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2014年5月 8日 (木)

龍の谷から 10  梯和上がお隠れになる

メール文・水月
先日、國武久義の論稿「唱導文学としての『黒木物語』─待宵小侍従説話について─」を手にしました。『九州大谷国文』第26号(平成9年)の1頁から10頁までの巻頭を飾っていました。内容はすでに貴女がサイト上にアップされているので読むまでもなかったのですが、学術研究の上で、生(なま)のものを見ておきたいと思ったからです。
國武氏の『「はんや」舞の研究』(昭和63年)という著書は、私が高野堂を訪れたとき、八女市教育部文化財課文化財係の人から御紹介いただいた星野村の栗秋恵二氏というかたが、原口重信さんとともに軽トラに乗って現地にお越し下さり(前もって電話で日時を伝えていました)、いろいろと御教示を受けるなかで、「参考になれば」と何冊かの本を御持参くださっていたなかの一冊でした。それで私は高野堂からの帰り、車で行っていたので(しかも軽四です。山口県を通過するときはしんどかったなあ。腰が強烈に痛かったです)、図書館を探し、該当部分をコピーしてもらいました。それによって、一宿上人と呼ばれた行空のことが『元亨釈書』以外に『今昔物語』と『三外往生伝』にもあることを知りました。しかし國武氏は『法華験記』(1040~1044年成立)にも出ているということを書いておられません。このたびの「唱導文学としての……」にも書いておられません。たいへん残念です。成立年代の上からいって、まず『法華験記』があって、それを元にして、『今昔物語』や『三外往生伝』、あるいは『元亨釈書』が書かれていると思われるのに、素材になった『法華験記』に気づかれていないのはどうしてでしょう。國武氏が『三外往生伝』を何によって見られたかわかりませんが、おそらく『岩波日本思想大系七 往生伝 法華験記』ではないでしょうか。そのなかに、題名が示しているように『法華験記』が収録されているのです。『三外往生伝』に行空の記事があると気づかれたのなら、『法華験記』にも出ていることに気づいてほしかったです。まあ、研究分野が違うようですから、いたしかたないのかもしれませんが……。
私が『法華験記』に行空の記事があることを知ったのは、重松明久氏の『日本浄土教成立過程の研究』によってでした。その重松氏の息子さんがウオシュレットの開発者だったとは驚きましたが、重松氏はその行空の記事が後に『元亨釈書』に取り上げられていることには触れておられません。そうすると、高野堂の行空をめぐって、『元亨釈書』→『法華験記』を見出したのは私ということになるかもしれません。そして國武氏によって『今昔物語』や『三外往生伝』にもあるという補強をいただいたのでした。その点、深く感謝しております。
ともあれ、一宿上人としての行空は『法華験記』『今昔物語』『三外往生伝』『元亨釈書』に取り上げられるほど高徳の人であったことが知られます。ただ、その行空は『法華験記』に記事がある以上、1040~1044年以前の人と見なければなりません。そこで話がややこしくなってきます。
と、ここで、まだお話したいことがあるのですが、いま、前々から話が出ていた恩師・梯實圓和上がおかくれになったという連絡が入りました。
後日またメールさせていただきます。
▼かささぎの旗より
水月さん、新しい発見があって、よかったですね。
たくさんの目があると、あたらしいものが出てくるのですね。
あたらしい価値にきづくことができる。
もともとあるのに、だれもきづいていないことの意味。
すばらしい。軽トラではるばるといらしたんですか。それはまた難儀な。
山道は確かに軽トラ向きですが。。。
かささぎの旗は、免許取り立てのころ、軽トラで大都会(八女から見たら)天神まで行ったことがありますが、一番遠くは大分市までの引越し、そんな大遠征はしたことありません。しかし、腰が痛くなる、たしかに。尻もいたいっす。上下に振動するんで。マニュアル車はちまちまハンドルとクラッチ踏まないといかんし。いまは軽トラもオートマだろうか。
さて、かけはしじつえん和上が亡くなられたのですか。
ちょうど梯という姓について、八女の広川町の山間部にさかせ谷という谷があり、梯というところがあって、そこが梯姓の発祥地だとかささぎは信じているので、きっとその水月さんのおっしょさんも、遠い先祖は八女じゃないかと、ひとり思っていたのを、ブログにも書こうかどうしようかと迷っておったところです。(水月さんにきいたところ、詳しくはしらない、でも、養子であるとのこと。ゆめさき町というところのご出身だそうです。)
おどろきつつ、ここにお悔やみ申し上げます。
追悼として、梯實圓で検索して一番初めにございます師の御文章を転載いたします。
コピペは大いに許されます。
『選択集』付属の意義
梯 實 圓(かけはし じつえん)・文
親鸞聖人が、恩師法然聖人から、その主著『選択せんじゃく本願ほんがん念仏集ねんぶつしゅう』を見写することを許されたのは、元久二(一二〇五)年、三十三歳の時でした。
二十年にわたる比叡山での修学を捨て、聖徳太子の夢の告げに従って生涯の師として選んだ法然聖人の下に入門されてから四年の歳月が流れていました。しかし、よほど法然教学に通達した高弟にしか伝授されなかった秘蔵の書を、入門してわずかに四年しか経っていない若い弟子に伝授されたばかりか、引き続いて聖人の真影しんねい(肖像画)の図画までも許されたのは、異例のことでした。聖人から直接『選択集』の伝授を受けたことを確かめられる人は、その撰述に加わった三人を入れても十人前後しかありません。『七しち箇条かじょう制誡せいかい』(『西方さいほう指南しなん抄しょう』本)によれば、それに連名した門弟は二百余名いたといわれています。京都近辺だけでもそれだけの人数がいたわけですから、各地に散在している門弟はおびただしい数に上ったはずです。にもかかわらず『選択集』の伝授を受けた人は余りにも少なすぎます。
『選択集』は、建久九(一一九八)年、法然聖人に深い帰依をささげていた前関白さきのかんぱく藤原ふじわらの兼実かねざねのたっての要請に応こたえて著された浄土宗の本格的な教義書でした。しかしその巻末には、「ご高覧になった後、この書は壁の底に埋めるなりして決して人目につくようなところに置かないでください。心なき者が読めば、念仏を謗そしり、その罪によってその人が悪道に落ちる恐れがあるからです」と記されていました。それほどこの書に説かれている選択本願念仏の教えは過激であり、先鋭であって、当時の仏教学者の決して認めることのできない教説だったのです。法然教学を非難した人たちが、いずれも当時最高の学僧であり、清廉せいれん潔白な高僧として尊敬されていた笠置かさぎの解脱げだつ上人しょうにん貞慶じょうけいや、栂尾とがのおの明恵みょうえ上人しょうにん高弁こうべんであったことによっても知ることができましょう。
生死を超えてさとりを求める者は、仏教の中に聖道門しょうどうもんと浄土門じょうどもんの別があることを知り、聖道門をさしおいて浄土門に入れ。浄土門に入ろうと思うならば、一切の雑行ぞうぎょうを捨てて正行しょうぎょうを修行しなさい。正行を修行しようと思う者は、読誦どくじゅ、観察かんざつ、礼拝らいはい、讃嘆さんだん供養くようといった助業じょごうを傍かたわらにして、正定業しょうじょうごうである称名しょうみょう一行を専せん修じゅしなさい。称名は、善悪、賢愚を簡えらばず、一切の衆生しゅじょうを平等に往生させる行業ぎょうごうとして阿弥陀仏が選択し選定された正定の業であるからですというのがその結論でした。そこでは、仏道修行の基礎とされていた戒律も、菩提心ぼだいしんも、六度の行も、止観の行も、三密さんみつ加持かじもすべて捨てられていました。それは仏教そのものを否定する邪道であると彼らが非難するのも無理はありません。
法然聖人の門弟であっても、聖道門を捨てて浄土門に入っている人はあまりいませんでした。まして自力を捨てて他力に帰するというような宗教経験を持っている人は極めて少なかったようです。法然聖人と一味の信心を持っている人は寥々りょうりょうたるものでした。その意味で法然聖人も、本当は孤独な人だったのではないでしょうか。
親鸞聖人は、法然聖人に遇あうまでに、天台教学はもちろん、源信げんしん僧都そうず以来蓄積されてきた日本天台の浄土教を論議を通して精密に学んでおられたはずです。おそらく法然聖人に出遇って、その教えの真髄に触れたときの驚きは想像を絶したと思います。吉水の草庵に、百日間、一日も欠かさず通い詰めて聞きだし、「雑行を棄すてて本願に帰す」という強烈な回心を通して初めて門下に連なることになったわけです。
こうしてひたすら法然教学を学び続け、やがて『歎異抄』に伝えられているような、「善信ぜんしん(親鸞)が信心も聖人(源空)の御信心も一つなり」といい切ることのできる心境に到達されたわけでした。それを聞いた同門の勢観房せいかんぼう源智げんちや念仏房念阿たちが厳しく反論したのは、そのようなことを法然聖人から聞いたことがなかったからです。法然聖人は、念仏は選択本願の行であるから、万人平等であるとはいわれていましたが、信心が一つだとはいわれていなかったからです。恐らく法然聖人は、善信房(親鸞)の言葉を聞いて驚かれたと思います。しかし聖人は即座に、「源空が信心も、如来よりたまはりたる信心なり、善信房の信心も、如来よりたまはらせたまひたる信心なり。されば、ただ一つなり」と仰せられたといわれています。善信房がいわんとして、まだ言い切れていない言葉を与えて弟子の説を包摂していかれたのでした。それが「如来よりたまわりたる信心」という言葉です。念仏も信心も如来より賜った行であり、信であるという教学的視野がここで開けていきます。後に親鸞聖人が開示される本願力回向の行信という教義体系は、それを展開されたものでした。
この事件が『選択集』伝授の前であったか後であったかはさだかではありません。しかし少なくとも法然教学の真髄を明確に捉え、師を凌しのぐほどの境位に達している若い弟子をご覧になったとき、浄土の教法は、素晴らしい伝承者を得ていることを慶びながら『選択集』を伝授し付属し、さらに真影の図画までも許して、後事を託されたのに違いありません。
(勧学)
以下、ウィキで出ました。
梯 實圓(かけはし じつえん、1927年10月3日 -2014年5月7日 )は、日本の仏教学者浄土真宗本願寺派勧学行信教校名誉校長浄土真宗教学研究所元所長、本願寺派宗学院講師、大阪教区阿倍野組廣臺寺前住職。

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コメント

いま、じっくりよみました。
朝、水月さんのメールに気づいて、よみながら記事にしましたが、時間があまりなかったので、きちんとよんでませんでした。すみません。
水月さんは九州へ取材にみえたとき、軽乗用車できた、と書かれていたのですが、軽トラックと勘違いしてます。軽トラックは星野のお茶製造の原口さんたちでしたね。
それと、梯和上のウィキ、今朝すでに死去の日付が入っていて、きちんと管理されていることに驚く。
わたしは咄嗟になにか記事をつけようと、名前検索で最初にぶつかり、ひろった記事を読まずにコピペしてアップしました。
それをいまよみました。
ちょうどなんどもうちこんだ箇所ではありませんか。
ぴったりシンクロしています。
おそろしいくらいだ。
書かれている内容は、梯和上がおはなしをなさったものをどなたかがまとめられたのか、それともご自分で書かれたものかはまだ調べておりませんが、昨日、水月さんのうちこみをしたとき、調べた、時宗の僧の核にあったものとほとんどおなじだ。とおもった。

アクセス、これが二番目に多いです。

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