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2014年4月 2日 (水)

龍の谷から~水月さんのお便り~浄土真宗の派の違いのことなど

水月・文

「行空とは何ものか~『法本房行空上人と造悪無碍』2」の脚注のあとのコメントに、私が種子島に行ったと書いてありましたが、佐渡島の誤り(※1)です。そして、佐渡島には行こうとしたのですが、実際には行っておりません。佐渡島の晃照寺の電話番号を調べ、御住職にお尋ねしたのです。いろいろと教えていただき、また向こうから何度かお電話もいただき、御住職の小論文も送っていただきました。それを御住職はどこかの研究機関に発表するということでしたので、詳細はそちらに譲ることにして、必要な点だけ私の論文に書きました。
御住職の小論文は晃照寺が行空の旧跡ではないということを史料を集め論じておられますので、私は佐渡島へ行く必要がなくなったのでした。
それから、私が行ったのは、高野堂と高野山と、待宵小侍従の墓と顕彰碑のあるところです(大阪府島本町桜井)。
そこに解説版があり、それを書きとめ、お送りした論文の註に書いております。
待宵小侍従は大阪で亡くなっているようですね。
ちなみに、谷に龍と書く方を私は存じません(※2)が、その論文は一昨年だったかな、読ませていただき、親鸞が「善信」といつ名告ったか、いや、親鸞が「親鸞」と名告ったのはいつかという問題で、非常に啓発を受けました。
学問は先学の研究業績のおかげを頂戴するものですね。
けれども、私はその論文の結論には納得していません。
それで去年、「親鸞聖人と『善信』」という論文を書きましたが、これは駄作に終わってしまいました。
私は親鸞が「親鸞」と名告ったのは越後時代と考えているのですが、それを明確に論証できませんでした。
これから、もしかすると、その方が言われるように、親鸞は法然の門下にいたとき、「親鸞」と名告ったという説が支持されてくるかもしれません。
なお、谷に龍は「おおたに」と読むのかもしれません。その字を分解したのが今の「龍谷」大学です。
なみに、大谷派と本願寺派は、東本願寺の系統が大谷派で、西本願寺の系統が本願寺派です。そんなことくらい、御存知か(>_<)。

本願寺はもとはひとつで、第十一代の顕如上人のとき、織田信長と石山合戦がありました。当時、本願寺は今の大阪城の場所にありました。そこは交通の要所でもあり、信長がそこを明け渡せと要求してきたのです。それを本願寺は拒否して、十一年だったかな、十年だったかな、戦争になりました。というより、信長が攻めてきて、本願寺はそれに抵抗したのです。しかし、長い年月が経つと、門徒が疲労してくるなどのことがあり、顕如上人は信長の要求をのみ、本願寺をあけわたしました。それに反対して徹底抗戦を主張したのが長男の教如上人です。部下を率い、本願寺にたてこもりましたが、やがて力つき、本願寺をあとにしました。そして時代が移りかわり、豊臣秀吉が天下をとると、紀州・鷺森(さぎのもり)から大阪の貝塚、天満(てんま)と寺基をかえていた本願寺に対して、秀吉が現在の西本願寺の場所をさずけ、本願寺は京都に帰ってきたのです(もとは京都に本願寺がありましたから)。そして先ほどの教如上人が顕如上人の後継者になったのですが、これも事実がどうかわかりませんが、顕如上人の後妻であった何とかという人が秀吉にたのみ、自分の実の子である准如上人を本願寺第十二代にしてほしいとたのみ、教如上人は准如上人がまだ幼いこともあって、十年だけ本願寺をもち、それが過ぎて、准如上人が正式に第十二代となったのです。そうすると残ったのは教如上人です。隠居生活のような形になりましたが、時代がまた徳川家康の天下となると、家康は信長と十年も闘えるような大きな教団である本願寺をそのままにしておくことを得策とせず、教如上人に本願寺と同じ寺基をもった東本願寺をつくり、そこの住持にしたのです。そして本願寺が准如上人の代になったとき、横に追いやられた教如上人派の人たちが東本願寺につき、ここに本願寺が西と東に分かれることになったのです。それが現在の本願寺派と大谷派です。ただし、家康が本願寺を二分するために東本願寺をつくったということには問題もあるようです。しかし家康が東本願寺をつくったことは間違いありません。それで、幕末のとき、東本願寺は幕府側、西本願寺は豊臣に恩義がありますから反幕府側、すなわち倒幕派と、いちおう、いちおうですよ。そのようにいわれています。でも、西本願寺に新撰組の屯所があったから、どうなのかな?また調べてみます。
▼かささぎの旗の記
※1
まことにすみません。
石橋秀野ノードでも似たことを何度もしでかしました。
没頭してまるで気づかないままでした。

そこでいいわけに芭蕉と櫂未知子。
荒海や佐渡に横たふ天の河   芭蕉
天気の悪い日のよる、種子島をこっち側からのぞむ。
西行や後鳥羽院や世阿弥など、あこがれのひとたちが偲ばれ、せめてこころのなかにでも、たむけの花として、天の川をささげる。
佐渡島ほどに布団を離しけり  未知子
テレビで見たとき、近詠として出された句。
強烈だった。インパクトが。
ふとんでこれまで何句が読んだが、たとえば、秀野、
みのぶとん。病吟だものね。最晩年京都時代の句だったとおもう。
確認したいがもうきょうは時間ない。
たしか、芭蕉にもおなじ三幅布団の句があった。
みのぶとん、とよむ三幅布団。
※2
谷偏の龍のなまえのお方のブログ記事をよみ、むかしのひとたちの名前についての考え方のところがとても面白かったと書いたことへの返信です。
それもここにつけたいのですが、帰ってやります。
水月さん。ほんとうにありがとうございます。

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