし。」という表現は後人により付加されたものである。前述したような状況にあった解脱と、宗派が異なり、加えて年少の明恵を「同齢」とするのは勿論であるが、「同隷」と表現していることには、単なる見落としと考えるよりも、何らかの意図を読み取るべきではなかろうか。興福寺関係者の眼が細部まで行き渡っていた作品である故に、一層、そのように思われてならないのである。

引用元;http://www.kaijyusenji.jp/gd/kiko/sentence/k34.html

 

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