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2014年4月30日 (水)

親鸞聖人と法本房行空上人  二の下

文・水月

そこで行空が佐渡島のどこに住したのか確実なことはわからないが、その後をたどってみると、先ほどの橘氏は古佐渡本間系図「忠綱」の註記に「承元元年流人法本房来りて念仏の法門を授く、法名法心云々」とあるといわれている(39)。ただし塙保己一(1746~1821)の『続群書類従』に記された「忠綱」の項にそうした記述はないが(40)、古系図にあるという橘氏に信を置けば、行空は本間忠綱に念仏の法門を授けたことになる。それは佐渡島における伝道の一端であろう。流人の身でどれほど布教できたか知れないが、多くの人々に念仏を説き弘めたと思われる。というのは、行空が配流になった六十四年後(1271)、佐渡島へ流罪になった日蓮の言に注意されるからである。『佐渡御書』によると、文永九年(1272)一月十六・十七日、日蓮は印性房を棟梁とする念仏者数百名と法論を行ったという。また日蓮は『呵責謗法滅罪鈔』に「此佐渡国は畜生の如く也。又法然が弟子充満せり」といっている。そこには多分に誇張があろうし、対論した印性房など念仏者の詳しいことも不明であるが、彼らが行空の流れを汲む人たちであったとすれば、行空は法然が説く念仏の種を蒔いたことになるであろう。

しかし佐渡島流罪以後の行空については消息が明らかでない。建暦元年(1211)十一月十七日、法然や親鸞が流罪を赦免になっているので、行空も同じく赦免になったはずである。あるいはそれまでに歿していた可能性をある。また翌・建暦二年(1212)一月二十五日に法然が往生したが、自分の没後に門弟たちの間で諍論のおこるのを案じて一所に群会することを禁じた「没後遺戒文」にしたがい、行空はそのまま佐渡島にとどまったのか、どこかへ移住したのか、まったく不明である。嘉禄の法難(1227)のときには片鱗も姿を見せていない。

 三につづく

▼かささぎの独り言

はなわほきいちとはにやゆたかを同一人物と思い込んでいた。
よくみりゃ、時代がまったくちがうし。
はなわ保己一は七歳で盲目となり、学問は耳から聞いて全暗記した人。
息子を伊藤博文に暗殺されている。なんかその闇、とてもこわい。黒黒。
四百字詰め原稿用紙はこの人の発案だという。そんなに古かったんだ。

埴谷雄高。ロシア文学者。この人について、五木寛之と齋藤慎爾が語り合っているのを読んだ、つい昨日。本には本霊があるといってた。本に手招きされる。運命に組み込まれている本。たしかに。なぜか降ってくるものねえ。
「不合理ゆえにわれ信ず」。

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