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2014年8月 4日 (月)

龍の谷から18  国武先生への手紙

文・水月

今日、國武先生から8月2日付けのおハガキを頂戴しました。書中、「何しろ二十年近くも以前のこととて、当時の事を思い出すのに一苦労している所でございます」「いずれ詳細につきましては後日御報告いたしたく存じます」「のちほど私が考察いたしましたことは、お知らせいたしますので、今しばらくお待ちください」とおっしゃっておられます。先生にお手をわずらわしてしまいますこと、まことに恐縮すると同時に、学者としての先生の誠実さを感じました。
 
先生への質問は以下の通りです。
(A4用紙1頁にわたって書いた挨拶文や先生の御住所を知った経緯などは省略します)
 
(1)まず『聖方紀州風土記』ですが、姫野さんからコピーして送っていただいたものを拝見いたしますと、原稿用紙のようなものに肉筆で書かれています。これは何か原本があって、それを先生が資料蒐集されたときに書き写されたものですか。それともこのような状態であったのですか。また著者と成立年代はいつですか。NO.9の7行目に「現今 三十七世」とありますから、『高野山本覚院~』の最後に「昭和三年九月~」そして「現住 稲葉宗瑞〈第三十七世代〉」とあるのを対照すると、第三十七世 稲葉宗瑞師の代、昭和三年ころのものということでしょうか。
(2)そうすると、先生の御論文「唱導文学としての~」で講坊本覚院の縁起を述べるのに、なぜ『聖方紀州風土記』を用いるのですか。史料的にいって、『高野山本覚院~』の方が「明治四十五年」ですから古いはずです。こちらを用いるのが常套だと思いますが、『聖方~』を用いるのは理由があるのですか。もしかすると、のちに「天正十六年(1588)罹災」を出すための伏線ですか。
(3)そして私が何より「えっ!」と声を上げたのは、先ほどのNO.9の5行目です。「行空上人の命日 天福元年七月六日」とあります。ご無礼ながら、念をおさせていただきます。これは先生が書き込まれたということはないですよね。大事な点です。『高野山本覚院~』には「最終の行化、文永年中星野村にて年九十才、口中より光明を放ち……」とあります。和田重雄氏編『貞享版 黒木物語』所収の「本覚院は筑後国を檀家とする由来」(211頁)にも「文永年中」とあり、その右註に「一二六五」と記されています。行空の命日を天福元年(1233)7月6日としたのは江頭亨氏の『郷土史物語』(1968年)138、146、606頁です。『星野村史 年表編』(1995年)15頁もその天福元年説を採用し、本覚院の文永年中説を細字で註記してあります。そして現在の本覚院自体も、拝見させていただいた『当国過去暢』には天福元年とし、その横に赤字で「一二三三」と記してあります。確かに行空が建久年中(1190~1198)に本覚院を開創したとするなら、文永年中(1265)では年代に開きがありすぎるように思われます。天福元年(1233)の方が無理はないでしょう。しかし、私は江頭氏の説に疑問を感じていました。『星野村史 文化財民俗編』(1997年)38頁にも「旧墓塔にかく記されていたように書いてありますが、今日ではそれを確認することができないのは残念です」といっています。江頭氏の『郷土史物語』の口絵写真のなかには明治40年以後でしょう、行空の墓塔のすがたが掲載されています。これが『星野村史』のいう旧墓塔かと思い、現地におもむいて確かめてみましたが、現在の高野堂「行空上人の墓」と変わりないようです。では旧墓塔はどこへ行ったのでしょうか。江頭氏は何を見て行空の没年を天福元年といわれたのでしょうか。なぜその証拠となるものを残さなかったでしょうか。といっても、江頭氏が捏造したとかいうのではありません。「高牟礼峠を越して星野に下る途中、縫尾久保という所で急に卒倒して死亡した」といわれのはあまりにリアルです。江頭氏はやはり何かを見られたのでしょう。できうれば、後学のために、それを日の当たるところに残しておいてほしかったです。せめて、江頭氏の地の文でいうのでなく、「資料(旧墓塔とか)には『○○○』と書いてある」と示してほしかったです。『星野村史』がいうように、残念でなりません。ところが『聖方~』に「天福元年七月六日」と明記されていることは、江頭氏の説の傍証になります。この『聖方~』とはいったいどういう資料なのですか。
(4)そこで私は龍谷大学の図書館で、高野山史編纂所編『高野山文書』にあたってみたところ、注記に第6巻は「旧学侶方一派文書」、第7巻は「旧行人方一派文書」となっていますから、第8巻は聖方に関する文書ではないかと想像したのですが、どこの大学にも第8巻がありません。いま町内の図書館で探してもらっているところですが、これにあるのでしょうか。(どこの大学にもないということは、もともと第8巻は存在しないのかもしれません)
(5)それはともあれ、江頭氏は「行空上人は黒木にあって黒木助能夫妻のこの上もない優遇をうけ天福元年七月六日九十才の天寿を全うして死亡しました」(138頁)といわれています。ここに「九十才」とありますが、『聖方~』には没年齢は書かれていません。この書かれていないということが重要です。というのは、江頭氏が見られたものに本当に「九十才」と書いてあったのかという疑いが出てくるからです。先生の「唱導文学としての~」や五来重氏の『増補 高野聖』243~244頁には、行空は一宿上人と呼ばれたとして、『今昔物語集』や『三外往生伝』、『元亨釈書』の記述を挙げておられますが、その元になったのは天台宗の鎮源が長久年間(1040~1044)に撰述した『法華験記』(『岩波日本思想大系七 往生伝 法華験記』137頁)です。そこに「老後に、鎮西に出でたり。九十に及びて……」とあります。「九十」という年齢はここから来ていると思われます。少なくとも、一宿上人と呼ばれた人物は『法華験記』に出ている以上、それ以前の人物(遅くとも1020年か1030年くらいに没したか?)と見なければなりません。それを素材にして『元亨釈書』は書かれているのです。したがって天福元年(1233)に没した行空と一宿上人とは同名異人であり、一宿上人が九十才で没したとはいえても、天福元年没の行空が九十才であったのかどうかわかりません。偶然、名前も一緒で、同じく鎮西で没し、その年齢も一緒であった、と考えられないこともありませんが、どうも怪しく思えます。そこで『聖方~』の命日だけで年齢を記していない記述は注目されてやみません。やはり『聖方~』の正体が知りたいです。
(6)先生の「唱導文学としての~」の第3章「『黒木助能』の話」の終わりに、「以上は黒木地方に残る伝説のあらましであるが、星野村に伝わっている話では、ここに新たな人物が登場する。行空上人である」とあります。その行空が登場するという星野村の伝説とは何ですか。助能が剣を沈めても祟りがやまなかったという本覚院の伝承のことをおっしゃっているのですか。また『北肥戦誌』には行空の名は出てきませんが、「待宵侍従下向の時、所願ありて高野山に一寺を建立し、講坊と号す」とあります。講坊を建立したのは行空ということですから、この『北肥戦誌』も星野村の伝説をいっているのですか。
(7)第4章「行空上人の話」では、行空が助能の正室の祟りをしずめたという記述のあと、本覚院の縁起を述べられ、「黒木において加持祈祷を終えた後、行空上人は星野へと向かったが」とあります。助能が大番役で上洛したのが文治2年(1186)で、三年詰ですから、それを終えたのが文治5年(1189)、待宵小侍従を連れて、あるいは単身だったかもしれませんが、帰郷したのがその年か翌年(文治6年=建久元年 1190)とすると、祟りがおこったのはその頃でしょう。行空がそれをしずめて星野に向かう途中で息絶えたとおっしゃるのなら、天福元年(1233)に没したというのと、40年の差が出てきます。おそらく先生はここを流していらっしゃるのだと思いますが、行空が祟りをしずめたというのを事実とすると、没するまでの40年、行空は何をしていたのかという疑問がおこります。(このあいだに法然門下になり、佐渡島へ流罪になったあと、赦免になって鎮西に来たというのが江頭氏などのお考えのようですが)
(8)第7章「唱導文学としての『黒木物語』」では、本覚院講坊は天正16年(1588)に罹災し、稲葉公が大檀那として再建に尽力したとおっしゃったあと、「その他にも講坊建立の為に一紙半銭の零細な勧進銭を名もない庶民に乞いあるく聖(つまり高野聖)の存在もあったに相違ない。彼らは勧進の手段として「語り」を通して寺の縁起を人々に説いた。それが行空上人でありまた待宵小侍従であった。(中略)笛の名手黒木助能なる人物を新たに作りあげ、調姓や待宵の小侍従と結びつけたのは他ならぬ高野聖と呼ばれる回国の下級勧進聖だったのだろう」といわれています。第8章「結論」にも、「『待宵の小侍従』説話は、講坊再建の為に訪れた高野聖によって戦国時代の末ごろ黒木星野地方にもたらされ」といわれています。これによると、黒木助能や待宵小侍従、行空上人のことは、講坊再建のために高野聖が作った物語であると理解していいのでしょうか。
最初に申しましたように、私は本覚院の寺伝、あるいは今ふれた『黒木物語』は架空の話だったと確認したいのではありません。繰り返しになりますが、それは尊重すべきものです。とやかく申すつもりはありません。ただ、高野聖が作った話だとすると、先に述べた40年の問題もなくなり、法然門下の行空が佐渡島から鎮西に来て没したということも積極的にはいえなくなるのではないかと思うのです。では、高野堂「行空上人の墓」の行空は何者か、私は正直のところ、一宿上人の墓だと思うのですが、江頭氏は天福元年が没年といわれていますから、年代が合いません。また本覚院も開基である行空の墓であるとしています。ゆえにそれらにしたがうよりないでしょう。ただ墓標の正面には「高野山講坊先師行空上人」とありますから、法然門下の行空の墓ではないというのが私の結論です。
 
 以上、長々と申しました。お許しください。
 要は、『聖方紀州風土記』という書物は誰が著者で成立年代はいつか、どこで書かれたものか(たとえば本覚院とか)、そしてそれが現物であるのか、先生が書写されたものであるのか、またNO.9にある行空の命日「天福元年七月六日」というのはもともとあったのか、ご無礼ながら先生が書き込まれたのか、という点。
(論文にこれを引用するとき、國武久義氏所蔵本なのか、書写本なのか、ということになります)
 また、黒木地方に伝わる話とは別に行空が登場する星野村に伝わる話というのは本覚院の伝承のことなのか、という点。
 また、待宵小侍従や行空上人のことなどは講坊再建のために高野聖たちが作った物語であるのか、という点。
 まことに恐縮ながら、ご回答いただければ幸甚に存じます。 
                                   合 掌
 
  平成26年7月25日
 

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コメント

げげ。なが!
目がよんだとて、かささぎあたまでは、こなれませんぞ。

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