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2014年4月12日 (土)

親鸞聖人と法本房行空上人  二

 水月・文

  

     二

 法本房行空は生没年もその伝記も明らかでない。ただ凝然(1240~1321)の『浄土法門源流章』に「美州行空大徳」(11)とあり、静見(1314~1383)の『法水分流記』にも「住美乃(ママ・12)とある。鸞宿(1682~1750)の『浄土伝灯総系譜』には「美作州人(13)」とあるが、誤記であろうといわれているから(14)、美濃の人であったらしい。そして入室の年時は不明であるが、法然門下の上足であった。日蓮(1222~1282)の『一代五時図』には隆寛、証空、弁長、長西、幸西のあとに「法本」とあり(15)、凝然の『浄土法門源流章』には幸西、隆寛、弁長、信空の次に「行空」を挙げ長西とともに「源空大徳親承面授の弟子なり(16)」といわれている。「行空」という名から察すると、証空や源智、綽空というように、法然によって名づけられたものであったかもしれない(17)。
 法然門下としての行空を知る上で藤原長兼(生没年不詳)の日記である『三長記は同時代の客観的資料として不可欠である。先の「七箇条制誡」は比叡山の衆徒が専修念仏停止を訴えたことに対するものであったが、翌・元久二年(1205)十月、今度は南都の興福寺から九箇条の過失を挙げて、専修念仏の停止と法然および門弟を罪科に処するよう朝廷に求めてきた。有名な『
興福寺奏状』がそれである。このとき長兼は奏状を審議し院宣の草案を作らねばならない蔵人頭・左中弁の職にあり、元久三年(建永元年 1206)二月十四日の条には、

 十四日乙丑、陰、新宰相、御教書〈院宣なり〉を送りて曰く、法々、安楽の両人、召し出すべし。(中略)件の法々、安楽の両人は、源空上人の一弟なり。安楽房は諸人を勧進す。法々房は一念往生の義を立つ。仍つて此の両人を配流せらるべき由、山階寺の衆徒、重ねてこれを訴え申す。仍つて此の沙汰に及ぶか。其の操行に於ては、縦ひ不善なりと雖も、勧むる所、執ずる所、只だ念仏往生の義なり。(後略18)

といっている。ここに法々(=行空)、安楽(=遵西 ?~1207)の二人を配流に処すべく召し捕るよう口宣が届いたようである。また同年二月二十一日の条には、興福寺側から長兼を訪ねてきて、

 源空は仏法の怨敵なり、子細は度々言上し了る。其の身、幷びに弟子、安楽、成覚〈此の弟子未だ名字を知らず〉住蓮、法本等、罪科を行ぜらるべし。(後略19)。

と訴えたという。法然のほか、安楽、成覚(=幸西 1163~1247)、住蓮(?~1207)、行空を罪科に処するよう名指ししているのである。そして同年二月三十日の条には、「今朝源空上人の一弟子二人、念仏を弘通せんがために、諸仏諸教を謗ずるに依り、罪名を勘せられる。中宮権大夫に宣下し了んぬ、其の状、此の如し」といい、その日の宣旨として次のように記している。

 沙門行空、忽(たちま)ち一念往生の義を立て、故(ことさら)に十戒毀(教カ)化の業を勧め、恣(ほしいまま)に余仏を謗り、其の念仏行を願(ママ)進す。沙門遵西、専修に穏(ママ)れて、余教を毀破し、雅(ママ)執に任せて衆善を妨(あつぼう)す。宜しく明法博士に件の二人の罪名を勘申せしむべし。

                       蔵人頭左中弁藤原長兼

 件の両人、遵西は安楽房なり。行空は法本房なり。(後略20)

 まず、これらによって、行空と遵西、それに住蓮と幸西の四人が、数多い法然門下の中で興福寺側から危険人物と見られていたことがわかる。彼らが法然教団における信仰と伝道の中核であると見抜かれていたのである。そして二月十四日・三十日の条には行空と遵西が罪科に問われ、同月二十二日の条にも「一弟中、安楽・法本、此の両人に於ては、偏執、傍輩に過ぐ(21)といっている。行空と遵西がリーダー格であったのであろう。また慈円(1155~1225)の『愚管抄』には、遵西は住蓮と「つがいて(22)」といっている。行空と幸西もそのような関係であったかもしれない。後述するように二人はともに一念義を立てたといわれるからである。

 ともあれ行空は元久三年の時点で南都にまで名が届くような法然門下であったのである。そのとき親鸞は前年の元久二年四月に『撰択集』の書写と真影の図画を許されていたが(23)、外部からはまだ目立った存在ではなかったようである。そこで行空は親鸞より兄弟子であったことがわかる。また前の『三長記』二月二十一日の条に「成覚〈此の弟子未だ名字を知らず〉といわれている。幸西はまだ行空ほど知られていなかったらしい。その幸西が親鸞より十歳年長であるから、行空はさらに年長であったと推察される。先述したように松野純孝氏は行空と親鸞を「吉水時代の友」といわれるが、実のところ親鸞にとって行空は、法然門下の大先輩であったと考えられるのである。そして前に引用した『三長記』元久三年二月三十日の条の後に続く次の記述は看過し得ない。すなわち、

 行空に於ては殊に不当なるに依つて、源空上人一弟を放ち了る(24)。

といっている。法然は行空を破門にしたというのである。それは「殊に不当」ということであるが、その内実について詳しいことはわからない。住田智見氏は破門の理由を「造悪を許し余の仏願を謗り念仏の行に違失すと云ふに在り(25)といい、三田全信氏は行空が「破戒を平然と行い女犯を常習していたことが窺われる(26)」といわれる。重松明久氏は後述の「『一念義往生』を立てた理由で」といわれている。田村円澄氏は一念義往生の義によるのでなく、「多くの非難が彼に集中したからであり」「その社会的反響が強かったからである」といわれている(28)。伊藤唯真氏も一念義往生の義(理)という思想ではなく、聖道門教団を刺激した「戒律否定や諸仏の拒否に向かったいわば副次的な行業にあったと考えれれる」といい、「法然は当時置かれていた教団の立場、社会の空気を慮って行空を破門した」といわれている(29)。ところが、松野純孝氏は翌・建永二年(承元元年 1207)に断行されたいわゆる承元(建永)の法難で、行空がなおも法然門下として配流に処せられたことから破門自体を疑問視s「『三長記』の記載は行空追放という単なる風聞に基づいていたのではなかろうか(30)」といわれている。また梯實圓氏も行空の破門について「疑問が残らないではない」といい、「行空を破門させよと要請はあったでしょうが、破門を実行されたかどうかはわかりません」といわれている(31)。

 そこで破門については問題が残るのであるが、行空がいま触れたところの承元(建永)の法難によって佐渡島へ流罪となったことは『歎異抄』の流罪記録などによって確認できる(32)。佐渡島は平治の乱(1159)で破れた藤原通憲(信西入道)の子・遊蓮房円照(1139~1177)が流刑になった場所でもある。法然はつねに、「浄土の法門と遊蓮房とにあへるこそ、人界の生をうけたる思出にては侍れ(33)」と語ったという。行空はそれを配処へおもむくとき思い合わしたのではなかろうか。そして佐渡島における旧跡について住田智見氏は、「一説には同島相川の法界寺行空の遺跡を伝ふと云へり。(維新に廃寺になると云ふ34)」といわれているが、何に基づいた説であるのかわからない。一般にいわれるのは佐渡市河崎にある曹洞宗の晃照寺境内である(35)。それは橘正隆氏の『河崎村史料編年志』(1959年)に「晃照寺古境内図」という鳥瞰図を掲載し、そこに「『法本房旧跡』と刻んだ石の記念塔が建っている」といわれてからのようである。しかしその塔は「明治四十年五月八日旧堂舎が自火焼失し(36)、現堂宇を再建するにあたり、もとの図取りを模様がえし、記念塔のある場所へ庫裡を建てたのはよいとして、その塔をどこへどうしたものか、今では皆目わからなくなってしまった」といわれているので(37)、晃照寺住職に尋ねたところ、次のような回答を得た。

 すなわち、橘氏がいう「晃照寺古境内図」というのは明治三十三年(1900)十二月に金沢済美館が製版したもので、「山門」や「鐘楼」「本堂」などは建物が描かれた上に囲み文字でそれぞれを指示しているのに対し、「法本房旧跡」という囲み文字の辺りには石塔のような事物は描かれていない。また晃照寺境内が法本房の旧跡であるという寺伝(『龍壽山晃照禅刹寺像因由記}はなく、さらに宝暦年代(1751~1763)の『佐州巡村記』河崎村の項にも旧跡に関する記述はない。文献として「法本房旧跡」の五文字が出てくるのは明治二十八年(1895)八月の『佐渡三郡町村統計名鑑』が最初であるが、何の史料的根拠も示されていない。したがって晃照寺が行空の旧跡であるという歴史的根拠はないということであった(38)。

 そこで行空が佐渡島のどこに住したのか確実なことはわからないが、その後をたどってみると、先ほどの橘氏は古佐渡本間系図「忠綱」の註記に「承元元年流人法本房来りて念仏の法門を授く、法名法心云々」とあるといわれている(39)。ただし塙保己一(1746~1821)の『続群書類従』に記された「忠綱」の項にそうした記述はないが(40)、古系図にあるという橘氏に信を置けば、行空は本間忠綱に念仏の法門を授けたことになる。それは佐渡島における伝道の一端であろう。流人の身でどれほど布教できたか知れないが、多くの人々に念仏を説き弘めたと思われる。というのは、行空が配流になった六十四年後(1271)、佐渡島へ流罪になった日蓮の言に注意されるからである。『佐渡御書』によると

※おわび

こんな中途半端なところで切ってしまって。
ひとえに体力です。仕事でくたくたでした。
おわびします。

それにしても、です。

水月師は、

>住田智見氏は破門の理由を「造悪を許し余の仏願を謗り念仏の行に違失すと云ふに在り(25)といい、三田全信氏は行空が「破戒を平然と行い女犯を常習していたことが窺われる(26)」といわれる。重松明久氏は後述の「『一念義往生』を立てた理由で」といわれている。田村円澄氏は一念義往生の義によるのでなく、「多くの非難が彼に集中したからであり」「その社会的反響が強かったからである」といわれている(28)。伊藤唯真氏も一念義往生の義(理)という思想ではなく、聖道門教団を刺激した「戒律否定や諸仏の拒否に向かったいわば副次的な行業にあったと考えれれる」といい、「法然は当時置かれていた教団の立場、社会の空気を慮って行空を破門した」といわれている(29)。ところが、松野純孝氏は翌・建永二年(承元元年 1207)に断行されたいわゆる承元(建永)の法難で、行空がなおも法然門下として配流に処せられたことから破門自体を疑問視され「『三長記』の記載は行空追放という単なる風聞に基づいていたのではなかろうか(30)」といわれている。また梯實圓氏も行空の破門について「疑問が残らないではない」といい、「行空を破門させよと要請はあったでしょうが、破門を実行されたかどうかはわかりません」といわれている(31)。

を書かれるために、どれくらいの時間を費やされたことだろうか。

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コメント

途中で、それも妙なところで、切りました。
長文でありまして、あたまがクラクラして疲れた。
しょうげんの法難とうち、漢字変換しようとしても、わがパソコンはおろかで、象限としか出ません。なにを考えてんだか。
このあたりの歴史をみていると、いろんな派があらそっていて、いつの時代もそうだけど、言っていることが今とほぼ一緒なので、おかしい。
自分の信じて勧めているのが正しく、よそのは邪宗。。。。
ところで、あれは去年の晩秋でしたか。池田大作死去のニュースがネットで流れた。が、翌日の朝刊には池田大作署名の学会宣伝の美々しい社説風の記事がのりました。
でも、はっとしたのは、ふつうなら、池田大作、となまえのところにあるべきところが、池田大作さん。と「さん」までが付されていたことです。ん?
やっぱり、なくなったのは本当だったのか。
と感じました。

この頁、みなおしました。
まだミスがあるやもしれませんが、そのときはあしからず、すみません。
これ、つづけます。

最後に取り上げた部分に出てくる参考図書の執筆者たちを全部ググってみました。とても面白かった。
なかでも、重松明久氏。「息子はウオシュレット開発者の重松俊文。TOTO株式会社取締役(2012年)。」だってさ。へえ~それはすごい。
また、重松氏の覚如という著書の一部を丹羽文雄が連載した蓮如のなかで盗用したという話とか、あと、覚如のひいじいさん、親鸞には開祖の意識はなかっただろうが、覚如が開祖にしてしまったというところ、おもしろし。そんなものなのねえ。

また、田村圓澄は去年96くらいでなくなられたようですが、奈良の橿原に生まれ、九大卒、戦時中は土浦海軍航空隊で教官だった。結婚後、妙泉寺の住職になってもいる。とてもユニークな経歴で、波乱万丈。本を読んでみたいなあ。

武蔵七党横山氏流.。

これ、山本健吉の祖先もそうでした。
いま、古佐渡本間系図というのを調べていて、本間氏というのにぶつかり、それをみていくと、このような説明があった。
こんなところで山本健吉と出会うとは、世の中狭いなあ。

武蔵国多摩郡横山庄(現在の東京都八王子市付近に当たる)を中心に、大里郡(現埼玉県北部の熊谷市や深谷市とその周辺地域)および比企郡から橘樹郡(現在の神奈川県川崎市の市域に相当)にかけての武蔵国、さらには相模国高座郡(神奈川県の相模川左岸流域一帯)にまで勢力があった武士団。武蔵七党系図筆頭である。(一族は横山氏を中心に海老名氏、愛甲氏、大串氏、小俣氏、成田氏、本間氏など。先祖は小野篁。その多くは和田合戦で滅亡するが一部の武士は存続する。 本間氏などは佐渡の地頭として繁栄した。」
武蔵七党の説明です。先祖はおののたかむら、とちゃんとかいてある。
秀野さんが安見さんを出産されてひな祭りのときに詠んだ句に、

父小野氏母石ノ上氏

初ひひな陸奥(おく)と大和の御祖(みおや)かな

toto 重松俊文

検索でここがよまれていました。さんきゅう。

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