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2014年5月14日 (水)

龍の谷から  12    はるかなる行空

 文・水月

前回、一宿上人と呼ばれた行空は『法華験記』に記事がある以上、1040~1044年以前の人と見なければならない、というところで終わってしまいました。
続きです。
そこで話がややこしくなるのですが、行空の年代がそうだとすると、では「高野山の本覚院を開いた行空とは何者なのか」「本覚院は本当に行空によって開かれたのか」と疑問がわきでてきます。
というのも本覚院は待宵小侍従(1121頃~1202頃、この生没年はウィキペディヤによる)の願によって建久年間(1190~1198)に建立されたといっているからです。待宵小侍従のことはしばらく置いて、「建久年間」という年代に注目すると、それは鎌倉時代初めですから、かりに一宿上人としての行空が1000年頃の人物であるとすれば、まったく年代が合わないのです。「建久年間の建立」が事実であるとすれば、もう一人、行空という人がいたことになります。しかし本覚院は開基の行空の伝は『元亨釈書』にあるといいます。その『元亨釈書』にある行空の伝は、話が元に戻りますが、『法華験記』に出る一宿上人の行空です。そうすると、何かが混乱しているようです。
考えられるのは、
(1)一宿上人の行空が開基なら建久年間の建立は間違い、
(2)建久年間の建立であるなら開基の行空の伝を『元亨釈書』に求めるのは間違い、
ということになるでしょう。普通なら、本覚院自体が建久年間の建立といっているのですから、それにしたがうべきです。しかし私はどうも怪(あや)しく思えてなりません。五来重氏は『増補 高野聖』243頁に「本覚院は平安時代末の行空上人(一名、一宿上人)開基の聖寺(ひじりでら)であるが、のちに時宗に吸収されたものである」といわれています。そしてその行空について『今昔物語集』と『三外往生伝』の行空に関する記述を挙げておられます。國武氏の著書や論稿はこれによられたのかもしれません。それはともかく、五来氏は本覚院を一宿上人としての行空を開基とされているのです。ただし五来氏は『法華験記』には触れておられません。そこで行空を『今昔物語集』や『三外往生伝』に記事があるところから、「平安時代末の行空上人」といわれるのでしょう。『法華験記』を持ちだせば、1000年頃ですから、「平安時代末」とはいえません。やはり五来氏も、平安時代末の行空が、鎌倉時代初めの建久年間に本覚院を建立したと考えているようにうかがえます。ところが五来氏は次の244頁に一宿上人の行空を「一所不住を実践する遊行聖であった」といい、続いて「大和・河内では長谷寺門前の隔夜堂と奈良高畑の空也堂および河内磯長の叡福寺門前の隔夜堂のあいだを往復するので、隔夜聖(かくやひじり)、訛って「かっけさん」とよばれる遊行者が、江戸時代までおったという。このような聖が、平安時代の高野山にのぼって本覚院をひらいたもので、これは行空その人でなければ、その亜流の隔夜聖だったろうとおもわれる」といわれています。私はこの記述を見逃すことができません。隔夜聖については後に調べたいと思いますが、一宿上人と呼ばれるような遊行聖としての行空、もしくはその亜流である隔夜聖が本覚院を建立した、そこに史実があるように思えてなりません。五来氏は「平安時代」と年代をぼかしておられますが、『法華験記』に出る1000年頃の行空といっていいかもしれません。とすれば、「建久年間の建立」と本覚院がいうのは別の意味があるように思われます。あるいは「建久年間の建立」が正しければ、隔夜聖が高徳の遊行者であった行空の名を持ちだしたのかもしれません。建久年間、隔夜聖が本覚院を建立するにあたって行空を開基にしたのではないかということです。そのいずれが当を得ているのかわかりませんが、どちらかといえば後者ではないでしょうか。本覚院が「建久年間の建立」と伝えているからです。
しかし、問題はこれだけに終わりません。
本覚院の建立には黒木助能と待宵小侍従が関わっているからです。
國武氏によると、待宵小侍従は建仁元年(1201)八十余歳で京都にいたことが確認されています。しかし、福岡県八女市の黒木・星野地方には、黒木助能が文治2年(1186)春、三年詰の大番役で上洛していたとき、宮中で管弦の樂がもよおされましたが、それがととのわないでいたところ、ちょうど笛の名手であった助能がいて吹くと、たちまち樂がととのいました。そこで後鳥羽天皇は叡感のあまり、調(しらべ)の姓と、官女・待宵小侍従を下賜したというのです。そして大番役を終えたのは三年詰であるから文治4年(1188)です。助能は待宵小侍従を伴って黒木に帰ったといのですが、このときの待宵小侍従の年齢です。1201年が八十余歳ですから、1188年は七十歳くらいになります。とても不自然です。そこで貴女のサイトにあった調さんというかたのメールです。「元々高倉天皇に御仕えしていた小侍従は待宵の歌を歌った小侍従とは別人で彼女の母親のようです」とあります。これはどういう意味でしょうか。高倉天皇に仕えていた小侍従が母で、待宵の歌を歌った小侍従は娘だといわれても、その待宵の歌を詠った小侍従が建仁元年(1201)に八十余歳であったということを覆すことにはならないように思います。どこか間違っているでしょうか。ところが調さんは、「助能には三人の子供がいました」といわれ、
・黒木氏(猫尾城) →黒木四郎 (父)助能 (母)待宵小侍従
・川崎氏(犬尾城) →川崎三郎定宗 (父)助能 (母)築地姫(島津忠久の養女)
・星野氏(妙見城) →星野胤実 (父)後鳥羽上皇 (母)待宵小侍従
と書いておられます。後鳥羽上皇のことは別にして、待宵小侍従が黒木四郎と星野胤実という二人の子を生んだとあります。調さんは「一族に伝わる家系譜による」といわれていますが、待宵小侍従の年齢からいって、ありえないと思われます。御無礼ながら、その家系譜というのは本当に信用できるのでしょうか。
國武氏は論稿のなかで「黒木氏が調姓を名乗っていたことは今に残る建造物の棟札や仏像胎内に記された墨書によって明白であるが」といわれていますが、天正16年(1588)に焼亡した本覚院講坊の再建のため、「笛の名手黒木助能なる人物を新たに作りあげ、調姓や待宵の小侍従と結びつけたのは他ならぬ高野聖と呼ばれる回国の下級勧進聖だったのだろう。(中略)従って「小侍従」伝説が奥八女にもたらされたのはさほど古いことではなくたかだか戦国末期から江戸時代もごく初期の頃であろう」といわれています。
つまり調さんがよるところの家系譜というのは奥八女に「小侍従」伝説がもたらされたのちに書かれたものではないかという疑いが生じます。調さん、申し訳ありません。しかし、どうしてもそう思ってしまうのです。ただ國武氏がいわれる、新たに黒木助能を作ったというのには引っかかります。ネット上のサイト「武家家伝 黒木氏」(http://www2.harimaya.com/sengoku/html/t_kuroki.html)の「参考略系図」には「助能」の名があります。これものちに作られたものでしょうか。そしてその四代前には「調能高」とあります。これは何でしょうか。「調」の姓は助能が下賜される以前からあることになります。調さんにはぜひお教えいただきたいです。
長くなりますが、もう一つ、助能が待宵小侍従とともに京都から帰郷すると聞いて助能の正室は嫉妬のあまり侍女らとともに城辺の川に身を投げたあと、城中に変災が多くおこったといわれています。國武氏によれば、「この行空上人が行脚の途中筑後の地に立ち寄ったのは、折しも助能の御台所の悪霊が黒木城下に祟りをなしている最中の事であった。そこで助能小侍従夫妻は行空上人を黒木に呼んで、恨みをのみ死んだ御台所の霊を手厚く回向してもらった。それにより災いは去り、町はもとの静けさに帰ったという」とあります。これはおそらく先の述べた高野聖が創作したものと思われます。ただ國武氏は続いて、「黒木において加持祈祷を終えた後、行空上人は星野へと向かったが、途中星野の縫尾の久保という所で息絶えた」といわれています。そして高野堂のことを述べておられます。これも高野聖の創作でしょうか。『法華験記』には一宿上人といわれた行空は晩年、鎮西において九十歳で亡くなったとあります。その墓が高野堂だと思われます。正室の祟り云々は高野聖の創作でしょうが、行空がこの地で亡くなったのは間違いないと思われます。ただし問題は江頭亨氏がいわれる行空の没年を天福元年(1233)とすることです。一宿上人は1000年頃の人物と考えられますから、これも年代が合いません。二代目とか三代目とかいう行空がいたのでしょうか。
まだありますが、またにします。
▼かささぎの旗より
きっちりともれなくまとめあげてくださって、ありがとうございます。
時系列のことを忘れそうになるので、秩序だてて問題を整理してくださいました。
しらべさんに出会って、私もまったく水月さんが感じられた疑問とおなじことを思いました。
高野聖の語る物語(ひとびとを教化する唱導文芸として創作された)だったとしても、なにもないところに生まれる物語ではない。なにかのきっかけ、契機があったから、できた話でありましょう。そうでなければ、説得力がありません。
>。「調」の姓は助能が下賜される以前からあることになります。調さんにはぜひお教えいただきたいです。
うたまるさん(調さんの俳号です)もそのようなことを言ってありましたよ。
もっとずっと古い姓であると。中国から来たんではなかったかなあ。

気になりつつも、日々の暮らしに追われていましたところへ、再び黒木物語の世界へ引き戻されてしまいました。
ひとつは、水月さんの行空研究によって。
もう一つは、昭和初期の人物をしらべていると時々ぶつかる、東亜同文書院卒という経歴、その学校の設立者で初代学長が八女のおおうちちょうぞうだったこと、かささぎが以前「ご隠居」に八女には大内氏ののこしたものがあると書いたことをつっこまれて、どこにあるんだ、なにがあるんだ、と。そのときは答えられなかったのですが、
ここへいって、おおうちちょうぞうの香りをかいできましたら、つながりました。
中世のことはなにもでてきませんが、根は古い時代へのびている。
メモらなかったのでだれだったか忘れましたが、この大内氏の設立した学校を出た著名人に最近ぶつかった。水月さんの論文のなかに出る資料を書いた人のうちの誰かだった。
大内暢三(おおうち・ちょうぞう)やめ白木出身の政治家、教育者。
http://net.a.la9.jp/fu/fu-kaiho/fu-2010/2010-09/p-01.html
二宮尊徳の損して得取れの美学、風呂水の哲学を実践した人。
あちゃ。ちがった。そうじゃなく、そっちじゃなく。
ここ(旧大内邸)に置かれていた本に、『九州の南朝』があったので、求めてしまったことによってです。
太郎良(たろうら)盛幸氏と郷土史家の佐藤一則氏の共同制作による小説です。
じつはまだ読んでおりませぬ。ああごめんなさい。
そのとびらをひらいたら、昨日しゃしんで送信した系図があった。
それみて、ぱっと、ざっと、わかったことがある。
歴史の史実と、物語の虚構、どこからどこまでがどうなのか。
扉の前にたったばかり、というところのようです。
さあ、しらべさんの出番のようですよ。

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コメント

『大内屋敷のこと』

久々に通りかかると、なつかしいご隠居のことが話題に。

その折、ご隠居が卒業されたのは、あなたたちのいかにもな物言いが“すらごつ”でしかなかったからでしょう。

それは、立花町の大内家が自ら申し立てている、
「周防の守護大名大内氏の流れをくむ」という、“自己”申告を真に受けるという、井戸端会議に付き合えなかったからでしょう。

●実は、義隆には“義信”などという兄弟(※弟)はいないのです。

したがって、いくら地方の名家であると謂われても、
「ああ、そうなの。」
ということでしか、ないのです。

これは、ご隠居には、世の中の流言飛語にだまされない、しかるべき見方の基本があったということなのでしょう。

水月さんとやらも、ご隠居と同じ?“ものの見方”をされているように思われるのです。

おお。ご隠居。おひさしぶりです。
おげんきそうでなによりです。

水月師のおかげで久々に小侍従研究をがばりなさっている方のブログへいきましたところ、さいごのところに高野山講坊のことが書きたされていました。以前たずねたときには、言及されていませんでしたので、はっとしました。
このブログを書かれているお方はなんと92歳だそうです。ひえ~~~おそれいりやしたっ!

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