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2014年5月 6日 (火)

親鸞聖人と法本坊行空上人 三  八女星野の高野堂に名を残す行空上人

 文・水月

     

   三

ところで、高野山千手院谷にある本覚院は行空をもって開基とする。門をくぐった右手の石碑「本覚院累代記」などによると、建久年間(1190~1198)待宵小侍従(1120~1201)の願により建立したという。そして行空が常に『法華経』を講じていたことから「講房」と称せられたが、元禄年間(1688~1703)待宵小侍従の法号「本覚院殿湛然如真善女」にちなんで「本覚院」と改称されたといわれている。
待宵小侍従は当時有名な女流歌人で、大阪府島本町桜井にその墓と顕彰碑が建っている。
しかし福岡県八女市の黒木・星野地方には次のような話が伝わっている。
星野家伝記』など諸種の文献に共通しているのは、大筋をいうと、筑後国上妻郡の猫尾城主・黒木大蔵大輔源助能(すけよし)が文治二年(1186)春、三年詰の大番役で上洛していたときのことである。宮中で管弦の楽がもよおされたが、それがととのわず、笛の妙手であった助能が吹いたところ、たちまちととのった。そこで後鳥羽天皇が叡感のあまり、調(しらべ)の姓と、官女・待宵小侍従を下賜されたというのである。また『猫尾城由来』や『調城古談』『本覚院は筑後国を檀家とする由来』などになると、助能の正室・春日局は嫉妬から数々の恨みを書き置き乳母や侍女らとともに次々に城辺の川の淵へ身を投じた。乳母は水神となって往来の人を悩まし、城中に変災が多くおこったので、宝剣を一ふり川の淵に沈めると、祟りはしずまったというが、本覚院の伝承ではそれでも祟りはやまなかったという。そして待宵小侍従は一子を生んだが牛であって哀殺して葬った。そこで行空の遍歴を聞き直に召請して事情を述べ済度を願った。行空は宿世の因縁輪廻し現世の業報の遁れ難きを説示したので、助能や待宵小侍従は大いに懺悔し厚く帰依し、資財をなげうって行空に願い高野山に「講坊」を建立したといわれている。
この年代を検証すると、助能の大番役は文治二年春より、三年詰であるので文治五年に帰郷したことになる。その翌年が建久元年であるから、行空が建久年間に本覚院を建立したということと年代的に辻褄は合う。ただし『星野家伝記』などには後鳥羽天皇が助能へ待宵小侍従を下賜されたとき、待宵小侍従は徳大寺実定の側室で三ヶ月の懐胎であったといわれている。しかもその子は実は後鳥羽天皇の御落胤であり、成長して星野氏の祖・胤実となった。それを主張するために書かれたのが『星野家伝記』であるが、そのころ待宵小侍従はすでに老齢であって、官女として出仕することはありえないし、懐胎できる年齢でもない。また後鳥羽天皇もわずか七歳であるなど、この話は架空の伝説であるといわれている。そこで待宵小侍従が牛の子を産み哀殺して行空に帰依し、本覚院を建立したというのも、いささか疑問が残るのであるが、いまは本覚院の伝承にしたがい、建久年間、行空によって開創されたとみておくことにする。

この本覚院の過去帳には次のような記述が見られる。

 高野山千手院谷講坊本覚院ハ待宵小侍従建立し玉ひ、星野、川崎、黒木、草野家の宿坊にて、筑後の国檀那寄附の証文其外名器など寄附物類然也。
 当時開基行空上人四家の帰依によって筑後に下向し、星野において遠行し王(ママ)ひ廟所あり、其の地名星野光延(みつのぶ)名(みょう)高野村(こうやむら)といふ。

本覚院は筑後国の星野・川崎・黒木・草野という四家の宿坊で寄附を受け、開基の行空はこの四家の帰依によって筑後に下向し、星野というところで歿して、廟所が光延名高野村(みつのぶみょうこうやむら)にあるというのである。そして同じく過去帳のはじめにあるという『本覚院は筑後国を壇家とする由来』には、

最終の行化、文永年中星野村にて年九十才、口中より光明を放ち仏舎利を吐て掩化せらる。因て廟所を構ふ。其の地字(あざ)を黒木谷の高野の上(こうやのかみ)と云。大石塔に講坊開基行空上人とあり石柵を回らし非凡なるを知るに足れり。

といっている。これによると、行空は文永年中(1264~1274、右註によれば1265)星野村において九十歳で歿したことが知られる。そして廟所の地名に微妙な違いがあるが、それがいま、福岡県八女市星野村の黒木谷に高野堂(こうやんどう)「行空上人」の墓として現存している。墓標の正面には中央に「高野山講坊先師行空上人」、向かって右に「天文十六年」、左に「七月六日」とあり、墓標の左側面には「時宝暦十天三月  日 /講坊法印弟子/
戒浄  建之」と三行に刻まれている。八女市(星野村)の指定文化財である。

おそらくこの墓標を世に紹介したのは江頭亨氏の『郷土史物語』(1968年)が最初であろう。江頭氏によれば、行空は「星野村と黒木町の境界にある高牟礼峠を越して星野に下る途中、縫尾久保という所で急に卒倒して死亡」したといい、それが天福元年(1233)七月六日といわれている。そして現在の墓標に刻まれている天文十六年(1547)と宝暦十年(1760)は改修の年であって、「天福元年と天文十六年の墓碑は宝暦十年の物とかわっております。現今の物は宝暦十年に改修したものであります」といわれている。しかし、先ほど触れた本覚院の伝承では行空の歿年を文永年中としているにもかかわらず、天福元年に歿したというのは何に基づいていわれているかわからない。
星野村史 文化財民俗編』にも「旧墓塔にかく記されていたように書いてありますが、今日ではそれを確認することができないのは残念です」といっている。ただし『星野村史 年表編』では江頭氏の天福元年説を採用し、本覚院の文永年中説を細字で註記してある。

いずれにせよ、本覚院を開創した行空が筑後に下向し、八女市星野村で歿したことはこの墓があることによって確認できる。そこで本覚院からは五十年に一度、使僧がおとずれ、法要が営まれるということである。近年は昭和五十九年(1984)に七百五十二回忌が修され、高野堂にその記念碑が建っている。ただしそれは行空の歿年を天福元年と見て数えたもので、本覚院も文永年中説から天福元年説に切り替えたのかもしれない。その前は江頭氏によると、大正元年(1912)であったらしい。正確に五十年に一度ではないようである。また星野村の黒木谷の人たちも何年かに一度は本覚院に参拝するそうである。それがどこまで遡れるのか定かではないが、深い縁につながれ、この地方に待宵小侍従の説話が語り継がれているのである。それは高野聖がもたらしたともいわれる。

しかしこの行空を法本房としての行空と見るのは早計であろう。確かに名は同じ行空であるし、天福元年に九十歳で歿したとすると、天養元年(1144)の生まれとなって、法然より十一歳年少、親鸞より二十九歳年長となり、親鸞から見て法然門下の大先輩としての行空と見事に合致する。また建久年間に本覚院を建立したとき『法華経』を講じていたので「講坊」と称せられたということは、法然門下となる以前と見なければならない。本覚院を開創してから法然のもとへ入室したということになる。それは他の門弟、たとえば証空(1177~1247)が建久元年(1190)、源智(1183~1238)が建久六年(1195)、弁長(1162~1238)が建久八年(1197)、幸西が建久九年(1198)にそれぞれ入室しているところから見て同じ頃であり、年代の上で無理はない。そこで江頭氏をはじめ『星野村史 文化財民俗編』や高野堂の解説板など多くは、法然門下の行空がのちに筑後へ下向し、星野村で歿したというふうに見ている。花田玄道氏になると、法本房としての行空の生没年を「1144~1233年」と明記されている。しかし話はそれほど簡単ではないのである。

というのは、八女市星野村にある墓標の正面には「高野山講坊先師行空上人」とあって、法本房としての行空の欠片もない。彼は「高野山講坊先師」として生涯を閉じたようである。また本覚院の伝承のなかにも開基の行空が法然門下になったという伝えはない。さらに先の本覚院にある石碑「本覚院累代記」やその過去帳にある『本覚院は筑後国を檀家とする由来』、江頭氏や花田氏、『星野村史 文化財民俗編』などは、彼の行状を臨済宗の虎関師錬(1278~1346)が元亨二年(1322)に著した『元亨釈書』に求めている。すなわち、

釈行空。世に一宿上人と称す。居る所、両夜を経ず。故を以て五畿七道行遍せざること無し。身に随えるの資具、三衣猶ほ全からず。況んや其の余をや。只だ法華一部ならくのみ。昼六部を読み、夜又た爾り。行旅の間或ひは道に迷ふ。天童これを示す。渇乏の時天女、水を与ふ。若し病苦すれば天薬自ら至る。供を欠けば甘露現前す。年九十にして鎮西に歿す。臨終、天衣自ら身を纏ふ。蓮華、雙足に承く。普賢文殊降現し摩頂して云はく。生平誦する所、三十余万部。

といわれている。行空は一宿上人とも呼ばれ、二夜を重ねず諸国を遍歴し、ただ『法華経』のみを昼夜に六部づつ誦して、生涯三十余万部に達したというのである。そして「年九十にして鎮西に歿す」とあるから、八女市星野村で歿した点が一致し、九十歳という年齢がいわれるのである。しかしその行状はまったく法華の行者である。江頭氏や花田氏など、どうしてこの点を見過ごしているのであろうか。もっとよく行状を見るべきであると思う。
そしてこの『元亨釈書』と同じ記事が『法華験記』にも記されていることに注意しなければならない。それは天台宗の鎮源(生没年不詳)が長久年間(1040~1044)に撰述したもので、

沙門行空は、世間に一宿の聖と称ふ。法華の持者なり。日に六部を誦し、日夜に十二部を誦して、更に退き欠くことなし。出家入道して、心を発してより以後、住む所を定めず、猶し一所にして両夜を逕ず。況や庵を結びて住せむや。猶し三衣一鉢を具足せず。況や余の資具をや。身に具するところのものは、法花一部ならくのみ。五畿七道に、行かざる道なく、六十余国に、見ざる国なし。その間、路に迷へば、天童路を示し、渇乏して水を求むれば、神女水を与へたり。もし悩むところあれば、天の薬自らに臻り、もし食に飢うれば、甘き飯前にあり。妙法の力に依りて、賢聖常に現じ、天神身に副ひたり。乃至老後に、鎮西に出でたり。九十に及びて、法華経を誦せり。一生に誦するところの部数は三十余万部なり。終の時に臨みて、普賢摩頂して、文殊守護し、蓮華足を承けて、天衣身に懸け、浄土に往生せり。

といわれている。『元亨釈書』を詳しくした内容である。その他、『今昔物語集』や『三外往生伝』にも同様の記事がある。そこで『元亨釈書』の「年九十にして鎮西に歿」したという一宿上人としての行空は、もともと『法華験記』に出ているもので、そこに取り上げられている以上、『法華験記』以前の人物と見なければならない。それが本覚院を開創し八女市星野村に墓のある行空、また法本房としての行空と混同されているのである。

したがって整理をすれば、①一宿上人としての行空、②本覚院開基としての行空、③法本房としての行空という三人の行空がいたことになる。そのうち、①はまったく法華の行者であり、②も常に『法華経』を講じていたのであるから法華の行者であって、①と②は年代が違うが、行状を同じくする。それで混同が生じたのであろう。本覚院自体の伝承も混同している。また①が九十歳で歿したのは間違いないが、②がそうであるとは限らない。正確な歿年齢は不明と言わざるを得ない。そして②と③は行状を異にする。③は念仏の行者であるからである。ただ②が建久年間に本覚院を建立したのであれば、③は『三長記』元久三年の条に名が出ているから、ほぼ同じ頃の同名異人となり、興味深い。また②が天福元年もしくは文永年中に歿したとはいえても、③がいつ歿したのかは不明である。まして九十歳で歿したとはいえない。やはり③法本房としての行空の生没年は不詳ということになる。そして②と③は同時代の別人と見なければならないから、『星野村史』などの高野堂の解説は改めねばならないであろう。

四につづく

かささぎの旗の独り言:

よく調べて書かれました。
ありがたいです。きっちりと腑分けしなければ混乱しています。
黒木物語、待宵の小侍従伝説に出てくる行空について、時代と確証をさがして、いろんな本にあたってくださった。

以前、国武久義先生のご研究論文を打ち込んだことがありました。
やまなみ短歌会の山下整子氏を通じていただいた資料でした。
水月さんの論文をここまで打ち込んで、わたしは、その国武先生の書かれた、『筑後星野風流「はんや舞」の研究』を町内の公民館から持ち帰ってあちこち読みさしたままになっているのを思い出しました。
この本の200ページに、『星野村に「はんや歌謡」を運んだ人』と題して、ほぼ水月さんと同じことが書かれておりますが、以下のことも記されている。それをここに書いておきます。

(というのも、自分が以前なにも知らずに書いたブログ記事に、行空の命日には高野山本覚院講坊からと、南蔵院から、僧が見えた、とあったからです。南蔵院とは篠栗です。なぜに?と思って。しらべると南蔵院はむかし、高野山にあった。開基は行空。おなじ行空。んじゃ、宗派は何。真言宗、浄土真宗、真言密教のどれだ!とこんがらがってしまった。)

文・国武久義

五来によると、講坊「本覚院」は高野山千手院谷にあり、元は時宗寺院であったという。千手院谷は高野山聖三大集団の一つで時宗聖の本拠だったが、江戸初期における時宗の真言帰入の時破壊されてしまい、時宗の鎮守熊野社も本覚院の庭先にうつされて、「待宵の小侍従」と称する八幡の小祠に合祀され、かつてさかんだった時宗千手院聖の痕跡をかすかにのこしているとのことである。
行空上人・待宵の小侍従が高野山に深いかかわりをもつ人物であり、しかも二人にゆかりのある講坊「本覚院」が中世末期においては、時宗聖の本拠であったことなどから考えあわせると、八女東部の黒木・星野に「待宵の小侍従」「行空上人」説話をもたらした人物としてここに「高野聖」の存在がクローズアップされてくる。
また、時宗聖が祈祷や念仏や踊りや和讃とともに御札をくばる下級の遊行僧であったことは、多くの人々の説くところである。彼らは念仏をとなえるだけでなく、村々の踊り念仏の世話役や教師となって踊念仏を伝播したともいう。
これらの事を総合して考察するとき、星野に「はんや舞」や「はんや歌謡」を運んだ人物は、回国遊行の「高野聖」であると結論づけられないだろうか。

又、大分県佐伯市青山黒沢の神踊に、「はんや歌謡」と全く同じ歌詞をもつ歌が多く伝わっていることから考えて、「はんや舞」が星野にもたらされた時期は、江戸幕府や各藩が遊行者・勧化僧のとりしまりをきびしくする以前の、戦国時代末期の頃と推測される。
  (昭和55年刊『星野の風流・ハンヤ舞』)

ごらいしげる:五来 重(ごらい しげる、1908年(明治41年)3月7日 - 1993年(平成5年)12月11日)は、日本を代表する民俗学者の一人。

茨城県久慈郡久慈町(現、日立市)に生まれる。水戸高等学校文科甲類を経て、1932年(昭和7年)、東京帝国大学文学部印度哲学科を卒業。一旦、高野山大学助手に就任するも、史学を学ぶため京都帝国大学に再入学、1939年(昭和14年)、同大学文学部史学科国史学専攻を卒業した。以後、京都師範学校教諭、高野山大学助教授、同教授を経て、1955年(昭和30年)、大谷大学文学部教授に就任。同大学を拠点として広く仏教民俗学を講じた。1962年(昭和37年)には、大谷大学に学位論文「日本仏教民俗学論攷」を提出し、文学博士の学位を取得している。

従来、教学史研究・思想史研究に偏りがちであった日本仏教の研究に、民俗学の視点・手法を積極的に導入。各地における庶民信仰・民俗信仰の実態について、綿密な現地調査と卓抜した史観にもとづく優れた考察を加え、地域宗教史・民衆宗教史の分野に多大な業績をのこした。

1978年(昭和53年)、大谷大学を定年退職、同名誉教授。退職以後も日本宗教民俗学研究所を主宰し研究を継続、多くの後進を育成した。(ウィキ)

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コメント

ここ、読まれています。
国武先生や水月さん、去年あんなにお世話になったのに、私は賀状一枚書いてないのだった。いや、まったく、恐ろしい。いつからこんな恥知らずになったんだろう。
いま、久々定時あがりで、マルキョウの駐車場にクルマとめて、書いてます。かいものしなくちゃ、冷蔵庫空っぽ。
あわわ、冷蔵庫、、、谷口慎也先生にも預かった写真送ってない、田中さん、そらんさんにも。よし、絶対日曜日

水月さん、ココ読み直してみてください。

行空の墓の年月は天正ではなく、天文でした。
そして、それが天文だったからこそ、わたしはとても気になって、もっと調べたいと思い、星野の役場までいったのです。なぜか、東妙寺らんというともだちを連れて。

なぜ天文時代が気になったのか、それは、ミレニアムを祝った都市の元旦、いわいをまつるいわとやまのいまいせぐうで、おきなという神事能をみたのです。そのとき、赤崎さんという八女の学芸員さんからいただいたのが戦国百首で、それを解読する作業をこつこつとしたからです。
なぞがいくつかあってね。年号は天文二十四年卯月なんですが、干支がキボウ、みづのとう。一致しません。なぜなのか。
背景をしりたくて、もういちど役場に出向くと、それをはじめによみとかれた人はなぞの死をとげられていた。
だから、すいげつさんがかわにおっこった、けがですんだ、というのをよんだとき、ああよかったな。けがですんで。とかんじたのでした。
かささぎはなぜかけがしないので、もうしわけない。

水月さんがご紹介くださって井筒屋古書部でもとめた「懐良親王の生涯」の余聞のなかに、若き時期の、福島高校教諭だったころの國武久義先生が登場されている!

南蔵院 福岡 行空上人

で、開かれていました。
おもしろいです、なぞがこみいっていて。

小生のブログ「正見行脚」の「三恵法師墓は、一宿上人・行空の墓(福津市本木)」に、リンク先にとして貴稿の題名を掲載しました。御笑覧ください。とても参考になりました。いっそうのご活躍を祈ります。

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