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2014年6月 8日 (日)

親鸞聖人と法本房行空上人 六の後半~行空の真実

文・水月

それは行空の義についてもいえることである。
行空が一念義を立てたということは『三長記』によっても明らかであるが、弁長は多年義的傾向が強く、随所に痛烈な一念義批判を展開している。極言すれば、それが弁長の著述の一特徴であるとさえいわれている。そこで鎮西派では伝統的に一念義を邪義とし、行空を異端視してきた。しかし真宗が同じようであってはならないであろう。
親鸞が数多い法然門下のなかで、「行空 已上」と特筆し、後を省略しているのである。それは単に吉水時代に親交があったというだけでなく、行空の一念義が親鸞の教学形成に大きな影響を与えたからであろう。第十八願成就文の一念を信の一念と見て、その即時に往生が決定する。そして信の称名と不信の称名を分明にした。「寂光往生義」については問題が残るが、往生即成仏という証果観や、また報化二土を弁立し、その報土を真仏土と見る。それらは親鸞教学の先駆けになったものと思われる。
そして親鸞から行空を見た場合、行空の一念義は多念を積むのではなく、一念に往生決定すると説いたもので、一念に執じて称名を廃するものではなかったことが知られてくる。いまの連署名に「行空」と名を記しているからである。
親鸞はこの『西方指南抄』六冊を著してすぐの康元二年(正嘉元年 1257)二月十七日、『一念多念文意』を書写している。そこに一念も多念も「ひがごととおもふまじき事」として、「浄土真宗のならひには念仏往生と申すなり。まったく一念往生・多念往生と申すことなし」と言い切っている。一念・多念を超えていたのが親鸞であった。
また『親鸞聖人御消息』を見ると、慶信房の質問状に「一念するに」とあるところを、「一念にとどまるところあしく候ふ」といって、自筆で「一念までの」と訂正している。一念に執ずる誤解が生じることを避けようとしたのである。
また親鸞は「信文類」に「真実の信心はかならず名号を具す」といっている。
また聖覚『唯信鈔』には「往生浄土のみちは、信心をさきとす。信心決定しぬるには、あながちに称念を要とせず」等といい、遍数をかさねることを不信とする一念義に得失ありとする釈義がある。親鸞がその『唯信鈔』を幾度も書写し関東の門弟たちに推奨したことは周知のとおりである。

もし行空が一念に執じて称名を廃する一念往生説を唱えていたとしたら、「行空」という名を記すことはなかったであろう。記名しているということは、そうではなかったという証しである。行空は幸西がそうであったように、法然が説く念仏往生の範囲内で一念義を立てたと思われる。

また一念義はとかく造悪無碍に陥りやすい傾向をもっている。一念で事が足りるのであるから、あとはどのような行いをしてもよいということになるからである。たとえば「遺北陸道書状」には「弥陀の願を憑みたてまつらん者は、五逆を憚ることなかれ、心に任せてこれを造れ」等といっている。弁長が一念義を批判するのもそこにある。
真宗でも多くは「遺北陸道書状」などに流されて、行空をそうした造悪無碍者のように見ている。たとえば山上正尊氏が「行空は造悪を孕む邪念義である」と断定されるがごとくである。
行空破門の理由をそれに求める見解もある。しかし再考する必要があるであろう。

親鸞の晩年、関東の門弟たちのあいだで造悪無碍がはびこったようであり、いわゆる善鸞事件もあった。そうしたなかで、親鸞は造悪無碍を誡める消息を幾通もしたためている。その親鸞が「行空」と記しているのである。もし行空が、親鸞の言葉でいうと「わざとすまじきことをもし、おもふまじきことどもをもおもひなどせん」という人であれば、「行空」と記すことはなかったであろう。親鸞は「悪はおもふさまにふるまふべし」といったらしい、「北の郡にありし善証房といひしものに、つひにあひむつるることなくてやみにし」といって近づけなかったといっているように、敬遠していたはずである。
「行空」の記名に着目するとき、少なくとも親鸞にとって行空は造悪無碍者ではなかったのである。
行空を法然の異端とし、造悪無碍者のように見せるのは決して正しい見方とはいえない。
真宗の流れを汲んだものは行空観を改めねばならないであろう。

本願念仏の教えは、確かに安心門では善悪平等からさらに悪人を正機とする法であるが、起行門ではみずからの悪を申し訳ない、恥ずかしいこととして、「すこしづつ」たしなみ、つつしみ、「阿弥陀仏の薬を好みめす身」に育てられていく。
それが阿弥陀仏の本願をまことと聞き受けた「しるし」なのである。

▼かささぎの独り言

すばらしい。

水月氏は親鸞の書いたわずか一行の中のたった二文字に執して、とうとう真実の行空を浮かび上がらせた。

その二文字とは、この☟「行空」のこと。

「親鸞(1173~1262)と法本房行空(生没年不詳)は吉水時代に親交があったと思われる。しかしそれを証する文献はない。唯一『西方指南抄』に収められた「七箇条制誡」の連署名がその手がかりとなるであろう。
『西方指南抄』は「深智ありと雖も、文章に善からず。仍って自製の書記なし(1)』といわれた法然(1133~1212)の法語、消息、伝記、行状などを集成した、いわば法然全集ともいうべきものである。それを親鸞が編集したのか、すでに成立してあったのを親鸞が転写したのか説が分かれるが、おそらく親鸞の編集によるものであろう(2)。仮りに転写であったとしても、いま重要なのは高田専修寺に親鸞の真蹟本が現存しているということである。それは上中下の三巻をそれぞれ本末に分けた六冊から成る。奥書を見ると、康元元年(1256)十月から翌二年一月のわずか三ヶ月ほどで書き上げられたことがわかる。親鸞八十四歳の終わりより八十五歳のはじめである。
その巻中末に収録されているのが「七箇条制誡」である。元久元年(1204)冬、親鸞三十二歳のとき、比叡山の衆徒が法然の説く専修念仏を停止するよう天台座主・真性へ訴えたことにより、法然は同年十一月七日、七箇条にわたる制誡を門下に示して遵守するよう連署せしめたのであった。これについてかつて疑撰説が唱えられたことがあったが、まず真撰と見て間違いないであろう(3)。その原本が京都嵯峨の二尊院に所蔵されている(4)。それを『西方指南抄』本と対照すると、とくに連署名に相違がある。『親鸞聖人真蹟集成』で示すと、

 

 信空 感西 尊西 証空
 源智 行西 聖蓮 見仏
 導亘 導西 寂西 宗慶
 西縁 親蓮 幸西 住蓮
 西意 仏心 源蓮 蓮生
 善信 
行空 已上

 

  已上二百余人連署了」

(已上は当論文の一回目です)

すべてがぴったりシンクロしだす。
五木寛之の『親鸞』、いまちょうど善鸞事件のところ。
唯円が気になって一人関東へ偵察にいき、そこからつぶさに問題を親鸞へ書き送ってくる。
親鸞、84歳、ちょうどかささぎの母と同じ年。
くたびれているのだが、まだまだ死ぬわけにはいかない。
自分がいなければどうなるかわからぬ。という使命感。
あたまもはっきりしているし、体力もまだのこっている。

五木寛之氏は八女出身の作家であるが、地元に行空上人の墓があることはご存知あるまい。
もし、それをご存じであったとしたら、。
いや、それでも行空のことはその他おおぜいの扱いだったろう。
名は行空でも、星野の高野堂の行空では時代が違っているし。

ところで、あした太宰府の博物館へ近衛家の宝を見に行く。最終日。

そのなかに、三長記はないんだろうか?

藤原氏。三長記、で調べると、面白いのが出ました。
これ。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1353952753
元久三年 二月二十一日だって。
そのころの記事が水月さんの書かれたものの中にありませんでしたか。
ん~記憶なのですが。しらべてみます。

ありました。これです。日付はちがうけど。

参考のため、当論文(二)、三長記の部分を。

 

「法然門下としての行空を知る上で藤原長兼(生没年不詳)の日記である『三長記は同時代の客観的資料として不可欠である。先の「七箇条制誡」は比叡山の衆徒が専修念仏停止を訴えたことに対するものであったが、翌・元久二年(1205)十月、今度は南都の興福寺から九箇条の過失を挙げて、専修念仏の停止と法然および門弟を罪科に処するよう朝廷に求めてきた。有名な『興福寺奏状』がそれである。このとき長兼は奏状を審議し院宣の草案を作らねばならない蔵人頭・左中弁の職にあり、元久三年(建永元年 1206)二月十四日の条には、 

 十四日乙丑、陰、新宰相、御教書〈院宣なり〉を送りて曰く、法々、安楽の両人、召し出すべし。(中略)件の法々、安楽の両人は、源空上人の一弟なり。安楽房は諸人を勧進す。法々房は一念往生の義を立つ。仍つて此の両人を配流せらるべき由、山階寺の衆徒、重ねてこれを訴え申す。仍つて此の沙汰に及ぶか。其の操行に於ては、縦ひ不善なりと雖も、勧むる所、執ずる所、只だ念仏往生の義なり。(後略18)

といっている。ここに法々(=行空)、安楽(=遵西 ?~1207)の二人を配流に処すべく召し捕るよう口宣が届いたようである。また同年二月二十一日の条には、興福寺側から長兼を訪ねてきて、

 源空は仏法の怨敵なり、子細は度々言上し了る。其の身、幷びに弟子、安楽、成覚〈此の弟子未だ名字を知らず〉住蓮、法本等、罪科を行ぜらるべし。(後略19)。

と訴えたという。法然のほか、安楽、成覚(=幸西 1163~1247)、住蓮(?~1207)、行空を罪科に処するよう名指ししているのである。そして同年二月三十日の条には、「今朝源空上人の一弟子二人、念仏を弘通せんがために、諸仏諸教を謗ずるに依り、罪名を勘せられる。中宮権大夫に宣下し了んぬ、其の状、此の如し」といい、その日の宣旨として次のように記している。

 沙門行空、忽(たちま)ち一念往生の義を立て、故(ことさら)に十戒毀(教カ)化の業を勧め、恣(ほしいまま)に余仏を謗り、其の念仏行を願(ママ)進す。沙門遵西、専修に穏(ママ)れて、余教を毀破し、雅(ママ)執に任せて衆善を妨(あつぼう)す。宜しく明法博士に件の二人の罪名を勘申せしむべし。

                       蔵人頭左中弁藤原長兼

 件の両人、遵西は安楽房なり。行空は法本房なり。(後略20)

 まず、これらによって、行空と遵西、それに住蓮と幸西の四人が、数多い法然門下の中で興福寺側から危険人物と見られていたことがわかる。彼らが法然教団における信仰と伝道の中核であると見抜かれていたのである。そして二月十四日・三十日の条には行空と遵西が罪科に問われ、同月二十二日の条にも「一弟中、安楽・法本、此の両人に於ては、偏執、傍輩に過ぐ(21)といっている。行空と遵西がリーダー格であったのであろう。また慈円(1155~1225)の『愚管抄』には、遵西は住蓮と「つがいて(22)」といっている。行空と幸西もそのような関係であったかもしれない。後述するように二人はともに一念義を立てたといわれるからである。

 ともあれ行空は元久三年の時点で南都にまで名が届くような法然門下であったのである。そのとき親鸞は前年の元久二年四月に『撰択集』の書写と真影の図画を許されていたが(23)、外部からはまだ目立った存在ではなかったようである。そこで行空は親鸞より兄弟子であったことがわかる。また前の『三長記』二月二十一日の条に「成覚〈此の弟子未だ名字を知らず〉といわれている。幸西はまだ行空ほど知られていなかったらしい。その幸西が親鸞より十歳年長であるから、行空はさらに年長であったと推察される。先述したように松野純孝氏は行空と親鸞を「吉水時代の友」といわれるが、実のところ親鸞にとって行空は、法然門下の大先輩であったと考えられるのである。そして前に引用した『三長記』元久三年二月三十日の条の後に続く次の記述は看過し得ない。すなわち、

 行空に於ては殊に不当なるに依つて、源空上人一弟を放ち了る(24)。

といっている。法然は行空を破門にしたというのである。それは「殊に不当」ということであるが、その内実について詳しいことはわからない。住田智見氏は破門の理由を「造悪を許し余の仏願を謗り念仏の行に違失すと云ふに在り(25)といい、三田全信氏は行空が「破戒を平然と行い女犯を常習していたことが窺われる(26)」といわれる。重松明久氏は後述の「『一念義往生』を立てた理由で」といわれている。田村円澄氏は一念義往生の義によるのでなく、「多くの非難が彼に集中したからであり」「その社会的反響が強かったからである」といわれている(28)。伊藤唯真氏も一念義往生の義(理)という思想ではなく、聖道門教団を刺激した「戒律否定や諸仏の拒否に向かったいわば副次的な行業にあったと考えれれる」といい、「法然は当時置かれていた教団の立場、社会の空気を慮って行空を破門した」といわれている(29)。ところが、松野純孝氏は翌・建永二年(承元元年 1207)に断行されたいわゆる承元(建永)の法難で、行空がなおも法然門下として配流に処せられたことから破門自体を疑問視s「『三長記』の記載は行空追放という単なる風聞に基づいていたのではなかろうか(30)」といわれている。また梯實圓氏も行空の破門について「疑問が残らないではない」といい、「行空を破門させよと要請はあったでしょうが、破門を実行されたかどうかはわかりません」といわれている(31)。

 そこで破門については問題が残るのであるが、行空がいま触れたところの承元(建永)の法難によって佐渡島へ流罪となったことは『歎異抄』の流罪記録などによって確認できる(32)。佐渡島は平治の乱(1159)で破れた藤原通憲(信西入道)の子・遊蓮房円照(1139~1177)が流刑になった場所でもある。法然はつねに、「浄土の法門と遊蓮房とにあへるこそ、人界の生をうけたる思出にては侍れ(33)」と語ったという。行空はそれを配処へおもむくとき思い合わしたのではなかろうか。」

原稿入力録

六の前半http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-6e44.html

五の下 http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-32ce.html 

 

五の上http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-0192.html

 

四の下http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-b235.html

 

四の上http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-1690.html

 

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-1836.html

 

二の下http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/post-6399.html

 

二 http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/post-84cb.html

 

一の後半http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/post-40b0.html

 

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/post-4e5c.html

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