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2014年5月22日 (木)

親鸞聖人と法本房行空上人   五の上

 水月・文

  五

また行空の義として取り上げねばならないのは同じく弁長の『末代念仏授手印』である。『念仏名義集』や『念仏三心要集』にも同じことが記されているが、いまは『末代念仏授手印』によることにする。そこには三人の義を挙げ、「近代興盛の義なり」といい、「已上の三義は是れ邪義なり、恐るべし恐るべし。全く是れ法然上人の義に非ず」といっている。その三義について名を挙げているわけではないが、幸西、証空、行空の義とするのが鎮西派の一般的な解釈のようである。そこで行空の義を見てみると、

 或る人の云く、寂光土の往生、尤も是れ殊勝なり。称名往生は是れ初心の人の往生なり。寂光土往生は是れ尤も深きなり。

とある。『念仏名義集』は少し文が違って、第三義としての行空の義は、

 或る人は寂光土の往生を建。此の学文を我に随てせよ。若し此の心を知らずして念仏申さん者は往生すべからずと申す。

とある。そして鎮西派藤田流の良心(?~1314)は『末代念仏授手印』を『授手印決答巻下受決鈔』に釈し、

 或人云等は極楽世界に於て体相同じからず。称名をば相の土に属して浅と為す。寂光土を欣ふは理解、因と為すべし。何ぞ称名の事行を要と為すや。美濃の国の法報房といふ人、此の義を立つ云云

といっている。ここに『末代念仏授手印』などの第三義が法報房(=行空)の説であると明示されたのである。また妙瑞(?~1778)の「鎮西名目問答奮迅鈔」には幸西、行空、親鸞の三家を邪義とし、行空の義について述べている。それによれば、行空は極楽に体と相の二種の浄土を立て、念仏にも称念と理念を立てて、称名は浅近であるから相の浄土に生じ、理念理解は深遠であるから体の浄土に生じる。安心門の時は開会の理解を生因の法として寂光の浄土に生じ体の浄土とする。起行門の時は称名の一念を生因の行とし、その中で鈍根の人は辺胎の土に生じ、利根の人は報仏の土に生じるが、ともに相の浄土であるという。こうした義を前の山上正尊氏は一念義のなかの「寂光往生義」とされている。ただしこれが行空の説であるというのは、あくまで良心の釈に誤りがなければという条件がついている。
松野純孝氏は「良心は何に基づいてこうした釈をなしたかわからない」といい、梯實圓師は「何を根拠にそういっているのかわからないから、にわかに信用できない」といわれている。
また伊藤唯真氏も「寂光土往生説を行空の説とする見解(=良心の釈)もあるが、果たしてどんなものであろうか」といわれている。「寂光往生義」を簡単に行空の説とするには問題があるのである。

ただ先学はいま取り上げた以上のことまで言及されていない。そこで私なりに考えてみると、「末代念仏授手印」や「念仏三心要集」には三人の義を「近代興盛」といっている。確かに幸西の門流は浄土教の典籍を開版したり、証空の門流は東山・嵯峨・深草・西谷の四流に分かれて盛んであった。それにひきかえ行空は『法水分流記』に「覚住」という門弟が一人いるだけである。とても「近代興盛」にふさわしくない。またすでに「寂光土」という。天台では凡聖同居土・方便有余土・実報無障碍土・常寂光土の四土を立て、阿弥陀仏の浄土を凡聖同居土と判じたことはよく知られている。
称名念仏しても往生するところの浄土は凡夫と聖者が同居する低級な土であり、もっとも高度な土は法身仏が所居とする常寂光土というのである。これをもって先の「寂光土の往生、尤も是れ殊勝なり。称名往生は是れ初心の人の往生なり」という義を見れば、天台の仏土論に基づいた説と映らざるを得ない。また念仏といっても、称名念仏・観像念仏・観相念仏・実相念仏という四種があり、次第に深浅があって、称名念仏はもっとも浅劣な念仏、実相念仏はもっとも深妙な念仏とする。
そうした理観を中心として、称名を浅劣な方便加行と見る、観勝称劣が聖道門一般に共通した念仏観であった。なかでも摂論宗や法相宗では念仏別時意説といって、称名は仏が懈怠の者を励ますために設けられた方便と見ていた。

「称名念仏は是れ初心の人の往生なり」というのはそれに通ずるものがある。しかし法然は天台宗や法相宗の説をしりぞけ、撰択本願の念仏によって凡夫が報土に往生するという凡夫入報義を明らかにするため、聖道門の外に浄土の一宗を立てられたのであった。しかもその念仏は観念の念仏でもなく、学文の念仏でもなく、口称の念仏であって、『一枚起請文』には「もろこし・わが朝に、もろもろの智者達の沙汰しまうさるる観念の念にもあらず。また、学文をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず。ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して、疑なく往生するぞと思ひとりて申すほかには別の子細候はず」とある。

この項、途中まで。つづく

帰宅後脚注もいれます。とってもむずかしいです。

しかし、これをやっていると、とても勉強になります。
なぜいま行空をやるのか、自分的意味があります。

▼これから(五月二十五日)

つづきを打ち込みますが、すごいぐうぜん!
ちょうど「一枚起請文」の影像がわたしの前に現出し、これをいれてくれろ、というのであった。

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