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2014年9月 9日 (火)

『親鸞聖人における宿縁の意義』  その3の下

文; 水月 (森本光慈)

 

それに対して宿縁の語は、大文第三・極楽証拠の対十方に出る。そこではまず三番の問答を受け、「仏の誡め慇懃なり、唯だ応に仰いで信ずべし。況んや復た機縁無きに非ず、何ぞ強ひて之を拒まんや」といい、『十疑論』第四疑を引く中に、「故に知んぬ、阿弥陀と、此の世界の極悪の衆生とは、偏に因縁有りといふことを」といわれていることにも注意されるのであるが、その次に『西方要決』『群疑論』を引き、

 又た観音・勢至は本は是の土に於て菩薩の行を修し、転じて彼の国に生ず。宿縁の追ふ所、豈に機応無からんや。

 と結んでいる。『大経』に説かれた、観音・勢至の二菩薩が此土で修行したことを宿縁といっているのである。また直前の『群疑論』の引文には、阿弥陀仏を指して「此の仏特に娑婆の衆生と縁有るを以て」とあるから、三尊の発願修行を指すものでもあろう。前に述べた『安楽集』所引の『随願往生経』や『法華文句記』の文も、十方浄土と西方浄土を問題にする中に説かれていた。『往生要集』もまた対十方を問題にする中で宿縁の語が用いられているのであって、宿善と宿縁は区別されているのである。
 それは永観(えいかん・ようかん 長元6年(1033年) - 天永2年11月2日(1111年12月4日)、石清水八幡宮別当元命の養子)の『往生拾因』も同じである。『往生拾因』は念仏が往生の業因であることを十の理由(因)を挙げることによって証明していくのであるが、その大一因「広大善根故」の中に宿善の語が出る。すなわち、

 我等何なる宿善有りてか、幸いに今此の仏号に値へり。

といい、やはり『観経』下下品を問題にして、

 逆者の十念すら宿善尚を強し、何に況んや一生不退の念仏をや

とある。五逆の者の十念でさえ宿善が強いのであるから、まして一生のあいだ念仏を励んできた者の宿善はなおさら強いはずであるというのである。

 それに対して宿縁は、第三因「宿縁深厚故」と別に一章が立てられている。そこでは、末法の世にあっては浄土の法門こそ時機純熟の教法であることを述べて『正法念経』を引き、そして前に取り上げた『安楽集』の『随願往生経』の文と、『悲華経(ひかきょうではなく、ひけきょう)』の無諍念王が発願するところを抄出した後、

 故に知んぬ、弥陀の発願偏へに此の土に在り。我等一国受生の間、或は父母と為り、或は師長と為り、或は同行と為りて生生世世に更に互に恩有り。静かに宿縁を思ふに悲涙抑へ難し。設ひ一念と雖も引接何ぞ疑はん。

とある。阿弥陀仏の発願が此土にあったことを重視し、阿弥陀仏が生々世々に父母・師長・同行となって、われわれと縁を結んできたことを宿縁といっているのである。そして『陀羅尼経集』『須彌四域経』を引き、「故に宿縁深きを恃んで当に一心に称念すべし」と結んでいる。そこで『往生拾因』もまた宿善と宿縁の語は区別されているのである。

四につづく

▼前回の脚注、水月師による、かささぎの質問への回答

▼水月さんへの問い、二つ。

 

1、最初の引用文では、「問ふ・・答ふ」と送ってるのに対し、二度目の引用文では、「問。答。」と送り仮名が省略されています。これは出典が違うからですか。どうしてかな、意味があるのかな。そういうどうでもいいことが、転載していると気になる。)

 

2、>周知のごとく、別時意の論難は『観経』下下品の十念往生を問題とするものであり、善導は有名な六字釈をもって論破していったが、その先がけとしての『安楽集』は、実は現在の十念には過去の因(宿善)が内包しているとして、宿善をもって会通したのである。

 

というのがまったくわかりません。知識がなさすぎて、すみません。
つまり、周知ではないということです。
こういうものもいますので、どうか優しく教えてください。
善導の六字釈の論破とはなんぞや。

▼水月師、答へて曰く。

御質問に対してお答えします。

ます(1)については、まったくのケアレスミスです。原文が漢文であるのを書き下して引用していますので、原文に「問」とあるのを、一方は「問ふ」と書き下し、一方は「問」のままであったということです。特別な意味はありません。御指摘ありがとうございました。

次に(2)については、ざっくりと申します。

『観経(=観無量寿経)』には、往生人を九種類(これを九品〈くぼん〉といいます)に分けて、その因と果が説かれています。上品上生(じょうぼん・じょうしょう)から下品下生(げぼん・げしょう)までです。その下品下生には、一生涯にわたって悪しか造ってこなかった者が、臨終に善知識(先生あるいは友だちというべきか)に教えられ、十遍念仏して、浄土に往生したとあります。これが「『観経』下下品の十念往生」と書いている意味です。「十念」とは十遍の念仏ということです。これによって極重の悪人が救済されたのですから、往生の因として念仏が行じられるようになりました。

ところが中国の道綽禅師(562~645)・善導大師(613~681)のころ、当時隆盛していた摂論宗(しょうろんしゅう)の学匠たちが、無着菩薩の『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』に説かれる四意趣(仏が人々を導くための説法形式として四種類あるとしたもの)の一つ、別時意だと主張したのです。別時意とは、怠け者を導くために、遠い先に得られるものをすぐに得られるように説く説法形式です。たとえば、千円貯めるのに、毎日一円ずつ貯めれば千日かかる、そうすると怠け者はそんなに日数がかかるならやめようとなるので、一円貯めればすぐに千円貯まりますよ、と説くようなものです。『摂大乗論』自体はこれが『観経』下下品の経説だとはいっていないのですが、摂論宗の学匠たちはそうだといって、念仏を別時意の方便説と説いたのです。彼らは念仏を唯願無行といいました。ただ願だけあって行がない、そんなことで往生できるはずはないというわけです。これが「別時意の論難」です。それによって念仏する者がいなくなったといわれています。

これを論破していったのが先ほどいった道綽禅師・善導大師の師弟でした。とくに弟子の善導大師は南無阿弥陀仏という六字を解釈して、南無は帰命で発願回向の意味があり、阿弥陀仏は行だといいました。つまり願行具足、願も行も具わっているから、念仏すれば必ず往生するといったのです。これが「六字釈」といわれるものです。これを私が「周知のごとく」といったのは、①真宗学を学ぶとき一年生で教えられることであるからであり、②論文に枚数の制限があるから「周知のごとく」で片付けたのであり、③この善導大師の六字釈は今の論文には関係ないことだからです。

問題は師であった道綽禅師の解釈だったのです。道綽禅師は、『観経』下下品の十遍の念仏には実は過去世において宿善があったというのです。たとえば、前に述べたたとえでいうと、過去世に九百九十九円あったから、今生の臨終十念で千円になる、ゆえに下下品の十念往生は別時意ではないと会通(えつう、矛盾するようにみえる二つを、矛盾なく解釈することといったらいいかな?)したのです。この別時意の論難に対して宿善をもってきていることが今の論文に必要であったのです。

ちなみに、この道綽禅師の解釈は後世、あまり注目されませんでした。やはり善導大師の六字釈が有名です。たとえば、親鸞聖人はそれを『尊号真像銘文』という書物に解釈され、主著の『教行証文類』の第二、「行文類」には善導大師を離れて独特の解釈を施しておられます。また蓮如上人も盛んに善導大師の六字釈を用いて伝道されました。

「善導の六字釈の論破」とは、繰り返しになりますが、摂論宗の学匠たちが『観経』下下品の十念往生を唯願無行の別時意だと論難したのに対して、十念往生という念仏には願行具足している、ゆえに必得往生、必ず往生すると論破したことです。

水月和尚。
ありがとうございました。
帰宅してゆっくり考えます

とはいうものの、ゆっくり考えている余裕もない日々。
やっと土曜が休みで、ゆったりとした気持ちに戻る。

水月師が国武先生からの調書、コピーを取って送ってくださる。
それとともに、高野山に本覺院史料について新たな情報をくださる。
大分の県立図書館にある古文書館(名前はこうじゃない、ちゃんとしたなまえがありますが失念ごめん!)にはその資料だけでも千点近くあるそうな。
それを知るにつけ、沢都がなくなったことが残念でならない。
沢都の故郷、臼杵が稲葉氏の本貫だそうで、高野山代々の猊下、稲葉氏と同じと思われるからだ。

ほかにもたくさんずるずるとつながっているのであるけれども、長すぎるので、カット。ただ、この部分だけ、引用コピペはりつけさせてください。

(ゲゲゲ。やっぱりいつもにましてながくなりやした。すまんこって。)

以下は全文、ネット歴史塾からの引用です。

2011年5月4日水曜日

日本女子名の『○○子』はオリンピアスの遺物

出典:言語復原史学会
言語復原史学会
言語復原史学会

「弥勒菩薩も観世音菩薩の仲間、歴史上の人物」
「卑弥呼の「鏡が好物」の真相」
「平和共存思想と排他強国主義の葛藤」
「歴山大王の父を暗殺した母・オリンピアス」
「ギリシャの血が伝えた宿命の思想の激突」
「愛の世界帝国実現の大理想の証し『欧亜結婚』」
「皇室にみる「愛の八紘一宇」」
「女性名の「○○子lはオリンピアスの遺物」
「天皇家の信仰の本質と成長過程」


「弥勒菩薩も観世音菩薩の仲間、歴史上の人物」

これで卑弥呼と観世音菩薩との関係が、釋迦が弟子に説いたとされる

アヴァ ロキ テスヴァラ から、どう展開していったか、

『観音経』の文面を読めば転化の原因から結果までがアリアリと見える。

その愛・慈悲をマレー語系の人々がカシーと呼んだ。

それが「光世音・観世音」と当て字されたために、菩薩名と受け取られ、南中国から周辺に信仰が広まったが、それは様々な民間信仰にまで分化、今なお「女神・聖母」と崇拝され続けている。

彼女は死後、夫・ソナカの廟に妻・神功皇后として合祀され、カシーは香椎という地名を生んだが、それが7世紀に天智天皇即位地になったため、「カシハラ=カシー政府」という名が、『記・紀』編集の混乱から奈良の地名だと誤認された。

だが福岡の「カシー=香椎」がなければ、橿原の名が神武建国地名として国史に登場することもなかったのである。

これでもまだ「卑弥呼が菩薩だなんて…」と不安にお思いの方々のために、もう少し付け加えておこう。

菩薩 Bodhi sattva  とは仏の心で教化する人のことで、神仏の名ではない。

観世音と並んで有名な弥勒(ミロク)菩薩も、生死の年は不明だがA.D.270~350頃の歴史上の人物で、『分別説瑜伽(ヨガ)論』など7種の弥勒真撰が彼の著書であるとはっきりしたので、今では唯識(ゆいしき)派の開祖だと認められている。

菩薩とは釋迦が実在者なのと同様、本来、実在者をいうのである。

弥勒菩薩
弥勒菩薩
観世音菩薩
観世音菩薩
観音経
観音経

※出典:大学講義録22 5頁


「卑弥呼の「鏡が好物」の真相」

だが卑弥呼は、さらに大きな影響を、今なお、愛する日本の女性たちに与え続けているというお話しを、ここでどうしても付け加えておきたい。

それは日本の女性名の最大の特徴である「○〇子」というスタイルこそ、世界に類を見ない最高の命名方式であって、日本文化の高さを象徴する偉大な文化財なのだということである。

欧米の命名様式は、単に故人名を踏襲するだけであるのに対し、「○○子」は女性語尾の「子」だけを規定し、個性を表わす「○○」部分は各自の創意工夫に任せて自由にしてある。

これなら無限大に新しい名が創造できる。

欧米のように同じ名がひしめき合っているような無残なことには、原則としてならないからである。

それが卑弥呼の名の影響だという好例は、光明皇后の裸名「光明子」である。

光ヒカル・明 ミョウ・子コという万葉ガナだ。

アヴァ ロキ テスヴァラ の最初の訳語「光世音」と光明子は二重に重なって、あることを教えてくれる。

ヒカルとは「日借る・火借る」という関西語で、反射光のことである。

これは鏡が最大の機能をもつ。

卑弥呼はこの鏡の機能を、比喩として上表文に使った。

それを魏帝らは「鏡が好物」と誤解したことがわかる。

光明子の名はこれだけの真相を物語る。

日本中の○○子さんも同じ機能をもっているのである。

光世音
光世音
光明子
光明子

※出典:大学講義録22 6頁


「平和共存思想と排他強国主義の葛藤」

殺生禁断、平和主義の仏教徒・卑弥呼と、現実に魏の侵略と戦って、必ず襲いかかる魏の野望から倭人を守るためには、軍国主義以外にないと決意した位宮との、平和共存を理想とする思想と排他戦闘しかないとする現実主義の葛藤が、信仰の差として強調されたと見るのが正しい。

だが当時の倭人たちが、そんな高度の思想戦争をしただろうか?と疑問にお思いの方もあると思う。

これまでギリシャやインドからの移住者が、倭人の中核だったという証拠を、多くご覧に入れてきたのは、私たちが世界の人たちに孤立した奇妙な特異人種とされてきたことを是正したいためだが、それだけではない。

当時の倭人の常識中にこの卑弥呼と位宮の悲劇と全く同じ歴史が、幾つも先行してあったことを、ご理解戴きたかったためなのである。

その第一に挙げなければならないのは、アレクサンドロス大王の両親が迎えた悲惨な流血の破綻である。

父のマケドニア王・プヒリプ(Philip)2世が即位したB.C.E.359年当時のマケドニアは都市も港も産業もない貧弱な農業国に過ぎなかった。

それが20年たらず後にはギリシャ全土を支配する大ギリシャ・マケドニア連邦の盟主国になっていたのである。

※出典:大学講義録25 23頁


「歴山大王の父を暗殺した母・オリンピアス」

そしてB.C.E.336年には、当時、東洋そのものだった大ペルシャ帝国を併合して世界国家を実現しようという彼の夢が認められて、彼は対ペルシャ戦の大元帥こ就任、その先鋒軍が多数海を渡って侵入を開始した。

先に神武天皇の「八紘一宇」はアレクサンドロスの思想だとお話ししたが、より正確にはプヒリプの理想であり夢だったのである。

プヒリプの妻の弟・エピロス王がプヒリプの娘と結婚する日、プヒリプは上機嫌で式場を進んだ。

親衝隊の一人の将校が彼に近づくと、突然剣を抜いて彼を刺し殺した。

真犯人は別にいた。

それを命令した者は彼の妻でアレクサンドロスの生母、王妃オリンピアスである。

オリンピアスはマケドニアの隣国・エピロスの王女だった。

サモトラキアの祭りで会った二人は熱烈な恋愛結婚をして3年後にアレクサンドロスが生まれた。

『英雄伝=対比列伝』の著者:Ploutarcos プルタークは、英雄を賛美する側だから王妃のことを悪く書いているが、彼女は伝統的なギリシャ教の巫女で、蛇を使って神託を下すことで国民に崇敬されていた。

卑弥呼や壹與を知る上で欠かすことのできない大先輩なのである。

彼女は蛇でさえ愛する平和主義者だったから、あくなき支配欲に駆られた夫が多くの国の人々を殺し、味方の戦死者の家族が嘆き悲しむのを見て、夫を悪鬼のように非難憎悪する妻に変わっていたのだった。

オリンピアス
オリンピアス

※出典:大学講義録25 24頁


「ギリシャの血が伝えた宿命の思想の激突」

プロウタルコス(プルタークは英語読み)は、オリンピアスの動機を、その直前に夫が妃にしたクレオパトラへの嫉妬であるとして、王に続いて妃とその幼児が殺された事件を証拠として挙げているが、現在の私たちから見れば、それらは独裁君主制のあるところ全世界で無数に同じことが起こって、その欠陥を立証している「お家騒動」の一つでしかない。

「君主制」というものがどうなったかは、20世紀だけみても、どれだけの国々が「王政」から「民主制」に、国民が奴隷から「主権者」に変わったか、一目瞭然である。

その中には逆の思想だったはずのヒトラーもスターリンまでも入っている。

だからプロウクルコスには衝撃的でも私たちには無視すべきことで、注目が必要なのは、「愛」と「暴力」との思想の激突が古代ギリシャの「政権内」で、すでに始まっていたという史実のほうなのである。

それがギリシャと隔絶した、これまで全く無関係とされてきた古代日本に、そっくりの形で起こった。

しかし私たちは古代インドを介してギリシャ文化が倭人に大きな影響を与えていた事実を次々に発見し続けてきた。

だから卑弥呼と位宮の間に立ちふさがった思想の壁は、東海の孤島で突然発生した知性の産物ではなく、彼等の血に流れている遺伝子(DNA)同様、父祖から受け継いだ哲学の逆流が激突して作った、 宿命的な障害物だったのである。

※出典:大学講義録25 25頁


「愛の世界帝国実現の大理想の証し『欧亜結婚』」

それは未だに全世界に「国境」という鋼鉄よりも硬く冷たい姿で立ち塞がっている。

真の「愛の八紘一宇」が実現する日までそれが消えることはないが、アレクサンドロスのほうは、そのお陰で父が殺されて、王位と大元帥が同時に転がりこんできた。20才だった。

彼はそれまで実母オリンピアスの味方で、父が次々に妃を作っては子供を生ませて後継者候補を殖やし、皇太子としての彼の地位を不安定にしていくのを憎んでいた。

彼は父の戦闘現場から伝えられる戦勝報道が国民を沸かせるたびに友人らに

「父は皆、先取りしすぎるよ。君らや僕には大事業は残さないっもりさ」と皮肉ったと

『英雄伝』に書いてある。

しかし彼は、徳川家光が真似た「余は生まれながらの将軍である」というセリフを吐いて、

母と父の主張の壁を一刀両断に斬り捨てた「愛の八紘一宇」実現に勇躍してペルシャへ進軍して行った。

そしてペルシャを取り、スサノオの語源になったスサで

「人種の壁を除去して人類を一家に融合する愛の世界帝国実現の大理想の証し」に、

「合法かつ正当な結婚により生まれてくる子孫によって、欧亜を永遠に一つに融合するのだ」と、

彼は皇帝ダリウスの娘と結婚し、都下の将軍たち90人と、数千人のマケドニア兵士が、

それぞれペルシャその他のアジア人女性たちを同時に花嫁にする巨大結婚式を挙行した。

有名な『欧亜結婚』である。

八紘一宇
八紘一宇
欧亜結婚
欧亜結婚

※出典:大学講義録25 26頁


「皇室にみる「愛の八紘一宇」」

アレクサンドロスはサマルカンドでも王女・ロクサーヌと結婚している。

彼自身は病気のためインドから引き返したが、その理想であるアジア遠征は、その部下たちに受け継がれて、さらに東へ広がって行った。

それは我が国在来の史学では無知のままに放置されてきたが、本講ですでに確認した通り、我が国にも無数の遺物を残していて疑問の余地は全然ない。

これが卑弥呼から壹與、光明皇后、さらに現代まで続く天皇家の伝統や、巨大神教を作る思想と技術とを仏教にまで色濃く残しているギリシャ型信仰と、思想の実体なのである。

ギリシャ型信仰の特徴は、女性による神託と、次々に優れたものを排他牲なく取り入れて、さらに改善する進歩思考にある。

それはアレクサンドロスの大理想であり大方針でもあった。

沖縄に現存する巫女「ノロ」は頑にギリシャ独特の月桂冠をつける。

ノロはノルで「宣(の)る」すなわち神託である。

天皇の言葉「ミコトノリ」も本来は、この女帝による神託だった。

だからこそ卑弥呼は仏教を受け入れ、後世の国教も神仏を共に排斥しないで来た。

正倉院の御物(ぎょぶつ)などの欧亜混交の宗教用文物は、これまで美術の珍品、古物愛好者のコレクションていどにしか扱えない学者しかいなかったが、天皇たちの根本思想が、偏狭なナショナリズム(ヒトラー的民族主義)などでなかったことを、何よりも雄弁に語る真の宝物なのである。

ミコトノリ
ミコトノリ
正倉院の御物
正倉院の御物

※出典:大学講義録25 27頁


「女性名の「○○子lはオリンピアスの遺物」

宮廷風俗をみても多くの国々の文化をこだわりなく受け入れている。

それは20世紀の軍国主義者が唱えた「侵略八紘一宇」ではなく、アレクサンドロスの「愛の八紘一宇」である。

視点を変えてみるとオリンピアスは別の遺物を今も日本に充満させている。

天照大神宮はアマ・ゼウス・オリンピヤが語源で、

大神宮はウジンビヤからウジンミヤに発音が変わった土地で付けた当て字だとお話しした。

光明皇后の「光明子」もこれと同じ原理で謎が解ける。

明子の昔の振り仮名はミヤゥシかミヤゥスだから、ビヤスやミヤスが原音だといえる。

日本女性に圧倒的に多い○○「子」という女性語尾はオリンピアスの女性語尾「ス」と同じで、

オリンピアスの記憶から生まれたギリシャ型女性名詞の名残だといって間違いではない。

そしてさらにこのことが卑弥呼の「弥」を、なぜ「ヤ」とも読むのか?という謎にも答えてくれる。

オリンピアスのオリンは日本女性の名にもあるが、オリンはウジンで大神という当て字だから、

「大神卑弥(ヤ)子」と書くと「オリンピヤス」と一致する。

卑弥呼から卑弥子に当て字が変わるのは不思議ではないから、

オリンピアスの名は、単にオリンさんだけでなく、

ミヤズヒメ=宮姫、ミヤコ=都などを新たに生み、御息所(みやすどころ)

(天皇の寝(やすむ)む所、という意味から、皇子・皇女の生母を指し、皇太子妃・親王妃も指す)にもなって残っているのである。

※出典:大学講義録25 28頁


「天皇家の信仰の本質と成長過程」

こうした事実と、これまで見てきた我が国の古代信仰の遺物とを考え合わせると、

皇室の信仰は、まず古くシュメルに始まった宗教だった。

それは「スメロギ=シュメール王(ギ)」という称号その他の遺物が、

バビロンの滅亡で四散したカルデア人=カリエン人の一部が

台湾・沖縄に宝貝王国を建設して栄えた事実を、歴史と大量の遺物、文化財が教えている。

次いで、紀元前4世紀にアレクサンドロスの東征を引き継いだギリシャ人が、

与那国島を皮切りに琉球列島から北上し、

高族の政権と合体、継承したためギリシャ信仰が重なった。

またインドからウッタラ第1次仏教宣布団が、

中国地方から東海に銅鐸時代を展開、

それと並行してシンドゥ教が広まったあと、

後漢の孝桓帝、孝霊帝のころ、

第2次仏教宣布団のソナカが沖縄を経由して南九州に上陸、

卑弥呼と結婚して仏教をひろめ、ソナカの戦死後、

卑弥呼を女王とする大倭人達邦が確立して長期政権が続き、

三国時代の動乱の余波で卑弥呼政権が敗北移動した後も、

さらに様々な政変はあったが、倭国は所を変えて存続し、

次第に東遷して近畿に至り、

聖徳太子時代を頂点とする仏教時代を現出、

大化政変以後もなお仏教の様々な教義を加えて

渾然(こんぜん)と一つになったものなのである。

だから皇室の信仰を「神道」と呼ぶのはいいが、

それをシンドゥ教だけだとするのは大きな誤りである。

神道
神道
シンドゥ教
シンドゥ教

※出典:大学講義録25 29頁

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コメント

御質問に対してお答えします。

ます(1)については、まったくのケアレスミスです。原文が漢文であるのを書き下して引用していますので、原文に「問」とあるのを、一方は「問ふ」と書き下し、一方は「問」のままであったということです。特別な意味はありません。御指摘ありがとうございました。

次に(2)については、ざっくりと申します。

『観経(=観無量寿経)』には、往生人を九種類(これを九品〈くぼん〉といいます)に分けて、その因と果が説かれています。上品上生(じょうぼん・じょうしょう)から下品下生(げぼん・げしょう)までです。その下品下生には、一生涯にわたって悪しか造ってこなかった者が、臨終に善知識(先生あるいは友だちというべきか)に教えられ、十遍念仏して、浄土に往生したとあります。これが「『観経』下下品の十念往生」と書いている意味です。「十念」とは十遍の念仏ということです。これによって極重の悪人が救済されたのですから、往生の因として念仏が行じられるようになりました。

ところが中国の道綽禅師(562~645)・善導大師(613~681)のころ、当時隆盛していた摂論宗(しょうろんしゅう)の学匠たちが、無着菩薩の『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』に説かれる四意趣(仏が人々を導くための説法形式として四種類あるとしたもの)の一つ、別時意だと主張したのです。別時意とは、怠け者を導くために、遠い先に得られるものをすぐに得られるように説く説法形式です。たとえば、千円貯めるのに、毎日一円ずつ貯めれば千日かかる、そうすると怠け者はそんなに日数がかかるならやめようとなるので、一円貯めればすぐに千円貯まりますよ、と説くようなものです。『摂大乗論』自体はこれが『観経』下下品の経説だとはいっていないのですが、摂論宗の学匠たちはそうだといって、念仏を別時意の方便説と説いたのです。彼らは念仏を唯願無行といいました。ただ願だけあって行がない、そんなことで往生できるはずはないというわけです。これが「別時意の論難」です。それによって念仏する者がいなくなったといわれています。

これを論破していったのが先ほどいった道綽禅師・善導大師の師弟でした。とくに弟子の善導大師は南無阿弥陀仏という六字を解釈して、南無は帰命で発願回向の意味があり、阿弥陀仏は行だといいました。つまり願行具足、願も行も具わっているから、念仏すれば必ず往生するといったのです。これが「六字釈」といわれるものです。これを私が「周知のごとく」といったのは、①真宗学を学ぶとき一年生で教えられることであるからであり、②論文に枚数の制限があるから「周知のごとく」で片付けたのであり、③この善導大師の六字釈は今の論文には関係ないことだからです。

問題は師であった道綽禅師の解釈だったのです。道綽禅師は、『観経』下下品の十遍の念仏には実は過去世において宿善があったというのです。たとえば、前に述べたたとえでいうと、過去世に九百九十九円あったから、今生の臨終十念で千円になる、ゆえに下下品の十念往生は別時意ではないと会通(えつう、矛盾するようにみえる二つを、矛盾なく解釈することといったらいいかな?)したのです。この別時意の論難に対して宿善をもってきていることが今の論文に必要であったのです。

ちなみに、この道綽禅師の解釈は後世、あまり注目されませんでした。やはり善導大師の六字釈が有名です。たとえば、親鸞聖人はそれを『尊号真像銘文』という書物に解釈され、主著の『教行証文類』の第二、「行文類」には善導大師を離れて独特の解釈を施しておられます。また蓮如上人も盛んに善導大師の六字釈を用いて伝道されました。

「善導の六字釈の論破」とは、繰り返しになりますが、摂論宗の学匠たちが『観経』下下品の十念往生を唯願無行の別時意だと論難したのに対して、十念往生という念仏には願行具足している、ゆえに必得往生、必ず往生すると論破したことです。


水月和尚。
ありがとうございました。
帰宅してゆっくり考えます

ソングスばみよったら、アレクサンドロス、ちうバンドがでてました、
べつにたいしてカッコ良くないのだが、かっけー、て、周りがいってた

いや、そげなこつば書きたかった訳じゃなかと、
ばってん、仕事の休み時間に開いて、アクセス、その時点の、をみたとき、そこ、開くじゃろ。
で、つい、。
コメントに歴山王のことがかいてあったけん。

うわー。言い訳になっとらん。笑

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