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2014年5月19日 (月)

龍の谷から  13    小侍従と行空を並べて整理してみる

文・水月

待宵小侍従と行空と本覚院の建立について、史実と伝説がこんがらがっているようですので、整理してみたいと思います。
〔問題点〕
待宵小侍従の願によって行空が高野山の本覚院講坊を建久年間(1190~1198)に建立した。
〔確実点〕
(1)待宵小侍従は建仁元年(1201)80余歳で京都にいた。
(2)行空は『法華験記』に記事がある以上、長久年間(1040~1044)以前の人で、1000年頃の人物ではないかと推定される。
(3)待宵小侍従の伝説が福岡県八女市の黒木・星野地方に伝わっている。
(4)それは高野聖によって戦国時代末期から江戸時代初期頃にもたらされたと考えられる。
(5)そこに高野堂「行空上人の墓」が現存している。
(6)本覚院は筑後国を檀家とし、高野堂と深い縁(えにし)で結ばれている。
〔疑問点〕
(1)文治2年(1186)春から黒木助能が三年詰の大番役で上洛していたとき、後鳥羽天皇の叡感によって、「調」の姓と官女・待宵小侍従を下賜されたというが、そのころ彼女はすでに老齢で官女として出仕できるはずがない。
(2)しかもそのとき彼女は徳大寺実定の側室で3ヶ月の懐胎であり、実はその子は後鳥羽天皇の御落胤であったというが、老齢の彼女が懐胎できるはずはない。
(3)同じことだが、黒木助能と待宵小侍従のあいだには、『星野家伝記』では一男一女、調さんのメールでは三人の男子があったというが、老齢の彼女が出産できるはずはない。
(4)黒木能助の正室は恨みをのんで川に身を投げ自殺し、城下に災いがおこったので、助能は剱一振りを川に投じたところ祟りがしずまったというが、黒木・星野地方に伝わる文献には行空が登場しない(ただし國武久義氏の論稿「唱導文学といての『黒木物語』」によると『北肥戦誌』享保5年〈1720年〉には記述があるようである)。
(5)本覚院の伝承では「宝剣を淵に沈めたるも、たたり息(や)まず」とあり、小侍従は牛の子を産み哀殺して、行空に救いを求め、その教化によって行空に帰依し、高野山に本覚院講坊を建立したというが、その行空とは何者か。
(6)本覚院はその行空の「行状は元亨釈書に出たり」というが、『元亨釈書』の行空は1000年頃の人物でまったく年代があわない。まして建久年間に建立されたとはいえない。なぜ建久年間というのか。
(7)多くの書はその行空を法然の高弟・法本房行空というが、確かに年代はあっても、本覚院の伝承に開基の行空が法然の弟子になった、あるいは弟子であったということはいわれていない。
(8)本覚院と深いつながりがある高野堂は、行空の没年を、本覚院では文永年中(横に1265とある)、江頭亨氏によれば天福元年(1233)とするが、『元亨釈書』の1000年頃と推定される行空ではありえない。
*疑問はまだあるが、とりあえずいまはこれだけにする。
〔推考点〕
(1)待宵小侍従の願によって行空が本覚院を建立したというのは高野聖が語ったものではないか。
(2)本覚院の開基としての行空は1000年頃の人物ではないか。その墓が高野堂と思われる。
(3)そこで没年の問題が出てくるが、もうひとり行空がいたと想定できないか。
(4)もし没年が正しいとすれば、行空の行状を『元亨釈書』に求めるのは誤りである。
(5)いすれにせよ、本覚院の開基、高野堂の行空は、法本房行空ではない。
※本覚院の伝承は和田重雄氏編著『貞亨版 黒木物語』所収の「本覚院は筑後国を檀家とする由来」によるが、文章が行ったり来たりしていて、わかりづらい。
なお、槇道雄氏『日本中世武士の時代』(新人物往来社、2008年)242頁に、
河崎庄の在地領主には、川崎氏がおり、川崎氏や黒木氏は星野氏と同族で、調党として結集していたものと思われる。おそらく、その「調」とは、笛の調べなどとは全く関係なく、古代の「調宿禰(みつきのすくね)」の子孫なのであろう。云々
とあります。
また『同書』244~248頁には『星野家譜』の本文と氏の記述があります。調さんがおっしゃる「一族に伝わる家系譜」というのはこれのことでしょうか。でもこれは出版されているもののようですから、調さんのものとは違うのかな。
追伸:
申し訳ありません。メモしていた紙が書物やコピー類の中にまぎれこんでいたので、少し追加します。
〔疑問点〕
(9)國武氏の論稿に、「この行空上人が行脚の途中筑後の地に立ち寄ったのは、折しも助能の御台所の悪霊が黒木城下に祟りをなしている最中であった。そこで助能小侍従夫妻は行空上人を黒木に呼んで、恨みをのみ死んだ御台所の霊を手厚く回向してもらった。それにより災いは去り、町はもとの静けさに帰ったという」とある。それは助能が大番役を終えて黒木に帰ったあとの文治4年(1188)からそれほど遠いことではあるまい。ところが國武氏は、「黒木において加持祈祷を終えた後、行空上人は星野へと向かったが、途中星野の縫尾の久保という所で息絶えた」といわれる。そうすると、かりに加持祈祷したのが文治5年(1189)とし、それを終えてすぐに星野に向かったのなら、行空が没したのは1189か1190年頃とならないか。本覚院がいう文永年中(1265)、江頭氏がいわれる天福元年(1233)の没とはあまりにも時間が経過しすぎている。行空は黒木で何十年も滞在したままだったのか。
〔推考点〕
(6)本覚院を開いた行空は、繰り返しになるが、1000年頃の人物で、「本覚院は筑後国を檀家とする由来」のはじめに出る(待宵小侍従のことは横に置いて)、「千手院谷光明院と云う一伽藍、今の本覚院境内にあり。上人ここに宿して読経するに地蔵菩薩出現して告げて曰く、汝、此(ここ)に住せよと」といわれたことから、「依て創草する処なり」とある。行空が開いたのは光明院だったのではなかろうか。そして想像であるが、本覚院が建久年間に建立されたとき、光明院が合併され、それを開いた行空が開基とされたのではなかろうか。
(7)黒木・星野地方に伝わる待宵小侍従伝説は高野聖がもたらしたものとはいえ、「火のないところに煙はたたぬ」というように、待宵小侍従自身でなくても、彼女に仕える女官か何かが黒木に下向したのではなかろうか。それが待宵小侍従として伝えられ、伝説になったのではないかと思われる。
▼かささぎの旗の申状:
うっぷ。降参降参。もうぎょうくうもこじじゅうも当分けっこう。って気になりますがな。
▼水月師
待宵の小侍従研究で有名な92歳の方は、http://amano.teanifty.com/amano_jack/2007/05/hp.htmlから入って、ここhttp://amano.tea-nifty.com/amano_jack/2014/05/ie-41c3.htmlに至りました。
もっと今日に近いブログがあったようにも思いますが、何せ今日は酔っています(^_^;) 申し訳ありません。ただ、その92歳の人が僕にはさっぱりわからないパソコン関係の記事を書かれていることにビックリしました。
この方が待宵小侍従の厖大な文章を書かれた人ですよね?
▼かささぎのおどろき
おお、そのおかたは!
以前、小侍従を調べ始めたばかりのころ、なんども訪問しましたよ。
まるで独壇場というかんじで詳しくご研究なさっていますものね。
そうでしたか、92歳にしてインターネットエクスプローラーの問題まで対処なさるお方とは。
まるで、親鸞聖人みたいですね。とても息災で。
久しぶりでした。おかげで目がさめるようでした。
以前は書かれていなかった高野山講坊の件を末尾に書かれていたのが目を射ます。
どう思われたでしょうねえ。ほんと、いちどおたずねしたいものです。

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コメント

なぜかここに繋がりました。

水月師には大変申し訳ないことながら、
わたしは全く行空やすけよしさんやこじじゅうとは切れたところで毎日あさ5時に起きて家事して8時には家を出、きっちり8時間働きさらに残業2時間つとめてから帰り、また家事して眠るという規則正しい労働者の暮らしをしています。
ですから、水月師の真摯な問い掛けにお答えできかねます。
水月さん
会って話せたらいいですね、国武先生にも。
書けなくとも喋るなかで思いがけず蝶が出現するかもしれないし。
ああそうそう、
うちの町内のホームセンター跡地に、奥八女から障害者施設が移転されるのですが、そこはいつか水月さんが写真を送信して下さった親鸞像のある寺の近くです。西光寺だったかな。待てよ、寺は経営者でもあるのかな。よく知らないのだけど、たしかに幼稚園は経営されているみたいね。

母、あと二人妹が健在でして、集まる機会があれば、話を聞きます。初めて聞く話をしてくれる時が今もあり、びっくりします。母の母、つまり祖母が若いころ東京に行って、土産に絵本を買ってきてくれた、というのには驚きました。なぜ上京したの、息子が海軍にいたので会いに行ったのかな、でも誰も知らないのにもびっくりします。
その絵本の内容が。石堂丸のおはなしだった、といいます。
なんかわからない、わたしには。
水月さんが解いてください。

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