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2014年7月16日 (水)

聖方紀州風土記の謎が高良山十景歌の謎と繋がる!

きょうこちゃん。

 

今日のお昼過ぎに、資料のコピーをいただきに、国武先生のお宅にお邪魔したら、ちょうどまだ先生がいらして、ひじりかた風土記のコピーし損ねた分について確認することができました。

コピーし損ねたわけじゃなかったよ。

先生の資料自体が7ページ目が欠損していた。

6ページから8ページになってた。

それを確認させていただいたので、預かってはこなかったけど、いいよね?

 

水月さんにもその旨を補記してくださればありがたい。

よろしく。

 

せーこ

というメールが来ていた。
そうだったのか!七ページ目は元々なかったんだ。
それなら明日はすいげつさんに送りますか。 


まちかねとんしゃるみたいやし。

人にあげる書類、先に読んでおかねば、と
工場で残業前のおやつタイムに読んだ。
というかぱっと目についたとこがここだった。
10とナンバーが振られているページ。
それ、そのまんま書き写す。
出ない漢字もありますが、なるべく忠実に。
このページだけでも、値千金。

聖方紀州風土記 より

第二世、    ○阿上人 (○は朱の下に皿の字)

(ブランク)

 講坊建立記畧

 紀州高野山千手院谷光○院講坊門内十二院、
後鳥羽院御宇建久年中ニ河原大○侍従造立之寺
也。彼女、○ハ筑後國高良山庄主履中天皇末孫
隆慶庄主ヨリ二十三代権僧都永弁之女子也。
 
 高倉院御宇采女官女、世ニ待宵小侍従ト云フ

写真は前の記事で出しましたが、これです。

小侍従の正体

(クリックして大きくしてごらんください)

ね。

誰だってここまで読んだら、ええーっ!とのけぞるに違いない。

なんなん。こんなところで高良山だよ、もう。

あなたはだれ?

履中天皇!!

ひえ~~~九州王朝じゃないか!

紀伊高野山。ここ。

http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/tou_koyasan.htm

りちゅうてんのう。ここ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%A5%E4%B8%AD%E5%A4%A9%E7%9A%87

あなたはだれ?こうらさんのひみこ?

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-9a58.html

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コメント

今日、お昼に帰ってきたら、郵便受けに届いていました。お送りいただいた資料2点。お手をわずらわし、まことに申し訳ありません。そして、ありがとうございます。あつく御礼申し上げます。家の中に入るのも待てず、その場で封を切り、拝見させていただきました。

かささぎさんが驚かれたところ、私も驚きました。けれども、私が「えっ!」と声をあげたのは、NO9の「行空上人の命日 天福元年七月六日」という一行です。これは江頭亨氏『郷土史物語』に記されている命日です。それまでは、同封していただいた『高野山本覚院~』に「文永年中」とあります。そこで、この『聖方紀州風土記』という資料はどういう性格のものでしょうか。原稿用紙に書かれているということは、どこかに原本があって、それを誰かが書き写されたものでしょうか。その書き写されたのは國武先生? そしてこの資料の成立年代はいつでしょうか。先ほどのNO9の7行目には「現今 第三十七世」と読めるようです。これを『高野山本覚院~』の最終頁に押してある印鑑に「現住 稲葉宗瑞」とあり、その横に「第三十七世代」という書き込みがあるのと照らしてみると、そこにまた「昭和3年」と書き込まれていますから、その頃の成立ということになりましょう。すると、江頭氏以前に行空の没年を「天福元年」とする資料となります。つまり、私は江頭氏の説に疑問をもっていたのですが、それが信憑性をもつことになります。いったい、國武先生はこの資料をどこから手に入れられたのでしょうか。ただ高野堂にある「行空上人廟所法会記念」の石碑は第三十八世の稲葉義猛師が導師として752回忌を営んだ記念碑ですが、そこには「文永年中」とあります。そこで、第37世の『聖方~』は本当に信頼できるのでしょうか。

それから、『聖方~』のページの一行目の最初に「開基不詳 中興行空上人」とあります。これはどういうことでしょうか。またNO9の終わりから2行目に「松之坊般若院/中興開基 行空上人」とあります。これもどういう意味でしょうか。

それからNO8の最終行に「随行は林覚運」とあるように見えます。林覚運は南蔵院を高野山から福岡に移した人ですよね。これも気になります。

何か、また謎が増えたような気がします。

実は20日にうちのお寺で100人ほど集まって研修会があります。そのとき、私が講師として、「心豊かに生きる社会の実現をめざして」という題で、1時間 講義をしてほしいといわれています。「どんな話をしたらええねん!」と悩んでいる最中なので、お送りいただいた資料をパッと拝見しただけなので、その講義が終わったら、もう一度よく目をこらし、拝見することにいたします。ただ、かささぎさんがもし國武先生に質問できる状態にあるとしたら、『聖方~』は先生が書き写したものなのか、原本はどこにあるのか、成立年代はいつなのか、とくに「天福元年」の没年は原本にあったものなのか、お尋ねいただけませんか。

なお、ご丁寧に松尾敬宇氏の墓所の地図を書いてくださっていますが、松尾氏というのはどなたでしょうか。(資料中にあるんだったら、ごめんなさい。見落としています)

ああごめんごめん。あたしはとってもがさつな毎日をおくっていまして、パソコンまわりがとっちらかっておりまして、あの朝、それでも学長ブログだけは浮世の義理と転載して、それから、そやそや、はよう水月さんに送らんといかん!とせかされるようにして、封筒のおおきいやつを探すと、下に積み上げている書類のなかに宛名のかかれていないJAさんからの書類入れがありまして、これだ!と、宛名をかいてのち、うらをみたれば、おやまあ。以前、なにげなく書いた英霊のお墓の地図。封筒に書いていたとは我ながらなんということをしたんだか。

ええいままよとばかり、そのまま投函したんで、すみません。松尾敬宇さまごめんなさい。でも相手がお坊さんですから、怒らないでくださいね。
これもきっと浮世の義理なのかもしれないですね。
僧侶とお墓。関係なさげで関係おおありかも。

ということにして、ください。

それからわたしもザザっとおおいそぎでよみました。
年代のことは西暦でいってもらわないとどれぐらい違うのかわからん。
ばってん、高野山のサイトをひらいて、そこにズラズラーっと列記されている夥しい講坊やお堂や寺宝やなんやかやのなまえを見ていると、随分とありすぎて、歴史がありすぎて、あたまがクラクラします。
なるほど、こうやさんのトップは「猊下」と呼ぶのがふさわしいんだな。と、納得させられる。ジロッと一瞥されたら、ひい~~。
とわけもなく平伏させられる。そんな偉大な権力を手にしたトップの無言の威力。
で。
かささぎは、このひじりかたの文章は、しらべもとめのおじいさんが、しらべもとめたものだと思います。
いや、洒落ている場合じゃないか。
途中にかかれていませんでしたか。
お金を五十円お包みして(今のお金だと五十万暗い?見当がつきませんが昭和初期)、こうやんどうのお堂の修復(というより、碑が傾いているので)の足しにと渡してきた、みたいなことが書かれていませんでしたか。
それと、わたしが驚いた箇所の、よめなかった漢字一文字、これはそのあとにも同じ字をつかっておられる箇所が出てきました、城という字ではなかろうか。
何かから転載されたのでしょう。ご自分で。

連休ですから、暇になったら、このブログに転載してみましょうか。
こういうの、著作権はあるのかないのか。だれのものか。
まったくわかりませんが、読みたい人がいるかもしれませんし、なにかだいじなことがわかるかもしれません。

小侍従は(祖先は)こうらさんのあるじだったとかいている。これが史実かそれとも物語であり伝説なのかはしりません。しらべていません。
こうらさんとこうやさんは名前からして似ている。
ここのくだり、小侍従は祖先の地である筑後に帰ってきたというふうに書かれている(この写真の次のページ)のをみて、わたしは、高良山の中興の祖、源寂を連想しました。寂源です。
芭蕉の幻住庵の記にも登場する有名な僧であり、歌人。荒れ果てた高良さんを復興しとげてのち、京都に帰り、鷹峯に住んだという。
うたの歴史は脈々とつづいていて、うたを通じて、ほんとうのもうひとつの歴史もどこかにおちているようだ。
さいきん、乙四郎がコメントして教えてくれた、祇園精舎の鐘の音は純国産だった、インドにはなかった。というのも、つながっているのかもしれんね。

待宵のふけゆく鐘の聲きけば
かへるあしたの鳥はものかは

うたの意訳

待宵と後朝ではどちらが風情があるかと問われてよめるうた。
恋人を待ってふけていく鐘の音を聞くのはたまらなくせつないものです。
それは恋人が去っていく朝の鳥などとは比べようもありません。

高良山は別名、不濡山(ぬれせぬ山)ともいいます。理由は、徳大寺実定卿が小侍従をおいかけてきて、雨の日なのに高良山の鬱蒼と茂った木立のなかでふしぎと雨に濡れなかったから、ぬれせぬ山というらしい。(こないだ國武先生におしえてもらった)
この別名が面白くて、むかし巻いた連句のなかで、「不濡山のお道行」恋句を出したことがあった。
こうらさん十景歌をだしてくれた歌人には徳大寺の家の人もいたように記憶します。

うん。ほら、ここだよ。みてください。高良山十景歌☟。
歌人の家系の貴族がずらっと名を連ねている、そのなかにはあの柳原白蓮の柳原家とおぼしき家の人もいるね。

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