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2014年8月25日 (月)

『親鸞聖人における宿縁の意義』 その1       遠慶宿縁

親鸞聖人における宿縁の意義

   森本光慈(水月)・文

 

   一

親鸞聖人(1173~1262、以下敬称略)は、『教行証文類』総序と『浄土文類聚鈔』に、

  たまたま行信(信心)を獲ば遠く宿縁を慶べ。

といっている。たいへん有名な、周知の文ではあるが、いま宿縁の語に注目したいと思う。というのは、宿縁には宿因・宿善・といった同類の語があるが、先哲の講録等を見てみると、宿因÷宿善と宿縁を区別するか、同じと見るか、説が分かれているからである。仮に以下、A説、B説と呼ぶことにしよう。

 まずA説として、智暹(ちせん・1702~1768)の『樹心録』には、

 宿縁とは謂く宿世の因縁なり。因縁は即ち感応なり。
因は衆生に在り、縁は如来に在り。因に善悪有り。過去の見仏聞法等を名づけて宿善と為す。過去の毀仏謗法等を名づけて宿悪と為す。縁に順逆有り。・・・衆生は善根薄少にして,造悪強剛なり。仏、順逆二縁を以て之を摂して正趣に帰せしむ。今將に仏力を談ずべきが故に宿縁と云ふ。その結縁は法蔵菩薩の永劫修行の時に在ることを知らしめんが故に遠慶と云ふ。

とある。宿縁とは宿世の因縁であり、その因縁を因と縁とに分け、因は衆生の側、縁は如来の側として、因に宿善・宿悪、縁に順縁、逆縁があるとする。そして親鸞が宿縁といったのは、順逆二縁を施し救おうとする仏力を語るためであり、法蔵菩薩の修行時における結縁を宿縁と見ている。また深励(じんれい・1749~1817)は『講義』に、宿因・宿善・宿縁の三語は同義に使う場合と分ける場合があるとして、親鸞が宿因・宿善でなく宿縁といったのは、「心ありてのたまふことなり」といい、『樹心録』を引いた後、「衆生が過去でまいた種子は因なり。仏にあひ、法を聴聞して善根を植たは宿善なり。そのとき、如来の方から御縁を結ばせらるるは宿縁なり。わけるときには宿縁と云ふは、如来の方から衆生に対しての縁なり」といっている。宿因・宿善は衆生の側につき、宿縁は如来の方から衆生に縁を結んでくることというのである。そしてその内容について、「弥陀の無始以来の御縁、別しては肇歳永劫の御修行の中」での順縁・逆縁を宿縁と見ている。

 次にB説として、僧鎔(そうよう・1723~1783)の「一滞録」には、『大経』「往覲偈」の「若人無善本」と「定善義」の「過去已曾修習此法」等を宿因、「往覲偈」の続き、「清浄有戒者乃獲聞正法」を宿善、「曾更見世尊」宿世見諸仏」を宿縁と配当するが、「畢竟は同じものなり」といい、「弘願にあひたてまつるに望むれば三名互に通ずべし」といっている。また善譲(ぜんじょう1806~1886)の『敬信記』には、

  宿善・宿院・宿縁同じこと、必ずしも品物の違ひによりて、因縁善と分つにあらず。宿縁とは、具に云へば宿世の因縁と云ふ。諸善万行が,この行信を得るの因縁となる。因縁となるから、或は宿因と云ひ、或は宿縁と云ふ。其の善体に付いて、又は宿善とも云ふ。

とある。宿世の諸善万行を因縁として行信を得るから、宿因とも宿縁ともいい、諸善万行を修sっしたという、体について宿善とも呼ぶというのである。そして善譲は、名は挙げていないけれども、智暹の説を批判している。また、石泉(せきせん・1762~1826)や月珠(1795~1856)・円月(1818~1902)等になると、宿縁とは宿善であるとおさえている。
ただ真宗における宿善については、先哲のあいだで諸説あるが、いま当相自力・体他力と見ると、その体他力の辺が「遠慶宿縁」である。

 そうすると、両説ともに親鸞が慶んでいる対象は如来の側にあると見るのであるが、A説は宿善と区別した如来の側からの結縁であり、B説は体他力としても衆生の側でなした宿善である。
いったい親鸞は何を内容として宿縁といっているのであろうか。

 

つづく

 

参照;http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-9141.html

遠慶宿縁(おんきょうしゅくえん)の書、おおたにくぶつ;http://ameblo.jp/kakashiyo/entry-11094902114.html

 

 

 

 

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コメント

昨夜これを二度打ち込んだ。
というのも、またまた長時間に及んだため、反映のスイッチオンにしたとたんに消えるというヘマをやらかしたからです。
何度同じ失敗をやってもこりないものだなあと我ながら情けない。
内容を読んで、意味がつかめないところを聞きました、いま返信がきていました。
それを転載します。

「当相自力・体他力は、真宗の宿善論の一つで、信心を獲た後(信心獲得後、しんじんぎゃくとくご)、振り返ってみれば、過去世に自分の力で善を積んできたと思っていたが(当相自力)、実は阿弥陀仏のおはたらきであった(体他力)というものです。簡単にいえばそういうことでしょう。「当」面の「相」(すがた)は自力だが、「体」(本質)は他力(阿弥陀仏のおはたらき)というので、当相自力・体他力です。宿善論の有力な一説です。

月珠は「げっしゅ」です。江戸時代の末に西本願寺で学派が分裂し、数多くの学派ができましたが、有力なのが空華学派(僧鎔が祖)、石泉学派(石泉僧叡が祖)、豊前学派で、その豊前学派の祖とされるのが月珠です。ちなみに円月は月珠の弟子で、豊前学派を大成した人です。」

遠慶宿縁

検索で二位。
一位はこれ↓

滞在時間 4分40秒 閲覧ページ数 3ページ 参照元 遠慶宿縁


いま、ビートルズが流れている、オンキョーしゅくえん。

滞在時間 24分16秒 閲覧ページ数 2ページ 参照元 遠慶宿縁

昨夜テレビつけていますと、築地本願寺を紹介していた。
本堂のたてもの自体、日本風の寺のかたちをつき抜けて、インド風に独特、壮大な気風を感受する。
いったい誰が、と思ったら、
いとーちゅーた、と聞いたことのある名前がでました。
伊東忠太です。

以前、靖国神社の狛犬のところや西牟田靖さんの本で学びました。
縛られない精神。親鸞のように。
さ、ベントだベントだ。弁当つめよう

このなかのどれかに、
イオンのワクチン接種現場でのあくしでんと?がうつりこんでいるらしいです。まだみていませんが、

きょうもしごとなので、がんばります。

もう1233にんもなくなってしまったのだなあ。
ほうこくがあっただけで、ですからね。
こうこうせいもなくなったようです。

このおかたはどなただろうか

もうすうじはあがらないのか
わかもので占められるようになったのが一目瞭然だからなんだろうというはなしだ
なぜこんなよのなかになったんだろう
それも必然なのか

たつき諒  たつきりょう、という名前。
このなかにでてきます。↓
竜樹という意味かもなあ。

たつきりょうさんをふとしりたくなって、今日、積文館書店現TSUTAYAで月刊ムウ11月号をかってしまった。
なんとたつきりょうさんは前世ではアリババの娘だったそうな。いやちがった、サイババね。
かささぎあたま、だんだんあほになってきた。

まごむすめに絵本の一つも送ろうとおもいつつ、やっぱりあたまがワクチン懐疑でいっぱいなものだから。
それにしても、ムウ、これまで一度もよんだことないのに、つい。まだまだわかいのかもしれんなあ。

たつき諒とは関係ないが、ワクチンに入っているという酸化グラフェンについて、さるおかたが明解に語ってくださっている動画。
このおかたのまとめ記事をよみたかったが、すでに消されている後でした。

けさ、これ↓をみて、たいへんおどろきました。
まるで西洋で毎週おこなわれている枠パス反対デモみたいではないか!
もんんのすごい大群衆!!
山本太郎、すばらしい!!

それと追伸、

たつき諒さんは竜樹諒とも書くようです。
竜樹は七高僧の筆頭にあげられるお釈迦様のお弟子さまですが、
その出現はおしゃかさまによって予言されていたそうで、全く知らなかったその生涯も、ネットでしることができました。まるで法然物語でのはなしにかぶさるようなエピソードがありますね。王様のだいじなおんなたちと王様がしらないあいだに遊んで、のちに死罪になりそうになる、というところ。
日本では後鳥羽上皇だったか、後白河だったか、秋篠宮殿下だったか、日本の仏教界のものがたりのなかにももっとも調べの強い、美しい、哀切なものがありますね。
マツムシ、鈴虫だったとおもいます、女官の名前は。そして若き僧侶の名前は安楽、もう一人はええっと、うーん、思い出せない!
死罪でした。

おもいだした。じゅうれん。
住蓮、とかくんじゃなかったかな。

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