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2014年5月25日 (日)

親鸞聖人と法本房行空上人   五の下

文・水月

『和語灯録』「諸人伝説の詞」にもほぼ同文が収録されており、世に「鎮西相承一枚起請文」と呼ばれ、弁長が直接法然から伝授されたものといわれている。そこに法然の念仏観がいい尽くされているのであって、弁長が称名往生を「初心の人の往生」として軽視し、「此の学文を我に随てせよ」と勧める「寂光往生義」を邪義とするのは当然である。法然の浄土宗独立の意義を見失うものであるからである。ただしそれが行空の説であったかどうかは別である。『浄土宗要集』のように「法本房の云く」と明記されているわけではない。また『末代念仏授手印』などの第一義が幸西の説であったとすると、行空は幸西より先輩であったと考えられるので、行空の説を第一義に挙げ、幸西の説を第二義に挙げるのが自然であろう。
「近代興盛」の度合いとして幸西の方が上であったとも考えられるが、第三義に挙げているところを見ると、行空本人の説ではなかったのではないかという疑問も出てくる。たとえば弁長は『念仏名義集』に肥後国で一念という文字を「人二たりが心を一つにするとよむ也」という相続開会の一念義が盛んに用いられていたことを伝えているが、その主唱者が誰であるか不明であるのと同じように、「寂光往生義」も主唱者が判然としないので第三義として挙げたと考えることもできよう。ただいえることは、『末代念仏授手印』は安貞二年1228肥後国の往生院で著されているから、それまでに幸西や証空の義とともに「寂光往生義」が盛んに行われていたということで、行空の説であったかどうかはわからない。

もしかすると、「寂光往生義」が行空の説といわれるのは先に述べた本覚院を開創し八女市星野村に墓のある行空と関係があるのかもしれない。あくまで推測の域を出ないが、本格院の伝承によれば、開基の行空は「元来天台宗の人なりしが、真言門に入り秘蔵の奥旨を極めらるると雖(いえども)尚法華行者にして」とあるから、もと天台宗の人であったようである。そこで「寂光土」という名目を用い、法華行者として観勝称劣の立場から称名を軽んずる説を唱えたとも考えられる。すなわち法本房ではない、もう一人の行空である。
彼は筑後国と縁があり、天福元年(1233)あるいは文永年中(1264~1274)星野村で歿した。彼がいつ筑後国へおもむいたか明らかでないが、安貞二年(1228)以前であった可能性がないとはいえない。彼の唱える説がそれだけであれば単に天台の義ということで、天台宗の碩学でもあった弁長が「法然上人の義に非ず」と批判するはずはない。しかしそれが法然の門流を汲みながら、称名は本願に誓われた正定業であるにもかかわらず、称名だけでは物足りなく感じ、さらに奥義があるのではないかと思う人たちが筑後国あたりにもいて、もう一人の行空が説くことをもっともなことだと受け容れ、一義として盛んに説かれるようになったことから、弁長が邪義の一つとして取り上げたとも考えられる。
前に触れた相続開会の一念義は真言立川流が浄土教的なよそおいをとって盛んに用いられたものであるように、もと天台宗であるもう一人の行空の説く義が浄土教的なよそおいをとり、「寂光土義」となったのではないかと思われるのである。そしてのちに良心がそれを放本坊としての行空と混同し、「美濃の国の法報房と云ふ人、此の義を立つ」と誤り伝えたのではなかろうか。良心に責を負わせるようになってしまうが、「寂光土の往生、尤も是れ殊勝なり。称名往生は是れ初心の人の往生なり」をそのまま読めば、天台の説としか見えないからである。また法本房としての行空と同時期に、もと天台宗で法華の行者である別人の行空がいたと考えられるからである。

逆に「寂光往生義」が法本房としての行空の説であったとすれば、行空自身は佐渡島流罪以後の消息が不明であり、嘉禄の法難(1227)のときには姿を見せていないから、それまでに歿していたと思われる。そうすると、あるいは弁長が直接行空からその義を聞いたとすれば、これもまた元久元年(1204)以前ということになってくる。
そのころ行空は第十八願成就文の一念を信の一念と見て、一声の称名も待たずに往生決定するという一念往生義を立てていた。そして称名に念=思の信に基づく称名と、そうでない称名を分けていた。そこで「末代念仏授手印」などの「称名往生は是れ初心の人の往生なり」とは称名を軽視したものではなく、念=思ではない不信の称名のことをいっていると思われる。そして『念仏名義集』の「此の学文を我に随てせよ。若し此の心を知らずして念仏申さん者は往生すべからず」とは学文を勧めたものではなく、本願のいわれを聞き開くことで、それなくしていたずらに不信の称名をつのっても往生はできないということをいっていると思われる。行者にとって問題は本願を受け入れるか否かであって、本願を受け容れたとき、即時に往生は決定する。そして「乃至十念せよ」の本願のままに称名していく。それが念=思である信の称名であって、その響きのなかに、いよいよ決定往生の思いを深めていく。
法然が「心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなえば、こゑについて決定往生のおもひをなすべし」といったのがそれである。
そこに信心の称名と不信の称名が出てくる。そして良心や妙瑞の釈は横に置き、弁長が寂光土の往生は殊勝で、称名は初心の人の往生であるといっているのが、報土往生と化土往生を意味するものとすれば、信の称名は報土へ往生し、不信の称名は化土へ往生すると説いたことになるであろう。そして何より重要なのは弥陀の報土をあらわすのに「寂光土」という名目を用いていることである。それは前に一言したように法身仏が所居とする土であり、唯物与仏である仏の自境界にほかならない。そこに往生するということは即成仏するということであって、諸宗の修行を補完するための寓宗としての浄土教ではなく、成仏道としての浄土教であることを意味する。
のちに親鸞が「誓願一仏乗」と釈願し、本願力回向の行信によって得る証果を「利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり」といいきり、「ちかひのやうは、「無上仏にならしめん」と誓ひたまへるなり」と述べた領解が思い合わされる。「寂光往生義」が行空の説であったとすれば、また親鸞の証果観や仏土観の先駆けになったのではないかと考えられるのである。

六につづく

『親鸞聖人と法本房行空上人』   水月(森本光慈)・著

平成二十三年五月発行、行信学報通巻第二十四号抜刷 転載

原稿入力録

五の上http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-0192.html

四の下http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-b235.html

四の上http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-1690.html

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-1836.html

二の下http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/post-6399.html

二 http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/post-84cb.html

一の後半http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/post-40b0.html

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/post-4e5c.html

[言葉抄]

鎮西相承一枚起請文

浄土宗のおおもとにある法然のことば。

法然の死後、浄土四流(じょうどしりゅう)という流れが形成される。
すなわち、信空の没後、京都の浄土宗主流となった証空の西山義、九州の草野氏の庇護を受けた弁長の鎮西義、東国への流刑を機に却って同地で多念義を広めた隆寛の長楽寺義、京都で証空に対抗して諸行本願義を説いた長西の九品寺義の4派を指す。もっとも当時の有力な集団の1つであった親鸞の教団はその没後(親鸞の曽孫である覚如の代)に浄土真宗として事実上独立することとなりこの4流には含まれておらず・・・

以上はウィキから拝借。
草野氏が、こんなところにでています。
おぼえている。「本覚院は筑後国を檀家とする由来」にあった。

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-8400.html

黒木物語に出てくる星野氏、黒木氏、河崎氏のほかに、もう一つ草野氏というのが目についたから。
姓としての草野氏は知らないが、ふつうに筑後人として思えば、草野は久留米の先の草野しか知らない。何より、近くに弁長という浄土宗で法然の次くらいに有名な僧(これ、古賀音彦さんと水月さんに出会わなければ気づかぬままだった。母たちの時代にはまだ善導寺信仰は健在だったのに)がいる善導寺がある。

「観勝称劣」

http://www.zonmyoji.jp/jushin5.htm

http://www.sainenji.net/kiyou002.htm

「寂光往生義」

「極楽浄土」という語についてであるが、この用法は漢訳経典にはあまり見いだせない。日本においてもこのような用語は文献上それほど多くない。『往生要集』に一度使用されているが、それ以外は源信の師・良源の『極楽浄土九品往生』という著作の題名にみられるくらいである(*16)。法然、親鸞(1173-1262)の主な著書にもこの用法は見られない(*17)。おそらくは、このような表現は、いつの間にか誰いうとなく広まった用法と思われる。この場合は、先述の通り「極楽」=「浄土」(正しくは、「極楽という浄土」)(*18)と理解され、同義語を重ねて使用されていると考えてよかろう。 ・・・山上證道

http://kotobank.jp/word/%E8%A1%8C%E7%A9%BA(2)

http://taniken3.blog114.fc2.com/?mode=m&no=47

http://sokamondai.jugem.jp/?eid=36

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コメント

相続開会

これもわかりませんでした。
検索しても相続問題のことしか出ません。
見当もつかないというかんじですね。

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