無料ブログはココログ

« 盛夏の月 | トップページ | 健康寿命について(8)健康寿命が長い市町村はどこ »

2014年7月12日 (土)

国武久義先生にお会いする

国武久義先生にお会いする

左から、『聖方(ひじりかた)紀州風土記』、
真ん中の小冊子は『高野山本覺院 因由 并ニ 筑後國檀緣之由來  紀伊國高野山千手院谷 準別格本山 講坊 本覺院』のコピー本。
左上に史料第拾弐號 星野氏史實顕彰會の附票。
図書館の史料ではないため、図書館のコピー機は使用できず、家に持ち帰る。
先生に返却する前にこの写真を一枚とりました。
右にかささぎが家で取らせてもらったその最終ページ。
昭和三年九月廿五日登山 仝年十月十一日送之 調元未殿、第三十七世代稲葉宗瑞と、高野山猊下の署名印があります。)

広川町のなごみ交流センター図書室前のテーブルで
国武久義先生とお会いした。
この日の会談をセットしてくれたやまなみ短歌会歌人山下整子氏も加わり、およそ二時間にわたる、有意義な授業を受けることができました。
先生は昭和16年、ここ広川町のお生まれだそう。
思いつき次第、なんでも聞いてしまいました。
あまり脈絡なく、でも、ちゃんとつながっていました。

国武久義先生にお会いする

長崎大学を出ておられる国武久義先生は高校教師だった方で、ふりだしは、浮羽高校。
八女農業高校、黒木高校、福島高校、浮羽工業高校と筑後一円を経巡っておられますうち、この地方の俚謡(民謡)に興味を覚えられ、それを採取してきては研究を重ねられ、毎年教壇の研究サークル誌に論文のかたちで発表してきたものを、一冊にまとめ上げられたのが、『「はんや舞」の研究ー筑後星野風流』(葦書房)だったとのことです。
お手持ちの、さいごの一冊をかささぎの旗にくださいました。
納楚公民館の本棚から、かささぎが長くくすねているものは、「あんた、はよ返しよ!」と、せいこさんがせっついた。

この他にも、たくさん黒木物語の資料を持ってきてくださいました。
写真に撮ればよかったのですが、バタバタしていて携帯不携帯。

たくさんの話題のなかから、これを。

ひとをのみし渕かやここは
上臈の
都恋しと泣きにけむかも  白蓮

このうたの、国武久義先生のよみ。

ひとを(黒木すけよしの妻の春日局を)のんでしまった渕なのね、ここは。
都からすけよしが伴った待宵の小侍従、
彼女もきっと都が恋しいと泣いたことでしょうね。

前半と後半で明確に切れているうたです、とのことで、白蓮さんが黒木物語の意味を逆に取り違えたというわけではないのだ、ときっぱり。

そうでしょうねえ。
かささぎとはちがいます。

そこで質問、
「けむ、、、けむかも。このことばは間違いではないんですか?」
国武先生
「けむは過去の推量、なになにだったろうという意味です」

なるほどそうか。よくわかりました。ありがとうございました。

(って、先生は国語のせんせいだそうで。

かささぎのまわりで、文法の問題で頼りになるのは、鍬塚聰子氏がいらっしたのですが、国武先生、ここにも一人発見!)

そうそう。これを書き漏らすところだった。
以前せいこさんから借りてきた広川町史。
その資料編でみつけた、広川町の西のはずれの相川(あいごう)近くにある藤田という地の旧家、江口家の碑。http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-d48c.html
その文面に黒木物語が引かれている理由を知りたかった。
それは江口氏の先祖が黒木すけよしの三人の息子のうち、二番目の川崎氏だったからなんです。佐賀へいって江口に姓をかえている。その系図も写させてもらい、それに付されてた戦記(軍記)もよみました。

おかげでたくさんの学びがあったことを感謝いたします。

水月さんには、ご希望であればコピーを送ります。聖方紀州風土記。
せいほうは西方の誤植ではとか単純に思っていたアホかささぎでしたが、ひじりかた、とよむのだそうです。ふしぎな本だった。コピー書なんですが、肉筆でまとめたもので、字体がよびおこす印象は、つまんなさそうで淡々としていて、渋面の勉学にあけくれる石橋さだきちみたいなかんじ。すみません。

短歌誌『やまなみ』やまなみ賞特集号をいただく。

やまなみ、山下せいこ、三冠達成おめでとう。
よみました。
すごいねえ。
なんという自在感。
感覚の鋭敏さと切り口の斬新さ、語彙の豊富さこなれ感、どれも見事だ。

連句の場で十分みせつけられてきたことですが、こうしてやまなみ同人時間の重なりの中での作品を、同人のみなさんが評価されている評言とともに読んでおりますと、山下整子はたぐいまれな能力に恵まれた、そして歌をよむための環境にも恵まれた歌人であることが、よくわかります。
どのおかたがとりあげて論じられた歌にも感心しましたが、とくに驚いたのは、震災詠でしたよ。

« 盛夏の月 | トップページ | 健康寿命について(8)健康寿命が長い市町村はどこ »

コメント

『聖方紀州風土記』、いま写真を拝見して、そういうものだったのかと思いました。何かの『全書』の中に収録されている書物かと思っていました。ぜひ拝見したいです。もうビックリです。送っていただけませんか。また『高野山本覚院~』もありませんか。私が本覚院に行ったとき見せてもらえなかった書物です。もう一度ビックリです。何卒お送りいただきたく、お願い申し上げます。、

『高野山本覚院~』の写真の右下に「星野村公民……」という印が押されているようですが、この書物は星野村の公民館に所蔵されていたものでしょうか。もしそうなら、今はどこにあるのでしょう。お聞きになられましたか。12日、行けなかったのが残念でなりません。もっといえば、悔しい思いでいっぱいです。それにしても、かささぎさんはいい勉強をされましたね。うらやましいかぎりです。

あ、そうなのですか。
それで初めて見た気がしたんだね。
題は黒木物語にもほかの資料にもあったのですが、内容をみたら、はじめてよむ気がしたから。
資料をあつめたのは三十数年も前のことなので、どういうものだったのか、経緯もなにもわからないそうです。
あんまり資料があったので、迷うところ、意外な程あっさり、では、これとこれとこれを。と、三つを抜いて、コピーしました。
大版の江口系図関連はコンビニでとりました。
しらべ姓の一族のお方がとってみえただいじな資料、原本は星野のしかるべきところにあるのでしょうね。
資料の扱いについて、先生がおっしゃったことが忘れられません。
水月さんがおっしゃるように、歴史の史実であるのはどこまでかという実証的な次元のはなしと、それぞれの物語が忠実に代々伝えられて、それを大事に守ってこられた方々の歴史は、たとえ史実と食い違っていたとしても、だれにも、それはあなた違うでしょう、ということはできないはずだ、と。
それぞれの家の歴史とものがたりを語るのは尊重されるべきであると。

かささぎがこのところ、ごっちゃごちゃしていて混乱している、奥やめ地方の歴史、南北朝の九州南朝の歴史(これは史実)と、黒木物語との関係。
こないだ新聞記事でよんだ、黒木のじろぶち(神露渕とかきます)に伝わる、姫御前が身を投げた話を、黒木の女性が劇化しておりなす八女で上演したというニュースと、黒木物語の関係は?

これは、国武先生が以前八女市制だよりみたいなのに書かれたものがあるそうで、いずれせいこさん経由であげましょう、といわれました。
はい。わたしはほんとうになにもしらない。
八女の市民のみなさまも、きっちりとポイントをおさえながら、史実とものがたりを分けつつ知ってらっしゃるひとは、超すくないのではなかろうか。
これをきれいに整理したら、すばらしいことでしょうね。

いまふっと思いついて、さくらさんの大円寺写真記事にコメントを書きました。
興味のある方はどうかご一読ください。
かささぎの下線部をクリックするとつながります。
「デジカメ日記」の「永福町泉谷山大園寺」コメント
島津家と近衛家

▼九州の南朝と黒木物語
かねなが親王という人名は、奥八女で育った人はたいがい知っています。墓が矢部にあるからです。
でもじっさいにこの親王がどういう生涯をおくったのかを知っている人は少ない。
それを詳しく調べた郷土史家研究の史実をもとに書かれた小説があり、持っているのですが、まだよむ暇がとれてないのです。それでもあちこちめくって知ったこと、少年時代までかねなが親王は忽那島ですごした。
若い女優さんの忽那汐里を思い出す忽那島は、愛媛の島だそうです。

とここまで書いて、すでにごっちゃになっている。
しらべさんならわかられるか。
ごせいせい将軍というのは、かねなが親王ではなくて、その甥の良成親王だそうです。
わたしは二人を親子と思っていました。なぜ矢部と星野と(八代)にもおはかがあるのかと長らく気になりつつ、きちんとしらべることもしないで。

今回いただいた資料のなかに、黒木一族が滅び去る戦記がついていた。それをよんだ。江口家譜の一資料。

これら二つのものは、一つは歴史的事実、一つは物語のつづきの先にある史実です。
それをつなぐものがどこかに隠れているはずで、それを探したいものです。(つながりそうな気がしてます。

こんにちは。ご無沙汰しています。
現在南九州にいますが、今回は時間が取れず残念ですがこのまま帰ります。時間がとれずすみません。
鎌倉後期から南北朝にかけて後醍醐天皇の取った政策を見れば大きく各皇子達の辿った数奇な運命と流れがわかるかと思います。取り急ぎですみません。
懐良親王は文武人格共に優れていて政の頂点に居てもおかしくなかった方と思いますが、人を思いやる気持ちのほうがが勝り次第に史実の大波に自ら埋もれていく。。優しすぎたのでしょうね。

八女には改めて時間を取って来たいと思いますのでよろしくお願いします。

うたまるさん、せっかく九州に見えてるのに、残念ですね。
国武久義先生に見せていただいた資料で、昭和二年高野山に登られてこじゅう、行空のことやこうぼう十二坊などについての由来書を猊下に貰ってみえた、調元未という人は、ご一族と思われますが、何かご存知ですか。

これは元未ではなく、おそらく調元米翁の事だと思います。
これから移動で取り急ぎ失礼します。

ああそうでしたか
毛筆でしたから元来かもとは思いましたが、米は想定外でした

追伸。
かいてありました。ちゃんと、ひじりかた紀州風土記のほうの12枚目文末にもサインがあった。

史料
筑前朝倉郡大福村  調元米 現存 黒木

これはどういういみだろう。
いつのものかがわからない。
戦後のものとして(原稿用紙に日進堂)、この調翁は黒木におられるという意味なのでしょうか。
朝倉におられて、そのおかたからの史料を黒木町(あるいは黒木さん)が転写したという意味だろうか。
わからん。
そういうことが気になるのですよね。もちろん内容もきになるけど。
まだよんでないのです。

まだ自分では読めてないのに、水月さんに送った
昼休みに郵便曲で
僧の目で見ると新たな発見があるのではと思われます

うたまるさんはいらんかえ
コピーありますが

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/6513/56770872

この記事へのトラックバック一覧です: 国武久義先生にお会いする:

« 盛夏の月 | トップページ | 健康寿命について(8)健康寿命が長い市町村はどこ »

最近のトラックバック

2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31